ヒンドゥー文明・インド文化圏・インド人の歴史2 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>686-687
日本会議のような人々に聞いてくれ 岸信介と佐藤栄作、安倍晋三と岸信夫
この人たちの兄弟関係のほうが、よほどややこしい 麻生太郎は、大久保利通・吉田茂の子孫
本人は炭鉱会社のオヤジだが、外国では「日本を代表する名家の血筋」として、なぜか一目置かれる
ネルー・ガンジー・ファミリーの権威もすごい 宗教やカーストを意識しない
西葛西の“リトル・インド”は2000年代以降に急激に増えたニューカマー(新参者)の集団であり、
しかも短期滞在のIT技術者が多いので出入りが激しい。その裏返しとして、宗教施設がない。
正確にいえば、ヒンドゥ寺院があるにはあるが、“リトル・インド”のための寺ではない。
ISKCON(International Society for Krishna Consciousness〈国際クリシュナ意識協会〉の略称)と呼ばれる、
1960年代半ばにインド人が米国で創立した宗教団体の寺。
「ハレー・クリシュナ」と唱え続けるのが特色の新興のヒンドゥ教で、ビートルズのジョージ・ハリスンが関わったことで知られる。
逆上陸する形で、今ではインドにも寺院を建てている。
日本で活動を始めたのは70年代だが、中野区から江戸川区の船堀駅そばに移ってきたのは6年ほど前である。
それまで日本人による活動が主だったが移転前後からインド人が関わるようになり、
いまでは寺の運営方針を決める7人のメンバーのうち4人がインド人だという。
ひとりに話を聞いたが、ムンバイ出身の彼は日本の有名なIT企業に勤務するIT技術者だった。
日曜の礼拝では日本人の信者たちが熱心に「ハレー・クリシュナ」を唱和するかたわらで、子供連れのインド人家族が静かに参拝している。
この寺では、日本人僧侶がインド人から「プージャ(お祈り)」を頼まれることが増えた。「ムンダン」と呼ばれる、子供の髪を切る儀式などだ。
西葛西周辺には僧侶がいないので、ISKCONの寺院にその役割が求められるようになっている。
インド研究者の神戸大学の澤宗則教授は、西葛西の新しいインド人コミュニティが神戸のインド人共同体と違う点は、
宗教やカースト・コミュニティの集団的なアイデンティティを育む装置がほとんどないことだと指摘している。
宗教施設がその典型だ。タトゥワ・インターナショナルスクール教師のカーラは、
東京のインド人学校で育つ子供は宗教やカーストをインドにいるときほど強く意識しなくなると語っていた。
インドで暮らせば、日々、自分が属する宗教やカーストを再確認させられる。
逆説的だが、東京では、「インド人」というナショナリティによって自己を確認する傾向が強くなる。
だから、「新しいインド人」が育つとカーラは考えている。 新たな共同体として
西葛西に「リアルなリトル・インド」を建設しようという動きがある。一般社団法人「リトルインド東京」は2年前に設立された。
ヨガ教室やカレーショップなどが立ち並ぶ「インドストリート」をつくるなどの目標を掲げるが、もっとも重要な課題がヒンドゥ寺院の建立だ。
リトルインド東京の発起人は江戸川インド人会会長のチャンドラーニと江戸川区議会議員の桝秀行。
桝は、これといって特色のない江戸川区をアピールする方法を思案していた際、
どんどん増えるインド人の存在に気づき、交流を深めるようになったという。
「寺院を建立する候補地は決めています。4億円程度と考えてはいるんですけど、建設費のめどはまだついてない」
IT技術者は出入りが激しく、長期のプロジェクトに巻き込むのは難しい。
担い手の中心は「オールドカマー」になってしまうが、最古参のチャンドラーニはそれでも「リアルなリトル・インド」が必要だと説く。
「日本でこれだけたくさんのインド人が同じ地域に住んだことはなかった。
ここはインド人のフロンティアですよ。わたしはインド人のためにファシリティ(施設)をつくりたい」
いずれ東京を離れるIT技術者と定住者とのあいだに温度差があるのは致し方ない。
興味深いのは、チャンドラーニが「シンド商人」の末裔だということである。 シンド州は現在はパキスタンに属する。州都はパキスタン最大の港湾都市カラチ。シンド州はかつてはインドだった。
1947年にパキスタンがインドから独立した際、パキスタンに編入された。
チャンドラーニ家はシンド州タッタの地主で、カラチを拠点に国際貿易を行っていた。シンド商人である。
チャンドラーニがカルカッタで生まれ育ったのは、イスラム教の国として建国されたパキスタンが独立する際、
両親が命からがらインドへ逃れてきたからだ。ヒンドゥ教徒が大量に難民化したのである。
シンド州には一度も行ったことはないが、喪った故郷へのチャンドラーニの思い入れは深い。
近代国家日本が開国した際、いち早く日本にやってきたのがシンド商人だった。
1880年代のことである。シンド商人は神戸に共同体を形成している。
チャンドラーニが来日する前、従兄が関西に住んでいたのもそのためだ。
UR住宅にインド人を送り込むことで“リトル・インド”に貢献している石川カマルも、じつは、シンド商人の一統だ。
祖父母の代にシンドからボンベイへ逃れた。母方の祖父の弟が今も神戸に住む。
多くのIT技術者を知るカマルは、「残念ながら、日本に興味をもつ人は少ないです」と明かす。
関心事は日本でどれだけ蓄えを増やせるか。「日本にも原因はあるよ」とカマルは控え目に付け加えた。
UR以外の物件ではインド人の入居を渋る家主は多いし、UR住宅でも「インド人の子供がうるさい」と隣人が苦情を寄せることが珍しくない。
よりよい報酬を求めて国際労働市場を渡り歩く技術者たちは、フェイスブックなどを介してつながる、いささかバーチャルな集団である。
ニューカマー(新参者)がオールドカマー(古株)に支えられながら、“リトル・インド”は大海に漂う小舟のように存在している。
「リアルなリトル・インド」を西葛西に建設する試みは一筋縄ではいきそうにないが、
そんなことに頓着せず、「新しいインド人」を育む学校で子供たちは学ぶ。
東京に生まれた「小さなインド」では、グローバリゼーションという濁流のただなかに共同体を創造する実験が今日も密やかに進められている。 インドは長い州名が多い、覚えきれない、ウッタルプラデシュ州ってどこらへん
>インド北部ウッタルプラデシュ州ムザファルナガル近郊で19日、旅客列車が脱線し、
>地元メディアによると、少なくとも23人が死亡、60人以上が負傷した。 ウッタル(北の)
プラデシュ(州)
ネパールの近く
Gのあたりがウッタルプラデシュ
パ A
キ B チベット
ス C D ネパ
タ E −ル★ブータン
ン F G H ★★★
I J KLバングラデシュ
M N
O
P
Q
RS
スリランカ
★は七姉妹州など >>691
別にややこしくはないだろう
昔は親戚から養子を取るなんて普通だったし
細川と近衛なんかもそうだろ 中央(マディヤ)プラデーシュってのはある(J)
意味は知らないが
アーンドラ・プラデーシュ(P)
アルナーチャル・プラデーシュ(★)
ヒマーチャル・プラデーシュ(B)
などがある ラメシュ・チャンドラ・マジュムダール
「1947年までにはガンジーの活動はすっかり尻窄みとなっていたというのに、
どうして英国は慌ただしくインドを去る必要があったのか?」
クレメント・アトリー
「いくつか有るが、最大の理由は、ボースの軍事活動により、英印軍のインド人兵士達の
英国に対する忠誠心が崩壊したからだ。」
ラメシュ・チャンドラ・マジュムダール
「英国がインドから去る決定を行うに当たって、ガンジーの影響はどれくらい有ったのか。」
クレメント・アトリー
「ほぼ無い。」 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 「くろんぼ共は、概して文明化されておらず、受刑者達は一層そうである。
連中は手に負えず、不潔で、ほとんど動物のように生きている。
くろんぼ達の生業は狩猟であり、妻を買うために必要な数の牛を集めるのが
彼等の唯一の大志であり、妻を買った後は怠惰と裸体のうちに人生を送る。」
「君はゴスペルを牛に教えようというのかね?
不可触賤民の幾ばくかは、その理解能力に於いて、牛より酷いのだよ。」
「不可触賤民制を廃止したとしても、それは、カースト内のヒンドゥー教徒が
元不可触賤民達と食事を共にしなければならない事を意味しない。」
─── マハトマ・ガンディー 「残虐超人の戦いは冬の太陽の光を同じである
それは照らしはするけれど
決して暖めはしない」
―――カレクック 解決済の質問
ムガル帝国時代の質問です。
なぜ東イスラーム世界では公用語がペルシア語になったのかを詳しく説明してくださる方お願いします。
具体的に言うと、
イラン人が行政官僚で、トルコ人が軍人
とか、
セルジューク朝が行政用語としてペルシア語使用とか、
モンゴル政権でペルシア語が広く使われたなど ベストアンサーに選ばれた回答
イスラーム誕生以前、ササン朝ペルシアは非常に高い文化を持っていました。ペルシアからみればアラブなど砂漠の野蛮人です。
征服当初こそアラブの勢いに呑み込まれたものの、時間がたてばペルシア文化の底力が出てきます。
ウマイヤ朝を打倒したアッバース革命の主力はイラン(ペルシア)人たちだったので、アッバース朝の時代からペルシア人が重用されます。もともとペルシア人には知識や教養の伝統があるので、文治官僚には最適だったわけです。
アラブ人はコーランこそアラビア語で読ませたものの、日常会話までアラビア語を押しつけてはいません。アラブ人が大挙して移住した北アフリカはアラビア語圏になりましたが、もともとペルシア人が多いイラン高原は一貫してペルシア語圏のままです。 それでもアッバース朝時代の政府公用語はアラビア語でしたが、帝国が衰えると傭兵としてイラン系ダイラム人や中央アジアのトルコ系遊牧民が活用され、ついには彼らが国を乗っとる。
ブワイフ朝やサーマーン朝はもともとペルシア人の傭兵隊長(ブワイフ)や地主貴族(サーマーン)が建てた国だから、わざわざアラビア語を使う必要はありません。
またトルコ系のガスナ朝やセルジュークにしても、官僚として使えるのはペルシア語を話すイランの知識人たちなので、公用語はペルシア語一択です。 こうして東方イスラーム世界の共通語はペルシア語となりました。
しかも、もともとペルシア語は「中東のフランス語」と言われる優雅で洗練された響きをもつ言語であり、ササン朝以来の文学の伝統もあります。
トルコ人やモンゴル人も多数のイラン人を支配するのにペルシア語は便利だし、ペルシア語の持つ高い文化性に魅了されていったのです。
かくてモンゴル帝国とその後継国家もペルシア語を公用語として採用します。 解決済の質問
ムガル帝国の公用語はペルシア語とウルドゥー語のどちらですか!? 公用語というのは政府内で使用されていた言葉ですか?それならペルシャ語です。
バーブルの時代はチャガタイトルコ語が使われていましたが、フマユーンやアクバルの時代からペルシャ人の影響が強くなり、ペルシャ語が使われるようになりました。
ちなみにアクバルの時代にフマユーンの妹によって書かれたフマユーン記はペルシャ語によるものです。 ウルドゥー語は政府公用語としてではなく民衆語としてシャージャハンもしくはオーラングゼーブの時代あたりからデリーなど北インドで使われはじめました。
ただし原型はもっと古かったという説もあります。
そして18世紀のはじめくらいから抒情詩などもウルドゥー語で書かれ始めました。
ムガル最後の皇帝バハドゥール=シャー2世はウルドゥー抒情詩の著名な詩人ですが、その時代も政府公用語はペルシャ語でした。 ペルシャ語は当時知識人の言葉としてとらえられており、今の英語のような感じで学ばれていました。
ムガル帝国の領土は広大で様々な言葉を話す民族がおり、彼らはペルシャ語という公用語により結ばれていました。
ウルドゥー語はあくまでも北インドの民衆語でした。 インドは、ペルシア語を公用語としていた国
あまりにもペルシアから受けた文化的影響が大きいため、それなしのインドを想像するのは不可能 イラン人が中華思想を持つのも、無理からぬところがある 20世紀でもムハンマド・イクバールも最初ペルシャ語で詩集出して、なかなかウルドゥー語で出そうとしなかっったしペルシャ語の権威は強かったんだろうな >>719
欧州だったら、似てるというほど似てる言語は無いでしょ >>722
だから、>>721で答えてるじゃないの?
日本語が苦手なのか? アスぺの子かな?
その似てない欧州語の中で強いて似てるものを挙げるとすればどれ?と
聞いてるんじゃないのか>>719は まあ、強いて言えば(ホントに強いて言えばだが)、
バルカン半島のスラブ系言語でしょうな。 [参考] 印欧語族の系統樹
http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/lib/indo-european_family_tree_by_fortson_small.png イラン人に言わせれば、「俺たちはドイツ人と同じアーリア系なのだ」ということになるわけだが、
実際にイラン人とドイツ人がどれだけ系統的に近いかっていったら疑問符
でも、ペルシア語とサンスクリット語は明らかに系統が同じ アーリアン学説
アーリアン学説(アーリアンがくせつ)、アーリア人種論 は、インド・ヨーロッパ語族の諸言語を使う全ての民族を、共通の祖先アーリア人から発生したものとする学説。
この場合、アーリア人という名前は拡大解釈される。
この拡大解釈された意味でのアーリア人をアーリア人種(アーリアじんしゅ)と呼ぶことがある。
学説としての根拠に乏しく、アーリア神話とも呼ばれる。 アーリアン学説は、インド滞在中のイギリスの法学者・言語学者ウィリアム・ジョーンズの諸言語の比較研究を端緒とする。
彼は1786年にイギリス植民地下のインドのカルカッタに高等法院判事として赴任し、サンスクリット語の研究を手掛けた。
サンスクリット語の語彙の豊富さや文法構造を称賛し、それがギリシア語やラテン語をはじめとするヨーロッパ諸言語と非常に類似していることを指摘した。
ショーンズはこの事実から、それらの言語のほか、ゴート語、ケルト語、ペルシャ語などインドやヨーロッパの諸言語が全て「ある共通の源」から派生したという学説を立てた。 この学説は、多くの学者によって継承・展開され、比較言語学におけるヨーロッパの諸言語の起源への問いは、徐々に「ヨーロッパ文明の起源」そのものへの問いに移り変わっていった。
ヒンドゥー教の聖典『リグ・ヴェーダ』を翻訳したドイツ人のマックス・ミュラーが、この潮流に大きな役割を果たした。
ミュラーは、インド・ヨーロッパ諸語の原型となる言葉を話していた住民は共通した民族意識を持ち、
彼らがインドからヨーロッパにまたがる広い範囲を征服して自らの言語を広めた結果としてインド・ヨーロッパ諸語が成立したとする仮説を唱えた。 英語three ラテン語tres ギリシア語treis サンスクリット語traya
英語you ラテン語tu ギリシア語tu サンスクリット語tvam
英語father ラテン語pater ギリシア語pater サンスクリット語pitar
英語mother ラテン語mater ギリシア語mater サンスクリット語matar
英語new ラテン語novus ギリシア語neos サンスクリット語nava ジャハーンギールの治世は、ミールザー・ギヤース・ベグなどイラン系の人々が官僚として宮廷で活躍した時代でもあった。
16世紀から17世紀、ムガル帝国とサファヴィー朝のカンダハールをめぐる争いを除けば、インドとイランの関係はおおむね友好で、ムガル帝国やデカン・スルターン朝では官僚として雇用された。
ムガル帝国はサファヴィー朝の十数倍の人口をもち、首都デリーを中心に栄え、宮廷の公用語がペルシア語で、宗教的にも寛容であり、彼らにとっては最高の仕官先だった。 近世イスラムの三帝国といえばオスマン帝国・サファヴィー朝・ムガール帝国だが、ムガール帝国だけ他の2つとは桁違いに人口が多かった。
でも、文化的にはペルシアがインドを圧倒していた。 極東アジアの三大国といえば日本・大韓民国・中華人民共和国だが、中華人民共和国だけ他の2つとは桁違いに人口が多い。
でも、文化的には韓国が中国を圧倒している。 そういえば、人口比が似ているな
オスマン:サファヴィー:ムガール
日本:韓国:中国
3:1:30
(サファヴィー朝については人口統計が存在しないが、オスマン帝国よりかなり少なかったと思われる) オスマンでもムガールでも、華やかなサファヴィー朝のペルシャ文化に人々は魅了されていた
日本人や中国人が、韓流に熱狂するのに似ている <丶`∀´>日本人や中国人が、韓流に熱狂するのに似ているニダ ロヒンギャ人とベンガル人って、言語的には日本の本土と沖縄位違うもんなのかな 日本では、奈良時代から平安初期にかけて、唐の文化を積極的に導入した
ムガール帝国の200年におけるペルシャ文化の受容は、それに匹敵するものがある
インドは、それ以前とは別の国になってしまった しかも、その後の英領時代の100年でイギリスから受けた影響は、それにも勝るとも劣らないものがある それ以前のインドがどうだったかなど、もはや知る由もない そういう意味では、インドというのは意外と文化的には新しい国 >>749
中国も、清の時代に満州文化に染まって大きく変化した 昔、国語の試験でさんざん読まされた「日本人論」では、
「日本は外国の文化を取り入れる国」であることがやたら強調されてたが、
日本はむしろグローバリズムから距離を置く閉鎖的な国に思えるのだが? 今では、「日本人論」はまったく流行らなくなった
内田樹が昔の日本人論をまとめて「日本辺境論」を書いたが、今となっては説得力がない 書店にいけば、中国論や韓国論の本ばかりだ
まあ、「日本人論」の時代に比べれば、2ヶ国に限定されるとはいえ外国に興味を持つようになったぶん、日本人も変わったといえるが インド関係の本なんか、まだ一般書コーナーには全然ない
普通の日本人は、インドにまったく興味もってない 中国・韓国みたいな、もう高度成長が明らかに終わって現状維持に四苦八苦してる国より、インドのほうが伸びしろが遥かに大きいんだが? 安倍首相がインドに何度も行く理由
日本人のためのインド入門(1)
平林 博 平林 博
「新幹線」と「スズキ」が見せ場
安倍首相が9月13日からインドを訪問することになった。安倍首相の訪印は2015年12月以来のことである。それ以前の2014年、2007年(第一次安倍政権時)にも訪印しており、首相として4度目のインド行きとなる。
なぜ安倍首相はこれほど頻繁にインドを訪問するのか? なぜ安倍首相はこれほど頻繁にインドを訪問するのか?
安倍首相は2006年12月に、インドのマンモハン・シン首相が訪日したとき、毎年交互に、両国の首相が相手国を訪問することを約束していた。
毎年、首脳が交互訪問し会談を行う約束をした相手国は、日本にとってはインドが初めて、インドにとってはロシアに次いで2番目とのことである。
日本とインドはお互いにそれぞれの国との関係をそれほど重要視しているということであり、2014年に就任したインドのモディ首相もすでに2度来日している。 今回の訪印では、安倍首相はインド西部のグジャラート州で2泊3日の日程をこなす。
グジャラート州には日印経済協力の象徴的な場所があり、安倍首相の訪問が予定されている。
それは「新幹線」と「スズキ」だ。
また、グジャラート州はガンジーがインド独立への運動を展開した地である。
ここで日本とインドはアジアの民主主義国として、「特別戦略的グローバル・パートナーシップ」を確認することになる。 「公用語はペルシア語。 名前はモンゴル(ムガル)。 そして実際の征服地はインド亜大陸。 こんな摩訶不思議なムガル帝国と隣国サファヴィー朝とを語りましょう。 」
「シャイバーン朝?もお忘れなく!現在のアフガニスタンを舞台に三つ巴の抗争を繰広げた。」 「シャイバーン朝って何?」
「さあ誰か可能な限りシンプルな回答を与えてくれ。」 「これでどうだ。
16世紀にチンギス・ハンの子ジョチの子シバンの子孫シャイバーニー・ハーン率いるウズベク族
(カザフ草原に遊牧していたジョチ・ウルスのトルコ系遊牧民)がトルキスタンに侵入し、ティムール朝を倒して建てた王朝。
遊牧民特有の分権傾向が強くトルキスタン各地に分封したが中央政権は本拠地をブハラ(ボハラ)に置いたのでブハラ・ハン国とも言う。
ブハラでは1599年にシャイバーニー家が断絶し、ジャーン家(ロシアに追われブハラに亡命したアストラハン・ハン国の王族)がこれにかわった。」 「ていうか、シャイバーン朝っていまひとつよくわからないんだけどね。
こいつらウズベク族なの?そう言えば、ムガール帝国とハザラ人(ペルシア系)ってどういう仲だったんだろう。
あと、ムガール朝からサファヴィー朝に亡命して、また帰還した王様いたよね? だれだっけ?」 「シャイバーン朝はウズベク族だよ。現在のウズベク人とは同一視できないが。あとムガル朝からサファヴィー朝に亡命したのは2代目のフマーユーン。
兄弟たちと争ったあげくスール朝?のシェール・シャーに追い出されてサファヴィー朝のシャー・タフマースブの下に逃げた。
彼の援助でインドに帰還したけどしばらくして階段から落ちて死んだ。」 15世紀から、中央アジアでウズベク人が台頭してきた。
ティムール朝の混乱に乗じてウズベク勢力を統合した風雲児のムハンマド・シャイバーニー・ハンは、サマルカンドの都を占領し、中央アジアに覇を唱えた。
そこへ、文武両道の英雄・バーブルが、イスマーイールの支援を受けて侵攻してきた。
シャイバーニーはサマルカンドを奪われたが、すぐに取り返した。
ティムール朝を滅ぼして天下を取ったシャイバーニーだが、カザフ遠征の失敗で勢力が弱まったところを宿敵イスマーイールに攻め込まれて敗死。
イスマーイールは、シャイバーニーの頭蓋骨に金箔を塗って杯とした。
その後、イスマーイールはサファヴィー朝、バーブルはムガール帝国を創始。
無敵だったイスマーイールの騎馬軍団だが、オスマン帝国の大帝セリム一世の鉄砲隊に敗れて壊滅し、再起不能になった。
巨大なムガール帝国の皇帝になったバーブルは、インドの気候を好まず、死ぬまでサマルカンドに帰りたがっていたという。
客観的に見て、世界史の中でも一番おもしろい時代といっていいだろう。 つまり、バーブルは、インドの皇帝になりたかったわけではない。
ムハンマド・シャイバーニー・ハンに敗れてサマルカンドから排除され、仕方なくインドに逃げて、そこで旗揚げしたのだ。 結果として、ティムール朝は滅亡し、そのティムール朝を滅ぼしたシャイバーニーも滅ぼされ、オスマン帝国・サファヴィー朝・ムガール帝国の三国鼎立時代になった。
三國志と似た展開だが、もっとダイナミック。 バーブルのインド侵入によってパンジャーブは動乱に陥り、スィク教のグルであったナーナクも捕囚となったとか
「飢える者の飢えは満たされない。たとえ町々の財貨を積み上げても」というナーナクの詩句はムスリム軍の略奪のことかもしれない >>771
インドにかかってはいるけどデリースルタン朝やムガル初期は
まだあんまインドの歴史って感じではないよな
亜大陸との交渉よりイランアフガン中央アジア方面とのかかわりがメイン >>771
ウグベクって、ペルシャ軍事力を供給源だった
エジプトのマムルーク朝はそこ出身の奴隷軍人が立てた王朝 >>775
そうかもしれない
中央アジアの歴史にインドも巻き込まれたというか 18世紀あたりから、世界的に遊牧民の存在感が薄れて、いちじるしく退潮してくる
ムガール帝国もそれに合わせて崩壊し、南のマラーター王国が天下を取った 【宗教】インド「ヒンズー教の神は羊肉を食べません!」と豪の「世界中の多様な聖人神々が羊肉を食べて乾杯CM」に抗議©2ch.net デリースルタン諸王朝の時代には、歴代スルタンはデカン高原のことより、アフガニスタンや中央アジアに関心が向かってた 北インドと南インドは別世界
北インドは、中央アジアから続く文明圏の一部 イスラム勢力の侵入を何百年も防いだ、北インドのプラティハーラ朝
その歴史的な意義は高く評価されている >>784
それとネパールからまっすぐ東に日本まで延びる
照葉樹林文化三日月地帯も入るかもしれないw
日本語タミル語起源説のタミルは南インドだけど
稲作文化はネパールからはじまって日本で終わるのかもしれない >>781 マハラジャマックって本当はあかんやつだったのか.....
豚がだめならイノシシ科は全部だめなイスラム教と違って、ヒンドゥー教はウシ科でもいわゆる牛以外はOKな融通が利く宗教だと思ってたけど
ちなみにそのCM,世界の聖人神々ってことはお釈迦さまも羊を食べてるのかw
先鋭的な仏教徒は上座部仏教のところにしかいないから、別に目くじらを立てる人はいないのかな。スリランカ辺りの僧も托鉢で魚カレーくらいもらうだろうし。
羊肉も偶然のもらいものという解釈でw でも大乗のなれの果てのオウムが「存命」だったら抗議してたかw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています