すがちゃんねるPART3
ピンク・レディー 透明人間 1978 https://www.youtube.com/watch?v=BtK8cOiyEsQ 浅田彰 『アイデンティティ・ポリティクスを超えて』 新潮2024年4月号より そういえば、絓秀実が最初の本のあとがきに、 阿久悠が手がけたピンク・レディーの『透明人間』の 歌詞のラストを引用して、自分も 「消えますよ 消えますよ」と言って消えたい、 と書いていたら、柄谷行人が 「浅田君みたいに存在してから消えるならいいけれど、 もともと存在していない奴は消えられないじゃないか」 と言ったんですね。 / ̄ ̄ ̄ `\ /:\___从__ヽ i::/ '''''' ''''''' i 「絓秀実という病1&2」は今後 |:/ (●) , 、(●)| (6 ,ノ(、_,)、 | 「すがちゃんねる」に吸収されました。よろぴく。 ヽ ト==イ ノ \_ `ニ´_,/ 興味深い記述があちこちあるのにやたら散らかってて引用だらけの本に当たると 絓秀実みたいだなー、と思う cedosia @cedosian 4月23日(火) 15:05 >>1 続き。 僕はもともといつ消えてもいいと思っていたけれど、それを聞いて 「本当にもう消えてもいいんだな」と思った。強いて言えば、 それが僕にとっての一種の承認でした。その割には、 きっぱり筆を折ることもなく、ズルズルと今に至っているんですが、 こんなダラダラした生き方でも面白いと思ってくれる人がいればそれでよし。 単に怠惰であるがゆえに一定の距離を置きながら 時代と伴走してくることができたという自覚はあります。 浅田彰 『アイデンティティ・ポリティクスを超えて』 新潮2024年4月号より >>1 >>5 新潮4月号 → × 新潮2月号 → ◯ ドキュメンタリー「ゲバルトの杜」に重信房子、田原総一朗、久米宏らコメント 2024年4月26日 映画ナタリー編集部 https://natalie.mu/eiga/news/571080 元・日本赤軍の重信房子は「この映画には、革命のために尊厳ある生命を犠牲にした、 私たちの時代の闘い方の欠陥が描かれている」と、ジャーナリストの田原総一朗は 「彼らは彼らなりに真剣にこの国のことを考えていたと思う。だが行き過ぎた行動のために 新左翼党派は壊滅することになった。他にやりようがなかったのか。私のなかには 残念な気持ちがある」とつづった。ほかフリーアナウンサーの久米宏、 ジャーナリストの金平茂紀、作家・森まゆみら6名が本作にコメントを寄せている。 おいおい、 全然、スガ亀花連合の言ってることと、違うじゃねえかよ 久米宏(フリーアナウンサー)コメント 吉永小百合が3年前まで歩いていた文学部キャンパス そこでひとりの大学生が殴り殺された 殺したのは“革マル派”だった その後激しくなっていった内ゲバで100人以上が命を失った 殺すことで何かが解決したのだろうか 太田昌国(民族問題研究)コメント 現状の社会を批判し、夢や理想を語るからこそ、 人びとの共感を得てきた〈革命〉の思想。 いつしか、それは嘘と欺瞞に満ち、 人びとの希望を打ち砕くような思想と実践に成り果てて、現在に至る ――日本でも、世界でも。 その腐臭に満ちた事態をもたらした根拠に迫らなければならぬ、 この映画のように。〈革命〉に、本来の、真の息吹を吹き込むために。 金平茂紀(ジャーナリスト)コメント 証言者パート、劇作パート、メイキング・パートが相乗的にかみ合って、 起きていたことをヒリヒリと浮かび上がらせていた。 時代の狂気のせいにしてはならない。今につながるテーマだ。 『ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~』本予告編/ 5月25日よりユーロスペース他全国順次公開 https://www.youtube.com/watch?v=5mpXoHv79-E 花咲は正直どうでもいいがスガチンのご意見はちゃんと聞いてみたいな 大杉重男さんからは、『論樹』33号をいただきました。 大江、倉橋、藤枝らを扱った論考が載る。 大杉さんの大江論は、 尾崎真理子『大江健三郎の「義」』とそれを批判した絓秀実ユリイカ掲載論を受け、 大江を自然主義の系譜へと位置付ける。 『アンチ漱石』から、近年の「東アジア同時革命」へとつなぐ線 松田樹/批評誌『近代体操』 @matsuda1993 4月22日(月) 13:01 よくわからんが、 遅れてきた中上健次自己同一化系というのは、何かの勘違いではなかろうか? と思うのだが。。。 ああ大江論か。・・・ 別に中上の話してるわけではなかったw 演歌のタイトルです。 「スガチンには赤チンを塗って」 X JAPAN の新曲。 「フォーエバー・スガチン」 絓 この映画は代島治彦監督が樋田 毅氏の川口大三郎虐殺事件を描いたノンフィクション 『彼は早稲田で死 んだ』(24)を原案にして作られた 映画ですが、僕なんかは樋田さんの本に 対しても異論が非常にあるわけで、批判も書きましたが(「対論 1968」22)、しかしそれ以上に 代島監督のこの映画はひどくなっているという印象を持ちました。この映画は、いわゆる ブルジョアジャーナ リズムでは、「鎮魂」とか「暴力はいかん」とかと好評をもって 迎えられる映画なんでしょう。しかし、この映画をザッと見ただけでも、歴史を知れば、 当然、批判的な視点が出てくると思うんです。 今日はアナキズム研究家の亀田博さんも出席されていますが、亀田さんは当時のWAC (早稲田大学全学行 動委員会)のメンバーということで よろしいですか。 亀田 途中からWACの枠組みで活動していました。 絓 樋田さんの本で非難されている ところの「暴力を肯定する立場」と いうふうに言っていいですかね。 亀田 いや、直接的な暴力肯定ということはないです。 映画芸術座談会、なかなか濃いな 論争に発展するかな 絓 花咲は映画に対してどうだった? 花咲 早大奥島(孝康、1994年~2002年早稲田 大学総長)当局を礼賛して終わる原作本 『彼は早稲田で死んだ』に輪をかけて最悪の歴史修正反共謀略映画だと思います。 左派陣営を利する映画にはならない。これで喜ぶのは公安当局とネトウヨくらいなもんでしょう。 僕はずっと早稲田のノンセクトで活動していましたが、日常的に革マル派に監視管理恫喝されていました。 先輩方から聞いた話によれば、70年代後半は基本的には革マル派以外の諸セクト及びノンセクトは 公然登場できる状態では無かった。 完全に地下活動ですよね。ゲリラ的に深夜に忍び込んで ステッカー貼ったりとか。ほとんど中退・除籍 だし、集団登校/集団下校やお腹に少年ジャンプや サラシを撒いて学内走っていたようです。それが90 年代初頭の反原理運動の高揚と1984年~85年に かけての久しぶりの全学ストという中で、公然登場を「許される」ようになった。 私は入学後、ノンセ クトグループの一員として主として教育学園課題と 反原理課題をやって、 樋田氏が礼賛する奥島当局の 革マル派追い出しの煽りを受けたサークル部室撤去に対して反対運動 をしていた絡みで2001年7月3日に構内立ち入り禁止の仮処分を受けました。80年代後半から2001年 にかけての早稲田では、 革マル派早大当局―国家権力三つ巴の暴力支配は継続されていた。 その意味では川口君事件のときと 何ら変わりがない。 絓 この映画は基本的に歴史認識が全く間違っていると思うんです。「中核VS革マル」あるいは 「解放派VS革マル」という党派闘争を主線として歴史を語っていて、特に70年8月の中核派による 革マル派の東京教育大学生・海老原俊夫のリンチ殺害事件を起点にした「内ゲバ」の歴史観で語っている。 しかし、川口問題は内ゲバではないんですよ。ある意味では革マルが言うように、殺すつもりはなかったんだから。 海老原だって中核派は殺すつもりはなかった。そういう意味では括弧つきではあれ、「事故」と言ってもいいわけ です。広義にゲバルトと言うの かもしれないけれど、海老原事件は内ゲバの起点でさえない。 僕の経験からいっても、69年の第二次早大闘争の5月にも凄惨なリンチがあったし、 その煽りで僕も革マルに川口君と同様の6、7時間のリンチを受けたことがありますけど、 幸か不幸かショッ ク死はしなかったですが(笑)。 それはともかく簡単に海老原事件を内ゲバの起点にすることはできな い。それは革マル史観ですね。 内ゲバなるものを「殺人」とストレートに考えるのが間違いなのであって、 そこで考えるべきなのは、 海老原事件のほぼ2ヶ月後の70年10月6日の山村政明 (梁政明)の抗議自殺 なんです。 図書館を注意深く検索するとときどき置いてありますね <映画芸術 スガチンも長時間リンチを受けたんか 意外と身体頑丈なんだ リンチ殺人を肯定するピエマル (ピエール・カクマル=普通名詞) なんか反論したかったらもうちょっと増しなこと何か書いてみろよ そうしたら相手してやるよw 『1968年』の絓秀実によれば、この偽史的想像力は1970年の華青闘告発といった事件によって、 歴史の主体として登場したマイノリティーが、権力者の歴史を正史たり得ないものにした。 そのポストモダン的状況が生み出したものだという。 大塚英志はその例にラヴクラフトやトールキンの復権を挙げている。 杜口 @snorkros1 昨日 18:32 >>31 これまたすごい偽史的想像力だな。 外野のウオッチャーというのはこんなレベルばっかなのかよ? ピエマルは激怒する前に 映芸座談会読んでから書きこめ 既に全部読んでるよ。 (といっても座談会な。 データを取ってきたのはその6ページ分。 代島監督ともうひとりおばさんの文章は特にチェックしてない。) どこの部分をスレに引用にしたら効果的か現在時間を措いて 精査しているところ。 いっつもこのくらいはちゃんと 物考えて行動してることを理解してくれw もちろん映画本編をみていることが大前提 クリマルの名前気に入ってくれたようでありがとう >>38 ここで絡んでる人(大体誰だかわかるのだが・・・) この人がやってる行動の特徴、 特に言動的、言語的に見ていてほしいのだが。 これはさ、 何も西欧社会の基準を無理矢理当てがわなくてもいいんだけど、 誰かに、何か特徴ある人、それは任意で、恣意的で、テキトーな理由でいいんだけど レッテル貼りをすることによって、彼らを村社会的な差別の構造に嵌めようという ある種典型的なテクニックで釣りに来ている人であることは、 皆さんも分かるでしょ。。。 仮に、その任意のレッテル貼りの村社会ゲームの名を 「ユダヤ人」としよう。 それはカクマルのファシズムというよりも、 反カクマルの中にあるファシズムの種だよね。 (大衆的なものの中にある根源悪。 大衆型あるいは村社会型ファッショと言おうか。) それは一体どっちが悪いのさ? 両方悪いのか、 あるいはカクマルも反カクマルも所詮「根は同じ」 と考えるべきなのか。 それがある種排斥の形態を取るときは。。。 佐藤優が、映画の中で、 「まるで、魔女狩りの論理ですよ。・・・」 と言ってるのは、まさにそういう意味でしょ? >>26 >>山村政明 (梁政明)の抗議自殺 彼のようなパフォーマンスはアートとしてしか捉えようがない。 美術館や劇場で展示や演技を見物するのと同じだよ。タイやビルマの坊さんに多いわな。 現実を変えたいなら、変えたい現実そのものに直接に働きかけるしかないダロウ。 そうでなければ、議会政治に頼るほかあるまい。 早稲田の人は山村のようなパフォーマンスが多いんだよ。 スガや千坂恭二が68年問題にこだわる理由の一つに、彼らにとっての68−9年は まさに人生を変えてしまった出来事に参加した訳で、彼らより年長のものは大学を卒業し、 社会に出て行ったが、スガや千坂は大学中退か、入学もしなかった訳で、そういう年代がスガより 幾つか年下の世代まで続いたんじゃなかろうか。 だが、無論のこと、革命による世俗的な出世を夢見てる人間もいた。 そういうのは石川淳の小説「至福千年」でも描かれてる通り。 それは現在のスガや千坂恭二の姿を見れば、一目瞭然ではないか? 赤軍派の場合は相当違うような。 文壇にすら反抗できないスガ秀実に期待する方が間違ってる。 スガが早稲田で70年10月6日に起きた山村政明 (梁政明)の抗議自殺を問題にするのは良いことだと思うが、 差別の問題は朝鮮人だけでなくて、数からいえば部落出身者はずっと多かったのではないか? その点で議長が部落出身者だった赤軍派に希望を見出した若者は多かったと思う。連合赤軍の 森恒夫などもその一人だろう。 そして、革命が差別撤廃への希望を孕んでたことは紛れもない事実で、 それが三里塚闘争の原動力にもなっていたのではないか? だが、先への希望が小さくなるにつれて、内ゲバは陰惨化して行った。 スガのやりたいのは1968年を媒介として左翼運動を解体し再生させることなんだろうが、 これに異議のある人はそういないと思う。 肝要なのはより広範なところから、より正直な意見が出ることではないか? スガにしても、なぜ革マルから執拗なリンチを受けたのか、 そこから正直に告白して行かないとしょうがない。 森恒夫と永田洋子のペアをマクベス夫婦に見立てた「意味という病」の柄谷行人のような嘘は願い下げにしたい。 > スガのやりたいのは1968年を媒介として左翼運動を解体し再生させることなんだろうが、 > これに異議のある人はそういないと思う。 うーん、、、これはどうかな? 1968年的=再び大学を廃墟化するような運動、 建築物を廃墟化するような社会運動を再び招き寄せようという一部勢力の中には 既に左翼の中からの抵抗勢力が出来上がってるんじゃないですかね。 再び大学の中を運動とシラケの分割へと追い込み、 極少数の運動学生が学館を占拠し大多数の一般学生はノンポリの仮面を被せられて そこには交通が途絶える。立看の数こそ数多けれど立看の主体とはいつも 数名数件の決まってる人たちしか裏では見当たらない。 まー80年代の日本の大学的状況というもの。 これを再び招き寄せたい(80年代は60年代と70年代の結果だからさ) と考え欲望してる層は、実は相当限られてますよw 結局、311反原発運動の波及から日本の運動に大きな分割が起きて それがいわゆる旧態から続く1968年的左翼の層と SEALSから展開して在特会に対する反差別のストリート的抵抗の運動へと集まった 旧スタイル左翼への批判的運動という、その二分割が十数年前には明確に起きたわけですよね。 もちろんこっちの新しい運動の方は、 1968年解釈を巡るスガ秀実への批判派としての小熊英二が中心の一人となった。 有田芳生や香山リカもそっちの運動に賛同しという展開だったけど、 68年復活派界隈の運動人脈は昔から続く縁戚のつながりの太さから 今でも形を残して続いてるけど、新しいスタイルとしての68年批判派界隈の運動は もうどこかに消えてしまったではないかというのが、 旧来早大ノンセクト界隈やだめ連界隈左翼からの、新しい左翼界隈への批判、 愚痴として伝えられている。 いわゆる、「だめ連魂」の発言、宣言ですよね。 > 1968年的=再び大学を廃墟化するような運動、 > 建築物を廃墟化するような社会運動を再び招き寄せようという一部勢力の中には > 既に左翼の中からの抵抗勢力が出来上がってるんじゃないですかね。 つまり、結果的に大学を廃墟してしまう運動というのは、 実は最も自分が大学に依存してる人達、いわば 病的依存が生じてる人達によって為されているというのが最大のアイロニーで あるわけで、それがスガ秀実界隈に流れてる運動の実態ということですよ。 スガ秀実周辺の人脈こそが、高校中退の外山恒一まで含めて 最も大学に依存してる人達の人脈ですね。 この大学絶対依存性というのが、すごくキモい。 ちなみに柄谷行人というのも、 大学絶対依存主義者たちの在り方へは、共犯の立場でしょう。 あのひとの大学依存主義性もすごい。 結局その態度がNAMの運動全体を中途半端なものに止めてしまったのね。 > 建築物を廃墟化するような社会運動を再び招き寄せようという一部勢力の中には > 既に左翼の中からの抵抗勢力が出来上がってるんじゃないですかね。 ◯ → 一部勢力に対しては、既に左翼の中からの抵抗勢力が 当チャンネルでは、 学生運動世代にインタビューして 昭和から令和までの事件やニュースが 彼らの目にはどう映っていたのかを 紹介する動画を投稿していきます。 青春の熱い日々は どこから生まれ そしてどこへ行ったのか。 彼らの胸の中で 人生を共にしてきたであろう 「正義」に語りかけてみましょう。 絓 つまりどういうことかと言うと、革マルの支配というのは「殺す」ということではなくて、 「生かす」ことなんですよ。キャンパスにおいて「生きさせる」ことによって支配する。そういった 「生きさせる」 支配に対して山村 (梁) 政明は抗議をして焼身自殺をしたというふうに、 後知恵的かもしれないけれども、捉えることができる。 この映画には革マルによる支配とは何だったのかということに対する歴史認識が全くないんです。 山村 (梁) 政明のことを想起せずに『ゲバルトの杜』なんていう無神経なタイトルをつけてしまう この映画は何なんだろうという怒りがありますね。 あと、樋田さんの本にしてもこの映画にしても、今の早稲田は平和になったということになっています。 90年代の奥島総長による革マル派の早稲田大学からの括弧つきの「放逐」があって 平和になってよかったねというのが樋田さんの本の大前提で、この映画でもそうなっていますよね。 花咲 そこが最大の問題だし、そのことを象徴的に表しているのが、この映画のプレス資料の表紙で、 おもて表紙が大隈銅像あたりからヘルメットを被っている学生たちを撮った当時の写真で、 裏表紙がおもて表紙と同じ構図で今の平和そうに歩いている学生を撮った写真が使われている。 奥島当局の英断によって革マル派が一掃され、平和な学園が戻ってきたと言いたいんでしょうが、 トンデモないことです。 学生自治やサークル自治を当局のコントロール可能な領域に押し込めるために、革マル派を 地回りヤクザよろしく活用していたのを切り捨てただけ。企業が、反対勢力が弱体化すると見るや 否や総会屋を切捨てるのと全く構図は一緒です。 亀田 おもて表紙の写真は当時のものではないのですよ。 花咲 えっ、そうなんですか。 花咲 絓さんも『革命的な、あまりに革命的な」等で「ムーゼルマン(回教徒)としての平和」 と書かれているじゃないですか。 ムーゼルマンって、アガンベンが「アウシュヴィッツの残りもの』で用いた表現 ですけど、アウシュヴィッツにおいて、もはや生存のみが許されて、ユダヤ人としての誇りを剥ぎ取られた ユダヤ人に対する呼称で、そこから革マル派以外の学生を「ムーゼルマン」として支配するスタイルのことを 「ムーゼルマンとしての平和」 というふうに書いている。 「早大アウシュヴィッツ「体制」とよく言われますが、「革マル・(大学) 当局・ 国家権力」の三つ巴での 支配体制があるなかで、革マルが弱体化して、大学当局と国家権力の直轄支配になればいいのか。 アウシュヴィッツ体制は全く変わらず、直接の看守が革マルから当局管理のガード マンと 剥き出しの警察権力に変わっただけで、アウシュヴィッツが解放された訳では全くない。 絓さんが「ムーゼルマンとしての平和」と言う意味でより支配が貫徹された状態なわけだから、 むしろ以前よりもムーゼルマン的な支配が悪化している。 絓 山村(梁)政明は、まさに、そこを問うて自殺したと言ってもいい。これは、単に一大学の問題 ではなく、「生政治」を問う普遍的な問題です。 樋田さんも代島さんも前提的に間違っているのは、 今は早稲田に革マル派がいないと思ってるということですよ。 >>57 > この映画には革マルによる支配とは何だったのかということに対する歴史認識が全くないんです。 > 山村 (梁) 政明のことを想起せずに『ゲバルトの杜』なんていう無神経なタイトルをつけてしまう > この映画は何なんだろうという怒りがありますね。 スガちゃんこのフレーズはちょっと蓮實が入ってねえか?w ところで、革マル派って「生政治」と何か関係あるんですか? 何でも今風の概念当てはめればいいってもんじゃないんじゃない フーコーじゃなかったか? 今更フーコーかよと思うが 山村君の自殺を都合良く解釈する人は何マルと呼ぶんだい ↑ またあんた出てきたけどそれ誤爆してんじゃねえの?w つーか、「生政治」という概念を当てはめれば、 それで何かを説明したことになるんかい? 全然ならんだろう。 なぜ早稲田に革マルが蔓延ったのかについては、根底に早稲田イズムという、 強烈な偶像崇拝があったからではないか? 「俺は早稲田だ!」という人は、東大出身の黒田寛一への崇拝を受け入れやすいと思う。 つまり、東大への媚びへつらいに繋がっている。 早稲田も東大も全然たいしたことないんだが。 結論 映画芸術2024年春号座談会 「革マル派とは、生政治である。」 (それだけ) これでスガちゃんもアントニオ・ネグリと並んだでーーーーー 大学にこだわるのがよく分からない 単に外に逃走すればいい 外は資本主義的論理が貫徹してるだけだけど 要するに彼らにとっては居場所問題でしょ 大学しか居場所が見つからないんだよw issaku @issaku14 5月1日 かつて、だめ連界隈が集まっていた、 早大文学部正門前にあるスナック「あかね」で村上春樹が、 いつも『少年マガジン』を読んでいたという話。私も久しぶりに行こうかな笑 issaku @issaku14 5月1日 アウトノミア運動のアントニオ?ネグリの追悼特集が『現代思想』で組まれている 今だからこそ、運動の「実践」として「あかね」へ行く意味はあるのではないか (無理矢理) 早稲田あかね @waseda_akane 5月1日 誤字しました。再投稿。 店自体は50年以上前からあり(屋号も同一)、ただスガさんは誤解していて、 当時の『あかね』は政治の時代の早稲田におけるノンポリの避難所としてあり、 そこに大学生の「村上くん」が来ていたと、先代のオーナーから聞きました。(坂本) issaku @issaku14 5月1日 RT、「あかね」という店自体は50年以上前から、あるそうです。 そんな前から、あったとは驚きです。まだまだ知らないことがあります。 ご教示ありがとうございます。 なんでもソーセージ (さっきマクドナルドの朝食でソーセージグリル食べてきた) 大学のサークル(笑)なんてどうでもいいだろとはならないんらだな 生政治がダメなんだって、要は裏でコソコソやるのではなく堂々と殺し合おうということでしょ ノンセクト・ラジカルらしいと言えばらしい 生政治批判だけはいまいちよく分からん どうしたいわけ? 花咲 樋田氏は奥島当局が革マル派を追い出して素晴らしいと言われていますけど、結局、 それは学園祭をつぶしてサークル部室をつぶして自治会をつぶして学館をつぶして当局 完全管理の新学館を作るってことでしかなかったわけだから、破壊されたのは我々のような ノンセクトグループだけではなく全て のサークル含めた自主自治活動の基盤。 裁判所に仮処分まで出されて構内立ち入り禁止処分になったのは私を含む ノンセクト活動家3名で革マルの活動家は仮処分どころか立ち入り禁止になったものは 一人としていない。 絓 以前にも「映芸」の座談会で話したことがあるんですが、映画の『ノルウェイの森』 (10トラン・ アン・ユン)は、68年第二次早大闘争の「英雄」で反戦連合の高橋ハム(公)ちゃんが 時代考証を担当しているから、映画に登場する各派のメットの色がものすごく正確なんですよ。 でも何かおかしいなと思って見ていると、革マルのメットが一つも出てこない。もちろん舞台は 早稲田だし、映画も早稲田大学でロケをしている。で、ハムちゃんから聞いたんだけど、 大学当局が「革マルのメッ トは出してくれるな」とハムちゃんにお願いしたわけです。それで、 舞台は早稲田なのに革マルのメットが出てこない奇妙な映画になっている。 革マル派が今も大学にいるのでなければ、 大学当局が革マルのメットを出さないでくれ と言うわ けないですよ。 亀田 余談ですけれど、戸山キャンパスの向かいの「あかね」の前のオーナーによると、 村上春樹は「あかね」に来て「少年マガジン」をいつも読んでいたという印象が残っていたとのこと。 絓 村上春樹が現在でも98年早稲田の反戦連合にシンパシーを持っていることは、 今やわかっています。 俺はこの映画は内田樹とか石田英敬みたいな元(?) 革マル系文化人に インタビューするのではなく、村上春樹にちゃんとインタビューすべきだったと思い ますね。 可能性はあり追求できたはずで、それだったらこの映画も多少は評価しますよ。 村上春樹は明確に川口君事件について『海辺のカフカ』 (2)で 書いているわけですから。 また、絓秀実が無茶を言うw 村上春樹にインタビューすべきだったとかw 絓秀実出演じゃ役不足なのか? 色々と手詰まり感がある。 他の人も言ってるけど、早稲田なんてほっとけば良い。 アントニオ・ネグリ 『帝国をめぐる五つの講義』 83ページより 主権の諸矛盾 こういうわけで、その内部の限界を不断の圧力のもとにさらし、そうすることで その二重の性質を際立たせる分子的な動態によって、主権は規定される。 われわれが主権を二面性をもつ概念、ヘゲモニーの関係として捉えるとすれば、 いまの帝国的時代にいたる近代全体にわたって主権に刻印された一連の矛盾を発見する。 まず、臣民にとっての致命的な権力としての主権の近代的な軍事的装いを考えてほしい。 ある意味で核兵器はこのような特権を絶対的なものにした。この絶対権力はしかし、 ベトナムで焼身自殺を遂げた僧侶たちの抗議や自爆テロなど自殺の実行によって根本的に 揺るがされた。 〈生〉 そのものが帝国的主権への異議申し立ての努力のなかで否定されるとき、 主権が行使する死活的権力は効果のないことが判明するのだ。 身体に対する絶対兵器は、身体の自発的で絶対的な否定によって無効にされる。 言い換えれば、帝国の時代に軍事行動と警察行動を結合する管理のテクノロジーとなった 主権的 戦争状態は、生政治的な異議申し立ての形態と対比するなら、 堅固な基本原理をもつことをやめるのだ。 この意味で主権は、絶対的であると主張することができないだけでなく、 決定的な危機に突入する。 この文脈のなかで、主権は必然的に対話体とならなければならない。 >>57 > 絓 つまりどういうことかと言うと、革マルの支配というのは「殺す」ということではなくて、 > 「生かす」ことなんですよ。キャンパスにおいて「生きさせる」ことによって支配する。そういった > 「生きさせる」 支配に対して山村 (梁) 政明は抗議をして焼身自殺をしたというふうに、 > 後知恵的かもしれないけれども、捉えることができる。 最初はスガが、 「山村梁の焼身自殺」ということで何を言いたいのかよくわからなかったが、 たぶん、スガの元ネタになってるのはネグリのこの話だろう。 もっともネグリは、他の場所でもこれと同じ話をしてるはずだから、 出典がこの本(『帝国をめぐる五つの講義』)と決まってるわけではないが。 >>84 > この絶対権力はしかし、 > ベトナムで焼身自殺を遂げた僧侶たちの抗議や自爆テロなど自殺の実行によって根本的に > 揺るがされた。 > 〈生〉 そのものが帝国的主権への異議申し立ての努力のなかで否定されるとき、 > 主権が行使する死活的権力は効果のないことが判明するのだ。 > 身体に対する絶対兵器は、身体の自発的で絶対的な否定によって無効にされる。 絓さんが村上春樹に対談かインタビュー申し込むべきだ もしかしたら村上春樹も色々と話の分かってる人に喋りたい気もあるかもしれん これで村上がゲバ杜を傑作であったと評価したら絓はどんな顔をするかな(笑) すがさん あなたー ちょっと パクリすぎじゃーー あーり ません かーーー ??? 毎回そうだが、スガ秀実は被差別部落や在日の人達、障害者らをダシに使う。 やっぱり、焼身自殺は馬鹿げてる。 山村政明が自殺した1970年代初めの朝鮮人差別自体はたいしたことなかった。 俺の幼馴染が在日と知った時も「あ、そうなんや」としか思わなかった。 大阪北部から阪神間は差別は殆ど無かったのではないか? >>85 > この絶対権力はしかし、 > ベトナムで焼身自殺を遂げた僧侶たちの抗議や自爆テロなど自殺の実行によって根本的に > 揺るがされた。 これはあれやろう。 レイジ・アゲンスト・マシーンのファーストアルバムでジャケットになってる ベトナムの僧侶が炎上してる写真の話やろう。 Lucian of Samosata(ルキアノス)が旅の同行者であり、 一時は同じ師を持つ同門の仲でもあったPeregurinusが目の前で焼身自殺したことを 諷刺した作品the death of Peregrinusを残してる。 アントニオ・ネグリ 『帝国をめぐる五つの講義』 107ページより 第2講義・社会的存在論について われわれの方法論的考察の努力を続けるために、生政治の定義がフーコーにあってはどのように 現れているのか、それを出発点として生政治の定義について省察しなければならない。 生政治という用語は、 権力は、一八世紀の終わりから一九世紀の初めにかけて、一定数の規律的プロセス を通して、個々人を 統治するだけでなくこのように人口(=住民)の形で構成されている住民の総体をどのように 統治することを目指すのか、その方式を規定している。 出所を特定された生権力を通して、生政治は、様々な主体が近代国家の発展の中で権力にとって どの程度重要な事柄になるか、その程度に応じて保健、衛生、食、性、出産の運営にあたることになろう。 講義のこの箇所を展開する上で、ここではジュディス・レベルの要約カードに倣うことにしよう。 フーコーは、ある歴史的事実確認、つまり人口(=住民)の全般的な再生産の運営にあたるという意味で、 フランス絶対王政の古典的時代から権力は、人口(=住民)に関心を示し始めたという事実から出発する。 すなわち、保健、衛生、食などに関する再生産である。生政治の考え方には、生政治が現れる時代における 統治の政治的・機能的合理性の歴史分析が含まれている。本題に即して言えば、歴史的省察はここでは リベラリズムの誕生に関わっている。リベラリズムにとって、常にフーコー的語法においては、 コストを切り詰めて領有の効果を最大化することにとどまらない統治の訓練を理解する必要があるが、 その一方で、とりわけ過度のものを統治するリスクによって特徴づけられる何ものかを理解する必要がある。 古典的な時代における絶対王政の国家は、自らの機能の成長を通して権力の展開をはか ってきたが、 フーコーによれば、リベラルな省察は、自らの目的を達成するための手段を統治の中に見出すための 国家の存在からではなく、社会から、すなわち国家に対する内部および外部の複合的関係から 出発するということなのである。 どうやらスガ秀実は、 2000年に入ったあたりから彼は「生政治」という言葉を覚えて よく使うようになっているのだが(著作では革あ革から)、 ネグリの文章から照合すると、その使い方を間違えていますね。 >>84 >〈生〉 そのものが帝国的主権への異議申し立ての努力のなかで否定されるとき、 >主権が行使する死活的権力は効果のないことが判明するのだ。 >身体に対する絶対兵器は、身体の自発的で絶対的な否定によって無効にされる。 >言い換えれば、帝国の時代に軍事行動と警察行動を結合する管理のテクノロジーとなった >主権的 戦争状態は、生政治的な異議申し立ての形態と対比するなら、 >堅固な基本原理をもつことをやめるのだ。 スガの表現してる文脈にこの認識を当てはめると、 「革マル派」というのは、単に生政治のことを指しているのではなく、 もっと厳密に言うとあれは「生権力」というのですよ。 そして生権力はもちろん生政治を行使することによってその支配を果たしています。 しかし、ネグリの文章によると、その生権力に対して異議申し立てをすること、 即ち米軍の存在に対してベトナムの僧侶が焼身自殺をすることもまたそれは、 「生政治的な異議申し立ての形態」と云うのですね。 つまり、生権力の行使してる生政治に対抗する行動の在り方もまた、生政治である には違いないんですよ。 つまり、ネグリ的に考えれば、生政治に外部はありません。 スガ的biopoliticsというのは、むしろジョン・ラスキンのdirtダートやdustダストの用語を使って、 故郷の荒廃と不衛生を論じたエッセイのような美学的な要素が強いのではないか? 花咲やスガが口にする、早稲田のサークル活動の自由や主体性が失われたことに対する不満とか。 それらや山村政明の早稲田大学に対するアカデミックな失望に対して、 やはり同じくアカデミズムへの執着が強い革マルは互いに反発せざるを得ない。 革マルの読書好きは有名だったが、だからこそ大学教授も多数輩出したが、 中核派はコピーライターの糸井重里ぐらいが関の山w 「主権」は革マル派にあり? Sovereinty の所在を巡って。。。 ◯ → Sovereigty なんか随分とまたこれはヘンテコなスペルで書かせる単語なんだなw 中核派は脱落者にも優しい。 俺が生き延びて来れたのは諸先輩のおかげです。 口幅ったいようだが、中核派の良さは強い世俗主義ではないか? それが未来にも繋がるとか、宣伝もしますw read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる