ランゴバルド人からするとローマ教会に比較的融和的だったとはいえ、
ローマ教会にとってはランゴバルドは大きな脅威だった。
しかし彼らが属していた東ローマはイタリアにおいてなんの力もなく、期待もできなかった。
加えて教義的な対立も大きくなっていく。
自らを守るため、出来ればランゴバルドをイタリアから追い出すためにローマ教会はフランクに接近するようになる。

ここでもうひとつの要素。
当時のガリアのキリスト教会はフランクのメロヴィング家と結びつき、ローマ教会の統制を離れていた。
ローマ教会はこれを回復したいという考えも持っていた。
そこでローマ教会はフランクでもメロヴィング家ではなく実権を強めていたカロリング家に接近する。
ピピン3世がメロヴィング家を廃しフランク王となるが、この政変にもローマ教会の力が働いていたと推察される。
彼はランゴバルドと戦い、いわゆるピピンの寄進を行って正式に教会領が成立することになる。
跡を継いだカール大帝はランゴバルドを滅ぼした。
さてローマの人口は10世紀あたりで3万強と言われる
よってこの時期のローマ市は人口1万いくかいかないか程度だったのではないか。
ただし3万の人口の都市というのは中世ヨーロッパではそれなりに大きい。
中世ヨーロッパで最大の都市パリでも時代によるがおおむね10万前後だ。

ローマ帝国は都市文明であり都市に人口が集中していた。
100万と言われたころは、イタリアの人口の3分の1から半分がローマに集中していたと言われる。
中世はこの都市文明がまったく衰退し、農村社会となっていた。
さて中世におけるローマの富の元はなにか。
ローマの農業はすでに共和制自体に競争力をなくし衰退している。
ローマ市は商人が活躍する商業都市でもない。
各地の教会から届く教会収入、また巡礼からの収入、これが中世ローマの財源だった。
つまり中世ローマ市の盛衰はローマ教会の盛衰と共にあった。
そしてローマ教会はカールにローマ皇帝の地位を授ける。
ここにおいて西ローマ帝国は復活し、ローマ教会および西ヨーロッパは東ローマから独立した、
「ヨーロッパ世界」が誕生したとされる。
今のEUもこのカールの帝国を意識している。