>>11
楽器の専門家です。
楽器というのは数千年前にはメソポタミア、エジプト、インド、中国で
現在のほとんどの楽器の原型ができており
海を渡って我々の先祖が持ってきたものもあったでしょうが
ほとんどは8世紀頃にシルクロードを通って日本に伝わっています。
御存知の通り正倉院にはクゴと呼ばれるハープがあります。
楽器はあったのになぜ邦楽は西洋の音楽のような発展をしなかったか?答えは簡単です。
西洋では音楽が一般人の生活の糧になりました。ジョグラールという職業があったのです。
ジョグラールは貴族のお抱えになるとミンストレルというものになり
完全に生活が保証されました。いわゆる吟遊詩人です。
一方日本では音楽を生活の糧にするのは盲の専売特許でした。盲の仕事をとっちゃ悪いという感じです。
それに農民は楽器するより畑仕事しながらデタラメに歌ってたほうが楽しかったのです。
「はあ〜〜〜〜〜〜」この時に歌詞を考えます。歌詞を思いついたら
デタラメに抑揚をつけながら歌う。これが田楽になりました。
初期の頃の歌詞は誰かに対しての悪口やら皮肉やらが多かったようです。
なんだかラップみたいですね。
これは民間の話ですが一方で宮中ではみなさんご存知の雅樂というものもありました。
残念なことに応仁の乱で京都の雅樂奏者が方々に散らばってしまったらしいのです。
戦国時代の混乱期を経て雅樂がまた輝きを取り戻したのは江戸時代でした。
これでは戦国時代のポルトガル人宣教師はまともな雅楽を聞けなかったと思われます。
雅楽を聞いてたらポルトガル人の日本の音楽に対するイメージも違っていたでしょう。
余談ですがに織田信長は宣教師が伝えた西洋音楽をたいそう気に入ったらしく
安土城内にセミナリオという神学校を作り30〜40人の子供にオルガンやチェンバロ
を学ばせていました。信長は日本の音楽を変える力をもっていました。
ですが信長の死、鎖国、キリシタンの迫害によって日本の中の西洋音楽は夢のように消えました。
そして西洋音楽が日本と真に交わるのは19世紀の大山巌陸軍元帥、イギリス軍楽j隊長フェントン、
一等伶人の林廣守、宮内省雅樂課の奥好義、ドイツ人海軍軍楽教師フランツ=エッケルトによる
「君が代」の作成からとなります。