仏教哲学総合スレ8
仏(説)は意味があるのみならず、意味を伝えている、無いことが有るのではなく、ただ無いと言えるために「示し」を求める道を作るとする、偶像を否定したプロテスタントのように。 >>677
中村元三千大世界大先生の説とは違いますねぇ……
却下 >>676
今までに読んだ文献の中にはなかったけど、
三身で説明するのが分かりやすいね。
仏教と一神教に共通のフレームワークだし。
https://kouunji.or.jp/buddhism_lecture/understand/3988/
第一の法身仏とは、この宇宙をなりたたせ、すべての生類を仏たらしめる絶対原理で、時間、空間を超越してどこにもあまねく存在する大日如来のような汎神教的仏である。
第二の応身仏とは、絶対原理が人格化されてこの世に現われ、再びもとの仏土に還るところから化身とも呼ばれ、釈迦のように悟って覚者となった者を指し、わが国では、この仏土に還るという考えから、死者が成仏することを仏(ほとけ)になったという多神教的仏である。
第三の報身仏とは、宇宙の絶対原理と人格身が合体したもので、阿弥陀如来のように永遠な真理の生きた姿であらわれる一神教的仏である。
このように仏教では、どの仏に重点をおくかによっていろいろな仏を汎神教的とも、多神教的とも、一神教的とも解釈できる。 >>666-667
“単に超越的に自己満足的なる神は真の神ではなからう。
一面に又何処までもケノシス的でなければならない。
何処までも超越的なると共に何処までも内在的、
何処までも内在的なると共に何処までも超越的なる神こそ、
真に弁証法的なる神であらう。”
― 西田幾多郎 「場所的論理と宗教的世界観」 『西田幾多郎全集10』 岩波書店 (2004) p317
“神の子としてのキリストは、本質的にまた根本的に自己を空ずるもの、
あるいは自己を否定するものである――この根本的本性のゆえに、
神の子はすなわちキリスト、メシヤ(救世主)なのである。
神の子が自己を空ずる過程を通して人間になったのではない。
神の子は根本的に、自己を空ずるという動的な御業、働きの中で、
同時に真の人間でありかつ真の神であるのである”
― 阿部正雄 「自己を空ずる神と動的な空」 『世界のなかの日本の哲学』 藤田正勝、ブレット・デービス、昭和堂 (2005) p227
“(トマス・)アルタイザーは、京都学派こそが、仏教的な洞察を用いて、
キリスト教の忘れられた核としてのケノーシス的な空の神を再発見したのだと考える。”
― ブレット・デービス 「神はどこまで自己を空ずるか:阿部正雄のケノーシス論をめぐる議論」 『世界のなかの日本の哲学』 藤田正勝、ブレット・デービス、昭和堂 (2005) p253 何で仏教哲学スレにニーチェが言ってるから正しいみたいたアホが湧いてるんだ
西洋哲学とキリスト教関連は他でやれ >>670
仏教がニーチェに否定されたからって何なの?バカなの? >>681
成仏することを仏になったという・・
頭痛が痛いみたいなw 仏教はこの世を穏やかに過ごす精神衛生学であるとニーチェは評価解釈した
端的にそう見做した
宗教信者的な肯定否定の論争では無い
哲学者ショペンハウアーの解釈した仏教からだが アンチクリストで、ニーチェの矛先は模倣の信者に向けられた。仏教徒にも向くかもしれない >>685,690
お前ら『アンチクリスト>>314』は読んだことあるのか?
最晩年だぞ。 哲学の右も左も分からない
中卒のマルクス信者だろうが 仏教哲学スレでマルクス信者とか言われても困っちゃうんじゃないか?w いつもこのスレを荒らしているのは
・マルクス信者(マルクスも読めない)
・統一教会
政治目的でやっている。
ニーチェなんて、5chで一番名前の挙がる哲学者で、
誰も自分では読んでいないし、
仏教も哲学も知らない奴らを相手にする必要はない。 マルクスの弁証法のどこが問題か解るだろうか
まぁ、それは置いておいて、『善悪の彼岸』も『アンチクリスト』も蔵書だが、ニーチェの書には『誰でも読めるが誰にも読まれない書』と銘打ってある。信仰批判は解釈批判であって、
仏教が賞揚された時、大乗の文脈が読まれるか 大乗仏教とりわけ般若経典を信仰批判とか批判理論と解釈している向きがいるが
甚だしい誤解である
ナーガールジュナの中論も熱い信仰告白の書であって、あの本の主眼は部派批判や実体論批判ではない 中論の冒頭に「不生の縁起を説いた仏陀に帰依する」と書いてあるが、その不生の縁起という摩訶不思議な教えを説いているのが、ほかならぬ般若経典である
中論は般若経典への信仰告白であって哲学書ではない >>696
> 『善悪の彼岸』も『アンチクリスト』も蔵書だが、
> ニーチェの書には『誰でも読めるが誰にも読まれない書』と銘打ってある。信仰批判は解釈批判であって、
ニーチェの言葉が一言も読まれていない。
>>697-698
たわいもない話。
本の冒頭だけ読んで、読んだ気になっている人が多い。 マルクス=エンゲルスと仏教
“弁証法的思考は――まさにそれが概念そのものの本性の研究を前提としているがゆえに――人間にだけ可能である。
そして人間にとっても、それは比較的高い発展段階(仏教徒とギリシア人たち)ではじめて可能となり、
またさらにずっとあとに近代哲学によってその十分な発展を見るのである”
― エンゲルス 「自然の弁証法」 『マルクス=エンゲルス全集 20』 大月書店 (1968) p531 ヘーゲル/マルクスの様に、
有に根差して互いに止揚と超越を目指す類の弁証法が衝突しているのが、
今のイスラエル・パレスチナ戦争。
一方で、仏教は「無(空)」との弁証法>>682。 >>699
『無畏註』を読めばいかに中論が般若経典を根拠にしているかがハッキリ分かる
梵文に目を通さず、現代語訳された全偈を読み流すだけで理解せず、あまつさえ注釈書すら参照せずに何か分かった気になっているだけの仏教読書人が多すぎる 「仏教について」レヴィ=ストロース
“この偉大な不知の宗教は、われわれが理解するということの不具性の上に築かれていない。”
“この大宗教は――マルキシズムとこの宗教だけが――形而上学の問題を人間の行為の問題に還元した。”
― レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯 下』 「40 チャウンを訪ねて」 川田順造訳、中央公論新社 (1977) p353-354 西洋文明に対し、未開社会や仏教を評価し相対化してくれたことはありがたいが、
以下を読むと、レヴィ=ストロースも人の子で、単なる遠交近攻となっている点には注意すべき。 “人間は大きな宗教的試みをした。およそ五百年の間隔で隔てられて、
人間は仏教、キリスト教、それからイスラムを次々に考案した。
そして、各々の段階が、前者との関係での進歩を記すどころか、むしろ後退を示しているのは驚くべきことだ。”
― レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯 下』 「40 チャウンを訪ねて」 川田順造訳、中央公論新社 (1977) p347-348 『苦』の解釈を行わない点がニーチェの評価であり、バラモン教を含む点では原始仏教の理解なのだろう。空海伝説に観られるような『嘘』の教学で『知』が発展した東洋ではないようだ 生臭い坊主が愚かな民衆向けにカスタマイズしていったんよ 民は苦、ゆえに坊主は楽という支配の構図
これが仏教という宗教 >>716
地元八王子のの各宗派のお坊さんらはベンツですよ☺かっこいいんよね セブンのおにぎりで済ませたらどんな顔すんかな🤔🫱🍙🫲👨🏻🦲 >>709
かわいそうに
怠け者のレヴィ=ストロースは神学大全を読んだことがないんだろうな お坊さんらは仏教は日本に来て進化し完成したと言うね お坊さんらは仏教は日本に来て進化し完成したと言うね 空海や道元は所謂天才だったかも知れんけど、親鸞や日蓮はクズだし・・
その天才にしても上には龍樹がいるし 統一教会がカトリックの『神学大全』を読めというかね? >>696
>ニーチェの書には『誰でも読めるが誰にも読まれない書』と銘打ってある
『誰でも読めるが誰にも読まれない書』の仏教版といえば『正法眼蔵』だな
過去の禅師の語録を元にしていることだけは分かるのだが本当に何を言ってるのか分からない
多分、道元自身も自分が何を言っているのか理解してなかっただろう
その点、空海の教えは難解だが理解できないわけではない。言いたいことは分かる
龍樹も分かる
道元だけは何を言いたいのか本当に理解できない