意識のハードプロブレムの答え41
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1の考え。
客観はある種の主観である。
脳神経系を含む客体は主観を精緻に表現=代表したものである。
他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側に存在する。
他者の意識と呼ばれるものは他者の声である。
それを他者の意識のように思うのは主体にとって声は極めて意識的であるからである。
あらゆる主観は客観化可能である。
例えば、クオリアは立ち止まりとして客観化可能である。
根源では主/客の関係は消失する。
例えば、どこかで雷が鳴ったとする。
その雷は独立性の高い形式での私である。
語り得ないことは語り得ないと語り得る。
無は無い。
意識のハードプロブレムの答え40
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1707010817/ 主観世界に外側は無く、内側に不可知なエリアとしての空がある。
その空の表面が情報。と、ここまではよいのだが、観測ってなんだと考え中。
なにを観測して情報を得ているのか。主観のブートスラップ探し。
と、書きかけのまま昨日は寝てしまった。 「主観世界に外側はない」とは、単なる建前に過ぎない。
主観世界に住むものも、外側を意識せずにはいられない。
でなければ主観世界が成立しないのだ。
主観世界は、本質的に外側の世界を前提としていることを知るべき。 観測する、ということは「もつれ」ることである。
もつれは、情報が減っている。減った情報はどこへいくのか。
1bitの粒子が、他の1bit粒子を観測する、とは、接触してもつれるということだ。
それぞれ独立しているので全体として2bitの情報があるのだが、
もつれると2粒子なのに1bit分の情報しかない。消えた1bit分の情報はどこへいったのか。
(注:これは量子ビットであり、古典ビットに換算している) 我々は見る。我々は嗅ぐ。我々は体験する。
これは専ら内的なこととも、外界との相互作用ともとれる。
どちらで考えるのが生産的か? というか、どちらのほうが面白いか?
後者だろう。 2つの変数をまとめて考えたとき、あり得る状態の数が、
各変数のあり得る状態の数の積より少ないとき、
その2つの変数は「相対情報」を持っていると言える。 そんなマイナすなカード防衛省でなくても願い下げだろ >>96
「実在は確かに有る」と1が思うことは誰にも否定することができないんだ何故ならそれは「思う」だからだ
>無は無いですから、捉えることもできないです。捉えているように感じるのは、気のせいだと考えます
「無は無い」という言葉で表現しているがその無の否定を行っている時点で無という「存在」があることは>>86の「何故なら「無」という主観は「感じる」または「感じさせてくれる」ものがない場合に主客どうであれ「感じる」がないからだ」で説明してある
「有る」の否定のための「無い」は「有る」が前提になる
具体例を挙げるなら俺が「チリにjantar山は無い」というとしようこの場合に「jantar山」は「無い」とするなら何故「無い」と言えるのか?
俺なら「jantar山というものが何か分からない」と答えるが>>1は「無い」と答えるのか?
知り得ないものについて「分からない」と答えることはできるが「無い」という事はできないんだよ
つまり1は「無」について「捉えているように感じる」という「感じが有る」のでなければ「無い」と言えないがその説明として「気のせい」では1の「思う」であってその言葉は何も説明していない
「思う」分には自由だがそれは説明になっていない
では何故「無は無い」と言うのか? >>108
jantarって言葉はポルトガル語で夕食って意味だそうだ
「無」と言う言葉はあまりにも身近に感じるから適当な言葉を使ってみただけでjantar山なる「存在」は一応Googleマップでチリ国上で検索してヒットしないことは確認してある
では「無」と「jantar山」の違いは? 現在の「科学的知識」の範囲では、我々のすべての活動は脳によるものだ。
「現実」とは「脳による現実」だ。「客観」も「脳による客観」だ。
我々が見ている、あるいは体験している「世界」は、脳の産物だ。 「現実」は存在しない。それは脳の産物で「現実」という「幻覚」に過ぎない。
我々が脳で思考している以上、その制約は免れようもない。
我々が得られる「真理」は、高々「脳による真理」に過ぎない。 >>110
ナンセンス!
そんなもん「脳」と言おうがクソと言おうがなんと言おうが同じだよ。お前の言う科学的知識なるものは、その脳の外からやって来たもんじゃねーのか?そうじゃねーなら科学なんてもんは成り立たない!科学とはそう言うもんだよ!そうじゃねーと言うなら、そんなもん、お前の小さな頭の中の妄想だろうと、それを宇宙や世界全体に拡大しようが、どちらもクソだ!
わかるか?わかんねーなら、哲学なんてやめてお前のクソみたいに小さな脳とやらの中に引きこもってればいーよ。 >>112
残念ながら、ヒトは「小さな脳とやらの中に引きこもって」いる生き物だ。
我々は脳の外には出られない。どんな「真理」も「脳によれば」という制約を免れ得ない。
デカルトが「我思うゆえに我あり」と言おうと、それは脳の産物。 脳はとても頼りない。とても世界を理解できるタマとは思えない。
その脳で何を考えようと、真理は得られまい。
ただ、自分をあまり疑わない性向が、かろうじて自尊心を保てている。 >>113
そう思ってるなら、それでよろしい!そこに引きこもってなさいよ!私はソクラテスほどにすら優しくはないから。君はそこでいなさいよ。そこにはわかりやすい孤独すらないから笑。君はそれを理解すらできないだろうし、何も語らずただいればいいんだよ。たぶん無理だろうけどね。 ヒトは脳の外には出られない。
釈迦が涅槃を説こうと、それは脳の産物。脳の外に出ない。
イエスが神を説こうと、イエスがヒトである限り、脳の外に出ない。
そして、イエスがヒトでなく神であったなどとは、この頼りない脳でも
バカバカしくて信じられない。 >>115
幼稚な夢想に浸って大口を叩いても虚しいばかり。
その大言壮語も脳の産物。そして、その脳は近頃のコンピュータより劣る。 >>116
ほら、無理じゃん!なぜ?ありもしない外に出て来ようとする?そこには、何も無いよ!無駄だ!
うん、私はソクラテス程度には、優しいかもしれん。。。 >>118
馬鹿な漫才をやってるんじゃないから、知性を見せよ。
あんたのレスは、なんの知性も感じられない。ただ反応してるだけ。 >>119
馬鹿?漫才?一体それはどこにあるんだ?なぜ、外に出ようとする?それはどこにあるの?
それとも君は、君一人で、ただ馬鹿な漫才を、やってるのかな?確かに、それは馬鹿なのだろうと君以外の私は思うかもしれないが… >>121
うん、その通りだ!どうにも、君の言う脳とやらでは捉えきれていないアホくさい何事かが我々の外にありそうだ。それはなんだ?それをどうしたらいいんた?そのように、考えるのが科学だよ。
でも、脳というのは、その科学的知識というものの産物だね。ということは、君の言うソレのそもそも外にあるものなんだよ。
君のいうソレはもっとグチャグチャで何が内側で何が外側にあるのかすらわからない、境界すらあやふやな全くわけのわからないものなんだよ。ソレがなんなのかすら実のところ我々は何一つですらわかっていない、どうにもならんもんなんだよ。 うーん。もしかすると私はソクラテスよりも優しいかもしれない笑笑 「脳の産物」、どういうことだろう。
目や鼻や口や皮膚や内臓や骨は脳さえあればいらないのかな。というかそれら抜きで「脳によれば」なんてとてもとても。
そもそも脳だけでどうやって言葉を覚えればいいのだろうか。言葉があるのだって現実で労働する様々な器官のおかげでもあるのに、脳がまるで自分の力だけで手に入れたように見せかけるのは変な話だ。
自分の使っている言葉は脳が脳以外の器官と協力することで手に入れたものとすら知らないのだろう。私なら恥ずかしくて脳を称揚するかのような話は出来ないが。 治安の良さも飯の甘さも経済力も、日本の成果は全て東京のおかげだ、という烏滸がましさに似ているな。 >>108
だから、その無は有ると感じることは気のせいで、例えば富士山は無いという文章は、富士山を想起させてしまうが、それは気のせいのようなものだということです 富士山は確かに有るから、丸い四角とかの方がたとえとして良かったかもしれない 無と架空の山の違いか。面白い問題だな。
架空の山は架空のものとして物語上にしか存在しないだろう。ただ物語上にしかないものの模型が現実にあるとき、その模型は架空の山の「象徴」としてある。
架空の山の模型はプラスチックでどこかの工場で製造されたものだろう。だが人はそのプラスチックの模型の中に思いを馳せる。架空の山jantarに。模型の奥にあるものを見る。無数のプラスチックの山が製造されるだろうが、そのどれもが象徴的存在jantar山である。プラスチックの山は物語通りにjantar山として現実にある訳では無い。
しかし現実のプラスチックの山が土台になることでその奥に象徴的存在が見える。
無と架空の山の違いはその「存在構造」から異なっていそうである。後者は現実の土台の奥にあるものであるからだ。 意識のハードプロブレムは無意味な問題なのにまだ続けるのか >>128
我々の想像は架空の山を超えないだろうと思ったり 想像も模型も何かを象徴することはあってもその何かと同じであるということはない。プラスチックの山を見てこれは南米チリにある山では"ない"といくらでも言いうる。そんなことは当然である。jantar山の物語を知らない外国人が見たらそれはただのプラスチックである。しかし物語を知っている人間には象徴するものを認識することができる。
そもそも「象徴」というのはそのものではないのにそのものであるように見る矛盾した認識である。象徴の認識があるから物語上の存在を知ることが出来る 想像や模型が指示するものが実在することはあると思う >>133
架空の存在の想像・模型の「実物」がないという保証はないがあるという保証もない。議論しても意味がない。それは探すことでしか明らかにできないことだ。 >>134
保証はないけれど、仮定してもいいと思うんだ。私はそれを確かな存在と呼んでいる むむむ、宇宙の構造がわかったと書き込みしたのだが、書き込めない。 ま、いいや、とりあえず、量子宇宙の構造がわかった。どうやってこれを計算するか、だ。 膨大な(量子ネットワーク上の)テンソル計算を簡略化する方法が急務だ。
基本は複素数で、a,bとすれば、|a|^2+|b|^2=1が基本になる。これが1粒子(量子)だ。
通常は縦ベクトルだが、横に書く。粒子A=(a,b),量子B=(c,d)とすれば、このテンソルが、
2粒子の世界である。2粒子の場合の観測とは、2粒子の世界を(なんらかの)量子ゲートに通すことである。
そうすると、2粒子の世界があらたな2粒子の世界に変形される。
量子ゲートはユニタリなので可逆であり、情報は保存される。(エネルギーは保存される) >>126
>だから、その無は有ると感じることは気のせいで、例えば富士山は無いという文章は、富士山を想起させてしまうが、それは気のせいのようなものだということです
この「富士山」は「丸い四角」に置き換えた上で質問するんだが「丸い四角」は何を想起している?
「丸い四角」という言葉はその対象を示すという言葉や想起するという言葉で説明ができないためにナンセンスな言葉であると言われるがそうなると「無は有ると感じることは気のせいで」の主張である「無は無い」の「無」もナンセンスとなってしまう
「気のせい」はその反対の主張が事が可能だがナンセンスはその文が成立していないという意味を持つということは理解してもらえると思う
この主張は1の「無は無い」はその主語がナンセンスであるのに何故か述語として「無い」という言葉が使われていることが何も説明されていない事になる
「気のせい」である以上その「今は間違ってると主張するがかつて思っていたもの」があることになる
これが>>108で書いてある「「有る」の否定のための「無い」は「有る」」だ
俺のこの回答には断定として「〜になる」と書いてあるがこれは今のところ「俺が想定する限りの反論に説明ができると思う」の主張だ
これは「〜になる」という肯定の主張であってナンセンスではないだろう?
「「〜になる」とはどういう意味で主張しているのか?」などで問う事ができるからだ
では今は「気のせい」だと思ったその「無」は何かを教えてもらえないだろうか? もし俺のレスが>>1を責めているように感じてしまっているのであれば申し訳ないそういう意図はないんだ
「まともに話してもどうせこいつは理解できない」というような相手であれば共感も配慮もして説明するがここはそうじゃないと俺は思っているから思ったままでレスをしてる
「語調が強い」については受け手の問題なのでそう感じるようであれば俺にはどうにもできないことだからすまないが自身で何とかしてくれ >>128
「無」と「架空の山」の違いだがどちらも思うことで可能だ
例えばファンタジーでも架空の山が出てくるがそこに人は「思いを馳せる」んだ
つまり何かを「思う」ということをしているんだ
この場合はどちらも「説明できない」という点で同じだし「有る」という点でも同じだ
>無と架空の山の違いはその「存在構造」から異なっていそうである。後者は現実の土台の奥にあるものであるからだ。
俺が理解しきれたとは言えないがおそらくそういう意味合いで捉えてもらえればと思う
言葉を借りればここで前者も現実の土台に乗せない限り語ることができないということだ
あとjantar山はたまたま夕飯後にスレを見ていたことと日本人に馴染みのない欧州の言語で話者が少なそうだということと距離的に南米なら可使用されている可能性が低いだろうということで作った言葉でそれ以上の意味はない
安直に作ってしまって今は少しばかり恥ずかしさを感じてるが架空の山の例などの説明として使用できるようであれば使ってくれ 1粒子はブロッホ球であらわされる。2粒子であっても、|ac|^2+|ad|^2+|bc|^2+|bd|^2=1なので球面だ。
無限大に近い球面となると記述できないのでたいへんだw
しかし、たくさんの粒子も1粒子の変形である。基本的に2次元球面上に記述可能だ。
4Kディスプレイを買ってきたが、パソコンにはつながず、HDDレコーダーからアップコンバートして
4K表示しているが、きれいだ。
1粒子世界をひねって多粒子世界にしたとき、解像度はあがるが、エネルギー的には内部に反世界を
抱え込んでいればZEROエネルギーで済むだろう。 意識計算のやりかたとしては、円の方程式だ。x^2+y^2=r^2(とりあえず、a,bは0とする)。
r^2は存在確率1なので必ず1だ。実際にはx,yではなく(波なので)複素数となるため、絶対値の二乗をとる。
コインを考えると、表のでる確率と裏のでる確率をそれぞれ1/2とすれば、1/2+1/2=1になる。
まず、1qbitの観測者と観測対象の1qbitの量子コインを1qbitの世界の中につくりだせなくてはならない。
世界としての1qbitを(a,b)とし、観測者を(c,d)、観測対象を(e,f)としたとき...
ええっと、テンソル積の記号がみつからない...省略しよう。
ともかく、(a,b)=(c,d)(e,f)である。(a,b)=(ce,cf,de,df)である。
このイコールを成り立たせるには...なんらかの技が必要だw 意識を対象化して考察する時点で道を誤っている。
それを知らず対象化してあれこれ捏ね回す様は滑稽だ。
まずは認識形式を徹底的に考察せねばならないのに。観測問題と言ってもいいが。 ああ、書き込めなかったときに書いたやつで説明してたんだが、なぜ書き込めなかったのか不明。
いま思考実験しているのが観測問題。観測するためには、ひとつの量子ネットワーク上に、
観測者と観測対象がなければならない。最初からつながっていなければならない。 むむむ、また書けなくなった。cookie削除。なにがいけないのか。やっていることの説明ができんw ま、なにかがひっかかって書き込めないのだが、あれやこれやと思考実験したうえで、
意識という量子計算を考えているw なぜか説明しようとしている内容がエラーになるw
おそらく正解なのだろうw >>143
ならば「無」も「架空の山」も全てが物語的な象徴的存在だと言えるだろう。だとするならば、その違いは言葉そのものにあるのではなくて、それらの登場人物が"どう使われるか"であろう。つまり無と架空のjantar山は異なる言葉の使用法を持つというだけだ。 ともかく、書き込めなくなったら、5chのcookieだけを削除すれば復帰するようだ。
いま呼んでいるのがブルーバックスの宇宙と物質の起源。
以下、書き込めないので削除。 は! ☓呼んでいる ○読んでいる。
なにかを呼んでいる(召喚しようとしている)のが書き込めなくなる原因か?w でこすけ氏が書き込めなくなるのも、正解にたどり着くためのなにかを召喚してしまうような内容だからなのではないだろうかw >>141
例えば、丸い四角という言葉で球面上の四角を想像してしまう。人は無を想像してしまうんだ 自分は「無」と「丸い四角」は物語的な使用法の観点から明らかに別物だと思っているが「丸い四角」や他には「日本の大統領」などが良いか…それらは使用法が定まっていない。
これらの違いもあるだろう。「丸い四角」はどの世界線でもありえないが、「日本の大統領」は他の世界ではあり得たかもしれない。大統領制度を日本はこれまで採用し得たしこれからも採用しうるからだ。この点でまだ区別できる。
前者を絶対的に不可能な言葉、後者は偶然的に可能な言葉だ。 続き>>156
「無」に「丸い四角」を併記するか「無」に「日本の大統領」を併記するかでその質は異なる。つまり想像される「無」の内容は均一ではないということである。 続き>>157
想像される「無」とはまさしく「無でしかありえない無」か「有としてあり得たかもしれない無」の違いである。無に対する期待が含まれているかどうかである。いずれの「無」が「無である」のかは私の議論ではないから知らないが、そこは物語の力によるだけであろう 無は無いとは「無は無でしかない」か「無は有としてあり得たかもしれない」である 我々の内なる世界で生成した言葉を
外の世界へ紡ぎ出そうともがくとき
我々の知覚感覚は「それ」を感じる
一縷の隙も見逃すまいと鏡に向かう
鋭く熱い眼差しに導かれて https://100years-company.jp/column/article-000649/
「働か」ないから、「働く」がない時代を前に、チュシャ猫の働きは活発になっていくのではないか。そして意味を与える過不足が生じる 無は無ゆえに無いのであって、語られた無は有る。
さて、
(a,b)=(ce,cf,de,df)を解決しないと意識や観測にはたどり着けない。
これはなにかといえば、卵割あるいは細胞分裂である。
量子としての(a,b)の前段階として(@)があるかもしれない。これは卵だ。
量子の卵は混沌であり、量子である(a,b)は対称性の破れである。
まさか、と思うが、量子にもDNAがあったりするかもw チェシャ猫だったな。ミャーオ、無限に木霊す
と、ここで量子論と哲学の距離について云えば
重力場を捉える認知空間の是非
つまり、ゼロ学習における意味
これを抜きにできないのである! 量子の卵(@)を想定すると、遺伝子も必要そうだが、タンパク質を合成するわけでもないので
当面見送り。
対称性(というか、最初は混沌で)が破れて(a,b)に成るとすれば、
そこにあるのは回転(変化)であって、混沌の一部が結合して核にならねばならない。
|@|^2=1
@が複素数とすれば、これは1次元球面だ。進行すれば波となる。定常波と考えてもよいだろう。
^2が必要かどうかわからないが、形式的につけておく。
混沌を究極の秩序と考えるなら、これは○とあらわされるだろう。
この○が∞になれば量子だ。ねじれるイメージ。○は位相なので位相がねじれる?
分裂の原因はゆらぎか? 量子の卵をaの前だからと@にしたのだが、○→@→∞と考える。@が象徴的だ。
○にしっぽがついてもうひとつの円になる。 無は無い、という説は少し考えてみるとよい。なるほど、という感嘆をもたらす説である。
無という空間地帯は無であるが故にどこにも存在しない、つまり無い。
あらゆる意味で、とあるが、すべてにおいて無の所存を認めないということであろう。 (@)=(@a,@b)=(@aa@ab,@aa@bb,@ba@ab,@ba@bb)=...
やっと2粒子系ができた。
この2粒子をなんらかの量子ゲートに通すともつれたりもつれなかったりする2粒子が得られる。
必ずもつれる、というわけではなく、もつれない場合もある。
量子ゲートとは、この場合、回転であるが、外側に基準があるわけではないので、
観測者側となる粒子を基準とする天動説的な回転であるw
つまり、観測とは、「天動説」(的)なものだ。逆コペ転か? あるもないもおまえの頭の中の条件次第だろアホw
ある意味とか一種のとか変な往生際発揮しててめえの頭の中を反転させることを習慣化してホントの論理を得られなくなるw そう考えていくと、
主観的とは天動説的なものであり、
客観的とは地動説的なものなのかもしれない。
問題は客観世界を得るとき、太陽に類似するものが無いということ。
その位置に「神」など置かれてはたまったものではないw
仮想的な「太陽」をどこに置くかで客観世界も主観に引きずられるだろう。
共同幻想としての仮想的太陽によって、客観世界が定まる。
仮想的太陽が十分に重ければ楽なのだが、仮想的太陽は重さのようなものは持たない。 今夜月の見える丘に- - B'z
たとえば どうにかして 君の中 ああ 入っていってその瞳から僕をのぞいたらいろんなことちょっとはわかるかも 「俺はよく見た」「武田は、そりゃそうだろう。何度も来ているんだから。当たり前だ。しかし、俺は今日がはじめてだからな。もう少し見たいよ」「長く見たって同じだぞ。帰ろう。ほかに行く」(『富士日記』武田百合子) 詩(し、うた、英: poetry, poem; 仏: poésie, poème; 独: Gedicht)は、言語の表面的な意味だけではなく美学的・喚起的な性質を用いて表現される文学の一形式である。
クオリアは表面しかない、量子に性質がない。 ISがイスラエルもアメリカも標的にしたことがないというのはたんなる事実。
現在の標的はロシアとロシアが支援するシリアに対してだけだ。
だから、イスラエルのガザジェノサイドに対してすら、まったく無反応だ。 (@)=(@a,@b)=(@aa@ab,@aa@bb,@ba@ab,@ba@bb)=...
ここから2粒子取り出すには、
(@aa@ab+@aa@bb,@ba@ab+@ba@bb),(@aa@ab+@ba@ab,@aa@bb+@ba@bb) これはもつれない。
(@aa@ab+@aa@bb,@ba@bb+@ba@ab),(@aa@ab+@ba@bb,@aa@bb+@ba@ab) これはもつれる。
ああ、めんどくさい。 この履歴を持った記法は、めんどくさいけれども、
DNAっぽいものができそうな気配はある。 >>151
そういうことになる
「無」を想像してみようとやってみたがどうしても空間が出てきてしまいうまくいかなかった
「無」はどのように想像してそれを否定しているのかが分からない >>155
「丸い四角」の場合まず丸いという事から円や球を想像するがその後に四角を適用しようとして俺の想像のそれら全てが「四角」という言葉が適用できず想像ができないから「丸い四角」はナンセンスだと言っているんだ
「丸い四角」は俺には想像ができなかったが「無を想像してしまうんだ」ということは想像ができたということだな?
ではそれを説明してくれ >>164
1がそう思うのはいいんだ俺はそれを説明をしてくれと言っているんだ 球体表面上に書こうとする四角は四角じゃない無理だ
だから無だってことでしょ だからおまえらがあるとかないとかどうでもいい話だろw
好きに思っとけw
けどそれがおまえらの証明の何の根拠にもならんのだアホw >>192
勿論、丸い四角は無の例として出した。私たちは、いや私は、球面上の四角など、無であっても想像してしまうということ だからおまえが、おまえらがあるとかないとか
どうでもいい話だろw好きに思っとけw
けどそれがおまえらの証明のなんの根拠にも
ならんのだアホwと言ってる以上>>193君
の論拠を存分に書き込んでからアホと言おうよ
まだ君も私もアホなんだからw >>194
無と無理な想像は違うということが
分ってはいても、混乱していて
無を論理的に定義できないんだろうね。 >>194
つまり「無は無い」というのは「(想像上の)無は(どれも本物の無ではない。だから)無い」ということか。 >>198
なら>1は次からそれに書き換わるのだろう
しかし「真の無」が分からないな。きっと「真の無」は形が無いのだろう? 想像上の無は、想像を試みられるが、それは成功しないということかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています