【栄光の】ビザンツ帝国総合スレ11【東ローマ】
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一千年に及ぶ繁栄・衰退を誇ったビザンツ帝国史について語りましょう。
基本はsage進行。バルバロイによる荒し、煽りは適当に無視して下さい。
現代トルコ・ギリシャの話はできるだけ他所でやってください。
前スレ
【栄光の】トレビゾンド帝国総合スレ【東ローマ】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1284293895/ >>420
教会合同で皇帝がカトリックに改宗したからモスクワに見捨てられたのでは 旅客機事故のついでに注目を集めるか?
トレビゾンド帝国 もう、東ローマ帝国マケドニアを名乗ってしまえば良いよな気もするな
ギリシャもブルガリアもルーマニアも激おこだけど
古代マケドニア(ギリシャ人格国家)が北西部の現マケドニア共和国地域を支配
↓
その後ローマが侵攻、まとめてマケドニア属州として支配
↓
ビザンツ→オスマンと支配者が代わってもそのまままとめてマケドニアと呼ばれ続ける
↓
その間スラブ系民族(現マケドニア人の祖)が流入
スラブ人が支配的民族になる
↓
ブルガリア&ギリシャ独立
オスマン支配のマケドニア地域に住むスラブ系民族の中にマケドニア人という民族意識が生まれる
↓
第一次、第二次の2つのバルカン戦争を経てマケドニア地域はオスマン支配から離れ
ギリシャ、ブルガリア、セルビア(ユーゴ)に分割される
↓
ユーゴ崩壊後ユーゴ内のマケドニアはスラブ系国家マケドニア共和国となる
↓
ギリシャ人国家マケドニア王国の発祥地を持つギリシャ切れる
(ブルガリアも切れる)
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/01/19/20180119k0000e030218000p/9.jpg >>351
そもそも「パンとサーカス」自体、ユウェナリスっていう(当時の)社会や権力者や若者に憤ってた爺さんのボヤきな訳で >>440
現マケドニア共和国地域 = ペラゴニア&パイオニア&ダルダニア 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
ANCSZ アレクサンドロス大王の英雄譚も良いけど
個人的には十字軍の方がワクワク感が半端ない
異教徒ぶっ倒して聖地奪還とかこれ以上のロマンはないわ
聖十字架を発見した騎士たちの感動も一入だったろう 第一回十字軍なんて不利な状況の中よく戦ったもんだ
ローマ皇帝は全く手助けしないし
もし皇帝が強力なバックアップしてれば以降の十字軍との関係も変わったものになってたろうな 初歩的な質問で申し訳ありませんが、コンスタンティノスとコンスタンティウスの呼称の違いってどう意味があるんでしょうか?
あとコンスタンティノス11世ドラガゼスなど
〇〇何世の後につく名前はどういう意味ですか? >>447
にわかだが、わかる範囲で。
コンスタンティノスとコンスタンティ「ウ」スは違う名前。(スペルのnの有無に注意)
でも、呼称の違いと書いてあるので、本当に聞きたいのは
コンスタンティ「ヌ」スとコンスタンティノスの違い、では?
それならローマ帝国(東)の公用語がラテン語からギリシャ語へ変わった事による変更。
最近だとグルジアとジョージアみたいなもの。
名前の後は""でくくってあればあだ名で、なければ性
コンスタンティノス5世"コプロニュモス" はニックネームで
コンスタンティノス9世モノマコスとか
コンスタンティノス11世ドラガセスは名前
(コンスタンティノス・パレオロゴス・ドラガセス) >>448
なるほど、しっくり来ました
ありがとうございます!! 西側がローマと認めないから東ローマ帝国をビザンツ帝国と呼びますが、逆に自称、神聖ローマ帝国を他の呼び名はありますか?
できたら神聖ローマ帝国を認めない視線での呼び方があれば教えてください >>448
神聖でもなく ローマ的でもなく
ましてや帝国でさえない >>450
ドイツ帝国?
帝位継承権はハプスブルク家以外にも認められてたから、逆にハプスブルク帝国だとオーストリアに限定されるよな ブロックチェーン関係でよくこの帝国の将軍が出てくるな。 >>452
レスありがとう
カール大公のフランク帝国→オットーの神聖ローマ帝国→オーストリア=ハンガリー帝国→ドイツ帝国
こんな感じの流れなわけですね
ナチの第三帝国もあえてソレを意識させてるのかな
いろいろ読みあさって勉強したいと思います >>455
五体満足でないと皇帝になれないっていう慣習があるから。当初は鼻を削いでたけどユスティニアノス2世っていうやべー奴が出てから目を抉るようになった。おそらくペルシャあたりの影響と思われる。 殺すだけか?将来目測。殺しが最優先?発達未来あるのに。 新書で見たけど歴史モノというよりは、裁飾モノの様だよねえ。ハプスブルグは。 バシレウスとアウトクラトールってどういう使い分けされてたんだろう? >>457>>460
ありがとう勉強になりました
捕虜も先導役だけ片目残しあとは両目潰した?手首切り落とした?みたいな話もどこかで聞いたような >>457
失明させられても義眼入れて暴れる皇帝がもし居たら、その後はどうなってたんだろう・・・ 『ビザンツ世界論』途中まで読んだけど挫折した... エデッサはギリシャの古代都市として成立していたが、黒海沿岸のオデッサの都市成立は近代であって、古代にはありそうでなかったのだ ビザンツ帝国では魚料理が好まれてたのね
ttp://blog.livedoor.jp/cucciola1007/archives/3487460.html 地中海沿岸だから魚食べるのは不思議に思わないけどサーモンまで食べてたなんて交易国家らしいよね。 かつてのトルコ人のほうが、そのへんは色眼鏡かかってないよね
多少訛ったけど、ちゃんとルームとかルーム人と呼んでいた 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
O2P ウィキペディアで東ローマのダメ皇帝
https://ja.wikipedia.org/wiki/コンスタンティノス8世
・・・を見ていたら、
「古代ローマの剣闘士競技を復活させて自ら野獣相手に戦った」とあった。
60過ぎの当時としては超高齢者が野獣相手にコンモドゥスばりの立ち回り?
あり得るのかな執筆者の勘違い? 英語版みてもそういう記述はないな
しかも即位時には痛風で満足で歩くこともできなかったとあるし 東ローマ帝国の全盛期はマケドニア朝のバシレイオス2世の時だよなあ
このときにイタリア半島再征服すればよかったのに
ベネツィア、ジェノバ、アマルフィ、ピサ、ローマ全部手に入れることができ
安定支配もできたんじゃないのか >>479
でも後継者はあの人ですよ?
悲劇の範囲が広がるだけのような…… >>480
確かに後継者があの人ではベネツィアなんかは真っ先に離反しただろうな
しかしローマの支配を握ったままなら後々の歴史は大きく変わったような気がする
もしかしたらマンツィケルトで負けることもなかったかも
コムネソス朝の国力では皇帝一人が優れていても無理なもんは無理だったし
結果的に滅亡を速めている >>481
確かに国力があれば、コムニノス朝の皇帝達はその才能をより大きな成果に結びつけられたかもしれないし、
ロマノス4世は大敗しなかったかもしれない。けれども、神聖ローマと領土が接することになるんだよね。
長期的に東にセルジューク朝(またはオスマン・トルコ)、西に神聖ローマ帝国と大敵を持つことになるけれど、これがどの程度負担になるか。
そして征服事業で得られた領土は中世ローマ帝国が取りうる政策で国力の足しになる領土となるのか。
これはIFにIFを重ねる話だから、世界史板でやっていい話か分からないけれど。 >>482
神聖でもなければローマでもなくそもそも帝国ですらない国を
何で正当なローマ皇帝が恐れなければならないんだ? 領内すら満足に納められない神聖ローマがバルカンまで攻めてくるとは思えない
十字軍とかはかなり変わりそうだが >>473
ビザンツは後世で当時はローマじゃないのか? >>483
チョンファン陛下と同じはったり権威がある >>487
バシレイオス2世時代の神聖ローマ帝国は国内が混乱していて
後の30年戦争時代前までのハプスブルク帝国の強さとは全然違う
従って東ローマ帝国がイタリア再占領しても何の問題もなかっただろう
権威的な意味でのローマ、商業活動でアドリア海の女王と言われて元々帝国領だった
ベネツイア、その他ライバルのジェノバやピサやアマルフィを手に入れていれば
その国力の充実は全然違ってくる。バシレイオス2世がトルコ人とブルガリア人を
追い払ったところで止めてしまったことが後の滅亡の遠因にもなった アルプ・アスラーン : 「もし捕虜となったのが逆に私の方だったならば、貴方はどうするだろう?」
ロマヌス : 「きっと貴方を処刑するか、コンスタンティノープルの街中で晒し者にするだろう。」
アルプ・アスラーン : 「私の下す刑はそれよりも重い。私は貴方を赦免して自由にするのだから。」
これ意味深だなあ。
一度プライドを失ったら落ちるだけなのかもしれん。 >>489
実際にはコムネノソス朝が最後の中興をするのだがマヌエル1世がいかに頑張ろうとももはやあの時代では失われたイタリアは返って来ずに国力を消耗した結果として
十字軍に首都を占領されてしまう
バシレイオス2世がイタリアを占領し、その上でセルジュークトルコと戦ったら
どうなったのか。あるいはそれを乗り切ったとしてモンゴル帝国と直接対決したら
どうなったのか。史実ではパレイロゴオス朝はイルハン国と同盟するのだが
それ以外に選択肢がなかったともいえる バシレイオス2世がイタリアを占領する事は東ローマにとって自殺行為
バルカンを奪回する為にを対ブルガリア戦を強行した結果
テマ制が崩壊してアナトリアが無防備になったのだから
これでイタリアも占領したらセルジュークにアナトリアだけでなく
帝都も奪われてしまっただろう
東ローマの歴史は西方領土を奪回すると没落する事の繰り返し
ユスティニアヌス1世がイタリアを奪回するとバルカンをスラブに奪われる
ミカエル8世がコンスタンティノープルを奪回するとアナトリアをトルコに奪われる >>491
あの時代のセルジュークにコンスタンティノープル城壁を落とせるとは到底思えない
小アジアの領土なくてもバルカン+イタリアを安定させた方がよかったと思うんだが
ベネツィアが金の卵なのは間違いないし
バシレイオスも南イタリアの安定はやってる。全イタリアが無理なら
うるさいローマ教皇を抑えるためにローマとアドリア海の女王だけでも 中世東ローマにとって小アジアこそ本国
むしろバルカンを放棄してでも小アジアを死守すべきだった ひょっとして、メソポタミアやペルシアに進出した方が後顧の憂いを絶てるのではないだろうか >>494
ロマノス4世はセルジューク本国のイランへ遠征しようとした
マンジケルトの戦いは防衛戦ではなくイラン遠征の前哨戦だった
イラン遠征の為に城攻め用の人夫を数多く連れていたので
これが足手まといになり敗北の一因となったとされる >>495
ということはですよ、マケドニア朝の最盛期(ニキフォロス2世、ヨアニス1世、ヴァシリオス2世等)にそれをできていたならば、
オスマントルコを凌ぎ、アケメネス朝ペルシア帝国に匹敵する巨大帝国が誕生していたのでは? >>496
東ローマにとってはメソポタミアはどうでもいい地域で歴史的に必然的に
イタリアを目指す宿命がある >>496
マケドニア朝の最盛期にはブルガリアやキエフ大公国などスラブ諸国が脅威だった
ブルガリアを征服しキエフ大公国が分裂しないと遠隔地へ遠征する余裕がない >>498
ブルガリアを征服した後も国庫は財宝であふれかえっていたらしいから
それ使ってイタリア征服なら簡単だっただろうに
何せ南イタリアに拠点あるのだし、北部イタリアも目と鼻の先 金だけで何とかなるのかな
良質な兵士を提供したアナトリアの小作農が、連年の遠征で没落してたんでしょ >>499
バシレイオス2世が延命すればイタリアに遠征したはず
イタリア征服に成功した場合は戦力が分散するだろうから
マンジケルトの戦い以前にブリガリアとかが再独立したかも
ブルガリアが再独立してバルカンが危険になった場合
東ローマは仲間割れせずに小アジアを死守したかもしれない
すなわち東ローマは滅亡を免れてたかもしれない >>500
アナトリアの小作農ではなく自作農が没落した
共和政ローマ 兵士兼農民→兵士
中世東ローマ 兵士兼農民→農民 ロマノス4世が率いた軍は多くが傭兵だった
トルコ系ペチェネッグ人の弓騎兵や
フランク人とノルマン人騎士が花形だった
十字軍は既にスタートしていた 要するに東ローマは古代ローマのように強くなかったから
大量の奴隷を入手する事が出来なかったわけだな
コムネノス家とか貴族が奴隷制の大農場を経営していたのならば
没落自作農が職業軍人になって東ローマは古代ローマのように
大帝国に拡大出来ただろう
東ローマでは没落自作農は小作農になり兵役を免除された >>504
コムネノス家はマヌエル1世が国力に見合わないローマ帝国の復興をあげて
イタリア制服しようとしてベネツィアやジェノバを敵対勢力にしてしまったから
致命的なことになった。もしも守勢に徹していたならそのままの状態で現在でも
続いていたかもしれないし、モンゴル帝国に危険視されて滅ぼされていたかもしれない
セルジュークにコンスタンティノープル城壁落とすなんぞ無理だがモンゴルなら
可能だからだ >>505
マヌエル1世がユスティニアヌス1世ではなくバシレイオス2世を手本に
していたのならば東ローマは生き延びたかも
コンスタンティノープル城壁は石造なのでモンゴル軍に耐える事が可能
イランやイラクの城壁は日干し煉瓦製で見かけによらず脆かった
ロシアと東欧諸国は木の城壁だけどウィーンとかが石の城壁なので
モンゴル軍は無理をせずに帰還した >>506
南イタリアだけならともかくローマ占領はそれくらい難しいのかな
ユスティニアヌスは確かに成功しているがローマという都市はそれで一度死んだとも
言えるくらい致命的打撃を受けているし >>507
中世東ローマはギリシャ人が多数派の国だからイタリアに強い愛着がなかった
マンジケルトの戦いでもロマノス4世はアルメニア人が多いカッパドキア出身なので
アルメニアを異教徒の支配から取り戻そうとしたけどギリシャ人らの戦意は低く
不利になるとすぐに逃げ出した >>508
いくら軍の資質で劣っても数では倍以上だったんだから勝たないとな
もしバシレイオス2世がマンツィケルトの戦いしたら多分勝ってるわ >>509
東ローマ軍の後衛を指揮していた副帝アンドロニコス・ドゥーカスは
先帝の弟である父ヨハネス・ドゥーカスこそが皇帝になるべきだったと
ロマノス4世の即位に不満であったのでこの機会にわざと退却したとされる
東ローマ軍の後衛が退却せずに突撃したのならばアルプ・アスラーン軍は
逆包囲され壊滅しただろう
当時セルジューク本国ではホラズム総督とかが反乱を起こしていたので
アルプ・アスラーン軍に援軍の可能性は低かった 東ローマはやっぱりキリスト教国で啓蒙思想もなかったから特に何も生み出せなかった
ローマ帝国の精神的後継者は政教分離を徹底したベネツィアなんだろうなあ
啓蒙思想がキリスト教を抑え込んで初めて人類は産業革命を起こしてローマを超えることが
できた >東ローマ軍の後衛が退却せずに突撃したのならば
このIFを東ローマに適用するなら、
>セルジューク本国ではホラズム総督とかが反乱を起こしていた
に対しても、反乱が無いIFを適用すべきだろう
両方のIFを適用すれば、結局のとこマンジケルトの結果は変わらないであろう >>512
変わらないなら変わらないでマヌエル1世がローマ帝国の復興を言い出さなければ
コムネノソス朝はそのまま続いた可能性はある アルプ・アルスラーンはファーティマ朝を倒してエジプトを征服しようとした
新たな牧草地が欲しい遊牧トルクメンはエジプト遠征に乗り気でなかったので
アルプ・アルスラーンは側面援護を兼ねてトルクメンらにアナトリア遠征を許し
自らはマムルークを率いてエジプトへ向かいシリアに侵入した
ところがロマノス4世にトルクメンが敗退し
さらにセルジューク本国で謀反が起きたので
アルプ・アルスラーンはエジプト遠征を断念してシリアから退却した
そしてロマノス4世と講和して急いで本国に戻ろうとしたけど
ロマノス4世が講和を拒否したのでマンジケルトの会戦となった アルプ・アルスラーンはマンジケルトの会戦後に本国へ戻ると
西方領土拡大から本国重視に方針転換して中央アジアを制圧した
アルプ・アルスラーンは本国の兵力が減るのでトルクメンが移住
しないようにアナトリアを東ローマ領のままにしようとした
セルジューク朝では遊牧トルクメンが牧草地を求めて
イランの農地を牧草地化しようとして問題になっていた
セルジューク朝のイラン人宰相ニザム・アルムルクは
アルプ・アルスラーンの死後トルクメンをアナトリアへ移住させた
アルプ・アルスラーンは互いに対立するトルクメンとイラン人の
双方にとって邪魔な存在だったようだ アルプ・アルスラーンはユーフラテス河を国境としてアルメニアを
セルジューク領としてロマノス4世と講和しようとした
これにニケフォロス・ブリュエンニオスらギリシャ人諸将は
賛同したけどロマノス4世は拒否してマンジケルトに進軍した
ロマノス4世がアルメニアを東ローマ領にしてアルメニア人を
ギリシャ正教徒に改宗させようとしたのでアルメニア正教徒の
アルメニア人はセルジューク軍に参加してロマノス4世に抵抗した
ロマノス4世もギリシャ人とアルメニア人にとって邪魔な存在だった
1072年にアルプ・アルスラーンもロマノス4世も自国人に殺された ロマノス4世死後アナトリアのアンカラでノルマン人傭兵が
反乱を起こしてガラテア公国と称して自立しようとした
副帝アンドロニコスは父とともにこれを鎮圧しようとして敗北した
東ローマはノルマン人傭兵の鎮圧をセルジューク軍に依頼すると
セルジューク軍は傭兵だけでなくアンカラの住民も残らず追い払った もし11世紀にセルジューク朝相手にうまくやれて、アナトリアのテュルク化を防げたとしてだ
どうせ13世紀にはモンゴルの波がやってくるわけで、ルーム・セルジューク朝みたいな緩衝材なしに対峙してしまう
従属国で済むんなら史実より良い状態で14世紀を迎えられるかもしれんが、下手うったら200年早く滅亡コースだからな >>519
アナトリアにトルクメンが移住して本国の戦力が流失したので
セルジュークはカラ・キタイに負けたりするようになった
同様にアフガンのゴール朝もインドを征服すると本国から戦力が
流失してアフガンはホラズムに征服されてしまった
セルジュークの後継者ホラズムは流失したトルクメンに代わる戦力を
同じく遊牧民のカンクリ族で補い大国化したけど新参のカンクリ族と
従来から兵との対立でモンゴル軍に対して団結出来なかった 新たな遊牧地を求めてたのはトルクメン自身だからなあ
アナトリアにいけなくなったら、ほかに行ってたんじゃね?
いずれにしても、こういう歴史IFをしだすとキリがないし詮無いな トルクメンとかはモンゴル軍に比べて規律が悪いから数が多くても勝てないだろうね
モンゴル軍はとにかく戦利品の略奪は戦闘終了後で違反者は厳罰に処せられた
他の多く国は遊牧民も農耕民も戦利品はだいたい早い者勝ちだった
いち早く戦利品を手に入れて満足した兵が勝手に帰ってしまう事が多かった 要するにニザーム・アルムルクがイランのトルコ化を阻止したわけだよな
もしトルクメンをアナトリアへ追い出さなかったのならばイラン全土が
アゼルバイジャンやトルクメニスタンのようにトルコ化したのだろうな
これはかつて東ローマがゴート族を西ローマ領に移住させた事に似ているな
もしゴート族がバルカンに定住し続けたら後のブルガリアのようになったはず >>519
もし11世紀にセルジューク朝相手にうまくやれて
アナトリア全土が東ローマ領のままならば当然
ロマノス4世の出身地カッパドキアも健在となるけど
カッパドキアはヘラクレイオス1世やニケフォロス2世も
輩出した尚武の気風の地だけど住民の多くがギリシャ化
していなくてアルメニア人が多かった地方だから
いつまでも東ローマ領であるとは限らなかった 中国の史書にコンスタンティノープルに大きな水時計があったと
記されてるんだが、詳細分かる記録ある? http://www.afpbb.com/articles/-/3217445
トルコ大統領、アヤソフィア博物館のモスクへの改名を示唆
2019年3月25日 23:09 発信地:アンカラ/トルコ [ トルコ 中東・北アフリカ ] ビザンツの魅力ってあまりにも戦争が弱いのに1000年も続いたしぶとさだよな イスタンブールのモザイク博物館に展示されてる大宮殿のものと推測されるモザイク画は血生臭い絵が多かったな。
猛獣が獲物に噛みついている絵など。
尚武の気風ということなのかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています