アレクサンドロス三世「改めて考えると凄いなって思うなあ。俺はやっぱ」 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
改めて考えると凄いなって思うなあ。俺はやっぱ
ギリシャも統一できるしさ、小アジアも制圧できちゃうし、ほんでエジプトも占領できるでしょ?
ほんでーさらにはペルシアも滅亡させてるって?ほんでーアレクサンドリアも作ってるって?
なかなかできないよそういうことは
なかなか難しいと思うよそういうことは
そういうクリエイティブな人はなっかなかいないと思うよ
やっぱ俺って凄いんかなぁ >>243
コストの掛かる重騎兵を数揃えてるからそれ根本的に間違い
あと投射兵器そのもので言うと戦車に大きな弩搭載する戦術が周代には確立してて
投射兵器の扱いは古代中国と地中海では圧倒的に前者が優れてる
>>245
変わってるから歩兵は装備まで簡略化されてってるのよ >>247
> 変わってるから歩兵は装備まで簡略化されてってるのよ
それは単に騎兵に力をいれたぶん歩兵への予算がカットされただけ
あとそもそも後期ローマが騎兵に力を入れたのは
国力低下と小規模侵入の迎撃戦が激増したことによるもので
飛び道具うんぬんは関係ない
そして歩兵の戦術自体も変わっていない
後期ローマでも会戦において歩兵はちゃんと密集隊形とって戦ったし
もう一度言うが中世に入ってもシールドウォール戦術はずっと使用されてる
古代末期から中世にかけて変わったのは騎兵と歩兵のポジションであって
隊列組む「歩兵戦術」そのものは廃れていない 中世にかけて騎兵と投射兵の重要度が増して
「歩兵を主体とする戦術」の位置が「低下した」というのならわかる
まあそれでも歩兵が隊列組む戦術は継続されたし超密集する盾の壁も使用されたから
>>242の歩兵隊列を組む戦術自体が廃れたとするような発言は擁護しにくいが
それと言われているとおり末期ローマの騎兵転換は飛び道具関係ないし >>247
>投射兵器の扱いは古代中国と地中海では圧倒的に前者が優れてる
逆に中国にバリスタみたいな城壁破壊できるような大型弩の運用なんてあったけ? >>247
>あと投射兵器そのもので言うと戦車に大きな弩搭載する戦術が周代には確立してて
何を根拠にこんなこと書いてるんだろ
周礼にも史記にもそんな記述はないが
ようやく三国時代になって官渡の戦いで投石機らしきものがでてくるが 中世前期は盾壁マスターなヴァイキング系が猛威を振るって、
中世盛期でも歩兵がカイトシールドならべて隊列組んでた。
それ以降は防具発展によって盾使用は縮小したけど、
隊列を組むという点は継続する。
社会・戦争形態の変化によって変遷はしていったけど、
歩兵集団の密集戦術そのものは別に廃れてはいない >>252
まさに周礼に弩に関する記述があるんですが
「凡弩,夾、庚利攻守,唐、大利車戰、野戰。」 >紀元前の地中海世界の戦術って強力な投射武器のない前提
投石機も弩砲も存在してたんだから無い前提ってのはないな。
野戦に限ってならともかく。
大体弩があっても匈奴・鮮卑・モンゴルの騎馬軍団にボコられまくっていた訳だが・・・
マケドニアだけ弩に歯が立たないってのはおかしな話だよ。 何か勘違いしてないか?
凡そ弓の内で弩弓,夾弓、庚弓は攻守に適しており、唐弓は車戦と野戦に大いに便利であるって書いてあるんだけど
どこをどうよんだら
>戦車に大きな弩搭載する戦術
に読めるんだ だいたい中国の弩って天工開物に「凡そ弓矢で強いものは二百歩に達するが弩は最強の物でも五十歩にすぎない」(凡弓箭強者,二百餘歩,弩箭最強者,五十歩而止)
と書かれるほどで、あくまで未熟練兵向けの兵器で西洋のボウガンみたいにロングボウをもしのぐ射程と威力をもったものではないのだけれど >>258
それ火薬兵器登場もして弩微妙になった時代の本だからなぁ 弩は弓騎兵にはあまり有効ではなく歩兵に圧倒的有利という理論なのかな?
金属盾を装備したファランクスなら弩を防ぎつつ前進して敵陣に突っ込めそうだが・・・ >>260
マケドニアのファランクスは盾を胴体部分に装備して
サリッサという長槍を持って歩兵同士の衝突に強くなっているので
戦闘時に盾をかざすような防御は出来んけどね 盾は先頭のヤツが大きくて厚いの持てばいい気がするけどね。
サリッサは二列目以降が持てばいい。 >>256
騎馬遊牧民は短弓と長弓を持っててどちらも複合弓かつ馬上でも使えた
後者は射程が非常に長く移動しながらの長射程攻撃は弩を持った定点防御では勝てても
遊牧民の軍を粉砕するには至らないから勝てない
遊牧民の土地に大規模に補給して陣地を繋いで戦ってた前漢は大いに勝ってるけど
経費が掛かり過ぎて全くペイしなかったように
農耕民が相手側へ乗り込むのはハイリスクローリターン過ぎて策源地を攻撃できないのもある
>>257
唐弓は大きなもので野戦や車戦において活躍するサイズってこと
車戦の常識、御者と戟、弩でワンセット
戦車同士の車戦だけでなく戦車が歩兵と戦う野戦もあったんだから
そりゃ大きな唐弓が活躍するのは当然だわな >>254
アラブ軍との戦いで活躍したテマの農民歩兵だね
テマの農民兵が没落して貴族の小作人になった
貴族はカタフラクトを担当していたので
テマ制の崩壊で騎兵の数は増えていたけど
東ローマ軍は弱体化してトルコ軍に敗れてしまった ローマ兵の亀甲陣形に使ったような長方形の盾はいつ頃から
使われたのかな? >>266
長方形型は1世紀半ばごろから多く見られるようになるけど
「亀甲陣形に使ったような盾」としては
ずっとさかのぼってサムニウム戦争あたりから
この頃に従来のギリシャ式ファランクスからローマ式マニプルスに移行して
盾もギリシャ式の大きな円盾から楕円盾に切り替わることになる
そんでこの楕円盾が時代を経るにつれて
徐々に角の丸みが減って長方形になっていく 何でアレクサンドロスの話してるところでローマの盾の話してんだよw マケドニアの盾が円形でどうしても体の全部を覆いづらいから
長方形の盾のが優れているのではという話。 紀元前4世紀のタリム盆地は全く暗黒時代だな。
桜蘭とか相当昔から栄えてたようだけど。 匈奴と月氏と東胡は互角の戦力だったようだけど
匈奴は東胡や丁零を征服して戦力を増強した
月氏はサカ族を追い払い烏孫は月氏を追い払ったけど
月氏がサカ族を追い払わずに同盟したり支配したのならば
烏孫が月氏を追い払わずに同盟したり支配したのならば
月氏や烏孫は匈奴と互角の戦力になったはず 匈奴は始皇帝の派遣した蒙恬の秦軍30万に対して
匈奴だけでは勝ち目がないのでほぼ無抵抗で敗走した
東胡や丁零を征服して戦力を増強した匈奴は
40万の大軍で劉邦の漢軍32万を包囲出来た 月氏がサカを駆逐したのは匈奴にボコられて北に逃げてからでしょ。
匈奴と烏孫にボコられて玉突き状にサカを南に駆逐してる。 ハンニバルやカエサルが憧れた英雄の中の英雄ですねぇ インドを征服しておけば莫大な富がマケドニアのものに
なったのだが・・・ 負けドニアだってギリシャ人から見れば十分蛮族なんじゃね? >>278
アレクサンドロスのしてたことはハカマーニシュ帝国と周辺国の領土画定なんだからインド奥地行くわけねーだろ 本当は行くつもりだったけど兵士たちが「行くなら大王一人で行けば?」とか悪態つきはじめて
この場合ではやばいと思ったので行けなかっただけの話 兵士の不満って形で糊塗して誤魔化してるけど嘘だから
そんなんだったらアフガン方向へ軍事進出しねーよw >>284
クセノポーンのアナバスィスは原語で読んだけども
邦訳岩波文庫の「敵中横断6000キロ」ってゆー副題は蛇足だよね アフガンから北にソグディアナを征服してるんだが・・・ >>287
うんだからインド行きたいなら先にそっち行く意味はない
航路繋がってもいないのに ソグディアナにアケメネス朝の残党がいるのに
何で先にインドを目指すんだよw >>290
インドもアケメネス朝の領土だった時期があるからなぁ
むしろ旧領回復、領土画定のためって動機以外だと
インド行く意味ないのよ
インドへは行きたいから行ったってのは理由としておかしいのは君も分かってもらえたようで何より ただの順番の問題だろ。
アケメネス朝の領土は大体パキスタンまで。
アレクサンドロスはその先を征服しようとしたの。 >>292
ん?そういう意味だとアレクサンドロスの帝国もインドじゃなくてパキスタンまでだぞ
だからこそ国境画定の遠征だったと言ってるのに その先を征服しようとしたけど兵士が帰りたがったから、ってのはただの後世の欺瞞だって話してんのに 後世の欺瞞ってのは脳内ソースだろ?
何の書に書いてあるのか言ってみな。 >>295
脳内ソースじゃなくてインド行きたいのならどう考えてもあのルートじゃいかんのよ
そもそも地方で半独立状態だったサトラップをアケメネス朝残党認定してる時点で
どうかと思うよ? あーそうそう、どこそこに書いてあるとかどうかの話をしてないのよ
動機なんていくらでも誤魔化せる内心の問題じゃなくて
どこを占領したかどうか軍事的に見ていったらという話な まずアリアノスの東征記を読もうな。
インドに行きたいならどのルートを通るはずだと
言いたいのかも分からん。 先内陸部行くとか後背地切られたら終わるような挙動でインド行きたいとかないのよ 誰も行ったこともない何が住んでるかもわからない土地に行くとなったら
そりゃ士気もそがれるだろうよ 脳内戦記かよw
アレクの内心も適当に推測で言ってるだけだな。 インド行きたいんだったら実際に帰り道に使ったように
航路のための港を分捕ってくのがいいのよ
水軍がどうも整備されてるようには見えないから陸路でつないでもいいけど
アフガンまで行く必要は地勢上存在してない リック軍国のインド侵攻の際は
ほぼ必ずといっていいほど
カイバル峠を通るんですよねぇ
海沿いにやっちゃったのってポルトガル以前にもいたのかなぁ ソグディアナにベッソスの残党がいるんだからそれを
放置してインドに行く訳にいかないだろ。
ソグディアナを平定したらインドに行くにはアフガンを
必ず通る。
大体イラン東南部、パキスタン南部なんて水の補給の
厳しいルートを通る訳無い。
インド洋航路もアレクが帰還に際してネアルコスに調査
させたもんだからな。 帰路パキスタン南部を通ったら多数の兵士が死んだけどね。 >>303
あの辺の陸軍国ってユーラシアの中央部を制す遊牧騎馬民の国が大半だから
そりゃ海沿いとかは通らないだろうね
>>304
そう、つまりインド行きたいから行ったのではなく
ペルシア旧領回復運動がアレクサンドロスの軍事行動だったってこと
わかってもらえて何より 兵士がもうこれ以上進軍したくないというから引き返したんだが。
東征記のその辺の下りは読んだの? だからそこを疑えって話してるところで読んだ、ってアホかいな 何で兵士が帰りたがってるのに先に進みたい振りをする
必要があるんだ?
またはそういう話をでっち上げる必要があるんだよ?
意味が分からない。
根拠は脳内でそう思ったからってだけなんだろ? 今の時代だと、歴史上の凄い英雄の五指にはいるくらい?ってくらいの凄さだけど
当時だと、圧倒的覇業
歴史どころか神話にも例がない アキレウスもヘラクレスも超えた
ばかみたいな途方もない大成功って感じだったのだろうか >>309
王は勝って前に進みたかったけど兵士が帰りたがったから
って武名の誉れ高きアレクサンドロス大王には実に相応しい撤退理由だよね
実際がどうであれ王の意思がどうであれ帰ることができる >>311
だから何?
どこにアレクが本当は帰りたかった証拠があんの? 岩明のヒストリエのつっこみでもしてた方がマシだ・・・ ヤヴァナ人(ギリシア人)は結局はパータリプトラあたりまで
攻め込んだからな。 ボクトツがヒャッハーしてきたらぶつかっただろうけど、
時代が合わない。 セレウコス朝のアンティオコス3世は同時代だな
アンティオコス3世がローマに敗退してセレウコス朝が衰退したので
バクトリアやパルティアが再独立してイラン東部が混乱してしまい
サカ族と月氏はイラン東部へ民族移動した
セレウコス朝が健在ならば月氏は西へ逃げる事が出来ないので
月氏は漢と同盟して匈奴と戦うか匈奴に降伏して漢と戦ったはず
月氏の戦力が加わる事により匈奴と漢のいずれかが滅亡したかも セレウコス朝からの独立にあたっては、男色事件が関係しているぞ。
詳しくは、京都大学学術出版会・刊行の『西洋古典学事典』、並びに
『西洋古典学事典アプリ』を参照のこと。
よいな。 もし匈奴が滅亡してたらアッティラは出現しなかったのか 胸が熱いわ 冒頓はコーカソイド顔だったが、アッティラはドルジ顔
匈奴≠フン説をとる人はかく語る・・ アレクサンドロスの貨幣の肖像にはヘラクレスのと大王自身の肖像がある。
見た目はあんまり違わないけど。 そういやそうだな。
考えてみればアレキサンダー大王のインド遠征とふつう言っているが、
アレキサンダーは今でいうインドの領域には一歩も踏み込まないまま
Uターンしたんじゃね。 教科書の誤記修正
誤:アレクサンダー大王によるインド遠征
正:アレクサンダー大王によるパキスタン遠征 国家としてのインドじゃなくて地域としてのインドは現在のパキスタンを含む説 もともとインドってのはインダス川流域のことなんだから
何も問題はないが
つうかヴァルダナ朝あたりになってもインドつったらヴィンディヤ山脈までで
そっから南は化外の地扱い アーリア系のシンド人が移住したのでインダス河と呼ばれるようになったらしいね
黒海北岸のスキタイ系部族にシンドイ族がいたから元々シンド人もシンドイ族も
中央アジアに住んでいたけど分裂して南に移住したり西に移住したようだ アレクサンドロスは中国ならホンタイジに匹敵する英雄ではあるな
ヌルハチとフィリッポス、ドルゴンとペルディッカス、
崇禎帝とダレイオス、魏忠賢とパゴアス、袁崇カンとメムノン、
李自成とベッソス、呉三桂とオクシュアルテス、鄭成功とスピタメネス・・・と
人物配置もよく似ている
盤石な大帝国があっさり滅びるタイミングというのは、こういうパターンに嵌ったときなのだろう >>306
当時はマケドニアによるプロパガンダが凄かったからねえ
今もそれに騙されて、ダレイオスが軍を見捨てて逃げたということを信じてる奴大勢いるし
しかもアッリアノス自身、大王の偉業を喧伝せねばという使命感で書いたわけだし >>44
だからその領土の「枠」がダレイオス1世の踏襲なんだよ
中国の王朝交代するみたいなものだ
始皇帝のほうが契丹・北宋を滅ぼした金の皇帝より名高いのと同じ
>>199
インドはペルシア帝国時代の行政資料があったからハイペースで進めた
その先が未知の世界だったので偵察隊を送ろうとしたら部下もびびってて拒絶されたわけ(ブリアン)
だからそのままのペースで進めるはずもなく、そこからは遅々としたものになるはず
幸運によってガンジスまで征服し、さらにシーナにまで到達したとしても、
すでに昭王の時代であり、そこで白起将軍に迎撃されてオワリだな・・・ ペルシャのインド統治何て貢納品受け取るだけの羈縻政策どまりで行政史料なんてあるわけないし
東征時は勝手に擁立された太守が乱立してたわけだが
そもそもペルシャの一属州レベルの規模しかない、しかもまだ青銅器時代の秦が東征軍の相手になるわけないだろ
統一時の秦ですら真っ向から勝負するのは難しいレベル 東征当時インドにはサトラップがいたという記述がないぞ。
タクシレスやポロスとかいう原住民の王が統治していた。 世の男性がヒゲを伸ばさず剃って勤めに出るようになったのは、
アレキサンダー大王のお達しがその始まりという説がある。
それが事実であるならば、全世界の床屋さんとカミソリ製造業者は、
マケドニア方面に足を向けて寝られないであろう・・・ ピリッポス2世筆頭にマケドニア人はヒゲ伸ばすのが一般的だったので
それはねえよ
そもそもこれはギリシャに限らずだが古代は「労働は奴隷化の第一歩」(アリストテレス)と考えれていたので
自営業者はいても奴隷でない市民に雇用者や労働者階級は存在しない フィリッポスがヒゲを生やしてたのは関係なくね?
大王の時代の話だろ。 戦前まではみなヒゲはやしてたと思うんだが
アレキサンダー大王とか遡りすぎだろ 確かにセレウコス、プトレマイオスなんかは生やしてない。
セレウコス朝、プトレマイオス朝、バクトリアの王なんかも
生やしてない王がほとんど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています