古代ローマを語ろう【ローマ人の物語】33©2ch.net
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立場が逆転したって勘違いするのは西ローマが滅亡した後にローマ教皇がフランク王にローマ皇帝を僭称させたり
神聖ローマなるドイツ人の連合体の皇帝に戴冠したりしたからで
国としてローマ健在の頃はそんな事はあり得ないよ。
ローマ皇帝が教皇を任命するわけだし >>165
ローマ帝国の皇帝が、教皇より弱くなったことなどありませんよ。
もともと何百年もの間、帝国内に跋扈してたキリスト教徒たちとの戦いに際限がなかったから、
ローマ統一のためにキリスト教を公認したのであって、
帝国がキリスト教を取り入れたわけでもないし、ローマ帝国が教会に支配されり、影響を
受けたこともない。
その逆で、カトリック教会は、ローマ皇帝の庇護を得て、ローマ皇帝の言いなりにローマ
皇帝の政治に利用された。
ローマ帝国が遷都をして、旧首都の管理がおろそかになったため、旧首都にあったカト
リック教会が蛮族のたてた国家、フランク王国に乗っ取られてしまった。 コンスタンチノープルって、別にローマより人口が多かったり巨大だったりしたわけじゃないんだろ? 古代ローマ帝国において、皇帝ってのはキリスト教関係なく存在できる
キリスト教の了解を得なくても次の後継者を決めて戴冠していい
皇帝は軍事力を持っていて、これもキリスト教に関係ない
実際に教会を攻撃しまーすって言ったら社会問題になるけど、元々の権限的に問題ない
神聖ローマ帝国においては、皇帝ってのはタテマエ上教皇様が認めたから存在できる
教皇権が強くて且つ国内の統制が取れていなければカノッサの屈辱のように
地元領主から皇帝と認めないよ〜とか言われる「可能性」がある
しかし神聖ローマ皇帝は結局世俗諸侯で圧倒的な軍事力を持っているから
国内統制さえできていれば教皇勢力なんて何の障害にもならない
いっつも諸侯間をうまく渡り歩いた教会のリーダーだけが皇帝の好き勝手にさせない力を限定的にもってることもある、程度 カノッサの屈辱させられたハインリヒ4世も、最終的には教皇を追い出してるしな ヨーロッパの貴族で古代ローマのパトリキの家系をルーツにしてるのって聞いたことがないんだけど
コンスタンティノープルが首都になったことで当時の貴族階級はみんな皇帝とともに移転しちゃったからなのかな? >>168
コンスタンティヌス1世が惚れ込んで新都市建設を思い立つくらいだから、おそらく美しかったんでしょう。
非ローマ市民の人数が管理しきれないほどにふくれあがり、乱れたローマに比べれば、
どこでも美しく思えたんでしょうけど。
モデルスキーの人口推計では、
遷都前4世紀のローマは100万人。5世紀には80万人。7世紀には10万人とウィキペディアに紹介されています。
5世紀以後、蛮族に襲われて人口が激減したあげく、西ローマ帝国そのものが滅んだので、
そもそも「都市」ではなくなったのでしょう。
コンスタンチノープルは遷都後5世紀に40万人、6世紀に50万人、7世紀に60万人。 神聖ローマ帝国っていう名前が紛らわしいんだよね。
ドイツ帝国で統一したらいいのに。
ローマ帝国を東へ駆逐し、ローマ帝国の西方領土(西ローマ帝国)を奪い取り、
カトリック教会を買収して取り込んだ蛮族の帝国。 ウィキペギアの記事によると
キリスト教の下では相手がたとえ皇帝であろうとも、主教(司教)の命令には信者は従わなくてはならないという規則がある。アンブロジウスはこれをテオドシウスを御するための手段とする。
テオドシウスは破門の処分を受けても約8ヶ月間は抵抗したが、ついに屈し、司教の足元に許しを請うた。
と書いてある
ローマ帝国は この時、歴史が動いたのだと感じる テオドシウス帝は、結局のところアンブロジウスの傀儡?になっていたかも知れない
ローマ皇帝が主教の言いなりになるのは前代未聞の出来事だよ。
ビザンツ帝国よりは些か東フランク王国の方がマシではないか? そう考えると、遷都を考えたのは、もしかしたらカトリック教会を捨てるためだったのかもしれないな。
蛮族にのっとられたという見方は正しくなく、
ローマ帝国に捨てられたカトリック教会が、経済的支援や庇護を、蛮族の王に求めたということか。 392年にキリスト教を公認したあと、395年には旧都に置いてけぼりにされたのがカトリックなら、
ローマ帝国の歴史において、カトリック教会はほぼ関係ないということになるな。
392年に公認して、395年には一緒に新首都に連れて行った東方教会こそがローマ帝国の宗教ということでいいのかな。 ヴァンダル族の略奪に協力してる時点でもうローマ国家の宗教とは言えないでしょ
ローマを蛮族に売り飛ばしたのが今のバチカン >>182
皇帝でもできないことをやってのけた辺り、やっぱり教皇がNo1なんだよなぁ 西ローマ帝国崩壊後の無秩序と課した西欧に権威で秩序をつくりあげたカトリックがすごかったというべきか
生き残るためローマ帝国という看板すら玩具にしたカトリックに対して、東ローマ帝国に庇護されながらぬくんだオーソドックス
教皇至上主義はどうかと思うけど、歴史で経験した積み重ねは否定できないと思う >>184
オーソドックスだってスラブ人相手によく頑張ったじゃないか カトリックの教皇は、今でも本名ではなく、正教会に習ってギリシャの名前に改名して
就任する。正教会に習ってハロウィンも否定している。
ほぼ全て正教会以来の伝統を守り続けているのだから、いずれカトリックの教皇が正教会
に戻る日は来るんじゃない? 冷たいな。そんな言い方だと希望を持ってしまうじゃないか。 後々の東ローマや正教会との関係や十字軍なんかの経緯考えたらローマ帝国自体西方のカトリックとはあまりいい関係とは思えないよな。
そもそもローマ教皇っても元を辿ればローマ領内にいくつかあったコンスタンティノポリスやカルタゴ、アレキサンドリアなんかの各地方に置かれた司教の1人だろ。
ローマとコンスタンティノポリスの司教以外はみんなイスラム教に飲み込まれていったってだけで、その2つだけが残ったってだけで
成り立ちを考えたら教皇=地方の司教ごときが西のローマ皇帝を任命するとか大それてるにもほどがあるよな。
秩序が崩壊して再建中だった中世の西欧だからそれもできたんだろうけど、そんなもんは東ローマの皇帝健在の時は認めてなかったわけだし。 >>191
?
カール戴冠時に東ローマも東ローマ皇帝も健在でしょ? そういくら西欧で新しい秩序権威を作ろうとして、それを試みても東ローマ健在の頃は東の皇帝の承認がなきゃそれは正式なものでないわけで
西欧からの目線と東ローマからの目線だとそれぞれ言い分があるんだろうけどね。 そういえばローマの元老院って崩壊後どうなったの?
元老院さえ残ってれば教皇の好き勝手にはならなかったと思うけど 少なくともビザンツ帝国がローマを再征服した時点では消滅してたっぽい
コンスタンス2世だかがローマを見て「あの元老院はどこへ行ったのだ」とか嘆く逸話があったはず ビザンツ帝国がローマを再征服した時点で消滅したんですけどね
崩壊の原因を作った大元が「あの元老院はどこへ行ったのだ」とかどの口が言ってるんだって話
東ゴート王国時代の元老院はカトリック派に立ってゲルマン側のアリウス派に対抗していたので
両者が対立するとかまずない >>196
東ゴート族はゲルマン人だしテオドリックはアリウス派なんだが 元老院って要は貴族院だし支配民族が変われば消滅が必然 >>197
それがどうしたの?
東ゴート王は王国内のローマ人統治に関しては執政官と元老院に任せて
宗教に関してもカトリックが崇拝され信仰の自由が保たれていたが
東ローマ軍が講話を認めず東ゴートを追い込んだのでトーティラの手によって元老院が滅ぼされることになった
これすべてプロコピオスの「戦史」に載っているようなことだし当然知ってるよね? >>171
ハプスブルクが確かユリウス一門の末裔的なこと言ってたような。 そういやキリスト教が国教になるまでの古代ローマ帝国の遺産(というか文化、技術)は、まだ国教化された時点では残ってたんだよね。
便利だって思ったものを何で残せなかったのだろうか・・・・それもキリスト教の教えの故?? 国教化された後も教会には残ってるよ。
というかラテン語文献をごっそり溜め込んで教会でのみ独占したわけで、もちろん失われていった物もあるけど、それはブリタニアの、例をあげたらローマ軍撤退後200年経たずに
石造りで瓦葺きの建物が失われて木造掘っ建て小屋に変わってしまったように生活レベルが落ちて必要なくなった技術だよね。
中世の街中じゃラテン語どころか文盲ばかりの庶民達だけど教会で牧師になるにはラテン語の読み書きが必要なわけで、読み書き出来れば古代ローマの文献も読み漁る事が出来るわけだよ。 >>195
竹下昇政権の時、よく「あの自民党はどこへ消えたんだ」と自民党タカ派の人たちが
言っていたけど、自民党は存続してたし、ただだらしなくなってしまったことをさし
てそう表現したんだよ。
どうやらローマ帝国の元老院は、皇帝と共に新首都コンスタンティノープルに移動して、
ローマ帝国滅亡(1453年)まで存続したそうです。
また、歴史学者がローマ帝国のことをビザンツ帝国と呼ぶようになったのは19世紀頃からだそうです。
ウィキペディアで<元老院>についてこう書かれています。
>ローマの元老院は、紀元前27年の帝政移行後も存続したが、次第に権限が縮小され、
>正当な皇帝を承認する機関へ、そして、皇帝の諮問機関へと、段階的に性格を変えて
>いった。それでも、「元老院」という名称の機関そのものは、1453年の東ローマ帝国
>滅亡まで存続した。 西の元老院はオドアケルと結託して皇帝を廃位して共和制の再来ともいえる全盛期を
取り戻したが上で書いた通り東ローマに圧迫された東ゴートと共に心中
東の元老院もニカの乱で無力化された後は皇帝の協賛機関として再編されて実質ただの貴族の寄り合いとかして
諮問機関としての機能は完全に消滅している ローマ帝国を変貌させた人物
コンモドゥス帝 ローマ衰退期
カラカラ帝 ヘリオガバルス帝 ローマの軍国主義時代
以下
群雄割拠
四分統治 西ローマ帝国と呼ばれているのは、そういう帝国があったわけではなくて、ローマ帝国
西部のこと。
首都や元老院がはるか遠い東方に移ってしまったことで、多くのエリートたちも出ていき
管理や防衛が弱まって、人口も激減して弱体化していた時に、今のフランスあたりに建国
されたフランク王国が、その後どんどん影響力を強めて浸食し、最終的に、今のドイツや
イタリアの大半をすっぽり覆う、ローマ帝国の西方領土を奪いとった。
そのあたりを指して西ローマ帝国と呼んでいるだけのこと。 >>207
アメリカの大リークでいう所の西部地区みたいなもんかな(笑) 西ローマ帝国は、日本でいうと応仁の乱で焼け野原になった京都みたいな感じかな( ^ω^)・・・ 西ローマ帝国の都ローマは、ヨーロッパ西部を抑えていたゴートに襲撃されて陥落し、
ゴートに征服されてしまう。これが西ローマ帝国滅亡。
東ローマ帝国がその後西ローマ帝国を復活させるけど、脆弱極まりない状態だったので
異民族にすぐに滅ぼされてしまい、後にはほぼすべてフランク王国に吸収された。 >>209
そうだね。
とはいえ異民族に征服されたわけではないけど。
もし、その時荒れ果てた京都に台湾原住民だかが乗り込んできて京都を征服して、西日本が
そいつらの領土になるようなことがあれば、まさに西ローマ帝国みたいな感じ。 >>206
> カラカラ帝 ヘリオガバルス帝 ローマの軍国主義時代
これはどちらかというとその前のセプティミウス・セウェルスの仕業
ただでさえ軍事費が財政圧迫してる中でさらなる軍増強・優遇政策を親父が強引に進めて
カラカラ以降はその無理ゲーを引き継がされてやっぱり失敗したという立場 セウェルス帝はトラヤヌス時代の最強っぷりを一時的に蘇らせたのと引き換えに、
火の車だった帝国財政に止めを刺しちゃったからな。
元世界チャンプがドーピングして王座に返り咲いたようなもの。
そこから先は反動で体がボロボロになってひたすら落ちていくのみ。 カエサルやアウグストゥスの名を名乗ったり実父や養父を神格化して神殿建てて自身を神の子と演出したり、
どんなに権威付けをしたって暴政を行えば(と思われれば)容赦なくぶっ殺されるわけで、
政治的に権威付けって必要?
なんか役に立ってたの? >>214
権威付けしまくったからこそ皇帝が殺されるくらいで程度で済んでたんだよ
共和制末期の政治不安定すぎで今にも砕けそうだったローマを
繋ぎとめた楔となったのがアウグストゥスが権威ガチガチに固めて構築した皇帝のポジション
もし権威付けしていなかったら
「ローマの最高指導者」はカエサル一代で終わって帝政以降なんてなく
ローマそのものがすぐに分裂コース >>214
権威付けしてなかったら
中の人が殺されるどころか帝位そのものが廃されて
グダグダな共和制システムに戻ってローマ崩壊だぞ >>214
権威付けしなかったらそもそも暴政うんぬん以前の話だから。
仕事ぶり関係なく親衛隊とかの気分や都合でいきなりサクッと殺される。
権威付けしておけば暴政をしないかぎり(と思われなければ)
少なくとも暗殺の危険性はかなり下げられるし、
それこそティベリウスやハドリアヌスのように、
暴君でも(と思われていようが)強引に押し切ることもできる。
権威付けがなかったらそもそもまともな暴君にすらなれない。
その前に殺される。 在位数ヶ月〜数年レベルでポンポン死んでいった三世紀の皇帝たちは権威づけ失敗の典型例だな
そしてそういう奴らが続くほど皇帝位そのものの権威も薄れていく悪循環 現代では見逃されているがセウェルス家はシリアの出身であり、ローマ市にシリアの多神教を持ち込んだ事で当時大問題になっている
当時のローマ人にとってセウェルス朝は一種の宗教侵略に他ならなかった
セウェルス家の皇帝はローマ市民権をローマの全国民に付与したり、とにかく属州民(とりわけシリア人)の地位向上に熱心だった
最終的にキリスト教が勝者になるが、2〜3世紀頃のローマ帝国内ではオリエント系宗教が流行していたようだ
セウェルス朝はそのような風潮の中から生まれてきた時代の徒花であった 元々ギリシア哲学の本流はギリシアローマ多神教の元に養われており、それは長い事ローマ帝国支配層の基礎教養となっていた
学問と宗教の区別が曖昧であった古代社会において、ギリシアローマの学問は異教の教義でもあった
4世紀頃までのローマ帝国の真っ当な支配層はみな異教の哲学を学び、高度な学問と合理的思想を重んじていた
この当時でオリエント系の宗教を信仰していた階級の殆どは学のない貧民や迷信者であり、知識人階級からは見下される対象となっていた
セウェルス家はそのような中でローマの皇帝におさまった訳であり、周囲のインテリ階級からはかなり白い目で見られていたに相違ない
セウェルス朝が終わったあと、オリエント系宗教の中でキリスト教がギリシアローマ思想を吸収して、ローマ多神教を凌ぐ思想レベルまで高まってくる
この次に現れるオリエント宗教重視のローマ王朝はコンスタンティヌス朝であるが、この頃にはキリスト教がローマ多神教を凌駕する勢いを見せており、既に多くの知識人階級がキリスト教徒となっていた。 >>207
だから元老院は普通に残ってるし執政官も選出されてる
東ゴート王国もあくまで東ローマからするとの最後まで管区扱いで独立したことなんてなかった
>>210
全然違う
西ローマを滅ぼしたのはローマ将校だったオドアケルとそれと結託した元老院
オドアケル自身は帝位につかず、それをゼノンに返上してるので建前上はこの時に東西ローマは一度統一されてる ゾロアスター教 ミトラ教 マニ教 などなど
元を正せば中東アジアから発祥したんだよね
ローマ帝国が初めてオリエント風の国家になったのはディオクレティアヌス帝からだよ >>212
ウィキペディアからの記事で
セウェルス帝は息子達に、元老院と市民を無視してでも軍を最優先にしろと遺言したんだって
本当かどうかはわからないけど (´ε`;)ウーン… >>222
返上も何もオドアケル自身は西の帝位なんて持ってないから返上出来ないのでは?
ネポス帝暗殺後にって事? そもそもローマ帝国は東西に分裂していなかった
テオドシウス1世がアルボガステスらを倒して西の自立を阻止した
さらにホノリウスが東と対立するスティリコを粛清して自ら西の自立を阻止した 実効支配してなかったから、分裂してたしてないって水かけ論じゃない? ホノリウスは見事役目を果たしたな
ローマ的にはダメな方向に 西ローマ的にはダメな方向だけど
東ローマ的には大成功だった
バルカンから西ゴート族を追い出す事が出来た
帝国本土防衛に成功した 俺はローマ人だという自負のある者はみな東に移住してしまって
西は蛮族が跳梁跋扈する未開時代に退化してしまったし ゴート族をバルカンから追い出せたので東ローマは生き延びた
ゴート族が後のブルガリアのようにバルカンに建国したのならば
東ローマはゴート族とササン朝に挟撃されて中世には存在しなかったはず
ギリシャ人やアルメニア人は東ローマ皇帝になれなかったはず >>225
軍隊も元老院も掌握していて帝位に思えば就けたけど就かなかっただけですが
実際、西ローマの帝冠も紫衣もゼノンに送ってるでしょ
西ローマでは在来のセナトール貴族が権勢を誇っている一方でゲルマン自由民の没落が激しかった
そこでオドアケルはイタリアの土地の数分の一をゲルマンに分け与えることにしたのだけど、これではローマ勢力が内紛を起こしかねない
だから帝政を廃止して自身は軍管区長につけてもらい軍事とゴート族を管轄、あとの行政は元老院の好きに任せて、カトリックにも治外法権を与えて
お互い好き勝手出来ることにして折り合いつけてたんだが、対立皇帝レオンティウス側を支援する動きを見せたことから東ゴート族を送り込まれて滅ぼされたわけ
テオドリックにしてもゼノンの指示通り、あくまでオドアケルの職権を引き継いだだけで
ローマから独立しようとしたつもりはない 「ゴート戦史」プロコピオス 6巻6章
ゴート人の特使らこう言った。
「(略)我らは、その地の法を、政治秩序を、それまでの皇帝たちが傾けてきた以上に熱意をもって保持してきた。
成文化されていると否とに拘らず、テオドリックとその後継者たちがこの体制に反する法を発することはなかった。
宗教に関していえば、我らはイタリア人に完全な自治を与えようとした。彼らの自由は、誰一人として、今日にいたるまで強制的にであれ自由意志によるものであれ、
信仰を変える者がなかったことによって明らかだろう。
しかもわれらは、ローマ人の宗教(カトリック)に改宗したゴート人を厳しく扱うこともしなかった。我らはローマ人の教会をこの上ない敬意をもって遇してきたので
あって、ローマ人の教会に逃げ込んだ者はいかなる暴力をも振るわれることはなかったのである。(アジール権)
さらにまた、彼らは自分たちの統治機構(元老院)を持ち続けることができ、それにはゴート人は参与しなかった。(略)」
ベリサリウスはこう返した。
「我々としてはお前たちゴート人にはブリタニアをくれてやろうと思っているのだ。その地はシチリアよりも広大で、かつてはローマ人に服属していた土地でもあるしな。
最初に良いお返しをした者にはそれ相応の報酬が与えられるべきであろう。」 >>234
グレートブリテン島シチリアより狭いじゃん!
嘘吐きベリサリウスは皇帝にイジめ殺されろ! ベリサリウスとかいう無能
妻すら満足に扱えないならナルセス神みたいにチンコきっちゃえ ゲルマン蛮族やモンゴルみたいな例外も在るけど
基本蛮族の方が文明大事にするよね最初のうちわ
ゴートとか鮮卑とか東国人とか ローマ帝国から土地の半分を奪った蛮族は、中国やローマ帝国、日本のような、誇るべき
まともな歴史を持ってない。
カトリック教会を、お金と地位で買収して自分のものにしたのもやっと9世紀になってから。
その後もみっともなく勢力を競い合ってとうとう16世紀にはイギリスが逃げ出した。
だから最近のクリスチャンたちは、東亜かぶれが増えて、日本のアニメが好きとか、
中華の歴史ドラマが好きとか、韓国アイドルが好きとか言って、仏教に関心を持つ人が増え、
キリスト教離れが進んでいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%8D%B1%E6%A9%9F >>239
よそ者は、完成した美しい姿の文明を手にするからね。
もともとの持ち主は、それがまだ原始的なかっこ悪いものだった時期から見てきてるから
そんなに大げさにとらえないのかも。 ハロウィーンは蛮族(ゲルマン)の祭り。
それゆえ、カトリックも正教会も、このハロウィーンを否定しています。
カトリックは、蛮族(ゲルマン)に金や土地や地位と引き換えに身を売ったのに、
いまでも正教会の時代と同じく、蛮族の習慣は頑固に否定している。
それは、蛮族(ゲルマン)が、カトリックを買収する際、カトリック(ローマ帝国の文明)を
心底尊敬し、自分たちの野蛮な民俗を恥じていたからだろう。 そういえば、日本史においても、
摂関家や武家政権は、天皇や上皇たちを何人も平気で遠慮なく島流しにしたり、
退位させたり、天皇の御遺志を簡単に否定して謝罪させたり、いくら横暴をふるっても、
朝廷の伝統、文化は、全力で守り抜いた。
摂関家はさておき、北条氏、足利氏、徳川氏らは、ちょうどゲルマンみたいなもんかもしれないな。 日本書紀に書かれた日高見国(東北地方)の習俗に「其国人男女、並椎結文身、爲人勇悍(その国の男女は槌の様な髷を結い入れ墨をし勇ましく悍ましい)」とある
平安末期以降に勃興してきた武家の文化と共通している様だ >>240
日本史や日本国内の出来事や人物でもないのに日本語の記事しかないWikipedia記事は、
まともに相手にできない。ほとんどJulio MeinというHNしか書いてないし
概説のところにベネディクト16世の著書の引用があるが、書名さえ書いてないし
Julio Meinが自分の学説を認めさせたいなら、英語記事を作成し、英語圏の人々と編集合戦&ノートでの議論
くらいしなきゃだめだよ
こんなの引用して恥ずかしくないか >>245
ローマ帝国から土地の半分を奪った蛮族は、中国やローマ帝国、日本のような、誇るべき
まともな歴史を持ってない。
カトリック教会を、お金と地位で買収して自分のものにしたのもやっと9世紀になってから。
その後もみっともなく勢力を競い合ってとうとう16世紀にはイギリスが逃げ出した。
だから最近のクリスチャンたちは、東亜かぶれが増えて、日本のアニメが好きとか、
中華の歴史ドラマが好きとか、韓国アイドルが好きとか言って、仏教に関心を持つ人が増え、
キリスト教離れが進んでいる。
この↑程度の文章も理解できずに、ほとんど文脈理解の助けにもならないような、
ついでのリンク先に頼ろうとして、リンク先から単語を探すのが精いっぱいで、
文脈がつかめない(文章が理解できない)ままコメントしちゃったその態度のほうが
みっともないよ。 文脈とはそれほど関係のないウェブページ(場合によっては単なる詐欺広告)が、
レスにリンクれている可能性は高い。
自力で文章読解をしようとせず参考URLに頼ろうとするのは愚の骨頂だよ。 ローマ関係の日本語Wikipediaってほとんど塩野七生のコピペだよね
参考文献にローマ人の物語って書いてないのも文体が明らかに塩野のそれ 塩野七生からの評価が低いせいでキケロのページの記述が異様に薄いのか 文体があきらかに〜
評価が低いせいで〜
おまそうにしかみえないのだが? 理由が塩婆にあるかどうかはともかく
他国のページと比べて日本版wikiのキケロの記述が薄いのは事実じゃね? >>251
そもそも日本語Wikipediaなんて全部感想だろ
出典を書いてあるのがほとんどない
特にローマ関連は 西ローマにスッラがいたらホノリウス殺して自分がトップに
軍を再編し蛮族を蹴散らしローマのかつての勢いを取り戻す…
そうなるといいなぁ >>246-7
つまらん言訳だ
こまったちゃんだな
文脈の助けにならないついでなら>>240に変なリンクなんかはるな
そもそも>>240は、リンク先ちゃんと読んでないだろ?
なんかもっともらしい引用リンク貼れば自説の説得ができるなどと考えるのは浅はかとしかいいようない
>自力で文章読解をしようとせず
小学生ですかね?>>240程度の内容で文章読解とかなんとか、何いってるんだ?大丈夫か? >>254
なぜスッラなのかね
対蛮族なら無敵の大将軍マリウスの方がよかろう マリウスだと政治面が若干不安よ
ガリア・ブリタニア・ゲルマニア方面の司令官として赴任させれば安心して任せられる
それで残りをスッラが片づける
ポンペイウスは地中海の海賊を平らげる
クラッススが傾いた財政を立て直す もうローマ人もローマ兵も居ないからな
マリウスでもさてどうかな >>257
クラッススが財政を立て直すために、その前にネロにローマを燃やしてもらった方がいいんじゃないか? ヴァンダル族とゴート族の違いが分からん。サルマタイ人もよく分からん >>249,>>252
塩野は読んでないから知らないが、ウィキペのキケロの欄は、英語版では冒頭で、ラテン語の規範というだけではなく、
19世紀までヨーロッパの言語の規範であり、19世紀までは散文とはキケロの文体に戻るという反応だった
とさえ書いてあるのに比べ、日本語の記事の冒頭では、こうしたヨーロッパ史上での絶大な影響に
ついて言及がない。日本語記事は哲学者・道徳家・政治家・政治思想家としての意義しか見ていない感じだ。
日本語ウィキペのキケロの記事はまだまだ書き足す余地があると思う デンマークの中学校で使われてる歴史教科書を読んだけど微笑したくなる内容だなw
紀元前800年〜紀元500年頃についての章題が「ローマ人とゲルマン人」になってて
記述の分量もほぼ両者同じくらいになってる
>現在のデンマークとドイツ北部のキンブリ族とテウトネス族は、より住みやすい地を見つけるために暮らしていた地を旅立った
>(中略)
>彼らはローマ人に、住める場所をもらえないかと尋ねたが、ローマ人は無視した。
>こうして戦いとなり、ローマ人は敗北した。
>(中略)
>ローマは何年も負け続け、ゲルマン人の部族たちがイタリアまで侵入してきたときはじめて、止めるのに成功した。
みたいな記述はナショナリズム感溢れてていいね!
アルミニウスについての記述も筆が乗りに乗ってるw テーマとして一番面白い時代はカエサルがいた時代、次がポエニ戦争って順位は文句ないところだと思うが、
その次に面白いのってどれだろ。セウェルスの内乱かな、ディオクレティアヌスのテトラルキアかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています