僕が怒っているのは、岸見の本にあったトラウマはでっちあげという言葉です。
それと、これは向後の著にもありましたが、原因論を否定する態度です。

加藤の弟は苦しみの上に自殺しましたが、仮にですよ、彼が自殺を意識しつつも心理的救済を求めて岸見の本を読んだとして、
岸見の本はそんな彼に対してトラウマはでっちあげだと言いきり、課題の分離なるものを説き、共同体感覚たるものを説きますが、彼の心を救うことができたでしょうか?

加藤の弟が抱えた問題は恐らくほとんどが人間関係だったでしょうが、恐らく岸見の本が彼を救うことはなかったでしょう。

私も同じです。岸見の本には私を救えません。私のあの日々の記憶と、現在にもたらす実害を、でっちあげよばわりすることは、到底許すことが出来ません。

私は、加藤の弟が自殺を遂げずに済んだ方法、即ち加藤兄が犯罪を犯さずに済んだ方法を考えます。
すなわち加藤の両親の教育への興味は尽きないのであり、それは原因を可能な限り究明し、そうならずに済んだ方法を考える態度です。

すなわち、私は原因の究明と、それらを事後に生かすことに興味があるのであり、
よってアドラーのおおよその考え方とは異なる人生を歩むことになります。