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>>156
放送大学「歴史からみる中国('13)」講座
http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H29/kyouyou/C/ningen/1554662.html
昨日はこの第7回「モンゴル時代の中国」
BS231バンドでは3月までの番組表にはもう見当たらない。
来年4月からの新年度を期待することになるが、2013年からの放送なので
この講座はそろそろ終わって新しい内容が制作されるかもしれない。 北京の夏に耐えられず避暑地に行くようでは、南京なんか絶対に無理だな 夏の南京は、熔鉱炉と言われるほどの暑さ
南京の暑さに耐えられる人なら、どこにでも住める 明の永楽帝も、南京が暑くて逃げだしたんじゃないか
北京育ちの奴にはキツいだろう 中央アジア出身で、インドを征服したムガール帝国の開祖・バーブルが、
「ここは暑くて、メシが不味い」と、死ぬまで文句を言ってた話は有名だ。
大帝国の皇帝になっても、やっぱり故国に帰りたいという話。 モンゴル人も、脂っこい中華料理より、スパイシーな羊肉料理を好んでいた。 ん?
元々南京生まれ育ちじゃないの?
大明成立後に燕王に封じられて北京に赴任し、そのまま根拠地になったんで。 そうだった。北京に行ったのは、大人になってからだな。
南京育ちの奴には、北京の寒さはかなりキツかったはずだ。
そんな北京にわざわざ舞い戻るとは、やはり、天下を取る奴は根性の据わり方が違う。 しかし、南京は、冬の寒さもかなりのものだ。
日本より寒いんじゃないかと言われている。
夏の暑さが異常なおかげで、あまり目立たないが。 南京の気候は、東アジアモンスーンの影響を受ける亜熱帯湿潤気候に属しています。
雨が多く非常に暑い夏が南京の特徴です。
中国では、武漢と重慶に並んで「中国三大火炉の一つ」と言われるほど南京の夏は酷暑となります。
年間平均温度は15.7℃です。
一年で最も寒いのは1月で平均気温は2℃まで下がります。
7月の平均最低気温と平均最高気温は、24℃と32℃まで上がります。
過去に記録された最高気温は43℃(1934年7月13日)、最低気温はマイナス16.9℃(1955年1月6日)です。 夏は暑く、冬は寒い。
奈良と同じで、盆地の気候はどうしてもそうなる。
奈良はタネモミをまけば自然に稲が育つというほど高温多湿だから、
日本で最も早く稲作が発達し、古代王朝が栄えた。 しかし、いくら冬の南京が寒いといったって、やはり北京の寒さには及ばない。 (コピペ)
実は私は、北京に来る前は北海道の旭川に住んでいたので「北京が寒いと言っても旭川に比べれば!」と内心思っていました。
事実、1月の最高気温と最低気温の平均を比べると、 最高,最低気温とも旭川の方が8度以上低いのです。所が、実際は北京のほうがはるかに寒く感じます。
北京の寒さは足元からどっと攻め上ってくるような寒さで、旭川では、ズボン下をはかなかった私が、北京ではズボン下が必需品になっています。
最初私は、この寒さは風の違いかと思いました。一般に風速1メートルの風で、体感温度は1度下がるといいます。
旭川は盆地で、冬ほとんど風が吹きません。北京は比較的風の吹く日が多いんです。でも、風の吹かない日も「寒い!!」。
そこで私は始めて「この寒さには湿度が関係しているのでは」と思い当たりました。調べてみると、湿度が10%下がると体感温度は1度低くなるんだそうです。
「北京の寒さは大陸的!」と北京にいる日本人がよく言うのも、この湿度が関係しているのだと思います。
北京の『乾燥度』は半端ではありません。秋から冬は、雨も雪もほとんど降らないため、特に空気が乾燥します。部屋の換気をすると、室内の湿度はあっという間に、20%以下になります。
「北京で初めての冬です」という話をすると、ほとんどの人が「ここはとても乾燥しているので、水分をこまめに十分補給してください」とアドバイスをくれます(日本で、挨拶代わりにそんな話が出る土地は、まずないと思います) 永楽帝が南京から北京に遷都して500年間、北京が明清の首都であり続けた。
やがて、清は崩壊する。孫文が率いる中華民国臨時政府が成立し、500年ぶりに南京が首都になった。
しかし、これも長くは続かない。臨時政府はすぐに崩壊し、袁世凱が北京で中華帝国皇帝に即位した。 中華民国は、1911年の辛亥革命によって、1912年1月1日、南京において成立した。
しかし、この時点では中国を代表する政府として国際的に承認されていた大清帝国が北京に存続していた。
両者は宣統帝の退位、臨時大総統職の孫文から袁世凱への移譲、「臨時約法」遵守などで合意し、統一された。
その後、袁世凱は中華民国の首都を南京から自らの勢力基盤である北京に移したが、これが北京政府のはじまりである。 結局、中華民国の大皇帝・袁世凱がすぐに北京に首都を戻してしまった。
大皇帝はすぐに失脚し、中華民国が復活したが、そのまま北京が首都であり続けた。 袁世凱の死後、中華民国が復活し、黎元洪が大総統となった。
袁世凱系の勢力である北洋軍閥は、段祺瑞の安徽派と馮国璋の直隷派とに分裂する。
以後、中国は群雄割拠の時代に突入した。 その後、1940年代にも南京に国民政府ができる。
汪兆銘政権(おうちょうめいせいけん)は1940年から1945年にかけて中国に存在し、中華民国の南京政府。
行政院長(首相)は汪兆銘。
首都を南京としていたことから、当時の日本では南京国民政府とも呼ばれた。
中華民国南京国民政府の名で呼ばれることも多い。 シナを再統一した中国共産党は、北京に首都を置いた。
そして、現在に至っている。 中華人民共和国は、迷わず北京を首都にしたようだが、他に選択肢はなかったのか? 国民党が支配していた南京を首都にするには危険だった
のかもしれない 長江のキタネー川でも平気で泳ぐ毛沢東がそんなの気にする訳ない 日本軍が南京大虐殺で30マン人を殺し、南京を廃墟にしてしまったアルよ 「北京に遷都した人」として歴史的に有名なのは、金の海陵庶人、元のフビライ・ハン、
明の永楽帝、清の順治帝、中華帝国の袁世凱・・・といったところか。
翌1644年(順治元年、崇禎17年)3月19日、李自成率いる順軍が北京を陥落させ、明を滅ぼした。
清軍はドルゴンの主導の下、山海関を開城して清に下った呉三桂を先頭に、北京へ向かった。
北京の順軍は明を滅ぼした後、おのおの官職を決めたり明の高級官僚を処罰したりと忙しかったが、山海関の中に入った清軍を4月23日に迎え討った。
清軍は大勝し、さらに敗走する李自成を追って通城(現在の湖北省)まで南下し、順を滅ぼした。
10月19日、順治帝はドルゴンに迎えられて北京に入城した。 もっとも、順治帝は幼帝だったため、政治の実権はなかった。
生母と結婚した摂政のドルゴンに、国政を牛耳られていた。 >>188
じゃあ、「中華人民共和国の毛沢東」も入れよう どの王朝も、もともと他の地域が地盤だったにもかかわらず、吸い寄せられるように北京へと都を移してきた。
北京こそは、天に選ばれし王城の地。 それもそろそろ終わりそうだな
黄砂に飲み込まれて歴史から消えるだろう 李自成の乱は、千年の都・北京の歴史において屈指の大波乱だった。
李自成は、中国明末の農民反乱指導者。
明に対して李自成の乱と呼ばれる反乱を起こして都北京を陥落させ、順
王朝(大順)を建国して皇帝を称したが、清に滅ぼされた。 1644年、西安に入った李自成は、国号を順(大順)、元号を永昌と定め、この地で順王を称した。
2月には李自成軍は北京を目指して北伐を開始し、同年の3月に北京を陥落させて崇禎帝を自殺に追い込み、明を滅ぼした。
李自成の軍が北京城に入城した際には、市民のみならず官兵まで崇禎帝を見捨て、隊列をつくってこれを歓迎したという。 李自成は順の皇帝となった。
盗賊上がりの荒くれ者だが、明の太祖・朱元璋だって似たようなものだから、
こんな人が皇帝になったところで別におかしくない。
しかし、その軍は統制が取れず、略奪暴行が横行したと言われている。
最初は、暗君・明の崇偵帝を打倒する解放者として歓迎された李自成は、次第に民衆から疎まれるようになった。 そこに想定外の事件が起きた。
史上に名高い、呉三桂の裏切りだ。
明の将として山海関を守っていた呉三桂は、なぜか祖国を裏切り、満州人を内地に引き入れた。
大順は滅び、満州人が天下を取って、清の世となった。
この功績により、呉三桂は平西王に奉ぜられるとともに、時代劇の悪役として、
民衆の娯楽に欠かせないダークヒーローの地位を確立した。 >>196
豊臣秀吉の日本軍が攻めてきたと聞いて、朝鮮王は逃げ出した。
日ごろから鬱憤がたまってた朝鮮の民衆は、王宮に焼き討ちして暴れたため、
日本軍はなんなく首都を占領した・・・というエピソードを思い出す。 呉三桂は、明の将として山海関にあり、満州人の脅威から内地を守っていた。
崇禎17年(1644年)、流賊出身で明に反旗を翻していた李自成の順軍が北京に迫るとの報を受けた朝廷は、
呉三桂を平西伯に封じ、首都北京の防衛に当たらせることとした。
しかし山海関から北京に向かう途中の灤州で北京陥落の報を受けた呉三桂は、山海関に引き返した。
山海関において、西から李自成がしきりに呉三桂に投降を呼びかけ、東からドルゴン率いる清軍が迫っており、呉三桂は窮地に立っていた。 この時、父の呉襄をはじめ呉三桂の一族は北京におり、父からの勧告を受けた呉三桂は一時は順への投降を決めていたが、
急に翻意して清のドルゴンに難攻不落と言われた山海関を明け渡し、李自成を討つための援助を求めた。
ドルゴンは呉三桂の要請を容れ、そのまま北京に進軍を開始した。
清と呉三桂の軍は李自成率いる順軍を激戦の末打ち破り、そのまま北京への入城を果たした。
怒った李自成は、北京にいた呉三桂の家族を皆殺しにしてしまった。
なぜ、呉三桂はこんなことをする気になったのか。それについては諸説ある。
「美女・陳円円を李自成軍に奪われたことに対する怒りから」という俗説が流布している。 近代のナショナリズムから離れたら、そもそもドルゴンと李自成のどちらを選ぶべきかは自明じゃないのでは?
蛮族とはいえかつては明のもと参陣してたこともある女真の現リーダー、それと盗賊あがりの成り上がり者
仕えるべき明の朝廷が滅びた後、一武官として親近感を感じたのがドルゴンの方だったとして何の不思議もない たしかに、誇り高い武将なら、300年の皇統を滅ぼした盗賊集団に投降しようとは思わんだろうなあ。
単に、「一時的に野蛮人の力を借りてでも、まずは盗賊どもを追い出そう」と考えたとしても不思議はない。
まさか、国を乗っ取られるとまでは思わなかったか? いや、最前線で将軍を張ってる人が、そんな甘い考えとも思えんなあ。 良い悪いは別にして、女真人は北京に進出し、国盗りが成功した。
順治帝と宰相ドルゴンのもと、清の世が始まった。 清朝は、明の永楽帝が建てた紫禁城を、そのまま王宮として使用した。
「逆賊・李自成を討伐した、明朝の正統なる後継者」というポジションに、すっぽりと収まることに成功した。
李自成の乱は、清にとって本当にラッキーだった。
もしも李自成がいなくて、女真人が皇帝を殺して明を滅ぼしていたならば、こうはいかなかった。 モンゴル帝国の時代には、北京は商業と金融の世界的な中心でもあった。
現代でいえば、ニューヨークのような存在だった。
しかし、明朝の300年を通じて、江南がさらに台頭する。
もはや、誰が見ても長江下流が中国経済の心臓部だった。
しかし、政治都市としての北京の重要性は揺るがなかった。
内地からモンゴル・満州に出るのにも、モンゴル・満州から内地に入るのにも、北京を通るのが最良のルート。
周囲は険しい山地と砂漠地帯で、ここしか通るところがない。 年表
1643年 清で順治帝が即位。
1644年 李自成が北京を包囲し、これを占領。明が滅亡する。
1644年 清が北京に侵攻し占領。清の中国支配が開始。
1646年 鄭成功が江戸幕府に救援を求める。
1648年 ヨーロッパで初の国際会議が開かれ、ウェストファリア条約が結ばれる。近代国際法の原点。
1649〜58年 イングランドでオリヴァー・クロムウェルが独裁。
1651年 ドルゴン、死去。
1658年 ムガル帝国皇帝にアウラングゼーブ大帝が即位。
1658年 (神聖ローマ)レオポルド1世が即位。
1661年 順治帝、死去。 しかし、女真人は人口が少ない。漢人は人口が多い。
清が中国を再統一するのは、それほど簡単なことではなかった。
北京から追い出された明朝の残党は、南京を拠点として再起を図っていた。
このままでは、また、金と南宋のような南北朝時代になっても不思議はない情勢。
その困難を乗り越え、広い中国を再統一したのは、宰相ドルゴンの凄腕だった。 ↑ラクダに乗った隊商が、清の都・北京に向かうの図
北京からモンゴル高原を通って西域に抜けるルートは健在だった かっての北京は城壁に囲まれた町でした。
北京は厳重に二つの部分に分かれています。
内城と外城です。
内城は、俗に言う北京城の部分で、9つの門がありました。
この9つの門のうち、現存するのは正陽門(前門)という
故宮の真南にある門と、徳勝門という北西の門です。
外城は、内城の南に出っ張るような形の部分で、言ってみれば「下町」のような場所でした。
http://www.china-watching.com/ura/ime271.jpg 城内と城外、城内でもその場所場所によって町の雰囲気が全然違います。
内城は紫禁城があり、官僚なども住んでいただけあって、
格式ばった雰囲気がありますし、外城は商店も多く、
道も込み入っていて、なんとなく繁雑とした感じ。
その城壁は中華人民共和国「1950年代頃から」地下鉄を作る為、
取り壊され、現在・北京地下鉄環状線です。
北京の地下鉄環状線は、ちょうど東京の山手線のように、北京旧・内城をぐるりと回っている市民の便利な足です。
この環状線には駅が18ありますが、そのうちの11の駅の名の最後の文字は「門」で終わっています。 復興門「フーシーメン」駅から右回りに「門」の付く駅を拾ってみますと、
宣武門「シュェンウーメン」、和平門「ホーピンメン」、前門「チェンメン」、
崇文門「チョンウエンメン」、建国門「チェングオメン」、朝陽門「チャオヤンメン」、
東直門「ドンジィメン」、安定門「アンチィメン」、西直門「シィジィメン」、
阜成門「フチョンメン」、そして復興門駅にもどってきます。
なぜ、こうも門が続くのか。
そのなぞは、この地下鉄環状線が明・清の時代の北京を囲む城壁の地下を走っており、
「門」の付く駅の地上には、城壁ありし日には城門があったからです。
その後も城門の名だけは残って、そこの地名や駅名として、
いまも脈々と生き続けているのです。 >>206
日本の支配層だったら北京やコンスタンティノープルは
重要都市に位置付けても首都には出来ないな 博多や長崎に皇居があるようなものだ 地理的位置からすれば、日本でいえば札幌に首都があるようなもので、あまりにも偏っている。
でも、もしも首都がもっと南のどこかに移ったら、北京は衰退するだろう。
あれだけ政治権力が集中していても、金融の中心は上海や香港にある。
金融というのは、政治権力と切っても切れない関係にあるので、
アジアでは首都に収れんしていく傾向がある。日本がいい例だ。
それだけに、北京にも相当なアドバンテージがあるはずなのだが、それでも無理。 北京のGDPは中国全国のGDPの2%でしかない。
首都に一極集中していない経済構造は、発展に有利な気がする。 >>211
徳勝門の横にバス乗り場があって
八達嶺長城や明十三陵行きのバスがどんどん発車していた。
ほとんど2,3分おきぐらいで、
客待ちのバスが常に数台待機していて、満員になり次第次々と発車する。
IC交通カードを利用すると運賃がびっくりするほど安い。
6元ぐらいじゃなかったかなぁ?
八達嶺まで乗ってみた。
IC交通カードは乗車時と降車時にタッチするが、
道中で車掌がカードを集めてタッチして戻してくれる。
降車する時間を減らすためらしい。
高速を利用するので1時間ぐらいで到着できる。
帰りも徳勝門直行や明十三陵行きのバスにほとんど待たないで乗れる。
北京を個人旅行する時は、
空港駅前の窓口で、IC交通カードを買っておくこと。
100元も入れておけば、市内地下鉄、バス、タクシーに利用できて、
切符を買うよりかなり割安に設定してあって超便利。
政策的低価格というやつだ。
チャージは地下鉄駅窓口などで係員にお願いする。
券売機でチャージするのかと思ってたらできなかった。
出国時に空港駅の窓口でカードを返却すると、残金とカード保証金が戻ってきた。
地下鉄駅入り口や有名観光地入り口には、荷物検査がある。
公安関係に随分と人手と手間を割いている。 「ソ連時代は良かった。電気代やガス代が、タダみたいに安かった」というロシア人みたいなものだな。
財政赤字をどれだけ垂れ流しても気にしなくて済むのが、社会主義国の強み。
後にツケを回してるだけとはいうものの。 >>216
そういう意味でも、日本でいえば札幌が首都で、東京や大阪が地方になっている状態。
まあ、北京もかなりの大都会なので、札幌とは違うが。 北京の「前門」は、明代にさかのぼる歴史のある繁華街
地下鉄2号線「前門」の駅を降りると、昔の城壁の一部として「前門」の「城楼」と「箭楼」が2つ並んで建っています。
南側の「箭楼」をスタート地点に、南へまっすぐ続くのが「前門大街」。
古くからの商店街、歓楽街として、「北京の浅草」ともいわれる場所です。
このあたり一帯の歴史は古く、繁栄がはじまったのは、明代(1368〜1644)から。
明代には、皇帝の住む故宮のまわりでは商売は許されず、商売人はこの「前門」あたりに集められました。
謹厳な空気の故宮のまわりから、この「前門」に来ると、あたりはうってかわって人々のいきいきとした熱気が漂い、
堅苦しい宮廷務めに肩が凝った高級官僚などの格好の息抜きの場だったといいます。
気取りのない賑やかさがこのエリアの特色です。 >>220
二都体制が理想ということか?
徳川時代の三都体制はどうだ? >>207
順治帝には生存伝説があったよね。
寵姫が亡くなってなにもかもいやになり、24歳で帝位を放り出して五台山に籠もってしまった、と。
朝廷では仕方なく崩御したことにして康煕帝が後を継ぐ。 >>224
康熙帝が、遠く離れた五台山をわざわざ何度も訪問していたり、
李自成の生存伝説よりは、ずっと信ぴょう性がある話。
両方とも、時代劇では当たり前のように登場するエピソードだが。 >>218
日本の公共交通費が高くない?
北京や広州に行ってきたが、タクシー代ですら安く感じる。
アモイで正規のタクシーが捕まらず、
やむなく白タクを利用したことがあるが、
乗る前に行き先と値段を交渉できたので、
ボッタクられることはなかった。
でも違法かつ危険な場合もあるのでオススメしない。
あと Ubar が超便利だった。
白タクよりマシだし。
日本じゃ、Ubar は違法のまま規制緩和する見込み無し。
北京ではレンタル自転車があちこちで走っていた。
スマホで借用と支払できるみたい。
外国人も結構レンタル自転車を利用していた。
それでも道路の渋滞はなくならないね。 万里の長城の兵卒って一体どこに住んでたんだろ
九辺鎮にはすべて合わせて百数十万の兵士が常駐してたそうだが
あんな崖っぷちの何もない所でよくそれだけの人口を養えたな 昔とは逆で、「北京から東京に来ると、物価が安いなと感じる」という人が多いけどな。
交通機関に関しては、北京のほうが安いか。 モンゴル帝国の時代には海運が盛んになり、江南から天津港を経由して北京への海上輸送が行われた。
その後、明の反動的な政策で海運は衰退したのだが。 天安門にほど近い大通り、前門大街。こちらから大柵欄・鮮魚口にかけては明清時代から続く歴史的な商業地区で、老舗の名店が数多く立ち並ぶ地域です。
北京オリンピックに合わせて、前門大街では大規模な再開発が行われ、再開発の目玉として、1924年から1958年まで運行されていた路面電車が再現されました。
歴史を感じるおすすめスポットをピックアップしていました。
北京の気候は春秋が比較的短く、冬がやや長いです。
空気が乾燥しているので、町歩きにはミネラルウォーターを持ち歩くことをおすすめします! >>229
その大運河は黄河以北では、度重なる洪水と黄河断流で底が上がり、使用不能だけどな >>233
そりゃ、お前が2chしか見ないからだろ 2chが世界の全てか
うん、それはそれで幸せかもしれない
俺はそんなの勘弁だが >>233
お前らは史実も現実も直視できないもんな >>237
2chしか見てない奴が、「そんな話は2chでしか見たことないぞ」って、笑わせんな 北京は華北大平原の北端に位置し、潮白河、永定河が形成した扇状地にあり、北京湾と呼ばれるポケット状の小平野をなしており、東、西、北を山に囲まれている。
西部の山地は総称して「西山」といい、太行山脈に属している。
北部と東北部の山地はすべて「軍都山」と称し、燕山山脈に属している。
天然の峡谷沿いに東北へ向かえば遼河平原に入り、西北へ向かえば蒙古平原に達する。
潮白河、永定河などの河川は、西北部の山地に発し、山を突き抜けて東南の平原地域へ向かって流れ、最後は渤海に流れ込んでいる。 つまり北京は、山に囲まれた麓にあり、いくつもの河が流れる、砂漠のオアシスみたいな都市。
水が枯れるまでは、首都であり続けるだろう。 広大な中国だが、首都に適した地はここしかないようだ 仕事より人のあら捜しに夢中のゲスイ奴
街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる
弱い奴には強く出て 強い奴には媚びへつらい
店長崩れのニセモノは
仕事も人望も紛い物
人には厳しく自分には甘く ケジメも無しとする
何でもすべての事が人任せで それでも良しとする
大学行ってもクズだから 常識なんかは通じねェ
相手を選んでハラ立てて
得意の火病はお手のモノ
今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう
すべての人に 懺悔しな!!
https://www.facebook.com/katsuyuki.kida.923 白蓮教徒の乱が鎮圧された後、その信者の一部は逃れて天理教と改称し、なおも団結をつづけた。
1813年、指導者の大工・李文成と、薬局局員の林清は反乱を計画、李文成が山東省で挙兵、
林清は紫禁城の宦官の不満分子と連絡し、200名の反乱部隊を城内に侵入させた。
反乱部隊は皇帝の居所の養心殿にせまった。嘉慶帝は不在だったが、第二皇子(後の道光帝)が小銃をとって応戦した。
内応していた宦官は弾を込めていない小銃を手渡したので、皇子は服のボタンを込めて撃ったという。
紫禁城の隆宗門の扁額にはこの時放たれた矢がまだささっているという。乱は鎮圧され、首謀者はとらえられ、
参加者はすべて殺されたが、紫禁城に賊が侵入するという前代未聞の出来事は、清朝の衰退を予見させる出来事であった。
<寺田隆信『紫禁城秘話』1999 中公新書 p.171-173> 日本でも百姓一揆はよく起きていたが、江戸城まで攻め込むなど、とても考えられない。
その点、北京の紫禁城は、李自成・天理教と、2度も反乱軍に攻め込まれている。 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
SBJJI ヒトラーが構想した「世界首都ゲルマニア」は、計画のみで実現しなかったが、
今も残る模型や図面を見ると、戦慄すべきものを感じる。
一方、中国人は儒教イデオロギーに基づく「世界首都」を地上に実現した。
明清帝国の首都・北京と、その中心に位置する紫禁城(現在の「故宮」)は、
儒教の経典『周礼』冬官考工記の「世界首都」構想を発展的に具現化している。
紫禁城は、宇宙の支配者たる天帝の住まい「紫微垣」(北極星のすぐ横の、天頂の中心)をモデルとする。
北京の都市計画のコンセプトは、「天子」たる中華皇帝が天に代わって世界を支配するための巨大な「魔法陣」だった。
紫禁城は過去の遺産だが、中華帝国の世界首都構想は、21世紀の今日も脈々と受け継がれている。 安陽:商代のみ
旧長安:何度も長期政権の首都になる 洛陽:何度か首都になる
開封:北宋のみ 南京:何度か首都になるが短命政権が多い
北京:元代以降の長期政権
基本的に中国で首都に選ばれたのは7つ位しかないし、ほとんどが西安か洛陽か北京 唐代以前:ほぼ長安か洛陽
唐滅亡→五代十国→北宋の首都=開封
元代以降:北京か南京 内陸部が砂漠化で衰退? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています