【白起王翦】戦国四名将について語る【廉頗李牧】 [転載禁止]©2ch.net
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http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%88%98%E5
%9B%BD%E5%9B%9B%E5%90%8D%E5%B0%86
中国では戦国四君だけでなく
戦国四名将という区分まであるようだが
これら四名将について
あるいは彼らの一族や子孫について語るスレ 魏冉氏は白起さんと任鄙さんを同年に推挙してるけど、
一方は多分年下で咸陽より西の生まれ、もう一方は同輩か年上で故・武王の寵臣
以前から交誼あったとすれば、興味深い人間関係が見えるような見えないような。 この時代、どの人物にも言えるが
生年月日の情報ホスィ えー、いやまあ可能性は極めて低いが…
地下から官吏の誕生日付き木簡が発掘されたりするジャン 雲夢簡か、その他大勢官吏なのに誕生時刻がわかる大した男 白起が出した命令とか書いた物が発掘されたらいいのになァ 白起さんは趙兵を偽って殺したのが罪に当たると考えたようだが
やっぱ正々堂々ぶち殺し斬首し溺死させるのはオケかな?軍人だし 前者は汚名だしね白起にとっても秦にとっても
後者は畏敬されるわけで違いは大きいかと 甘茂や司馬錯、樗里子あたりはまさに知恵のまわる将かね 残念なことに戦場において知将っぽいと分かるの武安君のみっすね
甘茂の宜陽戦は逸話あるけど攻撃は力攻め、罷免しないように釘を刺す知恵者っぷりは発揮してるが… 挙がった人以外にも公孫鞅・魏冉・張儀など史書に智者とあるor智者イメージの軍将はいるけど
やはり>142が言うようにその頭脳をどう戦に活かしたのか分かる具体的な情報はないですね 商鞅さんに至っては戦での詐術が没落後の悲惨な最期に繋がったというストーリーだしなぁ… 列伝に力則任鄙、智則樗里ってあるし、孝公の子、スーパーエリート秦人の樗里疾将軍は地元秦人ご贔屓の智者と思われるが――史記と戦国策に碌な逸話がねえ・・・。
智慧比べで完全に甘茂さんに押されとる上に城落としに出陣したら変な奴に丸め込まれて戦果ゼロだわ、次の攻撃目標も落ちない。こんなのおかしいよ; どうしてもその方面は、説客型の人物に盛っちゃうからなー
そこらの説話から肥三国志風に能力設定すると知力80いくか怪しいw(90欲しい) 光栄の妥当性はともかく、ぶった切って数字にする姿勢は雑談に便利だなw 商君列伝は史記列伝屈指の短編小説だと思う、筋書きのある歴史すぎるw 本籍地が楽毅所縁の場所に近いね。楽氏は春秋から栄えているので、他の楽氏後裔を称しているかもしれないけど。
>>151
後世創作されたっぽい説話が多いねえ・・・良い部分も悪い部分も。 たしかに楽氏といえば俺も宋の方が浮かぶかな
でも晋にも楽王鮒というちょっと知られた人物いるね 宋の名族と言えば向氏、華氏、楽氏、おそらく数が圧倒的に多い
楽毅や楽進は宋人の末裔かもしれませんね(楽毅の族も名門のようですし) 戦国期になるとパッとしないねえ、楽毅と向寿ぐらいか 少なくとも楽乗は度外視できないんじゃ?
閼与の救援では廉頗に次いで諮問される位置にいるし、
燕が舐めて軍勢差し向けて来た際にも廉頗と一緒に
数倍の差を覆して大破してたはず 長く繁栄したけど華向の乱で衰えた仕方ナイネン
重要人物が多数楚に流れたから絶えてはないけれど 楽乗は廉頗と同等じゃの、楽毅の一族ってひとまとめにしちゃうが 楽池忘れとったわ
>>159
楽羊の家系?は楽毅だけ挙げればいいやと手を抜いた
廉頗に伍する武襄君楽乗、あと楽間に失敬だったな 数こそ少ないけれども上がる名前を見る限り盛族って感じやねぇ 楽毅vs白起
不敗の名将対決を用意しなかった歴史に遺憾の意 その二組
戦歴が微妙で戦の腕前に関してやや疑問が残る(ただし超有名人)
VS
間違いなく戦上手で名将の誉れ高い
という共通点がありますな 名将として評価される韓信と白起は天才的発想で強敵を討ったorどれだけ殺したかよく分かるね 白起と楽毅は対峙するぐらいはあっても不思議はない状況やねんけどな
恐らくまだ楽毅存命な時期に封邑の観津が秦軍の攻撃目標になってるから 白起さんは大軍の強兵を率いてたから勝って
当然のイメージ。 強大国秦の優位性が戦場の白起を大いに助けたであろうことは疑いないけど
白起麾下の兵力はあまり多くないよ
伊闕では10万以上率いてる筈だが、それでも相手の半分未満
楚侵攻では数万(恐らく3〜4万だろう) 白起が大軍で圧する戦争してたってのは勘違いだろうなあ
戦績と抽象的な印象で凄いと思ってる人はまず「戦国策」を読む事を勧める あと長距離強行軍からの急襲を華麗に決めた華陽の役も戦いもたぶん多くない筈 ×華陽の役も戦いもたぶん多くない筈
○華陽の役もたぶん多くない筈 白起は史記よく読むだけで十分すごさがわかるぜ
まぁ史書に見えない所で少数の白起軍を補助する友軍が活動してたんでしょうが せめて三国志並に一国あたりの列伝数多ければ戦場の脇役たちの動向も分かるはず・・・ 大戦だと複数の将軍が動いてるからなあ、常識的に考えて
敵味方とも五万前後なら将軍一人、校尉数人で足りるけど まあ戦国策は史書じゃないから参考にする時は多少の注意が必要だけど 理に従っただけで特別なことしてへんでー
と言いつつ細かいところまで全問正解な白起 三晋じゃ左・中・右の三軍体制が敷かれていたらしいよ
十万を遥かに超える大兵力を前線に易々と投入できる秦や趙でも
尉(校尉)を5以上失うと将(王陵、廉頗)がクビになってるし
将軍/裨将の次に偉い校尉が統帥する兵団は万を超えるのかね? >>184
いわゆる千人将と尉の間にまだポストあり、そして校尉麾下の集団が(多分)伍から始まるユニットの最大単位、1万前後が妥当でしょう。
ちなみに兵馬俑軍団は大体1万人体(未完成部分含む)。 ↑誤字
ちなみに兵馬俑軍団は大体1万人隊(未完成部分含む)。 >>186
なるほど
校尉の下に千人隊を二三束ねた兵団があるとすればそうなるな 千人将か、
キングダムは秦の制度とか説明しとったな※序盤のみ 三晋の三軍制は武霊王の中山攻略がわかりやすいな
武霊王親征20万の出撃だけあって右軍、左軍、中軍、車騎が揃い踏み 三晋では武器製造職人も軍ごとにいるっぽい、趙の名将はそういう体制で戦ってたんやな 華陽で秦がえらい北東にある趙の都市攻めたのは恐らく趙を合従から離脱させ連衡し斉を討つ為
もし実現してれば白起vs田単というドリームマッチになったのかな?
田単の勝ちが全く見えねーけど・・・ 仲悪い趙斉燕に工作する絶好の位置やね
田単? よわそう 白起は勝つべくして勝った、勝ちまくったって感じの人だが(自軍が数的有利不利関係なく後から見れば必然)
絶対無理だろって命令で無茶振りされてたらどうしてたんかな 邯鄲の王コツになったんじゃね?
王コツが無様に大敗したのは後退して態勢を立て直す選択肢がなかったからやろ多分 実は何度もそれは無理って返してる可能性も
それで折り合い悪くなっていって最後あぼん 白起なら無茶な状況をもひっくり返しそうだが、邯鄲攻撃時みたく明らかにやりずらそうな陣容では無理だしそもそもヤル気ゼロだろうな
白起主導の趙攻略を嫌った時点で両者の溝はもう埋められないレベルになった感 主導権争いしながら戦うって脂肪フラグ以外の何者でもないからねぇ…
しかも諸侯の援軍に補給路を制される確立大かつ趙軍の突出に掻きまわされて疲弊した秦軍 鄭安平(投降)、王稽(内通)
こんなのと一緒に戦いたくねーよ 真面目な話、白起が望む時点で邯鄲攻略しても本気で危険だ
白起は戦術的に落とせる、と計算してるだろうし、実際落ちたのだろうけど
それで伸びる国境線とか考えると頭の痛い問題だし、
今度は邯鄲を孤立した状態で保持しなければならないから戦略的には邯鄲包囲は少し待たざるを得ない
翌年の秦による趙攻撃は秦から邯鄲を孤立させない交通路の確保から始まってて
皮牢、太原、上党と見事に邯鄲の北西側を確保し邯鄲包囲、陥落後も孤立しないように仕立ててる
范雎は白起を邪魔したという史観が一般的だが、地図を見れば范雎が止めるのも無理ない話しというか
白起の強攻策はちょっとやり過ぎレベル
大誤算は邯鄲が落ちなかった事でこれは結果論として范雎批判に繋がるわけだけど
秦の戦略的行動そのものとしたら范雎案で何もおかしくなかった
>>194
連合軍が結成されてしかもそれが緒戦の勝ちで勢いに乗った後は
病気を理由に戦うのを拒否ってるように、無茶振りにはある程度抵抗もするんだろう いや、おかしいでしょ
白起が主将でもそこらは陥落させてる、ほぼ同時に邯鄲に速攻かけるだろうが
上党という広域を占領しそこから更に太行山脈を越えた邯鄲を落とすという
堅実さに欠ける無茶な戦略を選んだ時点で何と言い訳しようが范雎も非合理だよ どう考えても政争が戦争に反映された結果やろ
范雎が白起を止めたのは勿論、白起が出ないどころか大声で王を誹謗したのは、昭王范雎体制の崩壊狙いだろうし >>202
白起による邯鄲攻略は史記によると上党方向だけしか抜いてない
太原を攻略しないと趙が太原、臨汾を抜けて
東へ向かえば上党を西から攻撃する等邯鄲包囲軍の後背も突けるし
西へ向かえば函谷関を落とさずに関中へ入ることが出来る
皮牢は上党のすぐ裏口でもあるし確保することで太原を避けて臨汾を抜けるルートを抑える事が可能
またここを抜かない限り逆に上党をいくら確保したとしてもちょっとした事で後背を抜かれることになる
地図を見て検討すればするほど皮牢、太原の奪取って趙に反撃を許さない水も漏らさぬ必勝の攻勢で、
長平で勝ちを収めてすぐの邯鄲攻撃は年単位を覚悟する大城への包囲という当時の状況を見ると
伸びきった状態で危険極まる攻勢の形になってしまっている
ttp://www1.axfc.net/u/3513841
一応参考までに BC280以降になると一部六国の王都を攻め潰すだけなら秦は出来たろう
けどその後背地をしっかり抑え安定した統治を続ける条件はまだ整っておらず
功を焦って多大な犠牲を払い堅城と連合軍を同時に相手する必要はない
戦国秦でその手の失策がほとんどなかったのは地味に凄いと思う >>204
白起がやろうとしてた王が皮牢、司馬が太原を落とし、自分が邯鄲に行く手は最善手だと思うよ
大胆な迂回攻撃なんぞ40万を擁しながら引きこもるだけの趙軍にできるとは思えない上に
白起軍が邯鄲に迫ればそのリスクはほとんどゼロになるし ごちゃごちゃ言っとるけど大同小異だろ?結果邯鄲に拘って惨敗
その影響で両方失脚して死んだ、范雎派なんて現王の寵臣なのに全滅
長平後に限ると両者ダメダメでしょう よくろくに残ってない地理の情報を根拠に堂々と断言できるな >>201から急にヒートアップ発熱したなw まあ偶にはいいだろう
オウセンさんについて語ろうぜ 君主に楯突いた奴と保身に汲々とした奴という意味でセットになったおふたり 司馬遷は穣侯列伝まで秦を天下統一へと導いたリーダー達の傳を並べる歴史家らしい編纂してんのに
白起王翦列伝でぶつ切りにしちゃうんだよなあ 白起王翦の後に呂不韋列傳を置いとけば繋がるんだが… 白起ぐらいになると単独で立ててもいい様な気がするけど贔屓目か 蒙傲(恬)、王翦でセットにした方がしっくりくる気はする
子孫も含めて活躍期間が近い(BC285蒙武伐斉の件除く) そらそうよ
秦の数十万の精鋭持っておきながら後見任された皇太子を自害させるわ
自分も身を真っ当できないわでクズオブクズ 王翦と一緒に燕を滅ぼす将軍・辛勝って、もしかして楚の王族かねぇ?
ビ姓は時々「辛」と書かれる… >>219
そうでない可能性が高いと思うがな
楚王家はビ姓熊氏だから史書に名前出る時は「熊○」となる筈
人名を表す時、姫姓なんかの例外を除いては氏を用いた表記が基本
秦王家はエイ姓だが始皇帝はエイ姓趙氏で「エイ政」という書き方はせず「趙政」と史記に記されてる
ただ、この氏姓の使い分けは戦国時代から形骸化しつつあって
前漢の頃には完全消滅と言っていいような状態になるがね まぁ確かに可能性は低いか
しかし熊氏の著名人はあまりいねぇな、王族はすぐ他の氏を名乗るから 春秋戦国期でパッと思いつくビ姓表記の有名人は数人・・・
まあその内1人の活動時期は辛勝と比較的近い戦国中晩期かつ辛戎と表記される事もある人だが >>222
もしかするとその数人の内何人かはビ姓じゃなくてビ氏かも知れんぞ
氏と姓が同じってことはあんまないと思うが同じ文字を使った氏と姓がないわけじゃないだろうしね
例えば姜姓も姜氏もあるしさ つまり正真正銘の楚王族以外は不確定ね
人数半分になっちゃうなw 辛勝かー
…むしろ華陽君の姓氏はホントに辛、華陽君辛戎なのかもね、つまり宣太后も
楚の国姓であるビ姓を強調してる司馬遷・史記を真っ向否定することになるが 面白いね実は辛戎説
宮城谷氏が宣太后は楚の宣王の王女じゃないかと昔どこかで少し書いてた
そこの三姉弟の複雑な関係の不思議のせいで半信半疑っぽかったけど
秦の孝公と楚の宣王の時代に両国は姻戚になってるし
宣王に嫁いだ秦の公女が生んだ子が秦王室に嫁いだと考えれば自然な流れ
しかしその割に夫人としての位階が低いんだよなー夫人と宮女の中間みたいな 太后と華陽君が王孫かもしれないね。あと華陽后も気になるところだな。
まあ、いちおう楚の王族だと思うけど、非王族説はありだと思う。
親魏色が強い秦武王の代に向寿や魏冉が既に重く用いられてたり、
異父姉の故郷をボコボコする穣侯に親楚の姿勢があまり見えないのが少し謎だった。 ほとんどの人物は六国のどこかと結ぶな、張儀や甘茂は魏だし樗里子は韓
まぁ穣侯の場合は飛びぬけて長く勤めたので国際情勢に合わせ手を結ぶ国を変えざるをえず
結果的に全方位の国を凹るはめになってしまった感じですけどww アレクサンドロス大王がタリム盆地を越えて攻めてきてたら
七国全部滅亡w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています