【栄光の】ビザンツ帝国総合スレ11【東ローマ】
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一千年に及ぶ繁栄・衰退を誇ったビザンツ帝国史について語りましょう。
基本はsage進行。バルバロイによる荒し、煽りは適当に無視して下さい。
現代トルコ・ギリシャの話はできるだけ他所でやってください。
前スレ
【栄光の】トレビゾンド帝国総合スレ【東ローマ】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1284293895/ >>488
そこまで求めるのは無理ゲー。
バシレイオス2世に広域的な商業を解するだけのアタマはなかった。
禁欲的で質素を重んじたせいで、経済的には停滞した、とまで言われている。
ピサやジェノヴァを手に入れたところで、持て余すのが関の山。 >>581
仮にバシレイオス2世に広域商業、経済を理解できるアタマがあったら、是が非でもノミスマ金貨の改鋳に踏み切ったと思う。
つまり通貨供給量の増加によるデフレ対策と域内経済振興と出目(でめ)収入。
「中世のドル」とまでいわれたノミスマでそれをやるなら効果は絶大だっただろ。
しかし結果的にバシレイオスが活躍した11世紀初頭までノミスマ金貨の純度は変わっていない。
金の供給量は変わっていないのだから、通貨供給は増加しなかった、と考えるべき。
金貨の純度が劇的に低下するのは12世紀末、ミュリオケファロンの敗戦後。
東ローマにとって苦し紛れの出目収入策だったが、地中海域内で一気にインフレが進行。
商業国家であるジェノヴァやヴェネツィアで投資が進み、後の台頭につながった。
ただ、これをバシレイオスに求めるのは酷に過ぎる。
貨幣価値は貴金属の含有量ではなく、発行体の信用力によって決まることを喝破したのは、7世紀も後、江戸時代日本の天才勘定奉行荻原重秀だった。 あっ、間違えた。
ミュリオケファロンの敗戦後は11世紀末だった。 >ミュリオケファロン
この単語、いつも「桶」とか、マヌエルが右手でOKしてるとことか連想しちゃう 中世みたいな
供給能力低い時代に
デフレなんてあったの?
常にもの、サービス不足のインフレ状態だと
思うんだけど >>585
供給能力は低かったが、需要も低かった。
もっと低かったのは貨幣の供給能力。
むしろデフレ状態の方が多かったよ。 >>582
>発行体の信用力によって決まること
これって中国の紙幣や16世紀フランドルの為替等で既に判明していたことじゃ? >>587
中国のこうしゃ(変換できねーw)は明らかに違う。
フランドルの為替はノーチェックやった。
ご指摘dくす! >>588
>中国のこうしゃ(変換できねーw)は明らかに違う
そうかな? 発行した紙幣の期限を決めて回収するように調整していたのは
政府の信用力を認知していたからだと思うのだが
まあ、中国の紙幣は貨幣は、毎回増刷し過ぎたり界もだんだん期限が長くなり最終的に無期限化したりしてたわけだけど
中国紙幣は為替が起源だけど、これはそれまで度々あった鉄銭や布巾など、銅銀金が不足していて貨幣供給不足の
場合に別素材を貨幣として流通させたもので、その場合必ず貨幣安定論として戦国時代からある子母相権論が出てくる >>589
>発行した紙幣の期限を決めて回収するように調整していたのは
>政府の信用力を認知していたからだと思うのだが
受取り拒否は死罪!
こんなこと決める時点で信用力とかもはや関係無し。
貨幣の3条件(支払決済手段、価値尺度、価値保蔵)のうち後2者を満たしていない。
つまり死刑にさえならなければ誰も受け取りたくないし、誰も価値基準としないってこと。 確かに江戸幕府でも享保時代に貨幣改鋳を荻原重秀より確信的に、より徹底してやった大岡忠相は、旧貨幣の供出を拒否った4豪商の手代(現代風に言えば部課長級かな?)を問答無用で伝馬町の牢にブチ込んだが、別に誰も殺していない。
そもそも主人(代表取締役)でもなく番頭(役員級)でもなく、手代なんぞ遣わす時点で、豪商側の方が幕府(軍事政権)を舐めてたわけだが。 >>590
>受取り拒否は死罪!
これ出典は?偽造したり、価値を毀損するようなことをした場合の話じゃないの?
雑学系の本ではなく、中国経済史の本では見たことがない
自分が知らないだけかも知れないので、まともな出典を教えてほしい
なお、自分が書いている信用の話は、元の話だけではなく、宋金代の話も含む(というか、
最初の紙幣なので、主に宋金のつもりの話で書いていた) なんだwikipediaか、、、まあ一般書とはいえ出典はわかったから、こんど確認してみるわ
仮に元の交鈔がそうだとしても、宋金とは違うという話だよね 話を戻すと、ビザンツのヒュペルビュロンの暴落は、コイン史で有名なシラカワサイトによると
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/E035.htm
ちょうど1200年頃、第四回十字軍の頃に見える
でも1176年のミュリオケファロンの敗戦とその後の条約がきっかけかも知れない
どっちなんだろうね >>595
すまん、ミュリオケファロンとマンジケルトの敗戦を混同してたわ。
高校行きなおしてきまつ・・・orz
ソリドゥス金貨
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B9%E9%87%91%E8%B2%A8
しかし紙幣の概念の無いこの時代、「中世のドル」の乱発(というか、それまでが貨幣不足のデフレだった)は交易上のインフレを招いたことはほぼ間違いなく、こちらも話を戻すが、ジェノヴァ、ヴェネツィア等の商業都市の台頭を招いた。 >>570
つ『コンスタンティノープルの陥落』 塩野七生 バシレイオス二世の時代は、戦争して略奪して奪った敵国の貨幣や財宝を自国貨幣に改鋳にする、
というような安直な考えしかなかった時代だからねぇ >>598
確かに軍人皇帝時代らしい大雑把で乱暴なやり方。
しかも、それを胎蔵するために、宝物庫の床まで掘り下げるとかな。
しかしそのおかげで、帝国は安定した「中産階級」を抱え込むことができた、と言えなくもない。 >>570
>>597
小説なら
「艦隊山越え 征服王スルタン・メフメット」豊田穣
歴史解説ものなら
「イスタンブール 三つの顔をもつ帝都」ジョン・フリーリ
(「世界の都市の物語」シリーズ内)「イスタンブール」陳舜臣
といった本もあるね 新書48
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/books/1587183828/
38 無名草子さん (ワッチョイ dfbd-h83k) sage ▼ 2020/05/04(月) 05:19:42.19 ID:GxTw+zjF0
@中公新書6月。
遠藤耕太郎『万葉集の起源 東アジアに息づく抒情の系譜』
加藤文元『数学する精神 増補版』
蔭山宏『カール・シュミット ナチスと例外状況の政治学』
倉沢愛子『インドネシア大虐殺 二つのクーデターと史上最大級の惨劇』
中谷功治『ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち』
--------
シュミット本の著者は政治(哲)学でもなく法(哲)学でもなくドイツ思想史が専門のようだ。注目。 >>601
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784121025951
中公新書 2595
ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち
新書
中谷 功治(著/文)
発行:中央公論新社
新書判 336ページ
定価 940円+税
ISBN9784121025951CコードC1222
教養 新書 外国歴史
出版社在庫情報不明
発売予定日2020年6月23日
登録日2020年5月7日
最終更新日2020年5月7日
紹介
千年以上にわたるビザンツ帝国の歴史。
本書は、文字どおり波瀾万丈・有為転変の連続であった、その軌跡を描き出す試みである。
個性豊かな皇帝が登場し、過酷な政争や熾烈な外交および戦争が展開された歴史は、ダイナミズムに富んでいる。
コンスタンティノープルの発展、帝国が各地に及ぼした影響、十字軍との関わりなど、
豊富な論点を踏まえて、帝国の内実を描き出す。 まーた通史か
同じようなばっかしで面白くないな
どうせ皇帝の羅列だろ 小笠原『オスマン帝国』が売れたので二番企画なんだろうよ
オスマン帝国はかなり本が出ているようで、最初から最後まで全部扱った通史は
出てなかったからそれなりに売れたが、ビザンツ通史はもう何冊も出てるからなあ 読んだよ
個人的には読みにくかった
原文の文章の癖なのかな おい聞いてくれよお前ら
エルドアンの野郎がとんでもない暴挙に出やがった
トルコ大統領 「アヤソフィア」をイスラム教のモスクに変更
2020年7月11日 6時23分
イスラム教徒が多数を占めるトルコのエルドアン大統領は、
イスタンブールの世界遺産の一部で博物館として使われてきた歴史的建造物「アヤソフィア」をイスラム教のモスクに変更したと発表しました。
アメリカやギリシャはアヤソフィアを博物館のまま維持するようトルコに求めていただけに、今後、波紋が広がりそうです。
ttps://www3.nhk.or.jp/news/html/20200711/k10012509781000.html 何を今更。1453年に東ローマは終わったんだ。建物が残っているだけでも良しとしないと。 本当だわな
アルハンブラ宮殿のモスクは今やカトリックの大聖堂だが今更返せなんて言うのも野暮の話
むしろ建築が現存し歴史を伝えてくれるだけでもありがたい
アギアソフィアもまた同じこと 東ローマ人だって自分たちでイコン破壊しまくったのにな
お陰でローマ絵画の流れを組んだ旧イコンは極僅かしか残らず、下手くそなビザンティンイコンが主流に でも写実的な前期イコンには魅力も精神性も感じないなあ
フロレンスキイ神父が言ったように、物理法則や写実性を無視したところに彼岸性や精神性が立ち現れる 精神性だの彼岸性だのは後付だけどな
文化大革命の後の革命的新イコンを後付で評価してるだけ ビザンツ帝国では、農業技術の発展がほとんどみられなかったけど、なぜなのかな
西ヨーロッパでは農業生産が何倍にも増大し、イスラーム世界では灌漑によって
収穫が飛躍的に伸び、東方の作物も栽培されるようになったのに対して、
ビザンツでは11世紀の間、農業の生産性はまったく変わらなかった コンスタンティノープル一極集中は現代日本の東京に似ている テサロニカ、エフェソス、トレビゾンドなどの街も経済的には重要であり、
また当時としては破格の3万から4万という人口を誇っていたが、首都である
コンスタンティノープルとは比べようもなかった ビザンツ皇帝は、「人の住むあらゆる土地」の支配者でなければならない
ビザンツ人にとって、外国人などというものは、少なくとも理論的には存在しなかった
建前上、皇帝が条約に署名するのではない
たとえそれが帝国に不利なものであっても、他国との条約はすべて、
「皇帝の寛大かつ一方的な譲歩」という形を取った
ちょっと中国に似ている テマ制度は唐の節度使にそっくりだな
前者はその後完璧に大土地所有を認める封建社会になったのに対して後者はガチガチの中央集権の宋朝が成立したという違いはあるけど
また前漢の武帝、魏の曹操、明の洪武帝永楽帝みたいに北の遊牧民を逆に侵略してボコボコにしてた時代もあるけど
東ローマは北方民族に優位に立てた時代がまったくない
攻めてきたら地方は捨てて首都に防御全振りしてやり過ごすか貢物おくってお引き取り願うかのどっちか ビザンツの地方貴族の出世とは、コンスタンティノープルに移って館を建て、
高位の官職につくことだった
貴族たちは、公務以外から報酬を得ないという、古代の有閑階級の生活様式を守った
このようなことは地方の所領からあがってくる莫大な収入があって可能なことであった >>622
テマは世襲ではないので節度使とは違うんでは?帝政ローマ時代の皇帝属州の総督(軍団指揮権を有してた)の方が近い ビザンツも中国も、「対等な関係」というのを認めない文明だけど、
実は近代ヨーロッパの、「対等な主権国家同士の関係」のほうが
人類史の中では特殊なのかもしれない >>625
互いの国力を無視して「対等」に扱うというのは本来不自然極まりないことだからね。
序列なり区別なりあるほうが自然。 ビザンツ帝国はあらゆる国を――独立国であろうと、ビザンツ帝国より
強大な国であろうと――全キリスト教徒の父であるローマ皇帝を頂点とする
序列の中に位置づけた
各国の王は、家長である皇帝の家族とみなされたのである 虚栄だわな
9,10世紀には人口も科学も文化もバグダードやコルドバの後塵を拝したのに未だに世界の中心だの空しすぎる >>617
ビザンツ帝国軍は騎兵が主力だったから
牧畜が奨励されて農業が停滞したのでは?
バルカンをスラブ人に奪われる以前は
バルカンが兵馬の供給地だったけど
以後はアナトリアで賄わなければならなくなった 12世紀以降、北イタリア諸都市の商工業の発展に押されて
ビザンツ帝国の国内産業は衰退してしまったしな >>629
ビザンツの農業は古代ギリシア・ローマ以来の地中海農法が行われ、
あまり技術の進歩がなかった
それでも、古代から中世初期には西欧に比べて高度な農業技術を持っていたが、
12世紀に西欧やイスラムで農業技術が改善され農地の大開墾が行われるようになると、
ビザンツの農業の立ち遅れが目立つようになってしまった
技術的進歩といえば、せいぜい双股の鍬の発明ぐらいだった シュメール滅亡後に塩害で放棄されたイラク南部の土地で
アッバース朝時代に黒人奴隷ザンジュを用いた土地改良により
サトウキビとかを栽培する奴隷農場が発展したけど
ザンジュの乱の鎮圧後に農場は元の荒れ地に戻った
中世の中央アジアでは綿花の栽培が発展したけど
穀物から綿花に耕地を転用し過ぎたので
穀物の備蓄が充分に出来なくなり
モンゴル軍に包囲された都市が次々と陥落した セルジューク朝の遊牧トルクメンは放牧地を求めて
イラン人の農地を奪い放牧地にしようとしたので
ゼルジューク朝のイラン人宰相ニザーム・アル・ムルクは
イランを守る為にビザンツ帝国のアナトリアに
遊牧トルクメンを移住させた
遊牧トルクメンはビザンツ人の農地を奪い放牧地にした マケドニア朝末期のテマ制崩壊により
ビザンツ帝国の農民は兵役から解放され
農業に専念に出来るようになり
このまま農業が発展するかにみえたが
トルコ系遊牧民の移住により
ビザンツ帝国の農業は壊滅した 古代ローマや中世ヨーロッパと違って東ローマはフィクションの題材として
あまり多く取り上げられないな >>636
プラトンは、哲人王は法よりもすぐれており、法に従っても従わなくても、
正しいと思う統治をすれば人々の幸福にになると考えていた
アリストテレスも君主制を望ましい政体と考えていた
ビザンツの専制は、オリエントだけではなく、古代ギリシャの影響も
あるんじゃないか? プラトンの哲人王は専制君主じゃないし(仕方ないから役目を負うって建前)、アリストテレスの政治学は12世紀までまともに注解作られないほど影が薄かった
古代ギリシャじゃ専制の僭主は基本評判悪い ビザンツ人は君主政を理想の政体とみなしていたが、その根拠は、神が唯一であるように
支配者もひとりであるべきだということである
複数の神を認めることは無神論であり、権力を複数の者が分かち合う民主政とは
無政府状態にほかならない
ビザンツの専制皇帝にあえてオリエント的性格を求めるなら、キリスト教がそれであろう >>635
ファンタジー小説の嚆矢である指輪物語のゴンドールやゲド戦記のエンラッドは東ローマ帝国がモデルだけど
RPGに出てくる西洋風の帝国は大なり小なり東ローマを連想してると思う ユスティニアヌスが西方領土を奪回しようとせず、東方国境の守りを固め、
バルカン半島の防衛を強化していたらよかったんじゃなかろうか
彼の死後にランゴバルト人がイタリアに侵入し、帝国はイタリア半島南端部と、
ラヴェンナからローマに至る地帯をかろうじて確保するのみとなってしまった ユスティニアヌス1世がアクスムをササン朝にけしかけた事が
アクスムとササン朝のイエメン争奪戦でイエメンが荒廃して
イエメンのマアリブ・ダムが放棄され
農業を諦めたイエメン人がベドウィン化して
アラブ・イスラムによる大征服の端緒となった ユスティニアヌス1世がアクスムをササン朝にけしかけた事は
アラブ・イスラムによる大征服の端緒となった
アクスムとササン朝のイエメン争奪戦でイエメンが荒廃して
イエメンのマアリブ・ダムが放棄されので
農業を諦めたイエメン人がベドウィン化して
イエメンの外へ移住せざるえなくなった イランの王朝は異民族の侵入によってあっさり滅びるパターンが多いけど、
ビザンツはゴキブリ並みにしぶといよな
717年、イサウリア人レオーン3世が帝位についたときは、帝国を取り巻く状況は
絶望的になっていた
アラブ人はコンスタンティノープルを海と陸の両方から包囲し、タウロス山脈沿いの
国境も寸断されていた。バルカン半島では、ビザンツの支配下にあるのは、
エーゲ海沿岸の細長い地域だけになっていた
しかし8世紀末になると、トラキア地方、カルキディケ半島、ギリシア中央部、
ペロポネソス半島などの領土奪還が進んだ 「アレクシアス」
「ビザンツ帝国ー千年の興亡と皇帝たち」
「歴史学の慰めーアンナ・コムネナの生涯と作品」
アンナ・コムネナ関連も含めてビザンツ帝国関連の本が最近よく出てるな >>645
日本も衰退期に入ったし、どのように生き延びるかという意味で
ビザンツ帝国への関心が高まっているのだろうか 現代の日本は古い共同体が崩壊して個人が重視されるようになっているが、
そのうちビザンツ人のように超越的な権威にすがりたくなったりして コンスタンティノス11世はスレイマンに降伏してた方が良かったな
意地はって劫略の憂き目を市民に味わわせるとはな あの状況で降伏したところで略奪は免れんよ
兵士が何のために戦っていると思っているんだ?
いくら日本人とはいえ平和ボケも度が過ぎるだろう・・・ 第四回十字軍のときもコンスタンティノープル市民は散々な目に遭ったしな
あの時代までは古代の彫刻や貴重な文献もかなり残っていたらしいが… >>650
降伏すれば略奪しないのがイスラーム法だ >>619
コンスタンティノープルの人口は4世紀末には20万人をこえ、
6世紀前半にはおよそ50万人に達した
確かに一極集中だ 都市の人口いくら増えても戦争には役に立たないんだよな
田舎のあぶれ者が兵士となってくれなきゃ戦争強国にはなれない >>654
だから外交で異民族同士を戦わせ、漁夫の利を得る
あるいは条約を結び、賄賂を贈って敵国を買収する コンスタンティノープルが本当の意味で帝都になるのは、
4世紀末のテオドシウス1世時代のこと
それ以前の皇帝たちは、帝国内の各地を移動していた >>646
なるほどそういう見方もあるのか
俺はビザンツの研究者が増えたということを言いたかった
俺らの時は大阪市大の井上先生か浜松医大の和田先生ぐらいしかいなかったもんな アレクシアスの訳者の相野洋三先生は井上先生より年上だしその上の世代には渡辺金一先生や杉村貞臣先生もいた
20世紀は井上和田相野渡辺杉村先生で合計5人いたことになる
夭折された米田先生や後年になって活躍した尚樹先生も含めれば7人
最近著作を出している新世代の先生は根津由喜夫先生と中谷先生と小林先生大月先生の4人なので
人数的にはむしろ減っているような >>656
テオドシウス1世時代からコンスタンティノープル以外が危険になり
皇帝が帝国内の各地を移動出来なくなったわけですな テオドシウスのオベリスクに刻まれている浮彫を見ると、
中世的特徴が出ているよね
古代から中世への過渡期の時代だということがわかる テオドシウス1世はスペイン出身だけど
即位してからスペインと絶縁状態になった
スペインにいたテオドシウスの親族らは
スペインから追放された
テオドシウス家は西ローマ領で嫌われていた 後期ローマ帝国では、わずかな時期を除いて、複数の皇帝による分割統治が
行われたが、もうこの時期から東(ギリシア語圏)と西(ラテン語圏)の亀裂が
大きくなってきていたんだろうね
元首制時代のギリシア諸都市では、グレコ・ローマンという形容が示すように、
制度上も、文化面でも、ギリシアとローマの混淆が進んだが、それはしょせん
一時的なものにすぎなかったのか >>662
しかもアカエア属州としてローマに編入された当時のギリシャは、
少なからず自身がヘレネスとしての自覚を持ち、ローマに取り込まれることを拒んでいたのにな
蓋を開けてみれば意外にもローマ人が厚遇してくれたので反発も少なかったんだろうが、
それにしても後世自らを『ローマ人』だと規定するようになるとはね
その上で西はローマ帝国ではないと考えるとは何たる皮肉 アナスタシウス1世の財政改革のおかげで東ローマの国庫は急速に豊かになった
これがなければユスティニアヌス1世の旧西ローマ帝国領回復もなかったかもしれない ユスティニアヌスなんて全然名君じゃないよな
なんか持ち上げられすぎ むしろベリサリウス使ってニカの乱を鎮圧(=民衆を虐殺)してるところとか、
ゲルマン民族の大移動後、東ゴート王国の支配の元で
安定を取り戻しつつあったイタリア半島を破壊・略奪したところとか、
帝国領土拡大の最大の功労者のベリサリウスを冷遇していったりとか、
暴君の要素しかないな・・・今思うと。
ニカの乱でコンスタンティノープルを脱出する直前に
妻テオドラに説得されて方針転換した話は今でも面白いなと思うけどさ >>667
ユスティニアヌスはニカの乱で市民を容赦なく虐殺してるけどさ、
元首政時代のローマ皇帝ならそんなことはやらなかったんだろうか?
ユスティニアヌスの時代のローマ皇帝はもはや専制君主だったからできたのかも 『生き残った帝国ビザンティン』のKindle版が出てた >>654
11世紀には社会的上昇の媒体としての軍隊は魅力を失い、法学を学び、
中央の官僚機構に列することが野心に満ちた若者たちの最大の目標となった 帝都コンスタンティノープルで豪奢な生活を送り、プラトンやアリストテレスの
作品について文人たちと談論したり、高度な神学上の問題について議論を交わす
これがビザンツ貴族の生活
もはや文明は爛熟しきっていた
イブン=ハルドゥーンも田舎から都市に出てきた人間は軟弱になる、
みたいなことを書いてなかったっけ? >>672
多神教時代のギリシャ人の哲学なんて談論してたの?
あと、イブン=ハルドゥーンが言ってたのは『人間』というより『民族』が
当初の野蛮な強さを忘れて軟弱になるって言ってた気がする 都市に住むようになった王族と
遊牧民のままの部族民が対立するようになる
王族は専制化を目指すけど部族民が従わないので
傭兵や奴隷兵で部族民を押さえつけようとする
こうして仲間割れになって王朝は滅亡してしまう 都市に住むようになった王族と
都市民も激しく対立していた
都市民は自警団アイヤールで抵抗していた
都市民の中には外敵に内通する者もいた
モンゴル軍の道案内をしたのは
オアシス都市出身の商人だった >>666
コンスタンティヌス大帝とテオドシウス大帝やユスティニアヌス大帝とか
キリスト教大帝を近代以前は批判出来なかったようだね
イスラム世界でムハンマドやシーア派のアリーを批判出来ないと同じだな
シーア派のアリーなんか単純に我儘な暴君なんだけど崇拝され続けている ローマのカンピドリオ広場にあるマルクス・アウレリウス・アントニヌス騎馬像は、
コンスタンティヌス大帝の像と間違われたので破壊されなかったのだとか マルクス・アウレリウス・アントニヌス騎馬像は
髭をはやしているから中世のキリスト教君主ように見える
コンスタンティヌス大帝とかローマ人の多くは髭を剃っていた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています