ゲルマン人の大移動と彼らが建てた諸王国
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古代末期に始まったゲルマン人の大移動、および彼らが各地に建国した
諸王国について語りましょう ヨーロッパはそのうちイスラム教徒にのっとられるんだろうか 日本の人口は、今後80年間で今の半数以下になる
そうすると、財界からは当然移民を入れろという要求が出てくるだろう
そして、中国人、韓国人、イスラム教徒などが大量に移民してくれば、
日本社会の性格も変わってしまう >>853
後でドッと移民を入れるのは良くない。
時間をかけて少しずつ入れていくべき。
自称「リベラル」でさえも、移民には反対しているのが日本の特徴。これに関してだけは、右翼も左翼も変わらない。
でも、それは長い目でみて、いかがなものか。 日本の国民が嫌がっても、経済界は安い労働力を必要としているから、
移民の導入は避けられないのではないかと思う
「多様性反対!」と叫んだところで世界の流れは止められないし、
いまさら鎖国するわけにもいかない >>851
ヨーロッパの左派って頑迷・狂信的で移住先でトラブルをおこしてるイスラム移民をリベラルとしてひいきする反面、
移住先に溶け込もうと努力するイスラム教徒は目の敵にしてるような。 革命の夢からまだ冷めない連中だから社会を混乱させて欲しいんだろうよ。 移民ではないがシチリアに拠点を置いたノルマン人勢力は現地のアラブ人・ギリシャ人の
文化を尊重してて彼らの人材登用もおこなってたんだっけか
>>857
不安定化を図るべく中国共産党が糸引いてそう ゲルマン人国家の君主がキリスト教の聖人名を名乗りはじめたのはいつ頃から?
キリスト教へ改宗した後もしばらくはゲルマン由来の名前名乗ってたみたいだが 中世では先進地域だったアラブは何で近現代において後進地域になったんだ? >>860
中世から少しずつイタリアの都市国家におされるようになっていた もともとアラビア語の方言だったマルタ語で王をさす語はイタリア語由来のre
島の支配者が変わったことが露骨に表れてるな ヴァンダル族は豊かな北アフリカで三代も暮らしているうちに、
すっかり軟弱になっていたらしい
だから東ローマ帝国の軍勢にあっさり滅ぼされた >>851
貧しい人に施しをするのが宗教的義務としているのでその可能性は高い
共産主義でも出来なかったことを宗教でやろうとしている
貧富の差を業の結果とする仏教や貧しい者は努力が足りないと切って捨てるキリスト教にとっては驚異だろう ヴァンダル王国は、東ローマ帝国とのわずか四か月の戦いであっさり滅んだんだよな
歩兵を持たないヴァンダルの軍隊は、べリサリウス将軍の指揮のもとに組織的な
攻撃をかけてきた東ローマの軍勢に太刀打ちできなかった キリスト教を受け入れるようになったゲルマン系諸国家だが同地のゲルマン系が
キリスト教の聖人名を持つようになったのはかなり後(11Cあたり?)なのね 東ゴート王国の首都ラヴェンナでは、ゴート人の居住街区は「蛮族区画」と形容され、
当局はローマ人との混住を禁じていた
この特別街区には、アリウス派キリスト教徒の六つの教会があった
さらに法律については、ローマ人は引き続き帝国の法である『テオドシウス法典』に
依拠したが、ゴート人に関してはテオドリック大王が布告したとされる
『テオドリックの布告』が拠るべき法とされた >>868 何だったらゲルマン由来の名前の聖人がいたり 600年代後半から、イングランドとフランク国家の間で交易が行われていた
イングランドから輸出されたのは手工業製品、靴、毛皮、奴隷など
反対に大陸側は穀物、ブドウ酒、ガラス製品などを送り出した ゴート族などの族という言い方
日本の氏や家(平氏、武田家)とどう違う
ゴート氏、バンダル氏、 全然違う
今でいえばスペイン人とかイタリア人といった感じ ランゴバルド王国には、一時国王が存在しない、
「諸公の時代」と呼ばれる時代があったんだよな
30人以上の諸公が支配する連合政体だったらしい メロヴィング朝フランクも豪族の寄り集まりで大公とか執事、司教のあらそいがひどかった ランゴバルド王国を滅ぼした後、カール大帝は伯職担当者として
フランク人かアレマン人の自らの臣下をすえた
やがてのちにイタリアの中世貴族の多くが、これらフランク人の
血統から生まれていった 東ゴート王テオドリックがイタリア半島を支配したのち、ゴート人の入植は
主としてイタリアの北部と東部で、ローマ人地主は資産の三分の一をさしだした
シチリア、南イタリア、カンパーニャ、ローマ市周辺にゴート人の入植はなく、
そこの地主たちは代わりに土地収入の三分の一を税として差し出し、
それをゴート人の給料にあてた 後期のランゴバルド王国の国王はバイエルン公のアギロルフィング家が相続していたんだな ランゴバルト人はゴート戦争のとき、東ローマ帝国のナルセス軍に二万八千の兵を
提供して、東ゴート王国の壊滅に一役買っている
しかし、ナルセスは戦役の途中で、このランゴバルド傭兵部隊のあまりの野蛮さに
あきれはて、全軍の秩序を乱すものとして解雇してしまった >>881
もっとも長く生き残った東ゲルマン語は
クリミアゴート語らしいけど、
クリミアゴート語はどういう文字で書き表されたの? >>880 ただ食文化だけはゲルマン語を保った集団の中ではあまり洗練されなかったw
気候もあるけど、主にはプロテスタントの出現と産業革命のせいか アーリア人(ゾロアスター教)
↓
ゲルマン人(ゲルマン神話)
↓
北欧人(北欧神話)
↓
アングロ・サクソン人(祖神オーディンの一つ目教) 東ローマ帝国がフランク王国を滅ぼそうとしなかったのは、
彼らの本拠のパリに大軍を進めるとなると、どうしても
アルプスという難所を越えなければならなかったからかな?
その場合、兵站戦の確保に苦労するし、海軍も使えない なぜフリース人ってこんなに長く民族意識を保ち続けたんだろう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA#%E8%AB%B8%E9%83%A8%E6%97%8F
>タキトゥスの時代から大移動までの300年の間連続性を保っていた部族は、
フリースィイー(フリージアン)
今のフリース人とフリースィイーは実は別物? ゲルマン人五大部族(フランケン、ザクセン、バイエルン、シュヴァーベン=アレマネン、フリーゼン)のうちフリーゼンだけは大公領を形成出来なかったと習ったわ >>887
訂正
× 大公領
◯ 部族大公領(Stammesherzogtum) オドアケルは、西ローマ帝国を滅ぼした後も、これまでのローマの行政機関は
そのまま置いた
執政官を含む官吏を任命するときは形式的であれ東皇帝の名においてだった
ゲルマン人は軍務についたが、彼らの大半は上イタリアに地所をもらった
また、それまで庶民に厳しかった課税制度の緩和にも努力した
決して暴君だったわけではない >>885
> 東ローマ帝国がフランク王国を滅ぼそうとしなかったのは、
アリウス派じゃないから オドアケルは外交面でも成果を上げている
ヴァンダル王ガイセリックとの交渉でシチリアの大半をイタリア領に戻したし、
ゼノン帝の承認の下、西ゴートに南プロヴァンスを割譲して和議を結んだ
当時西ゴートはローヌ川を渡り、イタリアに一度攻撃をかけてきている 覇王ガイセリック
暴君テオドリック
傭兵隊長オドアケル
クシャーン大帝カニシカ王 ヴァンダリズムという言葉の生みの親はフランス、ブロワ市の司教
アンリ・グレゴワールで、1794年度の修道士会での発言がもとだった
当時、革命騒ぎのパリで、いきりたった大衆が手あたりしだに
美術品を掠奪、破壊しているのを憂い、455年のヴァンダル王ガイセリックの
ローマ掠奪にからめて”ヴァンダリズム”という言葉を口にしたのである オドアケルは西ローマを滅ぼしたわけでは無い
元老院が皇帝擁立しては暗殺され、各属州からは対立皇帝を何人も擁立させられたり
対立皇帝同士で内戦・領土の奪い合い、執政をローマ教皇に丸投げしたり
国民から皇帝不要論が続出した中での国民の声を代弁してオドアケルが皇帝に退位を迫っただけ
その後はオケアドル、テオドリックの元で執政は古代ローマと同じ様に元老院が取り仕切り
自身達も皇帝や王としてでは無く古代ローマのインペラートル(軍最高責任者)と同じ様な役割をしてた ゲルマン人の大移動という言い方が誤解を与えている
ドイツ人かドイツ民族の大移動という言い方に変えるべきである
ゲルマン人は誤訳 ガイセリックが北アフリカを征服したとき、それまで迫害されていた
ドナトウス派はヴァンダル人に協力したのだとか メロヴィング朝時代、支配地域の統治はローマから継承した官職制にもとづく
機構に依存しており、フランク戦士社会を組織する原理とは大きな隔たりがあった
このために現実に統治の任にあたったフランク人の官職担当者の働きは、
はなはだ合理性を欠いていた
これはしばしば政治的に不安定な状況をつくりだした 仕組みだけあっても意味がないのは現代になっても無理やり導入された民主主義で
国家が空回りしている国々を見ているとよくわかる。 奈良時代に中国の制度を輸入した日本も似たようなものだな メロヴィング期の分王国の中で、もっともローマ文化の刻印の深いブルグントを
中心に、集権的なローマ的統治原理を復興しようとする動きが王妃ブルンヒルドを
旗頭として台頭したが、フランク人の優勢なネウストリアが勝利して潰え去った >>899
天皇やら元号やら、以外と続いてるけどね 大ピピンの一族を支えた貴族門閥や従士集団はゲルマン的伝統を持ち、
もっぱらゲルマン語を日常の言語としていた
メロヴィング朝の人々にゲルマン語使用の事例を見つけることができないのに対し、
カロリング朝のカール大帝にとって生活言語はゲルマン語であり、ラテン語能力は
学習の結果だった カール大帝の息子のルイ敬虔帝は幼少のころからラテン文化の名残を強くとどめる
アクィタニアで育てられたにもかかわらず、その臨終の言葉はゲルマン語だった
本当の意味での旧西ローマ世界のゲルマン化は、8世紀以後のカロリング権力の
伸長がもたらした成果である ルイじゃなくてルートヴィッヒと呼んだ方がいいか
まあ当時のゲルマン語での発音はまた違ってたかもしれないけど ランゴバルド人はローマ的慣習を取らず、自分たちの文化を推し進めていったから、
東ゴート王国よりも文化レベルは低かったんだろうな なんだかんだで東ゴートはローマ帝国の範疇だったが、ランゴバルドはヴァンダルと同様の独立王国だったからな ランゴバルド人もしだいにローマ帝国の役職名や固有人名、
伝統を受け入れるようになった
八世紀になると、ランゴバルド人の言語は失われ、
固有の装束様式や髪形も消滅していたらしい ランゴバルド王アウドインは、ユスティニアヌス1世の進めるゴート戦争に
同盟者として二度、対ペルシア戦争にも一度部隊を派遣した
こうしてランゴバルド人はドゥクスやコメスなどビザンツの軍官職を採用した
彼らはビザンツ帝国への勤務を通してイタリアが肥沃な地であることをも知る
アウドインの子アルボインは567年にゲピデ人を壊滅状態に追い込むと、
パンノニアをアヴァール人に委ね、568年にはアルプスを越えてイタリアへ
入るべく移動を開始した ドイツのKohlhammer VerlagからでているWalter Pohl のDie Völkerwanderung はいつになったら再発されるのかな? >>907
ロンバルディアの地名が残っただけで消えた民族か まるで鮮卑族みたい 北欧にあるゴート語っぽい地名の多くが13世紀頃のゴート人ブームで作られた偽ゴート地名
そのせいでかつてはスカンジナビア=ゴート人の島と推測されていた ローマ、ランゴバルド系貴族の末裔はまだイタリアにいるけどね 各王国におけるゲルマン人の割合ランキング
フランク王国(20%)
ランゴバルド王国(6%)
東ゴート王国(2%)
西ゴート王国(1%) ゴート人は、東西ゴート王国に住んでたゴート人の総数より、実は東ローマ帝国に住んでたゴート人の方が多かった 西欧でゴート人が姿消した後ビザンツじゃ13世紀ぐらいまでゴート人活躍してるのそういうことか クリミア・ゴートの絶滅は惜しいことだ
あと150年?持ちこたえたら蝋管で生の発音を録音できたかも クリミア・ゴート人て何語なの?
西ヨーロッパのゴート人はゴート語を知らなかったようだが 私の人生を危険に陥れるものは、名声や刑罰もそうである。善を行うことがあったとしても名声を掲げない程度にし、悪を行うことがあったとしても刑罰に触れない程度にして、善と悪の中間にある根源を守ることを、不変の原理としたいものだ、そうするならば、我が身体の安全を保持することも、我が身体の安全を保持することも、我が生命を恙(つつが)なく全うすることも、肉親を養育することも、さらには天寿を本来のままに生き尽くすことも、全て可能となるのである。 イベリア半島のローマ人が残した歴史では、ゴート戦争でローマに攻め込んできたビザンツ帝国は「ローマへの叛逆者」ということになっている
そのため彼らは、ローマの敵となったビザンツ皇帝の代わりに正統なるローマの守護者をイベリア半島に推戴し、ローマ帝国の最後の生き残りとしてイベリア半島でローマの名を守り続けた
彼ら最後のローマ人の現代における名称が「西ゴート王国」 イベリア半島に移住した西ゴート人は、当初はゴート語を話していたが、レカレド王が
カトリックに改宗してアリウス派の典礼が行われなくなると、ゴート語も消滅に向かった 孟子は、孔子や老荘・墨子みたいに「思想家としては有名だが、現実の政治には縁がうすい」者でない。 政府が借金証書を新たに書き、それを中央銀行が受ける代わりに、政府に通貨を渡す。 スペイン語内のゲルマン系由来の人名ってゴート由来なのか、フランク語やノルマン語由来なのか
ロドリーゴ、アルベルト、ロベルト、エンリケ、カルロスetc .... ローマの共和制からゲルマン諸王による王制への移行は現代社会の我々から見ると社会の退行に見えるのだがどうなんだろ?
マルクスの唯物論的歴史観によると古代奴隷制から中世封建制への移行は進歩と見ているようだが ローマ共和制とゲルマン王政の間にローマ帝政がある
初期のゲルマン王政は成功した軍人家系が軍の要職を実質的に独占してるってだけで、都市の行政権も持ってなければ行政官の人事権も持ってなかった
ローマ帝国における文武の分離が行き着いた果てがゲルマン王政 ローマ帝政って必ずしも特定の王朝が世襲的に帝位を継いでいった訳ではないので、ローマ共和制の発展段階とみるのだが如何だろうか?
帝政初期には元老院も機能していたの訳だし ゲルマン王も制度上は選挙制なんで実は世襲制度ではなくて皇帝が血縁者を優遇して後継者として育成していたのと同じことが繰り返されてただけ
というか、もっと細かくいえば王も皇帝も王位や帝位といった連続した地位ではなく、必要に応じて次々と別の有識者に指導をこうているって建前になっている
ゲルマン王は王号が一人一人違う(あるいは存命中は王を名乗っていない)が、これは王が先王の王位を受け継いだのでなく新たに推戴された別の王だから、ということになっている >>933
ローマの後継者争いに端を発する事件でもあるのでもっと複雑 欧州中を移動することで
かなりいろいろな血を交えたものと想像される 今のドイツなんて色んな血が混じった極みで
ドイツ人と言う概念はもはやドイツ語を喋れる人と言う括り
それ以外の分類のしようが無い ゲルマン人の遺伝子を追跡したらドイツ人やフランス人には殆ど含まれてなかったってやつか ただ言語や生活様式が似てるだけで他部族と繋がりが何も無いのに勝手に第三者に名付けられ括られただけ
統一意識が最初から無ければ差別意識もまちまち ヴァンダル族はスラブ系と言う説が強くなってきているようだね 当時のローマの記録ですらゲルマン人どもはゲルマン人同士でも互いに言葉が通じずそれぞれ異なる王を担いで争いあってるって言われてる
なんでそんなの一括りにしたのか ガリア人もブリトン人もそんな感じじゃん
各々の部族で好き勝手にやってて統一意識無かった
外敵からの脅威でようやくまとまり始めた ヘレネスじゃないやつらは全員バルバロイ!みたいな適当さ
やつらからすればゲルマン人がゲルマン民族とスラブ民族に別れてようがどうでもいい話だったんだろう 元々がガリア人から見たライン川の向こう側の連中だからなぁ。 ゴート人なんぞ最初はスキタイ人の仲間ってされてたのにいつの間にやらゲルマン人の仲間みたいにされてるし とりあえずIとR1bはゲルマン
R1aはスラブ
厳密ではないけどこんな分類なのかな ガバガバだけどそれぞれに特徴があったんだよ
ゲルマン人は明らかに他とは違う屈強な体付きで
ガリア人はアクセサリー身に着けてたり
ブリトン人は顔青く塗ってて
ピクト人は赤髪とか
統一意識は無かったけど分類される何かは共通してた 古典研究や考古学の成果からは、当時の知識人が古典の名称を色んなものに使い回す傾向があっただけで、同じ名称で呼ばれている人々にはほとんど共通点がなかったと考えられている レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。