【白起王翦】戦国四名将について語る【廉頗李牧】 [転載禁止]©2ch.net
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http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%88%98%E5
%9B%BD%E5%9B%9B%E5%90%8D%E5%B0%86
中国では戦国四君だけでなく
戦国四名将という区分まであるようだが
これら四名将について
あるいは彼らの一族や子孫について語るスレ >>229
インドも征服できないヘタレにセリカ征服は無理 弩の存在しない世界の軍と大量配備した軍でぶつかったら
それだけでかなり不利だしな インドで翻したのは軍隊の反対からだし
アレクサンドロスが長生きしてもう一度遠征したら中国までいったかもな マケドニアは強いけどペルシャ帝国勢力圏の外に出るのは止めておいた方が… >>232
あれってペルシア帝国とインドの勢力の国境画定の一環だから
兵士のせいで還った、と兵士のせいにされてるけどインドから帰還する過程で
3年もペルシア各地フラフラしてることからもわかるように、普通に攻勢限界で引き返して
あとペルシアの鎮定作業に移ってるだけ >>227
宜陽攻撃に名将?甘茂と共に関わってるし向寿は早くから任用されてるよなあ、昭王の幼馴染ってだけじゃないっぽいね >>234
いや、引き返すならその過程でペルシアを鎮めるのは当たり前だろ
全く根拠になってないぞ どちらにしても南アジアの端っこと中央アジアが限界なんだからどうでもええんです >>236
当たり前じゃあないんだなぁ
アレクサンドロスはインド侵攻の前にもペルシア鎮定作業をずっとやってるんで
ペルシア鎮定してからインド遠征して帰りに同じことを繰り返してるわけじゃなく
インド遠征がインド諸勢力との国境画定のための、つまりペルシア鎮定の一環に過ぎないんだんわ
むしろ鎮定作業の途中で何でインドまで行っちゃったかと考えるのが当然こと >>238
いや・・・またしてもまったく根拠にないんだけど
むしろインド遠征後のペルシア鎮定が根拠になっていないことが重ねて強まっただけだろう・・・
繰り返してるわけじゃない、とする論拠がどこにもないまま
原史料の説明無視して動機を捻じ曲げてるだけっしょ? 遠征したんじゃなくてペルシア帝国とインド諸侯との国境画定してるだけ
元々アケメネス朝はインド人諸侯も臣従させてたんだし アレキサンダーは世界の果てまで遠征する気でいたんだけど故郷に帰りたがった部下の反対で引き返す事になったと聞いた アレキサンダーの映画見たけど自分がアレキサンダーの部下だったらヒンドゥークシュ山脈に到達した時点でいい加減帰りたくなるだろうと思った サラトップどもがすぐ東側にいるからペルセポリスの時点で帰ると普通にペルシア失うがな >>243
アレクサンダーもカエサルもスケールがでかいな。 白起って邯鄲まで落とす気あったのか?
列伝だけ読んでると范?が勝手にそう思い込んだだけのように見えるけど 戦国策ではそうなってるな
長平直後には秦全体が疲弊していたにも関わらず邯鄲攻略を主張していたのに
秦の国力が十分に回復してからは逆に反対し始めたのは何故か?
と、昭襄王が白起に問う節がある >>241
当時のペルシャの版図なんてほとんどは名目的なものだったが
現地の有力者に総督の地位を与えて朝貢させてるだけで属州内でもしくは違う属州王同士が争ったりペルシャ王に公然と反旗を翻したりとかざら
ペルシャの属州は明代の羈縻衛に近い >>249-250
邯鄲攻撃云々は白起召還と和議でほんの少し遅れただけで
疲弊した秦の国力の回復は全然出来てないはずなんだよね
事実上の白起外し→後釜に鄭安平・王稽捻じ込みVS白起の抵抗
という政争でしかない、亡命しなかった楽毅的な ワンテンポ遅らせただけで戦略的な違いはほとんどないね
そのワンテンポで助かったのは明らかに趙だけど 攻囲の長期化が招いた敗北って閼与の戦いと全く同じ
昭襄王学習しねえな 何で将軍の白起への交代は極秘裏に行われたんだろう?
それに何でもっと早くに交代しなかったのかな? >>255
白起個人を極秘裏に動かしたのではなく、白起軍が増援に来たのを隠したってとこだろ
何故もっと早く交代しなかったか?そりゃ白起を使いたくなかったんだろ 白起に増援させたのは史実だしそんなところでしょうね ただでさえ持久戦に趙のみならず秦も喘いでる中で秦で増援あったとわかれば
趙は遠征軍が自壊するまで秦と戦わんものな せっかく敵将が趙括に交代しても警戒させてまた籠城されちゃったら無意味だもんな 廉頗の持久戦ってやっぱり趙よりも秦側の方が補給が大変だったのかな? 単に魏や楚の援軍を期待してたんじゃない?
孝成王は趙単独で何とかしたかったのかもしれないけど >>262
どう考えても大変なのは図体のでかい趙軍
引き篭ると補給線断たれるし現地調達も出来ない
先に上党郡の中心地を制した秦の方が遥かに楽 各個撃破された趙軍拠点の物資ごっそりパクられてるだろうしね… 更に范雎の策略で斉や燕からの物資流入も遮断されてるしな
突発的に始まった上党戦だけど、秦の対策の速さが恐ろしすぎる 趙軍が勝てるとすればどのような戦術戦略が良かったのだろう? 当時の軍事常識を考えると両軍ともにまともな輸送は出来ないと考えられるので
手持ちと周囲食い尽くした時点でどっちも日干し一直線
秦は遠征軍なので尚更条件が厳しいので趙が出来るのは秦が引くまで粘る事 >>267
まだまだ元気な最初から全力でぶち当たる、押し切れなかったら伏兵置いてさっと退く
or大軍は用いず邯鄲でやったように少数精鋭の奇襲を繰り返して削る
>>269
河川沿いなら十分輸送出来るけど、どちらも太行山脈越えなんで補給は厳しいね
近隣の食料豊かな地域を奪った方が勝つ >>266
范雎で思い出したが
そこそこ有名秦相のわりに出土資料(一次資料)で存在未確認なのが不思議だ、張禄はあるけど
まあ俺が知らんだけかもしれんが、一発屋秦相・孟嘗君でさえ確認されてるのに……
>>270
“籠城”は(趙括の2カ月含む)長く見て4ヶ月ほどだよ >>272
ウィキペディアによると
長平に到着した秦軍と趙軍の間で三度、小競り合いが発生したが趙軍は全て敗れた。
廉頗は数で劣るものの精強を誇る秦軍との直接対決を避け、守りを固めてを篭城を徹底し秦軍の疲労を待った。
二年の歳月が過ぎた頃には廉頗の目論見通り、秦軍には持久戦の疲れと焦りが出始めた。
秦の宰相・范雎は状況を打開すべく趙の国内に多数の間者(スパイ)を送り、「秦は趙括が趙軍の指揮を取ることを恐れている。老人の廉頗であれば対処しやすい」というデマを流した。
とあるけど…
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B9%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 >>273
史記でも数ヶ月説と2年以上説で混乱があるんやで >>272
そりゃ秦の公式記録には張禄で、范雎と名乗っていた時代はせいぜい魏の賤臣だから
一次資料で出て来ない確率の方が高くない? >>272
【BC255】王稽「おう張禄、死ぬ時は一緒だよな!」
孟嘗君こと相邦薛君、丞相金投(武霊王の臣下)が製造監督した食膳?が発掘されたっけな。
魏冉や呂不韋の作った出土古代武器やたら多くて笑うw >>273
272だけど
そのwikiはゴチャ混ぜにしていて完全におかしい、なんかキングダム感ある
白起伝に拠るなら両軍の戦闘は半年足らずで終息、籠城期間は更に短い
他の箇所に2年説あるけど、それは“籠城”ではないかと
>>275
そうなんだが“張禄”も雲夢秦簡編年記の死亡記事しか見たことないからなあ…… >>276
それそれ
郡守ないし丞相・相国の職に就くと銘文入り兵器ザクザク出てくる
影の薄い甘茂や馮去疾すらあったはず 武器の銘文って皆フルネームではなく大体ファーストネームのみのサインだから困る
白起っぽい郡守とか司馬錯っぽい郡守とか蒙武っぽい郡守とかいるけどフルネームじゃないから断定できぬ・・
やたらとフルネームでサインする呂不韋さんを見習えよ!ww 軍人としての記録しか残ってない白起等はファミリーネーム無いとちょっと分からないっすね
宰相級は史記にある在任期間と銘文の年号を照らし合わせて確認取れるけど
ま、そうでなくとも商鞅や魏冉は名が珍しいお蔭ですぐ分かりますが 呂氏春秋の應言篇に「秦雖大勝於長平、三年然後決、士民倦糧食。」とある
史記よりはこっちの方が信憑性高いんじゃね?
まあ籠城戦の期間は不明だけど 2年とか半年とか4か月とか3年とか
史料によってバラッバラなんだな・・・ まてまて、史記より呂氏春秋の方が信憑性上ってのはどうかと思うぜ
流石に史記のがマシじゃろ?
前年から韓上党郡&その周辺に秦軍と趙軍が展開していたのは確実でしょうけど
王コツ軍が長平付近に布陣する趙主力軍に近づいたのは昭王47年(BC260)に入ってからだろう
比較的信頼性が高いとされる秦本紀、もっとも詳しい戦闘経過が書かれている白起王翦伝、睡虎地秦簡が一致してる 史記が優秀なのは網羅的だからであってその記述の正確性故ではではないよ
といっても他史料で確認取れてるのに史記が間違ってるなんてこともないけど >>282
意外と整合性とれてる気が
3年(足掛け3年)→実質2年だし、上党を巡る係争が始まってから2年で決着ということでそ
半年とか数ヶ月というのは長平で本格的な戦闘が行われた時間 長平の戦いから呂氏春秋の完成まで20年くらいしか経ってないからな
このケースでは呂氏春秋の方が信憑性が高いと見るべきでは? 改竄や書写ミスの可能性を考慮するなら、睡虎地秦簡を基盤にするのが無難な気がする 大事な資料ではあるが呂氏春秋は史実を正しく伝えるという目的を持った史書や年表じゃないからね、畑違い
まぁ史記もアレな部分結構多いけどさ 基盤つっても「攻長平」しか書いてないんじゃないの? そだよ、BC260年に攻長平
その前の年は別の場所攻めてるね 睡虎地秦簡も始皇帝時代ならともかく昭襄王時代だと一次史料とは言い難いのでは?
著者が生まれたか生まれないくらいの時代についての記述なんだから 当然、昭王紀年の大部分(五十年前後まで)は簡潔に攻○○とあるだけだし
成長した『喜』が何らかの公式一次史料的なものから転載したことになるけど
この時代についてこれ以上に正確そうな伝世史料が存在しないので相対的に一次史料なのだ リアルタイムなのは昭襄王年間末期…ラスト5年からやね
その頃から少し変わった記述が出てくる 結果論で史書が「対秦戦を避けるべきとの意見に従うべきだった」と孝成王本人に言わせちゃったからね…
そして平原君は趙括を推してた側なんじゃ
その時点で上党は秦に奪われてたから対秦強硬派に属すであろう平原君は廉頗に失望してそう 秦=イギリス
趙=清
孝成王=道光帝
廉頗=林則徐
白起=黒船
と考えると分かりやすい 長平辺りまでで趙が清のように地域覇権国家となったことはないし
秦がイギリスのように当時の清と比較して圧倒的な技術的優位にあったということもない
白起が黒船のようにそれまでの能力が清に知られてなかったということもなければ
廉頗が林則徐のように向こう見ずだったという事実もない
孝成王は道光帝と違って戦中に指揮官の首を挿げ替えたりしているし
比較にもならん ここら辺は水増しがひどいからな
この頃の中国なんて戦国日本より人口すくない人口密度スッカスカ時代なのに
数十万の大軍動かせるわけねーだろ 古代中国でいう兵員とは人口における戦闘可能年齢の成人男性の数だから
実際の兵数ではない >>303-304などと、
足りない知識と脳味噌で意味不明な供述をしており 91 : ななしのよっしん :2016/04/23(土) 02:43:41 ID: +9jOYaIBUj
俺の経験上その手の話題を率先してする人は先秦時代について全然詳しくなかったり
荒らしやネトウヨっぽいのが不毛なやりとりを展開するケースが多い(2chとかじゃ)
134 : ななしのよっしん :2016/04/23(土) 01:06:13 ID: lQrLqzSc7K
※白髪三千丈(中国史)
日本人がネット空間などでよく唱える侮蔑的な呪文、使うと高確率で知能低下
インターネッツ最大派閥NTUYニキ系の輩が使用した場合は特に注意が必要である
>>132-133
当時と地形が変わっており古戦場全体の調査は不可能、確認された埋葬坑は全体の一部に過ぎないと思われ
実際に発掘調査した坑となると更に限定的、史記の数字を肯定する材料にも否定する材料にもならないのです
いい加減うんざりするこのネタ まあその後趙は秦や燕の攻撃を退けてしばらく存続するから
数十万生き埋めはないとは思うが >>309
君は人口一億三千万の日本国陸上自衛隊は二十万人もいないから関ヶ原とか朝鮮征伐とか大坂の陣の数十万の兵力は全部うそっぱちで本当は数え切れないという意味だと言うのかね?
あと人口が今よりずっと少なかった前世紀後半のPLAと各種補助兵力の合計は四千万とかそういうレベルですよ
この手の話を日本人がネットですると十中八九アホがアホなことぬかして残念なことになるのは何でだろうね
※趙括スレ住民のことじゃないよ念のため 90 : ななしのよっしん :2016/04/14(木) 18:12:53 ID: PcCp+mfRug
>>85
君は人口一億三千万の日本国陸上自衛隊は二十万人もいないから関ヶ原とか朝鮮征伐とか大坂の陣の数十万の兵力は全部うそっぱちで本当は数え切れないという意味だと言うのかね?
あと人口が今よりずっと少なかった前世紀後半のPLAと各種補助兵力の合計は四千万とかそういうレベルですよ
>>82-85
この手の話を日本人がネットですると十中八九アホがアホなことぬかして残念なことになるのは何でだろうね
※趙括スレ住民のことじゃないよ念のため 奥州十七万騎は誇張じゃなくて絶対に事実だからそれを水増しだと主張する者は鎌倉の間者である 相手するなよ
>>303>>307氏がキャラ変えて無断コピペ連投荒らし中だ >>313などと、
足りない知識と脳味噌で意味不明な供述をしており いるよなー
釣りや荒らし指摘されると自分で文章書かず
仮想敵のレスをコピペして荒らす馬鹿 いるよなー
釣りや荒らし指摘されると自分で文章書かず
仮想敵のレスをコピペして荒らす馬鹿 裴松之「自分より数倍のかずの兵士を捕虜にすることなんて無理」 >>310
数十万分を生き埋めにする穴ほらせるとか
土かぶせるなんてどんな膨大な時間と労力になるんだよ
ちょっとした土木より大変だわ 趙一国が数十万生き埋めにされても
まだ燕に攻勢に出れて
秦の攻撃を退けられるほどの
精鋭兵を補充できるだけの人口があったとは思えないが 数字が正しければ
長平以前のたたかいでも
韓魏の兵50万を葬っている 清の道光帝の戦争の途中に総督を林則徐からキシャンに変えたのは
戦国時代に趙の考成王が司令官を廉頗から趙括に変えて自滅したのを彷彿させるな 長平の戦いの遺跡発掘されてるけど普通に戦って死んだあと埋葬されたものばかりで
生き埋めってのは明らかにウソ >>324
134 : ななしのよっしん :2016/04/23(土) 01:06:13 ID: lQrLqzSc7K
※白髪三千丈(中国史)
日本人がネット空間などでよく唱える侮蔑的な呪文、使うと高確率で知能低下
インターネッツ最大派閥NTUYニキ系の輩が使用した場合は特に注意が必要である
>>132-133
当時と地形が変わっており古戦場全体の調査は不可能、確認された埋葬坑は全体の一部に過ぎないと思われ
実際に発掘調査した坑となると更に限定的、史記の数字を肯定する材料にも否定する材料にもならないのです
いい加減うんざりするこのネタ
>>130-131
大都市が密集している場所で行われている会戦が多いから
野戦っぽくても実は戦果の大半は城塞の攻囲→城内殲滅という可能性はある
137 : ななしのよっしん :2016/04/27(水) 22:34:25 ID: 6rucE4rlmb
基本>>134氏の考え方で良いように思う長平古戦場は碌に調査されてないしそもそも正確な場所すらわかってない
結論を急ぐ必要はないかと 140 : ななしのよっしん :2016/04/28(木) 00:03:15 ID: 6rucE4rlmb
続けるならもう少し他人のレスをよく読んだ方が良いと思う
君の意見は一理あるけど一理で全体を確定ずみとか有り得ないとすることは出来ない
今のところ確定しようのない話なんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています