仏教哲学総合スレ8
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
>>696
>ニーチェの書には『誰でも読めるが誰にも読まれない書』と銘打ってある
『誰でも読めるが誰にも読まれない書』の仏教版といえば『正法眼蔵』だな
過去の禅師の語録を元にしていることだけは分かるのだが本当に何を言ってるのか分からない
多分、道元自身も自分が何を言っているのか理解してなかっただろう
その点、空海の教えは難解だが理解できないわけではない。言いたいことは分かる
龍樹も分かる
道元だけは何を言いたいのか本当に理解できない 絶対矛盾的自己同一というのも理解できない。わたしには解りやすく教えてください >仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
これをもし西田的に解するなら、我の我を法にならいて造っていき『矛盾』を止揚するわけだ
しかし、これはメタな話である。瞬間は存在しないというプラトンの理解が入るからであるが
道元ひとりが仏陀を超えた実践をしたのだろうか? 道元って何を述べたか知らないけど、自然回帰説すなわち老子の教えに近いかい 騙しのテクと考えれば読めるよ
わりとマニュアルっぽいからな 仏教は何でも知っている
仏教が知らないことは無い
あまつさえ量子論だろうが不確定性原理だろうが11次元だろうが何でも説明してしまう 現世の生き方だろうが死後の世界だろうが全て事細かに説明してしまう
それが仏教なのだ 道元「現成公案」
<原文>
“仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。”
<訳文>
“仏道をならうとは、自己をならうことである。
自己をならうとは、自己を忘れることである。
自己を忘れるとは、よろずのことどもに教えられることである。
よろずのことどもに教えられるとは、自己の身心をも他己の身心をも脱ぎ捨てることである。”
― 『正法眼蔵 全8巻』 増谷文雄、講談社学術文庫 (2004) p44-45 “仏教的真理を学ぶということは、自分自身を学ぶということであり、
自分自身を学ぶということは、自分自身を意識しなくなることである。
<また>自分自身を意識しなくなるということは、自分自身が宇宙によって体験させられることである。
<そして>自分自身が宇宙によって体験させられるとは、
自己の身心すなわち主観と、他己の身心すなわち客観とから主観とか客観とかいう意識を脱落させることである。”
― 『現代語訳 正法眼蔵 全13巻』 西嶋和夫、仏教社 (1978) p86
“仏道を習うということは、自分を習うということである。
自分を習うということは、自分を忘れることである。
自分を忘れるということは、対象の側から照らし出されることである。
対象の側から照らし出されるとは、自分の身心と他人の身心との間に対立がなくなることである。”
― 『正法眼蔵:全巻現代訳 上・下』 高橋賢陳、理想社 (1971) p10-11
“仏道を学ぶということは自己を学ぶことである。
自己を学ぶということは自己を忘れることである。
自己を忘れるということは、無我になることである。
無我になると、体験の世界と一つになって他と対立しない解脱の自己を会得することができる。”
― 『全訳正法眼蔵 全4巻』 中村宗一、誠信書房 (1971) p2 “仏法を求めるとは、自己とは何かを問うことである。
自己とは何かを問うのは、自己を忘れることである、答えを自己のなかに求めないことだ。
すべての現象のなかに自己を証(あか)すのだ。
自己とはもろもろの事物のなかに在ってはじめてその存在を知るものである。
覚りとは、自己および自己を認識する己れをも脱落させて真の自己を無辺際な真理のなかに証すことである。”
― 『現代文訳正法眼蔵 全5巻』 石井恭二、河出文庫 (2004) p23
“仏道をならう(修行する)というのは自己をならう(修行する)ことである。
自己を修行するというのは、自己が(諸法ばかり、万法ばかりになって、)
自己を忘れることである。
そういう自己を忘れるということは、万法から(自己が)実証されることである。
万法から実証されるということは、自己の身心および他己(わたしの中にある他人)の身心が
自分のものでないことを徹底させるのである。”
― 『正法眼蔵 全4巻』 水野弥穂子、岩波書店 (1990) p51
“仏道を習うということは、自己を習うことである。
自己を習うということは、自己を忘れることである。
自己を忘れるということは、環境世界に実証されることである。
環境世界に実証されるということは、自己の身心も他己の身心も、脱落して果てることである。”
― 『正法眼蔵:現代語訳 全6巻』 玉城康四郎、大蔵出版 (1993) p96 “仏道をならうことは、自己をならうことだ。
自己をならうことは、自己を忘れることだ。
自己を忘れることは、宇宙の真理に目覚めさせられることだ。
宇宙の真理に目覚めさせられることは、自分の身心と他人の身心を脱落させることである。”
― 『すらすら読める 正法眼蔵』 ひろさちや、講談社 (2007) p65-66 >>670
ニーチェが言ったことは神の言葉だとでも思ってんのか?
ニーチェ宗教は出てくんなよ >>738-740
増谷 第1巻
西嶋 第1巻
高橋 上巻
中村 第1巻
石井 第1巻
水野 第1巻
玉城 第1巻 西田も引用している>>738の一節が、どういう哲学モデルなのか理解できないと、
西田も読んでいるうちには入らない。
西田は道元の直系。
ラカンがフロイトを、
アルチュセールがマルクスを、
それぞれ読み直したように。 『方便心論』の還元サンスクリット訳と解説を載せた本を出したいから、君たち俺に金を恵んでくれ 「無我」は自己でも他者でも無いような定義をしていない無定義用語(述語)に近いのかな すべての言葉が無定義用語なんだわ。それぞれの言葉の関係性にこそ意味があるのであり、話す言葉を全てカッチリと「定義する」としたら言葉と言葉の関係性が失われて自分でも自分が何を言ってるのか分からなくなってくる。 論理学の要素すら成立しない言葉遊びが仏教というもの
適当な敷衍に効果があるのみ😌 >>753
ギリシア哲学とインド哲学、どちらが古いか論理的に説明できる? 「言葉遊び」や「仏教」「論理学」、どれも言葉を曖昧にして使う言葉遊びなのじゃ 曖昧な言葉が嫌いなら仏教スレになど来ずに記号論理学スレを立てれ 2500年前のゴータマ・シッダールタと言う人が語った哲学たるものは、2000年以上経って姿が変わっているのは、当たり前。 2000年以上前にピタゴラスという人が語ったと言われる「ピタゴラスの定理」は
、2000年以上経った今、変わっているだろうか?
そこからの発展はあっても、定理の正しさに変わりはない。 むしろ葬式坊主のせいで仏教を知る機会が奪われてるよな 文字を重視するようになるのも木魚を叩くようになるのも仏典解釈の一つ >>738
商売をならうとは、商売を忘れることである
商売を忘れるとは、見えざる手(市場)に教えられることである
松下幸之助 死を思う時に結局何がしたいのかがわからなくなってなんで死を思ってんのかもわからなくなる、このまま死ぬのが不安でもあるしどうでもよくもなる
どうすればいいの >>765
出典は?
>>766
人生相談は心と宗教板で 智慧によって、無常である。苦である。と見る。
今すべき事をただやりましょう インド論理学とギリシア論理学
ジレンマ(dilemma) - 対立する2つの間に立つこと
トリレンマ(trilemma) - 対立する3つの間に立つこと
テトラレンマ(tetralemma) - 対立する4つの間に立つこと
◇四句分別(テトラレンマ、四句否定)
1 肯定 (Aである)
2 否定 (Aではない)
3 肯定かつ否定 (Aであり且つAではない)(両是)
4 肯定でも否定でもない (AであるのでもなくAでないのでもない)(両否) 西洋の論理学
ヨーロッパ的論理の基盤であるアリストテレスの俳中律は、
曖昧で中間的な判断を排し>>766の1と2に収斂させて二元論とすることで
明晰な論理空間を構築した。
・パルメニデス「有るものは有る。無いものは無い」
・旧約聖書「無からの(有の)創造」
以降、西洋思想は、「存在と無(有と無)」(サルトル)を土台としてきたが、
現在では、その鋭利すぎる論理が落としてしまったものの回復が求めらることがある。
(ex.「二大政党制の限界」、「ファジィ」など) 東洋の論理学
ところが、仏教の「空」は「非有非無」(有るのでもなく無いのでもない)と定義される。
つまり、仏教や東洋の論理学は、西洋が二千数百年の間、問題にしてこなかった論理空間を扱ってきた。
・「そのとき(宇宙始原のとき)無もなく、有もなかった。」(リグ・ヴェーダ「宇宙開闢の歌」(10.129))
・空の定義「非有非無」(有るのでもなく無いのでもない)
・「不一不異」(同一でもなく差異があるのでもない)
・イスラムの「タウヒード(一性)」(言語や民族の多様な差異を認めながら、一つにまとまろうとする)
・解脱の段階の一つ「非想非非想処」(想いがあるのでもなく、想いが無いのでもないという境地) >>759
メイヤスーは、数学的形式主義における「空記号」のあり方に注目した。
数学は二千数百年かけて、仏教に追いつこうとしている。
“私が関心を抱いていてなおかつ議論するつもりのタイプ、すなわち純粋形式の下にあるタイプ、つまりは意味の空虚な記号のタイプを識別するために、新語を提起しておく。
空虚な記号のこうしたタイプを ―「空虚」を意味するギリシャ語の形容詞kenosに基づいて― ケノタイプと呼ぼう。”
― カンタン・メイヤスー 「反復・重復・再演 意味を欠いた記号の思弁的分析」『現代思想2019年1月号 特集=現代思想の総展望2019 ポスト・ヒューマニティーズ』
cf.「ケノーシス」>>663-664 今やっているのは、>>769-772の射程で、
道元の「現成公案」や西田を読み直すこと。 >>767
ごめんごめん
PHPの損得考えずやるもの(成功するとして考える)という考えの敷衍でした 西田の公案は科学(背景にマルクスを含む)にあると思う。1つの違いは『矛盾』を認め『流れ』の理解をしている。道元は『あるがまま』であって構成に意味を置かない点が仏教的ではある
哲学の公案として見れば後者の可能性だろうし、ここに言語哲学の公案が可能になるのではないか。即ち認識とは個物のイメージであるかそれとも観念の分有であるかというものだが >>766
「ブッダという男」っていう本を読む限り釈迦が輪廻を説いたのは確実みたいだし
自己存在が無になる不安というのはないかな オレはね 釈尊が輪廻を説いたというか、当時の一般常識だし
そこから解脱するために思惟しまくったわけで 仏教はカントールだろうが現代数学だろうが理論物理学だろうが何でも
常に先取りしていたすごい「教え」だと言えてしまうんよ
そこが味噌なんですよ また科学者とやらも科学者ってだけであって哲学者じゃあないんで
いささか仏教に結び付けて深遠に語ってしまうっつうのもよくあるパターンではある 輪廻がないと仏教は成り立たないだろ
苦しみから逃れるには死ねば解決という自殺教になる >>766
>>768
自然の中で生きている命は体が動くうちは働いて、動かなくなったら風に任せて消えていくよ
人間も社会の中で麻痺してるけど同じだよ、気張らずにのらりくらりと生きてりゃいいよ 八正道とか十善戒ってわかりやすい指針だけもって居られれば平和に過ごせる こねくりまわして、わけわかんなくなるよりも、
八正道を「正しく」実行していきゃいいんだよ。 農業とか苦痛なことしないで人生を楽にお布施で生きてゆくというお坊さんシステムを生んだ仏教は良い意味で偉いと思うよ 心は、ただ無念という念あり、
これをゴータマ・シッダールタは、「清浄なる境地」と呼んだ。 たしかに、これは「人間の生きている世界」から隔離されたものだ。 一般人からここに登る階段を、ゴータマ・シッダールタは、「言葉」で、「八正道」として残してくれた。 >>785
マンガ読んだり小説、映画、テレビは十善戒では不綺語に抵触するんだが
八正道は「瞑想しなさい」だし
仏教を自己啓発本の代わりには出来ない 普通の会社員だけど、平日は睡眠を削って三時間座禅している。
土日は十時間座禅している。
始めて1年半。まだまだだ。 >>792
座禅というより瞑想と言ったほうがよいかも知れない。
ヴィパッサナーの座る瞑想と歩く瞑想が主。
本はあまり読まない。
Sayadaw Jotikaの「A map of the Journey」ぐらい。50回は読んだ。 ウ・ジョーティカ長老のはちと難解だな
文学的で美しくはあるんだが >>793
これまでに十数度「これがそれか?!」という体験をしたことがある。
しかし一人でやってる瞑想では「変性意識の罠」に注意している。
で、いずれの場合も、それではなかった。 案外ととのいつつあるやつ多いんだな
おれはサウナで体験したよ a map of journeyって、ググったら無料で読めるんだな。
いい本なん?
英文だけど気合い入れて読もうかな >>798
魚川祐司氏の邦訳もある。同じく無料。
オレはもっぱら英文を読んでいる。 >>738の用語の補足
現成=眼前に現れること
万法=諸法、万物、宇宙
証する=気づく。悟る。真理を体得する
自己=自分自身
他己=自己以外の存在
身心脱落=道元の用語。禅を通じて自我意識やあらゆるこだわりをなくして、真理の世界に溶け込んでいくこと >>775
道元のこの「現成公案」にみられる哲学モデルは、マルクスやソシュールと同じ。
彼らが構造主義に数えられるのはどの点においてだったか、ということ。 >>728
> その点、空海の教えは難解だが理解できないわけではない
> 龍樹も分かる
> 道元だけは何を言いたいのか本当に理解できない
空海にははっきりと形而上学をやっているという意識があるし、
龍樹は哲学的。
道元は、ブッダと同様、形而上学を忌避しているし、
大文字の「悟り」や「真理」というのを認めず、
生活のあらゆるプロセスが修行であり、悟りの契機であるとしている。 >>799
邦訳あるんだな。
でも英文も平易だし英文読んでみるわ 日常生活になんてのには全く意味を認めませんよ
仏教とはそういう世界
この世は仮象でありこの世などに意味は無い 「意味がない」とはどういう意味で用いてる言葉なのか… 輪廻を断ったら、この世しか残らない。
この世 = 涅槃 >>806
比較としてですよ方法論としての比較です
意味とは何かという本質は無いと考えます
ウィトゲンシュタインの類似性の敷衍です 涅槃というのは「ニュートラル」な境位である。
私の体験では、つらいことがあって「ダウン」した際に、幸せを目指して「ニュートラル」な境位にたどり着いたというもの。
私の知り合いも「涅槃はニュートラルですよ」と話していた。 >>798-803
「Google 翻訳」知らんの? 戦国時代の末期に、日本の巨大仏寺建築の為に、日本中の杉や檜の巨木をほぼ刈り尽くしてしまったのは
もったいないことだった。今でいうsustainable持続可能な、という思想とは程遠かった訳だ。
現代の全国の名刹は文化財の保管場所として面目を保っているが、果たしてそのような価値はあるのか?
単に、日本中の名木を刈り尽くしてしまったことの言い訳に過ぎないのではないか? 別に仏寺だけじゃないでしょ
イギリスなんかも元は森林だったところが、伐採しつくして平原やハゲ山になっている。 >>809
安心は無を受け入れるところにある。
喜びや快楽を求めることがつねに不幸に終わるのは、それらが有だからだ。
有は滅びる。有は空しい。
苦しみがなく、喜びがない、それが到達点だと 自然界など弱肉強食の世界であり
決して良い世界では無い救いの無い獣の世界だ
自然環境など保全する必要など無い 道元が構造主義なら『あるがまま』を否定する構造の中に『あるがまま』の意味を見出だしているのが、『流れ』の要素還元に留まるだろう
それは何故かと公案するなら『仏教』だからだ >>801
関係主義 - wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E4%BF%82%E4%B8%BB%E7%BE%A9
存在を関係性の中の結節点(ノード)として捉える発想・主張のこと。
存在が独立的・自立的に存在していると捉える実体論(substantialism)、素朴実在論(素朴実体論)と対照を成す。
仏教
仏教は、存在・認識の「縁起」をその中核に据えた、徹底した関係主義的思想・宗教として知られる。
(例:道元「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。」)
哲学
ソシュールのシニフィアンとシニフィエ(記号と意味内容)の対応関係に関する考察は、
言語学に関係主義的発想をもたらした。
(例:馬の意味は、犬、猫、牛などからの差異によって規定される)
※このページにはないが
マルクスの価値形態論 。商品の価値は他の商品の使用価値との関係でしか表現できないというメカニズム。
(例:上着の価値は、茶、コーヒー、小麦、金、鉄などからの差異によって規定される)
その他、
ベルタランフィの一般システム理論。要素還元主義の逆。
オートポイエーシス。主体なきシステム論。 >>810
Google翻訳ではちょっと厳しいものがある。
そもそも、この本の英文は非常に簡明なので、
ほとんどの文章は英文のままで理解できるけど。
試しにある文を翻訳してみた。
ChatGPTはさすがだな。でも、魚川祐司訳が一番。 【Google翻訳】
「偉大な道は難しいものではない
こだわりのない人のために」
〜禅の第 3 祖先セントゥサン著「シンシンミン」
【DeepL翻訳】
「大いなる道は難しくない
好みのない者にとって
~仙桃山第三世禅師による「興心明 【ChatGPT翻訳】
「偏見のない者にとって、偉大なる道は難解ではない。」
〜三祖仏法慧海心心銘(ひっしんめい)より、僧祐・禅の第三代祖師
【魚川祐司訳】
「選り好みをしない人たちにとって
偉大なる道は難しいものではない」
(至道無難 唯嫌揀択)
~禅宗第三祖・僧璨『信心銘』 【本文】
“The great way is not difficult
for those who have no preferences”
~Hsin-hsin Ming by Seng-t’san the 3rd Zen Patriach 仏教の神髄は現生における良き生を諦めることにあるんよ
もちろんその意味は二義的だ >>824 つづき
つまり、パーリ語の仏教用語や仏教の伝統や
歴史上の用語などに詳しくない人には、
@GoogleやDeepLは不親切。
AChatGPTはそれをケアしてくれることが多い。
B邦訳(魚川祐司)がもっとも丁寧にケアしてくれる。 つまり、パーリ語の仏教用語や仏教の伝統や
歴史上の用語などに詳しくない人には、
答え:水野弘元『仏教要語の基礎知識』
があればとりあえず戦える
分からなかったらコトバンクでググる パーリ語は、アルファベットで表記できないものがあり、
図書やネットで検索するのが面倒なことが多い。
邦訳は、その辺りもケアしてくれる。 覚者はわかる、解脱者はわからない
解脱したものが私は解脱したなんて伝えられないだろうし解脱したものを観測することも出来ない、論理で説いてもそれは合理的な虚妄ではと考えてしまう >>828
>パーリ語は、アルファベットで表記できないものがあり
拡張アルファベットで完全に表記できる
Pāṇupetaṃ saraṇamagamāsi. Devadatto, mahārāja, cha koṭṭhāse kate kappe atikkante paṭhamakoṭṭhāse
saṅghaṃ bhindi, pañca koṭṭhāse niraye paccitvā tato muccitvā aṭṭhissaro nāma paccekabuddho bhavissati. >>820
これを図示した例としては、
井筒の華厳的(ex.東大寺)存在生起モデルが有名。
https://i.imgur.com/UJ3OaYh.png
一即多、一即一切の記号学モデルは次のようにも示される。
A ([a]、b、c、d、e、、、)
B (a、[b]、c、d、e、、、)
C (a、b、[c]、d、e、、、)
[ ]は強調
Aは潜在的に、bやcやdやeなどその他との差異から認識される(有力 うりき)。
参考:
井筒俊彦 「事事無礙・理理無礙-存在解体のあと」 『コスモスとアンチコスモス』 所収 >>820、>>831
どうして、このようなモデルになるのか、
> 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
考えることをやめ、無心になって過ごす時、
日頃気にかけることのなかった周囲の音に気づかされることがある。
川の音、鳥の声、風や草木の音。
空になった自己の内への、他者存在の相互浸透。
KLF
https://www.youtube.com/watch?v=q2QpVIUAOS4
“大宋国において東坡居士蘇軾と呼ばれていた人は、(略)
或る時廬山に来た時に、谷川の水が夜流れている音を聞いて真理を体得した。(略)
「谷川の水音はそのまま釈尊の説法される声であり、山の姿はそのまま釈尊の肉体である。(略)」”
― 道元 「渓声山色」 『現代語訳 正法眼蔵 1』 西嶋和夫、仏教社 (1970) p213 >>831
『北斗の拳』の最終奥義「無想転生」がこれ。
ケンシロウは、かつて闘ってきた強敵(とも)(トキ、レイ、シン、サウザー、シュウなど)の全てに成ることができる。
https://i.imgur.com/pmUUXYx.jpeg
「この動きは…トキ!」
「この世で最強のものは無…その無より転じて生を拾う、それが無想転生」
https://www.youtube.com/watch?v=WN3gaew-dbY&t=496s
8:15-10:30 仏教の経典を最初に中国語に翻訳したのは中国に来て
仏教の布教活動にあたっていた2世紀パルティア王国の王子たちと言われてるが、
やっぱり、古代イランとインド文明の関連は強い。
関西大学の宮嶋純子の研究が面白い。 >>830
Google翻訳もDeepL翻訳も不可。
ChatGPT翻訳:
生命を犠牲にして出家しました。デーヴァダット、大王様、六つの施設が終わり、初めの施設を超えて、僧団を断つでしょう。五百の苦しみを地獄で経て、そこから解放され、アッティッカンテの8人の賢者と呼ばれる独立仏となるでしょう。
ChatGPTさすがとは言うものの、それでも不十分。 仏教と仏教哲学の関係は、芸術バレーと器械体操の関係に似ている。 https://kotobasta.com/62342/
夜露死苦は本来仏教用語でやろししくと読むとあるのですが
このサイト以外でそういったことを言っているサイトがないのですが
間違いですかね 君もしくは君のメンバーが捕らえられあるいは殺されても、当局は一切関知しないからそのつもりで 例えば、龍樹は仏教を哲学したのではない。仏教を説いたのである。 仏教を信仰しない仏教学者は可能なのか?
いやむしろ、仏教を信仰する仏教学者は可能なのか?
矛盾ではないか? >>839
失敗したら消されるのはお前とお前の仲間だ
覚悟をもってやれよ すみません、誰か日々雑記 in哲学板 その6スレを立ててくださいませんか?
それまでは一時的にここに避難致します。 ここは「仏教スレ」ではなく「仏教哲学スレ」。
図書館やアマゾンで「仏教哲学」というタイトルの本を検索して読んでみること。 >>847
5chの「スレ立て代行スレ」を探すように 仏陀は書物を残していないのに仏教の本がある
不思議だな
弟子が伝えた内容では体感であり言葉には出来ないはずなのに
仏教を言葉にしようとするやつは信仰心も無いし仏教を分かってないんだろう >>850
印度哲学は口伝なの知らないニワカがレスするなよ
リグヴェーダもあれは口伝で伝えられてきたし現代でも暗記するもんなんだぞ 本当は哲学でも無いんだろうね
口伝してるわけでもないし
メンタルトレーニング的なやつ 以下に、道元の「現成公案」を西田がどう継承したかをみていく。
特に2点。 <1/2>
“経験するというのは事実そのままに知るの意である。まったく自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。
純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交えているから、
毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。
例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、
我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、
この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。
自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。
これが経験のなるものである。”
― 西田幾多郎 『善の研究』 「第一編 第一章」 小坂国継 全注釈、講談社学術文庫 (2006) p30
毫も(ごうも。少しも)
最醇(さいじゅん。最もまじりけがなく純粋なこと) 西田幾多郎『善の研究』各版
(1)『善の研究』ワイド版岩波文庫〔改版〕(2012)、(解説=藤田正勝)(ルビあり、活字が新しい)
(2)『善の研究』ワイド版岩波文庫 (1991)、(解説=下村寅太郎)(ルビあり)
(3)『善の研究』岩波文庫 (1979)、(解説=下村寅太郎)(ルビあり)
(4)『善の研究』(全注釈:小坂国継)講談社学術文庫 (2006)、(ルビ多い、新字体・現代仮名遣い)
(5)『西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験』〔新版〕、岩波書店 (2003)、(ルビなし)
(6)『西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験』〔旧版〕、岩波書店 (1978)、(旧字体・旧仮名遣い)
“真の実在とは何か、善とは何か、宗教とは、神とは何か――。
主観と客観が分かたれる前の「純粋経験」を手がかりに、人間存在に関する
根本的な問いを考え抜いた西田幾多郎(1870-1945)。
東洋の伝統を踏まえ、西洋的思考の枠組自体をも考察対象とした本書は、
以後百余年、日本の哲学の座標軸であり続ける。”
新字体・現代仮名遣い 4 > 1 = 2 = 3 > 5 > 6 旧字体・旧仮名遣い
・岩波版の中で読みやすいのは1。各国語版の紹介などもある
・4は古い文献の読みにくさを解消し、現象学的観点からの解説もある
タイトルは元々『純粋経験と実在』というものだったが、出版社(弘道館)の意向から『善の研究』となった。 >>738-739
> 万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
(自己の身心すなわち主観と、他己の身心すなわち客観とから主観とか客観とかいう意識を脱落させることである。)
(無我になると、体験の世界と一つになって他と対立しない解脱の自己を会得することができる。)
が、
>>854-855の
> 未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している
> 主観と客観が分かたれる前の「純粋経験」
というところに継承されている。 <2/2>西田が直接引用している箇所
“仏道をならふことは自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の心身、
および佗己の心身をして脱落せしむるなりと云ふ(道元)。
それは限定するものなき限定、絶対無の自己限定と云ふことでなければならない。”
― 西田幾多郎 「哲学論文 第六 三」 『西田幾多郎全集10』 岩波書店 (2004) p112 >>857
「絶対無の自己限定」とは何か。
西田はここで数学的に説明している。
“我々の有限なる意識の背後に横たわれる無意識はxに対するdxの如く考へることができないであらうか。”
“我々が或一曲線を意識するといふことは此の如き意味に於て限定せられた曲線である”
“意識するといふことは無限なる全体が己自身を限定することである。”
― 西田幾多郎 「自覚に於ける直観と反省」17『西田幾多郎全集3』 岩波書店 (2004) 小泉義之×檜垣立哉 「西田から「哲学」を再開するために」 『西田幾多郎 KAWADE道の手帖』 河出書房新社 (2005)
<檜垣の解説要約>
任意の直線を意識する時は、実在する無限な直線に対して限定をかけている。
無限な潜在性から有限な現実性が、「限定」=「自覚」として立ち現われる。
<小泉の解説要約>
西田の「場所」は、量子論の場の論理を概念化したもので、無限次元のヒルベルト空間。
そこでの演算子を作用と呼び、その作用の作用を「自覚」と呼んでいる。 西田哲学の核心
(1)禅哲学からの現象学、経験論、実在論
(2)数学・物理学禅
(3)キリストのケノーシスの考察
西田は、道元の「現成公案」>>738とキリストのケノーシス>>682を重ねた。
「一即多」、「絶対矛盾的自己同一」は、クラインの壺のような形になる。
https://i.imgur.com/jdl3Lc0.jpeg
・自己の空化から全体への接続
・父なる神と人間キリストとの矛盾的同一
数学/自然科学と神学のかけ合わせは、
西田が影響を受けたヘルマン・コーエンら新カント派マールブルク学派の特徴。 西田と言えば絶対矛盾的自己同一だ
知り合いに西田と言えば絶対矛盾的自己同一だと言われて嬉しかったらしい。 認識の矛盾性は道元と通低するが、有限から無の自己限定へ拡がる処で、仏教と言うなら西田教になるだろうね。現に護国の思想に触れ合う
善であって、禅に向かわない、現代思想的だよ >>863
ジャイナ教だろうと仏教だろうと同じだよ >>864
なぜバラモンと切り離して独立して仏教と言ってるのかさえ分からないなら仕方ないねえ
仏陀は人を説得したりしてはいけない、そんな事しても人は強欲で尊大で間違いを認められない俗なので変える事は出来ませんよと説いたのが「書物」で残ってる訳だし
論語知らずの論語読みが東洋哲学にも西洋哲学にも多い 哲学者もキャッチ・フレーズが無いと人気が出ない。
ソクラテスの「無知の知」
デカルトの「我思うゆえに我あり」
カントの「物自体」「認識形式」「ア・プリオリ」
ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」
西田幾多郎の「一即多」、「絶対矛盾的自己同一」も同様なもの。 仏教的に快楽はよくないという風潮だよね
でも瀬戸内寂聴さんは恋愛したがるし肉も食べる
快楽は僧侶にとって眉唾ものというイメージがある
でも快楽ではなく苦しみから開放される仏教を学んだほうがよかったりする
最近はエイズなんて性的な話題があるけど、快楽を体験すればいいというものではないと思う >>867 つづき
驚くべきことは、哲学者のキャッチ・フレーズだけを聞いて、
その哲学者の哲学は90%以上、理解できてしまうことだ。 つまり、「キャッチ・フレーズ哲学」なるものが考えられる。
二言三言のキャッチフレーズで、ある人の哲学は表現されるし、理解できてしまう。
逆に、それができない哲学者は二流三流と言ってよい。 哲学ができる人、できない人に分かれるよね。
少しのキャッチフレーズを読んだら分かる人は哲学ができる人。
すぐ分かる人、直観でイメージできる人なんて一握りだろう。
それに比べて分からない人にはいつまで経っても仏教も哲学も向いてない。 >>873
>少しのキャッチフレーズを読んだら分かる人は哲学ができる人
それは妄想家だろう キャッチ・フレーズ哲学:
スピノザ「永遠の相の下に」
キルケゴール「死に至る病」
ニーチェ「力への意志」「永劫回帰」
ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」
ハイデガー「世界内存在」 >>871、>>880
解説書だけでなく、哲学書を読むこと このスレでも度々出てくる、仏教は合一を目指すものかという話。
原始仏教はそうではないとしても、
大乗仏教である密教や禅、身近な道元や西田の場合(>>856)にもそういう側面がある。 >>869
メイヤスー(>>772)やマルクス・ガブリエルなど、最新の哲学(ポスト・ポスト構造主義)はシン・実在論をやっている。
それも、数学だとか空だとか言って、カント以降分けられるようになった主観と客観の二元対立の超克が課題となっているから、西田がやっていたことと近い。 >>820に、どちらもインドに関心を寄せた、ソシュールとマルクスの二人が並んでいるのは偶然だろうか? 西洋で仏教が知られる様になったのはこの200年ぐらいで、
「インド=ヨーロッパ祖語」の発見や、現代思想の黎明期と一致する。
ブッディズム(仏教)に該当する語が用いられた最初の例は、
1817年フランスのミシェル=ジャン=フランソワ・オズレーによる
『東アジアの宗教の開祖ビュッドゥあるいはブッドゥにかんする研究』で、
「ブッディスム(bouddisme)」と綴られた。
1786年、イギリス東インド会社に雇用されたウィリアム・ジョーンズ(1746-1794)が、
サンスクリットが古典ギリシャ語やラテン語と共通の起源を有する可能性があることを指摘
↓
1820年頃、西洋でブッディズム(仏教)が知られるようになる
↓
↓1819(-58)年、ショーペンハウアーが仏教に言及
↓1827年、ヘーゲルが仏教に言及
↓1848年、マルクス『共産党宣言』(>>700)
↓
1860年頃、仏、英、独で虚無の信仰を巡る論争がピークを迎える
↓
↓1866年、マラルメ「仏教を知ることなしに、無(ネアン)に至った」(カザリス宛書簡)
↓1871年、ニーチェ「仏教という宗教は「善悪の彼岸」に立っている」(『アンチクリスト』)
↓1880年、ソシュール「サンスクリットにおける絶対属格の用法について」学位論文
↓
1890年頃、仏教が虚無の信仰でないことが理解され始める
↓
↓1895年、フロイト『ヒステリーの研究』
参考:
ロジェ=ポル・ドロワ 『虚無の信仰 ― 西洋はなぜ仏教を怖れたか』 島田裕巳、田桐正彦 訳 、トランスビュー (2002) >>730
アリストテレスが「それは何であるか ti estin」という言葉によって問われるものを事物の「本質」として以降、
西洋ではヘーゲルの時代まで、本質は同一性によって説明されてきた。
↓
西洋によるインドや仏教の発見
↓
構造主義の登場
・マルクスの価値形態論
・ソシュールの言語記号学
西洋でも同一性から差異へと関心が移っていった
↓
差異の哲学の時代(ポスト構造主義)
・ドゥルーズ『差異と反復』
・デリダ『エクリチュールと差異』 “ニーチェがけっきょくは何が言いたいのかがわかる。
キリストは聖パウロがつくりあげたキリスト像とは正反対のものであり、
真のキリストは一種の仏陀、「ほとんどインド的ならざる土地にあらわれた仏陀」であった。”
― ドゥルーズ 『ニーチェと哲学』 国文社 (1984) p225 いかにして哲学は100年前に滅亡したか
1.ラッセルのパラドックスの発見(1902年)
1902年、哲学者のバートランド・ラッセルが論理学における矛盾を発見しました。
このパラドックスは、通常の論理学では回避できないことが判明し、哲学に大きな衝撃を与えました。
2.ラッセルによる新しい論理学の構築(1903年~)
1903年以降、ラッセルはパラドックスの原因が論理学の仕組みにあると見抜きました。
自己と自己言及を明確に区別して混同しないルールを導入し、パラドックスが起こらない新しい論理学の仕組みを構築しました。
3.ウィトゲンシュタインによる論理学の研究(1911年~)
1911年頃から、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはラッセルの弟子となり、新しい矛盾のない論理学で何が言えるのかを研究しました。
その結果、形而上学や哲学を論理的に扱うことは不可能であることが判明しました。
1921年に出版された「論理哲学論考」で、ウィトゲンシュタインは形而上学や哲学は論理学の誤用から生まれる全く意味のない妄想であると論理学を用いて証明しました。
現在までにこの証明に反証できた人間は歴史上1人もいません。
4.ゲーデルの不完全性定理(1931年)
1931年、クルト・ゲーデルもラッセルの論理学に影響を受け、「論理学によって仮定そのものの正しさをその仮定から証明できるか?」を考察しました。
ゲーデルは、それが不可能であることを証明しました(ゲーデルの第一不完全性定理)。
この定理は、当初ペアノ算術におけるω無矛盾性が証明不可能として確立されましたが、後にロッサーの証明ではペアノ算術における単純無矛盾性、シェファードソンの表現定理により任意のΣ1集合で構成される任意の論理式に対して無矛盾性の証明が不可能であることまで拡張されました。
5.哲学の限界と科学の重要性(1920年代~)
1920年代以降、哲学的な仮定の正しさを論理的に証明する方法は存在しないことが明らかになりました。
アイディアの正しさを決める方法は、現実との比較(実験)しかありません。
つまり、正しさを決める方法は科学しかあり得ないことがわかります。 これらの出来事により、20世紀初頭から哲学は大きな転換期を迎えました。1902年のラッセルのパラドックス発見以降、哲学者を名乗った時点で不勉強な無知または詐欺師であることは確定しており、賢い哲学者というのは論理的に存在不可能であるとされています。
ウィトゲンシュタインの主要な著作である1921年の「論理哲学論考」では、哲学は論理学の誤用から生まれた無意味な妄想であると論じ、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」と結論付けています。
また、1953年に出版された「哲学探究」では、哲学は言葉の使い方の誤りから生じる妄想であるため、その誤りを防止するために言語の誤用を研究する必要があると主張しています。
1931年のゲーデルの不完全性定理は、ある仮定の正しさをその仮定から導くことは不可能であることを証明しました。
一方、哲学はある仮定の正しさをその仮定から導くことができるという妄想に基づいています。 ヘーゲルの「経験」とは「何であるか」は問えない。これはポモでもスペンサーの「合目的」批判で対置させられている。また、ヘーゲルの博学は東洋思想を批判し、学問に入れなかった 弁証法はラッセルのパラドックスを解決できないので全て無意味
仏教哲学もラッセルのパラドックスを解決できないので全て無意味 何がどう無意味なのか分からん
「全て無意味」では何かを説明したことにはなってないだろう >>893
ラッセルのパラドックスが矛盾になってしまう体系では自己言及するだけで「矛盾」を作れてしまう
しかし実際にはラッセルの論理学が解決したように矛盾ではない
すると本来は矛盾ではないものを矛盾であるという誤った仮定を自動的に置いていることになる
「矛盾ではないもの=矛盾している」という前提が成り立っているということは矛盾が常に仮定されている
すると爆発律が成立してしまう
爆発律とは矛盾からはあらゆることが証明出来るというもので
矛盾が前提にあるならばどんな事柄も真にも偽にも証明出来てしまう
つまりそのような体系で導いた結論は意味がないということ
それゆえにラッセルのパラドックスを回避する仕組みを持たない体系で結論したことには意味がない ラッセルのパラドックスは、ある集合が自分自身を含むかどうかという自己言及から生じる矛盾です。このパラドックスが発生する論理体系では、自己言及によって簡単に矛盾を作り出すことができてしまいます。
しかし、実際にはラッセルが開発した新しい論理学によって、このパラドックスは解決されました。つまり、ラッセルのパラドックスは本来矛盾ではないのです。
問題は、ラッセルのパラドックスが矛盾を引き起こす論理体系では、本来矛盾ではないものを自動的に矛盾していると仮定してしまうことです。この「矛盾ではないもの=矛盾している」という誤った前提が常に存在していることになります。
この誤った前提が存在すると、爆発律という原理が成立してしまいます。爆発律とは、矛盾から任意の結論を導き出せるという原理です。つまり、矛盾を前提とすれば、どんなことでも真とも偽とも証明できてしまうのです。
そのため、ラッセルのパラドックスを引き起こす論理体系で導かれた結論は、意味がないということになります。矛盾を前提としているため、導かれた結論が真であるのか偽であるのか判断できないからです。
したがって、ラッセルのパラドックスを回避する仕組みを持たない論理体系で得られた結論は、信頼性に欠けると言えます。ラッセルが開発した新しい論理学のように、矛盾を回避する仕組みを備えた論理体系を使用することが重要なのです。 そもそも「弁証法」が分からない、定義して ね。批判対象を理解することは大事だから。
それと「仏教哲学」をどういうものだと考えているのか?こちらも定義してくれないと。
あと「解決できない」とはどういう状態なんだろう。どうなったら「解決する」のかを定義してくれないと。もっとロジカルにいこう >>894
ごめんよくわからない
「矛盾ではないもの=矛盾している」の例示とかできる? >>896
ラッセルのパラドックスを回避するメカニズムがない時点で終わりなので
それ以上知る必要など無い >>897
>>>894
>ごめんよくわからない
>「矛盾ではないもの=矛盾している」の例示とかできる?
哲学は全て妄想
「しかし物が何処どこまでも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり」
ここがラッセルのパラドックスそのもの
「物」を集合
「物理的空間」を集合「物」の集合である集合族とすれば
集合族「物理的空間」の元である「物」同士の相互作用は「物」に対して働くので「働く物というものがなくなる」という主張は妄想
ブルバキ公理的集合論流に言えば集合族とその元である集合は異なるオブジェクトなので何も矛盾しない
矛盾しないので「現実というものがなくなることである」というのはラッセルのパラドックスを理解してない無知の妄想
無知の妄想で虚偽であることを成立すると仮定したのでここで爆発律が成立
それ以降の妄想は爆発律によりどんな無意味なデタラメでも正当化可能になり論理的に全く意味が無い
これに10秒で気付けないなら知能が無い
西田幾多郎 絶対矛盾的自己同一
現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。
しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。
例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処どこまでも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。
現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。 >>895
「矛盾を前提とすればどんなことでも真とも偽とも証明できる」
これが意味がわからない、どうしてそうなるのだろう? >>900
Ex falso quodlibetがなぜ成り立つのかを、命題論理の観点から証明します。
証明:
命題論理において、矛盾を表す式は「p ∧ ¬p」のように表されます。ここで、pは任意の命題を表します。
前提: p ∧ ¬p(矛盾が成立している)
証明したい式: p ∧ ¬p → q(qは任意の命題)
証明には、以下の定理を使用します。
含意の導入則: (p ∧ q) → p
ディスジャンクションの導入則: p → (p ∨ q)
ディスジャンクションのシルロジズム: (p ∨ q) ∧ ¬p → q
証明の手順:
p ∧ ¬p(前提)
p(1より、含意の導入則を使用)
p ∨ q(2より、ディスジャンクションの導入則を使用)
¬p(1より、含意の導入則を使用)
q(3と4より、ディスジャンクションのシルロジズムを使用)
以上の手順により、p ∧ ¬p → qが証明されました。これは、矛盾(p ∧ ¬p)から任意の命題(q)が導かれることを示しています。
したがって、Ex falso quodlibetは命題論理の公理と推論規則に基づいて成り立つことが証明されました。この証明から、矛盾を含む前提から出発すると、論理的に正しい手順を踏んでいても、任意の結論を導くことができてしまうことがわかります。 仏教哲学や宗教って如何に自分は生きるべきかって価値観を含んだ人間の生き方を常に対象にしてきたものだと思うが、そのラッセルの考えというのは人の価値観や生き方を問題の対象として扱えるものなの? >>901
>>>899
>何がいいたいのかよくわからない。
ほとんどの哲学は自己言及パラドックスを矛盾であると指摘することにより爆発律を成立させている
ゲーデル不完全性定理に違反する「仮定から仮定の正しさを導く」ことをやっている以上
どこかに論理学の違反がある
その違反のほとんどはラッセルのパラドックスと等価なものがどこかに隠れていてすぐに探すことが出来る
どんな哲学を持ってきてもほぼ確実にこれが見つかる >>903
論理的にそのようなことは決定不可能
実験して確かめるしか扱う方法はない
確かめてないのに主張してるのは妄想か詐欺 >>905
主張しないまでも価値観を堅持して判断して行動してるわけでしょ?
科学的に実証できる事実があるはずだというのは価値観ですよね?それを堅持してるから実験するという行動があるわけで、それって科学的な事実を信仰してるというわけではないの? >>906
それと同じだが
矛盾が発生するのは実は論理学の方が間違ってるからというのが重要
そのような矛盾が発生しないように論理学は作り変えられており
「そのようなAはそもそも集合ではないから前提がおかしい」とできる
仏教哲学や弁証法にそのような仕組みがあるかといえば
見るまでもなくあるわけがない >>909
>>>907
>証明されてないなら妄想
>単にそれだけ
そして証明する方法は現実との比較しかあり得ない
思いつきをこねくり回しても証明は不可能(ゲーデル不完全性定理) >>910
>>>909
>>>>907
>>証明されてないなら妄想
>>単にそれだけ
>
>そして証明する方法は現実との比較しかあり得ない
>思いつきをこねくり回しても証明は不可能(ゲーデル不完全性定理)
そのような証明の方法を科学と呼ぶだけ
信仰ではなく論理学がそれしか許さない >>908
自身を要素として含まない集合全体の集合を仮定したときに生じる矛盾だから
それを仮定しない論理学で学問をするべきだということだろうか?
つまり例えば自身を要素として含むような集合全体の集合を仮定するものは矛盾しないからOKってこと? >>911
>そのような証明の方法を科学と呼ぶだけ
その価値観を自分自身において証明しているのが仏教や宗教と呼ばれているだけじゃないでしょうか。 >>913
書き込めないのかどうか知らないけど私見を書こうか。
まず「弁証法」についての誤解。フィヒテの弁証法やヘーゲルの弁証法、キルケゴールの弁証法…それぞれはどれも「自己産出」を許容する。だから弁証法の論理がパラドックスを引き起こす論理学を前提にしているわけではない。
そして「仏教哲学」への誤解。確かに、「無我」という言葉は「自己の中に自己を要素として含まない」という意味ならば先のパラドックスは生じるものになるだろう。ただ無我は関係論からとらえられ"も"する。前提の論理学が変更されうる。だから一面的には無意味なものになるかもしれないが、そのパラドックス自体が仏教全体で見れば仏教の利益になる言葉になるだろう。 >>914
自分自身において?
それゲーデル不完全性定理が禁止してる >>915
パラドックスを禁止していないから「自己算出」できてしまう
それが弁証法 >>913
>>>908
>自身を要素として含まない集合全体の集合を仮定したときに生じる矛盾だから
>それを仮定しない論理学で学問をするべきだということだろうか?
>つまり例えば自身を要素として含むような集合全体の集合を仮定するものは矛盾しないからOKってこと?
そうではない
「自分自身を含む何か」と「自分自身」を明確に区別すればパラドックスは起こらない
ある仮定からその仮定の正しさを証明することはゲーデルの不完全性定理により不可能だとわかっているのだから
その不可能なことをやっているならどこかに論理の違反がある
その違反のほとんどはパラドックスを引き起こして爆発律を成立させた上で「証明」する手口
このパターンはほぼ全ての哲学で広範に見られる >>915
> 「無我」という言葉は「自己の中に自己を要素として含まない」
仏教哲学や仏教世界のどこで、そんなことが言われるんだ?
デタラメはやめろ >>916
ゲーデル不完全性定理が禁止しようがその理屈に関係なく人は生きることができます。科学の分野においては必要なことなのかもしれませんがあくまで科学を信奉する人たちにとって必要性のある教義ということなのでしょう。
人間の生きる場面というのは様々ですからそれぞれの場で必要とされるものが違うと言うことだけだと思います。 >>920
意味のない妄想
論理でないのなら妄想でしかない >>918
外側と内側の自分の区別か。「自分」が欠ければ、それが内側の自分・外側の自分を問わず、集合全体の存在が不可能になりそうだ。
片方が無くなればもう片方も無くなる。
内の自分に外の自分の情報が、外の自分に内側の自分の情報がある。内と外の区別はあるようで無いような区別だ。 >>920-922
そういう話に社会的必要性があるのなら、そういうスレを立ててやれ ああ、すみませんでした
自分の方はもう失礼しますから。ではでは >>923
哲学は全て妄想なので社会的に必要無いどころか有害 ギリシア哲学とインド哲学はどちらが古い?
・ギリシア最古の哲学者といわれるのはタレス(前624年頃-前546年頃)
・インド最古層の哲学者の一人は、ヨーガ哲学の祖、ヤージュニャヴァルキヤ(前750頃-前700頃)
<タレス>
“ホメロスもまた、タレスと同様エジプト人から学んで、水が万物の元のものであり、根源であると想定した(プルタルコス)”
“ミレトスのタレスが、こうした事柄を最初に探求した人であるが、彼は、水が諸物の元のものであり、また知性たる神が見ずから万物を作り出す、と述べた”(キケロ)
― 『ソクラテス以前哲学者断片集 第1分冊』 内山勝利 編、岩波書店 (1998) p149、157
<ヤージュニャヴァルキヤ>
否定神学(Aは〜ではないという形の指示)的表現「そうではない、そうではない(neti-neti ネティ・ネティ)」は、
真理の至上性と非限定性を表わすと共に、一切の名称(ナーマ nāma)と形態(ルーパ rūpa)から離れる内観の道を示し、仏教への道を開いたとも考えられている。
“さて、それから「そうではない、そうではない」という置き換え・代用(ādeśa)がある。
なぜなら、この"そうではない"と異なる、それのかなたにあるものは存在しないからである。
それゆえに、それの名称は真理の真理である。”(「ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド」2:3:6)
― 『ウパニシャッド 翻訳および解説』 湯田豊 訳、大東出版社 (2000) p46 >>886
『英国の仏教発見』 フィリップ・C.アーモンド、法藏館 (2021)
最近邦訳された『英国の仏教発見』では、
19世紀まで東洋では自覚されることのなかった仏教の全体像が、
西洋の人たちの熱意と努力によって浮き彫りにされていく過程が克明に描かれており、
仏教の発生史がよく分かるものとなっている。
この時期の英国に留学し、マックス・ミューラー(1823-1900)のもとで
日本人として初めてサンスクリット語と仏典研究を学んだ南条文雄(1849-1927)は、
日本の第一期目の文学博士となった。 >>235
最古の宗教学
“いま、地球上に現存していてしかも実際に観察できる宗教の中で、
最も古代的な形態を残している宗教というのは何かというと、
それはオーストラリア・アボリジニの宗教です。
人類はまずアフリカを出て、ペルシャ湾を海岸沿いに移動し、インドへ入り、
そして、アンダマン諸島とかアイランダ島なんかのインド洋の島々から、
いろんなところへ広がっていきました。
エリアーデにしても、エミール・デュルケム(Emile Durkheim)にしても、宗教学を勉強する人は、
オーストラリアの先住民の宗教を研究するというのを出発点としていたわけです。
僕が、とりわけ強い印象を受けたのは、(略)
大長老になると、遠くへ一人で出かけて行って、岩の上に座って、青空をずっと見ている。
これが、アボリジニの世界の大知識人の一つの生き方なんだということです。
そうしたことが、エルキン(Adolphus Peter Elkin)という人の本なんかに書いてある。”
― 中沢新一×河合俊雄 『ジオサイコロジー:聖地の層構造とこころの古層』 創元社 (2022) p24-28 >>681
4世紀頃までは、法身と応身に相当する二身説が先行していて、
その後、それらを統一した報身が立てられるようになったというから、
一神教だとこうなるか。
法身仏
・父なる神
応身仏
・モーセ
報身仏
・イエス
レヴィナスは、「キリストのケノーシス」と「モーセのアナワー(謙遜)」の重ねる(『超越と知解可能性』p75-78)。
“モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。”
― 『旧約聖書』 「民数記」 12:3 如来イエス。
「超在一神的汎神教」の山崎弁栄とか、
『如是説法ツァラトゥストラー』の登張竹風とかが正しかった。 >>928
ヴェーダなどインドの宗教や文化の基礎を構築したのはアーリヤ人だが、
ヨーガや瞑想は、古代インド先住民であるドラヴィダ系の文化に始まったものであると言われる。
アーリヤ人がインドに移住してきたのは紀元前1700年頃。
それ以前のものとなるインダス文明の遺跡モヘンジョダロ(現在のパキスタン)からは、
紀元前2350年-紀元前2000年頃に作られた 結跏趺坐(けっかふざ)を組む「原(プロト)シヴァ神」の印章が発掘されている。
https://i.imgur.com/G43CJgg.jpeg
・『ブリタニカ国際大百科事典18』「ヨーガ」 TBSブリタニカ (1995)
・『仏教瞑想論』 蓑輪顕量、春秋社 (2008)
・『ヨーガの思想』 山下博司、講談社 (2009)
・『仏教とヨーガ』 保坂俊司、東京書籍 (2004) 南インドやスリランカなどに多いトラヴィダ語は、
日本語や朝鮮語と同じウラル=アルタイ語族。
以下が詳しい。
現地では、「しめ縄」や「門松」、「鏡餅」、「どんど焼き」の原型とみられるものも見つかっている。
・大野晋『日本語はどこからきたのか:ことばと文明のつながりを考える』 中央公論新社 (1999)
・大野晋『弥生文明と南インド』 岩波書店 (2004) 専門家になるには、その分野の本を3冊読めばよいという人がいる。
いや、10冊だ、30冊だ、いや100冊読まねば・・だとかまびすしい。
実際は、何冊読んでも専門家になれん奴はなれん。 何年もこの板に張り付いて、
とぼけた顔で論理学や数学や語源など、無意味な書き込みをしている奴らは、
政治目的でスレ流しをしているから相手にしないように。 何年もこの板に張り付いて、
とぼけた顔で論理学や数学や語源など、無意味な書き込みをしている奴らは、
政治目的でスレ流しをしているから相手にしないように。 仏教は無限を説明できない
カントールからフレーゲを読め ラッセルのパラドックスは、ある集合が自分自身を含むかどうかという自己言及から生じる矛盾です。このパラドックスが発生する論理体系では、自己言及によって簡単に矛盾を作り出すことができてしまいます。
しかし、実際にはラッセルが開発した新しい論理学によって、このパラドックスは解決されました。つまり、ラッセルのパラドックスは本来矛盾ではないのです。
問題は、ラッセルのパラドックスが矛盾を引き起こす論理体系では、本来矛盾ではないものを自動的に矛盾していると仮定してしまうことです。この「矛盾ではないもの=矛盾している」という誤った前提が常に存在していることになります。
この誤った前提が存在すると、爆発律という原理が成立してしまいます。爆発律とは、矛盾から任意の結論を導き出せるという原理です。つまり、矛盾を前提とすれば、どんなことでも真とも偽とも証明できてしまうのです。
そのため、ラッセルのパラドックスを引き起こす論理体系で導かれた結論は、意味がないということになります。矛盾を前提としているため、導かれた結論が真であるのか偽であるのか判断できないからです。
したがって、ラッセルのパラドックスを回避する仕組みを持たない論理体系で得られた結論は、信頼性に欠けると言えます。ラッセルが開発した新しい論理学のように、矛盾を回避する仕組みを備えた論理体系を使用することが重要なのです。 つまり仏教哲学はデタラメで無意味
ラノベ以下の妄想 苦しまない生き方をしようと、仏教哲学では考えます。
四苦八苦に人は苦しみます。
また、日常的に経験することの多い四つの苦しみ(「愛別離苦」、「怨憎会苦」、「求不得苦」、「五蘊盛苦」)が加わったものは四苦八苦と呼ばれています。これは悩みや苦しみを感じることを意味する言葉「四苦八苦」の語源となっています。
こうした苦しみを経験しない方法があります。
苦しまない、苦しまない、とひたすら信じるのです。
苦しまないと知れば、しめたもの。苦しむことは無いでしょう! 苦しんで産んだという喜び☺
仏教には理解できない領域と論理 この世は地獄である。
完全な地獄である。
アーメン。 >>938
原始仏教では、ブッダが以下のように形而上学を禁止した。(このことは「空」の理解と表裏一体をなす)
その中に「無限」の考察も含まれている。
“これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。
すなわち――世界は永遠であるとか、世界は永遠でないとか、
世界は有限であるとか、世界は無限であるとか、
生命と身体は同一なものであるとか、生命と身体は別個なものであるとか、
人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか、
人は死後存在しながらしかも存在しないのであるとか、
人は死後存在するのでもなく存在しないのでもないとかいう、
これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。”
― 「毒矢のたとえ」 『世界の名著 1 バラモン教典、原始仏典 』 長尾雅人編、中央公論社 (1969) p473
大乗仏教の時代に出てきた、現代に通じる複雑な数学モデルをまとめているのは、
中沢新一『レンマ学』講談社(2019)が詳しく、
メイヤスーやユヴァル・ノア・ハラリ世代への解答にもなっている。
宗教の世界で有名な「無限」は、ユダヤ教の「エン・ソフ Ein Sof」。
カントールもユダヤ人。 >>928
ユダヤ哲学の始まり
“最初のユダヤ教の哲学者は、起源一世紀の前半に生きた、アレクサンドリアのフィロンである。(略)
彼はユダヤ人の伝統にほとんど、もしくは何ら影響をおよぼさなかったようであり、
彼の著作が生き残ったのは、キリスト教の写字者が写本したためである。
フィロンのあと、ユダヤ教の哲学は数世紀のあいだ沈黙していたが、
九世紀、イスラム教のカラーム(スコラ神学)の文脈のなかで再浮上した。(略)
イラクのスラにあるユダヤ教学院のガオン(学院長)であったサアディア(882-942)である。”
― 『ユダヤ教入門』 ニコラス・デ・ラーンジュ、 柄谷凛 訳、岩波書店 (2022) p234-235
柄谷凛は柄谷行人のパートナー。
聖書を書いた古代ユダヤ人は宗教の民で、哲学は忌避していた。 >>938
数字の「0」を使い始めたのは誰か知っているのか?
仏教の「空」は、インドでは「梵:śūnyatā シューニャター、巴:suññatā スンニャター」というが、
数字の「0」も同じ言葉の形容詞形で言い表された。
「ピタゴラスの定理」と「無限」と「0」の内、どれが一番多く使われている?
グローバル企業のプログラマとかもインド人が多いだろ。
IT系が強いのも、ラマヌジャンのようなタイプの数学者も南インド。 >>938
『無の本:ゼロ、真空、宇宙の起源』 ジョン・D・バロウ、青土社 (2013)
この本では、古代ギリシャ以来の哲学、数学、物理から(一部例外を除く)中世の神学に至るまで、
西洋の人々がいかに「無」や「空」の概念をタブー視し、
思考から慎重に排除してきたのかが、様々な例を挙げて説明がなされている。 英米のインド・パキスタン系リーダー
・サディク・カーン(ロンドン市長、労働党)(パキスタン、イスラム)2016-
・カマラ・ハリス(米副大統領、民主党)(タミル系)2021-
・リシ・スナク(英国首相、保守党)(バラモン)2022-
・ニッキー・ヘイリー(米大統領候補、共和党)(インド、パンジャーブ系)2023-
・ヴィヴェック・ラマスワミ(米大統領候補、共和党)(タミル系、バラモン)2023-
・ハムザ・ユーサフ(スコットランド首相・国民党)(パキスタン、イスラム)2023- 鈴木大拙が指摘した「金剛般若経」の「即非の論理」は、
西洋流の論理学の矛盾律を否定するものであろうか?
「否定してはいない」とする者もいるが、決定的ではない。
「非」と「否」の違いはなにか? 「即非の論理」 鈴木大拙の誤りという題でもう少しで閉鎖するサイトがあります。
即非の論理」は間違っていると言いたいのでしょう。 >>954
以下引用
――――――
非科学的‐科学的に非ず(あらず)
非人間的‐人間的にあらず
否定‐打ち消す
否決‐議案を承認しない。
否認‐認めない
不運‐運がない。不幸‐幸せではない。
不親切‐親切ではない。
無神経‐気配りが足りない。
無人‐人がいない。
無料‐料金が不要なこと。
無期‐期限が決められていないこと。
ということです。
非‐〜にあらず という意味。
否‐打ち消すこと、〜ではない。
不‐〜ではない。
無‐ないこと。
見分け方は、普段から言葉を知ろうとする気持ちを持ち、例えば 勉強の否定形なら、非勉強、不勉強、無勉強、否勉強
とか付けてみます。聞いたことがあるなら、辞書で調べます。(不勉強)あったらその都度覚えていかれたらいいと思います。 >>956
上から目線の割に、キレのないレスです。
調べるだけで、自分で考えないからでしょう。
畢竟、「非」と「否」の違いはなんなのか、
例えば、ベン図などを使って説明してください。 >>954
そんな日ユ同祖論みたいなこじつけ持ってこられてもなww >>962
アカデミック界隈でも議論されていることですよ。 >>963
議論自体に意味がない
なぜなら当てはまらない無数の例外を無視してる空想だから
言語学なんかその良い例
実はChatGPTなどの大規模言語モデルには言語学を一切使ってない
なぜかというと言語学が主張する知識を使ったAIの試みは全て例外なく失敗したから
なぜ失敗したかというと現実には言語学の「知識」が全く当てはまらない例外の方が多数で
全く役に立たないどころか嘘だらけなので性能が出ない
つまり例外を無視してつまみ食いして「議論」することで学者が飯を食えるってだけ
アカデミックな議論など全く意味がない
確実に例外なく当てはまる証拠
のみに意味がある
つまり言語学も日ユ同祖論も即非の論理とやらも同じ
意味がないつまみ食い >>964
壮大に論点ずらしをしている。
言語学なんて話してない。形式論理学を話している。
>つまり言語学も日ユ同祖論も即非の論理とやらも同じ
この「つまり」は、つまりになってないよ。
ドッ散らかってるまま。せめて筋道を通した思考をして。 >>965
論点は「アカデミックな議論」など全く意味がないということ
全文全文字について例外がないことの証明が無ければ日ユ同祖論と同レベル >966
>全文全文字について例外がないことの証明が無ければ・・
こんな極端なことを言ってしまうのは情緒不安定。落ち着いて。
証明に至るまでには様々な議論が必要だ、と穏健なことを言ってみる・・。 >>967
いや全文字のパターンなんて正規表現でチェックできるんで
全文字で例外がないことは余裕で可能だよ
やったら嘘がバレるからやらないだけ >>968
なんの「全文字」に対してチェックするんですか? >>954
あれは般若経典のレトリックであって論理ではないだろ >>970
ならば、レトリックを削いだら、どういう表現になるの?
>>971
「存在する全文献」は知り得ない。
しかも文書は、未来に続々と生成されてゆく。 >>972
未来とかどうでもいい
発見された全文献に適用すればいいだけの話 >>973
「悪魔の証明」の類。
>>974
そんな証明はない。粗雑なアタマ。 >>975
悪魔の証明ではない
発見された文献は有限で全テキストのチェックはコンピューターなら0.01秒で終わる レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。