西ローマ帝国を語ろう [転載禁止]©2ch.net
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ギボンにもイスラム教成立までの繋ぎ扱い
資料が少ない
華のあるビザンツ帝国のほうが面白い
と苦難だらけの西ローマ帝国を語ろう!
Wikipediaから一覧
395年 - 423年 ホノリウス(西ローマ初代・テオドシウス朝第2代)
423年 - 455年 ウァレンティニアヌス3世(テオドシウス朝最後)
455年 - 455年 ペトロニウス・マクシムス(テオドシウス朝断絶後の初代)
475年 - 476年 ロムルス・アウグストゥルス(最後)
474年 - 480年 ユリウス・ネポス(事実上最後) みんな、バカにしがちだが
東ローマはボロボロになりながらもイスラムの西欧侵入を
食い止める防壁の役割を果たしていた。
東ローマがもっと早く滅んだパラレルワールドでは、
西欧がイスラム化してしまう確率がかなり高くなりそう。
千年帝国を滅ぼしたオスマン帝国は、その後、20世紀まで500年以上続いた
激戦区の中近東や隣にハプスブルグ家がいた中で、これもまた驚異
ササン朝とバトルアンドバトル
終わりなき戦い
ユスティニアヌスが西ローマの旧領を大征服するが
その後がランゴバルド、アヴァール、イスラムに領土を取られまくって
停滞の時代が続き、しばらくするとようやく安定して
バシレイオスの活躍で再び大国になるが、その後は暗君が続き
トルコ人にアナトリアを奪われる
更に十字軍によって一回滅ぼされる
なんとか復活するが、ふるわずオスマン帝国に滅ぼされる
色々あったけどよく1000年も続いたもんだよ その後、東ローマの後継を自任するロシアが徐々に優勢になり
オスマンをボロボロにしていったのはリベンジといえるかもしれない
ま、ロシアに関してはモンゴル帝国の後継国家という見方もできるんだろうが・・・ 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
TRWDJ ホノリウスは馬鹿殿様の評価が不動だけど
剣闘士の殺し合いショーを禁止したのは
人道上の観点から評価すべき (法令にサインしながら)だって、闘鶏の方が百倍おもしろいもんね! 調べたら、テレマコスという司教が剣闘士興業をやめさせようとして、怒った群衆に投石され死亡する事件が、ホノリウスの剣闘士興業禁止令につながったようです。 だからそういう自己犠牲に反応する感受性はあったって事だよ 共同皇帝コンスタンティヌス3世と共同皇帝コンスタンティウス3世がまぎらしいんで
なんとかしてください 東西ローマ帝国はその名前から同格の二国が並び立っていたと
思われがちだが、実際は違っていたのだな。 アッティラと結婚しようとした人て
その後どうなったの?
さすがに皇姉を頃すわけにも
いかんのではと思うんだが… >>189
その弟は皇帝なのに殺されたのだから
皇帝の姉であることは何らその身の安全を意味しない 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、
形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに
帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を
代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体の
ものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が
進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD
西ローマ帝国を滅ぼした奴が国を東ローマ帝国に差し出し、自分は西を支配する。
ずいぶん虫のいい話でんなぁ。
どう見ても東の工作員が西を滅ぼして御褒美をもらったようにしか見えませんが?
ってことは逆算すると、移民の流入は東の工作だったということになる。
それは即ち、ゲルマン民族の大移動を引き起こしたフン族の襲来は、
東ローマ帝国の工作だったということになる。
事件で一番得をする人間を最初に疑え、ってのは犯罪捜査の基本ですね。
ゲルマン民族の大移動は、はっきりと原因が解明されてないんだが、
実は単純明快なんですよ。 ゲルマン人ってテイラースウィフトみたいなやつらだろ
だっせーラテン人が勝てるわけない そもそもテオドシウス1世死後ローマ帝国は東西分裂していなかった
テオドシウス1世が西で自立しようとしたマグヌス・マクシムスや
アルボガステスを倒したので帝国分裂は阻止された
テオドシウス1世がマグヌス・マクシムスやアルボガステスを倒した時に
西ローマ軍は東ローマ軍との戦いで大損害を被っていた
スティリコは東ローマ軍の一部を率いて西ローマ防衛を任されたけど
戦力が不足したので東ローマと兵の奪い合いをせざるえなくなった
多くの兵を輩出するバルカン北部をスティリコが東ローマから奪おうとしたので
東ローマは西ゴート族をバルカンから追い出せて一石二鳥になるという事で
西ゴート族を西ローマにけしかけた
もし西ゴート族がバルカンに定住し続けたのならば
後のブルガリアのように東ローマの宿敵となったはず ソワソン管区の初代であるアエギディウスの記事が日本語版wikipediaに出来た。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アエギディウス (マギステル・ミリトゥム)
英語版の記事はケルト人のカテゴリに入ってるが本当だろうか。 一歩間違えばケルト人の西ローマ皇帝が出来てたりしたの?? >>191
足利尊氏が、京都の六波羅探題を滅ぼした後、鎌倉幕府に「西日本の委任統治」を申し出て承認されるようなものか
当時としては、「ローマ帝国の滅亡」とは認識されてなかったんじゃないかな ていうか、京都の朝廷が存続してるのに、鎌倉に武家政権ができた状況と似てるかもしれんな
どっちにしても、「ローマ帝国が滅亡した」というのは、西欧偏重史観という後付けの理屈であり、当時の人々の意識としては、コンスタンティノープルこそが「ローマ帝国」 一歩間違わなくてもユリウス朝の時代からケルト系元老院議員とか
カエサルに取り立てられてユリウス氏族になってケルト人とかいるけど
そもそもローマ人は法的身分であってそういう人種がいたわけではないからな
アメリカ人と言う人種がいないのと一緒 フン族といえどローマ市民資格がないと皇帝になれないんじゃないの? アッティラ自身は草原の主としての正統性にはこだわったが、
ローマ皇帝はあくまでも搾取対象にしか見ておらず、
自らがローマ皇帝になろうとは思ってなかったっぽい。
金貨寄越せ、絹寄越せ、ガリア寄越せ、ホノリア寄越せ、とは言ったようだが
帝位を寄越せと要求したとは聞かない。 それらが手っ取り早く全部まとめて手に入るのだから
やれる状況ならやったんじゃね アッティラはミラノを攻略した際に、
フン王にローマ皇帝が黄金を貢ぐ肖像画を描かせたという伝承などからして、
自らその貶めたローマ皇帝の地位になろうという考えは無かったんじゃないか? ホノリアとくっつこうとしたのは帝位を狙う布石という見方もあるが
べつだん美人という話もないしな 黄金や絹と同じようにホノリアも貢物として献上させようとしてただけだと思う。 日本語版ウィキペディアにマグヌス・マクシムスの記事が出来た。
あと残る一人、ヨハンネス(在位423〜425)が出来れば西ローマ皇帝の記事がぜんぶ揃う。 >>206
ホノリア個人には特に価値はない。皇帝に連なる血縁が重要。
となればアッティラは皇帝位に興味があったと考えるのが自然。 >208
「ローマが俺に一族の女を貢いだんだぞ」と従属している諸部族に
マウント見せつける効果を狙ったんだろ。
匈奴が漢に女を貢がせたが漢の帝位を伺ったわけではないのと同じ。 ホノリアがアッティラの関心を惹きつけたおかげで、
フン大帝国の侵攻の矛先が東ローマから西ローマに変わった。
ホノリアは歴史を変えた重要人物かもしれんな。 ウィキペディア日本語版の記事「ユスタ・グラタ・ホノリア」をみたら
アッティラのアの字も出ていない。なんでー >>207
>ヨハンネス(在位423〜425)
末期になるとキリスト教の聖人名を持った皇帝も出てくるのね 西ローマのヨハンネス帝を東ローマのテオドシウス2世帝は認めず、
将軍を送って「討伐」する。ヨハンネス帝の最後はかなり悲惨だったらしい。
このあたりから東西ローマの足の引っ張り合いが酷くなっていく。
蛮族に対して結束しないといけない場面で何やってんだ・・・ >>209
>匈奴が漢に女を貢がせたが漢の帝位を伺ったわけではないのと同じ。
匈奴が和蕃公主を受け入れたのは漢の属国となった呼韓邪単于の頃なんだが
遊牧民社会では単于と閼氏は同等の存在で部族の兵権をも持つ
その閼氏に漢の女を添えろという要求なのだから漢に対する服属儀礼に他ならない
匈奴のほうが立場が上なら王昭君なんて蔡エンと同様に妾扱いでわざわざ閼氏になんてしない >>213
アラリックは東ローマの軍と装備を借りて西ローマを劫掠した。
アラン人アスパルに西帝ヨハンネスを殺害させたのは東帝テオドシウス2世。
ロムルスを廃位したオドアケルは東ローマ軍司令官の弟。
そのオドアケルを討伐したテオドリクスを派遣したのは東帝ゼノン。
6世紀に西ローマを徹底的に破壊しつくしたのもユスティニアヌス1世が派遣した東ローマ指揮下のゴート人やランゴバルド人。
むしろ結束するべきは蛮族とだった。 >>207
Wikipediaでヨハンネス帝の項目が書かれていた。
祝・西ローマ皇帝コンプリート!! 西ローマ帝国が穀倉地帯である北アフリカを失わなかったら、
もう少し延命できたのかな
東ローマ帝国はエジプト・シリアを領有し続けていたから存続できた 食料を属州から輸入してイタリアの農地が荒廃→自作農衰退→ローマ軍兵力の蛮族依存高まる
というふうにローマが衰退していったのなら、
むしろ属州からの食糧供給が無くなって逆コースでローマ帝国が活力を取り戻してもよさそうな。 >>219
イタリア半島では五賢帝の時代から産業の空洞化が始まっていたから無理だったのでは
そもそもイタリア半島の農地の生産性はシチリアや北アフリカよりも劣っていた ゲルマン人みたいな野蛮な人種が文明の最先端を行っていてかつ強力な重装歩兵による兵隊を持っていたローマによく勝てたよな ガリアだかゲルマンだったか忘れたけど、
撤退したローマ兵が置いてった攻城兵器を持ち帰って改良して
1年後の侵攻で逆にローマ兵に向けて使ってきたという話が好き
まあ西ローマ関係ないか 後期ローマ帝国時代になると、黒海の北岸にいたゴート人が航海術を学んで
海に乗り出し、240年頃からボスフォラス・ダーダネルス両海峡をこえて、
エーゲ海へと侵入してきた
蛮族も技術的に進歩している 黒海の北岸にいたゴート人はサルマタイを模倣して
騎兵を主力にすると航海術が廃れてしまった
フン族に襲われたゴート人は船で逃げなかった
ゴート人は船で小アジアへ移住しなかった
ゴート人が航海術を失ったので
東ローマではなく西ローマが滅亡する事になった 375年にドナウ川を渡った西ゴート人は、378年にはアドリアノープルの戦いで
東皇帝ウァレンスを敗死させた
そのあと東皇帝となったテオドシウス1世は西ゴート人をおさえ、ローマ帝国の
「同盟者」としてトラキア地方に定住させた ヒトラーがいうアーリア人とゲルマン人というのは違うみたいね ローマ人は、蛮族が、現実には変わっていったのに、変わらないままであると考えたがった
4世紀までに、ゲルマン人は以前より少数の、より大きな部族に組織されていた
農業の集約化は、人口の増加と経済の成長をいやがうえにも促進した
ゲルマン社会は政治的な集権化と社会的な階層分化をおしすすめ、
比較的安定した王朝と「生成さなかの貴族層」のような戦士中のエリートを出現させた
そして部族民に対して行使される強制権が拡大し、それにより戦闘に際して行使されうる
指揮権と統制権も増大したらしい
ゲルマン人はより大規模なものとなり、よりよく装備され、騎兵と弓兵の数も増加した
しかしローマ人はこれらの現実を認めようとしなかった ローマ人の間では「蛮族には建築技術が無い」という蔑視も長らく受け継がれ、
419年に至っても東西ローマ帝国で「蛮族に造船技術を教えた者は死罪に処す」という
意味のない勅令が下るという事態になっている。
既に一五〇年以上に渡って諸々の蛮族が海賊行為を繰り返しているのに、である。 ゲルマニアという今のドイツ地方の辺りは鬱蒼とした密林でこれといった産業もなく、またそこに住んでるのは蛮族のゲルマン人ということでローマとしては統治することに全く魅力を感じなかった。
ローマはゲルマニアには侵攻することなく放置した。
千年後にモンゴルが東からヨーロッパに侵攻して圧勝を重ねるもあと一歩のところでクリルタイとなりウィーンを目の前にして退却した。
クリルタイ後にもう一度ヨーロッパに侵攻して瞬く間にポーランドを占有するもそれ以西の深い森に覆われた中央ヨーロッパには興味を示すことがなかった。 ケルト人やダキア人は敵に攻められると城塞に籠城したけど
城塞を築かないゲルマン人は森林や沼沢地で抵抗したので
城攻めが出来ないのでローマはゲルマニア征服を諦めた
中世のドイツ人は石や焼き煉瓦で城塞を築くようになったので
モンゴル軍は征服を諦めて撤退した
当時のロシア東欧の城壁はまだ木製だったので易々と陥落した 東西のローマ帝国はしばしば敵対関係にあり、ギリシアを含むイリュリクム道が
両帝国の対立の焦点となることもあった ローマ帝国が東西に分かれても
防衛正面が多くなるだけコスト的に不利か ローマ帝国を東西に分けるとドナウ軍団が分割されてしまう
ローマ帝国の東西分割はオクタウィアヌスとアントニウスの東西分割に
由来しており当時はドナウ地方はまだローマ領ではなかった
ローマ帝国はガリアとドナウとオリエントの3分割にすると
効率良く防衛する事が出来る 当初は東西の皇帝は協調路線をとり、「東」は相対的に弱体な「西」に多くの
支援を行った
しかし北アフリカを占領したヴァンダル人に対する大規模な軍事作戦が
468年に無惨に失敗したあとは「東」も西方に対して精力的な介入を行う
余力を失った
この間に「西」の宮廷では、異民族出自の有力な軍人が傀儡皇帝を擁立して
実権を握る事態が常態化していた ローマ帝国の統一を維持し続ける唯一の方法は
アウグストゥスの計画通りにエルベ河を国境にして
ライン軍団とドナウ軍団をエルベ・ドナウ軍団に統合する他ない ハドリアノポリスの戦いで、ローマ皇帝ウァレンスは
ゴート軍を包囲しようとして失敗した
包囲殲滅戦って、そんなに難しいことなの? ゴート軍は複数の部族に分かれていたから各個撃破すべき
いずれかの部族をローマ側に寝返らせれば良かった ローマ帝国を東西に分割したのは
ウァレンティニアヌス1世とウァレンスの兄弟
コンスタンティヌス1世は3人の息子達に
ガリアとイタリアとオリエントを分け与えた テオドシオス法典の発布後、実際にはローマ法がローマ帝国の東西で徐々に
分裂を始めた
現実問題として、東方ではローマの法が実施されなくなり、同様に西方でも
コンスタンティノープルの法が実施されなくなった 西ローマ帝国が生き延びるには、東ローマ帝国のような皇帝の専制政治にして、
蛮族出身の武官たちによる一元的な「武官政治体制」を構築するしかなかったのでは。 >>239
テオドシウス法典は、西方でも実施されている
やがてゲルマン法と融合していった
法の分裂をいつのころに置くのかは難しいが、ユスティニアヌス法典は、東ゴート滅亡後の
イイタリア半島では適用されていたが、それ以外の西方では適用されていない
イタリア半島でもやがてユスティニアヌス法典は利用されなくなったが
その時期の特定についても議論がある
最終的にランゴバルト法の適用が広まったため、以前はランゴバルド法典出現とともに
ローマ法は利用されなくなったと思われていたが、現在ではそのように単純には思われていない なんで古代ギリシャ・ローマの科学、文明の発達からルネサンスまで人類は1000年以上停滞したの?やっぱ一神教のせいなの? [204160824]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1618317382/ その千年は一神教のイスラムで科学が凄い進歩しとるで
一方、多神教だった日本では・・・ イタリア人はローマ攻められてる時
何してたんだよ
人口も国力も増えてるから共和制ローマ以上の
兵力と力発揮できただろ > イタリア人はローマ攻められてる時
> 何してたんだよ
> 人口も国力も増えてるから共和制ローマ以上の
> 兵力と力発揮できただろ
ずっと前から人口は減少傾向
加えて貧富の差が深刻化したせいで、貧乏なローマ人は自らローマ略奪に加わったり地方で一揆を起こしたりしてる 分裂はローマ帝国の常
そして分裂した地方の一つ一つが一つのローマ帝国 古典的な古代ローマ史家は分裂ではなく、ローマ帝国からのギリシアの独立と呼んでた。 江戸時代よりいい
【悲報】ローマ人の一日(朝8時〜11時 仕事、昼には仕事終了、お昼〜屋台で食べる、外で男友達と語らったりする、夜〜セックス(娼婦は300円)) [398533796]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1623199596/
なかには自分の奴隷を貸し出して仕事させる者もいる
月収は適当に何か働いて
だいたい5万円と少し
食事はもちろん普通に朝昼晩食べる
屋台には天ぷらとかパンとかが有る
その日ある材料をなんか揚げたり焼いたりしてもらえる
古代ローマの庶民の食事 ―普段食べていたものや外食事情
http://news.yahoo.co.jp/articles/d8d3c7f818ee144fe4a69e5cc56936af29259af5 >>234
日本で喩えると徳川家康が皇位継承に口出ししてたようなものか >>238
たわけ者ということね。
地面を分割相続すると、宗家も分家も倒れてしまうという >>252
日本で例えると
朝廷が元老院
幕府が皇帝
大名がゲルマン人の将軍 >>254
徳川が大名埒外のような言いようだけれど…… 大名の盟主が徳川家なように皇帝も将軍の一人なのでだいたいあってる 皇帝は地方ごとに何人かいるが、征夷大将軍は1人しかいない 従四位下の征夷大将軍の上に
従三位の近衛大将が左右二席あるよ? そりゃまぁ、異なる時代の異なる文化圏の異なる制度を例えに使ってるんだから違う所はたくさんあるわな >>262
> 官職には叙任に必要な官位があるんだが
ある程度の相関はあるが根本的にそれらは別物 官職と位階ごっちゃになってる人は「官位相当制」あたりで検索すると幸せになれるかも 慶長期に西園寺実益よりも徳川家康が上席で相対したのは、近衛右大将よりも征夷大将軍が上位だからではなくて、
西園寺実益が正三位右近衛大将、徳川家康が正二位内大臣の立場で相対したから。 ローマ市民というのは清の満洲旗人のようなものだったんだろうな
最初は兵として強かったがそのうち堕落して弱くなる 清国ではホンタイジ皇帝・ドルゴン摂政の初期はともかく、順治帝が親政を始めてからは従軍したからって旗人にはなれなったろ。
ローマだと、解放奴隷や外国出生者も25年間従軍するか、従軍中に著しい戦功あれば、田畑付の家貰って晴れてローマ市民だ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています