アレクサンドロス三世「改めて考えると凄いなって思うなあ。俺はやっぱ」 [無断転載禁止]©2ch.net
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改めて考えると凄いなって思うなあ。俺はやっぱ
ギリシャも統一できるしさ、小アジアも制圧できちゃうし、ほんでエジプトも占領できるでしょ?
ほんでーさらにはペルシアも滅亡させてるって?ほんでーアレクサンドリアも作ってるって?
なかなかできないよそういうことは
なかなか難しいと思うよそういうことは
そういうクリエイティブな人はなっかなかいないと思うよ
やっぱ俺って凄いんかなぁ 中学校の歴史の教材で
「アレクサンドロスはアリストテレスから教えを受けた
しかし後年の彼の行動を見るにあまり影響を受けなかったようだ」
というようなこと書かれてたな ディオゲネスにちょっかいをかけたりするあたり、
成人してからも哲学への関心は残っていたかも >>2
世界という質料をあるべき形相の姿に基づいて変えようとしたんじゃね
なお結果は アレクサンドロスはアリストテレスの信奉者で
アリストテレスの教えを具現化するためにこそ大征服に乗り出したとも聞く
大征服がなぜアリストテレスの教えを具現化することになるのか知らんけど
大帝国を建設してアリストテレスの教えを国教にしてとかそおういうつもりなのかねえ アレクサンドロスは、ディオゲネスとの面会後、
自分はアレクサンドロスでなければディオゲネスになりたいと語った。
さてその人ディオゲネスはコスモポリタンとして有名な人物である。
アレクの思考を想像するに、自分は世界がひとつとなるコスモポリタニズムに
惹かれているが、幸い自分には軍事的才能があるから、その理想を哲学者と
してでなく軍事指導者として目指したい、ということであろう。 ナポレオンが、こいつスゲェって紹介した7人の筆頭だしな ディオゲネスになったら樽の中で無一物で暮らさないと
いけないぞ。
変態呼ばわりもされるし。 戦術の独創性では親父のフィリッポス2世に及ばない。 おい!それってYO!syamuさんのネタじゃんか!アッアッアッアッアッ 32歳で若死にしてあの最大版図だからな。
もし60とかまで生きていたら、世界征服を完成していたろう。 織田信長が100才まで生きていたら世界征服が完成していただろう。 信長は重度の糖尿病だったから明智の謀反がなくてもどうせあと1〜2年の命だった >>18
信長などスケールが小さすぎて話にならない。
50年弱を生きて狭い島国の半分を征服したに過ぎない。
100年生きてもたかが知れている。 >>17
近代以前に中央ユーラシアを非遊牧民が征服するのはムリ まあバクトリアの北のベトコンゲリラ騎馬民が手ごわくて敗北を重ねてたからな
そしてある程度の平らげたところで諦めバビロンに帰還しインド征服に舵を切る
この頃から兵の士気が落ち始めていた
バクトリア王国も100年程度でさっそく騎馬民に滅ぼされてしまうわけだ 曲がりなりにもたった一代でギリシャ統一とペルシャ帝国の滅亡をやったんだから
過大評価もクソもないだろ
武帝やユスティニアヌス、ビクトリアみたいに家臣の七光りで名君使いされてる連中のほうがよっぽど過大評価じゃ ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆議院と参議院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ 日本国憲法改正の国民投票を実施しましょう。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ >>17
アレクサンドロスは地中海やアラビアなどさらに西方を征服する予定だったね
アレクがもし60才とかまで生きていたらローマやカルタゴは征服されたはず
アレクはおそらく反抗的なアテネをテーベのように破壊する事になっただろう
アレクはダレイオス3世の娘を正妻に選んでいたからアレクの子孫により
アケメネス朝が続いたかもしれない
アレクサンドロス3世は若死にした事でギリシャの英雄になったようだ >>20
その狭い島国の半分しかない領域の統一にてこずってた王国が一瞬で
ユーラシアにまたがる大帝国を造ったんだからすごいよな すかすかな領地と、世界最強の島国の半分では比較にならない。 同条件で戦えばアレク>チンギスだろ。
チンギスの兵法って特に聞かないからな。
マケドニアファランクスとモンゴル騎兵だと
モンゴル騎兵に部がありそうだ。 騎馬というものがアレクサンドロスの時代には無い未来技術だから
公平な比較にはならんな 補助的な役割?
鉄床戦術も知らんのか
いい加減自分の無知認めろ >>34
紀元前5世紀のトゥキュディデスの記述からは、マケドニア王国の軍が騎兵主体で
あったことが窺え、馬術に優れてたとしている。
アレキサンダー3世の父王フィリッポス2世は、その伝統に加えて歩兵を重視し
マケドニア式ファランクスで覇を唱えたが、一方でオリンピックの競馬や
戦車競技に自慢の馬を送り込んでは優勝を攫い、ギリシア人を悔しがらせていた。
要するに、マケドニアは古くからお馬さんと親しんでいたお国柄である。 フィリッポスの名前の意味は馬を愛する人と言う意味だしな
つまりそんな名前の王様がいるほど騎馬文化が栄えた国だった 馬をアホみたいに大量生産できるモンゴル軍とモンゴルよりか遥かに大量生産できない歩兵が基本のアレク軍は勝ち目なし
モンゴル軍は重騎兵、軽騎兵、騎馬投擲兵の三段式だからのろますぎてハチの巣に一方的に虐殺されて終わる・・・
モンゴルに対応してもっと騎兵に比重を置いてもモンゴル騎兵は一人で5頭くらいの替え馬もってたくらいだからな・・・
アレクサンドロス3世は好きだけど時代が違いすぎるよ・・・ >>21
アレキサンダーは騎馬民族スキタイを破って心服させている。
スキタイの王「大王が命じたことならなんでもします! 許してヽ(;▽;)ノ」 >>38
数で圧倒的にまさるスキタイ軍をマケドニア軍は壊滅させてるから
チンギスハン時代のモンゴル軍だと相当厳しいだろうな
>モンゴルに対応してもっと騎兵に比重を置いてもモンゴル騎兵は一人で5頭くらいの替え馬もってたくらいだからな・
これは大半の国がやってる
日本でも替え馬を管理する手明という兵科があったぐらいだし >アレクサンドロス三世
過大評価も大概にせい!
アケメネス帝国が受け身にまわって次々に負けてとってかわっただけやんけ
領域は殆ど同じで1割ほど増えただけやがな ペルシャ帝国の版図はダレイオスまでの3代にわたっての領土だけどアレクはほぼ1代だからな
これが過大評価ならキュロス以下ほとんどのオリエントの帝国の創業者が過大評価という事になってしまう
>>42
だからさぁその大帝国が次々と負けて受け身に回らざる得なかったからすごいんだろ
しかも当時のマケドニアは日本の半分もないような田舎国家だぜ
新羅や高句麗みたいにホーム戦で小国が大帝国を追い返した例はあるが
アウェイ戦でここまで徹底的に勝ちを修めた例はほとんどない 当時のペルシャや支配下のエジプトは世界有数の文明圏だ
つまるところ
めぼしいところは征服したということだ だがアレクサンドロスの帝国を「世界帝国」というけど
それならむしろアケメネス帝国をこそ「世界帝国」にすべき >>1
「私は神だ」的な定番のやつも
やっぱりやっちゃったんでしょうかww >>23
正直、ギリシャ統一の方が
ペルシャ帝国の滅亡の
数倍難しい気がしますww 暑さに負けてインド征服をあきらめてるのは
マケドニアもモンゴルも同じ。 >>46
だからアケメネス朝ペルシアは史上初の世界帝国とされてるではないか >>44
帝国の創業者一族のほうが偉大に決まってるじゃん
アレックスさんは外人社長みたいなもんで勝手にやってきてただ乗っ取っただけ
しかもただアケメネス朝の版図をパクっただけw
本当にただ乗っ取るだけで部下と現地民まかせの無能社長w 後継者の指名に際してわかりにくい表現をして結果分裂してしまったもんな エジプト-インドの通商を築き海のシルクロードの原型を作ったプトレマイオス朝ないしは古代エジプト文化を潰さずにむしろ繁栄させのちにローマの繁栄にも寄与し
アレクサンドリア図書館を建設したプトレマイオス1世をのほうが有能だわな マケドニアは時期がよかったのもある気がする
アテナイ、スパルタ、テーバイなどギリシア諸国たちは内ゲバで潰し合い、ペルシアですら、しょっちゅう反乱、離反するエジプトに掛かりきりでかなり疲弊していた
一方でマケドニアはアテナイへの木材輸出などで少しずつ国力を蓄えていた
危うくイリュリアに滅ぼされかけたけど ペルシャとは?
古代にマケドニアに征服され
中世にアラブ人に征服され
トルコ人に征服され
モンゴル人に征服され
ロシアとイギリスに食い物にされたところである
中国なんかは
元も清も中国全土を征服するのに数十年かかったし
遼も金も夏も結局中国全土を征服できなかった
中国と比較してもかなり弱体なところである >>52
>アレックスさんは外人社長みたいなもんで勝手にやってきてただ乗っ取っただけ
これはキュロスにしても同じじゃん
各属州内の行政、立法、徴税、兵権ぜーんぶ現地の有力者に丸投げってシステムやばすぎだろ
>>56
>アテナイ、スパルタ、テーバイなどギリシア諸国たちは内ゲバで潰し合い、
その内ゲバに裏で手を引いてたのがペルシャ何だが
ギリシャ統一した時点でペルシャに目をつけられるのは確定で向こうが攻めてくるのを待ち構えるか
こっちから打って出るかの二者択一しかなかった
>しょっちゅう反乱、離反するエジプトに掛かりきりでかなり疲弊していた
エジプトに限らずダレイオスの代からどの属州もずっーっと反乱起こし続けてるし
属州同士や属州内の覇権をめぐる争いも建国まもなくから状態化してたんだが
>>57
中国とか漢民族の統一王朝は秦、晋、宋、明だけで
それ以外はすべて征服王朝だろうに ペルシャの精鋭って既にグラニコス川の戦いで死んでたんじゃね? >>44
アウェイ戦が得意な方といえば
ハンニバルさんですね。
徹底的な勝利も納めたのになぁ
いまいちホーム戦が弱いのが玉に瑕です
他にはピサロさんとかコルテスさん
なんかも >>58
その征服王朝が征服するにのにも数十年、長いと百年以上かかっていて
現地の漢民族と同化しちゃったなんて例もある
ただで負けたりはしていない
日中戦争時でも清が明を平定にするのに40年以上かかったから
日本もそれぐらいかかるなんて言ってた人間いたし アレクサンドロス王への欧州人の過大評価は、アケメネスよりは
欧州人と文化的に近いからなのか、と思う。
宇宙開拓について、ソ連が先行していたにもかかわらずアメリカの業績を
やたらと持ち上げているように。 ディオゲネスが何で一国の王がわざわざ会いに行くほど持ち上げられているのか良く分からない。 ヨーロッパからインドまで攻め込めた人間が他にいない。
これは偉業視されても仕方がない。 >>69
>ヨーロッパからインドまで攻め込めた
イギリス >日中戦争時でも清が明を平定にするのに40年以上かかったから
ん? ナポレオンとアインシュタイもそうだけど謎の偉人コンプレックスに悩まされてるルサンチマンたちに目の敵にされてる代表格だよな
一代で歴史を大きく変える創業成し遂げたという点が共通してるのか
キュロスもやってることは似たようなものだし持ち上げられっぷりもアレクの比ではないのに何故かこちらは叩かれないのは不思議
>>47
アレクサンドロス自身は家臣は「王の友」というマケドニア的な君臣関係を保ちたかったようだけど
本人がどう思おうが君主の神格化はオリエントの常なのでペルシャ統治を維持したければそれは避けられなかったでしょう >>13
冒頓単于さんとかどうなんでしょう
とりあえず一代で世界帝国を築いたところなんかは似ている気がしますが 冒頓単于とか北アジアの遊牧民の頂点に立っただけで複数の文明圏を包括する世界帝国と言えるものは作れてない
粛清と内戦で疲弊しまくっていた漢ですら滅ぼせなかったしティムールやアッティラと比べても見劣りする >>72
アレキサンダーさん
確か「王の友」やめちゃったのが原因で
結構大事な人物をそうそうに粛清しちゃったんじゃなかったけか >>75
いちいちうるさいんだよネトウヨが
敗戦国ジャップランドの野蛮人が僕に意見するなよ インド遠征がとん挫した後に重臣一同を呼び寄せて王と家臣が建前上は「友人」であること確認する
儀礼をやって崩れかかった関係の再構築を図っている
ペルシャ統治を続ける限り何れは対立は避けられなかっただろうが粛清をやり終える前に結局本人が死んじゃったしな >>76
やっぱりクロンボだったせいで
粛清しちゃったんですか、、、
やってから反省しても遅いんですおよ ヘファスティオンが死んだのでアレクの計画は頓挫してしまった
アレクとヘファイスティオンはともにダレイオス3世とオクシュアルテスの娘らを
妻にしていたからローマとか地中海も征服した後に帝国を東西に分割して
双方をアレクとヘファイスティオンの子孫に継承させる計画だったのだろう >>74
漢を滅ぼすより敢えて劉邦を見逃してやって漢を存続させ
貢納させる道を選んだ冒頓単于はかなり頭も切れる人物だよ
単なる軍事力に長けたヒャッハー蛮族の王じゃない >>78
僕に完全論破されたのが悔しいからって必死になるなよ
ネトウヨのお前は無職だからいいけど僕は仕事があるからもう寝るんだよ >>74
ティムールさんもアッティラさんも
「敗北を知りたい」
とか言っちゃってたんだろうか、、、 >>80
見逃したのは閼氏だが
匈奴の支配人口は一郡にも満たないと言われるほど少数だったわけで漢と全面衝突できるほどの力はない
講和を選んだのは妥協だよ 名将スレでは歴山大王=A 冒頓=B アッティラはCかDだった希ガス
ま、こんなの独断と偏見主観入りまくりんぐだけどね アレクは無謀な突進で何度も死にかけてるからね。
割と運に助けられてる面が多い。 >>81
まぁおいら無職が仕事みたいなものなのでww
>>78
クレイトス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%B9
古代マケドニア王国の武将で、アレクサンドロス3世の友人、側近将校の一人である。
浅黒い肌をしていたため「黒のクレイトス」(希:Κλε?το? ο Μ?λα?)と称される。
古くは近衛隊長としてピリッポス2世に仕えていた。
(略)
しかし、上記のようないきさつでクレイトスとアレクサンドロスとの間にかねて緊張関係が生じていたため、
酒宴の席上でクレイトスは王と東方政策をめぐる口論をはじめ、酔った王はクレイトスの挑発的な言動に激怒して、彼を槍で刺し殺した。
その後酔いが醒めたアレクサンドロスは自分の行為に激しい衝撃を受け、三日三晩にわたって部屋にこもったまま慟哭し続けた。 >>85>>77
基本的に長生きできないタイプですよねぇ、、、
>>25>>17
という訳で早めに逝っちゃったおかげで
みんな夢が見れるんでしょうね アレクサンドロスは諸将兵の「もうこのへんでよかでしょう」という声で膨張行動を収めたが
もし死なずにずっと生き続けてたら、10年と待たずに周囲への進出を再開してたんだろうなー もし死なずにずっと生き続けてたら
↓
もしあのとき死なずに長生きしてたら 死の直前に地中海やアラビアとか今度は西方を征服する予定だったから
ローマやカルタゴは征服されたはず
チムールが明に遠征しようとしたけど死んだので中止されたのに似ている >遠征しようとしたけど死んだので中止された
そんな例は古今東西枚挙に暇が無い 信長が明に遠征しようとしたけど死んだので中止されたのに似ている ネルーがアレクのやったことなんて大したことない。
虐殺とかして残酷なヤツだとディスっているが、
ヨーロッパから来てインドを支配したイギリスと
イメージがかぶるからなんだろうな。
もっと残酷なジンギスカンにはあこがれを感じるとか
言ってるしw 群雄割拠していたオリエントを統一したキュロスとか
相争っていた遊牧民を統合して大勢力に育て上げた冒頓に比べて
アレクサンドロスはペルシャ乗っ取っただけにも見える。 やれるもんならテミストクレスでもエパミノンダスでも
やってみりゃ良かったんだよ。 過小評価すべきではない歴史の大偉人のひとりだが
神聖化、過大評価はやめよう
太古の昔から現代に続く欧米人の過剰な喧伝には冷静になったほうがいい アレクサンドル(露)とかアレハンドロ(西)とか、現在でも人気のある男子名だな 最終的に負けという結果しか残せなかったナポレオンなどとは
比較にならない巨大な実績。 100年帝国を目指してたんだろうか、アレクサンドロスさんは。 >>98
国民国家というあり方をヨーロッパ中に広めたんだが。 主語が落ちた。
ナポレオンは国民国家というあり方をヨーロッパ中に広めたんだが。 >>94
過小評価されているのはセレウコス1世
ディアドコイ版家康 >>86
毎日がお休みだと曜日の感覚が怪しくなってきますが
さすがに三日も引籠もりが続くとヤバイですね 定年退職して延長も終わって毎日が日曜日で5年目。
曜日は勿論、日付もあれっ?と思うことがある。
家の中では見渡せばわかるのだけど、車中では時刻はわかっても
日付曜日がわからない。 >>86
これ実は、酒乱&二日酔いのコンボで
後の人がなんとか少しでも良い話にもっていこうと
頑張った結果なんじゃなかろうか、、、
本人は全く覚えてなかったりとかww >>105
時の旅人ですねww
そのうち脳内で歴史改変が始まるかも、、、
>>97
ロシアでっていまいちなんで人気あるのかわからないです >>100>>79
おいら実はノープランだったんじゃないかと思ってますww
アリストテレスさん的に
はどうだったんじゃろうか
>>2>>6 >>93
アレクサンダーもチンギスもやってる事は大して変わんねー
アレクサンダーをより残酷にしたのがチンギスで
チンギスにギリシャ的な価値観が混ぜて少し大人しくなったのがアレクサンダーという程度で
なんで前者が英雄で後者は残忍な征服者になってるのか
大してかわんねーよ ベッソスを討った後はノープランだろう。
むしろ何某かのプランがあったらあんな遠征はできない。 チンギスが残虐だというのも大分後世のバイアスがかかってるだろ
むしろ歴代ハーンの中では相当寛大な部類
例えば遼の実質的な創始者の述律皇后とか粛清に次ぐ粛清を繰り返して最後は自分も粛清されるんだが
チンギスは功臣たちを子孫まで厚遇し打ち破った部族に対しても寛大に接している
タタール部は完全に抹殺したという伝承があるがチンギスの代の千人長にはもうタタル部出身のものが見えていて疑わしい
西夏の徹底虐殺をやったのも実際はオゴデイの代になってからでそれまでは皇帝含めて助命してる 西華はチンギスハンが征西している隙に反旗を翻すという
かなり悪質な裏切りをしており、残虐な報復を受けても当然だという面もある。 >>111
殺した数がチンギスははるかに多いのだろう
支配層の粛清と一般人の大量虐殺では規模が違うはず
王族貴族はそもそも何百万人もいない 殺した数でいうなら歴代皇帝の中でも相当少ない部類に入るが
屠城やりまくったわけでもないし
中国は動乱期のたびに虐殺で人口スカスカの地域が出来てそのたびに他所から人口を移動させる
「徙民政策」ってのをやってる
例えば今の河南省の人の原籍地をみると「洪洞県大槐樹」になっている人が多いんだがこの大槐樹ってのは
「燕王掃北」でスカスカになった土地への移民の集合場所になったところでこの人たちはその子孫にあたる
チンギスの治世に徙民が行われた記録がないことを見ると人口バランスが崩れるほどの虐殺は行われなかったのだろう 中国人の姓が異常なほど少ないってのでもわかるように
中国人自身、どれほど大規模な族滅を繰り返してきたことか >>115
数百もあるから特に少なくないけど?
そんなこと言ったら日本人の姓なんて物凄く少ないやん
源平藤橘の四姓でほとんど全て
あと天皇家の姓と言われてる「アメ」があるが >>114
チンギスの治世には農地をすぐに再建する必要がなくて放置していたのだろう 負けなかったら偉いんだ!すごいんだ!って子供かよ
ナポレンオンのほうが遥かに偉人だろう やっぱ負けても何度も立ち上がるってのが
ヒーローの条件みたいなところがあるので、、、
敗北を知らない英雄ってあんまり居ないような
負けないアレキサンダーさん
といえばこの人かなぁ
スカンデルベグ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%99%E3%82%B0 何にが偉い凄いなんて個人の尺度だろうに
負けず嫌いですぐムキになるお前のほうがよっぽど子供っぽいよ >>116
新撰姓氏録だけでも1182氏も記されてるんですけど >>109
おいらが最近思うのは
連れてきた人は英雄扱いで
連れていった人は征服者扱い
にされることが多い気がします アッティラやチンギスハンは野蛮人だし、
アレクサンドロスやコロンブスは英雄。
白人を打ち負かして征服したアジア人は野蛮人。
有色人種を征服した白人は英雄。
簡単なこと。 >>101
>国民国家というあり方
つまらないものを広めやがって、と奴の頭に蹴りを入れたくなるな モンゴルは野蛮。
耶律楚材がいなければ華北はめちゃくちゃになってた。 ヨーロッパに攻め込んだのはチンギスハンじゃないけどな
バトゥやオゴデイはヨーロッパ人からも褒められてたろ >>109
アレクサンドロスはヨーロッパを侵略する前に死んだけど
チンギス・ハンは後継者がヨーロッパを侵略した
バトゥの西征がなければチンギスはアジア人を懲らしめた英雄 >>100
冒頓単于の匈奴は600年以上続いた この点に関してはマケドニアの負け >>111
まぁチンギスハーンの残虐伝説は尾ひれがついてて
当のチンギス軍もその残虐話を敵の士気をくじく為に誇張して喧伝してたという節もあるみたいだけど
残虐だったのは確かだろう >>128
匈奴は呼韓邪単于以降は漢の属州と化していたので百数十年程度 レンテイ家の系図ってえらい長いな
頭漫から劉淵までは、時政から高時、尊氏から義昭、家康から慶喜より
ずっと長い 冒頓単于もまさか自分の子孫が劉邦の子孫と結びついてしかも劉姓を名乗って漢を再興するとは夢にも思わなかっただろうな >>135
はじめから兄弟なんじゃなかったんでしたっけ?
僕突然「兄より優れた弟なぞ存在しなう」って言いたくなりました これで、アッティラがもし冒頓のDNA持ってたら、冒頓はもしかしたらチンギスを超えてる英雄じゃまいか?? ササン朝に一時侵入したっぽいけどすぐに引き上げた。 >>138
チンギスを超えてる英雄→オゴタイ、フビライ いや、ティムールだろ。移動距離ではチンギスハン上回ってるんじゃね? バーブルも含めるとなかなかだな
インドに蒙古(ムガール)帝国を造っちゃったし >>146
マムルーク朝のスルタン、アーディル・キトブガー(在位1294−96)。
3年間とはいえ、アフリカにモンゴル人が統治する国があった。
当時のエジプトには結構な数のモンゴル出身者が流入していたらしい。 明治大帝「おれと比べるとゴミ。おれは洋食を食べて洋服を着た。世界最強の国家の皇帝」 天皇は日常会話では第一人称は何て言ってるんだろうか
まさか日常会話で「朕」は無いだろうし >>143
ジェクテルデミット・グラグチャさん
移動距離でいけば
おそらくこの人が最強のモンゴル人だと思います >>157
俺は憲法9条を愛する平和主義者なので誰とも戦ったことはない
はい次 >>128>>134>>138
実はバクトリア辺りでの落とし種が
後の冒頓単于さんみたいなネタはないのだろうか、、、 アレキサンダー大王のアニメが昔あったが
壮絶な展開だったな >>162
1はなかなかクリエイティブだと思いますね 大王は若死にも痛いが、池沼と赤子が後継ぎだったのが痛い。 アレクサンドロスの部下たちが王朝を作ったから300年王朝ともいえるね 冒頓の後継ぎ老上もとんでもない野蛮だったな ドクロ杯とか
でも王朝は超長期に亘って継続したね 当時の価値観では全然野蛮ではないし
なくなった親や討ち取った敵部族の勇者の霊を慰める行為として普遍的の遊牧民の間にある風習
中国でも古代は位牌を頭蓋骨で作っていたしな >>172
お申し出はありがたいのですが
おいら神認定されるほどの超ニートなので
お仕事は間に合っております
>>167
池沼は家系的なものですかねぇ >>171
>髑髏杯
信長のころの日本の価値観では野蛮? カニバリズムは今でもリアルにあるシナなら別に今でも野蛮じゃないだろ スキタイでは敵の首を王に差し出さないと恩賞を受け取れなかった。 日本では敵将の首級を主君に差し出さないと恩賞を受け取らなかった。 ところで山形に差首鍋っていう地名があるね
首級を差し出して鍋で煮た?w ギリシア人の猛者がアジアやエジプトに散ってしまったのが
ローマに後れを取った原因なのではないか? あんな糞長い槍なんかいつまでも振り回していたらいつかはやられる ディアドコイ諸国どうしの競争で槍がどんどん長くなってしまったけど
ローマ軍相手には昔のようなもっと短い槍で充分であり適していた
金と西夏と南宋も互いに競って甲冑が過剰に重装備になってしまった
モンゴル軍相手には昔の甲冑の方が適していた そりゃいくらマッチョマンでも動きが鈍くなるよ、あんなに重い鎧纏っていたら マケドニアの人口のうちどれくらいが東方に移住したのかな? てか、安禄山がアレキサンダーに由来って眉唾物じゃないのかそれ? インドで止まらず東進を続ければ、遅くともBC310年には中国に達する。
戦国七雄の中で調子が出始めていた秦の背後を衝くことになるだろう。
その兵を吸収して一気に中国統一。そして次なる目標は日本。 インドは暑すぎてマケドニア兵がギブアップしたんだろ。 >>201
デカンに残雪たっぷりあるからソルベットにして兵の士気回復
って展開だろうな >>181
漢字は後の時代の当て字です
もともとの由来は正確にはわかりませんが
本来は「笹の部」あたりの平凡な地名だったのだと思います 日本まで来てほしかった。
そうすればいまごろギリシャ人ハーフのかわいこちゃんがいっぱいだったはず。 タリム盆地を越えて中国征服に成功した勢力は存在しない アケメネス朝の大帝国がすごかったんじゃないか
マケドニアは北西のただの戦争が強いだけの蛮族
統一も保てず、国家システムも理解せず、分裂させて子孫も残さず消えていった
海の民と大差ないわ >>194
安禄山って元は康氏なんだからアレキサンダー由来になるわけねーだろw
安は母の再婚相手の養父からやぞ 明治大帝「俺が世界最高名君。否定すると在日認定するぞ」 >>206
チムールも残念すぎた 明と戦ってほしかったは アレクサンドロス軍が5m以上の長い槍衾で押し寄せてくる時
戦国時代の中国兵が持っている戈では短すぎて、
相手に刃が届く前に自分が串刺しになってしまう。
マケドニアン・ファランクスの敵ではないだろうな。 >>213
同時代の歩兵に標準的に装備されてる弩のいい的だろw >>214
弩は射程が案外短く、連射がきかない。
最初の矢がマケドニアの盾に刺さったあと、
二本目を装填しようとあたふたしているところで時間切れ。
串刺しパーティのはじまりはじまり。 >>215
弩って射角付けた射撃が苦手なだけで射程は200m程度あるんだが
マケドニアのファランクスの歩兵は200mを一気に埋められないし
騎兵は盾持ってないし、というか今でいう軽騎兵で投射武器で戦うから
弩に頗る相性悪いんだよ
紀元前の地中海世界の戦術って強力な投射武器のない前提で組み立てられてるから
実は弩と戦うと全然勝負にならない 弩砲(バリスタ)はフィリッポス2世が大量に保有していたらしいぞ >>213
アレクサンドロス軍vs冒頓単于軍が戦えば、後者の圧勝だろう >>217
それ設置式だからファランクスで使う代物ではないぞ? >地中海世界の戦術って強力な投射武器のない前提で組み立てられてる
弩レベルのもんならあったって話だろ。
金属盾を装備した銀盾隊もいたしな。 弩レベルの個人が片手で持って一斉射撃できるような武器はねーんだよ >>217
アレクサンドロスが対スキタイ戦で用いたりもしているけど
あれは遊軍の渡河を支援するという特殊な状況下のものであって
ヘレニズム期までのバリスタは基本的に攻囲用であり
野戦で歩兵密集隊形と一緒に運用されることは想定されていない
移動式バリスタが野戦にもタップリ投入されるのは後の帝政初期ローマから >>218
その頃の匈奴はまだ青銅器時代からだまず無理 普通、まずは鍛鉄から始まる鋳鉄が発明されるのが普通だが中国の場合は最初に武器に不向きな
もろい鋳鉄から始まり鍛鉄が普及するのはようやく前漢のことで春秋戦国のころは青銅器の武器が依然として使われていたからな
一方、ギリシャは前12世紀頃から浸炭技術による鋼の生成を行っており武器の強度が全然違うから
アレクサンドロス一派が雪崩れ込んできた場合、戦国諸覇は手も足も出なかったと思われる
匈奴は漠北に逃げて勢力を保てたかもしれんが 匈奴軍とマケドニア軍が戦ったら・・・負けドニアになってたんじゃまいか ローマ東征軍が襲来するとなるとバクトリア平定後となるのだが
この時点ではすでにスキタイ人やバクトリアの遊牧民を収容済みなので匈奴の騎兵戦術が通用することはまずないだろ
しかも中央アジアの遊牧民が早い時期に鉄器に移行したのに対して匈奴は依然として青銅器というのも致命的 なんだろね、量産できるから青銅も鉄も使ってたって話を
「ユーラシア東部は青銅器時代」と勘違いしてるのはさすがにちょっとアホ過ぎるというか
勉強し直して欲しいというか >紀元前の地中海世界の戦術って強力な投射武器のない前提
携帯式弩弓はポエニ戦争時代にローマ軍が使ってたそうだが・・・ >>228
使ってない
ローマ軍はバリスタ、スコルピウスなんかの据え付けで使う弩は使ってるが
個人の携帯出来るサイズには結局ならずに台座に据え付けて使ってた
車輪付けたりして移動させる努力はしてたけど弩のような携帯式にはできなかった
カエサルがアレシアの戦いなんかでも機械式弓を使ってるけど
あれも包囲線の上に構築した要塞に据え付けたものだった
ローマ軍は時々野戦で投石機、大型の弩を使ってるけど
歩兵が前線を白兵戦で支えてるところで補助軍が後ろから攻城兵器をぶち込んでるだけで
個人が持ってる携帯式の弩とは全く違うよ >>227
バカすぎるのはお前
誰もそんなこと言ってない
通常、どの文化圏も鍛鉄から生成が始まるのが普通だが中国では青銅器文化が高度に発展したため
先に加工が容易だが脆く武器に不向きな鋳鉄から始まったので中国では鉄製農具が普及した後も依然として武器は青銅製が使われていた
秦始皇帝陵から発掘されたクロムメッキ剣にしても青銅製だろ
このぐらい世界史の授業まじめに聞いていれば知っているレベルの話なんだがな >>229
じゃあ、wikiのバリスタの
第二次ポエニ戦争では、小型化して携帯できるようにした狙撃用武器である
スコルピウス (scorpius) (スコーピオン (scorpion))が使われた。
ってのを訂正してきて。 古代ギリシャでも紀元前5世紀には携帯式の弩が使われているけど
Gastraphetesとかいうやつ
一番右のな
http://img14.deviantart.net/bb60/i/2015/014/6/c/ranged_weapons_by_erkahoth-d8duo3g.jpg
ヨセフスのユダヤ戦記によるとガリラヤ戦ではローマ軍は石段を放つタイプのGastraphetesを保有しており
その轟音で城内は恐慌状態に陥ったという記述がある 中国で鉄製武器が普及し始めるのはようやく前漢末のことらしい
http://kkomori.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_b3f7.html
>第二章 鋼鉄剣が青銅剣に取って代わる時 代 〜秦・漢〜(1)
>秦でも製鉄技術の発達は著しかったが、生産に用いる工具は多く見られるようになったものの、鉄製の武器は極めて少なかった。
>真の軍の主力は依然として青銅製であり、青銅器の製造技術および品質は、最高水準に達していた。
>前漢前期は、青銅製の武具が、鋼鉄製武具に取って代わられた時代である。武帝の頃までは、まだそれほど多くの鉄製武具が使われてはいなかった。 >>230>>233
「青銅器も併用されてた」ということと「鉄器じゃなかった」ってのは本当に全然別の話よ?
ttp://kkomori.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2971.html
そのサイトの少し遡った記事でも戦国期の鉄器に触れてるから読んであげてね?
上でも書いた通り量産性に優れるから銅器も使われてるだけで
鉄器は戦国期からもう武器になってるからね
>>232
ガストラフェテスは大体2mくらいのサイズでな
別に持って運べないこたないけど一番下側にアーチ状の構造あるだろ?
そこが人間の胴体の幅くらいあって腰骨とか肋骨に押し当ててガッシャコン!と押し込んで使うもの
さらに射撃も手で持って行うのではなくあらかじめ支えの台座用意してそこにセットする
個人が簡単に使えるもんでもないし、そもそも数を大量に揃えられるもんでもない
さすがにそれを弩と同様の個人が手にもって使う武器扱いしたらおかしいんだな >>231
スコルピウスは本体の下に台座くっつけて
本来数人で運用するバリスタを個人でもかろうじて運用できるように小型化したんだけど
結局台座無しでは取り回しが効かない代物で個人が手にぶら下げて使うとかそういうもんじゃなくて
あくまでも「台座ごと移動が出来るだけ」の代物だよ
ttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/Balliste.jpg
こういう武器です 東地中海が鉄器時代に入ったのはヒッタイトの崩壊より少し前に
青銅の材料が混乱期で入手困難になったからという面もあるんだよな
青銅の質が鉄を上回ったからというわけではなく材料の枯渇という
もっと残念で、それでいて深刻な問題があったという いやいや青銅と鉄では強度が違うから武器としては圧倒的に鉄のほうが上だよ
ただし青銅のほうが加工しやすいうえさびにくいので剣、槍、矢じりが鉄製になった後もギリシャでは鎧兜脛当て小手盾は青銅製のものを使っていた >>234
そっちこそちゃんと読んでる?
鉄剣自体は戦国時代からあったけど普及したのは前漢も末期のこと
越王勾践剣や呉王夫差矛といった王侯クラスの持つ武器ですら青銅製だよ >紀元前の地中海世界の戦術って強力な投射武器のない前提
これが間違いなんじゃないの? >>239
間違いじゃないから飛び道具が強くなる中世には古代の歩兵戦術が廃れちゃうんだよ 歩兵戦術そのものが廃れていった
隊列組んでも相手の投射兵器で簡単に崩されたりして
ローマは騎兵が弓を装備するカタフラクトを主力とするようになってる
近世入ってのテルシオで歩兵戦術が復活するのは投射兵器を歩兵側が大量に並べるからだったりするし 単純に工業力が落ちてコストのかかる重装歩兵を数そろえなくなったのと
侵入してくるゲルマン騎兵をモグラたたき式に対処しないといけないので騎兵に転換しただけの話
そもそも投射武器戦術やその対処法は地中海世界のほうがよっぽど上だろ
ローマは密集陣形を組んでその背後から投射武器を放つ戦術でパルティアを何度も打ち破ってるし
ユダヤ戦争のときは敵要塞内から放たれた石弾を盾並べてはじいたりしてるが
漢が野戦で投射武器使ったとか史記や漢書読んでも出てこないし、つうか攻城戦でもあんまり使ってる描写ないんだが 霍去病の頃あたりの前漢か2世紀のほとんど遊牧民を配下に収めた魏あたりならローマといい勝負
するかもしれんな
というのもローマが多数の騎兵を保有した国との戦闘経験はほぼパルティアしかないが
パルティアは封建制度に近くて指揮系統の足並みがそろってないのに対して、その点、漢魏は中央集権的でかなり統率が取れた動きができると思うから
ただし重装歩兵による密集陣形は騎兵に対しては滅法強いから
そう簡単には勝てないだろうが >>242
それは騎兵の比重が大きくなったというだけで
歩兵戦術自体は根本的に変わってない
密集した隊列で組むシールドウォール戦術などは中世でもガンガン使われたし >>244
> というのもローマが多数の騎兵を保有した国との戦闘経験はほぼパルティアしかないが
2世紀ごろになるとローマはサルマタイ系ともかなりやりあってるから
パルティア以外でも大規模な騎兵軍相手の戦闘経験はけっこう豊富
ロクソラニ族やアラニ族と衝突して勝ってるし
マルコマンニ戦争後半はイアジュゲス族を徹底的に追いこんで降伏させてる >>243
コストの掛かる重騎兵を数揃えてるからそれ根本的に間違い
あと投射兵器そのもので言うと戦車に大きな弩搭載する戦術が周代には確立してて
投射兵器の扱いは古代中国と地中海では圧倒的に前者が優れてる
>>245
変わってるから歩兵は装備まで簡略化されてってるのよ >>247
> 変わってるから歩兵は装備まで簡略化されてってるのよ
それは単に騎兵に力をいれたぶん歩兵への予算がカットされただけ
あとそもそも後期ローマが騎兵に力を入れたのは
国力低下と小規模侵入の迎撃戦が激増したことによるもので
飛び道具うんぬんは関係ない
そして歩兵の戦術自体も変わっていない
後期ローマでも会戦において歩兵はちゃんと密集隊形とって戦ったし
もう一度言うが中世に入ってもシールドウォール戦術はずっと使用されてる
古代末期から中世にかけて変わったのは騎兵と歩兵のポジションであって
隊列組む「歩兵戦術」そのものは廃れていない 中世にかけて騎兵と投射兵の重要度が増して
「歩兵を主体とする戦術」の位置が「低下した」というのならわかる
まあそれでも歩兵が隊列組む戦術は継続されたし超密集する盾の壁も使用されたから
>>242の歩兵隊列を組む戦術自体が廃れたとするような発言は擁護しにくいが
それと言われているとおり末期ローマの騎兵転換は飛び道具関係ないし >>247
>投射兵器の扱いは古代中国と地中海では圧倒的に前者が優れてる
逆に中国にバリスタみたいな城壁破壊できるような大型弩の運用なんてあったけ? >>247
>あと投射兵器そのもので言うと戦車に大きな弩搭載する戦術が周代には確立してて
何を根拠にこんなこと書いてるんだろ
周礼にも史記にもそんな記述はないが
ようやく三国時代になって官渡の戦いで投石機らしきものがでてくるが 中世前期は盾壁マスターなヴァイキング系が猛威を振るって、
中世盛期でも歩兵がカイトシールドならべて隊列組んでた。
それ以降は防具発展によって盾使用は縮小したけど、
隊列を組むという点は継続する。
社会・戦争形態の変化によって変遷はしていったけど、
歩兵集団の密集戦術そのものは別に廃れてはいない >>252
まさに周礼に弩に関する記述があるんですが
「凡弩,夾、庚利攻守,唐、大利車戰、野戰。」 >紀元前の地中海世界の戦術って強力な投射武器のない前提
投石機も弩砲も存在してたんだから無い前提ってのはないな。
野戦に限ってならともかく。
大体弩があっても匈奴・鮮卑・モンゴルの騎馬軍団にボコられまくっていた訳だが・・・
マケドニアだけ弩に歯が立たないってのはおかしな話だよ。 何か勘違いしてないか?
凡そ弓の内で弩弓,夾弓、庚弓は攻守に適しており、唐弓は車戦と野戦に大いに便利であるって書いてあるんだけど
どこをどうよんだら
>戦車に大きな弩搭載する戦術
に読めるんだ だいたい中国の弩って天工開物に「凡そ弓矢で強いものは二百歩に達するが弩は最強の物でも五十歩にすぎない」(凡弓箭強者,二百餘歩,弩箭最強者,五十歩而止)
と書かれるほどで、あくまで未熟練兵向けの兵器で西洋のボウガンみたいにロングボウをもしのぐ射程と威力をもったものではないのだけれど >>258
それ火薬兵器登場もして弩微妙になった時代の本だからなぁ 弩は弓騎兵にはあまり有効ではなく歩兵に圧倒的有利という理論なのかな?
金属盾を装備したファランクスなら弩を防ぎつつ前進して敵陣に突っ込めそうだが・・・ >>260
マケドニアのファランクスは盾を胴体部分に装備して
サリッサという長槍を持って歩兵同士の衝突に強くなっているので
戦闘時に盾をかざすような防御は出来んけどね 盾は先頭のヤツが大きくて厚いの持てばいい気がするけどね。
サリッサは二列目以降が持てばいい。 >>256
騎馬遊牧民は短弓と長弓を持っててどちらも複合弓かつ馬上でも使えた
後者は射程が非常に長く移動しながらの長射程攻撃は弩を持った定点防御では勝てても
遊牧民の軍を粉砕するには至らないから勝てない
遊牧民の土地に大規模に補給して陣地を繋いで戦ってた前漢は大いに勝ってるけど
経費が掛かり過ぎて全くペイしなかったように
農耕民が相手側へ乗り込むのはハイリスクローリターン過ぎて策源地を攻撃できないのもある
>>257
唐弓は大きなもので野戦や車戦において活躍するサイズってこと
車戦の常識、御者と戟、弩でワンセット
戦車同士の車戦だけでなく戦車が歩兵と戦う野戦もあったんだから
そりゃ大きな唐弓が活躍するのは当然だわな >>254
アラブ軍との戦いで活躍したテマの農民歩兵だね
テマの農民兵が没落して貴族の小作人になった
貴族はカタフラクトを担当していたので
テマ制の崩壊で騎兵の数は増えていたけど
東ローマ軍は弱体化してトルコ軍に敗れてしまった ローマ兵の亀甲陣形に使ったような長方形の盾はいつ頃から
使われたのかな? >>266
長方形型は1世紀半ばごろから多く見られるようになるけど
「亀甲陣形に使ったような盾」としては
ずっとさかのぼってサムニウム戦争あたりから
この頃に従来のギリシャ式ファランクスからローマ式マニプルスに移行して
盾もギリシャ式の大きな円盾から楕円盾に切り替わることになる
そんでこの楕円盾が時代を経るにつれて
徐々に角の丸みが減って長方形になっていく 何でアレクサンドロスの話してるところでローマの盾の話してんだよw マケドニアの盾が円形でどうしても体の全部を覆いづらいから
長方形の盾のが優れているのではという話。 紀元前4世紀のタリム盆地は全く暗黒時代だな。
桜蘭とか相当昔から栄えてたようだけど。 匈奴と月氏と東胡は互角の戦力だったようだけど
匈奴は東胡や丁零を征服して戦力を増強した
月氏はサカ族を追い払い烏孫は月氏を追い払ったけど
月氏がサカ族を追い払わずに同盟したり支配したのならば
烏孫が月氏を追い払わずに同盟したり支配したのならば
月氏や烏孫は匈奴と互角の戦力になったはず 匈奴は始皇帝の派遣した蒙恬の秦軍30万に対して
匈奴だけでは勝ち目がないのでほぼ無抵抗で敗走した
東胡や丁零を征服して戦力を増強した匈奴は
40万の大軍で劉邦の漢軍32万を包囲出来た 月氏がサカを駆逐したのは匈奴にボコられて北に逃げてからでしょ。
匈奴と烏孫にボコられて玉突き状にサカを南に駆逐してる。 ハンニバルやカエサルが憧れた英雄の中の英雄ですねぇ インドを征服しておけば莫大な富がマケドニアのものに
なったのだが・・・ 負けドニアだってギリシャ人から見れば十分蛮族なんじゃね? >>278
アレクサンドロスのしてたことはハカマーニシュ帝国と周辺国の領土画定なんだからインド奥地行くわけねーだろ 本当は行くつもりだったけど兵士たちが「行くなら大王一人で行けば?」とか悪態つきはじめて
この場合ではやばいと思ったので行けなかっただけの話 兵士の不満って形で糊塗して誤魔化してるけど嘘だから
そんなんだったらアフガン方向へ軍事進出しねーよw >>284
クセノポーンのアナバスィスは原語で読んだけども
邦訳岩波文庫の「敵中横断6000キロ」ってゆー副題は蛇足だよね アフガンから北にソグディアナを征服してるんだが・・・ >>287
うんだからインド行きたいなら先にそっち行く意味はない
航路繋がってもいないのに ソグディアナにアケメネス朝の残党がいるのに
何で先にインドを目指すんだよw >>290
インドもアケメネス朝の領土だった時期があるからなぁ
むしろ旧領回復、領土画定のためって動機以外だと
インド行く意味ないのよ
インドへは行きたいから行ったってのは理由としておかしいのは君も分かってもらえたようで何より ただの順番の問題だろ。
アケメネス朝の領土は大体パキスタンまで。
アレクサンドロスはその先を征服しようとしたの。 >>292
ん?そういう意味だとアレクサンドロスの帝国もインドじゃなくてパキスタンまでだぞ
だからこそ国境画定の遠征だったと言ってるのに その先を征服しようとしたけど兵士が帰りたがったから、ってのはただの後世の欺瞞だって話してんのに 後世の欺瞞ってのは脳内ソースだろ?
何の書に書いてあるのか言ってみな。 >>295
脳内ソースじゃなくてインド行きたいのならどう考えてもあのルートじゃいかんのよ
そもそも地方で半独立状態だったサトラップをアケメネス朝残党認定してる時点で
どうかと思うよ? あーそうそう、どこそこに書いてあるとかどうかの話をしてないのよ
動機なんていくらでも誤魔化せる内心の問題じゃなくて
どこを占領したかどうか軍事的に見ていったらという話な まずアリアノスの東征記を読もうな。
インドに行きたいならどのルートを通るはずだと
言いたいのかも分からん。 先内陸部行くとか後背地切られたら終わるような挙動でインド行きたいとかないのよ 誰も行ったこともない何が住んでるかもわからない土地に行くとなったら
そりゃ士気もそがれるだろうよ 脳内戦記かよw
アレクの内心も適当に推測で言ってるだけだな。 インド行きたいんだったら実際に帰り道に使ったように
航路のための港を分捕ってくのがいいのよ
水軍がどうも整備されてるようには見えないから陸路でつないでもいいけど
アフガンまで行く必要は地勢上存在してない リック軍国のインド侵攻の際は
ほぼ必ずといっていいほど
カイバル峠を通るんですよねぇ
海沿いにやっちゃったのってポルトガル以前にもいたのかなぁ ソグディアナにベッソスの残党がいるんだからそれを
放置してインドに行く訳にいかないだろ。
ソグディアナを平定したらインドに行くにはアフガンを
必ず通る。
大体イラン東南部、パキスタン南部なんて水の補給の
厳しいルートを通る訳無い。
インド洋航路もアレクが帰還に際してネアルコスに調査
させたもんだからな。 帰路パキスタン南部を通ったら多数の兵士が死んだけどね。 >>303
あの辺の陸軍国ってユーラシアの中央部を制す遊牧騎馬民の国が大半だから
そりゃ海沿いとかは通らないだろうね
>>304
そう、つまりインド行きたいから行ったのではなく
ペルシア旧領回復運動がアレクサンドロスの軍事行動だったってこと
わかってもらえて何より 兵士がもうこれ以上進軍したくないというから引き返したんだが。
東征記のその辺の下りは読んだの? だからそこを疑えって話してるところで読んだ、ってアホかいな 何で兵士が帰りたがってるのに先に進みたい振りをする
必要があるんだ?
またはそういう話をでっち上げる必要があるんだよ?
意味が分からない。
根拠は脳内でそう思ったからってだけなんだろ? 今の時代だと、歴史上の凄い英雄の五指にはいるくらい?ってくらいの凄さだけど
当時だと、圧倒的覇業
歴史どころか神話にも例がない アキレウスもヘラクレスも超えた
ばかみたいな途方もない大成功って感じだったのだろうか >>309
王は勝って前に進みたかったけど兵士が帰りたがったから
って武名の誉れ高きアレクサンドロス大王には実に相応しい撤退理由だよね
実際がどうであれ王の意思がどうであれ帰ることができる >>311
だから何?
どこにアレクが本当は帰りたかった証拠があんの? 岩明のヒストリエのつっこみでもしてた方がマシだ・・・ ヤヴァナ人(ギリシア人)は結局はパータリプトラあたりまで
攻め込んだからな。 ボクトツがヒャッハーしてきたらぶつかっただろうけど、
時代が合わない。 セレウコス朝のアンティオコス3世は同時代だな
アンティオコス3世がローマに敗退してセレウコス朝が衰退したので
バクトリアやパルティアが再独立してイラン東部が混乱してしまい
サカ族と月氏はイラン東部へ民族移動した
セレウコス朝が健在ならば月氏は西へ逃げる事が出来ないので
月氏は漢と同盟して匈奴と戦うか匈奴に降伏して漢と戦ったはず
月氏の戦力が加わる事により匈奴と漢のいずれかが滅亡したかも セレウコス朝からの独立にあたっては、男色事件が関係しているぞ。
詳しくは、京都大学学術出版会・刊行の『西洋古典学事典』、並びに
『西洋古典学事典アプリ』を参照のこと。
よいな。 もし匈奴が滅亡してたらアッティラは出現しなかったのか 胸が熱いわ 冒頓はコーカソイド顔だったが、アッティラはドルジ顔
匈奴≠フン説をとる人はかく語る・・ アレクサンドロスの貨幣の肖像にはヘラクレスのと大王自身の肖像がある。
見た目はあんまり違わないけど。 そういやそうだな。
考えてみればアレキサンダー大王のインド遠征とふつう言っているが、
アレキサンダーは今でいうインドの領域には一歩も踏み込まないまま
Uターンしたんじゃね。 教科書の誤記修正
誤:アレクサンダー大王によるインド遠征
正:アレクサンダー大王によるパキスタン遠征 国家としてのインドじゃなくて地域としてのインドは現在のパキスタンを含む説 もともとインドってのはインダス川流域のことなんだから
何も問題はないが
つうかヴァルダナ朝あたりになってもインドつったらヴィンディヤ山脈までで
そっから南は化外の地扱い アーリア系のシンド人が移住したのでインダス河と呼ばれるようになったらしいね
黒海北岸のスキタイ系部族にシンドイ族がいたから元々シンド人もシンドイ族も
中央アジアに住んでいたけど分裂して南に移住したり西に移住したようだ アレクサンドロスは中国ならホンタイジに匹敵する英雄ではあるな
ヌルハチとフィリッポス、ドルゴンとペルディッカス、
崇禎帝とダレイオス、魏忠賢とパゴアス、袁崇カンとメムノン、
李自成とベッソス、呉三桂とオクシュアルテス、鄭成功とスピタメネス・・・と
人物配置もよく似ている
盤石な大帝国があっさり滅びるタイミングというのは、こういうパターンに嵌ったときなのだろう >>306
当時はマケドニアによるプロパガンダが凄かったからねえ
今もそれに騙されて、ダレイオスが軍を見捨てて逃げたということを信じてる奴大勢いるし
しかもアッリアノス自身、大王の偉業を喧伝せねばという使命感で書いたわけだし >>44
だからその領土の「枠」がダレイオス1世の踏襲なんだよ
中国の王朝交代するみたいなものだ
始皇帝のほうが契丹・北宋を滅ぼした金の皇帝より名高いのと同じ
>>199
インドはペルシア帝国時代の行政資料があったからハイペースで進めた
その先が未知の世界だったので偵察隊を送ろうとしたら部下もびびってて拒絶されたわけ(ブリアン)
だからそのままのペースで進めるはずもなく、そこからは遅々としたものになるはず
幸運によってガンジスまで征服し、さらにシーナにまで到達したとしても、
すでに昭王の時代であり、そこで白起将軍に迎撃されてオワリだな・・・ ペルシャのインド統治何て貢納品受け取るだけの羈縻政策どまりで行政史料なんてあるわけないし
東征時は勝手に擁立された太守が乱立してたわけだが
そもそもペルシャの一属州レベルの規模しかない、しかもまだ青銅器時代の秦が東征軍の相手になるわけないだろ
統一時の秦ですら真っ向から勝負するのは難しいレベル 東征当時インドにはサトラップがいたという記述がないぞ。
タクシレスやポロスとかいう原住民の王が統治していた。 世の男性がヒゲを伸ばさず剃って勤めに出るようになったのは、
アレキサンダー大王のお達しがその始まりという説がある。
それが事実であるならば、全世界の床屋さんとカミソリ製造業者は、
マケドニア方面に足を向けて寝られないであろう・・・ ピリッポス2世筆頭にマケドニア人はヒゲ伸ばすのが一般的だったので
それはねえよ
そもそもこれはギリシャに限らずだが古代は「労働は奴隷化の第一歩」(アリストテレス)と考えれていたので
自営業者はいても奴隷でない市民に雇用者や労働者階級は存在しない フィリッポスがヒゲを生やしてたのは関係なくね?
大王の時代の話だろ。 戦前まではみなヒゲはやしてたと思うんだが
アレキサンダー大王とか遡りすぎだろ 確かにセレウコス、プトレマイオスなんかは生やしてない。
セレウコス朝、プトレマイオス朝、バクトリアの王なんかも
生やしてない王がほとんど。 どや顔で勝ち誇ってるとこ悪いがセレウコス一世のコインは4種類ぐらいあって
晩年の頃に作られたものはヒゲはやしてるから年取ってからはやしてたのだろう
逆にプトレマイオス6世やプトレマイオス9世は若い時の姿を描いた硬貨や彫像だと
ヒゲはやしてるけど年取ってからは剃ってたらしい だから何なんだ?
マケドニア系の国家でヒゲを剃る王がほとんどだったことに何か反論があるの? だから何なんだ?
東条英機もスターリンもヒトラーもヒゲはやしてるし前世紀は男性はヒゲ生やすのが一般的だったろ
男性がヒゲを剃るのが一般的になったのはアレキサンダー大王のお達しがその始まりってのは無理あり過ぎ
反論ある? ソクラテスもプラトンもアリストテレスもペリクレスもテミストクレスも
ヒゲ生やしてるしな〜。
スルーしたきゃすればいいだけじゃね? 戦場でひげを掴まれたらあかん、というのが理由
得物が長槍なのに、そんな超接近戦まで考えんとあかんのか >>357
プルターク英雄伝も読まずに大王について語ろうなどと
そんな不敬で不埒な者は、よもやここには居るまいな? アンティゴノス朝には政略結婚とかでもテメノス朝(大王の家系)の血が
入ってないかも知れん・・・ アフガンとかパキスタンのギリシャ人は結局現地民に同化しちゃったのかな?
ローマ帝国時代に西に帰ったのか・・・ 樺太にも、アレクサンドロフスクって名前の場所があるんだな
北海道のすぐ北 アレキサンドロスに関して言えば、その征服事業より
都市を立てまくった建設事業の方が、はるかに注目に値する。
征服に使った多数の兵士については史書に記録されているが、
一方あれだけ沢山の都市を建てるに必要な大勢の
建設エンジニアはいったいどのポケットから取り出したのか? 普通に土地の住民を使役したんだろ。
設計だけはギリシャ人技師にやらせて。 たくさん造ったのはいいけど、今に残ってる都市はエジプトのアレキサンドリアだけなのかな
土地の選定眼がなかったんじゃないかな 大王によって、むりやり東方に移住させられたギリシャ人は多かったよ。
その境遇に満足なわけはなく、たびたび大規模な反乱を起こしている。 そりゃあ凄すぎや
現代に居たらとんでもない化け物だったろう エジプトの元ファラオであったネクタネボ2世がアレキサンダーの実父
とかいう噺がある。
アレキサンダーがアレキサンドリアをエジプトに建設して、彼の帝国の
首都としようとしたという噺もあり、あんがいエジプトに自身のルーツを
感じていたのかもしれない。 どうやってネクタネボの子がマケドニア王子になれたんだよw >>374
中世の昼メロ、アレキサンダー・ロマンス
エジプト人マジシャン(ファラオ亡命なう)とマケドニア王妃の失楽園
愛があるところに不可能はない >>376
アレクの名を冠したアレキサンドリアは首都ではないが、冒頓の名を冠したウランバートルは首都! 大王は何故かアモン神の息子を称してるんだよな。
大王像に見える二本角もアモンの象徴だったような・・・ アモン神の角は羊の角で、アンモナイトはアモン神の角みたいに
グルグル巻いてるからアモン+ナイト(石)ということで名づけられたそうだ。 征服した土地にアレキサンドリアを建てまくったらしいけど
今では世界中にアレキサンドリアの名の付く都市ができてるからな。
大王は地球そのものを支配したと考えるのが妥当。 マケドニアって当時どんな感じに見られてたの?田舎者って感じ? ところでなんでアレクサンドロス大王はこんなにも強かったの? 母ちゃんのほうがディアドコイ戦争で真っ先にやられた糞ザコナメクジなのでそれはない
端的に言うとオヤジがギリシャ統一の布石を作っていたのと、マケドニア式ファランクスというローマに破られるまで
最強の歩兵集団を確立して、それを損耗しないうちにくたばったため ペルシャ軍が雑魚だったからだよ。
鎌戦車とか全く旧時代の兵器をずっと使ってたからな。 アレクサンドロスって語源はアレクス+アンドロスだと思うんだが
その意味は何なんだろうか教えろください
アンドロスは男が何とかということだと想像がつくがアレクスが
わからない 大王はテュロスをボッコボコにして征服したけど、
背後からカルタゴに復讐として襲われることを
考えてなかったのかな? >>386
ペルシャ本国軍は鎧を着ない軽装備で身軽さと数を武器にしていたようだね
ベッソスのバクトリア軍とかは既に重装備のカタフラクトが主力だった
マザイオスのバビロニア軍やベッソスのバクトリア軍とか各サトラップの軍は
それぞれアレクのマケドニア軍に匹敵する兵数だったからその気さえあれば
ダレイオス3世が敗走してもマケドニア軍を撃破出来たみたい
5万以下の兵でダレイオス3世の大軍と対戦したアレクは
ロクサネとの結婚で兵力を増強して10万もの大軍でインドに攻め込んだとされる ホラズム・シャー朝のテキシュはテルケン・ハトンと結婚して
カンクリ族を戦力に加えて帝国建設をスタートさせたけど
これはアレクの真似をしてアレク以上に成功した例だよね おそらく
アケメネス朝のキュロス2世もマッサゲタイのトミュリスと結婚して
後のアレクのように戦力増強を図ったのだろうけど成功しなかった >>102
広めた結果、帝国が崩壊してるじゃねぇかよww >>396
バクトリアを制圧したのはインドを遠征を中止した後なんだが
もう時系列無茶苦茶 >>812
アケメネス朝とかほとんど遺物も当時のレリーフもほとんど残ってないのに
そんなにハッキリとわかるもんかね?
その絵は教科書でもおなじみのこれを参考にしてる様だけど、どこまで正確か
http://www.brianmefford.net/wp-content/uploads/2015/08/image12.jpg
アッリアノスやクルティウス、ユスティヌスを読むともっと重武装なんだよね
馬はひざ下まで覆う鎧をつけていた、とか、巨大で金ぴかに装飾された武具を持つペルシャ軍本隊の威容を見て怖気づくものが相次ぐとか
こっちのほうがイメージ的にはあってる
https://weaponsandwarfare.files.wordpress.com/2015/11/achaemenid_chariot.jpg >>396
大規模な騎兵軍団を率いる匈奴相手に戦ってるBC4世紀頃に確立されたのが
中原の弩兵戦術なもんで小規模な精鋭騎兵しか持ってないアレクサンドロスのお友達は話にならないんだよなぁ アレクサンドロスの長征についてもアナバシスみたいな
部下が語った記録が残ってたら面白かったのにね インドに行く前のソグディアナ(ウズベキスタン)辺りでもうこれ以上の遠征は嫌になってそう 匈奴に大規模な騎兵隊なんかいたか?
一郡県に過ぎない(数万人)という人口しかないのだから
精々1〜2万程度だろ つうかアケメネス朝とスキタイとソグディアナの騎馬民族を手にしてる時点で
匈奴とは比較にならんわ
中国も小国ばっかでおまけにまだ青銅器時代だろ 中国の騎兵化はよく趙の武霊王の胡服騎射がスタートだとされるけど
これは趙が秦に滅ぼされてしまったので途絶してしまった
劉邦が冒頓単于に敗北してから匈奴に対抗する為に
漢によって中国の騎兵の整備が再スタートした >>405
匈奴が李牧に敗けた時は十数万の損害出したりしてて
冒頓単于の草原統一以前から割ととんでもない動員力がある >>405
匈奴っていっても実質匈奴を中心とした遊牧民連合だから >>409
李牧に敗けた時に十数万の損害出してオルドスの住民が減ったので
冒頓単于は東胡や丁零などを征服して兵を補充したのだろう 冒頓軍の40万騎も、頼朝軍の20万騎や維盛軍の10万騎と同じで誇張が入ってると思うよ チンギス・ハンの全盛期モンゴルで12万9千だろ
それより千年以上前で十数万戸かムリムリ
東胡や丁零の全人口を合わせても10万も行かないと思う >>413
モンゴル帝国のモンゴル人は20倍弱くらいはいるよ
モンゴル周辺の遊牧で食ってける人口というのは大体200万人が頭打ちとされてるけど
この人口は紀元前くらいからその程度の人数はいるという推計もされてたり >>412
劉邦軍32万というのはどうなんだろうか >>414
匈奴が月氏を追い出したりキルギスがウイグルを追い出したりしたから
モンゴル周辺の人口は古代から増加しないで同じくらいの数らしいね
むしろ砂漠化とかで牧草地が減って古代よりも人口が減っていたかも 追い出すというか遊牧民は勝ったほうの部族に雪崩打って帰参して勝手にその民族の名前名乗り始める習慣があるから
羯なんて恐らく最初は月氏側の部族だったが後に匈奴、鮮卑、室韋、後には黄頭女直と名乗り始めたり
しょっちゅう帰属先変えてる 個人的にはスキタイの人口のほうが気になるな
アレクサンドロスはシルダリヤ川がアステスの残党と戦ってるけど父フィリッポスがアステスを破ったのはドナウ川流域
一体どんだけ支配領域広いんだよ
実際、スキタイの古墳群はトゥバのアルジャンから北カフカスまで広がってるし
ユーラシア最大の遊牧民だったことは間違いない スキタイ出自のコサックもいたんだろうね ザンギエフのように強いイメージw >>368
アフガンのカンダハールは?
現地語でアレキサンダーって意味らしいが。 >>416
その匈奴も鮮卑に追い出されたんだから、栄枯盛衰だな >>418
カスピ海周辺を中心にして黒海北岸経由でドナウ近傍ってのは
キプチャク汗国なんかの支配域見ればわかるように遊牧民の行動パターンの一つ 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
OMHWU アレクサンドロス大王の英雄譚も良いけど
個人的には十字軍の方がワクワク感が半端ない
異教徒ぶっ倒して聖地奪還とかこれ以上のロマンはないわ
聖十字架を発見した騎士たちの感動も一入だったろう とかいう坊主の釣りに騙されて
中東の野晒し死体に成り果てぬ syamuスレなのに全く本人の話題出てなくて悲しい 何が惜しいって、大王およびディアドコイの動向を詳報する同時代史料が散逸して
しまったことだ。我々はローマ時代の二次史料、三次史料でしかこの時代を知る事
ができない。いうまでもなく現実を歪曲・美化した創作だらけ
世界のどこかから、アレクサンドリア図書館跡からでもペラの王城跡からでも、
なんならインドやアフガンの古井戸の底からでもいい、マケドニア宮廷でやりとり
された書簡だの従軍書記の日記だの、エウメネスの自著だのネアルコスの航海日記
だの出てきてくれたらなあと夢想する
間違いなく、死海文書をこえる世界遺産だろう .┌、 r┐ r┐ヾ> (_ / ミ
!. | ヾ> || lニ コ 〈/`ヽ _ ミ
|. ! ノ| | レ! _| |. ,イ,.- 、 |  ̄_ ̄丁 '' ー┬‐- -ミ
ヽ二/ .ヽ/(___メ> /,|.l l ! ( ) ! (´ ) ! r‐
ry'〉 ,、 /イ,! `ー' _L =- --┴-ニ二ト、_'ー'
lニ', r三) (( |'J」-''_二 =-- ‐一 ー‐t‐-ト、 二__
|_| )) レ'/´ィ 、_________ ヾミ| l
_r┐ __ (( V ,、 F≡三r一tァー, | l:.:. .::
└l. レ',.-、ヽ )) |ノ^>、 '^ミ二´ | l:.:.:.::
ノ r' __,! | (( V/イソ .::ヽ、二_
└'!_| (_t_メ.> )) | / ,' _ .:.:.:.::i|,)ノ
r-、 (( |.〈、 、 _〉 `丶、 ;:ィil| ノ
,、二.._ )) | 笊yfミミミミヾ、 '!l|il|li!fj'
ーァ /. (( ヽ |i''r ''_二二ニミ;ヽ、 ,|l||il|l|,「゚|
ん、二フ )) |,l| V´ :::::::::;;/ トi|l|i|i|l|!Ll
,.-─-.、 (( |i! ゞ=-‐''" ,i||i|l|l|l|!|i{
/ /l .i^ヽヽ ` |il! ーォii|「、 ,,.,.ィi||l|i|l|l|i|l|シ'
. | .レ' / l.| ヽ二ニ,ヽ ,/i|l||livil|||l|i|l|l|lil|l|i|l|i|i|i|l|l|l|{'
. ヽ/ ノノ <ノ {l|!|l|i|l|i|l|i|||i|i|l|i|i|i|i|l|l|!|l|l!r'
r┐,.─-、 / 7 ヾ!||i|i||i|i|l||l||i|i|l|l|l|l||l|l!イ
||し'^) ,! ┌‐' 'ー┐ト、 ``,ヘi|l|i|l|i|l|l|i|r''`''"´ i ,
|_| l´r' 7 /_7 / 」__〉 (_~`^~"゙'ヾ ノ / ,
[_] [_] 〈_/ヽ_/ .ト─' ノ / /i オオィ!それってYO!マケドニアのネタじゃんか!アッアッアッアッ ヘファイスティオンとラブラブだったことしか興味ない 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
QCB ショーン・コネリー主演映画「王になろうとした男」は、アフガニスタン僻地の
「禁断の王国」で西欧人が王様にのし上がる話だが、その王国というのがじつは
アレクサンドロス大王の遠征に参加した兵士たちの子孫という設定
現にアフガニスタンやパキスタンには、周辺民族と経路が異なる、金髪碧眼で色白の
部族民が居る。本人たちもその気になってか、「子孫」と称したりしている
ただし、遺伝子学的には否定的な結果だとのこと。ペルシア人が流れ着いただけと
みられる。言語や宗教や風俗もそれを裏付けており、ギリシア的痕跡はないとのこと
ちょっと残念ではある。ギリシア兵の子孫が裏付けされたら、世紀の大発見なのに 【考古学】〈続報〉新発見の黒色花崗(かこう)岩でできた巨大な石棺棺、アレクサンドロス大王ではなかった エジプト[07/20]
http://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1532344944/ >>439
何を言いたいのかわからない。
少ない兵力でペルシアの大軍を撃破したんだったら、十分に英雄でいいじゃないか?
「英雄」に何を求めるのか?
英雄は完全無欠の道徳者でないといけないのか?
虐殺する男は英雄格下げになるのか?
アケメネス朝ペルシアの道路を利用したら、英雄失格になるのか?
死後に帝国が分裂したら、英雄じゃないと言うならば、
始皇帝も秀吉も小物だというのか?
死後に一層伝説化されたからって、過小評価することはないだろうに。
存命当時だって、十分に英雄視されてただろうに。
中央アジアのソグド人ですら、畏敬の念を持っていたぞ。 >>439
漢の武帝のクズっぷりに比べたら
立派過ぎて涙がでてくる素晴らしさっすねぇ、、、 >>436
これすんげえ眉唾なトンデモ説だけどな
そもそもダブスがこの説唱えた経緯からしてもうガバガバだし アケメネス朝を滅ぼしたあとは、征服王というより冒険王ないし探検王の観がある
個人的かつ学術的な、好奇心とか知的欲求の領域
同時代の従軍記録が散逸して、断片的な二次史料のみになってしまったのが惜しまれる 今朝のNHKニュースで、北マケドニアの国名問題を解説してた。 マケドニアの場所にあるんだからマケドニアを名乗っていいじゃないかねえ そんな名前の国と隣接していたら、ギリシャ人は怖くて夜も寝られません。 マケドニアじゃなくてイリュリアって名乗った方がいいだろ 一時期「スコピエ共和国」という案もあったようだが、流れたのか 歴史まつりでマケドニアン・ファランクスを再現したら
観光客を集められると思う いま住んでるのは、往古のマケドニアとは全く無関係の民族なんだろ。 フルーツサラダのマチェドニアが古代マケドニア由来だと知ってびっくり 1、朝鮮人
2、アレクサンドロス
3、キュロス
4、ハンニバル
訂正をお願いします アレクサンドロスより前にインドに来たというディオニュソスって誰なんや? アレクサンドロスとナンダ朝が
インドで戦ったらどっちが勝ったんだろうか? そうなの?
ポロスのほうが地方領主みたいなものと
思ったけど ポロス:大国ペルシャを滅ぼした大王の軍隊に善戦
ナンダ王:得体の知れない素浪人チャンドラグプタに倒される
差は明らかだな アレクスはキュロスのパクりみたいなもんで基本的にアケメネス朝の領土を踏襲しただけ
日本でいえば足利義教のパクりのように踏襲感あった家康みたいなもん
家康、アレクスもオリジナル感はない
過小評価してるわけではないけどな ファランクスがすごいって
じゃあ真ん中に兵置かず左右から
挟み撃ちで攻めればいいだろ
指揮官バカじゃねーの? パルメニオンが生きてれば
帝国分裂しなかっただろうな >>462
これは天才的です!!!
ぜったい世界制服できちゃいますね >>462
ファランクスがいくら方向転換が苦手といっても
はるか彼方から人が歩く速さでゆっくり近づくのだから
ぶつかるまでには相手も向きを変えて正対しているだろう
ヘタをうつと挟撃の片翼に相手の全部が向かってきて
挟撃を目論んだ側が数で不利なまま各個撃破されるかもしれない 左右には機動力のある部隊を配置して守ってたと思うけど。 騎馬隊が敵の背後に回ってファランクスと挟み撃ちだよ 大王が上手かったのはファランクスよりもむしろ騎馬隊の運用。 >>1
んん?クリエイティブだったはアリストテレース先生では。 >>463
パルメニオンさんの中の人は
そんなに凄かったんですかね?
もしかして年功的なやつですかね 死後パルメニオンが実権握っただろう
王傀儡にしてでもね 王を傀儡にしてもダメだったんで
ディアドこったんじゃ フィロタス処刑のままパルメニオンを生かし続けるのは危険 小柳ゆきの「あなたのキスを数えましょう」はアレクサンダー戦記で好きになった曲
だけど、あの歌詞やメロディと、アレクサンドロス大王の(脚色されまくりパラレル
ワールド風味ながら)殺戮粛清ヒャッハー覇道を、どう関連づけるのかと小一時間
まあたしかに、何気にギャップ萌えしすぎてハマっちゃうんだけどな 大王の墓はかなり荒らされてるだろう。
ムスリム征服の頃とかまで残ってたら特に。 カリグラだかが墓からマントとか取り出したりしてるからな ムスリム征服の頃まで残ってたらかえってのこりよさそう
キリスト教圏の異教徒の宗教施設の残り具合の悪さは酷いぞ
ローマ時代の神殿の遺構もほとんど中近東にしか残ってないし 墓所はやはりアレクサンドリアが最有力なのだろうか
他に可能性のある場所は? ローマ時代にアレクサンドリアにあるの確認されてるから
それ以外あり得ない
シドンで大王の棺が発見されたとかあったみたいだけど
関係ないとされたはず 英語版wikipediaによればかなり場所は絞り込まれている模様。
https://en.wikipedia.org/wiki/Tomb_of_Alexander_the_Great
クリスタルの棺なんて、見つかれば他と見間違えようもないだろう。 カラカラがギリシャのアンフィポリスに遺体を移した説もあるのか
知らんかった 本当に蜂蜜漬けのままだったら辛追のミイラのような生けるが如き状態で発見される可能性も 去年見つかった棺みたいに、液状化した死体だったらぞっとしないな アレクサンドロスが長生きしてたらバビロンは都としてもっと繁栄してただろうな 東征に出かけたのが父親のフィリッポス二世だったらどうなってたかな? >>492
長生きしてたらアレクサンドロスもオピスに遷都したのでは
その場合セレウキアじゃなくてアレクサンドリアになるだろうけど >>493
東征に出かけたのが父親のフィリッポス二世だったら
ペルシャ帝国全土を征服しなかったかもしれない
ユーフラテス河以西を征服する事で満足して
ダレイオス三世と講和したかもしれない
フィリッポス二世はマケドニア本国を守る為に
東ばかりでなく西も攻めただろうからローマや
カルタゴとも戦ったはず フィリッポス二世はマケドニア本国を守る為に
東ばかりでなく西も攻めただろうからケルトや
ローマとも戦ったはず >>493
とうちゃんは戦勘があんまよくない気がするんで
途中でうっかり死んじゃうんじゃないですかね
きっちり準備して戦うイメージですが フィリッポス二世はメムノン達ギリシャ人傭兵の投降を認めたかもしれない
アレクサンドロスはメムノン達を許さなかったので戦いが長引いた もしメムノンが病死しなかったら
アレクサンドロスはペルシャ征服に失敗したかも ギリシアの神よりエジプトのアモンを重要視してたんかな? そんなことはない
郷に入っては郷に従え、やで
エジプトの土着民にゼウスとか言っても有り難みがないだろうからね >>506
実の父親はエジプトのファラオだからね。 グレコ・バクトリアって地図で見ると意外と版図が広い。
このままギリシャ人の国が現代まで存在し続けれてれば
いろいろと面白かったのに。
https://livedoor.blogimg.jp/mysteryhunter/imgs/d/1/d1ac4b8e.jpg 今のギリシャ人はトルコ人だよ
中国人が匈奴なように >>511
版図が広いと言うがそこ、オアシス都市みたいなの結構含んでるからなぁ
実態は都市が交易路で繋がった都市国家の集合体で
その周囲を領域国家として表示しちゃいけない代物だろう
点と線で表現すべきものだよ エジプト王に即位するためにエジプトの神殿で臭い芝居やったらしい >>515
そんな事を言えば古代国家はたいてい点と線だがw 現在の〇〇スタンがあるあたりは紀元前から
カレーズとよばれる長大な地下水路が作られているから
乾燥地帯=農業ができず人が住めない無人地帯
というわけではないんだよな >>518
たしかカナートのおかげで
ちょうど点と線になるんじゃなかったんでしたっけかw
地底の勾配と地上の勾配はまた別モノなんかな
マニアのタモさんに調査していただきたいところ 1月21日火曜 午後8時30分〜 午後9時00分
カルチャーラジオ 歴史再発見「『移民』で読み解く世界史」(3)
https://www4.nhk.or.jp/P1927/x/2020-01-21/06/68804/3652973/
この放送で、古代ギリシア文明(ヘレニズム文明)は独立した文明ではなく、
オリエント文明の辺境の支文明だと。
そしてアレクサンドロス王の業績はアケメネス帝国に上乗りしたもの、
アケメネス帝国があったからこそのものでそんなに持ち上げるほどのもの
ではない、とw >>517
当然そんなもんでしょ
今の領域国家と古代国家は全く様相が違うってことはちゃんと表示しないとダメでしょ 普通にサトラップ管区が作られてるんだから
まるっきり点と線ではないだろ >>523
ふウム
そうするとサトラップ管区の
管区線は何で決まってたんでしょうかね?
川と まるっきり点と線だぞ
トラキアとオドリュサイ王国とかどこで分かれているか曖昧だったしな
大体徴税からして都市や部族単位だし プトレマイオス地理書を見ると何が境界になってるかは分かる 途中で書き込んじゃいましたが
見えちゃいましたか
そうですか、、、 >>1
一代やったのは、そりゃ凄いけど、東はインドに接し、南はエジプト・アラビア、西はアナトリア全域にエーゲエイに至る
とかいう国は、アケメネス朝ペルシャで先に実現してたしなあ ま、アケメネス領を1〜2割ほど増やしただけだからな >>529
増えてるか?
ペルシャ湾南岸やスーダン方面は縮小しているし、トランスオクシアナとかは丸々失ってるし。
バルカン半島のギリシャ人領域が殆ど手中に入った分はあっても、大幅縮小だろ ホラズムはペルシャから独立していた
エジプトはアレクが攻めてくる直前に
ペルシャが再征服したばかりだった アレキサンダー大王率いるマケドニアが東方でヒャッハーしてた頃、
ローマって何やってたの?
アレキサンダーはイタリア半島やイベリア半島には興味無かったのか? >>534
イタリア半島統一を前にしてピュロス王と戦ってた >>534
ローマ等地中海西側 = クソ田舎
ペルシャ = 怖い敵国にして豊かなエジプト・バビロニアも支配する文明先進地域 ローマもマケドニアに使者送ってヘイコラしてたんだろ なお最終的にはローマによって統一される模様
自慢のファランクスもレギオン相手に大敗 西側でもカルタゴあたりはアレク大王征服予定にしてなかったっけ? まだ古代だからね、地面なんてそんなに欲しくないのよ。
地面があっても人が足らなくて資源として活用できない時分だから。
人そのものを収奪してくるのが古代だよ 封建制の発想もそれだな
アホな制度だなと思ってたけど当初は土地と労働力の交換が釣り合う時代で自然なことだったのか 農業も収奪的農業だったから、一か所に縛られるより
機動力や軍事力や情報が大切だったろう。 >>528
ダレイオス一世=秀吉←本当に凄い
アレキサンダー三世=家康←棚ボタ
当時のイランは内ゲバが酷いから
アレクは運が良かったな
中東一の強国イランは身内に敵が多かった! アルタクセルクセス三世=秀吉
アレキサンダー三世=家康 今のイランにもギリシア人の血を引く民がいたりすんのかな? >>550
紀元前にあれだけ攻め込んできてだから、全員に行き渡ってるだろ。 インド仏教もヘレニズムの影響をうけて絵画や像が作られるようになった
ギリシャの神のパチモン >>550
アフガニスタン国境に近いパキスタンの山岳部に金髪碧眼人種がいて、古代ギリシア
の子孫とかいう噂が立ち、当人たちもその気になったが言語学的には否定されている
むろん遺伝子的には、当時のギリシア兵がズコバコはめまくって現地女性に産ませた
子供が瞬間風速的に一定数発生していたのは間違いないが、彼らも現地文化に吸収
されてしまったらそこでオワコン。仮にギリシア兵が現地に土着しても、嫁とその
一族に吸収されたら終わり。コミュニティと文字記録の継続が無ければ意味がない セレコウス朝イランもプトレマイオス朝エジプトも、残っているのはヘレニズムの
美術遺跡だけ
ギリシア人は都市(基地)生活者だから、現地人が蜂起するとあっさり逃亡
ギリシア語話者の定住農民コミュニティが、飛び地を創ることに成功した例は無い >>555
言語と血統との組み合わせなんて簡単に入れ替わるよ 凄いけど俺の方が凄い 後々まで生き延びられた方が凄い アレクは病気とか怪我で何度も死にかけてるんだよね
最後は毒殺されたとも言われているけど >>555
>むろん遺伝子的には、当時のギリシア兵がズコバコはめまくって現地女性に産ませた
>子供が瞬間風速的に一定数発生していたのは間違いないが、
また憶測で適当ぶっこいてる奴が出てきたな
アレクサンドロス大王がギリシャ人に現地人の妻を娶るように奨励したがギリシャ人の反対にあい実際に結婚したのは2万人
しかもこの2万人は大王の死後に故郷に帰還している 正規の婚姻による出生ですら近代以前はかなりの割合で間引きされるというのに強姦による子供とかまともに養育されるわけないだろ
例外的にあったとしても人口動態に与える影響はごくごくごくごくごく一部 アレクサンドロスの子を殺したカッサンドロスが怖い
殺した当時は批判が出なかったんだろうか 現代でもライダイハンとかあるからな
2000~30000人と数は諸説あるらしいが ライダイハンも野村進が書いているけど多くはベトナム戦争以後に韓国人ビジネスマンと現地妻の間に生まれた子供ってのが実情だけどな
フィリピンのジャピーノと成り立ちは一緒
でこのジャピーノのほうは15万人はいる >>571
その主張するなら年齢調べれば一発じゃないですかね >>569
カッサンドロスはロクサネ母子を殺したけど
ロクサネもスタテイラ姉妹を殺した 誰しも先祖辿れば、強姦に行き当たる
両親とか先祖とか、美化されがちだけど、そこいらにいる奴と変わらない そもそも本当の父親が誰なのかは母親にしかわからない >>565
ペルシャに残ったセレウコスとかエジプトの王様になったプトレマイオスとかと子飼いの兵隊はは帰ってないよ 古代エジプトでは王族どうしの殺し合いなんてほぼ皆無に等しいが
プトレマイオス朝になったとたんに血で血を洗う様相を呈した
文化の違いなのか? >>578
18王朝、ツタンカーメンって大叔父(ケペルケペルウラー、アメンホテプ三世の妃の弟)暗殺簒奪されたんでしょ?
そのケペルケペルウラー王の指名した後継者に反旗を翻して、アメンホテプ三世の娘を娶っていた臣下のホルエヘブが簒奪。
それ以外にもしばしば王統譜から王名の削除とかやってる。そこで血なまぐさい事件があったんじゃないんかい? 当時は多神教だったしアレクサンドロスはエジプトの神話も普通に受け入れた形ですか? 極東で喩えると、拓跋の河汗とか契丹やモンゴルのカーンとかが漢土支配の便宜上中華皇帝号を称していたのと同じ構図か ピラミッドはやはり特別な存在だったはず
内部を調べると黄金がある可能性があるし探索をする気がなかったのか ピラミッドが造営されたのは古王朝期。ギゼのごっついのは第6王朝。
クフ王からクレオパトラ七世女王まで2500年、クレオパトラ七世女王から現代までが2100年。 少なくともプトレマイオス朝初期の諸王は、プトレマイオス三世もしくは四世の
時代にアレクサンドリアのセーマ(墓廟)にアレクサンドロス三世の遺骸とともに
合祀されたとされている デメニギスとかドンゴロスとかハマナスとかギリシャ語と思ってたよ。日本語なのね。 アレクサンドロスの征服領土は広大だけど
本当は点の支配で部分的な感じと考えていいですか? エジプトもバピロニアもペルシャも、まっとうに人の住んでるのは、城市だけ。
川とか街道とかの城市を結ぶネットワークを支配することが領域全体の支配になるので、
川や街道に添って城市を攻略していけば、全域が支配できる。 その農村だって小規模な都市であってそこから農地に出勤し耕作する。 >>597
基本、大陸では、農業って都市の産業なんだけれどねえ。
水と耕せる平地があるところで農業をやると同時に、人が集住し家屋・財産の防衛のために城壁や環濠を持つ都市が形成される。
農牧民は朝農具や家畜を伴って城市を出て農地牧草地へ出勤、夕方、収穫物や餌水をたらふく食べた家畜を伴って城市に帰ってくる。
余力があるときには、農地・牧草地の縄張まで城壁で囲もうとするよ。 城市だと城門があるだろ。
城門を通過する荷物に課税するんだよ。
農民の収穫した穀物も、商人が他都市から持って来たり持ち出そうとしたりする商品も、遊牧民が売りに来る家畜も、
城門を通るときに課税だ。
納税したくないから町の外に住むって?
収穫終わったところで早速山賊に襲われるわな。 テントで暮らして城市に関わり合いを持たなきゃあ、領主の庇護も無ければ、納税も無いわなあ。
街へ行って、羊やら干肉やら皮革やら乳脂やら売ったり、穀物やら茶やら道具やら買ったりしようとすると、
通門税やら関税やら移出税やら納める羽目に。 支配した新しい城市を守るのに守備兵を置くと
自軍の兵は減る
なぜアレクサンドロスは大軍を維持できたのか分かりません ペルシア人に支配を任せたら色々不都合が
あったようでほとんど粛清したよ そりゃ、勝手知ったる地元衆に統治なんかさせたら忽ち反乱するだろ。
抑圧されてた第二勢力第三勢力を支配層に組み入れるとか、別の占領地から連れてきた人に統治をやらせるとか、地元衆の中に不和を起こさせ支配に協力的な比較少数の一方だけを優遇するとか。 中東の地域は人口が少ないのでペルシ帝国の人口は600万人ぐらいですか? ヘロドトスによるとペルシャ戦争時、歩兵だけで170万いたらしいから
600万程度な訳無い ヘロドトスによれば
精鋭のペルシア人槍兵1千
精鋭のペルシア人騎兵1千
ペルシア人歩兵1万
ペルシア人騎兵1万
そしてその後ろを行軍する残余の雑軍を合わせて総勢170万としてある
2万2千のみが純ペルシア兵で、残りの99%は傭兵なのでは 帝国全土から集めたんだろ
しかし、イッソスの戦いとかだとせいぜい五六十万
とからしいからヘロドトスは誇張が過ぎるのかも知れん >>615
不死隊ってショッカーみたいなやつじゃろ? 戦闘部隊以外にも人足や補給線の警備部隊がいるのだろう。
ペルシャは広大な帝国だから帝国の維持には補給の確保が最重要だろうね。 不死隊は死んだら欠員を補充するだけで全然不死じゃない ガウガメラで
不死隊はちゃんと戦ったの?
そこらへんがわからん >>608
いたるところにギリシャ人街ができたイメージなのですが
元兵隊さんだったのでしょうか インドはそうでもなかったのでしょうか?
お金はかなりGETしてたと思いますが ベッソスがペルシア王を称したのってアケメネス家の出身だから? 結局アレクサンドロスはどこで戦争やめるべきだっったのか?フィリップスはどこまでやるつもりだったんだろう
1イッソスの戦いの後ダレイオスと和平結んで小アジア手に入れて終わる
2エジプトも征服
3ペルセポリス炎上させた後引き返す >>629
たぶん小アジアGETしたら
息子を専制君主にして
やっぱり同じ流れになるのでは 当時のペルシアの城の城壁は5Mぐらいの高さですか? ダレイオスの和平案のユーフラテス川の西の領土割譲って現在のシリアやエジプト含めて? ペルシャは政治中枢が移動式天幕で
各地を移動する方式なので
城ではなく都市を守るようになってたのでは 某所がアレなのでこっちにでもメモしておくか
いろいろ考察している人がいるわりには
あれだけはっきり示されてるのにレオンナトスの発言関連の件
誰一人触れてないんだな インドまでついて行った部下が凄いわ
カイバル峠のあたりで既に帰りたくなっていたはず エクバタナ征服したあとマケドニアに帰るべきだったその後の戦争は意味ない >>639
世界の果てまで制服する、少なくとも世界の果てを見届けるのが戦争(遠征)の目的だったはず。 当時のギリシャ人達はナイル河とインダス河が同じ河だと想像していた
だからアレクサンドロス大王はアレクサンドリアを目指して
インダス河の河口を目指したけどそこにアレクサンドリアはなかった
こうしてギリシャ人はナイル河とインダス河が違う事を確認した >>640
だからそれが無意味なんだよ国も征服した領土もほっといて兵士を消耗させてまでやる意味がない
まあ国のためじゃなく自分の名声のために行動してたらしいし本人は満足なんだろうな マケドニアにとってはパルメニオンの方がアレクよりも必要だった >>19
その逆で信長は武田征服時に富士山の周りを馬で早駆けするほど健康だったときいた事もあるけど……… >>199
アレクサンドロス3世があそこまで領土を広げられたのは、
>>338
が言ってる様にアケメネス朝ペルシアが行政資料を整えてたり、王の道と呼ばれるインフラを整えていたのが大きい
だから、中国はさすがに無理だと思うぞ >>646
やはり道路を作ると攻められやすいという欠点ができるんだね
ペルシア帝国が最先端すぎた >>646
その理屈だと各国で競って官道を作っていた戦国諸国も危ういな
それにアレクサンドロスはペルシャやスキタイやソグディアナを落として当時の中国では不可能な万単位の騎兵を
保有していたこと又当時の中国が青銅武器を使っていたのに対してマケドニア軍やペルシャ軍は鉄製武器を使っていたことから
アレクサンドロスの東征軍が雪崩れ込んできたら白起だろうが何だろうが誰も太刀打ちできなかっただろう 道路=攻められやすい は 古代に於いては間違っていないのでは
そもそも、広い道路の建設は兵站用 >>650
楚軍vs秦軍の大戦となった鉅鹿の戦いでは、秦軍の本陣の章邯から前線の王離の陣に食料を輸送する道路を作ったのたが、
項羽が黄河を渡って来てからは項羽がその道路を使う輸送軍団を襲うようになったので王離のもとに食料が届かなくなり形勢逆転して、秦軍は敗れてしまったゆだよな。 >>652
中国とイランの間は飛びバッタも越えられない >>649
戦国時代は車軸の幅が国ごとに異なってて官道は轍ができてて
他国の馬車が入り込んでも轍が邪魔で輸送に使えないので別に問題ない そもそもマケドニア軍は馬車から騎兵の時代にすでに移行しているのだから意味がない アイアンロードとか草原の道は一応あったけど
ペルシア帝国の道路よりも整備されてるかどうか アケメネス朝ペルシアに征服された新バビロニアやメディアはどのくらい道を整備してたんじゃろ ガウガメラでダレイオス3世は部下を見捨てて逃げたわけじゃなく、
御者が倒されたのを王が倒されたと見間違えた部下たちが総崩れになって退却したんだな
それどころか側近が橋を落として時間を稼ごうとしたのを、
それでは味方が逃げられなくなると言って止めたりしてる
アルタクセルクセスは小キュロスにずっと手酷くやられて、
戦場で瀕死でぐったりしてるうちに味方が奮闘して逆転したのに悲しい ダレイオス3世はマケドニア軍の強さをグラニコスで認識して
軍制改革とかもやってたんだよな
御者と見間違えられるくらい近衛と馴染んでなかったことといい
つくづく時間が足りなかった ダレイオス3世は元々アルメニアのサトラップだった
ペルシャ本国民は彼の事をよく知らなかったのだろう 野戦で無敗というと諸葛亮なんかもそうだったが、諸葛亮の目的は中原の奪取とせいぜい中華統一くらいなのに対して、アレキサンダーは世界征服だから発想のスケールが違う。 発想はペルシア帝国の征服だからスケールはダレイオス1世以内だぞ アレキサンダーはティルスを長期包囲して陥落させたあと、
南下しガザの城砦の攻撃にかかった。守将のバティスは勇戦したが
城は陥落し、アレキサンダーはバティスを生きたまま戦車に括り付けて
引きずり回して殺した。
アレキサンダー君はいったん頭に血がのぼるとやることがえげつない。
自己抑制が効かない未熟な部分が多分にあるよね。 インダス川付近で引き返さずあのまま東進していたらチャンドラグプタが統一する直前のマガダ国に勝てたのだろうか? むしろチャンドラグプタが己の野望のために
アレクサンドロス大王をインドに引き入れた
可能性があります 自明と見られてきたことが曖昧になった、と先に述べた。端的な例を挙げよう。前三二六年、インダス川を越えたアレクサンドロスは、ヒュファシス(現ベアス)川に到達したところで将兵の反乱に遭い、反転を決意する。あまりに有名な場面だが、反転はあらかじめ計画されていた可能性が高い。というのも、彼はすでにインダス川の支流で船隊を建造しており、反転後にそれを使ってインダス河口まで下ったのだから。しかも彼の遠征範囲はどこにおいてもペルシア帝国の領域を越えていない。ローマ時代の作家たちにとって、アレクサンドロスは飽くなき欲望に駆られ、世界の果てまで突き進む英雄でなければならなかった。反乱によって帰国を余儀なくされたという場面は、彼ら自身のイメージに合わせて創作されたと思われる。 ポロスは中部インドまで攻め込む力は無かったんかな? 仏像はギリシア文化の影響が大きいから仏教の話を最初からやるならアレクサンドロス大王は欠かせないでしょう ビッグコミック 2021年 4/25 号の「海帝」にイスカンダルの話が載ってた ズルカルナイン伝説のダレイオスとの会話がちょっとじわってる
弟よ!人々を治めるには〜略
ダレイオスが勝手にアレクサンドロス弟にしてるし
裏切られて暗殺されるのにおまゆう感が凄まじい >>564
大王の死因はマラリアのほかに西ナイル熱(ウェストナイル熱)という説がある。
ウィキペディアにも載っているが大王の死に先立って、死んだカラスが大王の
足元に落ちてきたという記述がプルターク英雄伝にあり、西ナイル熱は中間宿主の
カラスも多く殺すことがその根拠になっている。 >>652
モンゴルのクビライ皇帝が、お前はペルシャを攻めてこい、取った分だけ領地にしていいぞ
って、ハンバリク(北京)からフレグ公を遣わしてんじゃん 業務スーパーの「チョコレートクリームスプレッド」はマケドニア産 ダレイオス一世の焼き直しに過ぎないんだよねえ
アケメネス朝の領土と全然変わんないじゃん
政治無能のダレイオス一世だよこれじゃ アレクサンドロスの次はピュロスだな
あれも結構強かった
ハンニバルが褒めるぐらいなんだもん アは歴史書読んでて同性愛者だったって記述読んで衝撃的だったわ
昔はフツーだったんだな
プラトンもソクラテスも 古代ギリシア・ローマは、同性愛文化がフツーだった印象があるね
(関係ないかもしれんけど、映画「君の名前で僕を呼んで」は現代ギリシアにあって父親(両親)が息子の同性愛関係をむしろ奨励し
ラストには父親が息子に対し、実は父親自身も同性愛の感情を抱いたことがあると告白する、なかなか先進的な作品だったけど、
その父親は古代ギリシア・ローマの研究者か何かでありました)
あと、いい話ではないかもだけど、古代ギリシア・ローマは男尊女卑の傾向が強く、男が“男=優れた存在”に恋愛した印象で 【SPQR】 古代ローマを語ろう 58【ROMA】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1672806042/
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このスレの>377-378 に古代ギリシア・ローマ時代の男同士の同性愛についての話があり、個人的には説得力を感じた アレクサンドロス以降、ディアドコイ戦争について詳しく書かれた本って何かない? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています