【事実回帰】理論場【名言・格言】
>>111
WEB広告で明かせぬ正体 最強の糸使い〜 の漫画が出ていたので、懐かしいと思い読んでみたが、思ったより酷かった。
キャラクターデザイン自体は悪くないのだが、とにかくアクション描写が下手で、見ていて恥ずかしくなるレベルだった。
その流れで 辺境ぐらしの魔王 転生して最強の魔術師になる を読んだら、漫画の出来が良く続きが気になったので、小説も読んだ。
不老不死なだけで辺境の村で穏やかに暮らしていた主人公が、勇者(?)に倒されて200年後に転生する話だ。
想いを繋ぐ展開が好きなので、そこは評価甘めに見ている。ストレスもあまり無い。
ヒロインの王女は王女の身分ゆえに身動きが取りづらく、オデットさんの方が相棒ポジヒロイン感の方が強い。漫画のマーサは可愛い。
コミカライズで外れると辛いという話だ。 コギト エルゴ スム について。
我思う 故に我あり とは断言できない可能性についてであるが、我思うだけでは我ありと断言できないのではないか。
我思うからは、我思っているということしか導けないのではないか。かくしてデカルトのコギトエルゴスムは完全なものではないものになる。 スピノザは『デカルトの哲学原理』で、「我思うゆえに我あり」の
「ゆえに」は、論理的帰結を示すものではないと言っている。
実体は「我思いつつ我あり」であり、「我」を想起している
まさにその時に「我」の存在を実感する、ということなのだ。 ゆえに、という論理的な展開はコギトから抽出できない、であろう。
我思いつつ我あり、も、我が何だか曖昧なまま展開されている。
我がいるという我は完全な相対的概念とは言えまい。
かくして我はいるという第一歩と思われていることが、本当は完全な推理ではない、ということなのである。
我はどこにいるかさえ曖昧な現代では、自分さがしに傾倒する者が現れた。
しかしながら「自分はそこにいる」という刺激的なフレーズも現代には聞いていた。
我は曖昧なのである。自分もまた曖昧なものだ。 「我」の存在については、仏教では「ミリンダ王の問い」が有名だ。
『「馬車」存在しないのと同様に「我」も存在しない』というわけだ。
現在の心理学はもとより、哲学も物理学も、この議論について
決定的な解答を与えていない。仏教が最も明快に答えている。 つまり「我は存在しない」というのが、最も妥当な解だ。
では、「我思いつつ我あり」はどうなのか?
端的に言って、「それは幻覚である」というのが答え。 我は存在しない、か。
素粒子が細胞において流転している世界で、血が流れても修復するものだ。
我もあったところで素粒子や何かと交流することもあるかもしれない。
我を出してみよと一休さんに言っても出せない。
我とは意識体なのではないか。我思う故に我思うについて考える、ということが挙げられる。
思う、考える、そうした自覚が第二のコギトなのだろう。 「我」の存在にあくまで固執するのは、仏教流に言えば「渇愛」つまり
「執着」だ。「執着」というとなにか、汚らわしい醜いものと印象して
しまうが、実際には、ごくありふれた性向だ。「生命力」と言ってもよい。
我への執着が生命力であり、それを捨てよというのだから、まるで仏教は、
死ねといってるように見える。
しかし、そもそも我々は"生きてない"のだ。盤珪禅師は「不生」と言ったが・・。
この辺から「理解不能」とか「カルトだ」とか言う奴が出てくる。 我々は生きていない。もちろん死んでもいない。
では、今、小惑星が地球に衝突したり、核兵器を落ちて、
この肉体が吹き飛んだら、私は生きているのか、死んでいるのか?
何も変わらないってことだな。世界も我(?)も安寧のままだ。 我々は生きていない、か。
生きているかいなかで口火を切るのてはなく、もっと華を開かせるような、そして鋭利で弁舌深い話題を展開してみたい。
執着は取るしかないのが常識だ。しかし執着は効果的な側面も持っている。
渇愛は執着と言われる。愛があっても執着と言われると愛もどこかぎこちない印象を受ける。
愛があってもそれは執着だと言われても、愛していいなら愛せばいい。
愛に恐れることはない。執着もまた、愛を生むのだろうから。 ★読書の仕方
高速で読みたいという欲求ばかり伝わったのかもしれない。
しかしながら本をゆっくり読むという精読も大切だ。
スピードばかりてはなく緩急をつけて自分なりに読書をしたい。
緩急といってもスピードを目指すばかりではない。
ここは大事な内容だから緩急をつけて精読する、そうした姿勢が大事だ。
精読したことは書評する、という戒律も大事だ。戒律を持って人生を生かされていきたい。 ★戒律
英語は毎日一単語覚える、そういう戒律だ。
社会、世界史は二個覚える、そういう戒律だ。
英語は発音が要だ。発音と文字に書いて覚えることが大事だ。
文字に書いて、参考書を読んで、文字だけ見て意味を想起する、そういう繰り返しが大事だ。 >>124
「愛」の捉え方が見当外れ。
我々が日常使う「愛」とは無関係。キリスト教の「愛」とも違う。
むしろ「執着」そのものと捉えるべき。「愛」にプラスの要素はない。 戒律には罰則が伴う。
キリスト教の戒律は、神による戒律だから罰則は厳しい。
仏教の戒律は、人間の戒律だから、融通がきく面もある。
いずれにせよ、戒律を言うなら、犯したときの罰則も明確にしておくべき。 速読で理解度が落ちることは、既に定説。
速読してる人は、必ず読みをはしょっている。
ところが、普通の文章には意味の粗密があるので、
粗のところをはしょり、密のところを丁寧にすれば、
理解度を落とさずに速読ができる。
とは言え、全体として理解度は落ちる。
それを承知で用途に応じて速読をするのは構わない。 普通に1,000文字/分ならば、十分速読と言えるが、ちょっと寂しい。
2,000文字/分、できれば4,000文字/分はいきたい。
そもそも、普通の人の読みは荒っぽいので理解は不十分。
その程度の理解度でいいなら4,000文字/分は難しくない。 >>130
>もっと華を開かせるような
「生きていない」は、決して陰湿で、否定的なことではない。
むしろ最大限に活性化している状態を伴う。
逆に、仏教の「愛」に肯定的な側面はない。
>執着は効果的な側面も持っている
全く持っていない。
真理に執着する、善いことに執着する、博愛に執着する・・
全部、悪いことだ。 執着から生まれるメリットはないと?
何が最大限に活性化してるの >何が最大限に活性化してるの
判らん。とにかく活性化してる。
今日は暑い、鳥の声が聴こえる、なんか気だるい・・
と活性化している。 仏教の愛だとか何か筋違いだろう
仏教に愛なんて概念で論じたのは無いと言っていいほどだ。
仏教の愛に肯定的側面というお話は出てこない。
筋違いだろう。 なにか誤読してそう。ってか、筋違いはどっち?
そもそもの思い違いで、空回りが甚だしい。 愛はほとんど説かれていない。愛が仏教でいうなら肯定的な側面はないというのは何か筋違いだろう。
愛も執着になるよとなら教えるかもしれない。
でも愛は俗世間では必要なものだ。
仏教では愛は執着だから気をつけなさいと教えるのだ。 >>138
そもそも、俗世間(現代)での「愛(love?)」と、仏教経典の「愛
(例えば、トウリシュナー。他にも一杯)」とは別物。
キリスト教の「愛(アガペー)」と違うのと同様。
同じ漢字を用いたのが間違いのもとだが。
それをゴッチャにしてる議論だ。それを止めよと言ってるのだよ。 >>139
全く別物なのに、同じ「愛」を使って混乱した
議論をしてるのが空回り。 ★麻雀
麻雀はドラを視野に入れておく。ドラはなるべく捨てないが、9ぴんは上がりにくい場合は捨てる。
私はイーリューソーで上がりそうになったことがある。緑一色だった。
白、撥、中、は待ちたい。ポン狙いだ。
東場の場合は東を待つ。南場の場合は南を待つ。どちらもポン狙いだ。
アンカンはしたら上がりにくくなる例もあるが、ドラをひとつ増やして一個持ってきて勝負する手もある。 ★ゲームの意味について
ファイアパーフェクトパーフェクトコアゲーションという意味です。
運ゲーもゲームです。単純に言えば、運が大きく左右するということです。 ★ヘーゲルの自由
我々は欲求をこの世界にどんな形であれたずさえているはずで、そのひとつひとつがミソギハラヒだったり罪穢消しだったりするものだ、と考えることもあるだろう。
ヘーゲルは欲求を平和へとつなげ、それを自由な社会とした。
どんな欲求も、平和へと道を開いていけるように我々は欲求を大切に扱わなければならない。
欲求を抑えたカント派の考え方とはことなる考え方だろうが、よくない欲求はよくないので抑えてもよいだろう。
ヘーゲルの平和はカントが考える平和とどこが違うか、考えてみよう。😀 ★ヘーゲルの自由パート2
欲求を巧く利用して、そして悪を退散して平和へと向かっていくことが自由への
一歩一歩である。
正しいことと誤っていることについての話だが、20歳以上は選挙に投票するものだ、とか20歳が成人だ、とか19歳が、とかが正解がないものもある。
教養をつけ、良心に従って平和活動に取り組む、そうしたことから正解がないことでも立派にしていく、これが大切だ。
自分で自律して生かされていく、そういう生き方ができるようにしていく、倫理も体得する、道徳心も養う。
ヘーゲルは良心が上手く行けばいいという。ひとり救出したら、その助けられた人が世界を照らす。そんなビジョンも描いてみたら、ひとりだって良心によって助けられたので、大切なひとりだし大切な良心なのだ。 ★ヘーゲルの自由パート3
本質的な自由のためには教養を行使しなければならない。なぜなら教養がなくてはお金がいくらあっても無駄遣いに終わるだけだからである。
教養がなくては、大きなこと、大成はできない。良心がなければ精神は本質的に骨がスカスカしているようなものだ。
良心は精神の本質を潤していく、普遍的な正しさは良心として発出され、普遍的な正しさは平和への一歩とも言えよう。
言い換えれば、平和になるためには普遍的な正しさが要なのだ。 0869 考える名無しさん 2023/12/30(土) 00:18:12.44
>この若い熱狂家は、理想的要求にほかならないシラーの要求を、現実存在として生きる。シラーがむしろただ修辞として教養として要請した理想主義を、ヘルダーリンは生きる。シラーにとってはとっくにただ装飾用の壮大な比喩となったギリシアとその神々を、彼は信ずる。シラーがただはげしく要請するばかりの詩人の使命を、彼は果たす。
(ツヴァイク全集9、『デーモンとの闘争』、みすず書房、p.103)
ID:0(869/1000)
0870 考える名無しさん 2023/12/30(土) 00:22:05.33
>ヘルダーリンにおいてシラー自身の理論、予感が、突然、肉となって具現した。だからこそ、シラーは心中秘かに愕然としたのだ ― この青年を、自分がつくった青年詩人を、はじめて現実の肉体として見たときに。
自分の要請した理想が、生きた人間となって現われたのである。
(ツヴァイク全集9、『デーモンとの闘争』、みすず書房、pp.102-3) ★らしさとは
本調子が出ないときには「らしく」ないと云ったり「馬鹿みたいだ」と云う。
らしさとは何か。学校に通うのであれば制服を着るのが「相応しい」と云う。
しかし大学では私服を着るのが常識だろう。何でも制服じゃないとダメというわけではない。これも常識だろう。
部長は部長らしく気高くあってほしいと思う。横綱は横綱らしくあってほしいと思う。
水上の賄賂は残念だ。通訳をするのに犯罪に手を出してしまった。
通訳は通訳らしくあればいいとはあながち間違えていない。
らしく生活する、それが基本だ。 ★らしさとはパート2
学生は学生らしく、勉学に励むべきた、という意見がある。
同じものはない、という思想がある。
しかしながら、意見は同じということはあり得ると、私は思う。
作文の文章で、「あ」という文字が2箇所あったとき、同じ「あ」だと言えるだろうか。
私もあなたも同じく生きていると言えるだろうか。
水道の水は、もうひとつの水道の水とは同じではないと思える。
水という同じ語り口でも、水をもってして同じ水だとは言えまい。 ★らしさとはパート3
同じ風の中、という歌詞がある。まさに至近距離の風は同じ風だと思えるが、厳密にはズレている可能性がある。
同じ雨に打たれ、というが、本当に同じ雨だろうか。水滴という一滴は私の頭上に当たったら、隣の人の頭上にそれは当たるまい。 ★らしさとはパート4
語尾に「なう」とつける話し方がある。
雨降ってるなう、や、俺が勝ったんだよなう、や、1+1=2だよなう、が挙げられる。
雨降ってるなう、は現在進行形の言い方である。雨が今降っているさまである。
俺が勝ったんだよなう、は俺が勝ったのか確認したいさま、に映る。
また、当然俺が勝った、というさまにも映る。
1+1=2だよなう、は1+1=2というのが正しいのか訊いているさまに映る。
なう、という言葉は使われていないわけではないが、我々はなうという言葉を知っていていいかもしれない。 ★理由の美学
あのケーキは美味しい砂糖があるから食べていい、という意見があったとする。
美味しい砂糖があるから、食べていい、とは理由に相応しくない、と思える。
死んだやつは死ねばよかった、という意見。
死ねばよかった、とは絶対的に言えまい、と私は考える。
というわけで、死んだ者すべてが死ねばいいとは言えまい。
死ねばいいから死んだ、という意見。
死んでよくないのに死んだ例を出せばよい。
アントニオ猪木はジャイアント馬場を倒したから強い、という意見。
はたして強い理由になるか。 あのケーキ美味しい砂糖があるから⇒食べていい、とは間違いか。
美味しい砂糖がある、という理由の他の理由、
食べるといいことがあるから、そして美味しい砂糖があるから⇒(二つの条件をふまえて)食べていい
とは間違いか。余談かもしれないが、食べるといいことがあるから、という一つの理由では食べていいとは間違いか。 ★誤解の論理
誤解とはどのようなものか、そしてどのような影響を与えるのか、について書いてみたい。
まず、血液型に関する誤解から考えていきたい。
血液型がO型に関しては、血液型説明書で詳しく書かれている。
О型のことを、人々は、どのような考え方をするだろうか。
1)О型は、大物だと思われたい、というものがある。
2)わるくない
3)おおざっぱ
4)食べ物をもらうとくれた相手を好きになる
これらのパターンで誤解しているのは何だろう。
О型はわるくない、とは誤解ではないか。
大物だと思われたい、というのも誤解ではないか。
おおざっぱは、言いえているのかもしれないが、
食べ物をもらうとくれた相手を好きになる、とは誤解ではないか。
こうした誤解はあるものの、信じている人には自覚できていないのは言うまでもないだろう。
大物だと思われたいのはこのO型だと思っている人は、敢えて大物ですねぇなんて言うかもしれない。
わるくないと思っている人は、わるくないと思えるO型を恋愛関係に持っていこうとするかもしれない。
食べ物をもらうとくれた相手を好きになる、思っている人は、食べ物をあげてしまうかもしれない。
このように、誤解していても、誤解しているからこそ行動に移してしまう例がある。 ★誤解の論理2
誤解とはどのようなものだろう。頭の中で生じたハプニングでありはするとして、正しい理解とは反対の出来事だ。
間違えているのが誤解であろう。1+1=3だと、誤解している人は、答えを3という。これは正しくない答えだ。
1+1=2と理解できるなら、2が答えだ。これは数学的に考えて正しい解である。
また、35+35=40だと想えてきて、想いのままに40だと答えるのも誤解に近い。70が答えだ。
想いのままに話したら、嘘を吐いていた、とは考えてみてほしい。
いい人だと想えて、いい人だ、と主張したら、いい人ではないので、嘘を吐いていた、こんな場合は残念だ。
いい人であってほしいから、いい人だと言いたいから、いい人だ、と主張したら、いい人ではないので嘘をついていた、こんな場合は残念だ。
ダメなヤツだと想えて、ダメだ、と言ったら、ダメじゃなかったから嘘を吐いていた、こんな場合もあるだろう。
まず我々は想いを尊重しすぎてはならない。当然、思っていることは正しい、という理屈はそうとは言い切れない場合がある。
想っていることが正しい、と想えてきたので、思っていることが正しいんだ!と安易にいかないでほしい。
気付いたことが正しいことをあなたは知っていなくてはならない
正しく理解したことも正しいということを知ってほしい。 ★読書の美学
本を読みながら、反論を考えつつ、読み進める。
一流の人の読書法だ。
常に疑いのまなざしを持って暮らす。
地球は丸い、ということも疑う。
月にうさぎの模様があると聞いても、幻覚ではないかと疑う。
この世界は平面ではないか。平地であって丸くないのではないか。
本を読みつつ疑いつつ読書しよう。
他者の意見を鵜呑みにせず、疑って、反論を考えよう。
ちなみにパナソニックの意味は、「反論」だ。
余談
メイチャ―(鵜呑み)、コオリ(疑う) コギト・エルゴ・スム
我思う 故に 我在り
という原理は完全体な体系だろうか。
私はこの一節の他に、IamthatIam
が真理だと考えている。
私は私だ、という一節が真理なのである。
しかしながら、仏教の真我の吾が、本当の自分なのだから、という解釈もある。
私とは具体的に言えば何だろう。今あなたはこの文章を見ている、うん、読んでいるけど何か、と思ったあなた、あなたがあなたなのである。
これはa=aが真実であることを示唆している。
有力にして偉大なるもの、とはもうおわかりですか。 真理の峰は、ただひとつ、
Iam that i am という話がある。
このテーゼだけが真理、というわけである。
真理とはひとつしかないものなのだろうか。
私はそれだけしかないと気付いたことがある。
I am that I am しか真理はないと知っている。 ★らしさとは、私とは
私とは何でしょうか。極めて哲学的なテーゼだと考えています。
現存在の存在である私とは、どういうものなのでしょう。
右脚を無くしても現存在の存在は、私ではないけどな、とはいきません。
右脚を無くしても、自己が全く無い、とはいかないでしょう。
ここで、乙武さんのように、五体不満足だったらどうでしょう。
乙武さんは五体不満足ですが、乙武さんを見て、乙武さんと言うことでしょう。
私とは、体があるから私なんだ、という意見もあるでしょう。
しかし、頭の中の精神が体から出て頭のみの存在の頭の中に移動したとしたら、その頭の持ち主の頭の中にいて、精神だとしか言えないでしょう。
ここでは、頭のみの存在に二人いますが、五体不満足より不満でしょう。
私とは精神なのでしょうか。それを目で見ることはできるのでしょうか。
胴体を無くしても、あなたは存在するのです。よくよく考えてみると、乙武さんは頭の中に存在するのです。 我が流れのなかにあるとすれば、それは「とどこほ(滞)り」として現れる。
ところで、「凍(こほ)る」ことを表現するのに使はれる「凍」という漢字には、なぜその構成部分として「東」が使はれているのだろう。
漢字の読みとしての発声を伝へる便宜のために用ゐられているとすれば、「東」の発声は、「同」の発声ともよく似ているが、何らかの関係があるのだろうか。 凍る「こほる」がなぜ東という字を用いているのか、バイアスさんがつけたからだろうか
東さねむらという意味だ ★新しい方法論
我々は、物事を都合よく解釈したり真か偽か判断したりして一生を暮らし、何が間違っているか、そして曖昧なものさしを持つがために間違いがわからないことが往々にしてあり、本を読まないがゆえに貧しき存在となってしまうことがあります。
まず、自分の誤解や騙されている箇所を探さないから、あるいは反省しないから、いつまでも曖昧なものさしのままなのです。
デカルトは方法序説で自分を見直すことを勧めており、すべてを疑った哲学者です。 デカルトは、内省することで、新たな価値や理念をピックアップさせることも考えていたことでしょう。
内省することで、自分の生き方を遊動できるのでしょう。 ★新しい方法論2
我々は何かしら意識してしまいます。その意識のながれの中には、対象を意識するといった過程も含まれている、と言えよう。
方角の意識においては、南はこっち、と意識するものの、南を「認識」することはできない、と私は考える。
南をどうにか認識しようと試みてみよう。南は方位磁石では、北を赤い針がさすが、それとは反対である方向です。
このように北がこっちで、南が反対だ、と考えれば、南を認識できるでしょうか。
これも難しいです。最初の北を認識するのも難しいです。赤い針がこっちをさすからこっちの北を認識するというのも難しいです。
というわけで、北も南も認識した者はいないと、私は考える。
ですが、南を意識したり、恐怖を意識したり、といったことはありえます。
恐怖を認識する、ということはありえますが、方角を認識するというのは、難しいです。 ★新しい方法論3
ここでも意識の話をしましょう。意識がなければこうして、パソコンを見て調べ物をすることも満足ならないことでしょう。
意識がなければ、死んでいる、と医学では扱うと言います。
ですが、意識を取り戻すことを生き返りと呼びます。
意識はどこかわかりやすそうで、わかりにくそうな両面があります。
意識レベル1000の釈尊は、意識レベルが高いと言えるでしょう。
ですが、本当は釈尊は意識レベルなど意識していません。意識レベル1000というデータも偽りなのです。
対象を意識する際に、対象が自己に影響を与えていると、カントは考えます。
それは対象にかんする知が真であるから対象を意識したときに、あるいは対象を認識したときに、対象が自己に影響を与えているのです。 ★新しい方法論4
朝パンを食べた。では昼はご飯を食べよう、朝、米🍚を食べてないからだ。
それでは米はどうやって作ろう、炊飯器に研いだ米を入れよう、カレーにしよう。
ではカツが食べたい、カレーも食べたい、閃いた、かつカレーを食べよう。
では、私の好きな方は、カレーが食べたい、うどんも食べたい、閃いた、カレーうどんを食べよう。
カレーうどんも食べたい、米も食べたい、閃いた、カレーに米を入れてうどんと一緒に食べよう。 ★ヘーゲルの詭弁
私は、精神現象学(上)を読んだことがある。
ぶっちゃけ大体は詭弁であったことは、私の読んだところそうであった。
しかしながら、ヘーゲルは詭弁をわきまえていたに違いない。
ヘーゲルほどの嘘つきも、哲学者ではそういないといったところだろう。
ヘーゲルは詭弁も真理に到達するための布石となると考えていたことだろう。
デメリットだけの詭弁がわるいのであり、メリットのある詭弁はむしろ大切な要素となるだろう。
嘘も方便というように、詭弁も方便と考えられる。
ここでヘーゲルに詭弁を綴ろう、ヘーゲルはとあるインスピレーションに長けている、その数500回もあったのだから、秀才以上の存在だったのであろう。
フェイフェイフェイが君には合うけど虚しいよ。
コマンドが君には合うけど虚しいよ。 ★新しい方法論5
イエス様をとおして光を享受する、ということは、現実的に考えて、現象化されていました。
ですが、お釈迦様は、光をとおすことは出来ませんでしたし、手をかざしてもいません。
我々は高エネルギーの無量寿の光を、お浄めによって授かることができるのです。
高エネルギーとは神レベルの存在であります、現在の宗教の中には、81ガイ生きた存在も、高エネルギーと扱われています。
そうした81亥(ガイ)も長生きして、宗教の神となっているのです。
ぶっちゃけ、神ときくと恐れ多いですが、本当は神と扱われていても、人間だったりするものです。
そこで、なぜそんな長生きした人間を崇めなくてはならないのか、と思い立ち、宗教から離れていくケースもあるかもしれません。
ですが、人間でも立派じゃないかというと、立派な神もいるかもしれません。
立派な存在じゃないのに、崇めるのは、等価行為ではないかもしれませんね。 ★素晴らしい者
神様を大切にできる素晴らしい者。
抱き締めたら、キュンと来るために、恋愛をしている僕。
抱きしめて 抱きしめて 離さないよ
いつまでも いつまでも 離さないよ
言葉はもういらないから 眼と眼合わせ 手と手合わせ
どんな未来も乗り越えよう
軌跡は奇跡 ありがとう
素晴らしい者は、許すことができます。
そして教養もしっかりしています。
★宗教とどう向き合うか
物憂げな一部の者は、過去にとらわれるな、物に執着するな、と仏教では教わるのではないか。
また、キリスト教では慈愛・利他愛やセーブを学ぶのではないか。
他にも、論語においては、腹八分目という考え方や、友遠方より来たるあり、また悦ばしからずや。
という教訓も学習できないわけでもない。
こうした宗教的体系をひとつまみにしても、味のある学びさえ考えられる。
しかし、宗教的体系に偏っていては独り善がりになる危うさを招きかねない。
学問を勉強して我苦悶となってはものさみしいだろう。
宗教はアヘンである。と言って宗教を邪教とみるかのように扱ってもマルクスは当然宗教は我々をマヒさせると考えるであろう。
マルクスは、我々の正常な感覚をマヒさせるということが言いたかったのだ。
政教分離から広まった17世紀においては、政治と宗教を分けることが必要だった。 ★素晴らしい者2
読書している間に、バンバン判断/認識して、なおすべて覚えてしまうなら、素晴らしい者でしょう。
素晴らしい者は、読書術も素晴らしいのです。
素晴らしい者は、本をよく読みます。
これは統計学でも理論上ありえます。
素晴らしい者は、ネットばかりではアリません。
本を大切に扱う、物も大切に扱う、それができるのが素晴らしい者です。
あるとき友達から、物は大事なんだよ、と言われ、物に少し思いを馳せました。
物を大切に。 ★ナイル川流域に、メソポタミアとともに最古の農耕文明を成立させた民族は何か。
A、エジプト語系民族
★エジプトでは統一王朝が、前27~22世紀の王朝を総称して。
🤩古王国
★古王国の時代の都は。
「メンフィス」
中王国、ヒクソス、は、シリアから流入した遊牧民。 ★いま、ここ論
いま、という概念によって「いま」は語られるが、どのようなパターンが挙げられるだろうか。
「いま」家の中にいる、というとき、「いま」は外にいる、という現象も考えられる。
「いま」は刹那に過ぎ去ってしまうものだから、「いま」は語った瞬間に「まえ」の瞬間となる。
「いま」ホームランを打つ、というのも、過ぎ去って「さっき」ホームランを打った、となる。
今はことばにしたときに的を得てなけれは嘘になる。
今雨が降っている、しかし後で雨は止んでいる、そのとき、今雨が降っていないとなる。
雨が降っている、という嘘を我々はつくはずもない。天気予報が雨だとか外の天気がわるいからといって、雨が降っていると、今現在の嘘をつかなくてもいいのだろう。 ★11 テーベを都とした、前21~18世紀の王朝を総称して。
A、中王国
★13 前16~11世紀の王朝を総称して。
新王国
★25 シャンポリオンによって解読されるが、そのきっかけとなった、ナポレオンのエジブト遠征で発見された石とは何か。
A、ロゼッタ=ストーン
★4 セム語系民族のうち、ダマスクスを中心に内陸貿易で活躍した民族は何か。
A、アラム人
補足(4の交易活動によって各地に広まり、アッシリアやアケメネス朝が公用語としたのは、*アラム語)
補足2(4の人々が使用し、アラビア文字・ソグド文字・モンゴル文字・満州文字などの母体となった文字は、※アラム文字)
★4と同様に、地中海貿易で活躍したセム語系民族は何か。
A、フェニキア人
★前1500ころパレスチナに定住したセム語系民族は何か。
A、ヘブライ人 ★1 7世紀前半、全オリエントを征服した国はどこか。
A、アッシリア王国
2★1の首都はどこか。
A、ニネヴェ
2問目だからニとゴロ合わせてニ+ネヴェ
★3 1の全盛期の王は誰か。
A、アッシュルバニパル
7★インド=ヨーロッパ語系のペルシア人(イラン人)が前6世紀に諸国を征服したが、その古代帝国の王朝は何か。
A、アケメネス朝
8 ★7の第3代王で、インダス川流域まで領土を拡大し、全盛期を現出した王は誰か。
A、ダレイオス1世 ★いま、ここ論
世界史を踏まえて説明したい。
ヘブライ人は歴史上ユダヤ人と呼ばれるようになる。
ヘブライ人のことを昔々はヘブライ人、という名でしか呼べなかったとは一理あるだろう。
その当時の「いま」ヘブライ人はユダヤ人ではなかった。
その当時「いま」ヘブライ人はユダヤ人とは呼べない。
しかしある時からヘブライ人はユダヤ人となる。
「いま」ヘブライ人はユダヤ人でもあることは、この場合歴史的ターニングであろう。 ★いま、ここ論3(2番目の2を抜かしてごめんね)
例えば、お偉いヒトと握手したとしよう。それは、お偉いヒトと握手したことがある、ということになる。
いま握手したのだけれど、2度目がなくて、「いま」お偉いヒトと握手した経歴を持つのだが、お偉いヒトとしか握手できなくて、二人目がいない、あるいは誰とも握手できなくて、一回しか握手してない、というはこびがある。
いまお偉いヒトと握手した、だけれど二人目がいないなら評価はゆらぐことだろう。
いま殺されてない、としても、後々殺されてしまう一件が起きて、いま殺されてないわけではない、という事態になる。
いま安心していても、不安になれば、いま不安だ、という事態になる。
いまここで元気でも、裏庭の匂いがする周辺に行っては、いまそこで元気がない、となるはこびがある。 ★いま、ここ論4
さて、いくつかの「いま」を見てきた。
次のテーマはここである。
ここにある自宅に住んでいる、というとき、我々は、ここにある、と表現する。しかし、あそこにある東京タワーをここにある、とは表現しないだろう。
ここに花があるから「こそ」ここに花があると言うのである。
しかし庭先の門の花を、ここにある、とは言わないだろう。
その場合はそこに花があると言うのである。
東京タワーに登ってみれば、東京タワーをここにある、と表現するだろう。
ここにあるといえば、デカルトの懐疑で有名な、我思う、ゆえに、我あり、(コギトエルゴスム)が提案されるであろう。
デカルトは、我はここにいる、という結論が出たと思ったのである。
我は理論的には曖昧で、定まっておらず、脳の中へいつ進入したかも曖昧だ。
それをここにある、と表現することは大変難しい。
しかし「目に見える」顔面は、ここにある、と言うのだろう。
「目に見えない」心臓を、心拍音の源を頼りに、あるいは心臓は左側にあると学習していて、
左側だ!心臓はここにある、という意見も、勉強になることだと思われる。
しかし心臓がない生命体の左半身を
左側だ!心臓はここにある、と自信を持って言っても、結論は、左側にもどこにも心臓はないので、残念な話である。すなわち嘘をついているのである。
目に見えないものは、学を以てしても当てられない、難しい問題を抱えている。 ★セレウコス朝カラ前3世紀にギリシア人が独立し、アム川上流に建てた国はどこか。
A、バクトリア
中央アジアのアム川上流地方に古代ギリシア人が建てた王国
★アケメネス朝(2)
achaemenes
前550~前330
オリエントを統一したペルシア帝国の王朝 2★前3世紀に、イラン系遊牧民のアルサケスがカスピ海東南に建てた国は何か。
A、パルティア
3★2は中国側の史書では何と記されるか。
A、安息 (パルティアは安息のことと覚えよう)
4★2を都をおいた、ティグリス川東岸の都市はどこか。
A、クテシフォン
5★2を倒して、224年に、イラン系農耕民が建てた国は何か。
A、ササン朝
6★5の初代王は誰か。
A、アルダシール一世 7★5の第2代の王で、ローマを破り広大な領土を統一した、3世紀の人物はどこか。
A、シャープール一世
8★突厥と組んでエフタルを滅ばし、東ローマのユスティニアヌス大帝と戦うなど、最盛期を築いた6世紀の王は誰か。
ホスラー一世
次回は、*ギリシア世界、✤エーゲ文明
★前20~前12世紀に栄えた地中海の文明はエーゲ文明と総称されるが、初めに栄えた文明は何か。
A、クレタ文明(ミノア文明) 2★「迷宮」と称される王の宮殿ナトが発見された、1クレタ文明の中心地はどこか。
A、クノッソス
3★前16~前13世紀ころにギリシア本土に栄えた文明は何か。
A、ミケーネ文明
4★3の中心地を2つあげよ。
ミケーネ・ティリンス
5★3やトロイア遺跡の発掘に成功したドイツ人考古学者は誰か。→シュリーマン
6★3滅亡後、400年ほど続いた混乱の時代を何というか。
暗黒時代(初期鉄器時代) ★神発見?いいや化けの皮が剥がれる
神学は、トマスが神智学の一部を築いているところをも網羅している。
だが神様はあると思っていたが、神様をいざ見つけてみると人間であったりする。
そんな人間が神?バカバカしい。
所詮人間の身分だろ?
神様は八億年×八億年も生息したらしい。
そんでもって7日間で世界は作ってない。ひいては世界は作ってない。
神(呼ばれただけ)と対話してみると意外と普通な様子であった。 ★いまここ論パート5
「いま」は現在のなりゆきを示す言葉である。
「いま」挨拶したとき、今は過去となり、今は挨拶していない、となる。
今は語ろうするとき今ではなく過去の出来事となっており、今をつかめない消息がそこにはある。
いま、という瞬間、未始からすべては始まる。
未始、を常にピシッピシッと生きる。
いまここをおおらかに過ごすこと、それが人生をよりよく生活する基本となります。
未始、未始、未始というように、ピシッと生きる。
いまこの瞬間を画分して、いまa,いまbという中に永遠の今aを記録に残す。
だから日記はつけなさいというのです。 ★顔分析パート2
丸顔の存在はこれまで楽しんでいることが多い。
面長の存在は無意識下で上手く動けることがある。
丸顔の存在が楽しんでいるということは、裏を返せば感情的だということである。そのためストレスも溜まりやすい。
面長の存在は逆にストレスが溜まらないタイプと言えよう。
みんなは面長という存在としての子ども、または丸顔という存在としての子ども、どちらを授かりたいかな? ★積み重ねること、努力すること
高速で本を読みたかったら、本をたくさん読むといいだろう。
一日1ページでもいい。積み重ねることが大事だ。
努力をやめないで、あきらめないで、努力を続けてみることが大事だ。
ピアノが趣味ならピアノもずっと続けること。
字が上手くなりたいというなら、字を、あるいは習字を書いてみよう。
文字を書くことを続けることで、いつか文字を上手く書けるはずだ。
不器用だから字が下手と、あきらめないで字を書く練習をしてみよう。 ★天才とは何か
天才とは、努力し続ける才能を有する上級者である。
努力し続けることのできない者は、天才とは言えません。
努力し続けること、それを尊ぶ者に女神は微笑む。
天才は時に無頓着な一面を見せる。
天才は神である。
天才は本質を見抜く。
天才は考え方が面白い。
天才は誰よりも頭がいい。 ★読書の論理
我々は、知識を求めて読書をする。
知的になるのは忌み嫌うものではなく、むしろ知性は進んで育んだ方がいい。
読書は毎日すること、ネットサーフィンではお金に困惑しない程度に、そして勉強になるように読んでみる。
上手い文章というのは簡潔で分かりやすい傾向がある。
そこで、ネットにおいても本においても簡潔かどうかをチェックする。
本においては、ちゃんと上手く書かれているかチェックする。
立ち読みでもいい。あなたに素敵な一冊がそこにはある。 ★素晴らしい者3
挨拶も欠かさず行う、それが素晴らしい者です。
ありがとう、ごめんなさいを言います、とは、あいづっこ宣言で有名だ。
ありがとうをたくさん言いましょう。
ありがとうの数がたくさん増えると幸せになります。
もっとありがとうを言うと他人が幸せになります。
もっとありがとうを言うと世界が幸せになります。
私はありがとうと蟻さんに言いたいです。蟻さん、蟻がとう(10)