会話は哲学である。対話も哲学である。フィロソフィーも哲学である。事実は打ち消せない。
理性には限界がある。ひとつの部屋にいるとしよう。横のドアから入ってきた人物を確認できなかったり、トイレにいるかどうかも確認できなかったりする。
こういう話は認識の美学にもなりそうだ。また、神がいるのか、魂はあるのか、こういった形而上学的な側面をカバーできていない。