古代ローマを語ろう【ローマ人の物語】33©2ch.net
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年代記のカウキー襲撃の部分
好意的に見ればカンニネファテス族の
ガンナクスに扇動されたと考えることもできるけど
積極的に略奪侵入やったことはやはり否定できないから
やはりゲルマニアで述べられてる性格とは食い違ってるな 相手が平和的で金持ちなら襲う
ローマ人の前では誠実なように振る舞い略奪なんてしませんよ、と嘘をつく
さすが野蛮人 官軍が略奪虐殺やり過ぎて住民が蛮族に靡いて終了って
金や元の時もそうだったからな
ま、中国史ではお約束だわな どうしてもシナに話を持っていきたがる輩が居るな
どうせローマに興味無いのに勢いあるから来てるんだろ?
帰っていいよ ゲルマン蛮族が適切に野蛮人扱いされると火病って何故か中国叩きを始める統失いるよね ローマ帝国と中華王朝はシルクロードの繋がりがありそう
三国志の時代、ローマはローマ帝国 パルミラ王国 ガリア帝国に分裂してた ローマがドナウ帝国 パルミラ王国 ガリア帝国に分裂したままで
属州ダキアを放棄せずにドナウ防衛に専念していたのならば
かなり安定しただろうな
ドナウ軍団がガリアやオリエントも防衛しなければならなくなったので
ドナウの防衛が手薄になってしまいゴート族らに突破されてしまった
ガリアの防衛はガリア人にオリエントの防衛はオリエント人に任せるべきだった
パルミラは元パルティア兵を雇ってササン朝を自力で防いでいたけど
パルミラ滅亡直後はパンノニア出身のプロブスらがオリエントを防衛した 中世は誰がどう見ても暗黒
西ローマ帝国滅亡後、文化水準が古代ローマのレベルに戻るのが1000年以上後のルネサンスだし
つか西洋の絵画を見ていつも不思議に思うのは
セムハム系で本来なら褐色黒目だろうイエスが、金髪碧眼の白人として描かれている点 起源主張はゲルマンのお家芸だからな
神殿を漂白したりアウグストゥスは名君だからゲルマン人だと言い張ったりそのキチガイぶりたるや >>106
新羅からガリアで制作された剣の柄が見つかってるんだって
どういう経緯で流れ着いたのやら 歴史に関しちゃ普通に南韓のウリナラファンタジ-より酷いもんなドイチュ人
昔も今も大昔も ベルリンのペルガモン博物館は、展示品としての神殿にもおどろかさせられたが、一番驚いたのはドイツ語の解説だ。
丸二日間かけて全部読んだが、すべてが、オリエントーギリシャ・ローマ、そして現代トルコとイランが、完全に現代ドイツに直結していることを、
ゲルマン魂を発揮した長文長文また長文で、主張していたな。 あの、ドイツ=ローマ史観と、ゲルマン魂としてのヘルマンーアルミニウスの存在は、どう折り合いをつけてるんだろうか。 優秀な奴は全員ゲルマン人なので
必然的にほとんどの古代の戦争はゲルマン人の内戦だったということになる いやゲルマン内戦と言えるのは中世から
古代でゲルマンパワーが台頭しはじめるのは3世紀頃からの晩期からであって
それまではローマに押さえつけられてきた基本的には試練と雌伏の時代 >>112
へぇ〜あんたドイツ語読めるの?
じゃあ頼むけどこれなんて書いてあるのかちょっと訳してみてくれ
https://de.wikipedia.org/wiki/Arminius 翻訳依頼スレかよ
つか電子書類ならばグーグル翻訳で十分じゃん
日本語にすると誤りが大きくなるから
ドイツ語から英語に訳したらええがな >>112,116
あのぉ、ローマからすればゲルマンの野蛮な暴力を防ぎ続けた歴史なんですけどね
ほんと迷惑でした
古代には文明の域に達しない民族が多い中、政治・経済から思想・文化に至るまで文明開化の生活を営んでいたのがローマ市民でした
ガリアやブリテンを始め、帝国の版図に入った地域の人々も市民権を得て文明人の仲間になりました
ずっと後世に至るまで彼らはこのことを誇りにしています
ローマこそが人類の理想・希望です
人間は決して野蛮な存在ではなく、文明を築いて穏やかに生存して行ける存在なのだと
それを略奪と暴力で脅かし続けたのがゲルマンです
衰えに乗じてローマにとどめをさしたのも蛮族どもです
ずっと後になって反省したのかあこがれたのか神聖ローマなどと称するも笑止
ローマを受け継ぐものなどと世迷いごとの展示を為すに至っては何をか云わんやであります そうだ。
古代ローマに関して詳しいことは、ともかく
京都大学学術出版会・刊行の稀代の名著『西洋古典学事典』ならびに、
『西洋古典学事典アプリ』を参照せよ。
よいな。 >>121
フェニキア人「せ、せやな……(震え声)」 >>112
現代トルコとドイツが直結?クッソワロタ
きみドイツ語出来ないどころかドイツに行ったことすらないでしょ?
ドイツ人というか西欧人のトルコ人に対する印象ってほんと最悪だからな >>124
>>112は「ペルガモン博物館の解説にはそうあった」としか読めないが。 じゃあすげぇリベラルな奴がいてそいつがその解説を書いていたんだろうな
保守派ほどイランやトルコ大嫌いだから
どれぐらい悪いイメージもたれてたかというと指輪物語の作者がモルドールはトルコがモデルですと言うぐらい
蛮族を多数従える悪の専制帝国ってのがかつてのヨーロッパ人のトルコのステレオイメージ 全く世俗化しなかったムスリムには激しい闘争を経て世俗化した西欧から見ると嫌悪感あるんだろ
結局トルコは世俗派が負けて中世に逆戻りするしEUに入れるわけない 最も野蛮で最も醜いとローマ人から蔑まれていた平たい顔族がローマ人になりきるスレ >>126
壮麗で一つの国を代表する巨大博物館の展示システムと解説文(一つ一つが長大で全部合わせれば百科事典くらいになるだろう)が
特定個人とその政治イデオロギーにより決定できると思っているならお前はどうかしている
また個人レベルでの感情とパブリックでのそれは西欧ではまったく違うしドイツでは特にそうで
公的にはオリエントーローマードイツという継承ラインを正当化するために全ての論理が動員されている
たかがファンタジーの設定および歴史的感情と政治的正当性とメリットをもつイデオロギー的主張を混同するアホはおらん モムゼンはアルミニウスのことを再評価してたし
サヴィニーはローマ人の秩序(法)とゲルマン人の精神を継受したのがドイツ人だといってたから
多分そんな感じじゃね? >>112は見た上で件の感想を持ったんだろ?
じゃあ>>129も行って見てまた違う感想を書き込めばええやん
見もしないで「〜なはずだ!」ってごちゃごちゃうるせえよ
もう他所でやれ 歴史的に偉大な物を全て起源主張するのがドイツ人
アーリア人種やら人類学やら戦前戦中は酷い妄想ばかりだし
戦後も妄想体質は何も変わって無い ドイツとトルコの親和性の強調は国内の保守派のカウンターバックとしてやってるんじゃないの
日本の歴史教科書も戦前の反動で、やたら古代からの朝鮮との関係を強調したり肩もつ記述になってるし
自国を打ち破った他国の英雄をコラムまで割いて教科書で解説してる国ってなかなかないぞ 特定個人とその政治イデオロギーが学説や公的機関に影響及ぼすなんて文系学問ではしょっちゅあることだがな
講座派と労農派の抗争とかほんと下らない トルコといえば歴史ドラマのオスマン帝国外伝やってるな
ウクライナの村を襲って住民虐殺、女は拉致するタタール人が思いっきりドルジ顔のモンゴロイドだったわ アルプスの氷を削りその上に蜂蜜をかけたものがローマ式かき氷である 古代ローマ帝国でググったら、紀元前8世紀に建国って書いてある。
4世紀末にコンスタンティノープルに遷都して8世紀には旧都の領土での影響力を失った
とはいえ、滅ぼされたのは15世紀半ば。。
つまり、ローマ帝国は2200年も存続したということ? オスマントルコもローマ帝国皇帝名乗ったからオスマン滅亡まではカウントして良いんじゃね? >>141
じゃあどうして、ローマ帝国がオスマントルコに滅ぼされたって言われてるの? あと、ウィキペディアだったか、
ローマ帝国からヨーロッパの領土を奪ったフランク王国、いわゆる西洋人(the Western)たちは、
ローマ帝国(東ローマ帝国)のことを「ギリシャ人の国家」と呼んだ、って書いてあった。
どうして、西洋人たちはローマ帝国を「ギリシャ人の国」と呼んだの? 神聖でもなく、ローマでもなく、帝国でもない神聖ローマ帝国を間接的にディスるのはやめてください(切実) >>144
神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)は、まったく関係ありません。
本物のローマ帝国の話です。 日本て島国だからいろんな国に支配される感覚わからないけど
ヨーロッパの人はその辺どうなんだろう
自分のルーツに対しての気持ちとかどうなってんのかな >>140
日本は2650年続いてるし秦帝国は2700年続いた
それと同じ事 >>146
ポーランドなんかその例として象徴的だが、若い世代は相当悩むらしい >>141
オスマン朝はセルジューク朝やホラズムの後継者
ローマの元々の本国がイタリアだったように
イスラム・トルコの本国はホラサンだった セルチュクはホラーサーンじゃ無くモンゴル北西部の出な もともと「アニメーション」という用語は「アニマル」と同じ「アニマ(ラテン語の霊魂)」を語源としている。 >>149
中華民国のもともとの領土が今の中国だったというのと似たようなものだね。 満州族の清帝国 → 中華民国 → 中華人民共和国
ラテン人のローマ帝国 → イリュリア人の東ローマ帝国 → ギリシャ人の東ローマ帝国 漢帝国の最後は三国志で有名で、
本も映画も山ほどあるが
(西)ローマ帝国の最後も劇的なんだけど、あまり小説、映画がない
戯曲のエツィオくらいしかない
塩野に飽き足ら、少し固めの弓削達か南川か、それこそギボンにいくしかない
アドリアノープル戦のヴァレンス帝敗死から
スティリコやアラリック、ホノリウスなんてまんま三国志に当てはめできるし
三国志じゃないけど、スティリコなんて岳飛みたいだし
三国志の時期の異民族は大人しかったが、
ローマ末期はアッティラが出てくる
女だってガッラ=プラチディアとか濃いのがいる
アエティウス(エツィオ)やオドアケルやアンブロシウスだって濃いし
ユリウス=ネポスやビザンチン皇帝のゼノなんて名前からして中2心をくすぐる
三国志並みに人間はいるんだよ トルコのWikiにはトルコ政府の公式見解では自国をヨーロッパの国としているとあるな
トルコ人はアジアに分類されるのは嫌なんだろうな >>154
その国家の移動先を書くなら、
満州族の清帝国 → 中華民国 → 台湾
ラテン人のローマ帝国 → イリュリア人の東ローマ帝国 → ギリシャ人の東ローマ帝国
でしょ。 ローマ帝国は、フランク王国(ゲルマン)という野蛮人に駆逐され、東のイスタンブールに移動した。
支那帝国は、人民共和国(共産党)と言う野蛮人に駆逐され、東(正確には南南東)の台湾に移動した。 共産党(人民共和国)に領土のほぼすべてを奪い取られた支那帝国(中華民国)が、再び復権して、領土を取り戻す可能性は、
かつてのローマ帝国(今の東方教会)が、西のカトリック教会と合体する可能性と同じくらいなんだろうか。
つまりほぼあり得ない??と思ったけど、考えてみたら、
西のカトリック教会は、今でもローマ帝国(今の東方教会)の教えや伝統を守って、
教皇の名前はローマ帝国の名前にするし、ハロウィンも認めていない。
つまり、西のカトリック教会は、東方教会の伝統を受け継ぎ守り続けているわけだから、
話し合えば再統一して、東方教会(ローマ帝国)の復権と言う可能性もゼロではないのでは??
中華人民共和国も、かつては徹底的に否定した支那の伝統や誇りを、今では最大限に尊重している。
話し合えば台湾に駆逐された支那帝国と再統一して、シナ帝国の復権も可能なのでは? >>155
劉禅「朕は孔明殺さなかったからホノリウスよりはマシ」
>>156
元祖アジアの地に住んどいて、無理筋にも程があるわー。 >>159
どっちも無いな。
もともとローマ司教とコンスタンチノープル司教で同格のはずなのに、
ローマ教皇が「神の代理人」を名乗ってる時点でアウト。
支那の方も無理。どっちかがどっちかを滅ぼして皆殺しという形でしか
統一は有り得ないだろ。基督教も支那も、基地外原理主義団体だからな。 >>159
台湾自治区に成る迄20年掛からんでしょ
正教会と西方異端はローマ僭王を廃止為ん限り不可能 >>148
そうかー、やっぱ悩む人いるよなー
現マケドニアの国民なんか自分はマケドニア人だなんて
思ってないよな、多分 >>159
中国のお家芸の内乱、軍閥割拠が始まったらワンチャンスあ?かも どうして、ローマ皇帝とローマ教皇は立場や身分が逆転したんだ?
キリスト教を受け入れてから、ローマ皇帝は権力権威が失われたのは何故なんだろか? 立場が逆転したって勘違いするのは西ローマが滅亡した後にローマ教皇がフランク王にローマ皇帝を僭称させたり
神聖ローマなるドイツ人の連合体の皇帝に戴冠したりしたからで
国としてローマ健在の頃はそんな事はあり得ないよ。
ローマ皇帝が教皇を任命するわけだし >>165
ローマ帝国の皇帝が、教皇より弱くなったことなどありませんよ。
もともと何百年もの間、帝国内に跋扈してたキリスト教徒たちとの戦いに際限がなかったから、
ローマ統一のためにキリスト教を公認したのであって、
帝国がキリスト教を取り入れたわけでもないし、ローマ帝国が教会に支配されり、影響を
受けたこともない。
その逆で、カトリック教会は、ローマ皇帝の庇護を得て、ローマ皇帝の言いなりにローマ
皇帝の政治に利用された。
ローマ帝国が遷都をして、旧首都の管理がおろそかになったため、旧首都にあったカト
リック教会が蛮族のたてた国家、フランク王国に乗っ取られてしまった。 コンスタンチノープルって、別にローマより人口が多かったり巨大だったりしたわけじゃないんだろ? 古代ローマ帝国において、皇帝ってのはキリスト教関係なく存在できる
キリスト教の了解を得なくても次の後継者を決めて戴冠していい
皇帝は軍事力を持っていて、これもキリスト教に関係ない
実際に教会を攻撃しまーすって言ったら社会問題になるけど、元々の権限的に問題ない
神聖ローマ帝国においては、皇帝ってのはタテマエ上教皇様が認めたから存在できる
教皇権が強くて且つ国内の統制が取れていなければカノッサの屈辱のように
地元領主から皇帝と認めないよ〜とか言われる「可能性」がある
しかし神聖ローマ皇帝は結局世俗諸侯で圧倒的な軍事力を持っているから
国内統制さえできていれば教皇勢力なんて何の障害にもならない
いっつも諸侯間をうまく渡り歩いた教会のリーダーだけが皇帝の好き勝手にさせない力を限定的にもってることもある、程度 カノッサの屈辱させられたハインリヒ4世も、最終的には教皇を追い出してるしな ヨーロッパの貴族で古代ローマのパトリキの家系をルーツにしてるのって聞いたことがないんだけど
コンスタンティノープルが首都になったことで当時の貴族階級はみんな皇帝とともに移転しちゃったからなのかな? >>168
コンスタンティヌス1世が惚れ込んで新都市建設を思い立つくらいだから、おそらく美しかったんでしょう。
非ローマ市民の人数が管理しきれないほどにふくれあがり、乱れたローマに比べれば、
どこでも美しく思えたんでしょうけど。
モデルスキーの人口推計では、
遷都前4世紀のローマは100万人。5世紀には80万人。7世紀には10万人とウィキペディアに紹介されています。
5世紀以後、蛮族に襲われて人口が激減したあげく、西ローマ帝国そのものが滅んだので、
そもそも「都市」ではなくなったのでしょう。
コンスタンチノープルは遷都後5世紀に40万人、6世紀に50万人、7世紀に60万人。 神聖ローマ帝国っていう名前が紛らわしいんだよね。
ドイツ帝国で統一したらいいのに。
ローマ帝国を東へ駆逐し、ローマ帝国の西方領土(西ローマ帝国)を奪い取り、
カトリック教会を買収して取り込んだ蛮族の帝国。 ウィキペギアの記事によると
キリスト教の下では相手がたとえ皇帝であろうとも、主教(司教)の命令には信者は従わなくてはならないという規則がある。アンブロジウスはこれをテオドシウスを御するための手段とする。
テオドシウスは破門の処分を受けても約8ヶ月間は抵抗したが、ついに屈し、司教の足元に許しを請うた。
と書いてある
ローマ帝国は この時、歴史が動いたのだと感じる テオドシウス帝は、結局のところアンブロジウスの傀儡?になっていたかも知れない
ローマ皇帝が主教の言いなりになるのは前代未聞の出来事だよ。
ビザンツ帝国よりは些か東フランク王国の方がマシではないか? そう考えると、遷都を考えたのは、もしかしたらカトリック教会を捨てるためだったのかもしれないな。
蛮族にのっとられたという見方は正しくなく、
ローマ帝国に捨てられたカトリック教会が、経済的支援や庇護を、蛮族の王に求めたということか。 392年にキリスト教を公認したあと、395年には旧都に置いてけぼりにされたのがカトリックなら、
ローマ帝国の歴史において、カトリック教会はほぼ関係ないということになるな。
392年に公認して、395年には一緒に新首都に連れて行った東方教会こそがローマ帝国の宗教ということでいいのかな。 ヴァンダル族の略奪に協力してる時点でもうローマ国家の宗教とは言えないでしょ
ローマを蛮族に売り飛ばしたのが今のバチカン >>182
皇帝でもできないことをやってのけた辺り、やっぱり教皇がNo1なんだよなぁ 西ローマ帝国崩壊後の無秩序と課した西欧に権威で秩序をつくりあげたカトリックがすごかったというべきか
生き残るためローマ帝国という看板すら玩具にしたカトリックに対して、東ローマ帝国に庇護されながらぬくんだオーソドックス
教皇至上主義はどうかと思うけど、歴史で経験した積み重ねは否定できないと思う >>184
オーソドックスだってスラブ人相手によく頑張ったじゃないか カトリックの教皇は、今でも本名ではなく、正教会に習ってギリシャの名前に改名して
就任する。正教会に習ってハロウィンも否定している。
ほぼ全て正教会以来の伝統を守り続けているのだから、いずれカトリックの教皇が正教会
に戻る日は来るんじゃない? 冷たいな。そんな言い方だと希望を持ってしまうじゃないか。 後々の東ローマや正教会との関係や十字軍なんかの経緯考えたらローマ帝国自体西方のカトリックとはあまりいい関係とは思えないよな。
そもそもローマ教皇っても元を辿ればローマ領内にいくつかあったコンスタンティノポリスやカルタゴ、アレキサンドリアなんかの各地方に置かれた司教の1人だろ。
ローマとコンスタンティノポリスの司教以外はみんなイスラム教に飲み込まれていったってだけで、その2つだけが残ったってだけで
成り立ちを考えたら教皇=地方の司教ごときが西のローマ皇帝を任命するとか大それてるにもほどがあるよな。
秩序が崩壊して再建中だった中世の西欧だからそれもできたんだろうけど、そんなもんは東ローマの皇帝健在の時は認めてなかったわけだし。 >>191
?
カール戴冠時に東ローマも東ローマ皇帝も健在でしょ? そういくら西欧で新しい秩序権威を作ろうとして、それを試みても東ローマ健在の頃は東の皇帝の承認がなきゃそれは正式なものでないわけで
西欧からの目線と東ローマからの目線だとそれぞれ言い分があるんだろうけどね。 そういえばローマの元老院って崩壊後どうなったの?
元老院さえ残ってれば教皇の好き勝手にはならなかったと思うけど 少なくともビザンツ帝国がローマを再征服した時点では消滅してたっぽい
コンスタンス2世だかがローマを見て「あの元老院はどこへ行ったのだ」とか嘆く逸話があったはず ビザンツ帝国がローマを再征服した時点で消滅したんですけどね
崩壊の原因を作った大元が「あの元老院はどこへ行ったのだ」とかどの口が言ってるんだって話
東ゴート王国時代の元老院はカトリック派に立ってゲルマン側のアリウス派に対抗していたので
両者が対立するとかまずない >>196
東ゴート族はゲルマン人だしテオドリックはアリウス派なんだが 元老院って要は貴族院だし支配民族が変われば消滅が必然 >>197
それがどうしたの?
東ゴート王は王国内のローマ人統治に関しては執政官と元老院に任せて
宗教に関してもカトリックが崇拝され信仰の自由が保たれていたが
東ローマ軍が講話を認めず東ゴートを追い込んだのでトーティラの手によって元老院が滅ぼされることになった
これすべてプロコピオスの「戦史」に載っているようなことだし当然知ってるよね? >>171
ハプスブルクが確かユリウス一門の末裔的なこと言ってたような。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています