意識のハードプロブレムの答え41
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1の考え。 客観はある種の主観である。 脳神経系を含む客体は主観を精緻に表現=代表したものである。 他者の意識は存在しない。 仮に存在すれば、それは主体の意識の内側に存在する。 他者の意識と呼ばれるものは他者の声である。 それを他者の意識のように思うのは主体にとって声は極めて意識的であるからである。 あらゆる主観は客観化可能である。 例えば、クオリアは立ち止まりとして客観化可能である。 根源では主/客の関係は消失する。 例えば、どこかで雷が鳴ったとする。 その雷は独立性の高い形式での私である。 語り得ないことは語り得ないと語り得る。 無は無い。 意識のハードプロブレムの答え40 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1707010817/ One is an inalienable value that matches. 現在の理論物理学者では「実在はない」が多数派だろう。 >>50 以下は引用です。 「世界は『関係』でできている」カルロ・ロヴェッリ p192 このとき意味があるのは、自分たちがすでに知っていることを確認するための入力ではなく、 自分たちの予測に反する入力なのである。 第10回「講義4 目を見て会話すると脳が働く コミュニケーションと脳の活性化」(川島隆太 氏 / 東北大学 加齢医学研究所 教授) https://scienceportal.jst.go.jp/explore/interview/20060808_01/ 私たちの脳というのは、実は、コミュニケーションを巧みに行うことで前頭前野が発達してきたのではないかとという仮説があります。 我々人間のコミュニケーションというのは非常に多彩なコミュニケーションが可能で、 たとえば言語を使った詳細な情報のコミュニケーション、これは我々人間だけにできる方法です。 ~略~ 他者との会話の中で脳を活性化させるには、目を合わせて会話をすることが有効だと実験でわかりました。 相手の仕種からもたくさん情報が入ってくるからだろうと考えています。 またこれもほんとに偶然の発見なんですが、小さなお子さんに脳機能計測を試みたことがありますが、 保護者の方と話している時には左右の前頭前野は大いに活性化するんですが、 その子が知らない人と話をさせると左の前頭前野が少し働くだけだというデータも出てきています。 これも前頭前野のコミュニケーションに関する左右の機能差で説明がつきますが、 おそらく自分がよく知った人からは相手の仕種等々からたくさんの情報をつかむことができる。 でも社会経験等の少ないお子さんですと、知らない人との間にはどうコミュニケーションをとっていいかわからない。 だから言葉だけの表面的なコミュニケーションになってしまって、左の脳しか使ってないのかもしれないという仮説が見えてまいります。 引用終わり。 以上の説を加味すると、 対世界の事象のなかで特に「自分たちの予測に反する入力」にあたるものは、 人間の反応である、という仮説が成り立つのではないかと思います。 人間の反応こそ、自身の感覚器官が作り出すイメージ(想定)との差異を生むのではないかと。 以下は引用です。 3.人類種(ホモ属)におけるホモ・サピエンスの位置づけ https://www.sp-network.co.jp/column-report/column/spneye/candr20081.html 今から約7万年前、ホモ・サピエンスに何が起きたのでしょうか。 ほとんどの研究者は、「認知革命」によって、新しい思考と意思疎通の方法を獲得したと考えています。 「認知革命」が起きた原因はまだ解明されていませんが、最も広く信じられている説は、 遺伝子の突然変異により、ホモ・サピエンスの脳内の配線が変わり、 まったく新しい種類の言語を使って意思疎通をすることが可能になったというものです。 誤解のないように補足をすると、言語は人類種だけのものではありません。 類人猿やサルの全種、クジラ、ゾウ、イルカなどの哺乳類だけでなく、オウムなどの鳥類、ミツバチやアリなどの昆虫も言語を持っています。 「認知革命」後のホモ・サピエンスが使う言語は何が特別かと言うと、驚異的な柔軟性を持っている点です。 他の生物たちは言語によって、「気をつけろ!ライオンだ!」などと天敵の存在を周囲の仲間に知らせることはできますが、 自分が直接見聞きしていないことを語ることはできません。 対照的に、ホモ・サピエンスは、「あの人はライオンを見たらしい」と噂(うわさ)し、「ライオンは我が部族の守護霊だ」と虚構を語ることもできます。 これこそが、ホモ・サピエンスが迅速に振舞いを変えながら、巨大な集団を形成し、 数の力で他の人類種(ネアンデルタール人のように一対一で戦ったら到底勝てない相手)を圧倒することができた要因です。 引用終わり。 上記の『「認知革命」が起きた原因』に」ついては、また引用ですが、 サルの発声から見るヒトの言語の起源 https://www.brh.co.jp/publication/journal/102/rp/research01/ 「発話」について、いくつかの「要素」の進化を述べた。 一つは、喉の形状の変化によって多彩な音の生成が可能となったこと。 次に発声を自由に操作する“運動随意性”の獲得である。 もう一つは、発話に関する表情運動について。 サルの発声動作と直接関係のない表情動作に、ヒトの「発話」との共通性が数多く観測された点だ。 引用終わり。上記の説が近いのかな、と思います。 >>72 の一つ目のサイトに 「噂(うわさ)」と「虚構」を得たホモ・サピエンス、とあります。 「あの人はライオンを見たらしい」 これが他の人類種を圧倒することができた要因だということらしいです。 以下は引用です。 言語コミュニティは、自己記述的な条件に特化している。それはこんな質問をする :昨日は何をしましたか? 今は何をしていますか? 明日は何をしますか? なぜそんなことをしたんですか? ほんとうにそんなことをしたいんですか? それについてはどう思いますか? その答えは、人々がお互いに効果的に調整できるようにする。 そしてこうした質問が交わされるからこそ、人は自分や自分の行動に対して、 知るとか自覚するとかという特別な形で対応するのだ。 言語コミュニティの助けがなければ、あらゆる行動は無意識となる。 意識は社会の産物だ。 意識は自律的な人間の独壇場ではないだけでなく、 孤立した人間には手の届かないものなのだ。 「自由と尊厳を超えて」バラス・スキナー p247 「あの人はライオンを見たらしい」 これが通用する動物は、すでに条件反射だけでは行動していないことになります。 つまり現実世界の事象に対する反応の他に自身の行動を変化させる術を身につけているということです。 実際にライオンが目の前にいなくても、架空のライオンについてイメージできる、ということはそれまではなかったことだったはずです。 以下は引用です。 すなわち言語で重要なことはどこまでもひろがってゆく知覚と運動の相互作用である。 そのような作用は、意味の詰まったシンボルを積極的につくりだすだけでなく、 シンボルを(あるいは、そのシンボルが暗示する事態を)いつでも自由に利用できるように、 いわば事件を、もう一度、集中的におこして見せるわけである。 この「意向」が、発生運動のなかでつらぬかれるかぎり、直接シンボルを(つまり聞こえてくる音を)つくりだす。 それは、おりかえして、すぐ物の側からひびいてくる。だから、われわれは自分自身を感じると同時に、事態を耳で聞くわけである。 物との、このようなコミュニケーションはきわめて創造的である。 なぜならそれは、本当らしく感じられる世界の内容を、実際に増大させるからである。 この世界は、われわれの努力をまったく必要としない、ほとんど負担の軽減された世界である。 それが実際に増大するけれども、ふたたび集約され、圧縮されることによって、 明確で簡単なシンボルに変わる。それは、もう、ある面では、作用そのものである。 これは人間のつくりだした傑作品、すなわち、知覚されたものをもっとも簡単に利用することのできるような人間の位置づけと、 世界のシンボル化の最高地点に立つものである。 こうして(他に類型のない仕方で)知覚された物は、ことばを通じて、自分自身の行動を意識させるものになる。 「人間 その性質と世界の中の位置」 アーノルト・ゲーレン p41 >>69 おまえをアホにしたとあの日あの時の素粒子が笑っとるわアホw 元々アホっぽいけどなw 進化的な淘汰圧に耐えるには、「予測能力」が最重要だ。 これで危険を回避し、ベストを選択するチャンスが増える。 ヒトの知性は「予測能力」として発達したのだ。 そして「予測」には、「否定」や「反実仮想」機能が必要。 さらに「反実仮想」は、同時に「幻想」をも生みうる。 さらには脳内に「仮想世界」を構築するまでに至った。 かくて、ヒトは「外界」と「内界」の二つの世界を持つことになった。 「外界」と「内界」の一番の違いは何か? それは、「内界」には「私」が組込まれているが、「外界」はそうでないということ。 ちなみに宗教は、外界に「神」を組込んで「私」との対応をつけようとする。 そして「意識のハードプロブレム」とは、実は、「内界に組込まれた私」の問題なのだ。 物理的生命体の根底には固有時間に関する概念が存在し、その本質は感覚器(群)を用いた観測行為にあり、これまでヒト文明では、凡そ2種類の時間に関する概念を意図せずして混合し「時間」と称し扱ってきた ひとつは、物理的生命体の主に体表に露出した感覚器(群)と個別対応して密に接する外部情報媒体(系外)が生命体(系内)にもたらされる前の時間概念(1)、 ひとつは、観測時点前後の感覚器を有する身体の個性や状態に概ね依存するであろう時間概念(2)、 (1)の特徴、観測者(系内)にはまだ届かないが、感覚器(群)にはすでにもたらされていること (2)の特徴、(1)の直後に感覚器(群)から観測者(系内)にもたらされ、起源を個別にもつ情報(1)の混合状態 説明(1) 地表に340m離れて立つ両者が互いの姿を目視しながら会話する場面では、相手の口元の表情変化を視覚情報(30万km/s・真空中)で見る、その約1秒後に相手の発話の冒頭部分を聴覚情報(340m/s・15℃空気中)で聞く、という順で会話が進行するが、ここでは各々の外部情報媒体(可視光・音波)に個別対応する感覚器(視覚・聴覚)が情報を捕捉した時点をしめす …(^^) 意識のハードプロブレムというのは、「認識している対象は認識されていなくても存在しているのか」という問題に関わります。 ただし「認識」というのがどのようなことなのかがそれ以前の問題です。 となると認識している主体がどのようにして成立したのかという問題にも関わるかもしれません。 これらの問題は検証できなさそうなところが特徴です。 私は認識の対象は存在していないということにしていました。 それは物質や物理学的空間が無いということで、例えば情報処理システムとしての脳は実在すると考えます。 物質としての富士山は存在しませんが、情報処理システムとしての富士山は、存在とは言いづらいけれども、漠然と「ある」とは言えるつもりです。 しかし一方で、物質としての富士山(幻想)がみんなで共有されている、という現実があります。 では、どのようにして共有されたのか、 そろそろ出勤時間なのでざっくり言うと、たぶん貨幣(共同幻想)の進化と同じプロセスであろうと、 ただしこれは栗本理論による貨幣の進化です。 うーんなんだろうなあ、物質としての富士山は存在しないかあ じゃあ近くに見える鉛筆や机はどうなの 現代人って他人を許せない人ばっかだよね そりゃ病むよ 些細なことでも憎悪を撒き散らしてばっかだもん >>52 >客観は実在世界、実在は繰り返しの経験で確立した確かな存在、だと考えています この部分の「繰り返しの経験」は主観の外側に「何か」がない限り主観に働きかけることはできるだろうか? 「客観」は何故私が経験として確立するほどまでに繰り返し私にその主観を与え続けるのか? 「それを感じる」のは主観だが「それを感じさせてくれる」ものは客観だ これは単に受け取り方の違いだけじゃないだろうか? ある側面では「客観は存在しない」とも言えるし又別のある側面では「客観は存在する」ともいえる 「有る」や「存在」はこの場合に「どの立ち位置でその「存在」という言葉を使うのか?」ということで変わる また否定を表現する言葉もそうだ「無は無い」はまず「私は無というものを感じる」そのうえでそれを否定する必要がある 何故なら「無」という主観は「感じる」または「感じさせてくれる」ものがない場合に主客どうであれ「感じる」がないからだ では「「無は無い」は「存在しない」」と言う言葉は主観であれ客観であれどのように説明が可能だろうか? ここまで書いてみたがどうだろうか「無は無い」は何をどのように説明しているか教えてもらえるとありがたい >>1 がこのように書いたものを俺がどのように受け取って返すことに使われたこれらの「言葉」は「意識のハードプロブレム」を問う人に俺や他のどの人であろうとも「問う人」に答えることができるのだろうか? >>86 補足だが「無は無い」は「無の存在」が定義されて初めて否定としてその言葉で説明しようとすることができる だが「無の存在」とは一体何か?この場合に「有る」や「存在」という言葉と表されているものと同様に扱うなら「無」は「存在」する必要がある そうでなければ「無」が何ら説明されていないため「無は無い」という主張そのものがナンセンスなものとなるからだ 繰り返して言うが「>>1 の主張」に批判しているのであって「>>1 を非難」してはいないという事を強調しておく こんなことを書かないといけないと俺が「感じる」のはそれだけ意識のハードプロブレムってやつが難しいと俺が「感じる」からなんだろうな 世界とは主観世界のことであり、存在とは主観世界での自己同一性を持つものである。 客観世界や実在というものがあるかどうかは主観的問題であるw 客観世界や実在というものも主観世界でのカテゴリーのひとつにすぎない。 >>88 解釈が間違っていたらごめんな >世界とは主観世界のことであり、存在とは主観世界での自己同一性を持つものである。 主観で感じるそれら全てを「世界」という言葉で>>88 が解して説明するためにその言葉を使うなら同意するが >客観世界や実在というものがあるかどうかは主観的問題であるw これは飛躍しすぎだこれは「主観」の側面で見た時の解釈であって俺が前に書いたように「何か」が主観に働きかけない限り主観はそれを主観として捉えることができないからだ 主観的問題の場合に問題になることが一つあるんだ「知るとは何か?」だ 「知る」が主観的問題の場合に何が問題になるかというとそれは「思う」とどのように「区別するか?」だ ここで出てきた言葉「区別」をどのように説明するかが問題になってくる 主観として?それは主観であって「説明」にならないんだ じゃあ説明ってなんだよってならないか? 哲学者の主張の変遷が「伝える行為としての言葉とは何か?」になってきているのは科学の限界で語られていることでご存じの通りだ 俺達がどのように「思う」かは「そう思う」という神に縋る行為で「俺達の生活の何にも使えない」ということになっていなかっただろうか? 実証科学が「役に立つ」ということ事以外でどのように説明されているかを>>88 はどのように考える? 主観世界に外側は無く、内側に不可知なエリアとしての空がある。 その空の表面が情報。と、ここまではよいのだが、観測ってなんだと考え中。 なにを観測して情報を得ているのか。主観のブートスラップ探し。 観測とは自分の中の空の抽斗(ひきだし)を前に引き出すようなことで、その空の抽斗に何か物を入れられるようにして自分の抽斗を戻すまでの行為のことだよ 栗本慎一郎の本によると、貨幣の起源は「たからもの」というか、「呪物」と表現されていた気もするんだけれども、えてしてそういったものは収集され、やがて交換されたりもする、そういった日常的な振るまいが市場経済の起源であろうということになっていたと私は理解しています。 例えば最近でいうと、私はよく知らんのだけれども、トレカなるものがあります。元々は子供の玩具だったと思うんだけど、よく知らんのだけれども、絵柄などによって価値(←これは幻想)が違ってくるらしく、つまり交換レートが生じるわけです。 例えば今でも子供たちはドングリを集めたりすることがあるようですが、このような傾向は何万年も前からあっただろうと考えられます。あるいはクリ1個にドングリ3個分の価値がついたりするようなことがあったかもしれないとか空想したりします。 で、例えばあるグループではビックリマンチョコのシールが流行っていて、別のグループではキン消し(キン肉マンの消しゴム)が流行っていたとします。しかし何かの拍子にビックリマンチョコのグループでもキン消しがもてはやされるようになることがあります。貨幣の統一です。 そしてそのようにして最後まで残った呪物が金(gold)であろうと、もちろん電子マネーまで進化しています。 体験世界は幻想なんだけれども、どのようにして共有されたのかというと、たぶん誰か一人が考えたものがみんなに広まったというようなかんじではなくて、同時多発したものがやがて統合されたんだと思うのです、 では統合されたのはいつなのかというと、精神の発生は微粒子の段階で起こると考える私としては、地球が誕生するはるか以前だと予想します。ひょっとしたらそれがビッグバン、あるいはインフレーションというのが統合の過程だったのかなとか空想しています。 >>93 ビッグバンとかインフレーションとか言われているものは、もちろん体験世界に現れているものであり、私に言わせれば幻想ということになります。 色盲の人にとっては世界がモノトーンであったり、そうでない人にとってはそうでなかったり、そのようにして何らかの現象が、私たちにはつまり相対的にビッグバンであったりインフレーションであったりするということです。 >>94 →私たちにはつまり相対的にビッグバンであったりインフレーションであったりとして現れるということです。 >>86 私は、実在は確かに有るという立場です。無に関しては、無は無いですから、捉えることもできないです。捉えているように感じるのは、気のせいだと考えます 対面する表現の難しさ、或いは伝達不能からくる表現不可能性を用いた伝達。在ることに附随する反面の「気がする」という評価の必然的可能性。現象が重なり「〜が」を形成する機序そのものの表現、非常な事態、非固定的な意味など、相対性を用いた表現は非現実的な主観である。つまり「〜だ」は「〜が」を疎外した上で 「が〜」を幻想の上に外部化する、と表現する >>97 ほう。「〜だ」に纏わるお話か。 「〜だ」は決定的な、あるいは「〜が」を補佐したりする働きかけだ。 もちろん「〜は」さえも補佐するだろう。その補佐したところで決定的になっているのである。 マルクスについてすら無知な詭弁家がマルクスごっこ君(笑)なんだから仕方ないよ(笑) まずもって、我々が意識するすべては、脳によって生成されたものであることを確認しよう。 我々の理解には、そもそもから根本的な制約が課せられているのだ。 主観世界に外側は無く、内側に不可知なエリアとしての空がある。 その空の表面が情報。と、ここまではよいのだが、観測ってなんだと考え中。 なにを観測して情報を得ているのか。主観のブートスラップ探し。 と、書きかけのまま昨日は寝てしまった。 「主観世界に外側はない」とは、単なる建前に過ぎない。 主観世界に住むものも、外側を意識せずにはいられない。 でなければ主観世界が成立しないのだ。 主観世界は、本質的に外側の世界を前提としていることを知るべき。 観測する、ということは「もつれ」ることである。 もつれは、情報が減っている。減った情報はどこへいくのか。 1bitの粒子が、他の1bit粒子を観測する、とは、接触してもつれるということだ。 それぞれ独立しているので全体として2bitの情報があるのだが、 もつれると2粒子なのに1bit分の情報しかない。消えた1bit分の情報はどこへいったのか。 (注:これは量子ビットであり、古典ビットに換算している) 我々は見る。我々は嗅ぐ。我々は体験する。 これは専ら内的なこととも、外界との相互作用ともとれる。 どちらで考えるのが生産的か? というか、どちらのほうが面白いか? 後者だろう。 2つの変数をまとめて考えたとき、あり得る状態の数が、 各変数のあり得る状態の数の積より少ないとき、 その2つの変数は「相対情報」を持っていると言える。 そんなマイナすなカード防衛省でなくても願い下げだろ >>96 「実在は確かに有る」と1が思うことは誰にも否定することができないんだ何故ならそれは「思う」だからだ >無は無いですから、捉えることもできないです。捉えているように感じるのは、気のせいだと考えます 「無は無い」という言葉で表現しているがその無の否定を行っている時点で無という「存在」があることは>>86 の「何故なら「無」という主観は「感じる」または「感じさせてくれる」ものがない場合に主客どうであれ「感じる」がないからだ」で説明してある 「有る」の否定のための「無い」は「有る」が前提になる 具体例を挙げるなら俺が「チリにjantar山は無い」というとしようこの場合に「jantar山」は「無い」とするなら何故「無い」と言えるのか? 俺なら「jantar山というものが何か分からない」と答えるが>>1 は「無い」と答えるのか? 知り得ないものについて「分からない」と答えることはできるが「無い」という事はできないんだよ つまり1は「無」について「捉えているように感じる」という「感じが有る」のでなければ「無い」と言えないがその説明として「気のせい」では1の「思う」であってその言葉は何も説明していない 「思う」分には自由だがそれは説明になっていない では何故「無は無い」と言うのか? >>108 jantarって言葉はポルトガル語で夕食って意味だそうだ 「無」と言う言葉はあまりにも身近に感じるから適当な言葉を使ってみただけでjantar山なる「存在」は一応Googleマップでチリ国上で検索してヒットしないことは確認してある では「無」と「jantar山」の違いは? 現在の「科学的知識」の範囲では、我々のすべての活動は脳によるものだ。 「現実」とは「脳による現実」だ。「客観」も「脳による客観」だ。 我々が見ている、あるいは体験している「世界」は、脳の産物だ。 「現実」は存在しない。それは脳の産物で「現実」という「幻覚」に過ぎない。 我々が脳で思考している以上、その制約は免れようもない。 我々が得られる「真理」は、高々「脳による真理」に過ぎない。 >>110 ナンセンス! そんなもん「脳」と言おうがクソと言おうがなんと言おうが同じだよ。お前の言う科学的知識なるものは、その脳の外からやって来たもんじゃねーのか?そうじゃねーなら科学なんてもんは成り立たない!科学とはそう言うもんだよ!そうじゃねーと言うなら、そんなもん、お前の小さな頭の中の妄想だろうと、それを宇宙や世界全体に拡大しようが、どちらもクソだ! わかるか?わかんねーなら、哲学なんてやめてお前のクソみたいに小さな脳とやらの中に引きこもってればいーよ。 >>112 残念ながら、ヒトは「小さな脳とやらの中に引きこもって」いる生き物だ。 我々は脳の外には出られない。どんな「真理」も「脳によれば」という制約を免れ得ない。 デカルトが「我思うゆえに我あり」と言おうと、それは脳の産物。 脳はとても頼りない。とても世界を理解できるタマとは思えない。 その脳で何を考えようと、真理は得られまい。 ただ、自分をあまり疑わない性向が、かろうじて自尊心を保てている。 >>113 そう思ってるなら、それでよろしい!そこに引きこもってなさいよ!私はソクラテスほどにすら優しくはないから。君はそこでいなさいよ。そこにはわかりやすい孤独すらないから笑。君はそれを理解すらできないだろうし、何も語らずただいればいいんだよ。たぶん無理だろうけどね。 ヒトは脳の外には出られない。 釈迦が涅槃を説こうと、それは脳の産物。脳の外に出ない。 イエスが神を説こうと、イエスがヒトである限り、脳の外に出ない。 そして、イエスがヒトでなく神であったなどとは、この頼りない脳でも バカバカしくて信じられない。 >>115 幼稚な夢想に浸って大口を叩いても虚しいばかり。 その大言壮語も脳の産物。そして、その脳は近頃のコンピュータより劣る。 >>116 ほら、無理じゃん!なぜ?ありもしない外に出て来ようとする?そこには、何も無いよ!無駄だ! うん、私はソクラテス程度には、優しいかもしれん。。。 >>118 馬鹿な漫才をやってるんじゃないから、知性を見せよ。 あんたのレスは、なんの知性も感じられない。ただ反応してるだけ。 >>119 馬鹿?漫才?一体それはどこにあるんだ?なぜ、外に出ようとする?それはどこにあるの? それとも君は、君一人で、ただ馬鹿な漫才を、やってるのかな?確かに、それは馬鹿なのだろうと君以外の私は思うかもしれないが… >>121 うん、その通りだ!どうにも、君の言う脳とやらでは捉えきれていないアホくさい何事かが我々の外にありそうだ。それはなんだ?それをどうしたらいいんた?そのように、考えるのが科学だよ。 でも、脳というのは、その科学的知識というものの産物だね。ということは、君の言うソレのそもそも外にあるものなんだよ。 君のいうソレはもっとグチャグチャで何が内側で何が外側にあるのかすらわからない、境界すらあやふやな全くわけのわからないものなんだよ。ソレがなんなのかすら実のところ我々は何一つですらわかっていない、どうにもならんもんなんだよ。 うーん。もしかすると私はソクラテスよりも優しいかもしれない笑笑 「脳の産物」、どういうことだろう。 目や鼻や口や皮膚や内臓や骨は脳さえあればいらないのかな。というかそれら抜きで「脳によれば」なんてとてもとても。 そもそも脳だけでどうやって言葉を覚えればいいのだろうか。言葉があるのだって現実で労働する様々な器官のおかげでもあるのに、脳がまるで自分の力だけで手に入れたように見せかけるのは変な話だ。 自分の使っている言葉は脳が脳以外の器官と協力することで手に入れたものとすら知らないのだろう。私なら恥ずかしくて脳を称揚するかのような話は出来ないが。 治安の良さも飯の甘さも経済力も、日本の成果は全て東京のおかげだ、という烏滸がましさに似ているな。 >>108 だから、その無は有ると感じることは気のせいで、例えば富士山は無いという文章は、富士山を想起させてしまうが、それは気のせいのようなものだということです 富士山は確かに有るから、丸い四角とかの方がたとえとして良かったかもしれない 無と架空の山の違いか。面白い問題だな。 架空の山は架空のものとして物語上にしか存在しないだろう。ただ物語上にしかないものの模型が現実にあるとき、その模型は架空の山の「象徴」としてある。 架空の山の模型はプラスチックでどこかの工場で製造されたものだろう。だが人はそのプラスチックの模型の中に思いを馳せる。架空の山jantarに。模型の奥にあるものを見る。無数のプラスチックの山が製造されるだろうが、そのどれもが象徴的存在jantar山である。プラスチックの山は物語通りにjantar山として現実にある訳では無い。 しかし現実のプラスチックの山が土台になることでその奥に象徴的存在が見える。 無と架空の山の違いはその「存在構造」から異なっていそうである。後者は現実の土台の奥にあるものであるからだ。 意識のハードプロブレムは無意味な問題なのにまだ続けるのか >>128 我々の想像は架空の山を超えないだろうと思ったり 想像も模型も何かを象徴することはあってもその何かと同じであるということはない。プラスチックの山を見てこれは南米チリにある山では"ない"といくらでも言いうる。そんなことは当然である。jantar山の物語を知らない外国人が見たらそれはただのプラスチックである。しかし物語を知っている人間には象徴するものを認識することができる。 そもそも「象徴」というのはそのものではないのにそのものであるように見る矛盾した認識である。象徴の認識があるから物語上の存在を知ることが出来る 想像や模型が指示するものが実在することはあると思う >>133 架空の存在の想像・模型の「実物」がないという保証はないがあるという保証もない。議論しても意味がない。それは探すことでしか明らかにできないことだ。 >>134 保証はないけれど、仮定してもいいと思うんだ。私はそれを確かな存在と呼んでいる むむむ、宇宙の構造がわかったと書き込みしたのだが、書き込めない。 ま、いいや、とりあえず、量子宇宙の構造がわかった。どうやってこれを計算するか、だ。 膨大な(量子ネットワーク上の)テンソル計算を簡略化する方法が急務だ。 基本は複素数で、a,bとすれば、|a|^2+|b|^2=1が基本になる。これが1粒子(量子)だ。 通常は縦ベクトルだが、横に書く。粒子A=(a,b),量子B=(c,d)とすれば、このテンソルが、 2粒子の世界である。2粒子の場合の観測とは、2粒子の世界を(なんらかの)量子ゲートに通すことである。 そうすると、2粒子の世界があらたな2粒子の世界に変形される。 量子ゲートはユニタリなので可逆であり、情報は保存される。(エネルギーは保存される) >>126 >だから、その無は有ると感じることは気のせいで、例えば富士山は無いという文章は、富士山を想起させてしまうが、それは気のせいのようなものだということです この「富士山」は「丸い四角」に置き換えた上で質問するんだが「丸い四角」は何を想起している? 「丸い四角」という言葉はその対象を示すという言葉や想起するという言葉で説明ができないためにナンセンスな言葉であると言われるがそうなると「無は有ると感じることは気のせいで」の主張である「無は無い」の「無」もナンセンスとなってしまう 「気のせい」はその反対の主張が事が可能だがナンセンスはその文が成立していないという意味を持つということは理解してもらえると思う この主張は1の「無は無い」はその主語がナンセンスであるのに何故か述語として「無い」という言葉が使われていることが何も説明されていない事になる 「気のせい」である以上その「今は間違ってると主張するがかつて思っていたもの」があることになる これが>>108 で書いてある「「有る」の否定のための「無い」は「有る」」だ 俺のこの回答には断定として「〜になる」と書いてあるがこれは今のところ「俺が想定する限りの反論に説明ができると思う」の主張だ これは「〜になる」という肯定の主張であってナンセンスではないだろう? 「「〜になる」とはどういう意味で主張しているのか?」などで問う事ができるからだ では今は「気のせい」だと思ったその「無」は何かを教えてもらえないだろうか? もし俺のレスが>>1 を責めているように感じてしまっているのであれば申し訳ないそういう意図はないんだ 「まともに話してもどうせこいつは理解できない」というような相手であれば共感も配慮もして説明するがここはそうじゃないと俺は思っているから思ったままでレスをしてる 「語調が強い」については受け手の問題なのでそう感じるようであれば俺にはどうにもできないことだからすまないが自身で何とかしてくれ >>128 「無」と「架空の山」の違いだがどちらも思うことで可能だ 例えばファンタジーでも架空の山が出てくるがそこに人は「思いを馳せる」んだ つまり何かを「思う」ということをしているんだ この場合はどちらも「説明できない」という点で同じだし「有る」という点でも同じだ >無と架空の山の違いはその「存在構造」から異なっていそうである。後者は現実の土台の奥にあるものであるからだ。 俺が理解しきれたとは言えないがおそらくそういう意味合いで捉えてもらえればと思う 言葉を借りればここで前者も現実の土台に乗せない限り語ることができないということだ あとjantar山はたまたま夕飯後にスレを見ていたことと日本人に馴染みのない欧州の言語で話者が少なそうだということと距離的に南米なら可使用されている可能性が低いだろうということで作った言葉でそれ以上の意味はない 安直に作ってしまって今は少しばかり恥ずかしさを感じてるが架空の山の例などの説明として使用できるようであれば使ってくれ 1粒子はブロッホ球であらわされる。2粒子であっても、|ac|^2+|ad|^2+|bc|^2+|bd|^2=1なので球面だ。 無限大に近い球面となると記述できないのでたいへんだw しかし、たくさんの粒子も1粒子の変形である。基本的に2次元球面上に記述可能だ。 4Kディスプレイを買ってきたが、パソコンにはつながず、HDDレコーダーからアップコンバートして 4K表示しているが、きれいだ。 1粒子世界をひねって多粒子世界にしたとき、解像度はあがるが、エネルギー的には内部に反世界を 抱え込んでいればZEROエネルギーで済むだろう。 意識計算のやりかたとしては、円の方程式だ。x^2+y^2=r^2(とりあえず、a,bは0とする)。 r^2は存在確率1なので必ず1だ。実際にはx,yではなく(波なので)複素数となるため、絶対値の二乗をとる。 コインを考えると、表のでる確率と裏のでる確率をそれぞれ1/2とすれば、1/2+1/2=1になる。 まず、1qbitの観測者と観測対象の1qbitの量子コインを1qbitの世界の中につくりだせなくてはならない。 世界としての1qbitを(a,b)とし、観測者を(c,d)、観測対象を(e,f)としたとき... ええっと、テンソル積の記号がみつからない...省略しよう。 ともかく、(a,b)=(c,d)(e,f)である。(a,b)=(ce,cf,de,df)である。 このイコールを成り立たせるには...なんらかの技が必要だw 意識を対象化して考察する時点で道を誤っている。 それを知らず対象化してあれこれ捏ね回す様は滑稽だ。 まずは認識形式を徹底的に考察せねばならないのに。観測問題と言ってもいいが。 ああ、書き込めなかったときに書いたやつで説明してたんだが、なぜ書き込めなかったのか不明。 いま思考実験しているのが観測問題。観測するためには、ひとつの量子ネットワーク上に、 観測者と観測対象がなければならない。最初からつながっていなければならない。 むむむ、また書けなくなった。cookie削除。なにがいけないのか。やっていることの説明ができんw ま、なにかがひっかかって書き込めないのだが、あれやこれやと思考実験したうえで、 意識という量子計算を考えているw なぜか説明しようとしている内容がエラーになるw おそらく正解なのだろうw >>143 ならば「無」も「架空の山」も全てが物語的な象徴的存在だと言えるだろう。だとするならば、その違いは言葉そのものにあるのではなくて、それらの登場人物が"どう使われるか"であろう。つまり無と架空のjantar山は異なる言葉の使用法を持つというだけだ。 ともかく、書き込めなくなったら、5chのcookieだけを削除すれば復帰するようだ。 いま呼んでいるのがブルーバックスの宇宙と物質の起源。 以下、書き込めないので削除。 は! ☓呼んでいる ○読んでいる。 なにかを呼んでいる(召喚しようとしている)のが書き込めなくなる原因か?w でこすけ氏が書き込めなくなるのも、正解にたどり着くためのなにかを召喚してしまうような内容だからなのではないだろうかw >>141 例えば、丸い四角という言葉で球面上の四角を想像してしまう。人は無を想像してしまうんだ 自分は「無」と「丸い四角」は物語的な使用法の観点から明らかに別物だと思っているが「丸い四角」や他には「日本の大統領」などが良いか…それらは使用法が定まっていない。 これらの違いもあるだろう。「丸い四角」はどの世界線でもありえないが、「日本の大統領」は他の世界ではあり得たかもしれない。大統領制度を日本はこれまで採用し得たしこれからも採用しうるからだ。この点でまだ区別できる。 前者を絶対的に不可能な言葉、後者は偶然的に可能な言葉だ。 続き>>156 「無」に「丸い四角」を併記するか「無」に「日本の大統領」を併記するかでその質は異なる。つまり想像される「無」の内容は均一ではないということである。 続き>>157 想像される「無」とはまさしく「無でしかありえない無」か「有としてあり得たかもしれない無」の違いである。無に対する期待が含まれているかどうかである。いずれの「無」が「無である」のかは私の議論ではないから知らないが、そこは物語の力によるだけであろう 無は無いとは「無は無でしかない」か「無は有としてあり得たかもしれない」である 我々の内なる世界で生成した言葉を 外の世界へ紡ぎ出そうともがくとき 我々の知覚感覚は「それ」を感じる 一縷の隙も見逃すまいと鏡に向かう 鋭く熱い眼差しに導かれて https://100years-company.jp/column/article-000649/ 「働か」ないから、「働く」がない時代を前に、チュシャ猫の働きは活発になっていくのではないか。そして意味を与える過不足が生じる 無は無ゆえに無いのであって、語られた無は有る。 さて、 (a,b)=(ce,cf,de,df)を解決しないと意識や観測にはたどり着けない。 これはなにかといえば、卵割あるいは細胞分裂である。 量子としての(a,b)の前段階として(@)があるかもしれない。これは卵だ。 量子の卵は混沌であり、量子である(a,b)は対称性の破れである。 まさか、と思うが、量子にもDNAがあったりするかもw チェシャ猫だったな。ミャーオ、無限に木霊す と、ここで量子論と哲学の距離について云えば 重力場を捉える認知空間の是非 つまり、ゼロ学習における意味 これを抜きにできないのである! 量子の卵(@)を想定すると、遺伝子も必要そうだが、タンパク質を合成するわけでもないので 当面見送り。 対称性(というか、最初は混沌で)が破れて(a,b)に成るとすれば、 そこにあるのは回転(変化)であって、混沌の一部が結合して核にならねばならない。 |@|^2=1 @が複素数とすれば、これは1次元球面だ。進行すれば波となる。定常波と考えてもよいだろう。 ^2が必要かどうかわからないが、形式的につけておく。 混沌を究極の秩序と考えるなら、これは○とあらわされるだろう。 この○が∞になれば量子だ。ねじれるイメージ。○は位相なので位相がねじれる? 分裂の原因はゆらぎか? 量子の卵をaの前だからと@にしたのだが、○→@→∞と考える。@が象徴的だ。 ○にしっぽがついてもうひとつの円になる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる