なぜ人を殺してはいけないの【議論】
命題「なぜ人を殺してはいけないのか」
もし自分の子供に「なんで人を殺しちゃいけないの?」と聞かれたら、あなたはどう答えるでしょうか?
悲しむ人がいるから、自分が殺されたくないから、法律で決まってるからなどなど、ネット上には参考になる回答がたくさんありますが、
実はそのどれもがこの質問に答えていません。
ネット上に散らばっている意見を一覧にまとめると、ざっと以下のようになります。
1.誰もが殺されたくないと思うから
2.人権侵害だから
3.相手の希望や未来を奪うことになるから
4.神が作ったものは尊重されなければならないから
5.人を殺してはいけないという法律があるから
6.取り返しがつかないから
7.僕らは既に殺してはいけないことを知っているから
8.殺された人の家族や友人が悲しむから
9.社会が殺してはいけないと要請するから
10.「死にたくない、生きたい」という本能が備わっているから
11.生産性が失われるから
12.人殺しは悪だから
13.社会からハブられるから
14.人のものは奪ってはいけないから
15.遺伝子の多様性が失われるから
16.人類が滅びるから それもう少し簡潔にまとめられるくね
1と10なんて実質同じだし、5は9の枝でしかない
せめて殺す側の殺さない理由と
殺される側の殺されるべきでない理由くらい分けたらいいのに 殺されてはならぬ価値あるものやからや
それを尊厳という 「人を殺してはいけない」
正当防衛の例や戦争といった例外を除いた場合の「殺してはいけない」の規範は初めからあったものではなくて歴史的に作られたからある。つまり歴史の無い浅い民族はこの認識がない。人を殺害することの害悪(=殺そうとするものは殺される)を表面的なものとして文面上でしか理解していない。
「殺人の害悪」の教訓は様々なメディアを通して受け継がれることで規範に応じた社会制度と国風spiritを作り出す なぜ人を殺してはいけないのか
まず人を殺してはいけない、という前提があります。そしてその前提の上で人を殺してはいけない『理由』を問いています。
死刑囚は死刑制度があるため死刑に処せられます。そのため殺してはいけないと大口を叩いた者も、
「なんだぁ、死刑囚が殺されるのは在りなのかぁ」となります。
人を殺してはいけない、と云うが、本当に人を殺してはいけないのでしょうか。
人を殺すことで人生を肯定する者がいるのなら、殺していい、とニーチェは言います。
人を殺すことで、悦びを得られるのなら、殺していい、ということでしょう。
私は単純に、殺されていい人が、殺されることは認めてもいい、と考えます。
しかしながら、殺されていい、と認定するためには、どういう判断基準を設けるべきでしょうか。
この人は殺されていい、とは普通見聞きしません。ですが自分の意志で、殺すべき人を殺すことは、あっていい、と思います。
殺されていい人などいない、という意見もあるかもしれませんが、それは甘く見ているからです。
殺されていい動物を食べている人間がいますが、人間にも殺されていい人間もいるはずなのです 殺されていい人をここでは殺人受付人と言います。殺人受付人は、殺されていい存在です。
殺されていいのだから、殺してはいけない存在ではありません。
よって、殺人受付人を殺してはいけないのか、と問うことはできません。
したがって、殺してはいけない、というテーゼが根本的に成り立ちません。
しかしながら、誰でも殺していいわけではありません。
当然、殺してはいけない人は存在しています。
殺していい場合と、殺してはいけない場合があるのです。
この場合分けが極めて大事です。 およそ「価値」は進化的な起源を持つ。
「生命」、「死」、「殺人」、「自殺」に対する価値観も、
進化的な起源を持つ。
それによれば
@他部族や他人を殺すのは良い。
A身内や自分を殺するは悪い。
つまり「人を殺してはいけない」はAのこと。
しかるに、@は今でも通用している。 「人間みな兄弟」的な価値観が一方にあり、それが@とAを
ごっちゃにしてしまった。
今でも殺人はありふれている。@の規範が無ければ説明できない。 ちなみに「人間みな兄弟」という価値観の進化的起源は、
「@身内愛」と「A征服欲/支配欲」が合わさったもの。 も一つちなみに、いわゆる「トロッコ問題」における二者選択も、
進化由来の価値観(利己的遺伝子)で、すべて迷いなく説明できる。 自殺は、>>10の@からも説明できる。
自殺は自己疎外から生じる。
自分が他人になることで@が適用されるのだ。 目には目を歯には歯を
目を潰されたら相手の目を潰せ、歯を折られたら相手の歯を折れ
ただしされた事以上の事はしてはいけないよ
イスラム教は数ある宗教の中で復習に関しては合理的だな
殺されたら復習殺人はしてもいいと思うな
でも目には目をのハンブラビ法典は元はユダヤ教だからユダヤとキリストにもあるのかね 「AをやられてAで返す」は公平とは言えない。
何も無いところからAをやられた者には、A以上のダメージがある。
A+αで返すのが良いだろう。
例えば、目をやられたら、「目+平手打ち一発」とか。 >>17
これは必然的に「報復のエスカレーション」を招く。
「A+α」を返されたものは「A+α+α」返すであろう。以下、無限に。
イスラムの「報復」は、これを禁止する長所はあるが、やはり、
正当とは言えないだろう。 さて、
@他部族や他人を殺すのは良い。
A身内や自分を殺するは悪い。
は、現在でも通用する原理だと言った。
しかし、「他部族」「他人」「身内」「自分」という概念は、
大いに変化している。遺伝子的な同定が曖昧になってしまったから。
ハプロタイプの分析では、民族の混交が明らかだし、
ネアンデルタール人との混交もある。誰が「他部族」かは不明。
実存的な不安定さの下では、「自分」も、また不安定なのだ。 >>19 つづき
いろいろなことが判明したために、かえって原理が曖昧になって
しまったかのように見えるのが現在の状況だ。
しかし、依然として正しいのは「利己的遺伝子」の振る舞いだ。
「利己的に振る舞う」という遺伝子の原理は変わらないのだが、
何が利己的なのかが不明になってしまったのだ。 場合分け 殺していいのは 極悪人 そして悪人 死刑囚たちさ 社会を維持するのに都合のいいルールを採用しているだけじゃね
例えば戦争になれば人を殺してもいいことになる 日本には死刑がある
死刑になるのは何かの金銭欲や性欲など欲望などで2人以上殺すか無差別殺人などのテロ行為だ
殺していいんだよ
日本の法律でそうなっている 依然として、>>10が正しいようだ。
>>23
→@が適用される。
>>24
→死刑は、犯罪人を身内でなく他人とみなし、@を適用する。
ちなみに、無期刑を含め他の刑は、依然として受刑者を身内とみなしている。 >>@他部族や他人を殺すのは良い。
これはうーんなんか違うと印象。他人を殺してよくないとか他部族を殺してはよくない場合があるだろ?
そうやって場合分けしようぜ。 >>24
犯罪を許容しているのなら刑罰は不要
バカなことを書いてないでクソでもしてろ >>1
一番下の16だからだよ
生物の本能は全て、絶滅を防ぐための行動
でも問題は
そもそも人類は存続させる価値がある物なのか分からんって事 >>26
いや、原則とはそういうものだ。
この100年を見ても、ジェノサイドは至るところで行われた。
今だって行われている。ウクライナ、ガザ、中国のどこか。
勇んで殺すのは、いつも他部族/他人だ。 >>29
しかし、実は例外がある。
権力者の間では親族殺しが結構あるのだ。
親殺し、子殺し、兄弟殺し・・・。歴史を見れば明らか。
これを、原則@Aと整合させるのは、案外に手間だ。 >>27
犯罪を許容してないのが日本の法律
殺人という第一級犯罪をしたから犯人を殺しても良いという法律
よって殺人者の場合は殺していい 「なぜ人を殺してはいけないか」
この命題の前提として、人を殺すことはいけない、というテーマが成り立っている。
であるが、本当に人を殺すことはいけないことなのか、この疑いの視点から反問をしていきたい。
日本には死刑制度がある。このことから、死刑囚というカテゴリーができたのだが、そこから考えて
死刑囚を殺すという例もあるということはありえなくない。そこで、なぜ死刑囚を殺してはいけないの、
という問いは生まれなかったはずである。なぜなら死刑囚を死刑に処するルールがあることや死刑観は暗黙の了解だからである。
しかしながら暗黙の了解となっている「人を殺してはいけない」というテーマは微動だにしないのか。
人を殺してはいけない。と云うが、世の中には殺されていい人も存在する。
そういう殺していい人を殺すことは、ありえていいはずである。
死刑囚のように殺していいのなら殺していいのである。
そして殺すことで人生を肯定できる場合があるのなら、殺してもいい、とニーチェは語る。 (a)「殺しても良い」「殺すべきだ」
というテーゼが無ければ、
(b)「殺すのは良くない」「殺してはいけない」
というアンチテーゼは成立しない。
だから、>>10に書いたように、@Aの二つの規則がある。
上記(a)は裏正義であって、これも厳として存在する。
問題は「なぜ上記(b)のほうが尊ばれるか?」だ。 (a)の方に自分も含んで普遍化してしまったらまずいからじゃないの? もともとヒトには「暴力本能」「殺人本能」がある。
「本能」というより「ミーム」かも知れない。
これも進化的な淘汰圧を生き延びるには必要なものだった。
問題は、その本能を発現させる事情が様々にあること。
いつも首尾よく発現させるとは限らない。 前提が間違っている
地球にとって人間は必要ない
絶滅させるべき存在である 「人を殺すとき、何が起きる?」
人を殺すときは、興奮状態に陥っている場合がある。
Aさんは興奮している。そこでAさんは人を殺してしまった。
現行犯で逮捕されてしまった。そこで懲役に処されてしまった。
人を殺してもいい場合でも、禁錮などに課されれば、面白くないのかもしれない。
人を殺していい場合だったんです!などという説法は、逮捕する側にはかすり傷しかないのかもしれない。
人を殺していい場合だったから、禁錮や懲役を免れてもいいですか?と訊いても聞いてもらえないのかもしれない。
ニーチェ的には人を殺していいんだが、社会では人を殺すことは完全には認められてはいないのだろう。
そんな中、Aさんは釈放された。今度はAさんの頭の中にBさんが侵入した。
頭の中に二名いる中、Bさんが体を動かして人を殺してしまった。
・・・話が逸れてしまったが、Aさんの意思ではなく、Bさんの意思で殺したのだが、
体の持ち主であるAさんが罪に問われるのかが気になるところ。Bさんが頭の中から出てきて自首するのはどうだろうか。 「人を殺すことがタブー視される理由」
裁判では人を殺した犯人を控訴します。犯人が悪かった、人をこれが控訴の前提にある内容です。
現実として、子供に、親や学校から人を殺してはいけません、と教わります。
戦争もよくないものとして一般人には受け入れられます。
なぜ人を殺すことがタブー視されるのでしょうか。
1.人を殺すことをタブー視されることが広まると、社会全体のためになる
2.人を殺すことをタブー視されることが広まると、自分自身を殺すことをタブー視する者が現れる
3.人を殺すことの残酷さが一般市民に広まっているから
4.自分の周りにいる大切な存在が殺されてほしくないから
。。。となりましたが。
人を殺してはいけない、そんな思いもあるのでしょうが、道徳的には人を殺すことを完璧に説明できるでしょうか。 「人生でできることは限られている」
赤ちゃんとして生まれてから、我々は限界を引かれる。
小学校に行くことが待っているのに、小学校に行けば、一日分行く日数が減る。
そうやって、自分のできることは少なくなっていく。
今日甲子園球場に行っても・・・もう二度と甲子園に行けなくなったりする。
結婚式だってそうだ。二度目の結婚式がない場合だってある。
そうはいっても、過ぎさってほしいことだってある。
自動車免許を取る過程は早く終わってほしいだろう。
誰かに悪い事をされるなら、今の内に。。。と思うだろう。
そんな過ぎ去ってほしいことだってあるのはあるに違いない。
しかしながら、人生が限定されていくことは否めない。
できることを増やさなくては、人生は行き詰ってしまう。
そうだ、努力をすることだ、免許を取ったり資格を取ったりすることだ。がんばれ、諸君!! ★人を殺すことに関するデメリット
1.逮捕される恐れがある
2.人を殺した後、殺したことの罪悪感が湧く
3.神さまや超越者に裁かれる恐れがある
4.相手の遺族や仲間に恨まれる
5.殺したことがバレる恐れあがる
などと、デメリットはありますが、無理しないでください。
人を殺さなくてもいい場合はありますから、慌てないでください。 殺したいやつを殺す、好きなだけ拷問しても良い
殺して満足感を得たら、コーヒーを飲み、好きな好物の食事を取る
好きな音楽やゲームなど楽しむ
そしてニュースで◯◯県の山中で遺体発見など情報が流れたら自殺する
これが勝ち組 ★人を殺すことに関するメリット
1.暴力や嫌がらせから解放される
2.人を殺した後、殺したことで不安や恨みが消える
3.神さまや超越者に褒めらるかも知れない
4.相手を疎ましく思っていた遺族や知人に感謝される
5.殺したことで気分が晴れる
などと、メリットはありますが、無理しないでください。
人を殺した方がいい場合もありますから、良く吟味してください。 >>★人を殺すことに関するメリット
>>1.暴力や嫌がらせから解放される
>>2.人を殺した後、殺したことで不安や恨みが消える
>>3.神さまや超越者に褒めらるかも知れない
>>4.相手を疎ましく思っていた遺族や知人に感謝される
>>5.殺したことで気分が晴れる
神さまに褒められるって何だろうね。
まあ嫌がらせから解放される、とか、暴力から解放される、とかはありそうだね。
でも殺したことで心は貧しいだろうけどね。 >>46
いいこと言ってみました系 ってなんやねん、ちゃかすなや >>6
社会学と哲学は密接な関係だが
哲学は倫理の理論付をする学問だ
そして倫理が社会の法・規範となる
君って良くいる哲学を人生哲学だと思ってたバカ?
こんなの哲学書読んでれば社会学の基礎にあるのは自明なんだけどさ >>6みたいな哲学書まともに一冊も読んでないバカが知ったかぶりしてる見ると笑えるんだがw
デカルトやカントすらまともに読んだ事ねーからアホなこと言うんだろうけどさ 殺人というのは倫理・社会の外にある、ホッブスの言うところの自然状態に追い込まれた人が取る手段
当然そこに倫理・道徳的な答えはない
自分の生命活動において邪魔な存在を排除するという動物的な反応としての殺人
個人で動機から見れば殺人は妥当性がある
しかし社会としてみた場合は秩序の維持から殺人は罰する
つまり殺人をするなら社会に見つからない様にうまくやれだ また社会において殺人が絶他的なタブー視されているかといえばそんな事はない
明治より前では仇討ちが武士の間では正しい倫理だった
戦うことが武士の本分であり、それが戦いに負けた殺されたなら不名誉だとされ、殺した相手を遺族が殺し返してこそ家の名誉が守られるとされた
イスラムでは今でも家族が侮辱されたら相手を殺すのが家長の役目だ
アメリカでも自分の縄張りである家の敷地内に許可なく入ったものは正当防衛として殺すことが許される州がある
自分の権利を侵害されたら殺人は許される
法は社会全体のシステムを維持する事を優先していて個人の細かなケアや保護はされない
事後的にサポートするだけだ
ならば法が行き届かないところで自分の権利や尊厳が侵されたなら自分で対処せざるを得ない
そこには殺人も含まれる
個人の理由で法は勘案されないが故に殺人を止める明確な倫理もなければ殺人を無条件で許す法もない つまり法においては社会維持から無差別な殺人は禁じている
しかし個人の事情に於いて殺人をしてはいけないという倫理は通用しない
権力が法によって公務員を使って実力行使で法の違反者・犯罪者を取り締まる
これは個人の事情・道理を無視して社会というシステム・権力・国家へと服従させる暴力だ
倫理ではなくリスク管理の面から無闇で無計画な殺人は控えた方が生きやすいに過ぎない
殺人をする動機があり決断した人間を止める倫理はもとより存在しない
いつだって弱肉強食の自然状態は社会の裏側に厳然と広がっている 哲学で言うならソクラテスやプラトンは二級市民への強姦と殺人を持って成人の儀としたスパルタを理想国家としていた
古来より生きる事とは他者の権利を踏み躙り自らの利益を確保する強さが必要だ
これは現代の資本主義でもその構図は変わっていない
衣食住において古代より豊か故に多少の忍耐で生存できる故に表面化しないだけでそれが耐えられない人は殺人を持って利益を得る ロシアやイスラエルを見ればわかるように自分達の利益を守る為に人は殺す
殺される危険を感じたものは反撃して殺し返す
戦争は除くというのはナンセンスでより抽象的で分かりやすい殺人の構図が見て取れる
もちろん戦争に駆り出された兵士個人の動機や倫理と国家の目的は一致しないが利益と生存を掛けて戦うという点においては分かりやすい 殺人に社会的リスクは伴うが倫理で押しとどめる事は不可能
そんな倫理はまやかしで殺人が選択肢出る人はすでに社会のシステムや法が及ばない領域で脅かされている人
万人の闘争状態・自然界の弱肉強食・生存本能からくる反撃しか手段がおもいつかないのだから 殺人にたいする賠償は旧約聖書にも書かれている
ユダヤ人同士での殺人に対しては純粋に稼ぎ手を殺したならそれに応じた山羊などを送り贖うようにし、女や子供となればもっと少ない財産を送って仲裁するようにしていた
しかし他民族に対する略奪・殺人はそもそも許されており誘拐して奴隷にして奉仕もさせた
カナン(現イスラエル)に先住していた住人は殺して奪えと神から命じられて行ったとさえ書いている
20世紀に行われたユダヤ人を名乗るヨーロッパ人のイスラエル強奪はこの聖書に書かれた古事の再現でそれが今のイスラエル・パレスチナ紛争として続いている 今現在ユダヤ人を名乗る集団は遺伝的には特定できない
二千年以上前からヨーロッパ各地に住んで同化した民族でユダヤ教信者と言う自己申告・自己認識でしかない
ユダヤ人を証明する手段などないのにイスラエルはユダヤ人・自分たちのものだと言って新興宗教さながらに革命を掲げてパレスチナを乗っ取りイスラエルと国名を改名して乗っ取った
謂わばトランスジェンダーの心と性別は別だという暴言と主張を武力で正当化して建国したトンデモ国家がイスラエル
第二次世界大戦後の混乱期にヨーロッパのユダヤ人問題を解決するために厄介なユダヤ教徒をヨーロッパ方追い出して中東に押し付けたのがイスラエル建国
正直なところイスラム国より遥かにタチが悪いので建国してから70年ずっと紛争が続いている このように暴力は全てを解決手段として用いられる
そして殺人は財産で贖うこともできる
これは古代も現代も変わらない
社会のシステムは命の価値に値段をつけている
殺人もまた金で解決できるのが社会システムだ 殺人は社会の罪だ
罪とは法の罰則を伴う行為に過ぎず信号無視や万引きと同じ線上にある最上位の賠償を求められる行為に過ぎない
人は財産を産む労働力・財産と見て考えればそれを壊せばそれに値する賠償を人が求めるのは当然
それだけの話で難しいことも隠された事も何もない
殴られたら殴り返されるし、場合によっては殴ろうとする動きを見て先に殴り殺されるリスクもある
被る被害を予測して人は防御反応を示すので殺そうとする人間は殺されるリスクを呼び込む >>60
>>殺人は社会の罪だ
なるほど、いい説明ありがとうございました。人の殺し方を書きたいと思います。 ★人の殺し方
1.顔面を殴る
2.目を取る
3.腹をパンチする
4.ナイフや鈍器を使う
5.困ったことをやる
6.死ぬ死ぬと信じる
7.超能力で終わらせる
5.の死ぬ死ぬと信じる、とあるが、思いで殺すこと、といえばいいだろうか。
思いで相手を倒すことだって、合気道でもできるはずだ。
また、超能力で終わらせるというのは、合気道でもいい。 殺人を思いとどまらせる倫理はない
しかしそれは殺人にリスクが伴わないという話ではない
総じて殺人が周囲に知られれば厳罰が下される
また世間的にも殺人を犯した人間は奇異な目で見られて警戒され避けられる
殺人を行う前にこれらのリスクを考慮するのが賢いだろう それだと「殺されるのが嫌ではない」と思っている人は殺してもいいことになるが ★人の殺し方その2
1.屋上ビルから落とす
2.毒を飲ませる
3.大麻を吸わせる
4.舌をちぎらせる
5.呪う
6.心臓を傷める
7.放火する
。。。となりましたが……。
放火はいけませんね。死ぬどころか空気が汚染されてしまいます。
環境汚染を起こしてまで人を殺すのはやめましょう。 いけなくないよ
でも、マンパワーがないと自分も困るよ ほうほういけなくないよ、とのことですが、放火は人を殺さなくても、森林を燃やす場合がありますね。ゼウスのように森林を燃やす行為すなわち放火はいけないですか。 全て自由
悪いわけではない
しかし、自分自身がまわりにまわって困るからやらない
それだけでしょ 殺し方よりも事が誰も死んだ事を知らない、或いは死んでも誰も捜索しなければ社会は反応しない
殺したのではなく消えたならば >>70
なるほど。殺されて死体になっても消えてしまえばセーフだと。 >>71
消えてしまえばセーフなら、土に埋めて消したかのようにもっていくのもセーフになりうるか 死体の処理云々でない
死んだ・殺されたという事を誰も認識していなければ司法は動かず社会は生きているものとして放置する
例えば部屋やメールで旅出て探さないでくださいと書き置きがあれば? 死体の処理云々ではない
死んだ・殺された事を誰も認識しなければ司法は動かず生きているものとして放置する
例えば部屋やメールで旅に出るので探さないでくださいと書き置きがあれば? 死んだことも殺されたことも発覚しなければ、だれも殺人があったと取り上げない、とかですか 殺意を消し、痕跡を消し、人が消える
誰も知らずに過ごせるなら官憲の手は煩わされず事件は存在しない 露見すれば世間も法も神すら許さないかも知れない
或いは世間から良くやってくれたと賞賛・同情され、法は超法規的・情状酌量され、神から聖戦と認められるかも知れない 殺してはいけない、というが、どうやって殺してはいけないかに焦点を当ててみたい
放火して殺すことは、家も燃やしてしまっていたり空気も汚染されてしまったりするおそれがある。
殴って殺すことはいけないかというと、これはまだマシな殺し方と結論づけるであろう。
燃やすということは、時に、よくない放火だったとなるのである。
そうならば、放火はしてはいけない殺し方だろう。 まず第一に人がちょっと火をつけた程度で自然環境に影響は無いに等しい
火山の噴火に森林火災、発電所や車の排ガスなどに比べて1軒燃えてそれで何が変わると言うのか おいオメー さっきからうるせえぞ
「ブッ殺す」「ブッ殺す」ってよォ〜〜〜
どういうつもりだてめー そういう言葉はオレたちの世界にはねーんだぜ…
そんな弱虫の使う言葉はな………
「ブッ殺す」… そんな言葉は使う必要がねーんだ
なぜならオレや オレたちの仲間は その言葉を頭に思い浮かべた時には!
実際に相手を殺(や)っちまって もうすでに 終わってるからだッ!
だから使った事がねェ―――ッ そうか人ひとり燃やした程度では自然環境に影響は少ないんだ
でもね、家を燃やして人も燃やすならダメな殺し方なんだよ 問いの立て方が間違っている
殺して良いんだよ
上級国民とか皆殺しでも全然構わないってこと
当たり前のことだよ 上級国民と下層民の階級闘争という面でいうなら立場によって殺害対象も動機も変わる
上級国民からしたら労働者は大切な資産でみだりに殺すのは財産の損失に等しい
だからと言って自分の命に比べたら労働者の命など屠殺して食べる豚や鶏鳥程度の価値しかない
労働者からしたら搾取していい暮らしをする憎いブルジョアは絶滅すべしとなる >>82
殺していい場合とそうでない場合があるのでは。 仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、
羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、
親眷に逢うては親眷を殺して、
初めて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在なり。 殺しの良し悪しの判断を人に預けず自ら処断する
殺しのライセンスを持て >>87
ええ。上級者向けかと。
なにゆえ殺人のハンターであるわたくしは誰でも殺せる自信があります。
遠距離にいる兵隊さんなんかはわたくしにやられますね。
平和を目指すなら、平和を妨げる兵隊さんをいなくするんですよ。
こういう境地に立たないと「仏に逢っては仏をころし」がわかりませんね
兵隊さんに逢っては兵隊さんを殺すということ。日々悪霊を殺すことも大事ですね。 「どうやって」殺してはいけないか。
遺体遺棄なんかはバレてしまえばいい、というのが一般的な意見だ。
遺体遺棄をすることは、バレるおそれを十分含んでいるはずだ。
だとしたらこれは犯罪者が得をする方法ではない、むしろ非犯罪者にとっては好都合なのだ。
もう昔の出来事だが、小学校でカッターで首を切る事件が起きた。
そういう殺し方をすると、周りの小学生も真似をしてしまう――小学生の犯罪者を逆に切りつける――おそれがある。
小学生は犯罪者をいじめようとするかもしれない。これは確率でいえばゼロではないのである。
こうしたデメリットやリスクを含む殺し方はしない方がよいというのが一般的な言い伝えとなれば幸いである。 一茂さんという芸能人がいるが、人を殺したことがあだとなって一茂さんはバラバラにされてしまった。
なるほど、人を殺すと自分に返ってくることぐらい想定できるのに、である。
そういうのを因果応報と呼ぶ。これが脅しにも使えるが、殺害者の弱みでもある。
Aくん「人を怪我させたら因果応報するよね」←こういわれると一般的には怪我をさせる気が失せるものである。
Bくん「Aくんだって俺を殺したら因果応報して殺されるかもしれないよ」←こういう文句も犯罪を防止することに繋がるだろう。
そもそも因果応報とは確立しているのだろうか。一茂さんは因果応報にあったと言えるのだろうか。
このような問いかけにぜひ答えるために考えていただきたい。(終) >>86
>殺していい場合とそうでない場合があるのでは。
「いけない」のだから、この問いはそうでない場合を想定している。
端的にして完全なる答えとしては、力がないから。
世界を見渡せば、力ある者はバンバン殺している。
言うなれば、この問いは既に終了している。 >>93
>>言うなれば、この問いは既に終了している。
どうして終了しているの やられたからやり返す
そしてまたやり返される恐怖・報復の連鎖を断ち切る為に止めを刺しておく
戦国時代では根切りと言って一族郎党全員を見つけて纏めて殺すのが常套手段だった
それを怠った平家は生き残りの源氏によって滅ぼされた
それを守って豊臣家を滅ぼした徳川家は長く繁栄した >>91
凡ゆる解決法が間違っており君が無知な事が暴かれる
犯罪を報道すればそれを真似る模倣犯が現れるので報道を規制した方が犯罪率が下がるのは社会学の常識だ
そして死体は遺棄ではなく消すのが反社の常識でシチュー屋と言う職業がある
薬品で溶かしたりマイクロウェーブで骨まで灰にして撒く
死体とわからなくなるまで破壊する >>97
あなたは無知ではなく理解する脳がない境界知能です
所謂人より猿に近い人種は知識を得ると言う行為自体が難しいので無理に知ろうとしないでください >>98
IQなら一番高いけどな。一番頭いいってよく思われるタイプがわしじゃよ。嘘じゃないよ。