多神教同士ならそれは日本で言う「習合」であり、宗教学でいうシンクレティズムとしてよくあること。
国家化される前から民族間闘争の結果として「中東」でも普通に起こってきたことだ。
多神教では人は神に道徳を委ねない。そこでは道徳はあくまで人のものだ。神は神話の世界にあり、神々の間の行動は人間による道徳的な解釈を許さない。
神は人間にあれこれ命令しない。神々は自然界や文明など人を取り巻く世界の「記号」であり、
分担された「役割」の集合体にすぎない。だから民族と言語の融合・共存に伴って容易に同一化し、相互翻訳可能になる。

しかし長い年月の間にYHWHと呼ばれる神が負った性質は
周囲の他の宗教とはまるで違うキャラクターであり、互換が効かなくなっていた。
契約神、特定の部族の守り神、世界の創造主、戒律と道徳と罰の神、そして唯一神。
「中東」なんて雑にまとめるからわからなくなる。
「セム族」だって古代においては多神教徒のほうが多く、神々の相互翻訳と融合は頻繁に起こしていた。
ユダヤ教だって自分たちの宗教の特殊性がまだ十分にわかっていなかったから
やはり違いがわかっていないローマにされたシンクレティズムの措置を拒んだ直後にその怒りをエドムにぶつけて同じ宗教の押しつけを行なった。
なおこの時代、キリスト教やイスラム教のような世界宗教としての一神教はまだ生まれていない(ゾロアスター教もイラン系の民族宗教どまり)
だから多神教徒であるカルタゴの遺民が単に異質で閉鎖的なユダヤ教を新たな選択肢として選ぶなんていう発想自体がありえないのだ
ハザールの集団入信はキリスト教とイスラム教という二者択一の確執から逃れるための方策でもあったから、状況は全く異なる