【栄光の】ビザンツ帝国総合スレ11【東ローマ】
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一千年に及ぶ繁栄・衰退を誇ったビザンツ帝国史について語りましょう。 基本はsage進行。バルバロイによる荒し、煽りは適当に無視して下さい。 現代トルコ・ギリシャの話はできるだけ他所でやってください。 前スレ 【栄光の】トレビゾンド帝国総合スレ【東ローマ】 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1284293895/ コンスタンティノープルが本当の意味で帝都になるのは、 4世紀末のテオドシウス1世時代のこと それ以前の皇帝たちは、帝国内の各地を移動していた >>646 なるほどそういう見方もあるのか 俺はビザンツの研究者が増えたということを言いたかった 俺らの時は大阪市大の井上先生か浜松医大の和田先生ぐらいしかいなかったもんな アレクシアスの訳者の相野洋三先生は井上先生より年上だしその上の世代には渡辺金一先生や杉村貞臣先生もいた 20世紀は井上和田相野渡辺杉村先生で合計5人いたことになる 夭折された米田先生や後年になって活躍した尚樹先生も含めれば7人 最近著作を出している新世代の先生は根津由喜夫先生と中谷先生と小林先生大月先生の4人なので 人数的にはむしろ減っているような >>656 テオドシウス1世時代からコンスタンティノープル以外が危険になり 皇帝が帝国内の各地を移動出来なくなったわけですな テオドシウスのオベリスクに刻まれている浮彫を見ると、 中世的特徴が出ているよね 古代から中世への過渡期の時代だということがわかる テオドシウス1世はスペイン出身だけど 即位してからスペインと絶縁状態になった スペインにいたテオドシウスの親族らは スペインから追放された テオドシウス家は西ローマ領で嫌われていた 後期ローマ帝国では、わずかな時期を除いて、複数の皇帝による分割統治が 行われたが、もうこの時期から東(ギリシア語圏)と西(ラテン語圏)の亀裂が 大きくなってきていたんだろうね 元首制時代のギリシア諸都市では、グレコ・ローマンという形容が示すように、 制度上も、文化面でも、ギリシアとローマの混淆が進んだが、それはしょせん 一時的なものにすぎなかったのか >>662 しかもアカエア属州としてローマに編入された当時のギリシャは、 少なからず自身がヘレネスとしての自覚を持ち、ローマに取り込まれることを拒んでいたのにな 蓋を開けてみれば意外にもローマ人が厚遇してくれたので反発も少なかったんだろうが、 それにしても後世自らを『ローマ人』だと規定するようになるとはね その上で西はローマ帝国ではないと考えるとは何たる皮肉 アナスタシウス1世の財政改革のおかげで東ローマの国庫は急速に豊かになった これがなければユスティニアヌス1世の旧西ローマ帝国領回復もなかったかもしれない ユスティニアヌスなんて全然名君じゃないよな なんか持ち上げられすぎ むしろベリサリウス使ってニカの乱を鎮圧(=民衆を虐殺)してるところとか、 ゲルマン民族の大移動後、東ゴート王国の支配の元で 安定を取り戻しつつあったイタリア半島を破壊・略奪したところとか、 帝国領土拡大の最大の功労者のベリサリウスを冷遇していったりとか、 暴君の要素しかないな・・・今思うと。 ニカの乱でコンスタンティノープルを脱出する直前に 妻テオドラに説得されて方針転換した話は今でも面白いなと思うけどさ >>667 ユスティニアヌスはニカの乱で市民を容赦なく虐殺してるけどさ、 元首政時代のローマ皇帝ならそんなことはやらなかったんだろうか? ユスティニアヌスの時代のローマ皇帝はもはや専制君主だったからできたのかも 『生き残った帝国ビザンティン』のKindle版が出てた >>654 11世紀には社会的上昇の媒体としての軍隊は魅力を失い、法学を学び、 中央の官僚機構に列することが野心に満ちた若者たちの最大の目標となった 帝都コンスタンティノープルで豪奢な生活を送り、プラトンやアリストテレスの 作品について文人たちと談論したり、高度な神学上の問題について議論を交わす これがビザンツ貴族の生活 もはや文明は爛熟しきっていた イブン=ハルドゥーンも田舎から都市に出てきた人間は軟弱になる、 みたいなことを書いてなかったっけ? >>672 多神教時代のギリシャ人の哲学なんて談論してたの? あと、イブン=ハルドゥーンが言ってたのは『人間』というより『民族』が 当初の野蛮な強さを忘れて軟弱になるって言ってた気がする 都市に住むようになった王族と 遊牧民のままの部族民が対立するようになる 王族は専制化を目指すけど部族民が従わないので 傭兵や奴隷兵で部族民を押さえつけようとする こうして仲間割れになって王朝は滅亡してしまう 都市に住むようになった王族と 都市民も激しく対立していた 都市民は自警団アイヤールで抵抗していた 都市民の中には外敵に内通する者もいた モンゴル軍の道案内をしたのは オアシス都市出身の商人だった >>666 コンスタンティヌス大帝とテオドシウス大帝やユスティニアヌス大帝とか キリスト教大帝を近代以前は批判出来なかったようだね イスラム世界でムハンマドやシーア派のアリーを批判出来ないと同じだな シーア派のアリーなんか単純に我儘な暴君なんだけど崇拝され続けている ローマのカンピドリオ広場にあるマルクス・アウレリウス・アントニヌス騎馬像は、 コンスタンティヌス大帝の像と間違われたので破壊されなかったのだとか マルクス・アウレリウス・アントニヌス騎馬像は 髭をはやしているから中世のキリスト教君主ように見える コンスタンティヌス大帝とかローマ人の多くは髭を剃っていた ユスティニアヌス1世はアテネのアカデメイアを閉鎖したといわれるが、実際には、 アカデメイアはその後も活動を続けていたようである ギリシア古典の研究、写本の作成が途絶え、ギリシアにおける文化活動が大きく 停滞するのは、6世紀の後半、アヴァール・スラヴ人の侵入による都市の破壊以降の ことである 中世画って今でいう 抽象画や印象派みたいな感じだったのかな 写実は無意味っていう 単にイコノクラスムでローマ絵画の技術が失われただけ 彫像技術なんて6世紀には早く失われた 神の真の姿は目に見えないもの、つまり人間の感覚を越えたもので、 絶対的な真理または美であるが、肉の目ではそれを見ることはできない それは目に見えないが完璧な実在で、それをイデアと考える イデアはたった一つの原型であるから、キリストの体や顔がまちまちの 個性を持っていることはその本来の性質を俗っぽいものにするので、 おおよそ身体も顔も決まった形式をもって描かれる >>680 マジで? 最後の学頭ダマスキオスら7人の哲学者が閉鎖後、ササン朝の保護求めて移住したのは有名だがアカデメイアが閉鎖後も活動できたならササン朝に保護求める必要なかったんじゃ? 彼ら主要哲学者達を欠いてアカデメイアの誰が活動してたの? 近世以降のギリシャって東ローマ帝国に対しては古代ギリシャと同じく 尊敬の念を抱いてたりする? ビザンツではペストは流行らなかったのかな? もし流行っていたとすればビザンツ帝国民も入浴の習慣はなかった、とか? 6世紀ユスティニアヌス1世時代のペストの大流行は有名だね 14世紀のペストの大流行はビザンツを再起不能にしたと言われる コンスタンティノープルは空き家だらけのゴーストタウンになった アカデメイアは閉鎖したが、アテネの学塾が全て閉鎖されたわけではない、他の学塾は 存続していた、という話だと思うのだけど >>688 >>680 はアカデメイアが活動を続けたっていたって言ってるんだよなぁ 個人の活動だったらアカデメイアの活動とは言わないし >>690 アカデメイア閉鎖については Justinian, Malalas, and the End of Athenian Philosophical Teaching in A.D. 529* という論文があるから、529年以降もアテネでアカデメイアが続いていたとするなら どこに書いてあるか教えて ちなみに>>688 では個人の活動などとは書いてないが >>691 だから529年以後もアカデメイアはどこで活動を続けたわけ?という疑問を680に宛てたわけだが そしたら>>688 が学塾が云々するからそれはアカデメイアの活動とは言わんよねってこと >>692 何か勘違いしているようだが、>>688 は、「アカデメイアは閉鎖された」と書いたのであって、 学塾=アカデメイアとは書いていない 文章読解できるようになって (「アカデメイアが活動を続けたっていたって言ってるんだよなぁ 」←君、文章も変だね) で、現在わかっている事実は>>688 で書いた通り アカデメイアを閉鎖する法令が529年にでた。これをもってアカデメイアは閉鎖されたと考えられている 傍証としてアカデメイアの著名な学者は他の都市に移った事実がある アカデメイアの学者が他都市に移ったから、これまではアテネにおける古代の学術が全てほろんだと解釈されてきたが、 最近の研究書で、その後もアテネで研究・教育がなされていた事例が指摘された(この部分が どれくらいの規模かわからないのでとりあえず「学塾」と書いたわけ) >>680 は、>>693 の話(アテネで学塾が継続していた)という説を曲解したのではないか?と指摘したのが>>688 というわけ 現在のギリシャ人にとって東ローマ帝国は古代ギリシャと同じく栄光の歴史となってる? どちらかというと古代ギリシャのほうを持ちあげてる感じがするけど ユスティニアヌス1世の時代、ビザンツ軍は傭兵を主体とした軍隊だった 傭兵を主力とする皇帝直属の中央軍団は、7世紀におけるアラブ人との 戦闘で敗北を喫する 彼らはアラブ人のゲリラ戦に対応することができなかったのである ヘラクレイオス1世の臣下10万超を2万のイスラム軍が破った戦い、ヤルムークの戦い(636年)の時にイスラム軍を指揮したハーリド・イブン・アル=ワリードは、アラブ世界では英雄/名将として有名。 アッラーの剣という異名を持つ。 ヤルムークの戦いではワリードの巧妙な戦術に東ローマ軍は10万超の大軍の約半数を失ったとされる。 アラブ人は攻城術を知らなかったので、堅固な城壁に守られたビザンツ都市に対して なすすべもなかったとか アラブ人って、象に苦戦したり攻城法を知らなかったり海軍がなかったり、 大征服の過程で、「こんなことも知らんで征服してたんか」みたいな話が多い 知らんかったことを着実に身に着けたから大帝国に発展したのだろうが アラブ人がそうしたスキルを身に着けるまで放置していた敗れた側の大帝国たちは 何してたん?と思う >>695 イスタンブルが首都だったらもっとビザンツを売りにしてたかもね ハギアソフィアがない、イスタンブルがないではビザンツ持ちあげても 片腹痛いという感じ てかビザンツ持ちあげると大ギリシア復興運動が活性化しNATOを維持したい欧米に 止められるから国をあげてビザンツ持ちあげるとかできないんではないかな 二次大戦中の軍事独裁メタクサス政権ではビザンツを持ち上げていたはず >>697 ハーリドは世界史上でも10指に入る名将だよ そういえばギリシャの歴史ドラマって東ローマ帝国時代を舞台とした作品も多いのかしら。 逆に歴史ドラマの時代背景としてはマイナー? >>677 670年代になるとアラブ人も強力な艦隊の建造に取りかかる >>700 イタリアがローマを持ち上げるのと、ギリシアがビザンツを持ち上げるのとは変わりないように 見えるが イタリアがローマを持ち上げてもムッソリーニの拡張主義に結びつける人よりも、ローマはヨーロッパの 源流として現在のEUに結びつける人の方が多いから問題ない ビザンツをギリシアが持ち上げると、19世紀以来の大ギリシア主義と結びついてしまう この違いは何なのか ヨーロッパ諸国はローマを共通の祖先とか故郷だと思っているが、ギリシアの周辺諸国は ビザンツを故郷とは考えておらず、敵対国と考えているから ところがオスマン帝国は、わりとかつての支配下諸国に受け入れられていて トルコが制作したオスマン帝国のドラマは周辺諸国でもヒットし、トルコのエンタメも 周辺諸国に受け入れられている ギリシアでビザンツを作るとしたら、大ギリシア主義とは切り離して、周辺諸国含めた 普遍文化を強調すればうまくいくかも知れない ビザンツ帝国はアラブ人にエジプト・シリアを奪われたけれど、 単性論を信ずる地域を失ったおかげで、教義論争で悩むことはなくなった かつてローマ帝国の支配地域だった領域は、西欧・ビザンツ・イスラームの 三つの文明に分かれていく 古代のローマ人も、蛮族は変わらない、進歩しないと考えていたようだが、 ビザンツ人やペルシア人も同じだったのかなあ テオドリック時代の東ゴート王国は東ローマの属国いうポジションなのか?それとも皇帝なき西ローマと見做せばよいのか? 東ゴート族は、最初東ローマ帝国の同盟者だったが、豊かな土地と戦利品を求めて バルカンに侵入し略奪した そこで東ローマ帝国は488年、テオドリック王率いる東ゴートをイタリアへ向けさせ、 彼らをうまくバルカンから排除した 東ローマはイタリアを犠牲にして自国を救ったといっていいのかな? ゴート族とイサウリア人が東ローマ軍内で勢力争いしていたけど イサウリア人のゼノン帝はゴート族をイタリアへ移住させて 東ローマ軍内からゴート族を減少させてイサウリア人に有利にした イサウリア人よりもゴート族の方が優秀な兵士だったようだから 東ローマ軍が弱くなった でも東ゴートは東ローマのベリサリウスによって滅ぼされた ちょうど鐙が普及し始めたからゴート族の優位が崩れたのだろう 民族大移動開始時にはゴート族以外は鐙を使っていなかったようだ 西ゴートも鐙を使うアラブ軍に滅ぼされている >>707 東ゴートのテオドリックは東ローマ帝国の皇帝の代理者という名目で統治にあたり、 またフランク族など他のゲルマン系部族の多くも東ローマの皇帝の権威を尊重したため、 少なくとも表面的には、東ローマ皇帝は地中海世界全体の宗主権を握る最高の支配者 という地位を保ち続けることができた 7世紀に南スラヴ人がバルカン半島を南下し、西欧とビザンツとの間に楔を打ち込むと、 両者の交流は困難となった その結果、ローマをはじめとする西方の主要都市におけるギリシア語の知識は激減し、 同時にコンスタンティノープルにおけるラテン語の知識も大きく後退した そして、相互理解の機会は減少の一途をたどった 東ローマにおいて古代ローマ時代のような”プレノーメン・ノーメン・コグノーメン”な 名乗りをしなくなったのって何で? >>714 別にageてもいいんでない? もう5chの世界史板なんて過疎り放題でageようがsageようが大差ない それはともかく、その全名の名乗り方はローマ系住民の習慣であって 東ローマ帝国本土の大半の住民であるギリシャ系住民の習慣じゃない そりゃあローマ人の習慣なんて廃れていって当然だろうよ コムネノス朝頃だっけか? 家名を本人の名前の後に続けて名乗る習慣が出たのは。 それ以前か?忘れた・・・ 第四回十字軍がコンスタンティノープルを占領したとき、 この時代までは残っていたギリシア彫刻の傑作も破壊されたんだよな 古代の文献もこの時に失われたものが多い 聖ソフィア大聖堂では聖域の大きな垂れ幕が、その金の縁飾りのせいで ずたずたに引き裂かれた 扉や説教壇からは銀細工や金メッキの彫刻が剥ぎ取られた 聖使徒教会では歴代皇帝の墳墓が荒らされた >>714 9世紀半ば以降、テマの高級軍人の中に苗字を帯びる者が増大する >>704 正教圏でも?正教徒にとってビザンツは総本山でしょ 逆に西欧もイタリアを祖国とは全く思ってない ローマは崇拝しても >>719 正教圏のロシアで今ビザンツって人気なんだろうか? もし人気だったら、ロシア経由で国際的にビザンツ人気が盛り上がる可能性もあるかもしれない >>719 正教徒はビザンツを総本山とは思ってないだろ ローマはペテロの座だが、コンスタンティノープルは使徒は殉教者や聖書所縁の地でもなんでもない カトリックにはラテン語という共通語があるが、正教はほぼ改宗後早い段階で聖書は現地語に 翻訳された 総主教も各言語圏ごとに独立した存在 また、正教圏の有力構成国はほとんどビザンツの領土だったことがない ブルガリア、セルビアは一時的に領土になっただけ アルメニアとグルジアは従属していただけ ロシアとルーマニアは領土になったことはまったくない(カトリック圏の中南米と同じようなもの) 正教圏としての一体感はあるかも知れないがビザンツを共通の祖先と見なす考えはあまりない とはいえまったく関係ないと思っているわけではなく兄貴分くらいには思っているかも知れないが 正教圏諸国人でビザンツで高官に出世した人が少ないのも痛い オスマン朝は大宰相にまで出世したバルカン人やアルメニア人など帝国内の諸国人がたくさんいたが (というよりトルコ人よりも多い) 初期の頃はともかく、ヘラクレイオス朝以降の領土の縮小したビザンツ帝国で 高官に出世したのはギリシア人以外だとアルメニア人以外あまりいない >>723 よくビザンツは実力主義だったといわれるけど、 官僚となるための前提となった高度な教養自体、コンスタンティノープル以外では 事実上習得できず、地方の出身者で子弟を首都の高等教育機関に送り出すことが できたのは富裕な家系に限られていたんだよな 中国で科挙を受験することができたのも富裕層の子弟が多かったらしいけど 中世や古代なら「富裕ならチャンスがある」のは実力主義と言っていいんじゃない?現代社会なら格差の再生産だけど。 軍や下級役人で成果上げればどの民族や出自関係なく出世して官位も得られただけで十分だと思うけど コムネノス以降とはその辺は分けて考えたい 富裕ならチャンスがある、ということは、経済力がある階層が時代とともに変わっても、経済力のある 社会層を常に支配体制に組み込める社会ということだから、こういう社会は持続性がある 社会でもっとも経済力のある層を支配層に取り込めなくなると、革命などの大きな社会変動が起こる もっとも、格差が拡大しすぎて人口の99%が下層となってしまうと、いくら富裕層を支配体制にいれたところで、 99%が反乱を起こせばひっくりかえるから、やはりどこかに閾値があるのだろう 今の日本で中国史や中国文化が親兄貴分としてしまれているのと同じような感じで ロシアやバルカン半島諸国でもビザンツ史やその文化が親しまれてるってことはないんだろうか >>730 ビザンツ史についてはどうだかわからないけど文化についてはあると思う だから >ギリシアでビザンツを作るとしたら、大ギリシア主義とは切り離して、周辺諸国含めた 普遍文化を強調すればうまくいくかも知れない ということ 東洋でも、中国が冊封体制を持ち出して周辺諸国を属国扱いしたり、逆に日本が大東亜戦争は正しかった とかいうと軋轢が起こるが、文化的なものなら中国人は日本のドラマをみて、日本人は三国志や キングダムが好きで中華史劇ドラマも結構みられている ビザンツは、ギリシアだけではなく、ブルガリアセルビアトルコロシアがあまりナショナリズムを強調するのがネック なんせ19世紀末から20世紀初頭は「火薬庫」と言われた地域だから、東洋より複雑で荒れやすい この点オスマンドラマは、ちゃんと諸民族出身者をドラマの登場人物に配して一方的に描かなかったこともトルコ以外で 受け入れられた理由のひとつ 一方ギリシアは大ギリシア主義と結びつきやすいからビザンツであまりアピールせず、古代ギリシアの方をアピールしてる >>731 ビザンツの普遍文化というとやっぱり正教や美術・文学とかになるんだろう 軋轢を生みやすいナショナリズムからは極力切り離して、そういう共通文化からまずは親しみを持たせていくべきだな ビザンツ人は自国のことを、人類の歴史は多くの帝国の興亡史だったが、 自分たちの国はその最後を飾る帝国であり、その後にはキリストの再臨、 最後の審判が来ると考えていた オスマン帝国に滅ぼされたとき、ビザンツ人はどう考えたんだろうか お前らともあろうものがアレクシス和訳についてあまり話していないとは >>733 まだ滅亡まで余裕のあったうちは、終末論があったし、滅亡後民衆はそのように思っていたかも知れない 知識人の中には(少数派) オスマンをローマの継承者と見る人もいた しかしその他知識人は、西欧の勃興をわりと認識していたようだから、終末論を脱していた可能性がある その西欧では、このままオスマンに征服される危機感もあったろうが、一方でカール五世とかが登場し、 新たな普遍帝国を目指したから、結局のところキリスト教的ローマ帝国は西方で継続しているから 世界の終末はまだ来ない的な感じになったんじゃなかろうか モスクワ大公国がツァーを名乗るのもオスマン以外の継承者理念の反映なのだろう すいやせん ギリシャの火ってどれくらいすごかったんですか? 現代科学でもギリシャの火は作れないんですか? これでもオスマンになぜ負けたのですか? ブリエンニオス歴史の翻訳終わってんならさっさと出して欲しい 引用の様子見てると相当事実に基づいてしっかり書いてそうだし >>737 ギリシャの火が活躍したのは9世紀ぐらいのことであって、 オスマン帝国が攻めて来た15世紀にはとっくのとうに過去の遺物として忘れ去られた兵器になってたぞ その頃にはビザンツでギリシャの火が使われた記録はもう一切なくなってる 多分、時代と共に製法が忘れ去られて作れなくなったんだろう >>739 なるほど、でもすごいですよね 今でもわからないってのは 若槻泰雄が『日本の戦争責任(下)』で、 「日本の仏教は六世紀に伝来したときから、国家鎮護の思想として国家権力の 庇護の下に成長してきたのであるから、国家権力と対立するという思想を本来 持ちえなかった。浄土真宗のような例外もないではなかったが、国家を超えた 普遍的概念を構成することはなかった」 と書いているんだが、むしろ叙任権闘争の後、聖俗が分離した西欧文明圏のほうが 特殊なんじゃないのかな。 ビザンツ皇帝は「地上における神の代理人」とされ、皇帝は教会のあり方に 干渉したし、皇帝は厳密にいえば聖職者ではないが、「使徒に匹敵する」存在とされ、 一般信徒とは区別された。皇帝は説教を行うこともできたし、教会の内陣が 一般信徒に閉ざされた6世紀以降でも、内陣で聖体拝領を受けることができた。 ヒトラーはまだビザンツ人がいれば どうしてました?アウシュビッツ行き? >>739 ネットフリックスのオスマン帝国のドラマではギリシャ火が使われてたとか言われてたけどあれは創作なんだろうか? あ、コンスタンティノープルが陥落した時の戦いで使われてたってことね >>743 そのドラマは見たことないから知らんけど創作なんじゃね? 時代考証をちょっと間違えてる歴史ドラマなんて珍しくないし あのドラマ、間違いなくエンタメ用に脚色されたり意図的に抜いた要素とかあるからな メフメト2世時代の大宰相チャンダルル・ハリル・パシャが ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の弟である大臣兼軍司令官ルカス・ノタラス大公と内通していたってところとかな 少なくとも間違いなく彼らは直接会ったことはないだろうし、 ビザンツとオスマンで内通してたにせよ、こんな幹部クラスの人間同士で内通していたとは考えにくい ただ、ルカス・ノタラス大公がコンスタンティノープル陥落後にオスマン側に処刑されたところは事実やね 俺はこのドラマ見てから調べて知ったけども あと、傭兵隊長ジュスティニアーニ・ロンゴが皇帝の娘(妹?名前も忘れた)と恋愛関係になっていたところとかも創作 そこよりケルコポルタ門が『鍵のかけ忘れ』に気づかれて突破されたところは再現しろよ・・・と思う 普通にどっかの門が破壊されて突破されたことになってたし >>739 >ギリシャの火が活躍したのは9世紀ぐらいのことであって 1043年のルーシの襲撃ではギリシア火で撃退されているから、少なくとも11世紀までは使われていたようだ 1453年についての史実どうこうとか言い始めたら戦ってたのなんて西ヨーロッパの商人とその傭兵だけで 住民はいつも通り生活してただけになりますけどね アラブ人が海軍を創設できたのは、優れた港や造船所を持つシリア、エジプトを 征服したかららしいね 674年から678年までアラブ艦隊はコンスタンティノープルを包囲するけど、 このとき滅亡寸前の帝国を救ったのが「ギリシアの火」 7世紀後半にシリア出身のカリニコスによって発明された 生石灰・松脂・精製油・硫黄などを混合した液体であったらしい あの〜双頭の鷲ってビザンツの象徴じゃないですか? ロシア、アルバニア、セルビアはビザンツの実質的な正当後継国ということですか? アラブは乾燥地帯なのに、どうやって軍船用の木材を調達したんだ? レバノン杉でも使ったのか? 全部自称だけどね ブルガリア君主とかも双頭の鷲じゃないけど、 シメオン1世はギリシャ語の『バシレウス』と名乗っていた ビザンツ帝国を圧倒しコンスタンティノープル総主教にバシレウス(皇帝)だと認めさせた 『ローマ人とブルガリア人の皇帝にして専制君主』とも自称している とはいえ、もちろんビザンツ皇帝からしてみればただの僭称に過ぎなかったわけだが。 東欧・南欧世界においてビザンツ皇帝というのは憧れの象徴だったのは間違いない そうなんですか・・ 双頭の鷲は左右に向いてますよね? 意味は西も支配者、東も支配者としての意味なんでしょ? 支配者としての憧れの象徴にはなりえますね まあ古今東西、君主の称号やら紋章やらってのは僭称だったり 新しく創設したけど当時の人らには「自称でしょ?」程度の認識だったりする場合が多い それでも年月が立つと権威ある称号だと認識されたり、 あるいは”ホントは縁もゆかりもないけど自身の権威付けに・・・”って理由で利用される 神聖ローマ帝国も双頭の鷲を国章としてるだろ? あれもローマ帝国(皇帝)の権威にあやかってるだけ ヨーロッパの西も東も支配する権利を持つ唯一の皇帝ですよ〜ってこと もちろんローマを保有したことはないし、ラテン語も公用語でもないし、ローマ人は中世後期にはもういない それでも「カール1世がローマ教皇からローマ皇帝としての戴冠を受けたから!」 これだけでローマ帝国を名乗っちゃうんだから、まあ面の皮厚いよね(笑) >>737 ギリシアの火は何度かあちこちで研究者による再現実験がされている 例えば greek fire byzantine national geographic で検索すると再現実験の動画が出てくる 原料は推測らしいが、将来ギリシアの火で焼かれた船の残骸が見つかって、残骸に残る物質の成分分析をして 成分が判明する時がくるかもしれないね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる