ヒンドゥー文明・インド文化圏・インド人の歴史2 [無断転載禁止]©2ch.net
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ヒンドゥー文明やその文明の影響を強く受けた地域、デーヴァナーガリー文字を
元に文字を作った国の文化、社会、歴史、宗教や、世界のインド人街の歴史について語るスレです。
主な対象国・地域
インド、パキスタン、ネパール、ブータン、チベット、モンゴル、内蒙古、マレーシア、
バングラデシュ、ミャンマー、タイ、カンボジア、スリランカ、シンガポール、
インドネシア、フィリピン、トンガ、バンクーバー、トロント、香港、ロサンゼルス、
ニューヨーク、ロンドン、パリ、西葛西、東アフリカ、南アフリカなどです。 ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆議院と参議院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ 日本国憲法改正の国民投票を実施しましょう。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ インド文明史の初期に係る通説は、概ね、次のような感じです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99
遺憾ながら、上掲中には、バラモンないしカースト制の起源が出てこないのですが、
現在、インドのヒンドゥー教徒は、概ね次のように考えているようです。
リグヴェーダを生み出した(Rigvedic)人々は、インド亜大陸に、戦士達(warriors)としてでなく、
司祭的諸家族(priestly families)としてやってきた。
http://ejje.weblio.jp/content/Rigveda
彼らは亜大陸を、若干の歴史家達が我々をそう信じさせたいように剣の力によってではなく、
地域の諸王のお墨付きを得た庇護を獲得するために用いたところの、議論(debate)と
魔術研究(magical ritualism)における卓越した技量によって、勝ち取ったのだ。・・・
その彼らは、敵対的諸部族や対抗的諸派と接触するにつれて、<次第に、>一つの集団
としての自分達のアイデンティティ・・・人種的純粋性と諸家系・・を維持するためにカースト制
に訴えることとなったのだ。・・・このことは、・・・<彼らが生み出した>リグ=ヴェーダ全体の
中にカースト制への言及がない、という事実から明白だ。
http://www.hinduwebsite.com/hinduism/h_caste.asp
つまり、渡来民は、武力ではなく「知力」によって、亜大陸における最上位階層となったとし、
それがカースト制の起源であることを示唆しつつ、どうしてバラモンが、自分達より低い階層
との間に壁を設けることになったかについても簡単に説明されているわけですが、その説明を
補完するのがロバート・デソウィッツ(ROBERT S. DESOWITZ)の説です。
<渡来>人が経験したことのない感染症を原住民が保有・保菌している事態が出てきた。・・・
これらに対応するために<渡来>人が取った政策が<渡来>人とそれ以外の民族との
「隔離政策」「混血同居婚姻禁止政策」である。<当初>は「純血人」「混血人」「原住民」
程度の分類であった<が>、「混血<渡来>人」を混血度によって1〜2階層程度に分けた
ため、全体で3〜4の階層を設定した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88 しかし、そもそもどうして、武力ではなく「知力」なんぞによって、バラモンは亜大陸における
最上位階層に収まることができたのでしょうか? そのためには、まず、インド亜大陸原住民の
ドラヴィダ人がどういう人々であったかを押えておく必要があります。
インダス文明はドラヴィダ人によるものだと[いうのが有力説であり、現に、ドラヴィダ語の
分枝であるブラーフーイー語をしゃべる人々が、現在のインド(及びスリランカ)のドラヴィダ語
地区から遠く離れたパキスタンとアフガニスタンの一部に現存しているところ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%80%E8%AA%9E%E6%97%8F
インダス文明の都市の下水や排水システムは、今日のパキスタンとインドの多くの諸都市
よりも整備されていた、というほどその文明は高度であったというのに、
「被葬者間に際立った社会的格差が見られ<ず>、・・・他の古代文明<や後のインド文明>
とは異なり、[政治の中心であるはずの都市に住んでいたのは商工業者らしき者達ばかりで、]
戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡<も>見つかっていない」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9%E6%96%87%E6%98%8E
http://en.wikipedia.org/wiki/Indus_Valley_Civilization
という点が極めて注目されます。
縄文時代に生き写しですし、支那の江南文化にも似ていますね。ところが、縄文時代や
江南文化と違って、インダス文明/ドラヴィダ人がどうしてそうだったのかの、まともな説明を
目にしたことがありません。上掲の英語ウィキペディアは「インダス諸都市の巨大な・・・防護
諸壁が・・・人々を洪水群から守っただけでなく、軍事的諸紛争を思い留まらせた(dissuade)
という可能性が最も高い」としていますが、その部分に典拠が付いていませんし、そもそも、
全く説明になっていません。そこで、大胆な仮説を提示してみましょう。 インダス川流域は、春から秋まで猛烈な暑さです。
http://www.pakistan-travelguide.net/001/post_5.html
そのお隣の北部インド一帯の酷暑ぶりは、比較的よく知られているところであり、
http://www.tabi2ikitai.com/geography/j0101a/a01024.html
http://paraiso100.blog.shinobi.jp/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%B0%97%E5%80%99%E3%81%AF%EF%BC%9F/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%A3%E3%81%A6%E6%9A%91%E3%81%84%E3%81%AE%EF%BC%9F
暑いと外で激しい作業に従事したくない、というか従事できないのであって、年間の殆んど、
戦争などという激しい作業などやる気も起きない、ということだったのではないでしょうか。
農業は、想像するに、インダス川流域の豊富な水と肥沃な堆積土頼りの粗放農業で、
商工業者は、できるだけ室内に閉じこもっていた、と推測するわけです。(当時は空調が
無かったので、室内もうだるような暑さだったと思いますが、外とは比較になりません。)
戦争と言っても、理論上は、インダス文明内での戦争のほか、インダス文明以外との
戦争もありうるわけですが、それも無かったことを示唆しているのが、下掲の事実です。
インダス文明滅亡の原因<については、>・・・「アーリア人侵略説」をはじめとする
外部からの侵略説がまず滅亡の原因として唱えられ<てい>た<が、>最近では
紀元前2000年頃に地殻変動が起こって、インダス川の流路が移動したために
河川交通に決定的なダメージを与えたのではないかという説が有力になっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9%E6%96%87%E6%98%8E
つまり、インダス文明が衰弱してきて、餌食にされても不思議ではない時点に至っても、
なお、外敵は出現しなかったらしいというのです。 「同時代のエジプト及びメソポタミア両文明とは対照的に、インダス渓谷においては、
記念碑的な神殿群や宮殿群が全く欠如しているのだ。発掘された諸都市が示すところに
よれば、そのための必要不可欠な知識をその社会が有していたにもかかわらず・・。
これは、宗教的諸儀典が仮に存在していたとしても、それらが個人の家々、小神殿群、
ないしは屋外でしか概ね行われなかった、ということなのかもしれない。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Indus_Valley_Civilization
これは、日本の縄文時代にだって、環状列石のような、宗教施設としか考えられない
遺跡群が存在していることに照らせば、インダス文明には、(呪術的なものを含め)
宗教そのものが存在しなかった可能性を強く推認させるものである、と私は考えています。
2012年の調査によると、現在、無宗教者が大半を占める「国」は、中共、北朝鮮という信教の
自由のない国は別にすれば、チェコ、エストニア、香港、そして日本の4カ「国」しかありません。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/11570/20121219/news.htm
しかし、そういう「国」が存在しているという事実こそ重要であって、これは、大昔にだって、
宗教が必要でない条件さえ揃っておれば、無宗教の文明があっても不思議ではないことを
示しています。
そんなインダス文明の人々にとって、気候変動という見えない巨大な力が働いて、
(時間は相当かかったのでしょうが、)インダス渓谷が居住不適地になって行き、
一種のユートピアであったインダス渓谷から立ち去らざるをえなくなったことは、
どんなに大きな衝撃であったか、想像に難くありません。
そんなところへ、それほど時間を置かず、渡来人がインド亜大陸にやってきたのです。
渡来人が馬を駆使する戦車等、高度な武器をひっさげてインド亜大陸にやってきたことは、
下掲から間違いなさそうです。 「インドでは、紀元前二千年頃からアーリア人の侵入が始まったが、彼らはヴェーダと
総称される聖典群と、それにもとづく壮大な祭式のシステムを有していた。・・・国王の即位
儀礼として・・・駿馬が放たれ、一年間、領国内を自由に移動<させ>る。これを・・・軍が守り、
それと同時に祭場での祭式も断続的に行われる。最後には、放たれていた馬が供犠され、
新王に灌頂が与えられる。・・・<これは、インドにおいて、>馬が王権と結びついた動物で
あることをよく示す儀礼であるが、馬は戦車・・・の一部として、実際に王の進軍や戦闘の
場面で活躍した。」(森雅彦「インドの馬と伝馬」より)
http://mmori.w3.kanazawa-u.ac.jp/works/article_pdf/10_35indo_uma.pdf
さて、先住民はこの渡来人の「侵攻」と戦わなかったのではないか、とあえて想像したいのです。
先住民は、馬にも武器にも脅威を感じるどころか何の関心も示さず、その代わり、「ヴェーダと
総称される聖典群と、それにもとづく壮大な祭式のシステム」に目を輝かせた、と思うのです。
なぜか?それが、彼らにユートピアのようなインダス渓谷から離れなければならなくなった
理由を教えてくれるとともに、彼らがこのことが齎したフラストレーションと爾後のより惨めな
生活から解放される手段を提供してくれたから、と考えるわけです。
宗教観念の無かった先住民は、渡来民を、一種の科学者集団と受け止めた可能性がある。
「レヴィ=ストロースは、思考様式の比較という観点から、呪術<・・「宗教」と言い換えても
よかろう・・>をひとつの思考様式としてみなした。科学のような学術的・明確な概念によって
対象を分析するような思考方式に対して、そのような条件が揃っていない環境では、思考する
人は、とりあえず知っている記号・言葉・シンボルを組み立ててゆき、ものごとの理解を探る
ものであり、そのように探らざるを得ない、とした。そして、仮に前者(科学的な思考)を
「栽培種の思考」と呼ぶとすれば、後者は「野生の思考」と呼ぶことができる、とした。
このような思考方式は、いわゆる"未開社会"だけに見られるものでもなく、現代の先進国でも
日常的にはそのような思考方法を採っている<とも>指摘し<た。>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%AA%E8%A1%93 仮にそうであったとすれば、先住民は、渡来人の「侵攻」に対して抵抗しなかっただけでなく、
渡来人を、敬意をもって進んで支配者として受け入れた、としても不思議ではないでしょう。
渡来人の聖典群の中には、元から輪廻についての言及もあったに違いありません。
「輪廻(reincarnation)に関連する諸観念は、異なった諸地域で独立して生まれたかも
しれないし、文化的接触の結果として普及したのかもしれない。・・・若干の人々は、
プロト印欧宗教の中に輪廻信条が存在したということさえ示唆している。古代の欧州、
イラン、そしてインドの農業諸文化の中で、生誕、死、そして再生誕のライフサイクルが、
自然な農業サイクルのレプリカと認識されていた。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Reincarnation
そして、この輪廻信条を援用して、(渡来人と先住民が混血した新しい社会が創生されていった
ところの北インドにおいて、)前述したように、カースト制のはしりが生まれた、と見るわけです。
ただし、この新しい社会においては、渡来人が持ち込んだ観念と武器によって、渡来人系の
人々が主導する社会内戦争が多発することとなった、と考えられます。当然、社会内戦争の
担い手となった渡来人たる戦士達に対しては先住民側から軽蔑の眼差しが注がれたはずです。
そこで、渡来人側は、既に先住民側と混血が進行し始めていたところ、自分達を、戦争を担って
いなかった集団を相対的に貴い仕事たる科学(祭祀)に従事するバラモン、戦争を担っていた
集団を戦争や統治といった相対的に賤しい仕事に従事するクシャトリア、という二つに区分し、
クシャトリアはバラモンを奉ることにした、と想像したいのです。
更に、クシャトリアは、事実上彼らが各単位(各国)の権力を掌握していたにもかかわらず、
多くの場合、世襲制の国王にはならず、(それが先住民側由来なのか渡来人側由来なのかは
定かではありませんが、)サンガ・・部族民の代表達による集会で選出された首長が行政権を持つ、
一種の共和政を隠れ蓑にした統治に委ねた、と考えられます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC 更に、クシャトリアは、事実上彼らが各単位(各国)の権力を掌握していたにもかかわらず、
多くの場合、世襲制の国王にはならず、(それが先住民側由来なのか渡来人側由来なのかは
定かではありませんが、)サンガ・・部族民の代表達による集会で選出された首長が行政権を持つ、
一種の共和政を隠れ蓑にした統治に委ねた、と考えられます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC
そこに現れたのが釈迦(BC624〜463年生、BC544〜383死)です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
彼は、現在のインドとネパールの国境地帯の、このサンガ制の下にあった、小国シャーキャの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6%E6%97%8F
首長であった父の下に生まれたのですが、この父が渡来人なのか、渡来人だとしてアーリア人
系なのか、はたまた先住民なのか定かではないことからすると、既に混血していたと考えられる
ところです。ちなみにシャーキャは、釈迦出家後に、隣国のたる大国でやはりサンガ制下の
コーサラに攻め滅ぼされることになります。
この釈迦が悟りを開いて唱えたこと・・それが後に仏教になった・・は一体何だったのでしょうか。
詳しい方ならば、それが利己主義化以前の人間性への回帰であり、人間主義者になる方法論
であったことは、先刻ご承知のことでしょう。
問題は、枢軸の時代の世界の哲人達は、皆、基本的に人間主義への回帰を企図したにも
かかわらず、どうして、釈迦だけがそのための最も正しい方法論を発見できたのか、です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E8%BB%B8%E6%99%82%E4%BB%A3
それは、戦争、(被支配者の)隷属、そして飢餓といった、農業社会に付き物の苦難に苦しめ
られるようになってから、一番年月が短く、しかも、被支配者の隷属の度合いが相対的に低い
サンガ制がかなり普及していた、つまりは、人間主義社会の時代の記憶が消えておらず、
しかも、相対的に人間主義的な統治下にあった、古代インドに釈迦が生まれたからこそでしょう。 そして、釈迦の思想に耳を傾けた人々の側も、支配者、被支配者を問わず、それが真理である
ことを容易に察知できたはずであり、その思想が急速に広まったことは想像に難くありません。
その結果、何が起こったか? 釈迦の思想が普及した地域では、カースト制の原初形態は
弱められ、各社会の人間主義度は顕著に向上したはずです。
さて、釈迦の頃に、既にガンジス川下流域にマガダ国という国が存在していました。
そのマガダ国のナンダ朝を滅ぼしてマウリヤ朝を創建したのが、北西インドを拠点にした
ジャイナ教徒のチャンドラグプタ(Chandragupta。在位:BC317?〜298?年)でした。
カウティリヤが彼の軍師であり、このマキャヴェリストの補佐の下、チャンドラグプタは強権的な
勢力拡張と統治を行いました。「強権的な勢力拡張と統治」が可能であったのは、チャンドラグプタ
やカウティリヤの能力もさることながら、その対象となった人々の多くが「大人しい」仏教徒であった
からではないでしょうか。なお、チャンドラグプタの事績が比較的良く伝わっているのは、
当時の北西インドまで、ギリシャ系のセレウコス朝の支配が及んでおり、同朝からマウリヤ朝に
大使として派遣されたギリシャ人のメガステネスが記録を残しているからです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%8D%E3%82%B9
マウリヤ朝の二代目はチャンドラグプタの息子のビンドゥサーラ(Bindusara。BC293?〜268?年)
ですが、彼はアージーヴィカ教徒であったところ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A9
三代目となったのが、その息子のアショーカ(Ashoka。在位:BC268?〜232?年)でした。 「アショーカは即位後仏教に帰依し、仏教の教えを広めるためにヘレニズム諸国やスリランカに
使節を派遣した<が、>・・・彼の摩崖碑文などでダルマの内容として繰り返し伝えられるのは
不殺生(人間に限らない)と正しい人間関係であり、父母に従順であること、礼儀正しくあること、
バラモンやシャ<−マ>ンを尊敬し布施を怠らないこと、年長者を敬うこと、奴隷や貧民を正しく
扱うこと、常に他者の立場を配慮することなど<であ>る<ところ>、統治上の理由から辺境の
諸住民に対しては「ダルマ」の仏教色を前面に押し出さないように配慮がなされている。彼はダルマが
全ての宗教の教義と矛盾せず、1つの宗教の教義でもないことを勅令として表明して<いる。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
という次第ですが、「統治上の理由から」云々、と言ってはいけないのであって、アショーカは、
仏教が本来宗教でないことを正しく理解していた、ということだと思うのです。
しかし、その結果はインド亜大陸に大きな悲劇をもたらすことになります。
「アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があり、また実際に治世末期の
碑文などが発見されておらず、政治混乱が起こった事が推測される。・・・<そして、>
アショーカの死後、マウリヤ朝は分裂<する>」(ウィペディア上掲)ところ、その最大の原因は
アショーカの仏教に基づく平和志向/軍事軽視であった、というのが私の考えです。
しかも、それに留まらず、インド亜大陸において、アショーカがインド亜大陸全体に広めた
仏教の平和志向/軍事軽視の姿勢は、仏教と切り離された形でその後も「堅持」される事となり、
マウリア朝以後、インド亜大陸は、内生的な統一、ないし帝国形成を果たせぬまま、後に、
外来の、イスラム勢力やイギリスによる支配を受け続けることになるのです。 私はアショーカ後に、インド亜大陸において、復活強化されたカースト制、及びそれと不可分
の関係にあるヒンドゥー教が、バラモン教を換骨奪胎して生まれ、仏教に代わって大部分の
亜大陸住民の間に広まったのは、仏教では、打ち続く戦乱、就中、外来勢力による略奪的
侵攻や支配に抗して、彼らの生活の自律性を維持することができなかったからであり、
彼らは、ヒンドゥー教によって聖化されたカースト制に拠って自分達の生活の自律性を
カーストごとに維持する以外に抗する手段が無かったからだ、と思うのです。
なお、仏教が西方には伝播せず、東方にだけ伝播したのは、西方が畑作地域であったのに対し、
インド自体東半分は水田耕作地域であったところ、東方においては、東南アジアや日本列島の
ような水田耕作地域や、支那大陸のような南半分が水田耕作地域だったからだ、と私は最近
思うに至っています。稲作地域の人々は人間主義的なので、仏教を受け入れる基盤がある、
と言えそうだからです。 アショーカは若い頃は残酷アショーカと呼ばれて
人殺しの館などを作っていたそうな。 インドの人々は外国人との交流を嫌って
会っても塩で清める習慣があると本にあったが日本人と同じジャンって思った
基本、閉鎖的なんだね 「どうしてインダス文明は、人類を利己主義化させる農業文明だったのに、
人間主義的文明たりえたのか」という、かねてからの疑問への仮説的な答えを
思いついたので、これらについてまとめてみようと思います。
ヨガの日本語ウィキペディアには、次のような記述があります。
<ヨガは、>・・・インダス文明に、その遠い起源をもつ可能性が指摘されている。
同文明の都市遺跡のモヘンジョ・ダロからは、坐法を組み瞑想する神像や、
様々なポーズをとる陶器製の小さな像などが見つかっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC
ちなみに、ヨガの英語ウィキぺディアにも、
「ヨガの起源はヴェーダ期よりも前のインドの諸伝統にまで遡るとの推測がなされてきた」
http://en.wikipedia.org/wiki/Yoga
という記述があるところです。
そこで、私は、以下のように想像を膨らませてみました。
インダス文明(5,300年前〜3,300年前。最盛期は4,600年前〜3,900年前))
http://en.wikipedia.org/wiki/Indus_Valley_Civilization
の人々は、「坐法を組み瞑想」した、つまりは、念的瞑想(仏教的瞑想)・・サマタ瞑想
ないしヴィパッサナー瞑想+サマタ瞑想・・を実践したのであり、そのおかげで彼らは、
農業文明下での非人間主義化を免れていた、と見るわけです。
彼らは同時に、ヨガの原型であるところの、「様々なポーズをと」って体操・・柔軟体操や
ストレッチ・・もやっていた、とも見るわけです。
どうして、農業文明は数多あれども、(そもそも非人間主義化しないメカニズムを内包
していた日本文明は別にして、)インダス文明だけが、(しかも、長江文明等の稲作文明に
比べて相対的に非人間主義度の高い麦作(小麦/大麦作)文明であったというのに、)
念的瞑想を「発見」し、非人間主義化を免れることができたのでしょうか。 肝心なのはこれからです。インダス文明人はドラヴィダ人であったという有力説(上掲)に
拠ることとし、インド亜大陸の東方及び南方には狩猟採集生活を送っていた、同族の
ドラヴィダ人がいた、と想定するわけです。
どうして彼らが狩猟採集生活を送っていたかですが、
「小麦・・・は、温帯から亜寒帯にかけて栽培され」る作物ですし、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A0%E3%82%AE
「大麦<は>・・・寒冷と乾燥を好む」作物
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%83%A0%E3%82%AE
ですから、高温多湿のヒンドゥスターン大平原では当時、農業社会は形成されていなかった
と思われるからです。
(高温多湿地域に適した稲作は、約1万年前に長江流域で始まり、水田稲作も約8,000年前に
同流域で始まっていますが、朝鮮半島や日本への伝播すら約3,000年前であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C
インダス文明の頃にはインド亜大陸へは伝播していなかったのではないでしょうか。)
さて、私は狩猟採集社会の人々は人間主義的であったと考えているところ、それがゆえに、
インダス文明の人々は、この同族から攻撃を受けることがなかったと思われる上、インダス文明
の人々の間で、農業社会化に伴う非人間主義化傾向が現れる都度、人間主義を維持していた
同族との交流を通じ、彼らは、反省を余儀なくされ、一体自分達はどうなってしまったのか、
と沈思黙考する者が現れ、そのような背景の下で、念的瞑想が再人間主義化させてくれることを
「発見」した、と私は想像したのです。
インダス文明が滅んでからも、その人々は麦栽培技術を携えて、環境条件は悪いけれど、
ヒンドゥスターン大平原で、引き続き細々と麦作農業を営んだと想像できますし、やがて、
稲作技術も伝播し、麦作の技術改善もあり、現在のような米や小麦で、輪作を行う社会が
形成されていったと考えられます。 釈迦がスジャータという女性に供された乳粥は、米と乳が基本材料のよう
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF
http://ameblo.jp/winterorange/entry-10307557984.html
ですから、釈迦の時代に既に稲作が行われていたことは間違いなさそうです。
当然、瞑想や体操の習慣も維持されたことでしょう。
ところが、そこへアーリア人が渡来し、同時に、アーリア人相互の戦争も持ち込まれ、
ヒンドゥスターン大平原は、戦乱や暴力が横行する地へと様変わりします。
そのため、否応なしに、ドラヴィダ系の人々の間でも非人間主義化が進行します。
これに伴い、ここでも想像を逞しくすれば、瞑想や体操についても、その内容や意味が
変質して行ったと考えられるのです。すなわち、非人間主義化した社会においては
人間主義的であり続けることは社会的弱者の立場に甘んずることを意味することから、
念的瞑想は廃れ、形だけの瞑想に堕して行き、それが劣化した体操と合体し、超能力的な
ものを獲得できるといった触れ込みで、「生死の境を行き来するような激しい苦行」・・
人間主義化どころか、心身を弱らせる愚行・・を行うことで、虚勢を張るために用いられる
ようになった、と私は考えるに至っています。
その間接的根拠は、これも釈迦の事跡です。
「生死の境を行き来するような激しい苦行」こそ、出家後、6年間釈迦が行い、ついにその
無意味性を悟った営みだった(スジャータのウィキ上掲)ことを思い起こしてください。
「乳<粥>を食して・・・川に沐浴した・・・釈迦は心落ち着かせて近隣の森の大きな菩提樹
下に座し、・・・遂に・・・悟りを得・・・た」(同上)わけですが、要は釈迦は、この6年間、
色々試してみた結果、念的瞑想が良さそうだという感触を掴んだからこそ、休憩して心身
の健康を回復した後、本格的な念的瞑想を行ったのであり、その結果、彼は、悟ること、
すなわち、人間主義者に回帰することができた、ということだと思うのです。 【アニメ】ヒンズー教聖職者が「ドラゴンボール超」に激おこ 「我々の崇高な神が“悪役”にされている!削除しろ」 緊急声明発表★2
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1486824042/ トルコのイクター制に負けたけど
この頃のインドは各地の領主が土地を支配し西洋や日本と似た状況だったと思うが
トルコに攻められて破壊されて
西洋や日本のような時間をかけた中世的な発達ができなかったと考えていいんですか? >>25
ヒンズー教で良かった。イスラム教だったら集英社はやばかった。 紙のFTより。インドが、中共の向こうを張ってアフリカ諸国取り込み戦略を
展開していること、奨学金を出してアフリカ諸国の学生招致を図ってきていること、
しかし、昔から黒人差別が激しく、やってきた学生達が憤激していること、
が報じられていた。
マハトマ・ガンディー大学に留学している学生の話まで出て来て、申し訳ないが
笑っちゃったよ。だって、ガンディー自身がひでー黒人差別主義者だったもんな。 ここかぁ歴史に関しては
インドのネットではどんなことが語られてるんだろうね >>33
いくつか見た中では、「おまえらもインド人なら、これくらい知っとけ!」
的なノリの、愛国者っぽいのが多かったな。
インド人は歴史に疎くて、自国の歴史を知らんからねえ。 歴史に無関心なのがインド文化なんだから
「歴史を知っとけ」なんて言う人はインド文化を軽んじてる 何度生まれ変わっても同じカーストなんだから
歴史を勉強する意欲はわかないよ 生きている間の行いの善悪によって転生時のカーストは上下する(下がり続けると動物に落ちる)
階段を上っていってバラモンとなり、そこで功徳を積むと輪廻から解放されてアガリという仕組み >>37
そこらへんの輪廻転生の教義はどの地域でも同じなんですか? 輪廻から解放されるまで何度輪廻を繰り返してどのくらいの時間がかかるのか知らんけど
仏教で解脱するまでの気の遠くなるような長い修行期間もヒンドゥーの時間スケールを踏まえてるんだろうから
恐らく仏教の修行期間と同じようなものだろう
仏教の修行期間は五劫だそうで
修行がほとんど完成しかけてる弥勒菩薩があと56億7千万年で修行完成らしい
ヒンドゥーの時間スケールもそんなものなんだろう それくらい時間がかかる輪廻転生からの卒業を、
この人生で実現しましょうというのがお釈迦様の教え 親鸞は無条件で上がりに持って行ったな
たぶんあの世でキリスト教徒が最後の審判を待ってる待合室と、浄土教の浄土って同じ場所だと思うw 親鸞の浄土も、正確にいえば真仏土浄土と化身土浄土に分かれる。
化身土浄土のほうが、世間の一般人がイメージする「天国」に近い。
真仏土浄土は、光しかないような世界。 古代インドでは、誰もが輪廻転生を当然の前提として話をしていた。
インド人が「ここで」と言えば、それは「この世で」を意味した。
「ボクは今、ここで王様をやってます」とか、「私はここで乞食をやってます」とか。
そういう感じ。 インドの隣にあって、なにかと関係が深い中東とイスラム圏にとっても、
このインドの転生思想はよく知られていた。
輪廻転生について、キリスト教の教会は否定しているが、聖書にはとくにコメントがない。
コーランには、「輪廻転生は誤り」と明記されている。 イスラム教が登場する以前の中東には、仏教とキリスト教がもっと広がっていた インダス文明の地であるパキスタンがイスラム圏になってしまったのは、
ヒンドゥー文明圏にとっての痛恨事 古代地中海文明の地であるギリシアがキリスト教の本拠地になってしまったのも インダス文明がヒンドゥー文明の先祖なんて証明されてない インダス川流域とガンジス川流域は、同じヒンドスタニ人の国だったが、
イスラム圏とヒンドゥー圏に別れてしまった。
イスラム川ではアラビア文字を使い、アラビア語からの外来語が多いので、
今では別の言語になってしまった。 中国では、黄河が文明の発祥地とされてるが、長江でも掘れば掘るほど古い遺跡が出てくる。
インドも、インダス川が文明の発祥地とされてるが、
本当はガンジス川だって勝るとも劣らないほど歴史が長いはず。
ただし、古代のガンジス川流域が、移民の多い未開のフロンティアで、マガダ国か新興国だったのは確か。 インダス川や黄河のように、砂漠かそれに近いところを
流れている大河では、灌漑による人工的な農耕文明が発達する。
ガンジス川や長江は、周囲が高温多湿なので、そこまでする必要がない。 アケメネス朝、ササン朝のペルシア帝国やイスラム帝国、マケドニア帝国のようなインドの西方に勃興した帝国は多くが現在のパキスタン辺りまでが最大領域になるけど、なんで? 逆に、インドの王朝がどれだけ強大化したときでも、
版図はパキスタン、アフガニスタンあたりが限度。
それ以上にまで広がった例はない。 文明圏の境界線ってのは、そういうものなんでしょうな 西北から侵入してインド攻略に成功した勢力だって、いくつもある。
でも、ペルシャや中央アジアの領土と、インドの領土を、両方とも維持できたケースがない。
中国の場合は、唐とモンゴルが、中央アジアから中国に
またがる大帝国を実現したのだが、インドでは無理。 「ペルシャからインドにまたがる大帝国」は、歴史上にひとつしかない
イギリスだ イギリスを除いて、歴史上で最もその域に近づいたのはティムールだろう。
モンゴル帝国の西半分を回復して、さらにインドの首都デリーをも占領した。
だが、インドに長くとどまって支配体制を確立するのは無理だった。
インド亜大陸の入り口は、峻険な大山脈、洪水を起こす大河、広大な砂漠に湿地帯・・・
ものすごい距離にわたって、これでもかとばかりに自然の要害が続く。
交通の便が悪すぎるので、機動力を維持できない。 >>57 バクトリアのギリシャ人みたいに、イギリスもヒマラヤやニルギリの涼しいところに自国のお尋ね者や食い詰め者を入植させればよかったのにな
オーストラリアと似た使い道
今頃インドの山奥の霧の立ち込む森の奥深くに、英語を話す紅毛碧眼の民の村がいくつも存在したりして あの辺は涼しいどころじゃなく、冬は酷寒で人が住めないんじゃなかったか? 「インドと東南アジアは同じ文明圏」とよく言われるが、それは文化や貿易に限った話。
この両地域にまたがる政権ってのが、これまた英領インド帝国を除いて、過去に前例がない。
しいていえば、南インドからインドネシア、マレーシアにまたがる海洋帝国はあった
(10世紀のチョーラ朝)。 西北からインドに侵入するルートが「カイバル峠」しかないのはよく知られてるが、
東北から侵入するルートに至っては、事実上「ない」と言ってよい。
チベット高原やヒマラヤ山脈を軍隊を越えるのは、ほぼ不可能。
ビルマから海岸沿いに侵入するしかないが、熱帯雨林とガンジス川、
マングローブの湿地帯がジャマすぎて無理。
ここを強行突破してインドに侵入しようとした例としては、
しいていえば、第二次世界大戦中の日本軍のインパール作戦が挙げられる。
結果は、死者多数の惨敗に終わった。 北インドは歴史的には一度も統合されなかった南インドより、むしろ現在のパキスタンやアフガン南部の方と結びつきが強いんだよな
今でも会話なら大体通じるし カイバル峠は、アフガニスタンからパキスタンに入る唯一の通路。
「パキスタンからインド」じゃないところに注意 パキスタン(インダス川流域)と北インド(ガンジス川流域)は、
同じヒンドスタン平野の巨大な三日月地帯だ。
でも、インダス川の辺りは砂漠だけど、ガンジス川の辺りは高温多湿なので、気候が違いすぎて別世界。
アレクサンドロス大王も、兵士の士気が低下しすぎて
インド侵攻を断念したといわれている。 >>67
日本も湿気が凄いと言われるけど
インドのほうが凄いの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています