>>429
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%B2%A8%E5%B9%A3%E5%88%B6%E5%BA%A6%E5%8F%B2

半両銭と五銖銭


秦の始皇帝が中国をはじめて統一すると、各地でばらばらの貨幣が使われていた状況を改め、
秦で用いられていた環銭の形に銭貨を統一することになった。
秦で用いていた半両銭という環銭は中心の穴が正方形であった。以降東アジアでは基本的に銭貨というと、この円形で中心の穴が正方形のものとなった。

半両銭には、半両という漢字が刻まれている。
半両の両とは、重さの単位である。当時、1両は24銖(しゅ、1銖は約0.67グラム)であったので、
半両銭の重さは12銖、すなわち約8グラムとなる。

金貨は1斤(20両)と1両(約16グラム)を単位として楕円形と方形の物が造られ、
銀貨は1流(8両)を単位とする物が造られた[4]。


前漢呂后の時代、秦の半両銭が重く不便なため軽薄な銭貨を造るようにした。
これは、楡莢銭と呼ばれ、その重さは1銖のものもあった。
文帝代になると銭の私鋳を禁ずる法律を廃止したが、これにより資産家による大量の軽薄な私鋳銭の濫造が行われ、
銭の価値は暴落した。併せて、文帝は四銖銭の鋳造を開始した。
このとき、呉王劉?とケ通が四銖銭を大量に鋳造し、銭貨の流通が拡大した。

紀元前175年に書かれた賈誼の上奏文によれば、
当時四銖半両(四銖銭の半両銭)100銭の重さが1斤16銖(=400銖)が基準とされ、
それより軽い場合にはそれに何枚か足して1斤16銖分にしてそれを100銭分としたこと、
反対にそれよりも重い場合には100枚に満たないことを理由に通用しなかったことが書かれている(『漢書』食貨志)[5]。