北京の歴史 [無断転載禁止]©2ch.net
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大都は、内陸の都市としては驚くべきことに、「積水潭」と呼ばれる海につながる都市内港を持つよう設計された。 現在の天津にあたる通州から閘門式の運河(通恵河)が開削され、城内の積水潭に繋げられたため江南地方からの物資も水運により結ばれるようになった。 このため、陸上輸送された時代に比べて物資の輸送量は飛躍的に増大し、海のシルクロードを通してさまざまな国際商品が大都にもたらされ、国際商業都市として空前の繁栄を極めた。 大都には西方の旅行者・商人も多く訪れ、その繁栄ぶりは、イブン・バットゥータやマルコ・ポーロなどの旅行記でヨーロッパにまで伝わった。 モンゴル帝国の運河が、隋の煬帝のそれとどう違うかといえば、なんといっても、北京と天津を大運河で結んだこと。 これにより、江南から海路で天津に入り、そこから北京へと直通の水路が開かれた。 「北方の軍事拠点」というイメージが強くて、商都というイメージがあまりない北京だが、それはイメージの問題。 モンゴル帝国の時代には、紛れもなく世界経済の中心だった。 現代でいえば、ニューヨークに相当する。 さらに北京は、「モンゴル高原への出口」というポジションにある。 モンゴル高原は、馬で移動するのに便利。 長安からラクダを引いて砂漠を移動するより、格段にスピードが速い。 モンゴル帝国の時代には東西貿易が活発化したため、西の拠点・長安も金・宋代よりは復興した。 それでも、北京の繁栄の影に隠れて圧倒されてしまった。 >>52 永済渠は高句麗遠征用の兵站輸送運河だったんだよなぁ、煬帝はん無茶するわ 洛陽からスタートじゃなくて、済南あたりまでは黄河使ってそこから北上する運河にすれば半分以下で済んだ気もするし 1968年、北京の城壁を撤去する工事にともない、北京市西城区の西直門を取り壊した際、その中から元代に建設された和義門が発掘された。 西直門は、和義門にさらに土をかぶせる形で建設されていたのである。 城門の残存部の高さは約22m、門道は長さ9.92m、幅4.62mで、磚(せん、煉瓦)で敷きつめられた門の上には、幅三間の城楼があったと推測される。 大都の遺物が発掘されるのはきわめてまれで、他には同じく西城区の一角にあった貴族の邸宅跡の調査があるのみであった。 現在北京市内で確認できる大都の遺構は、西城区の積水潭(現在は什刹海)などの池や、海淀区から朝陽区にかけてある西土城と北土城が残る元大都城垣遺跡公園のみである。 北京の歴史において、モンゴル帝国の大都が最盛期だった。 明清の北京は、都市としての規模が縮小された。 現在の北京は、政治的には首都だが、経済的には上海や香港の後塵を拝している。 というものの、現在の北京に、大都の痕跡はほとんど残っていない。 現在の北京は、大都が破壊された跡地に、明の永楽帝が改めて築いた都市。 地理的には春秋時代の燕にまでさかのぼる地だが、直接には明から数えて600年の古都。 >>58 そこまでして高句麗を征伐しなきゃいけなかったとは、やはり当時から満州は危険地域だったんだな >>22 王建が女真系とか無理あり過ぎやぞ もともと姓がなかったことや双系的な系譜をもつことから新羅人であると考えるのが妥当 イブン・バットゥータも、旅行記によれば、広東省から海路で北京に移動したようだ。 古代中国人は、徹底して陸の民であり、海とはあまり縁がなかった。 孔子も、いまでいえば山東省の出身だが、「生涯、海を見たことがなかったのではないか」と言われている。 唐の後半から宋にかけて、東西交易は次第に海路が主流となり、広東省や福建省の港が繁栄した。 モンゴル帝国の時代には、北京ー天津間の運河が開通したおかげで、「国内移動も海で」という国に変わった。 いまの中国は、北京・上海・広東省の「沿海部」が中心。日本でいえば「太平洋ベルト地帯」みたいなものだ (もっとも、日本の場合は日本海側の人口が少ないが、中国は内陸部の人口も多い)。 その体制が確立されたのは、モンゴル帝国期。内陸の国だった唐までの中国とは、大きく地図が変化した。 京杭大運河(けいこうだいうんが)は、中国の北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河である。途中で、黄河と揚子江を横断している。 戦国時代より部分的には開削されてきたが、隋の文帝と煬帝がこれを整備した。完成は610年。 運河建設は人民に負担を強いて隋末の反乱の原因となったが、運河によって政治の中心地華北と経済の中心地江南、さらに軍事上の要地涿郡が結合して、中国統一の基盤が整備された。 この運河は、その後の歴代王朝でもおおいに活用され、現在も中国の大動脈として利用されている。 2014年の第38回世界遺産委員会で世界遺産リストに登録された まず初めに黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうせいきょ)が作られ、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠(えいせいきょ)、 そして長江から杭州へと至る江南河が作られ、河北から浙江へとつながる大運河が完成した。 完成は610年のことで、その総延長は2500キロメートルを越える。 開封は永済渠と通済渠の結節点として中国の南北を結び、黄河によって東西とも結ばれていたので経済的な重要性が高まり、五代十国時代より北宋の首都として繁栄した。 開封城では城内を運河が貫通しており、長安のような大規模な直交道路は姿を消したが、入り組んだ大小の街路には各種の飲食店や酒店などが軒を連ねるなど、その商業は隆盛をきわめた。 当時の運河周辺の都市の繁栄の様子は『清明上河図』(張択端画)に活き活きと描かれている。 しかし金が華北を占領して南宋と対立するようになると、大運河の流通も激減し、整備もされなくなってさびれてしまった。 その後、元が中国大陸を征服すると、江南から首都の大都(北京)への近道として済州河と会通河が開かれた。 つまり、いったん開封を経由して北京に至るそれまでのルートが不便だったため、杭州から北へ進み天津へとつながるルートが開かれたのである。 元代には海運が発達し対外貿易を主にしていたので、従来に比べると大運河の重要度は落ちていたものの、この新しいルートは国内における北京の重要性を高める効果があった。 つまり、隋から宋までは、開封が水運の十字路として脚光を浴びていた。 開封から北京へと向かう永済渠、開封から杭州へと向かう通済渠・江南河。 江南から北京に行くにも、開封を経由した。 しかし、北宋が滅んで金と南宋の時代になると、南北の商業ネットワークが分断され、開封も衰退した。 元では、それに代わって杭州から天津へ、開封を経由しない直通ルートが開かれた。 もっとも、元では海路が主流になっていたため、もはや運河の時代じゃなくなっていたのだが。 次の明の時代になると、明は鎖国主義で海禁政策をとったため、海路が衰退した。 このため、また運河が脚光を浴びることになった。 対外開放的だったモンゴル帝国に比べ、明では海洋貿易が後退した。 靖難の役で建文帝を倒して権力を握り、南京城を焼き討ちした永楽帝は 1403年に北平府という名を順天府に改め、明の第二の国都とした。 建文帝の帝位を奪った永楽帝に対し、南京にはそれを正統と認めない空気が強かったこともあったので、 永楽帝は北京を帝都とすることを決断、1406年に北京で宮殿改修工事に着手した。 1409年からはモンゴルの動きも活発になったためもあって、永楽帝は北京に滞在し始めた。 翌年からのモンゴル親征は北京を拠点に行われた。 また北京につながる大運河の浚渫を行い利用可能にした。 こうして条件を整え、1415年正式に北京の新都造成を始め、 元の大都の規模を拡大し、それを上回る都城の建設を目指した。 1420年に都城が完成して翌1421年正月に遷都が実行された。 1992年度のセンター試験本試験の第2問で、 「永楽帝が1402年に遷都を行い・・・」という本文に関しての設問が出された。 1402年は永楽帝の即位の年で、遷都は1421年とされているので、これは誤った設問であった。 実施後に入試センターは受験者全員を正解とすると発表した。 明朝の首都が当初は南京にあったが、永楽帝が北京に遷都したのは有名だ。 世間の一般人ならともかく、歴史マニアならみんな知っている。 でも、永楽帝が即位してから当初の数年間は南京にいたこと、 北京に入り浸るようになってからも、正式に遷都するまで十数年は 南京が引き続き首都であったことについては、認知度が低い。 センター試験の出題者でさえ、間違えてしまった。 隋の煬帝も、江南が大好きだったため、首都の長安にいたのは最初の頃だけで、あとは揚州に入り浸るようになってしまった。 あのまま隋の世が続いていたら、正式に遷都していた可能性もある。 これが神聖ローマ帝国やセルジューク朝だったら、皇帝がいま現在いるところが首都だ。 そもそも、皇帝は移動するのが当たり前の存在で、首都なんてものがない。 隋の煬帝が江南に長期滞在しているスキをついて、唐の李淵は長安を占拠した。 勝手に隋の新帝を擁立して、そいつに禅譲させて皇帝になった。 唐と隋は、北朝と南朝のような位置関係になってしまった。 やはり、南に首都があると、どういうわけか軍事的に弱くなる。 隋は、あっという間に唐に滅ぼされた。 そら脅威になるのが北辺におるからな(隋の場合は主に突厥) 精兵はそっちに駐屯することになるし、それを吸収することができたらほぼ自動的に勝ち 靖難の変もだいたい同じ 宇文泰が漢兵の精鋭を選りすぐって作った府兵集団は色々と謎が多い 隋唐の高句麗討伐にも動員されず隋末期の群雄割拠でもまったくどちらにも組せず いつのまにか形骸化していたところとか GettyImages 北京の故宮 現在残されている故宮は、主に北京の清の時代に使われたものです。巨大な宮殿がそのまま博物館として展示されています。 1987年にユネスコより世界文化遺産に認定されています。 万里の長城 万里の長城は、非常に長いので沢山の場所が公開されていますが、特に北京市内に比較的近くて観光地としても最も有名なのが北京八達嶺です。 1987年に世界遺産に登録されています。 明十三陵 明代の皇帝、后妃の陵墓群です。 万里の長城(八達嶺長城)とセットになったツアーが組まれる事が多い場所です。 天壇公園 天壇公園は、明清代の皇帝が天に対して祭祀を行った宗教的な場所です。 1998年に世界遺産に登録されています。 頤和園(いわえん)は中華人民共和国北京市海淀区に位置する庭園公園。 1998年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。 頤和園の前身は清漪園である。 1750年(乾隆15年)、崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い息子の乾隆帝が西湖掘削と西山、玉泉山、寿安山の造営、更に西湖、高水湖及び養水湖を貯水池することを命じ、 西湖を漢武帝が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因み昆明湖と、また、瓮山を万寿山と改称した。 1764年(乾隆29年)、洋銀480余万両の費用を費やした清漪園が完成している。 道光年間以降は国力の衰退に伴い清漪園は次第に荒廃、1860年(咸豊10年)、第二次アヘン戦争で英仏の軍隊により消失してしまった。 明の陵墓が最大の見どころって、日本でいえば古墳時代みたいなものか? 北京にも、もちろん偉大な歴史がある でも、大阪ほどではない 明がスタートしたのは、1368年。 永楽帝が北京に遷都したのは、1421年。 その間の半世紀は、南京が首都だった。 もうちょい長かったら、「西漢・東漢」みたいに、「南明・北明」と区分された可能性が高い。 北京を首都とする政権は、どの民族が支配していようと、本質的にモンゴル帝国の後継者だ。 南京に首都があるのとでは、意味合いが違いすぎる。 一般に、日本人は漢や唐の歴史が大好きだ。 明清には、どうも関心が乏しい。 でも、現代の中国を考える上では、明清の歴史のほうが圧倒的に参考になる。 >>89 洪武帝の海禁政策以来、交流が減っちゃったからね あるいは絶対量でいえば減ってないとする見方もあるだろうけど、国内の諸活動全体に占める中国事物の相対的地位は下がったかと 学問面では宋からあとは古典にほぼ含めなくなるし、せいぜい実用書か自分たちとは直接関係がない洋モノ書籍の感覚になっていったんだと思う 、都を自分の本拠地である「北京」に遷した。同時に金陵は、南京と改称された。遷都の理由は、北方のモンゴル民族の来襲に備えるためには、南京よりも北京の方が都合が良かったからである。 北京が初めて首都に選ばれたのは、金の4代目「海陵王」の時である。以来、南京に首都を置いた明代初期を除けば、今日の中華人民共和国に至るまでの800年あまり、北京が中国の都となる。これに対してなぜか、南京を都とした王朝は長続きしていない。 最初に南京に首都を定めた三国時代の「呉」は58年間で滅びた。その後「東晋」は103年間、「宋」は59年間、「斉」は23年間、「梁」は55年間、「陳」は32年間と、みな短命に終わったのだ。 明朝も、南京が都だったのは、わずか34年間でしかない。それに第二次世界大戦中中華民国の南京政府は、日本帝国陸軍の侵攻の前に10年で陥落し、戦後再び、南京に帰ったものの、たった3年で台湾に追いやられている。 永楽帝が、北京に遷都した理由は、もう一つある。永楽帝にとって、南京は居心地が悪かったのである。 なぜなら兄の息子の建文帝を殺すという、やってはいけないことをやってしまったからである。このことは、永楽帝にとっては、生涯の大きな汚点となり一種の罪悪感を背負って生きていくことになるのだ。 それに南京には、建文帝の側近がおり、彼らとの関係がしっくりいかなかったのだ。 事実、永楽帝は建文帝の側近の一人「方孝孺」に即位の詔書を起草させようとしたが、彼はその命令に従おうとせず、最後には「燕賊、位を奪う」と書いたので、永楽帝は、方孝孺とその一族873人を粛清して、南京から去ったのである。 最初に北京に遷都したのは、金の海陵王 海陵王は「天下一の美女を娶る」と豪語したとおり、数多くの女性を後宮に集めた。 『金史』巻63 列伝第1「后妃上」によれば、皇帝に即位する前は3人程度だった妻妾が、後年には数えきれないほどの数に登った。 また、海陵王はしばしば臣下の妻を奪い、近親相姦をおそれず、幼女を強姦した。 姉妹や母娘を揃って後宮に入れることもあり、己の意に従わない女性は殺すことをためらわなかった。 宮中の床に布をしきつめて、あらゆるところで宮女と乱交した。 金の海陵王が北京に遷都したという話の認知度は低い。 永楽帝の遷都のほうが、遥かに有名だ。 ひとつには、いまの北京が建設されたのは永楽帝のときだからだろう。 北京が誇る名所旧跡は、永楽年間に建設されたものが多い。 それ以前の痕跡は、いまの北京にはほとんど残っていない。 >>87 >>90-91 めんどくさいことに、戦国時代・東周が滅亡直前に分裂して東周君と西周公とが並立 古今東西、遷都は常に、多大な労力と犠牲を払って遂行される。 鉄道も飛行機も自動車もない時代。移動するだけでも大変だ。 大土木工事で死者が続出する。 華の都から、辺境へと転落した人々の恨みは深い。 よほどの暴君が有無を言わさず実行しないと、誰もついてこない。 遷都を強行した皇帝の評判が概して悪いのは、そこに原因があるのかもしれない。 現代の日本も、もちろんそうだ。 東京から首都を移しますと言うのは簡単だが、独裁者でもない限り、実際には決められないだろう。 あのプーチンでさえ、首都をサンクトペテルブルクに移すとか、そういうことはやっていない。 中国も、首都を北京から他のところに移すのは無理っぽい。 金の海陵王、元のフビライ・ハン、明の永楽帝。 北京に遷都した連中は、いずれも暴君ぞろいだ。 クビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をカラコルムから中国の大都に移動させるなど様々な改革を打ち出した。 クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。 至元4年(1267年)からは中都の郊外に中国式の方形様式を取り入れた都城大都の建造を開始、 至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号は漢語で「大元」と改められた[2]。 至元4年(1267年)からは中都の郊外に中国式の方形様式を取り入れた都城大都の建造を開始、 至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号は漢語で「大元」と改められた[2]。 しかし、クビライの宮廷はあくまで遊牧の移動生活を保って大都と上都の間を季節移動しており、元はいまだ遊牧国家としての性格も濃厚であった。 テント生活だから、中国式の家具なんかより、ペルシャ絨毯が必需品 中国文化より、ペルシャ文化に傾倒したのは当たり前であった 元の宮殿は儀礼用で ハーンを含めてモンゴル人はみな宮城の隣の空き地にテント張って住んでたようだな えええ匠戸とかほとんど漢人だけど イスラム教徒は基本的には天文学や算術や金融に従事していて工芸品は漢人層の独壇場 >>113 んなこたあない 地味な宋の青磁より、華やかなペルシャのラスター彩のほうがよほど人気があった 時代劇でも、モンゴル人は、どんなに偉くてもテント生活している 元の上都は西洋人から「ザナドゥ」と呼ばれた。 ザナドゥは、桃源郷と同じような意味で使われるようになったほど、西洋人の憧れを集めた。 しかし、ザナドゥは世界の中心 桃源郷は、人里離れた山奥という決定的な違いがある 上都は寒すぎるので、冬は北京が首都になった あの北京が避寒地になるとは、どんだけ寒いんだよと言わざるを得ない 中国・朝鮮の職人軽視・技術軽視の風潮は、元で下層階級だったことに始まるのかもしれない Xanadu 2.0 is a mansion owned by Bill Gates that overlooks Lake Washington in Medina, Washington. The 66,000-square-foot (6,100 m2) mansion is noted for its design and the technology it incorporates. It is nicknamed Xanadu 2.0 after the title character's estate in Citizen Kane. 『ザナドゥ』(英: Xanadu)は、1980年公開のアメリカ映画。 地上に最高の音楽の殿堂を作るために、と集まる人々を描くミュージカル・ファンタジー映画。 2007年には、この映画のブロードウェイ・ミュージカル劇場版が制作・上演された。 ブロードウェイ版は、酷評された映画とは対照的に『ニューヨーク・タイムズ』で絶賛されるなどし、翌年のトニー賞にミュージカル作品賞、台本賞、主演女優賞、振付賞で候補となり、予想以上のロングラン上演となった。 ブロードウェイ以外でも次々に新演出で公演されるようになり、オーストラリアでの公演は本作の振付家ケニー・オルテガが手掛けた。2015年にはロンドンで英国初演もされた。 挨拶されようとわざと立ち止まるキモイ奴 街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる 弱い奴には強く出て 強い奴には媚びへつらい 店長崩れのニセモノは 仕事も人望も紛い物 人には厳しく自分には甘く ケジメも無しとする 何でもすべての事が人任せで それでも良しとする 大学行ってもクズだから 常識なんかは通じねェ 相手を選んでハラ立てて 得意の火病はお手のモノ 今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう すべての人に 懺悔しな!! https://www.facebook.com/katsuyuki.kida.923 金の海陵王は、幼少時より学問を好み、極めて博覧強記で英邁だったという。 金に拉致された北宋の徽宗のもとにもよく出入りし、痩金体という徽宗が始めた独特の書体を身につけて、書道も達筆だったという。 漢詩も上手で、「呉山」などはこの時代を代表する詩として、今日まで有名である。 そのような彼が、自ら白刃を振るって煕宗を殺害し、皇帝の地位にとって代わったのは、悲劇だったのかもしれない。 実際、海陵王は、自分のクーデターに協力した、いわば功績者であった重臣や皇族を、その後粛清していくことになる。 彼は、純然たる中華風な皇帝たろうとし、金の中にあった女真族の風習や共和的要素を払拭し、中央集権の皇帝独裁権の確立を目指した。 そのため、女真貴族・皇族の力は大幅に削がれ、しかも、それまではあまり登用されなかった漢民族の人材が大幅に枢要な地位にまで抜擢されたのである。 しかしながら、海陵王は、破滅する。 五十万の大軍をかき集め、南宋を攻撃したのである。 しかし、金軍は、采石の戦いで大敗を喫する。 南宋軍は、大砲のような火薬兵器や、特殊な軍船を開発しており、これが勝敗を分けたようである。 もっとも、金軍は一気に戦線を突破できなかったというだけで、別段壊滅したわけではなく、戦線は膠着したようである。 彼を死に至らしめたのは、内部の謀反だった。 采石の戦いでの敗北と同時に、金の国内は騒然として、それまで服属していた契丹人が散八らの指揮のもと独立戦争を起こした。 後方地域にあった女真貴族・皇族らは、こうした状況を収拾すべく、海陵王の従兄弟に当たった雍を皇帝の地位に担ぎ上げた。 重臣の一人の完顔元宜が兵を率い、海陵王を攻撃し、ここに部下の裏切りにより海陵王は殺されたわけである。 雍は五代目の皇帝・世宗となり、外征の大失敗により混乱した金国をとりまとめ、契丹の反乱を鎮圧し、逆に攻め込んできた南宋軍を撃破して講和を結んだ。 世宗については、別項で詳しく述べたいが、彼の妻は海陵王に殺されたともいう。 また、世宗は女真文化を極めて愛好し、漢文化に心酔していた海陵王とは決定的にその点でも異なっていた。 海陵が殺されると、再び女真人優先主義がとられ、高位大官には例外を除き、女真人が、その補いには契丹人や渤海人がとられる体制がとられた。 世宗や女真皇族・貴族の海陵王に対する怨嗟は相当なものであったようで、のちに史書が編纂される時、海陵王を悪く書くよう奨励され、 海陵王についての悪逆非道を暴き立てたものには報奨が与えられたそうである。 そのため、海陵の時の記述は十に一つも信用できないと、当時を知る者が述べたことを、詩人の元好問はのちに書き記している。 そういうわけで、彼が行った暴虐というのは、あまり信用できない。 海陵王は、史書では正統な皇帝とは認められず、海陵庶人として記された。 後世、中間をとって海陵王と呼び習わすようになった。 つまり、金の海陵王の最大の罪とは、漢化政策にあったようである。 金に大敗して拉致され、黒竜江省で生涯を終えた北宋の徽宗。 政治はともかく、書画に関しては偉大な才能の持ち主で、道教を熱烈に信仰していた。 海陵王はその徽宗の元に出入りして、大きな文化的影響を受けた。 北京に遷都し、漢人を登用して漢化政策を進めた海陵王。 仏教を弾圧した。 中華の大統一を夢見た海陵王は、南宋を攻撃したが、火薬兵器の前に苦戦。 女真至上主義者の謀反によって打倒された。 海陵王の死後、金は漢化政策を廃止して、女真文化に戻した。 >>114 ペルシャ陶器は中国の影響下で発展したんだが 三上次男の「イスラーム陶器史研究」を読め >>119 そりゃ当たり前だろ 現代も工芸品を作ってるのは工場の作業員だが 「グランド世界美術8 イスラムの美術」岩村忍編 この新しい焼物作りにはササン朝ペルシアやビザンティンの製陶活動を基礎にして、多量に輸入され始めた中国陶磁の影響が色濃く反映しており、 大きな刺激となったことは疑いない。 鉛釉を使った各種の色釉をかけあわせた三彩、錫(すず)を溶媒剤に使った失透性の白釉では、その形や文様は明らかに9〜10世紀の中国陶磁を手本としたものが圧倒的に多い。 16世紀のイランにサファビー朝が興り、ペルシア人による帝国が興ると、製陶も復活して旧来の伝統がよみがえった。 しかし新味はやはり明(みん)代中国製の染付磁器の模倣にあった。 http://parstoday.com/ja/radio/programs-i28842 >イルハン朝は、1256年から1335年まで、イランを統治しました。この間、イランの芸術や文明は、東洋の芸術、特に中国の芸術の影響を受けました。 >中国人の縫い師が、型を使った裁縫を少しずつイランに広めました。 >中国語のはさみ、パターン、アイロンといった言葉は、この時代から広まりました。イルハン朝の衣服も、このような影響を受けていました。 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110006389906.pdf?id=ART0008387893 >イスラーム世界では、8世紀ごろから16世紀ごろまで、隣接する中国の美術や文化の影響を受けた。イスラーム世界では初期から、中国の陶磁器や絹織物などに対する憧れが >強く、また中国絵画も高く評価されていた。 > 中国の美術品や文物は、初期には交易や献納品などとしてイスラーム世界に伝来したが、13世紀中期にモンゴル民族がイスラーム世界を制覇し、イランにイル・ハーン朝という >モンゴル王朝を確立すると、中国の美術工芸品が大量にイスラーム世界に入り、伝統的なイスラーム美術に新風を吹き込んだ。 そりゃ、中国の影響くらいあるだろ そんなの、お互いさまだっつーの しかし、テント生活するモンゴル人やトルコ人にとっては、ペルシャ絨毯こそが必需品 唐と元 中国とペルシャにまたがる勢力をもった2つの世界帝国だが、 2つとも中国文化より、ペルシャ文化に傾倒した モンゴル帝国においては、色目人のほうが漢人より上の身分とされた 相変わらず願望垂れ流してるな じゃあ何で漢人姓を名乗ったり老子の子孫と自称していたんですか? 何で漢風の宮殿に住んで漢字を使っていたんですか? >>134 イル・ハン朝時代の中国の影響はほぼ一方的なんだよ 「世界美術大全集 東洋編 第17巻」、「グランド世界美術8 イスラムの美術」を読め 反論があるなら明確な文献を挙げてくれ >>123 デイヴ・ディー・グループ「ザナドゥの伝説」 それをカバーしたザ・ジャガーズの曲のタイトルは「キサナドゥの伝説」 初めの頃はタイトルに近く「キサナドー」と歌ってたけど、 やがて「ザナドゥ」と歌うようになったw ※シングルは最初の録音のまま「キサナドー」 数々の名曲を生み出した、永遠の憧れ「ザナドゥ」 モンゴル帝国の栄光だな ただ、現実の上都=Xanaduは、草原に無数のパオが居並ぶだけの殺風景なものか、とw (コピペ) マルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で上都について、大理石で出来た宮殿があり、建物の内部はみな金で塗られ、 鳥獣花木の絵が描かれるなど工芸や技術の粋を尽くした装飾がなされて見るものの目を楽しませている、と書き残している。 マルコ・ポーロらによりヨーロッパへ伝えられたきらびやかな大都市・上都の姿は、その後のヨーロッパ人の想像力に影響を与えた。 『見聞録』を読んだイギリスの詩人サミュエル・テイラー・コールリッジは、1816年に『クブラ・カーン、あるいは夢で見た幻影:断片』を書き、この中に歓楽の都・ザナドゥを登場させた。 以後、ザナドゥは伝説の都、あるいは理想郷の象徴となっている。 >>142 たしかに周囲は一面の草原だけど、上都そのものは、碁盤の目状に整備された京都の平安京みたいな都市 マルコ・ポーロは、実際に上都に行ったはずだから、きらびやかな雕欄玉砌の描写には説得力がある ただし、寒すぎて農業生産力がゼロに近いので、食料不足には悩まされたようだ。 その点に関しては、いにしえの唐の都・長安にすら遥かに見劣りする。 帝国の権力者の所在地という以上のものはなかったろうな まあ現実には、上都が避暑地で、本籍は大都だっただろうな。 経済力の差がありすぎる。 クビライは実際は都外のパオにすんでたっていうから形だけのものだったんだろうな 中国で大ヒットしたタイムスリップ時代劇「宮廷女官ジャクギ」では、清の康熙帝が毎年、避暑と鎮撫を兼ねてモンゴルに行幸していた。 夏の間は、モンゴルのテントで過ごしてた。あれと同じようなものか? 基本的に、遊牧民は宮殿に興味がない。 北京の紫禁城だって、今みたいに立派になったのは明代だし。 商都としての北京の経済力は、元代がピークだったな 明清では、政治都市って感じになった 1時間ほど前、放送大学「歴史から見る中国」講座で、遼金元明清の北京の歴史をやっていた。 なるほどと思う内容だった。 2013年から放送されてる講座で、毎年繰り返し視ているものではあるけど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる