【栄光の】ビザンツ帝国総合スレ11【東ローマ】
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>>575
じゃあ最初から言うんじゃねえぞ?この知恵遅れが。世の中を蔑むのもいい加減にしろよな? >>488
そこまで求めるのは無理ゲー。
バシレイオス2世に広域的な商業を解するだけのアタマはなかった。
禁欲的で質素を重んじたせいで、経済的には停滞した、とまで言われている。
ピサやジェノヴァを手に入れたところで、持て余すのが関の山。 >>581
仮にバシレイオス2世に広域商業、経済を理解できるアタマがあったら、是が非でもノミスマ金貨の改鋳に踏み切ったと思う。
つまり通貨供給量の増加によるデフレ対策と域内経済振興と出目(でめ)収入。
「中世のドル」とまでいわれたノミスマでそれをやるなら効果は絶大だっただろ。
しかし結果的にバシレイオスが活躍した11世紀初頭までノミスマ金貨の純度は変わっていない。
金の供給量は変わっていないのだから、通貨供給は増加しなかった、と考えるべき。
金貨の純度が劇的に低下するのは12世紀末、ミュリオケファロンの敗戦後。
東ローマにとって苦し紛れの出目収入策だったが、地中海域内で一気にインフレが進行。
商業国家であるジェノヴァやヴェネツィアで投資が進み、後の台頭につながった。
ただ、これをバシレイオスに求めるのは酷に過ぎる。
貨幣価値は貴金属の含有量ではなく、発行体の信用力によって決まることを喝破したのは、7世紀も後、江戸時代日本の天才勘定奉行荻原重秀だった。 あっ、間違えた。
ミュリオケファロンの敗戦後は11世紀末だった。 >ミュリオケファロン
この単語、いつも「桶」とか、マヌエルが右手でOKしてるとことか連想しちゃう 中世みたいな
供給能力低い時代に
デフレなんてあったの?
常にもの、サービス不足のインフレ状態だと
思うんだけど >>585
供給能力は低かったが、需要も低かった。
もっと低かったのは貨幣の供給能力。
むしろデフレ状態の方が多かったよ。 >>582
>発行体の信用力によって決まること
これって中国の紙幣や16世紀フランドルの為替等で既に判明していたことじゃ? >>587
中国のこうしゃ(変換できねーw)は明らかに違う。
フランドルの為替はノーチェックやった。
ご指摘dくす! >>588
>中国のこうしゃ(変換できねーw)は明らかに違う
そうかな? 発行した紙幣の期限を決めて回収するように調整していたのは
政府の信用力を認知していたからだと思うのだが
まあ、中国の紙幣は貨幣は、毎回増刷し過ぎたり界もだんだん期限が長くなり最終的に無期限化したりしてたわけだけど
中国紙幣は為替が起源だけど、これはそれまで度々あった鉄銭や布巾など、銅銀金が不足していて貨幣供給不足の
場合に別素材を貨幣として流通させたもので、その場合必ず貨幣安定論として戦国時代からある子母相権論が出てくる >>589
>発行した紙幣の期限を決めて回収するように調整していたのは
>政府の信用力を認知していたからだと思うのだが
受取り拒否は死罪!
こんなこと決める時点で信用力とかもはや関係無し。
貨幣の3条件(支払決済手段、価値尺度、価値保蔵)のうち後2者を満たしていない。
つまり死刑にさえならなければ誰も受け取りたくないし、誰も価値基準としないってこと。 確かに江戸幕府でも享保時代に貨幣改鋳を荻原重秀より確信的に、より徹底してやった大岡忠相は、旧貨幣の供出を拒否った4豪商の手代(現代風に言えば部課長級かな?)を問答無用で伝馬町の牢にブチ込んだが、別に誰も殺していない。
そもそも主人(代表取締役)でもなく番頭(役員級)でもなく、手代なんぞ遣わす時点で、豪商側の方が幕府(軍事政権)を舐めてたわけだが。 >>590
>受取り拒否は死罪!
これ出典は?偽造したり、価値を毀損するようなことをした場合の話じゃないの?
雑学系の本ではなく、中国経済史の本では見たことがない
自分が知らないだけかも知れないので、まともな出典を教えてほしい
なお、自分が書いている信用の話は、元の話だけではなく、宋金代の話も含む(というか、
最初の紙幣なので、主に宋金のつもりの話で書いていた) なんだwikipediaか、、、まあ一般書とはいえ出典はわかったから、こんど確認してみるわ
仮に元の交鈔がそうだとしても、宋金とは違うという話だよね 話を戻すと、ビザンツのヒュペルビュロンの暴落は、コイン史で有名なシラカワサイトによると
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/E035.htm
ちょうど1200年頃、第四回十字軍の頃に見える
でも1176年のミュリオケファロンの敗戦とその後の条約がきっかけかも知れない
どっちなんだろうね >>595
すまん、ミュリオケファロンとマンジケルトの敗戦を混同してたわ。
高校行きなおしてきまつ・・・orz
ソリドゥス金貨
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B9%E9%87%91%E8%B2%A8
しかし紙幣の概念の無いこの時代、「中世のドル」の乱発(というか、それまでが貨幣不足のデフレだった)は交易上のインフレを招いたことはほぼ間違いなく、こちらも話を戻すが、ジェノヴァ、ヴェネツィア等の商業都市の台頭を招いた。 >>570
つ『コンスタンティノープルの陥落』 塩野七生 バシレイオス二世の時代は、戦争して略奪して奪った敵国の貨幣や財宝を自国貨幣に改鋳にする、
というような安直な考えしかなかった時代だからねぇ >>598
確かに軍人皇帝時代らしい大雑把で乱暴なやり方。
しかも、それを胎蔵するために、宝物庫の床まで掘り下げるとかな。
しかしそのおかげで、帝国は安定した「中産階級」を抱え込むことができた、と言えなくもない。 >>570
>>597
小説なら
「艦隊山越え 征服王スルタン・メフメット」豊田穣
歴史解説ものなら
「イスタンブール 三つの顔をもつ帝都」ジョン・フリーリ
(「世界の都市の物語」シリーズ内)「イスタンブール」陳舜臣
といった本もあるね 新書48
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/books/1587183828/
38 無名草子さん (ワッチョイ dfbd-h83k) sage ▼ 2020/05/04(月) 05:19:42.19 ID:GxTw+zjF0
@中公新書6月。
遠藤耕太郎『万葉集の起源 東アジアに息づく抒情の系譜』
加藤文元『数学する精神 増補版』
蔭山宏『カール・シュミット ナチスと例外状況の政治学』
倉沢愛子『インドネシア大虐殺 二つのクーデターと史上最大級の惨劇』
中谷功治『ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち』
--------
シュミット本の著者は政治(哲)学でもなく法(哲)学でもなくドイツ思想史が専門のようだ。注目。 >>601
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784121025951
中公新書 2595
ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち
新書
中谷 功治(著/文)
発行:中央公論新社
新書判 336ページ
定価 940円+税
ISBN9784121025951CコードC1222
教養 新書 外国歴史
出版社在庫情報不明
発売予定日2020年6月23日
登録日2020年5月7日
最終更新日2020年5月7日
紹介
千年以上にわたるビザンツ帝国の歴史。
本書は、文字どおり波瀾万丈・有為転変の連続であった、その軌跡を描き出す試みである。
個性豊かな皇帝が登場し、過酷な政争や熾烈な外交および戦争が展開された歴史は、ダイナミズムに富んでいる。
コンスタンティノープルの発展、帝国が各地に及ぼした影響、十字軍との関わりなど、
豊富な論点を踏まえて、帝国の内実を描き出す。 まーた通史か
同じようなばっかしで面白くないな
どうせ皇帝の羅列だろ 小笠原『オスマン帝国』が売れたので二番企画なんだろうよ
オスマン帝国はかなり本が出ているようで、最初から最後まで全部扱った通史は
出てなかったからそれなりに売れたが、ビザンツ通史はもう何冊も出てるからなあ 読んだよ
個人的には読みにくかった
原文の文章の癖なのかな おい聞いてくれよお前ら
エルドアンの野郎がとんでもない暴挙に出やがった
トルコ大統領 「アヤソフィア」をイスラム教のモスクに変更
2020年7月11日 6時23分
イスラム教徒が多数を占めるトルコのエルドアン大統領は、
イスタンブールの世界遺産の一部で博物館として使われてきた歴史的建造物「アヤソフィア」をイスラム教のモスクに変更したと発表しました。
アメリカやギリシャはアヤソフィアを博物館のまま維持するようトルコに求めていただけに、今後、波紋が広がりそうです。
ttps://www3.nhk.or.jp/news/html/20200711/k10012509781000.html 何を今更。1453年に東ローマは終わったんだ。建物が残っているだけでも良しとしないと。 本当だわな
アルハンブラ宮殿のモスクは今やカトリックの大聖堂だが今更返せなんて言うのも野暮の話
むしろ建築が現存し歴史を伝えてくれるだけでもありがたい
アギアソフィアもまた同じこと 東ローマ人だって自分たちでイコン破壊しまくったのにな
お陰でローマ絵画の流れを組んだ旧イコンは極僅かしか残らず、下手くそなビザンティンイコンが主流に でも写実的な前期イコンには魅力も精神性も感じないなあ
フロレンスキイ神父が言ったように、物理法則や写実性を無視したところに彼岸性や精神性が立ち現れる 精神性だの彼岸性だのは後付だけどな
文化大革命の後の革命的新イコンを後付で評価してるだけ ビザンツ帝国では、農業技術の発展がほとんどみられなかったけど、なぜなのかな
西ヨーロッパでは農業生産が何倍にも増大し、イスラーム世界では灌漑によって
収穫が飛躍的に伸び、東方の作物も栽培されるようになったのに対して、
ビザンツでは11世紀の間、農業の生産性はまったく変わらなかった コンスタンティノープル一極集中は現代日本の東京に似ている テサロニカ、エフェソス、トレビゾンドなどの街も経済的には重要であり、
また当時としては破格の3万から4万という人口を誇っていたが、首都である
コンスタンティノープルとは比べようもなかった ビザンツ皇帝は、「人の住むあらゆる土地」の支配者でなければならない
ビザンツ人にとって、外国人などというものは、少なくとも理論的には存在しなかった
建前上、皇帝が条約に署名するのではない
たとえそれが帝国に不利なものであっても、他国との条約はすべて、
「皇帝の寛大かつ一方的な譲歩」という形を取った
ちょっと中国に似ている テマ制度は唐の節度使にそっくりだな
前者はその後完璧に大土地所有を認める封建社会になったのに対して後者はガチガチの中央集権の宋朝が成立したという違いはあるけど
また前漢の武帝、魏の曹操、明の洪武帝永楽帝みたいに北の遊牧民を逆に侵略してボコボコにしてた時代もあるけど
東ローマは北方民族に優位に立てた時代がまったくない
攻めてきたら地方は捨てて首都に防御全振りしてやり過ごすか貢物おくってお引き取り願うかのどっちか ビザンツの地方貴族の出世とは、コンスタンティノープルに移って館を建て、
高位の官職につくことだった
貴族たちは、公務以外から報酬を得ないという、古代の有閑階級の生活様式を守った
このようなことは地方の所領からあがってくる莫大な収入があって可能なことであった >>622
テマは世襲ではないので節度使とは違うんでは?帝政ローマ時代の皇帝属州の総督(軍団指揮権を有してた)の方が近い ビザンツも中国も、「対等な関係」というのを認めない文明だけど、
実は近代ヨーロッパの、「対等な主権国家同士の関係」のほうが
人類史の中では特殊なのかもしれない >>625
互いの国力を無視して「対等」に扱うというのは本来不自然極まりないことだからね。
序列なり区別なりあるほうが自然。 ビザンツ帝国はあらゆる国を――独立国であろうと、ビザンツ帝国より
強大な国であろうと――全キリスト教徒の父であるローマ皇帝を頂点とする
序列の中に位置づけた
各国の王は、家長である皇帝の家族とみなされたのである 虚栄だわな
9,10世紀には人口も科学も文化もバグダードやコルドバの後塵を拝したのに未だに世界の中心だの空しすぎる >>617
ビザンツ帝国軍は騎兵が主力だったから
牧畜が奨励されて農業が停滞したのでは?
バルカンをスラブ人に奪われる以前は
バルカンが兵馬の供給地だったけど
以後はアナトリアで賄わなければならなくなった 12世紀以降、北イタリア諸都市の商工業の発展に押されて
ビザンツ帝国の国内産業は衰退してしまったしな >>629
ビザンツの農業は古代ギリシア・ローマ以来の地中海農法が行われ、
あまり技術の進歩がなかった
それでも、古代から中世初期には西欧に比べて高度な農業技術を持っていたが、
12世紀に西欧やイスラムで農業技術が改善され農地の大開墾が行われるようになると、
ビザンツの農業の立ち遅れが目立つようになってしまった
技術的進歩といえば、せいぜい双股の鍬の発明ぐらいだった シュメール滅亡後に塩害で放棄されたイラク南部の土地で
アッバース朝時代に黒人奴隷ザンジュを用いた土地改良により
サトウキビとかを栽培する奴隷農場が発展したけど
ザンジュの乱の鎮圧後に農場は元の荒れ地に戻った
中世の中央アジアでは綿花の栽培が発展したけど
穀物から綿花に耕地を転用し過ぎたので
穀物の備蓄が充分に出来なくなり
モンゴル軍に包囲された都市が次々と陥落した セルジューク朝の遊牧トルクメンは放牧地を求めて
イラン人の農地を奪い放牧地にしようとしたので
ゼルジューク朝のイラン人宰相ニザーム・アル・ムルクは
イランを守る為にビザンツ帝国のアナトリアに
遊牧トルクメンを移住させた
遊牧トルクメンはビザンツ人の農地を奪い放牧地にした マケドニア朝末期のテマ制崩壊により
ビザンツ帝国の農民は兵役から解放され
農業に専念に出来るようになり
このまま農業が発展するかにみえたが
トルコ系遊牧民の移住により
ビザンツ帝国の農業は壊滅した 古代ローマや中世ヨーロッパと違って東ローマはフィクションの題材として
あまり多く取り上げられないな >>636
プラトンは、哲人王は法よりもすぐれており、法に従っても従わなくても、
正しいと思う統治をすれば人々の幸福にになると考えていた
アリストテレスも君主制を望ましい政体と考えていた
ビザンツの専制は、オリエントだけではなく、古代ギリシャの影響も
あるんじゃないか? プラトンの哲人王は専制君主じゃないし(仕方ないから役目を負うって建前)、アリストテレスの政治学は12世紀までまともに注解作られないほど影が薄かった
古代ギリシャじゃ専制の僭主は基本評判悪い ビザンツ人は君主政を理想の政体とみなしていたが、その根拠は、神が唯一であるように
支配者もひとりであるべきだということである
複数の神を認めることは無神論であり、権力を複数の者が分かち合う民主政とは
無政府状態にほかならない
ビザンツの専制皇帝にあえてオリエント的性格を求めるなら、キリスト教がそれであろう >>635
ファンタジー小説の嚆矢である指輪物語のゴンドールやゲド戦記のエンラッドは東ローマ帝国がモデルだけど
RPGに出てくる西洋風の帝国は大なり小なり東ローマを連想してると思う ユスティニアヌスが西方領土を奪回しようとせず、東方国境の守りを固め、
バルカン半島の防衛を強化していたらよかったんじゃなかろうか
彼の死後にランゴバルト人がイタリアに侵入し、帝国はイタリア半島南端部と、
ラヴェンナからローマに至る地帯をかろうじて確保するのみとなってしまった ユスティニアヌス1世がアクスムをササン朝にけしかけた事が
アクスムとササン朝のイエメン争奪戦でイエメンが荒廃して
イエメンのマアリブ・ダムが放棄され
農業を諦めたイエメン人がベドウィン化して
アラブ・イスラムによる大征服の端緒となった ユスティニアヌス1世がアクスムをササン朝にけしかけた事は
アラブ・イスラムによる大征服の端緒となった
アクスムとササン朝のイエメン争奪戦でイエメンが荒廃して
イエメンのマアリブ・ダムが放棄されので
農業を諦めたイエメン人がベドウィン化して
イエメンの外へ移住せざるえなくなった イランの王朝は異民族の侵入によってあっさり滅びるパターンが多いけど、
ビザンツはゴキブリ並みにしぶといよな
717年、イサウリア人レオーン3世が帝位についたときは、帝国を取り巻く状況は
絶望的になっていた
アラブ人はコンスタンティノープルを海と陸の両方から包囲し、タウロス山脈沿いの
国境も寸断されていた。バルカン半島では、ビザンツの支配下にあるのは、
エーゲ海沿岸の細長い地域だけになっていた
しかし8世紀末になると、トラキア地方、カルキディケ半島、ギリシア中央部、
ペロポネソス半島などの領土奪還が進んだ 「アレクシアス」
「ビザンツ帝国ー千年の興亡と皇帝たち」
「歴史学の慰めーアンナ・コムネナの生涯と作品」
アンナ・コムネナ関連も含めてビザンツ帝国関連の本が最近よく出てるな >>645
日本も衰退期に入ったし、どのように生き延びるかという意味で
ビザンツ帝国への関心が高まっているのだろうか 現代の日本は古い共同体が崩壊して個人が重視されるようになっているが、
そのうちビザンツ人のように超越的な権威にすがりたくなったりして コンスタンティノス11世はスレイマンに降伏してた方が良かったな
意地はって劫略の憂き目を市民に味わわせるとはな あの状況で降伏したところで略奪は免れんよ
兵士が何のために戦っていると思っているんだ?
いくら日本人とはいえ平和ボケも度が過ぎるだろう・・・ 第四回十字軍のときもコンスタンティノープル市民は散々な目に遭ったしな
あの時代までは古代の彫刻や貴重な文献もかなり残っていたらしいが… >>650
降伏すれば略奪しないのがイスラーム法だ >>619
コンスタンティノープルの人口は4世紀末には20万人をこえ、
6世紀前半にはおよそ50万人に達した
確かに一極集中だ 都市の人口いくら増えても戦争には役に立たないんだよな
田舎のあぶれ者が兵士となってくれなきゃ戦争強国にはなれない >>654
だから外交で異民族同士を戦わせ、漁夫の利を得る
あるいは条約を結び、賄賂を贈って敵国を買収する コンスタンティノープルが本当の意味で帝都になるのは、
4世紀末のテオドシウス1世時代のこと
それ以前の皇帝たちは、帝国内の各地を移動していた >>646
なるほどそういう見方もあるのか
俺はビザンツの研究者が増えたということを言いたかった
俺らの時は大阪市大の井上先生か浜松医大の和田先生ぐらいしかいなかったもんな アレクシアスの訳者の相野洋三先生は井上先生より年上だしその上の世代には渡辺金一先生や杉村貞臣先生もいた
20世紀は井上和田相野渡辺杉村先生で合計5人いたことになる
夭折された米田先生や後年になって活躍した尚樹先生も含めれば7人
最近著作を出している新世代の先生は根津由喜夫先生と中谷先生と小林先生大月先生の4人なので
人数的にはむしろ減っているような >>656
テオドシウス1世時代からコンスタンティノープル以外が危険になり
皇帝が帝国内の各地を移動出来なくなったわけですな テオドシウスのオベリスクに刻まれている浮彫を見ると、
中世的特徴が出ているよね
古代から中世への過渡期の時代だということがわかる テオドシウス1世はスペイン出身だけど
即位してからスペインと絶縁状態になった
スペインにいたテオドシウスの親族らは
スペインから追放された
テオドシウス家は西ローマ領で嫌われていた 後期ローマ帝国では、わずかな時期を除いて、複数の皇帝による分割統治が
行われたが、もうこの時期から東(ギリシア語圏)と西(ラテン語圏)の亀裂が
大きくなってきていたんだろうね
元首制時代のギリシア諸都市では、グレコ・ローマンという形容が示すように、
制度上も、文化面でも、ギリシアとローマの混淆が進んだが、それはしょせん
一時的なものにすぎなかったのか >>662
しかもアカエア属州としてローマに編入された当時のギリシャは、
少なからず自身がヘレネスとしての自覚を持ち、ローマに取り込まれることを拒んでいたのにな
蓋を開けてみれば意外にもローマ人が厚遇してくれたので反発も少なかったんだろうが、
それにしても後世自らを『ローマ人』だと規定するようになるとはね
その上で西はローマ帝国ではないと考えるとは何たる皮肉 アナスタシウス1世の財政改革のおかげで東ローマの国庫は急速に豊かになった
これがなければユスティニアヌス1世の旧西ローマ帝国領回復もなかったかもしれない ユスティニアヌスなんて全然名君じゃないよな
なんか持ち上げられすぎ むしろベリサリウス使ってニカの乱を鎮圧(=民衆を虐殺)してるところとか、
ゲルマン民族の大移動後、東ゴート王国の支配の元で
安定を取り戻しつつあったイタリア半島を破壊・略奪したところとか、
帝国領土拡大の最大の功労者のベリサリウスを冷遇していったりとか、
暴君の要素しかないな・・・今思うと。
ニカの乱でコンスタンティノープルを脱出する直前に
妻テオドラに説得されて方針転換した話は今でも面白いなと思うけどさ >>667
ユスティニアヌスはニカの乱で市民を容赦なく虐殺してるけどさ、
元首政時代のローマ皇帝ならそんなことはやらなかったんだろうか?
ユスティニアヌスの時代のローマ皇帝はもはや専制君主だったからできたのかも 『生き残った帝国ビザンティン』のKindle版が出てた >>654
11世紀には社会的上昇の媒体としての軍隊は魅力を失い、法学を学び、
中央の官僚機構に列することが野心に満ちた若者たちの最大の目標となった 帝都コンスタンティノープルで豪奢な生活を送り、プラトンやアリストテレスの
作品について文人たちと談論したり、高度な神学上の問題について議論を交わす
これがビザンツ貴族の生活
もはや文明は爛熟しきっていた
イブン=ハルドゥーンも田舎から都市に出てきた人間は軟弱になる、
みたいなことを書いてなかったっけ? >>672
多神教時代のギリシャ人の哲学なんて談論してたの?
あと、イブン=ハルドゥーンが言ってたのは『人間』というより『民族』が
当初の野蛮な強さを忘れて軟弱になるって言ってた気がする 都市に住むようになった王族と
遊牧民のままの部族民が対立するようになる
王族は専制化を目指すけど部族民が従わないので
傭兵や奴隷兵で部族民を押さえつけようとする
こうして仲間割れになって王朝は滅亡してしまう 都市に住むようになった王族と
都市民も激しく対立していた
都市民は自警団アイヤールで抵抗していた
都市民の中には外敵に内通する者もいた
モンゴル軍の道案内をしたのは
オアシス都市出身の商人だった >>666
コンスタンティヌス大帝とテオドシウス大帝やユスティニアヌス大帝とか
キリスト教大帝を近代以前は批判出来なかったようだね
イスラム世界でムハンマドやシーア派のアリーを批判出来ないと同じだな
シーア派のアリーなんか単純に我儘な暴君なんだけど崇拝され続けている ローマのカンピドリオ広場にあるマルクス・アウレリウス・アントニヌス騎馬像は、
コンスタンティヌス大帝の像と間違われたので破壊されなかったのだとか マルクス・アウレリウス・アントニヌス騎馬像は
髭をはやしているから中世のキリスト教君主ように見える
コンスタンティヌス大帝とかローマ人の多くは髭を剃っていた ユスティニアヌス1世はアテネのアカデメイアを閉鎖したといわれるが、実際には、
アカデメイアはその後も活動を続けていたようである
ギリシア古典の研究、写本の作成が途絶え、ギリシアにおける文化活動が大きく
停滞するのは、6世紀の後半、アヴァール・スラヴ人の侵入による都市の破壊以降の
ことである 中世画って今でいう
抽象画や印象派みたいな感じだったのかな
写実は無意味っていう 単にイコノクラスムでローマ絵画の技術が失われただけ
彫像技術なんて6世紀には早く失われた 神の真の姿は目に見えないもの、つまり人間の感覚を越えたもので、
絶対的な真理または美であるが、肉の目ではそれを見ることはできない
それは目に見えないが完璧な実在で、それをイデアと考える
イデアはたった一つの原型であるから、キリストの体や顔がまちまちの
個性を持っていることはその本来の性質を俗っぽいものにするので、
おおよそ身体も顔も決まった形式をもって描かれる >>680
マジで?
最後の学頭ダマスキオスら7人の哲学者が閉鎖後、ササン朝の保護求めて移住したのは有名だがアカデメイアが閉鎖後も活動できたならササン朝に保護求める必要なかったんじゃ?
彼ら主要哲学者達を欠いてアカデメイアの誰が活動してたの? 近世以降のギリシャって東ローマ帝国に対しては古代ギリシャと同じく
尊敬の念を抱いてたりする? ビザンツではペストは流行らなかったのかな?
もし流行っていたとすればビザンツ帝国民も入浴の習慣はなかった、とか? 6世紀ユスティニアヌス1世時代のペストの大流行は有名だね
14世紀のペストの大流行はビザンツを再起不能にしたと言われる
コンスタンティノープルは空き家だらけのゴーストタウンになった アカデメイアは閉鎖したが、アテネの学塾が全て閉鎖されたわけではない、他の学塾は
存続していた、という話だと思うのだけど >>688
>>680はアカデメイアが活動を続けたっていたって言ってるんだよなぁ
個人の活動だったらアカデメイアの活動とは言わないし >>690
アカデメイア閉鎖については
Justinian, Malalas, and the End of Athenian Philosophical Teaching in A.D. 529*
という論文があるから、529年以降もアテネでアカデメイアが続いていたとするなら
どこに書いてあるか教えて
ちなみに>>688では個人の活動などとは書いてないが >>691
だから529年以後もアカデメイアはどこで活動を続けたわけ?という疑問を680に宛てたわけだが
そしたら>>688が学塾が云々するからそれはアカデメイアの活動とは言わんよねってこと >>692
何か勘違いしているようだが、>>688は、「アカデメイアは閉鎖された」と書いたのであって、
学塾=アカデメイアとは書いていない
文章読解できるようになって
(「アカデメイアが活動を続けたっていたって言ってるんだよなぁ 」←君、文章も変だね)
で、現在わかっている事実は>>688で書いた通り
アカデメイアを閉鎖する法令が529年にでた。これをもってアカデメイアは閉鎖されたと考えられている
傍証としてアカデメイアの著名な学者は他の都市に移った事実がある
アカデメイアの学者が他都市に移ったから、これまではアテネにおける古代の学術が全てほろんだと解釈されてきたが、
最近の研究書で、その後もアテネで研究・教育がなされていた事例が指摘された(この部分が
どれくらいの規模かわからないのでとりあえず「学塾」と書いたわけ) >>680は、>>693の話(アテネで学塾が継続していた)という説を曲解したのではないか?と指摘したのが>>688というわけ 現在のギリシャ人にとって東ローマ帝国は古代ギリシャと同じく栄光の歴史となってる?
どちらかというと古代ギリシャのほうを持ちあげてる感じがするけど ユスティニアヌス1世の時代、ビザンツ軍は傭兵を主体とした軍隊だった
傭兵を主力とする皇帝直属の中央軍団は、7世紀におけるアラブ人との
戦闘で敗北を喫する
彼らはアラブ人のゲリラ戦に対応することができなかったのである ヘラクレイオス1世の臣下10万超を2万のイスラム軍が破った戦い、ヤルムークの戦い(636年)の時にイスラム軍を指揮したハーリド・イブン・アル=ワリードは、アラブ世界では英雄/名将として有名。
アッラーの剣という異名を持つ。
ヤルムークの戦いではワリードの巧妙な戦術に東ローマ軍は10万超の大軍の約半数を失ったとされる。 アラブ人は攻城術を知らなかったので、堅固な城壁に守られたビザンツ都市に対して
なすすべもなかったとか アラブ人って、象に苦戦したり攻城法を知らなかったり海軍がなかったり、
大征服の過程で、「こんなことも知らんで征服してたんか」みたいな話が多い
知らんかったことを着実に身に着けたから大帝国に発展したのだろうが
アラブ人がそうしたスキルを身に着けるまで放置していた敗れた側の大帝国たちは
何してたん?と思う >>695
イスタンブルが首都だったらもっとビザンツを売りにしてたかもね
ハギアソフィアがない、イスタンブルがないではビザンツ持ちあげても
片腹痛いという感じ
てかビザンツ持ちあげると大ギリシア復興運動が活性化しNATOを維持したい欧米に
止められるから国をあげてビザンツ持ちあげるとかできないんではないかな
二次大戦中の軍事独裁メタクサス政権ではビザンツを持ち上げていたはず >>697
ハーリドは世界史上でも10指に入る名将だよ そういえばギリシャの歴史ドラマって東ローマ帝国時代を舞台とした作品も多いのかしら。
逆に歴史ドラマの時代背景としてはマイナー? >>677
670年代になるとアラブ人も強力な艦隊の建造に取りかかる >>700
イタリアがローマを持ち上げるのと、ギリシアがビザンツを持ち上げるのとは変わりないように
見えるが
イタリアがローマを持ち上げてもムッソリーニの拡張主義に結びつける人よりも、ローマはヨーロッパの
源流として現在のEUに結びつける人の方が多いから問題ない
ビザンツをギリシアが持ち上げると、19世紀以来の大ギリシア主義と結びついてしまう
この違いは何なのか
ヨーロッパ諸国はローマを共通の祖先とか故郷だと思っているが、ギリシアの周辺諸国は
ビザンツを故郷とは考えておらず、敵対国と考えているから
ところがオスマン帝国は、わりとかつての支配下諸国に受け入れられていて
トルコが制作したオスマン帝国のドラマは周辺諸国でもヒットし、トルコのエンタメも
周辺諸国に受け入れられている
ギリシアでビザンツを作るとしたら、大ギリシア主義とは切り離して、周辺諸国含めた
普遍文化を強調すればうまくいくかも知れない ビザンツ帝国はアラブ人にエジプト・シリアを奪われたけれど、
単性論を信ずる地域を失ったおかげで、教義論争で悩むことはなくなった
かつてローマ帝国の支配地域だった領域は、西欧・ビザンツ・イスラームの
三つの文明に分かれていく 古代のローマ人も、蛮族は変わらない、進歩しないと考えていたようだが、
ビザンツ人やペルシア人も同じだったのかなあ テオドリック時代の東ゴート王国は東ローマの属国いうポジションなのか?それとも皇帝なき西ローマと見做せばよいのか? 東ゴート族は、最初東ローマ帝国の同盟者だったが、豊かな土地と戦利品を求めて
バルカンに侵入し略奪した
そこで東ローマ帝国は488年、テオドリック王率いる東ゴートをイタリアへ向けさせ、
彼らをうまくバルカンから排除した
東ローマはイタリアを犠牲にして自国を救ったといっていいのかな? ゴート族とイサウリア人が東ローマ軍内で勢力争いしていたけど
イサウリア人のゼノン帝はゴート族をイタリアへ移住させて
東ローマ軍内からゴート族を減少させてイサウリア人に有利にした
イサウリア人よりもゴート族の方が優秀な兵士だったようだから
東ローマ軍が弱くなった でも東ゴートは東ローマのベリサリウスによって滅ぼされた ちょうど鐙が普及し始めたからゴート族の優位が崩れたのだろう
民族大移動開始時にはゴート族以外は鐙を使っていなかったようだ
西ゴートも鐙を使うアラブ軍に滅ぼされている >>707
東ゴートのテオドリックは東ローマ帝国の皇帝の代理者という名目で統治にあたり、
またフランク族など他のゲルマン系部族の多くも東ローマの皇帝の権威を尊重したため、
少なくとも表面的には、東ローマ皇帝は地中海世界全体の宗主権を握る最高の支配者
という地位を保ち続けることができた 7世紀に南スラヴ人がバルカン半島を南下し、西欧とビザンツとの間に楔を打ち込むと、
両者の交流は困難となった
その結果、ローマをはじめとする西方の主要都市におけるギリシア語の知識は激減し、
同時にコンスタンティノープルにおけるラテン語の知識も大きく後退した
そして、相互理解の機会は減少の一途をたどった 東ローマにおいて古代ローマ時代のような”プレノーメン・ノーメン・コグノーメン”な
名乗りをしなくなったのって何で? >>714
別にageてもいいんでない?
もう5chの世界史板なんて過疎り放題でageようがsageようが大差ない
それはともかく、その全名の名乗り方はローマ系住民の習慣であって
東ローマ帝国本土の大半の住民であるギリシャ系住民の習慣じゃない
そりゃあローマ人の習慣なんて廃れていって当然だろうよ
コムネノス朝頃だっけか?
家名を本人の名前の後に続けて名乗る習慣が出たのは。
それ以前か?忘れた・・・ 第四回十字軍がコンスタンティノープルを占領したとき、
この時代までは残っていたギリシア彫刻の傑作も破壊されたんだよな
古代の文献もこの時に失われたものが多い
聖ソフィア大聖堂では聖域の大きな垂れ幕が、その金の縁飾りのせいで
ずたずたに引き裂かれた
扉や説教壇からは銀細工や金メッキの彫刻が剥ぎ取られた
聖使徒教会では歴代皇帝の墳墓が荒らされた >>714
9世紀半ば以降、テマの高級軍人の中に苗字を帯びる者が増大する >>704
正教圏でも?正教徒にとってビザンツは総本山でしょ
逆に西欧もイタリアを祖国とは全く思ってない
ローマは崇拝しても >>719
正教圏のロシアで今ビザンツって人気なんだろうか?
もし人気だったら、ロシア経由で国際的にビザンツ人気が盛り上がる可能性もあるかもしれない >>719
正教徒はビザンツを総本山とは思ってないだろ
ローマはペテロの座だが、コンスタンティノープルは使徒は殉教者や聖書所縁の地でもなんでもない
カトリックにはラテン語という共通語があるが、正教はほぼ改宗後早い段階で聖書は現地語に
翻訳された
総主教も各言語圏ごとに独立した存在
また、正教圏の有力構成国はほとんどビザンツの領土だったことがない
ブルガリア、セルビアは一時的に領土になっただけ
アルメニアとグルジアは従属していただけ
ロシアとルーマニアは領土になったことはまったくない(カトリック圏の中南米と同じようなもの)
正教圏としての一体感はあるかも知れないがビザンツを共通の祖先と見なす考えはあまりない
とはいえまったく関係ないと思っているわけではなく兄貴分くらいには思っているかも知れないが 正教圏諸国人でビザンツで高官に出世した人が少ないのも痛い
オスマン朝は大宰相にまで出世したバルカン人やアルメニア人など帝国内の諸国人がたくさんいたが
(というよりトルコ人よりも多い)
初期の頃はともかく、ヘラクレイオス朝以降の領土の縮小したビザンツ帝国で
高官に出世したのはギリシア人以外だとアルメニア人以外あまりいない >>723
よくビザンツは実力主義だったといわれるけど、
官僚となるための前提となった高度な教養自体、コンスタンティノープル以外では
事実上習得できず、地方の出身者で子弟を首都の高等教育機関に送り出すことが
できたのは富裕な家系に限られていたんだよな
中国で科挙を受験することができたのも富裕層の子弟が多かったらしいけど 中世や古代なら「富裕ならチャンスがある」のは実力主義と言っていいんじゃない?現代社会なら格差の再生産だけど。 軍や下級役人で成果上げればどの民族や出自関係なく出世して官位も得られただけで十分だと思うけど
コムネノス以降とはその辺は分けて考えたい 富裕ならチャンスがある、ということは、経済力がある階層が時代とともに変わっても、経済力のある
社会層を常に支配体制に組み込める社会ということだから、こういう社会は持続性がある
社会でもっとも経済力のある層を支配層に取り込めなくなると、革命などの大きな社会変動が起こる
もっとも、格差が拡大しすぎて人口の99%が下層となってしまうと、いくら富裕層を支配体制にいれたところで、
99%が反乱を起こせばひっくりかえるから、やはりどこかに閾値があるのだろう 今の日本で中国史や中国文化が親兄貴分としてしまれているのと同じような感じで
ロシアやバルカン半島諸国でもビザンツ史やその文化が親しまれてるってことはないんだろうか >>730
ビザンツ史についてはどうだかわからないけど文化についてはあると思う
だから
>ギリシアでビザンツを作るとしたら、大ギリシア主義とは切り離して、周辺諸国含めた
普遍文化を強調すればうまくいくかも知れない
ということ
東洋でも、中国が冊封体制を持ち出して周辺諸国を属国扱いしたり、逆に日本が大東亜戦争は正しかった
とかいうと軋轢が起こるが、文化的なものなら中国人は日本のドラマをみて、日本人は三国志や
キングダムが好きで中華史劇ドラマも結構みられている
ビザンツは、ギリシアだけではなく、ブルガリアセルビアトルコロシアがあまりナショナリズムを強調するのがネック
なんせ19世紀末から20世紀初頭は「火薬庫」と言われた地域だから、東洋より複雑で荒れやすい
この点オスマンドラマは、ちゃんと諸民族出身者をドラマの登場人物に配して一方的に描かなかったこともトルコ以外で
受け入れられた理由のひとつ
一方ギリシアは大ギリシア主義と結びつきやすいからビザンツであまりアピールせず、古代ギリシアの方をアピールしてる >>731
ビザンツの普遍文化というとやっぱり正教や美術・文学とかになるんだろう
軋轢を生みやすいナショナリズムからは極力切り離して、そういう共通文化からまずは親しみを持たせていくべきだな ビザンツ人は自国のことを、人類の歴史は多くの帝国の興亡史だったが、
自分たちの国はその最後を飾る帝国であり、その後にはキリストの再臨、
最後の審判が来ると考えていた
オスマン帝国に滅ぼされたとき、ビザンツ人はどう考えたんだろうか お前らともあろうものがアレクシス和訳についてあまり話していないとは >>733
まだ滅亡まで余裕のあったうちは、終末論があったし、滅亡後民衆はそのように思っていたかも知れない
知識人の中には(少数派) オスマンをローマの継承者と見る人もいた
しかしその他知識人は、西欧の勃興をわりと認識していたようだから、終末論を脱していた可能性がある
その西欧では、このままオスマンに征服される危機感もあったろうが、一方でカール五世とかが登場し、
新たな普遍帝国を目指したから、結局のところキリスト教的ローマ帝国は西方で継続しているから
世界の終末はまだ来ない的な感じになったんじゃなかろうか
モスクワ大公国がツァーを名乗るのもオスマン以外の継承者理念の反映なのだろう すいやせん
ギリシャの火ってどれくらいすごかったんですか?
現代科学でもギリシャの火は作れないんですか?
これでもオスマンになぜ負けたのですか? ブリエンニオス歴史の翻訳終わってんならさっさと出して欲しい
引用の様子見てると相当事実に基づいてしっかり書いてそうだし >>737
ギリシャの火が活躍したのは9世紀ぐらいのことであって、
オスマン帝国が攻めて来た15世紀にはとっくのとうに過去の遺物として忘れ去られた兵器になってたぞ
その頃にはビザンツでギリシャの火が使われた記録はもう一切なくなってる
多分、時代と共に製法が忘れ去られて作れなくなったんだろう >>739 なるほど、でもすごいですよね
今でもわからないってのは 若槻泰雄が『日本の戦争責任(下)』で、
「日本の仏教は六世紀に伝来したときから、国家鎮護の思想として国家権力の
庇護の下に成長してきたのであるから、国家権力と対立するという思想を本来
持ちえなかった。浄土真宗のような例外もないではなかったが、国家を超えた
普遍的概念を構成することはなかった」
と書いているんだが、むしろ叙任権闘争の後、聖俗が分離した西欧文明圏のほうが
特殊なんじゃないのかな。
ビザンツ皇帝は「地上における神の代理人」とされ、皇帝は教会のあり方に
干渉したし、皇帝は厳密にいえば聖職者ではないが、「使徒に匹敵する」存在とされ、
一般信徒とは区別された。皇帝は説教を行うこともできたし、教会の内陣が
一般信徒に閉ざされた6世紀以降でも、内陣で聖体拝領を受けることができた。 ヒトラーはまだビザンツ人がいれば
どうしてました?アウシュビッツ行き? >>739
ネットフリックスのオスマン帝国のドラマではギリシャ火が使われてたとか言われてたけどあれは創作なんだろうか? あ、コンスタンティノープルが陥落した時の戦いで使われてたってことね >>743
そのドラマは見たことないから知らんけど創作なんじゃね?
時代考証をちょっと間違えてる歴史ドラマなんて珍しくないし あのドラマ、間違いなくエンタメ用に脚色されたり意図的に抜いた要素とかあるからな
メフメト2世時代の大宰相チャンダルル・ハリル・パシャが
ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の弟である大臣兼軍司令官ルカス・ノタラス大公と内通していたってところとかな
少なくとも間違いなく彼らは直接会ったことはないだろうし、
ビザンツとオスマンで内通してたにせよ、こんな幹部クラスの人間同士で内通していたとは考えにくい
ただ、ルカス・ノタラス大公がコンスタンティノープル陥落後にオスマン側に処刑されたところは事実やね
俺はこのドラマ見てから調べて知ったけども
あと、傭兵隊長ジュスティニアーニ・ロンゴが皇帝の娘(妹?名前も忘れた)と恋愛関係になっていたところとかも創作
そこよりケルコポルタ門が『鍵のかけ忘れ』に気づかれて突破されたところは再現しろよ・・・と思う
普通にどっかの門が破壊されて突破されたことになってたし >>739
>ギリシャの火が活躍したのは9世紀ぐらいのことであって
1043年のルーシの襲撃ではギリシア火で撃退されているから、少なくとも11世紀までは使われていたようだ 1453年についての史実どうこうとか言い始めたら戦ってたのなんて西ヨーロッパの商人とその傭兵だけで
住民はいつも通り生活してただけになりますけどね アラブ人が海軍を創設できたのは、優れた港や造船所を持つシリア、エジプトを
征服したかららしいね
674年から678年までアラブ艦隊はコンスタンティノープルを包囲するけど、
このとき滅亡寸前の帝国を救ったのが「ギリシアの火」
7世紀後半にシリア出身のカリニコスによって発明された
生石灰・松脂・精製油・硫黄などを混合した液体であったらしい あの〜双頭の鷲ってビザンツの象徴じゃないですか?
ロシア、アルバニア、セルビアはビザンツの実質的な正当後継国ということですか? アラブは乾燥地帯なのに、どうやって軍船用の木材を調達したんだ?
レバノン杉でも使ったのか? 全部自称だけどね
ブルガリア君主とかも双頭の鷲じゃないけど、
シメオン1世はギリシャ語の『バシレウス』と名乗っていた
ビザンツ帝国を圧倒しコンスタンティノープル総主教にバシレウス(皇帝)だと認めさせた
『ローマ人とブルガリア人の皇帝にして専制君主』とも自称している
とはいえ、もちろんビザンツ皇帝からしてみればただの僭称に過ぎなかったわけだが。
東欧・南欧世界においてビザンツ皇帝というのは憧れの象徴だったのは間違いない そうなんですか・・
双頭の鷲は左右に向いてますよね?
意味は西も支配者、東も支配者としての意味なんでしょ?
支配者としての憧れの象徴にはなりえますね まあ古今東西、君主の称号やら紋章やらってのは僭称だったり
新しく創設したけど当時の人らには「自称でしょ?」程度の認識だったりする場合が多い
それでも年月が立つと権威ある称号だと認識されたり、
あるいは”ホントは縁もゆかりもないけど自身の権威付けに・・・”って理由で利用される
神聖ローマ帝国も双頭の鷲を国章としてるだろ?
あれもローマ帝国(皇帝)の権威にあやかってるだけ
ヨーロッパの西も東も支配する権利を持つ唯一の皇帝ですよ〜ってこと
もちろんローマを保有したことはないし、ラテン語も公用語でもないし、ローマ人は中世後期にはもういない
それでも「カール1世がローマ教皇からローマ皇帝としての戴冠を受けたから!」
これだけでローマ帝国を名乗っちゃうんだから、まあ面の皮厚いよね(笑) >>737
ギリシアの火は何度かあちこちで研究者による再現実験がされている
例えば greek fire byzantine national geographic で検索すると再現実験の動画が出てくる
原料は推測らしいが、将来ギリシアの火で焼かれた船の残骸が見つかって、残骸に残る物質の成分分析をして
成分が判明する時がくるかもしれないね >>754
神聖ローマ皇帝はしばしば都市ローマの支配者でもあったし、公文書もラテン語のものが多いだろ? カール大帝の西ローマ皇帝戴冠を知ったビザンツ側の反応は、
カールがコンスタンティノープルめざして進軍してくるのではないかという
懸念だったとか
この時期ビザンツでは皇妃イレーネが君臨しており、女性の支配者を認めない
フランク王国では、皇帝は空位であるという認識だった 中近東は産油地帯だから、やはりギリシャ火には石油が使われていたのか? http://www.modelshipmaster.com/products/ancient/dromon/Dromon.JPG
ビザンツ主力戦艦ドロモンの模型
ビザンツ海軍は二段階の戦術を取った
第一段階では、「ギリシアの火」で敵艦を破壊する。
この際、微妙な操艦を行う漕ぎ手の腕がものを言った
第二段階は敵艦に接舷し、重装兵が乗り込む。 メディーバルトータルウォー(ゲーム)で東ローマに興味もったんだけど
西欧資本のせいであんまりなくない?
東欧も含めて東ローマ題材の映画とかドラマとか
地味という感じもするな
日本語付きの大河ドラマみたいなものがあればわかりやすいんだけどな
いろんな宗教や考え方が入り混じって翻訳難しそうだな ビザンツが地味なのは後継者のギリシャが今しょぼいからなのかな
人口も1000万人しかいないみたいだし ギリシャだけでなく、他の東方正教の国々も、西欧諸国に比べればイマイチだよな
世界を制したのは西欧文明のほうだったし オスマン帝国統治下のギリシャ人は、自分たちがヘレネス(古代ギリシャ人、異教徒)
の子孫だということをすっかり忘れ去っていた
西欧からの旅行者が古代ギリシャの遺跡を訪れるのを見て、
「彼らはヘレネスの子孫で、祖先が残した遺物を見に来ているのだ」
と考えていたという ビザンツのドラマとか映画がないから何が分からないかって、
当時の一般的な人々の服装や街並みとかがいまいち想像つかないんだよな
ビザンツ時代の絵画みても支配階級か宗教的人物のモザイク画ばかりで良く分からんし
オスマン帝国の時代のイスタンブールの街並みのほうが絵的にイメージ沸く
ビザンツ時代のコンスタンティノープルの映像は頭に浮かばない ビザンツが登場する映画なら、Fetih 1453 というトルコの映画がある
検索するとようつべのは日本語字幕もある
コンスタンティノープルの民衆も少しでてくる ビザンツ 映画 で検索したら、
ビザンツ歴史関連映画「コンスタンティン・フィロソフ」(1983年作)
というのも見つけた。テッサロニキや当時の小学校が登場しているらしい 枢軸側と連合国側の違いとして
過去の古い制度への復活が枢軸側で
新しい制度への切り替えが連合国だった
連合国が西欧だな
ソ連は例外だが、枢軸側は東欧に多い
東欧は過去の古い制度への復活を目指すから
地味で西洋より時代遅れで、映画ドラマも
古臭くて敬遠されがちなんだろう 東ローマは西ローマに比べて皇帝政府の権力が強かったけれど、これはやはり
専制政治の伝統が強いオリエントを統治していたからなのかな
西ローマの場合、在地の有力者が強い力を持っていたので、
皇帝政府が地域を把握していなかった すいやせん
十字軍とビザンツはなぜ対立してたのですか?
同じキリストでしょ?
ビザンツは十字軍を編成したことはあるのでしょうか? >>769
そもそもキリスト教でもカトリックと正教の違いがあることも知らない人? ビザンツ「聖地をムスリムの手から取り戻してくれ。ただし取り戻した後はうちの領地にしてくれ」
十字軍「はい」
占領後
十字軍「なわけないだろ。占領地は俺らのものだわ」
ビザンツ「約束を破りおって許さん」
こんな感じだったような というか高校の世界史教科書に載ってそうな話をここで聞くのか >>771
どこから語ろうか・・・
正直解説動画とかサイトとか見てほしいレベル
ビザンツは中世半ば頃まではヨーロッパの先進国家、オリエントを支配下に入れてた
宗教はキリスト教の内の(東方)正教、その本拠地(ホントはそうではないが、わかりすく説明する)は
キリスト教がローマ帝国で公認された当初は正教会とカトリックという区別はなかったが、
11世紀に入るまでには正教会とカトリックという形に分裂、対立関係にあった
それでも「完全な異教徒よりはマシ程度」の考えは持っていたが・・・
そんな状況下で、ビザンツ帝国を圧迫していたセルジューク朝(イスラム王朝)がアナトリアを征服し、
ビザンツ側は「異教徒共がエルサレムを占拠した!全キリスト教徒の危機!」と西欧に宣伝、
エルサレムの奪還を目的とする救援を求めた。
(これは当時の皇帝アレクシオス1世によるプロパガンダでしかない。
実際はセルジューク朝以前からエルサレム周辺はイスラム勢力の支配下にあり、キリスト教徒の巡礼も許されていた
エルサレムはアラビア半島の一部なので、アナトリア征服とは何の関係もない。
アレクシオス1世が自国の征服版図を取り戻すための宣伝活動だった)
しかしビザンツ側はあくまで傭兵団程度の規模の派兵を求めていただけったのに対し、
西欧側はローマ・カトリック教会の呼びかけにより、西欧連合軍規模の軍団を派遣した。
なお、この時エルサレム及び周辺地域はスンナ派のセルジューク朝とシーア派のファーティマ朝で取り合いをしていた
そこに十字軍が殴り込みをかけて・・・
あとは解説動画でも見てくれ 解説に抜けてた点があった
>宗教はキリスト教の内の(東方)正教、その本拠地(ホントはそうではないが、わかりすく説明する)は
の後に
>ビザンツの首都と同じコンスタンティノープル
が入る >>772
だいたい合ってるが、ビザンツ側も都合の良いことを言い過ぎなんだよな
実際に聖地奪還の努力をしているのは十字軍騎士たちなんだから、
そりゃ報酬ナシで動いてくれなんてムシの良いことを言って聞いてくれるはずがない
そもそも十字軍に参加している騎士たちは本国では出世ルートを外れた嫡男ではない連中ばかりで、
十字軍に参加して領土を獲得しなきゃ後がない。
まあそんな事情こそビザンツ側の知ったこっちゃないだろうが、
少なくとも”聖地奪還”という宗教的な目的だけではるばる西欧からやってきてくれるはずもない
しかしアレクシオス1世コムネノスはちゃっかり戦後利権は確保する策士である。
少なくとも自分の治世の間は十字軍が獲得した領土に影響を及ぼすことができた 皆さん
教えてくれてありがとうございました。
m(_ _)m ビザンツでは西欧のように修道会が組織されるということもなかったな
隠修士の伝統を色濃く残していた東方の修道院は、それぞれが独立した
施設であるという傾向を持っていた >>777
もう遅いかも知れないが、上の解説は細部で違うところがある
まずビザンツは、援軍を要請したが、聖地奪回とか、宗教戦争という意味合いはなかった
ビザンツ皇帝の依頼を拡大解釈したウルバヌス達が十字軍にしてしまった
だからビザンツ側は、宗教的情熱に燃えて聖地奪回のための大軍がやってきてびっくりした
また、征服地の宗主権はビザンツだと誓約させたが、ビザンツも軍を出すという前提だった
問題のひとつは、ビザンツ軍は途中で手を引いてしまったこと
ビザンツ軍とすれば、当時の国境線をすこし押し返す程度でよかったのでほどほどで軍を返してしまった
その後の多くの征服地は十字軍だけで征服したので、その部分まで宗主権を主張するのは十字軍側としてはムシがいいだろうと不満を持った
当時「同じキリストでしょ」という考えはあまりなくて、カトリックと正教は仲が悪かった
→15世紀、滅亡直前でも「枢機卿のマントよりターバンの方がまし」といって、オスマン征服を受け入れる人々も多かった >>779
すまん。
その細部で間違った解説をしたヤツが俺だが、あんたにも一つ間違いがあるぞ
>→15世紀、滅亡直前でも「枢機卿のマントよりターバンの方がまし」といって
これを言ったのはビザンツの住民ではなく、大臣兼軍司令官のルカス・ノタラス大公だよ
しかも内容は「枢機卿の四角帽を見るくらいなら、スルタンのターバンの方がマシだ」のはず
まあニュアンスは伝わるのであんたのでも大して間違っていないが >>780
実は、俺もそれ書いた後調べてみたら、尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』には
「私は市内にラテン人の司教冠を見るよりは、イスラム教徒のカフタン(毛皮付マント)を見る方がよい」
とあった
マントは、カトリックではなく、イスラム教徒の方で、更にターバンではなく、カフタンだったわww 初歩の質問から新しい発見へとつながるのはいいことだ。
意外にもわかっていてもしらんかったことってある >>781
それは全然知らんかった
カフタンって調べたらあんまり定義のない、
ゆったりとした長袖・袷仕立ての長い前開きのガウンだそうだ
トルコでは近代化政策の影響であんまり見ないけど、
イスラム圏では広く一般的に男性の服として定着している
しかも最近はワンピースの一種として非イスラム圏の諸外国の女性が着ていることが多いみたい
カフタンで検索したら日本のファッション関係のサイトばっかり出てビックリ ニカイア帝国ってのがあるのか
亡命政権だって
社会主義の国に住んでいる政治家が資本主義の国に逃げて政権樹立をイメージするけど
こんな時期に近代国家的なものがあったなんて
なんて日本よりも進んでいるんだと思う
中世の日本なら亡命は許さんから降伏か滅亡どちらかを選べだろ 大体がローマと言えば温泉だろ、クリチョンって風呂入るイメージないんだけどw
やっぱコンスタンティヌスのせいだな、ローマの荒廃と滅亡は >>784
近代国家とは関係ない。
滅亡したり領国を失った武将や大名の一族が御家再興を期して他家の客分になることはよくあっただろ?それも亡命政権だよ。足利義昭の鞆幕府も亡命幕府。 ビザンツの関わりを抜きにして語ると
亡命とは政治的理由がないと亡命にはならない
家臣や他大名の庇護のみなら
単純に守られただけで亡命にはならない バカジャネーノ、亡命なんかに定義はない
相手側の情報を知りたいとか、権威として利用できるかとか、受け入れ側の理由があるだけだろ。
そういう事例が古今東西で多いから「亡命」という言葉の定義が出来ただけだ。
終身雇用の侍お役人社会では、主の失態で数百もの家族や家来が露頭に迷うと社会問題になるから亡命ではなく切腹が出てきた。守るものも無いのに腹を切るのはタダの自刃。
やっぱ温泉無いと頭が悪くなるんだろうな
温泉こそローマやで >>787
ビザンツ帝国の亡命政権もその「亡命」なのか?
ニカイア帝国やトレビゾンド帝国が亡命政権なら、鞆幕府だって亡命幕府だろ? 建前は日本中が室町幕府のもので全員臣下だから、鞆幕府って自分の中の臣下間の移動にすぎない
信長も毛利に将軍を預けとくぞといっていたらしいしな
ビザンツは首都が別格すぎるというのがまずあるな 国家権力の迫害からの避難所を求めるって意味は「亡命政権」「亡命国家」にはもともとないでしょ。 ド=ゴールは?
ナチスの犬のヴィシー政権の迫害からロンドンへ避難所を求め
自由フランスを樹立した >>791
現代人の思考で行くと
コンスタンティノープルが占領されて、同じ宗教でもやり方が違うので
受け入れられないから別の国へ避難したのなら亡命になる
単純に攻略されて逃げて別領土で新たに国つくっただけなら亡命にはならない
ニカイア帝国は亡命政権じゃないってことだな >>798 ベスト10は当たり前
ロマノス4世ディオゲネスはワースト5当確 ベスト1位はやっぱりバシレイオス2世かユスティニアヌス1世かのどちらかになるんか? ベスト1位は初代皇帝
コンスタンティヌス1世だろ?
よくビュザンティオンを見つけたよな
チートすぎるから除外か? >>802
東方のサーサーン朝ペルシア国境と、北方のドナウ河国境の二方面へ
必要に応じて移動するのに最適な場所が、ビュザンティオンだったんだよな オスマンが首都にするくらい
今でも首都になるくらいのものを見つけたのはすごい 黒海北岸に移住したゴート族が海峡を通って
エーゲ海を荒らすようになったので
海峡の防衛が必要になった
ゴート族以前のスキタイやサルマタイは
遊牧民なので海賊行為をしなかった コンスタンティヌス4世は?
初めて実戦でギリシャの火を使ったのは功績として大きい
で、ワースト1はコンスタンティノス11世なの? コンスタンティノス10世の方がワーストだな
コンスタンティノス10世の息子ミカエル7世がワースト1かな
ミカエル7世はアンカラで自立したノルマン人傭兵の反乱鎮圧を
セルジューク朝に依頼した 十字軍に一時滅ぼされたことが衰退の決定的要因になったことを
考えるとアレクシオス1世もワースト10位以内もありうる
いくらイスラムの脅威とはいえ、領内に外国の軍隊をいれるなんてアホ コンスタンティヌス1世もローマ帝国的にはワーストだな
持ち場を放棄して友軍を攻撃した
ガリアを防衛する為の軍でイタリアを防衛する為の軍と
オリエントを防衛する為の軍に大きな被害を与えた ワーストというとユスティニアノス2世は?
ウマイヤ朝への遠征の失敗、ユスティニアヌス1世に倣った建築活動で国民を疲弊させ、
加えて宦官であるペルシアのステファノスの専横もあって
ヘラスの長官レオンティオスのクーデターにより捕縛、鼻を削がれ廃位にされる。
しかし、その後黄金製の付け鼻を付けて復帰を表明。
レオンティオスを廃して帝位に付いたティベリオス3世を打倒し、
投獄されていたレオンティオスと共に処刑する
しかしその後復位したユスティニアノス2世は懐疑心の権化となり、
少しでも怪しい行動を起こした人間・勢力を全て粛清する暴君に。
自身の流刑地だったケルソンにまで復讐を行おうとして艦隊を派遣したが、
これに対し怒ったケルソン市民の反乱に艦隊が同調。
艦隊に同乗していた有力者フィリピコス・バルダネスを皇帝に推戴し、
これに更にハザールの支援を受けた反乱軍が首都コンスタンティノープルに迫ると、あっけなく首都は開城。
ユスティニアノス2世は小アジアに亡命したが間もなく捕らえられ処刑された。
首都に与えたダメージというよりは、まあ普通の暗君と言った感じだが。 コンスタンティヌス11世はオスマンに滅ぼされない選択肢もあり得たのだろうか 難しいな
ギリシャ方面に船で脱出するしかない
あるとすれば、イェニチェリを買収する手はどうだ?
メフィスト2世が困ったのは彼らの扱いだった
あとゲリラ戦に持ち込んで伸びきった補給路を夜襲でつくとか
いずれにせよ、風前の灯の状況でコンスタンティヌス11世は責められん たとえコンスタンティノス11世の時代に滅亡を免れたとしても遅かれ早かれビザンツは滅んでたと思うがな
長くはもたない状況だった ミカエル8世はベスト5に入れてもいいかな
コンスタンティノープルを奪回したし、
シャルル・ダンジューの野望も打ち砕いた >>814
逆によくそこまで持ったな 室町幕府みたいな
状態で滅びそうでなかなか滅びなかった
超高齢でガタガタのお爺さんみたいだ 滅亡直前のコンスタンティノープルは衰退と人口減少が進み、
テオドシウスの城壁内の市街地にはいくつかの集落が散在し、
皇帝はなかば廃墟と化した宮殿の一角で生活するありさまだったとか
逆にジェノヴァ人居留区ペラは繁栄していた アレクシオス1世がワースト2?
十字軍を呼ぶなど衰退の決定的要因作ったから ミカエル8世自体はなかなかの名君なんだが、
肝心のビザンツ帝国自体がもう彼の治世にはボロボロに衰退しきってて、
輝きをあまり感じられないのが残念だ パライオロゴス朝ルネサンス期には、西欧の影響のためか、立体的な浮彫が
製作されている
ビザンツ帝国が滅亡しなければ、正教美術にも別の発展があったかもしれない >>818
アレクシオスは十字軍など読んでいないよ、傭兵に依頼をしただけ
それをウルバヌスが勝手に十字軍に仕立て上げただけ
要請の内容は、西欧側とビザンツ側では食い違っていて
「十字軍の依頼」と主張しているのは教皇側
十字軍派遣の伏線は、むしろ1054年の教会の東西分裂にある
そもそも西欧の傭兵はバシレイオス二世も雇っていたから
傭兵の要請が衰退の要因になるのならバシレオイス二世もワースト入りだろう 第一回十字軍の頃はまだ中東に行ってたし、あまりビザンツ衰退の決定打っぽさは感じないな 第四回十字軍は、最初エジプトのカイロを攻撃する予定だったんだよな
だけどヴェネツィアに対して契約金を支払うことができなくなったので、
エンリコ・ダンドロは、ザラの奪還に協力すれば支払いの延期を認めるという
提案をした
コンスタンティノープルに十字軍を導き入れたのはビザンツ帝国の内紛 セルジューク朝のアルプ・アルスラーンも
ファーティマ朝を倒す為にエジプト遠征の途上だった
ファーティマ朝はきっかり百年も延命した 十字軍は、最初はセルジューク朝に征服されたパレスチナに向かったはずなのに、
到着してみたらファーティマ朝の支配下に戻っててファーティマ朝を攻撃することになってしまった
殴り合いの喧嘩の助っ人に入ったら、間違って庇う方を殴ってしまったみたいな
ファーティマ朝が統治していたころは、聖地巡礼旅行が普通にできていたから
第一回十字軍でも後のフリードリニ二世のような人が指揮していたら、ファーティマ朝との
間で無血交渉ができたかも知れない どっかの本で、ラテン帝国作られて、滅ぼしたけど失ったものも
大きかったとあったな 10世紀初め、コンスタンティノープル総主教のニコラス・ミスティコスは、
イスラムのあるアミールにこう書き送っている
「この世界には二つの最高権威があります。ひとつはイスラム教徒のもの、
もうひとつはローマ人のもので、世界はこれらの権威から放たれる輝かしい
光で満ち満ちています」
一方、ビザンツ帝国は、西欧に対し常に優越感、軽蔑、不信感をもって接してきた
この意識の差は、ローマ教会に対するコンスタンティノープル教会の高飛車な
態度となって現れ、1054年、これに不満を抱いたローマ教皇の使節は、
コンスタンティノープル総主教に破門状を叩きつけた そんなビザンツも15世紀に入る頃には西欧に文明力も追い越されてしまうんだよなぁ
建築様式ですら一部西欧式のものを取り入れる始末
歴史ってものはホントどう動くか分からない >>828
このスレとは直接関係がないけど、前近代に、日本がいずれ中国を追い越すと
考えた者はいなかっただろうな 東ローマとササン朝ペルシャではどちらの方が文化水準が上だったの?
まあどちらとも軍事力ではイスラムに敵わなかったわけだけど古代ローマとゲルマンを見ても分かる通り文化水準と軍事力は別だからな シミュレーションゲームがあるとするやん?
信長の野望みたいなさ
自分が君主としたら
どこの時代が一番簡単?
反対に1453年は無理ゲーだけどどの時代が
やりごたえありそう?
(こんなん聞いても分かってくれるかな?) >>831
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%9A%87%E5%B8%9D%E4%B8%80%E8%A6%A7
東ローマ帝国の皇帝一覧
このスレに来る他の方が遥かに知識も豊富で詳しいと思うけど・・・
私見では「一番ラクチン」って言うならコンスタンティヌス大帝とかユスティニアヌス大帝とかじゃないの?
難易度考慮せず「やりごたえ」っていうなら
ユリアヌス、ヘラクレイオス、バシレイオス2世あたりでは 逆になりたくない皇帝といえば、アンドロニコス1世とかユスティニアノス2世
とかかな アレクシオス1世がやりごたえありそう
ロマノフ率いる主力中の主力が壊滅し、
移民族の侵略が続き、政治は乱れ
財政は破綻しつつあった状況から開始だな
それにしても24歳で将軍はすごいな
コムネノス系は有能な人物多い ビザンツには両眼をえぐり取る、舌を切断する、鼻削ぎの刑に処す、去勢する、
などの残酷な刑罰が途中から出てくるけど、あれはオリエントの影響なのかな 残虐さで1000年ももったのかな?
始皇帝の秦は15年しかもってないけど残虐さは同じくらい >>836
オリエントの影響もあるらしいけど、それまでなら処刑だったのを命までとらなくなった
というのはキリスト教の影響らしい 命まで取らなくなったから反乱が増えた、という側面もあるが 目を潰すのは基本的に反乱だっけ?
普通は殺さないとまた反乱されるから殺されても仕方ないところを、あえて生かすとなると目を潰さないと反乱を防げないからってことだろうか グロい話はええわ。
この帝国はどこまで儲かってたん?東西交易の中心に都があったから
それなりに関税収入も入ってたんやろ? 絹織物も、最初はビザンツでしか作れなかったんじゃなかったっけ? 西欧で作れなかったが西アジアでは普通に作れてた
イスラム帝国でもマシュリクでは作れてた
アンダルシアとかマグリブではどうだったか知らんが ビザンツ帝国には、それなりの輸出産業があった。
コンスタンティノープルは絹織物や工芸品、バルカン半島のトラキアは農産品、
マケドニアは鉄・刺繍・ベーコン・チーズ、ギリシアはラコニアの大理石、
小アジア西部はワイン・油・米・紫衣・スペルト小麦(家畜の飼料)、
その他の小アジア沿岸部は農産品、内陸部は織物や動物の皮を生産していた。 ビザンツ帝国は、外国人の交易をコンスタンティノープルに限って行わせ、
彼らの滞在期間は3か月以内とし、輸出入とも10%という高い関税を支払うことを
義務づけていた
この原則を、アレクシオス1世が放棄した なるほどな、かなり儲かってるな
輸出にあたって、海上ルートがエーゲ海と黒海だけというのがコンスタンティノープルの弱点だな。
アナトリア半島は確保したいよな。道理で遠征繰り返すわけだ。 バシレイオス2世は、死後に何万もの金貨からなる財宝を残した
ノミスマ金貨は品位が安定していたのでバルト海から紅海にいたる
広大な地域で本位通貨になっていた
この時期のコンスタンティノープルは世界一の市場だった >>8
西欧主義の身勝手かと思ってたが
ビザンツをローマと認めちゃうと、そのローマを倒した共同体(イスラム)がダニエル書の予言の成就と重なるから
ローマと関係なくする動きや東ローマ帝国の過小評価につながってるのかなとおもた ビザンツの歴代皇帝見たけどみんな金持ちの割には質素だね
コインしか顔がわからんのはあほくさと思った。 12世紀にフライジングの司祭オットーは、「帝国移転の論理」を用いて、
世界を支配する帝国が、古代ローマ帝国から東ローマ帝国、カール大帝の
フランク帝国を経て、最後にオットー大帝の神聖ローマ帝国に移転したという
説をとなえた
西欧人がビザンツを否定するようになるのは、やっぱり近代になってからじゃ
ないのかなあ ユスティニアヌス帝は地中海世界の彩光を目指して大遠征をおこなったが、
征服地で重税を課した。
結果、ローマの再興に幻想を抱いていた民衆は幻滅してしまった。
あげく、ニカの乱では数万の民衆を虐殺するわ
名建築のアヤソフィアを建てさせたことは歴史に残るが
名君かは微妙に?がつく >>846 ビザンツはどこまで水産資源を活用してたの?
トルコ地域は魚食べないから聞いてみたい ビザンツの商人が扱った交易品は、ワイン・油・塩魚・奴隷・東方の香辛料・織物・
衣服・壷・貴金属などだった 今のトルコ人がトルコ文化に染まった元ギリシャ人というのは本当なのだろうか 古代の小アジアには、リュカオニア人とかフリュギア人とか、
さまざまな民族がいたけれど、彼らはビザンツ時代にはどうなっていたのだろうか
ギリシア人に同化されていた? アナトリア東部ユーフラテス河国境に接するカッパドキアは
完全にギリシャ化しておらず住民の多くがアルメニア人だった
ロマノス4世はカッパドキア出身なのでマンジケルトの戦いでは
ギリシャ人将兵らが戦場から勝手に退却した ユーフラテス河の東西にカッパドキアとアルメニアに
アルメニア人が分布していたわけだね
セルジューク朝はユーフラテス河を国境にして
アルメニアをセルジューク領にして東ローマと
講和しようとしたけどロマノス4世は拒否した
ギリシャ人諸将はこの講和を歓迎したけど
ロマノス4世を説得出来ず戦場で裏切った 昔のアルメニアはユーフラテス河で東西に分断されていた
近世のウクライナがドニエプル河でポーランド領とロシア領に
東西に分断されていたのに似ている マンジケルトで戦ったビザンツ軍の中には、トルコ人傭兵もいたのだとか ローマ帝国が東西分裂したばかりの時にはアルメニア人以外にも
イサウリア人やケルト系ガラチア人とかが小アジアにいた
その後バルカンにスラブ人が移住してくるとバルカンから
ギリシャ人が小アジアに避難してきて小アジアのギリシャ化が促進した
トルコ人が小アジアに移住してくるとギリシャ人はバルカンに避難して
かなりスラブ化していたギリシャ本土が再ギリシャ化した ビザンツではテマ制がうまく機能しなくなったので、徴兵制をやめ、
傭兵を雇うための租税を徴収する方向に転換した
傭兵の中にはヴァリャーグ人、フランク人、ノルマン人、ペチェネグ人、
ブルガール人、アルメニア人などがいた ギリシャの火の原材料はどこから輸入?
硝石って火山国にしか取れないから
火山国多い日本から輸入してた? >>865
ロシア人傭兵「さんざん世話になった俺たちを無視するな」 陸上で傭兵を雇うだけでなく、海軍力も、法外な商業的特権と引き換えに、
ヴェネツィア人に委託してしまう ロマノス4世がセルジューク朝と講和せずにマンジケルトで戦ったのは
兵の大部分が戦利品目当ての外国人傭兵だったからでもある
ロマノス4世は第二のアレクサンドロス大王になると称して
イスラム世界に攻め込む為に大軍をかき集めた
フランク人やノルマン人やペチェネグ族らはイスラム世界の富に憧れ
略奪する事を夢見て傭兵となったので講和するわけにはいかなかった
もし戦わずに講和したら傭兵らは東ローマで略奪しかねなかった
イスラム世界の都市を攻める為の投石機や破城鎚を操作する作業員が
野戦で足手まといになった事も東ローマ軍の敗因のひとつだった 中世人にとって、戦争というのは基本的に経済的行為なんだよな
戦争による財貨(動産)の獲得が主な動機
ヴァイキングがイングランドや西フランク王国を恒常的に略奪してまわったのも、
アッバース朝から商業交易その他の形で西欧に流れ込み、フランク王国に蓄積された
富をねらってのことだった ○○ケルトという地名はアルメニア語
本来はあのあたりまでアルメニア文化圏なんだよなあ 難しいこと聞くかもしれないけど
日本の中世の政権運営方法をビザンツに
輸出はできるのかな?
鎌倉幕府から明治まで800年
武家政権が続いたわけだけど
その土台になるのは御恩と奉公
という将軍と御家人の主従関係なんだけど
ようは御家人は将軍から自分たちの社会的地位
や領土を認めてもらうかわりに滅私奉公的に
幕府にために尽くすというものだけど
これどう?ビザンツでも通用する?
幕府に問題が起きたら「いざ鎌倉へ」なんだけど
ビザンツに問題が起きたら「いざコンスタンチノープルへ」というキャッチフレーズで。 >>874
マラズギルトはむしろアルメニアの中心部
ディヤルバクル近郊のエルガニの現存最古の記録がアルメニア語で
その後の歴史で現マラティアくらいまでがアルメニア圏と考えられる ヘレニズム時代にコンマゲネ王国という国があったけど、あれもアルメニア人の国? アンドロニコス2世の時代にはアルモガバルスと呼ばれたカタルーニャ人傭兵も
雇っていたな >>785
無理。
第一、日本の御恩と奉公は、幕府からの対価と幕府への義務が曖昧すぎる。
日本のような単一民族で、物事をあいまいにできる人種ならできるだろうが、
ビザンツはいろんな宗教や人種がいるんだ。忠誠心もまばら。
どんな価値観が混ざっても、義務と報酬を明確に紐づけてあげないと、
いくら働いても報酬はこれだけ、一方でちょっと働いてたんまり報酬という
不公平な扱いがあっちこっちに出てきて、不満が爆発するに決まっている トルコ人が小アジアを制圧したころ、西からは、ノルマン人が南イタリアの
ビザンツ領に侵入しはじめ、1071年には最後の拠点バーリが奪われる。
そして、1080年代になるとノルマン人の首領ロベール・ギスカールが
アドリア海を渡ってバルカン半島に入り、コンスタンティノープルを目指すようになる
この時期のビザンツは西にも東にも敵を抱えていた >>872 そんなことがあったのか・・・
ロマノス4世って皇帝で捕虜にされた前代未聞の馬鹿と思ってたけど違ったのね
東ローマのダメ皇帝列伝とかに載ってないから、なんでかな?と思ってたけど
そういうことか。 この王朝は本当に王族同士での殺し合いが多すぎる
アレクサンドロス大王の時代を除けばギリシャの全盛期を作り出したとも言えるが
個人的には三人賢帝を選ぶなら、
ユスティニアヌス1世、ミカエル8世、マヌエル2世だと思う
最後の皇帝三人はやった事や考え方を見ると凄く現実的で穏やかでしたたかな人物
マヌエル2世、ヨハネス8世、コンスタンティノス11世は
別の時代に生まれていればかなり勢力を拡大したと思うしさぞ名君だったと思う
特にマヌエル2世が当時最大の脅威だったオスマン帝国を
存命中は表面上はあくまで友好的に接しながら何度も離間を仕掛けて
自分の意のままに操っていたというのはかなりのもんだと思う
もっとも狡猾なギリシア人ってのはマヌエル2世の方が相応しい そういや暗殺も好きだけど本当この国、目潰し大好きだよね
何かあるとすぐ目を狙ってくる >>885
五体満足でないと皇帝になれなかったんだっけ? 目潰しは反乱できなくするためではないかな
主に反乱した人がされたみたいだし
命を奪わないだけ慈悲深いという認識だったのかも 反乱しても命を取られるわけではない、ということで反乱が増加した、という見立てもある すいやせん
東ローマ帝国が滅亡してローマ帝国が滅亡したと考える学者と
西ローマ帝国が滅亡してローマ帝国が滅亡したと考える学者とで2つに割れるって
本当ですが?それぞれの学者の言い分について教えてください 西方教会と東方教会では、実は東方教会のほうがキリスト教本来の姿に
近いんじゃないのかなあ
キリスト教はもともとパレスチナで生まれた宗教だし、
新約聖書はギリシア語で書かれているし >>891
西じゃないですかね? ローマ帝国は
東ローマはギリシャですから 西ローマなんて、ダニエル書に粘土とか書かれた部分だろ >>885
東ローマの捕虜になったブルガリア兵大多数の両目を潰した後,片目だけ潰した
残りの連中に連れ帰らせたんだっけか どうして第4十字軍にあんなにあっさり落とされたんでしょうか?
はるかに弱体化した最終決戦の時もオスマン帝国相手に粘ったのに
いくらフランク騎士のほうがトルコ騎兵よりも接近戦が得意で攻城戦には有利とはいえ、
20万の大軍+大砲相手に1万人で2か月も耐えた都市が、大帝国の国力があるのに
烏合金欠騎士団相手に2週間で陥落するなどということがあるでしょうか >>857
そもそもトルコ人の定義がトルコ語を話すムスリムだからな
当然改宗したギリシャ系の子孫も多い ビザンツ帝国は、黒海に国営養魚場をふんだんにもっていたため、
コンスタンティノープルの労働者はしょっちゅうキャビアを食べていた 11世紀半ばのビザンツでは、商人出身の新興中産階級が元老院に入れるようになったが、
1081年に、アレクシオス1世コムネノスが即位し、土地所有貴族が実権を握ると、
商人出身者は元老院から追放され、元老院議員の商業活動も禁止された
もしビザンツが商人に対してずっと開放的であり続けたら、この国の歴史も
変わっていたのかなあ… 西欧からやってきた十字軍もビザンツの捕虜となった時は目を潰されちゃったんだろうな・・・
それはともかく現在のギリシャ料理やトルコ料理ってその本元はビザンツ料理なんかな?
イスラム圏で広く食されてるケバブは違うかもしれんけど トルコ料理のヨーグルトの多用とかは遊牧民文化の特徴だと思う >>902
>西欧からやってきた十字軍もビザンツの捕虜となった時は目を潰されちゃったんだろうな・・・
犯罪者でもないのに目つぶしなどされない
十字軍は犯罪者集団に近かったから、そういう素行の悪いやつらは目つぶし刑にされたかも知れないが
捕虜は原則捕虜交換された
1014年のブルガリア軍との決戦での目つぶしは現在では伝説だと考えられているそうだ コンスタンティノープルだけになってもローマ帝国を名乗ったビザンツは台湾だけになって中華民国を名乗る台湾みたいなもん? >>905
末期のビザンツではギリシア人意識が生まれていた
自分たちを「ヘレネス」(ギリシア人)と自称し、
ギリシア古典文化の復興も行われた ローマじゃなければ聖書の予言が達成されないから
神がそうさせたんだよ モンゴル帝国が攻めてきたとしたら守り切れる自信あった?? コンスタンティノープルとかビザンツ都市の城壁は
石と焼き煉瓦で造られていたから簡単に陥落しなかったはず
華北や中央アジアとイラクの城壁は日干し煉瓦製が多く
見かけによらず脆かった 明の時代に華北の城壁も焼き煉瓦になった
二度とモンゴルに征服されない為にした
イランは煉瓦を焼く薪が貴重なので
モンゴル征服も日干し煉瓦だった
インド人が火葬するのに古代イランの
ゾロアスター教が火葬を厳禁したのは
砂漠なので薪が貴重だからだろうね 中世には、ビザンツ皇帝が飛躍的に高まったローマ教皇の権威を利用するため、
ビザンツ皇帝が教皇から帝冠を授かるという構想さえ何度か浮上したのだとか
もちろん、ビザンツ側の原則に照らせば、皇帝を選ぶのは元老院と軍隊と民衆だが、
そのねらいはむしろ、西側のローマ皇帝から正統性を奪うことにあった 西側のローマ皇帝って西ローマの皇帝?それともフランク皇帝?神聖ローマ皇帝? 西ローマ皇帝がいた時代はまだ教皇はそんなに権威はなかったはずだからフランク皇帝か神聖皇帝じゃないの カール大帝の頃はビザンツの権威は教皇のカールへの戴冠など意味はなく
ビザンツの承認こそがカールの正統性だったから(ビザンツ側はそう考えていた)
教皇の戴冠を求めるのはパラエオロゴス時代の話なんじゃないかな >>913
>ビザンツ皇帝が飛躍的に高まったローマ教皇の権威
これはかつては西ローマ皇帝時代にも主張されていた
近年では後世ローマ教皇の権威が高まった後で西ローマ皇帝時代にも教皇の権威が高かったように
史料を編纂したことが指摘されているため、この件も同様のアナクロニズムかも知れない
例えばコンスタンティヌス大帝の洗礼なんかはアリウス派が施したと考えられるが、
後世教皇の権威が高まった後になると教皇が洗礼したと主張されるようになったりしている 中国では、唐の文化を見たければ日本に行け、といわれているらしいけど、
ビザンツ文化もトルコやギリシャよりむしろイタリアのほうに数多く残ってそうだな
イタリア各地にあるモザイク壁画、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の上に
飾られていた青銅の四頭の馬、パラ・ドーロ…… ギリシャはさすがにビザンツそのものだから
結構保存状態は良いだろう
今でも当時の文化を残してるんだから
どっかのエジプトと違って
ただ、オスマンに占領されていた時期が長いが 東ローマの国旗(赤と黄色のやつ)ってソースの画像を見たことがないんだけど、どうしてあの国家だとわかるの? ビザンツ帝国が滅亡しなかったらってたまに言うけど末期には普通に西ヨーロッパに文明も文化も抜かされてた感じがするから残っててもあまり凄いことにはならなそうな気がする 現在まで続いていれば
1.ローマ教皇と似た感じで生ける化石として珍重される
2.あと前753年に成立した国が現在まで続いていたことになるからこれは凄いこと 残っていれば逆に西欧の文化の影響を受けていたかもしれない
立体的な彫刻が許されるようになるとか しかし、それが成れば
イズミル周辺なんて当然ギリシャ(ビザンツ)だろうし
トルコ人はシリアかイラクあたりにクルド人のように
国家無しで復興活動してるかもしれんね >>922
今のギリシャってある意味生きた化石だとは思う >>923
パレオロゴス朝時代の絵画はチマブーエの絵と手法が似ていて
初期ルネサンスと相互影響にあったと考えられている
そのまま発展していれば立体的な彫刻も出てきたかも もはやローマを領有してないのにローマを名乗るってどんな気持ちなんだろうか ロマイオンは都市ローマを意味してなかったからね
都市ローマはギリシア語でロミイだったかな コンスタンティノープルの正式名称は新ローマだからローマを保持していたと言える 武田とか上杉だって名字の地なんてとっくの昔に手放してるしな イタリアのロマーニャ地方ってローマ市のローマから直接由来した地名じゃなくて
東ローマ帝国の領土だった地域由来だな
ラベンナ総督府の管轄が総督府滅亡後教皇領となり、その地域がそのままローマ領という意味で
ロマーニャと呼ばれるようになり、現在のロマーニャ州となった
ロマーニャ州にはローマ市は含まれていない ルーマニアやルメリアやルームセルジューク朝みたいなもんか ローマから東にはローマ由来の地名が結構残ってるんだな
西にはないのかな ビザンツ皇帝ティベリウス2世の使節が突厥を訪れたとき、突厥の可汗は、
「ここに私の十本の指があるが、ローマ人はこれと同じ多くの舌を有し、欺瞞と偽証の
言辞を弄する。現に貴下が私自身に言う言葉と私の臣下に言う言葉は別物である。
かくして諸国民は次々と諸君の背信的な雄弁に欺かれてきた。貴下は自分の同盟者を
戦争と危険に投げ入れて彼らの労苦を横取りしながら、これら恩人を平然と見殺しに
する」
と述べた
この時代には遊牧民の間にもビザンツ人は狡猾だという評判が広まっていたのかな ビザンツ帝国はマンジケルトの戦いでセルジューク朝軍に惨敗したが、国の荒廃は
むしろ引き続いて起こった10年間の内戦によってもたらされたんだよな
ロマノス4世ディオゲネスの幽閉中に継子ミカエル7世ドゥカスが政権を握り、
それを機にさまざまな派閥の間で皇位をめぐる争いが始まった
結局この争いで得をしたのはトルコマン族だけだった アナスタシウスの浮き彫りは女性の胸が強調されててキリスト教の国なのに意外な感じがする
https://i.imgur.com/ZQ1pOTQ.jpg 何でヘラクレイオス朝からコインの肖像が正面になったの? ノープル攻略できて、ウィーン包囲は2回負けたことを考えると
堅城はウィーンに軍配があがるわけか ここって
複式簿記
導入するの遅かったんだな
イタリアンのほうが先とはな >>938
ロマノス4世がアルメニア人をギリシャ正教に改宗させようとしたので
マンジケルトではアルメニア人の多くがセルジューク軍に参加して
アルメニア人は自らセルジューク朝の支配を受け入れたので
アルメニアはほぼ無傷だった
マンジケルトはアルメニアなのでアナトリアもほぼ無傷だった
ミカエル7世がアンカラで自立したノルマン人傭兵の鎮圧を
セルジューク朝に依頼するまでアナトリアはほぼ無傷だった
セルジューク軍はノルマン人傭兵だけでなくアンカラ住民も
一人残らず追い払った https://www.afpbb.com/articles/-/3331418
7世紀の牛の骨にルーン文字、古代スラブ文字文化の定説覆す
2021年2月12日 19:28 発信地:プラハ/チェコ [ チェコ ヨーロッパ ] >>945
後にバイキングがルーシ作ったように、バイキングは貿易でこの辺りに出入りしてたみたいだから、その繋がりじゃないんかね
それにこの時代ならみんなが複数の言語を使っててもおかしくない なんかちょっと出てくるとすぐ「定説覆す」っていうのほんとやめてほしいわ。
いろいろ検証してからようやく判明する話なのに。 これまで一つも確認されてなかったものが一例でも出てきたら、「定説を覆すか?!」と報じるのは当たり前だと思うがなあ
山本勘助非実在説だって、一例でも信頼できる同時代史料が出てきたら「軍師かどうかは別として、そういう人はいた」説になったでしょ そういうのは検証に耐える物証が出た例外中の例外だろ
定説覆すとかマスコミに出た100のうち99は評価の定まらない新発見資料をかなり飛躍して解釈したり、ひどい場合はまともに古文書も読めないレベルの自称研究者が既出資料をとんでもない超解釈してたりする @ゲルマン人が利用してたルーン文字入り占い骨文がスラブ人にありがたられて
輸入されスラブ人の墓に収められた
Aルーン文字で刻まれている言葉がスラブ語とは記事には書かれていない
Bなんらかの理由でスラブ人社会で生きることになったゲルマン人の墓だった
C紀元600年とはまさにスラブ人がチェコに定住した時期にあたり、墓のスラブ人は
先住のゲルマン人の遺物の新な所有者となり墓に収めた
Dゲルマン人と接触のあったスラブ人が自分たちの言語をルーン文字で刻んだ
Eゲルマン人と接触のあったスラブ人が、わけもわからず意匠としてルーン文字を刻んだ
Fゲルマン人と接触のあったスラブ人が、特別な占い文字として刻んだ
などと想像力が広まる >>950
確かに、墓に入ってたからってその文字を使ってたとは限らないんだよな >>951
現代日本でも卒塔婆にサンスクリット語が書いてあるが
普段から文字としては使ってないしな。 >>951
スカンジナビアのバイキングの墓からアラビア語が打刻されたディナールやディルハム出てるもんな
よしスカンジナビアはアラビア語なんだぞー https://www.afpbb.com/articles/-/3340585
トルコ、運河計画に懸念表明の退役将校ら10人拘束 クーデター同然と非難
2021年4月5日 19:38 発信地:アンカラ/トルコ [ トルコ 中東・北アフリカ ]
【4月5日 AFP】トルコ当局は5日、イスタンブールに運河を建設する
レジェプ・タイップ・エルドアン(Recep Tayyip Erdogan)大統領の計画に
海軍の退役提督ら104人が公開書簡で懸念を表明したのはクーデターの呼び掛けに等しいと非難し、
書簡に署名した元将校のうち10人を拘束した。
首都アンカラの検察当局は、退役将校10人に逮捕状が出されたほか、
4人が年齢を考慮して拘束はされなかったものの、3日以内に警察に出頭するよう命じられたと発表した。
トルコの民放テレビNTVによると、14人は「実力と暴力を行使して憲法に基づく秩序を排除しようとした」疑いが持たれている。
トルコは先月、パナマ運河( Panama Canal)やスエズ運河(Suez Canal)に匹敵する
「イスタンブール運河(Canal Istanbul)」の建設計画を承認した。
この運河は、エルドアン氏が2003年の首相就任以降の18年間で空港や橋、道路やトンネルを次々と新設し、
推進してきた「クレイジー」なインフラ事業の中でも最も野心的な計画だ。
トルコ政府は、欧州とアジアを結ぶ世界貿易の重要航路である
ボスポラス(Bosphorus)海峡の通航量を軽減するため、新運河は不可欠だと主張している。 >>955
だが、計画をめぐっては環境への影響を懸念する声に加え、
ボスポラス海峡とダーダネルス(Dardanelles)海峡の通航について定めた
モントルー条約(Montreux Convention)を骨抜きにする恐れがあるとの指摘がある。
1936年に結ばれたモントルー条約は、両海峡の平時と戦時における民間船の自由な通航を保障する一方、
黒海(Black Sea)沿岸諸国以外の国の軍艦の通航を規制している。
新運河ができれば、両海峡を通らずに地中海と黒海の間を船舶が行き来できるようになる。
退役将校104人が署名した公開書簡は、モントルー条約を「トルコの国益を最大限に守る」合意だと評価し、
同条約を議論の俎上(そじょう)に載せるのは「憂慮すべきこと」だと表明していた。
https://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/8/5/1000x/img_85684f6b83afc30eba5825a8cf988e8b174224.jpg
トルコ・イスタンブールに建設が計画されている運河の位置を示した地図。 >>772
十字軍を支援する約束だったのに何もしなかったから十字軍諸侯は自分たちで自立するしかなかった >>772
>ビザンツ「聖地をムスリムの手から取り戻してくれ
ビザンツは聖地奪回など依頼していない
>>959
諸侯のパレスチナ占領と建国は諸侯の暴走
支援しなくて当然 ビザンツが要請したのはルーム・セルジューク朝にぶんどられた領土の失地回復についての援軍であって
具体的にはアンティオキアまで 要請したのは傭兵だったのに大量の貧民と浮浪者を送り込まれた上に領内で略奪までされてビックリだ この時代はまだ農業しかねえ貧しい王侯とローマ教会って認識だったのかなビザンツは >>964
こんな甘い考えだったから占領されたんか >>967
占領地は引き渡し
援助はしない
こんな条件で統制できるつもりだったんだから甘すぎるよな ビザンツの11世紀頃の皇帝を調べてたらみんな短命なんだけど、よく国が持ったな
官僚国家だったんかな? >>969
>占領地は引き渡し援助はしない
間違いが多すぎる
要請したのは傭兵であって「十字軍」ではない
要請したものと違うものを送って来て当時の西欧人は手紙が読めたのか
文盲を差出人のせいにしてはいけない
帝国と十字軍の司令官たちはレイモン以外1097年に正式に帝国と契約している
その契約における返還範囲は旧ビザンツ領であって
それを越える領域での十字軍の活動については帝国が支援する義務はない
にもかかわらずアンティオキアでは契約を破って勝手に独立国家が建国され
暴走する十字軍を支援してビザンツ軍はトリポリ等シリア沿岸諸都市を占領した >>970
政略計略謀略の陰謀うずまく宮廷政治だったらしい ビザンツディスるくんbotが相手じゃどうにもならんな >>970
11世紀前半は官僚制国家だったから、短命皇帝でも惰性で維持できた
世紀後半は地方で反乱が続発し国家解体に向かった
アレクシオスが収束した国家は既に官僚制国家とはいいがたく
封建国家であるとか家産国家であるとかいわれてて
君主の力量で統一が維持される国の形になっていた
だから君主が馬鹿だと国家解体に向かう
その帰結が第四回十字軍 シチリアでは聞き分けの悪い子を諭すのに、
「ビザンツ人が来るわよ」
という言い方がある
おそらく、シチリア人にとってビザンツ人は怖い存在であり、
ビザンツ支配の記憶が芳しくないことを示しているのだろう ローマ帝国の時代の権威は元老院>皇帝>宗教
だけど、東ローマ帝国はローマの自称だけ残って
完全に権威が皇帝>キリスト教会>元老院という
別物国家だよな ギリシャのポリスとも
イタリアのコムーネとも全く違う専制国家
西欧の国王や皇帝も名誉革命まではそれが理想で
18世紀に欧米はまた古代の元老院の時代に戻り、
19世紀以後はそれが更に左からの圧力で
「平民化」しているような アウグストゥス自身が余の権威は万人に勝った
と碑文に残してるから帝政期の権威は皇帝>元老院 でしょ
権威の序列で別物国家かどうかを決めるなら、
王政ローマと共和政ローマと帝政ローマも
別物国家ということになるわな アウグストゥスが元老院の権威を超えたからそこから帝政って言うんだろ ビザンツも古代ローマも日本も、長続きした国は時代によって
政体を変化させているよな
そうしないと生き残れない シチリアはビザンツ支配の時代にギリシア語が再導入され、7〜9世紀にかけて
ギリシア語の書籍が数多く出版されている
シチリアで生産される穀物は、ローマと同様にコンスタンティノープルに
とっても重要だった >>980
> ローマ帝国の時代の権威は元老院>皇帝>宗教
> だけど、東ローマ帝国はローマの自称だけ残って
> 完全に権威が皇帝>キリスト教会>元老院という
古代ローマとビザンツが別国家なのはその通りだが、
そもそも皇帝も元老院議員の一人でしょ? >皇帝も元老院議員の一人でしょ?
これも不正確
皇帝=元老院議員なのは元首政時代まで
>古代ローマとビザンツが別国家なのはその通りだが、
国制的には継承国家と見なせる
別国家か同一国家かはさまざまな属性の何を基準とするかで変わって来る これからの日本は、共同体やイエ制度が崩壊して、
ビザンツのような大衆社会になっていくかもしれない >>990
>>986は共和政時代じゃなくて元首政時代と言ってるぞ
>>980
東の総主教はともかく、教皇はローマ帝国の神官長でもあるから >>992
今朝「東ローマの歴史」というビザンツディスりスレが立ったんだが
lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1620934501/l50
ここの書き込みを見ると時代遅れの通俗史観をお持ちの方々のようだ
学説の方はまったく知らないように見える
>>990の読み間違いも、耄碌して字を読み間違えるような古い通説しか知らんじいさんか
自分の考えに凝り固まっているあまり事実を歪めて認識してしまう強度の認知バイアス患者か
どちらかであるように思われる
ビザンツディスりの容態を観察するには格好のスレとなるだろう 自分が気に入らない書き込みはなんでもディスりwww そうやってすぐ内紛する
そんなだから滅ぼされんだよ そんなだからA.キャメロンや井上先生とかにピザンツ好きは歴史学とは遠いところにいると揶揄されるんよ ビザンツをディスりたい人は「東ローマ」とか呼ばずに普通に「ビザンツ」って呼ぶと思うけどな 東西分裂時代以降も一般に普及しているビザンツ帝国じゃなくて東ローマ帝国って呼んでる人って、大概は西欧にコンプレックス持ってる名誉ビザンツ人みたいな人でしょ このスレッドは1000を超えました。
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