【事実回帰】理論場【名言・格言】
人は年を重ねるほどに、未来よりも過去のことを考えがちになる。
事実は、理論では否定することは不可能です。
太陽が輝くかぎり、希望もまた輝く。
〜 フリードリヒ・フォン・シラー(ドイツの詩人) 〜 監督がいなくなって寂しいキャストがいました。
キャストはお墓参りに向かいました。
監督さん。ごめんなさい。ただそればかりです。
いつか私たちに見せたかった栄光を、そして演劇を、私たちが叶えてみせます。
それではお休みください。アーメン。 大丈夫。心配しないでください。
監督の最後のひと言です。
監督はキャストを愛していました。
キャストはモヘンジョダロが気になります それでは監督の葬式を始めます。
来監督復活祝願冥界実相
休息安泰末法回避説法 監督成就想念夢現回廊
大丈夫安眠熱意情熱大陸
監督心配無用霊界修業無事遂行
以上で葬式を終わります。
キャストA「皆さん、今回はお葬式に参加していただきありがとうございます」
キャストA「無事あの世でも修業してくださることを願っています」 キャストB「あの世でも修行に励むことを切望しております」
キャストC「頑張ってあの世でも平和に暮らしていけますよう祈っております」
キャストD「あの世で平穏に暮らしていけますようお願いいたします」
すると監督の声が聞こえてきた。「ありがとう、ありがとう……」 キャスト一同「か、監督……」
キャスト一同「どうかご無事で……」
ブッダ「監督の身柄はご安置するそうです」
仏「墓標ですね」
神さま「墓標に句碑も添えてみましょうか」
すると監督の声が聞こえてきた。「ロベルト」 ブッタ「ロベルトとはスネヒョンスネヒョンという意味があるが、他にも色々ある
仏「ハイハイハイハイという意味もある
神さま「バーカバーカという意味もある
監督2世「スネひょんです。監督の生まれ変わりですよねわたしって。よろしくお願いします。 ブッタ「スネひょん!?生まれ変わりか
仏「よろしくぐらい言えよブッタさん
神さま「よろしくな
スネひょん「神さまはしっかりしていらっしゃる ブッタ「神さまだって私だってちゃんとしてますよね
仏「そうかな
神さま「スネひょん。大丈夫だぞ
スネひょん「ありがとうございます。 ブッタ「スネひょん。君は礼儀正しい」
仏「礼儀正しいなんてよく言えますね」
神さま「確かに礼儀正しい」
スネひょん「監督時代とは違いまっせ」
ブッタ「違いまっせ、とはスネひょんいい、という意味だ」
仏「ほほう。」
神さま「スネひょんは成長した」
スネひょん「違いまっせ、っていいですね」 彼らの集団を見て、ヨノツキ公爵が笑っていた。
ヨノツキ氏の考え方によると普通はこう示される。
普通に考えたらこうだ、という行為を取ればいい。
また、普遍的に考えて行動すればいい。
カントのいう「普遍的な立法の原理に基づくよう行為せよ」の通りに行為せよ。
葬式には遺族や知り合いが集うことは【普通】である。
学校で授業を聞くことも、【普通】である。
これら二つの普通は【客観的普通】である。
ヨノツキ公爵は、監督の言い分を知っていた。
その言い分とは、「来世の自分=スネひょんが幸せに暮らすこと」であった。 監督=スネひょんの言い分である、幸せに暮らすこと、というのがあるが、
幸せに暮らすことが人並みであり、と思うし、そして普通であり、と思う、だからこそ主観的普通である。
客観的に幸せを掘り進めると、幸せである方が、不幸であるより気持ちは安らかである。
さらに幸せを掘り下げると、幸せになりたいと思う人が少なくないということ。
不幸であるより幸せの方がいいということは、言うまでもない。
しかしながら、幸せと不幸、どちらかの方が当て嵌まってるかというと、幸せの方が当て嵌まってない。 ―――――
今さら不幸や絶望感を以ってしても何になると云うのだろう。
絶望感に浸っているとき、その時が大事なときだと、私は思う。
絶望感から這い上がったことが、私の人生で何度かあった。
絶望を経験してこそ人生なのではないか、そう考える人が増え始めるでしょう。
それでは絶望を経験することは普通なのか?この問いに答えてみましょう。
絶望することが頻繁にあるとは聞きません。また、絶望が普通と言えるほど多くあるわけではありません。
絶望を経験することは普通ではないのではないか、そう思えるでしょうか。
絶望を経験した校長先生を私は知っています。4回も絶望したけど這い上がったのです。
借金を払えずに毎日ひやひやしていたらしいです。
不幸の方が多いと私は聞きます。不幸から幸せになるためにはどうすればいいでしょうか。
幸せになるためには努力することです。毎日コツコツ努力することです。
努力はしなければならないのです。 ★自己の成長
私たちは、自己を成長させるべく、学校ではもちろん、本においても道徳を学んだ。
努力しなさい、という意見は間違ってはいないだろう。
しかしながら、努力しなさいと言った本人が、道徳的に反していては、つまらない。
他者にアドバイスする本人自身も、立派な人格者でなくてはならない。
これが第一原理である。そして他者のためにアドバイスをすること。
これが第二原理である。また、人災に遭わないように気を付けること。
これが第三原理である。他には、原理にはあげながったが、避難生活の準備を整えておくこと、である。
勉強しなさい、だとか、嘘をついてはならない、だとかいう道徳規範は、
本人が見事に達成していることを条件としない場合、信憑性の低い説明になってしまう。
あらゆる道徳規範は、本人がその道徳規範をクリアしていることを条件に、語られるべきなのである。
自分が成長してから道徳を語れ、や、嘘を吐くなと云うなら自分ができてから嘘を吐くなと言え、など、
そういった勧告者本人がしっかりしてから発言するべきだ、という意見もあるだろう。
しかし、立派な人格者は、当然しっかりしているのだから、他者にアドバイスできてもいいのである。 ★自己の人格
自己の人格は空高くあった方がいい。自己の人格形成に興味を抱こう、私はそう思います。
人格は様々な要因によって形成されます。
例えば、親の躾がいい例です。親は、パフェノニックになるな、と躾します。
人格形成においては、いじめに遭っていたことも関わるでしょう。
そして道徳観を深く洞察し、優しい性格になることが極めて大切です。
女性は優しい人が好き、とはありそうなお話です。
優しくない人は嫌われます。
人格の形成は、ヨロミンチャと言います。
優しくなるために、道徳心を養いましょう。 ★自己の成長2
かなりアウトな意見だが、道徳的であることを認めない、という一種の風潮もある。
道徳ごっこをやって気分がいい?そんな道徳いらねえ、という考え方だ。
すべての道徳が絶対的に正しいとは言い切れない、そんなことも匂わせる。
「はい」「わかりました」「ありがとうございます」 このような接待は、
仕事によるが、よくある例である。「どうもすみません」という接待も、
道徳嫌いの人から見れば、嫌な発言だったり「つまらない道徳」だと思われる。
こうした道徳規範も、つまらない、とバサッと切られれば、元も子もない。
しかしながら、ビジネスマナーとしての「道徳」は、ビジネスを続けていく者として、
大切な考え方だったのではないだろうか。「おはよう」を言わない社員を社長は嫌うのではないか。
社長は挨拶という道徳規範から考えていくのではないか、私は挨拶から始めることが大事だと聞きました。
挨拶は大事と云いますが、道徳嫌いの人は嫌がるのでしょうが、そんな人がいないところで挨拶すればよいのです。
挨拶から人間関係を築いていくのなら、挨拶することが広まっていれば良いのですから、挨拶は広まるべきでしょう。