古代ローマを語ろう【ローマ人の物語】33©2ch.net
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>>499
鎌倉幕府成立から遡ること400年前、藩鎮にアウトソーシングやった唐では安史の乱ていう一大カタストロフを起こしたのに
日本ではあそこまでひどいことにならなかったのは何で? >>501
統制力が弱かったから乱に成る迄も無く好き勝手に独立為ちゃった
足利幕府は結構早い段階から京都周辺の地方政権だし 逆に統制力の弱さが幸いしたのかw
強いってのも良いことばかりじゃないなぁw 大土地所有が脆弱で中央の統率力が強かったから
武士は名主田堵として名の徴税、勧農を行う代わりにそこから上回えはねるだけで
満足して、地方に割拠してやろうなんて野心なく何だかんだ言って院宮王臣家のいう事聞いてるし
国司も国司で単なる徴税官で節度使みたいに私兵集団抱えてたわけでないしな 日本の中央の統制力(統率力?)は強いのか弱いのかどっちなんだ! 中央がまるでやる気がないだけで、グダグダになってるだけで強いといえば強い
室町期の守護にしても中央からの統制はちゃんと受けているわけで
じゃないと守護請けなんて成立しない
太平記読むと切り取り次第じゃーなんて勝手気ままに他人の土地を横領していってるイメージがあるが
以外とルールは守ってる あれって大きな誤解をしてたわ
【誤】将軍後継争いの京都の局地戦。乱後、中央の地方統制が取れなくなり戦国時代の幕開けへ
【正】全国的な争乱(関が原の九州・近畿・東北争乱と同じ状況)。
将軍後継者が東軍総大将から西軍総大将に転向したり、細川・山名の和睦を無視して諸将が抗争を続ける等しており、戦国時代は応仁の乱から既に始まっていた 室町の世が乱れて生まれたあらゆる勢力が鎮圧され、均一な江戸の世に終息するという流れに、日本の「和をもって尊し」「出る杭は打つ」「ことなかれ主義」を感じる
15世紀ヨーロッパみたいな混沌のまま17世紀に突入する日本史だったら大変だろうな
商人自治、仏教勢力、山城自治、ローマ法王領、南蛮要塞、国人、諸大名全部アリで まさに全部入りだったイタリアは傭兵のやる気のなさで救われたな
古代ローマから受け継いだ文化力のおかげかな
まあ野蛮なスイス傭兵にボコボコにされちゃうんですがね! >>505
天皇朝は統制力有ったけど、武家政権は北条、足利と統制力無いよ。周朝と大差無い気がするw
義満が頑張ってあちこちの有力大名をモグラ叩き為たけど、義満でもそれが限界で
嘉吉の乱前後から皆領国帰ったり内戦為たりと唐末みたいなもんだし 応仁の乱後も六角攻めや河内攻めでも将軍は諸大名のイニシアティブ取ってる
最近だと戦国時代は明応の政変からってことに
それと戦国時代に入ってもまだ院宮王臣家を頂点とする職の体系が依然と残ってて
これを完全にぶっ壊れたのは太閤検地から
ここにきてようやく古代の王民制のくびきから解放されたと言える 皇紀2600年……はまぁ話半分としても
1000年以上続いただろう古代の制度から解放されたのがたった400年前と思うと不思議な感覚だ
今の日本には古代の名残がいっぱい残ってそう 戦国大名と言えども将軍と封臣関係を結んでる武家なわけで、ある程度の予定調和に収まってる
唐末や軍人皇帝時代のローマみたいに勝手に兵士が擁立した節度使や皇帝がポンポン出てくるほどカオスな状況にはなってない 日本では、政権中央の統制が取れなくなって、地方が勝手に振る舞っていても、
地方の権力は中央の権威だけは借りていたってことかな?
逆に言えば、中央の政権に真っ向反旗を翻す地方の権力は少なかった? そういう意味じゃ日本の戦国時代って、実は中国の春秋時代に相当するよな
古代ローマでいうとセウェルス朝辺りに相当? >>514
国土面積じゃなくて大陸と島国の差では?外敵との近さと言い換えることもできる。
軍人皇帝といい節度使といい、すべて辺境防衛のために置かれた軍団を支持基盤にしている。
その点日本は島国だから、北九州あたりの守りさえ固めとけばあとは海と潮の流れが守ってくれるわけで、それほど強力な軍事力を辺境に置く必要がなかった。 確かに対馬海峡がイタリア半島とシチリアの距離だったら?
ジブラルタル海峡の距離だったら?
まったくの異集団が目と鼻の先にいたら変わってたかもね。 島国としてなら英国が近いか
ドーバー海峡を渡るのは至難
カエサル上陸は貴重な成功例の一つ 帝国が滅ぶっていうイメージがわからない。
日本でも太平洋戦争で敗北したけど、天皇制は続いた。
<1453年4月、オスマン帝国の軍がコンスタンティノポリスを攻撃。2ヶ月にも及ぶ包囲戦の末、
5月29日城壁が突破されコンスタンティノポリスは陥落した。
最後の皇帝コンスタンティノス11世は戦死し、東ローマ帝国は滅亡した。
残存するモレアス専制公領やトレビゾンド帝国も1461年までには掃討された。>
これで完全に終わる理由がわからない。
1500年も続いた帝国であれば、後継者はあちこちに散らばって生き残ってるのでは?? 東ローマだけの時点でローマ人はすでにいなかったわけだし滅んでると言えば滅んでるような?
東ローマの祖もコンスタンティヌスでありカエサル・アウグストゥス時代とはほぼ別ものになっちゃったし そういう民族・人種的な拘りのなさが古代ローマの良いところだと思ってたんだけど
コンスタンチノープルに遷都してからは人種的な拘りを持つようになったとか? >>519
イギリスというかイングランドなんてローマ軍撤収以来海渡って来た奴らに占領されまくりじゃないか >>511
唐末の唐朝廷みたいな物、当時既に畿内周辺にしか影響力及ば無い政権だし
管領や有力守護に好き勝手やられても将軍家だけじゃ抑える力の無い御輿
公家が生き残ったのわ職能、技芸を持って居たからで軛でも何でも無い
>>513-514
室町幕府はより封建的分権的で藩鎮と比べ守護大名の支配力が強かったからその差でしょ >>515
てか、関東は相当早い段階から将軍権力と余り関係無く独自に動く別世界よ >>522
王朝だけで言えば東ローマに在った王朝は何度も滅んでるんだし
支配民族がトルコ人に代わったとしても別段不思議無くね >>520
そういわれてみれば、たしかにイメージできないな。
なんで後継者がいないんだ?
男大迹王が越前から招かれて天皇になったように、
どこか少しでも離れたところに住んでる皇帝の親族がローマ帝国を継承したら
済む話なのでは? 血族が生き残っているかどうかと、後を継がせてもらえるかどうかは別問題だろ。
日本だと仮に、神武天皇から続く男系男子が存在していても、
誰も天皇位に就けさせてもらえなければ本朝は終了。 >>527
モスクワ大公が東ローマの親戚だというので、東ローマの後継者を自称するようになった。
ロシア「皇帝」なのは、それが由来だよな。 >>521
何を言ってる?
100万人のローマ人たちがローマ市を捨ててコンスタンティノープルに引っ越してきたのが「コンスタンティノープルへの遷都」だろ?
ローマ市の人口…紀元前500年 10万人
紀元前100年 100万人(ローマ帝国建設直後)
紀元200年 120万人
紀元400年 80万人
紀元500年 10万人(ローマ人ほぼ全員が東欧に移住した結果)
以後、ローマは都市とはみなされない。ローマ帝国の首都じゃなくなったから。
紀元500年のローマ人口10万人は、ローマ帝国が建設されるよりはるか昔の人口と同じ。
つまり、ローマ帝国の人民がすべて東ローマ帝国に引っ越してしまったことを示す。 そもそもローマ人をローマ人足らしめていたのはローマ市民権、果ては「ローマ人である」という自覚であったわけで、本来であれば人種とか民族なんてものは気にしない。
(ただし、南雲先生はローマ帝国後期にはいるとローマ人たちの間に排外的な民族意識が芽生えてゲルマン人たちを排撃するようになり、それが結果的に帝国の衰退を加速させた、というようなことをおっしゃってはいる)
東ローマ帝国滅亡の際に皇帝の血族がどこにもいなかったわけではない。帝国が滅亡したのは結果的に帝国が復興されなかったってだけ
ラテン帝国のときは実際復興されたわけだが、あの時点で帝国は一時的に滅亡してるわけだしな >>531
>そもそもローマ人をローマ人足らしめていたのはローマ市民権、果ては「ローマ人である」という自覚であったわけで、
つまり、今イタリアのローマ市である、あのローマと言う場所は問題ではなく、
「ローマ帝国の市民である」という意識が重要だったわけだね?
4〜5世紀、「ローマ帝国」が、ローマ市からコンスタンティノープルに遷都した時、
100万人もの市民が、こぞってローマ市を離れてコンスタンティノープルに移動し、
「イタリアローマ市の市民」ではなく、「ローマ帝国(コンスタンティノープル)の市民」
であることを証明しようとした。
そういう理解でOK? >>532
カラカラ帝の治世に帝国内の全自由人にローマ市民権が与えられていること
ディオクレティアヌス帝、およびコンスタンティヌス帝の治世における帝国統治理念(皇帝権威の基盤の変化とい言い換えてもいい)の変化
以上のことを踏まえれば、それ以前と比して帝国統治の象徴としてのローマ市それ自体の価値が、相対的に低下していたのではないかと考えることはできる。
> 「イタリアローマ市の市民」ではなく、「ローマ帝国(コンスタンティノープル)の市民」
> であることを証明しようとした。
証明しようとしたのかはわからない。帝国内の経済規模は東方が圧倒的であり、対する西方は費用対効果としては東方に及ばない。実利的な判断が働いた故の遷都だったと思うがね。
いずれにせよ、ローマに住んでいた人々がコンスタンティノープルに移住しようがしまいが、帝国内のローマ市民権を持った人々が、等しく自分たちをローマ人と規定していたことに間違いはない。 ローマ市がローマ帝国の首都だった時には120万人もの人口があって、
コンスタンティノープルに遷都すると、10万人までに減ってしまったことは重要なことだと思う。
コンスタンティノープルも、ローマ帝国の首都となってから、人口が60万人を超えた。
大事なのは、イタリアにあるローマ市がローマ帝国の首都だったのは紀元前1世紀から起源
4世紀までの400年ほど。
一方で、コンスタンティノープル市がローマ帝国の首都だったのは、紀元4世紀から
紀元16世紀までの1200年。
この現実はちゃんと知っておいた方がいいと思う。 東西ローマ共存時代とビザンツ時代との連続性がどこにあって、逆に断絶がどこにあるのかは気になるな
少なくともハドリアヌス時代とユスティニアヌス時代は全くの別物に思えるんだけどね キリスト化してる時点で別人でしょ
全く違う見方で世界を見てる そら別もんよ。
一般的には7世紀にシリアとエジプトを失って以降、帝国のギリシア化が進んでビザンツ帝国と呼ばれるやうになった、みたいな言われ方がされてるよね
ただビザンツ帝国の人間は自分たちのことを「ローマ」って言ってたわけだから、よくわからん 断絶が無くても500年も経てば全然別の国に成るわな
今の日本で云えば室町時代末期やぞ
ビザンツ帝国にローマ人の意識が在ってローマ人の帝国を自認してて
実際、蛮族の王国と違い外形的にも最もローマ帝国っぽかったわけだし 西ローマでは、その高い識字率にも関わらず最後まで女性に参政権が与えられなかった
キリスト教はどちらかといえば女性の政治的関与を抑制する方向に働いた(と本で読んだ気がする)
しかし同じキリスト教国である東ローマでは女帝が生まれた
この違いはどこから生まれたの? 日本だって大和朝廷の頃と
封建時代と今じゃ全然違うが、
皆日本人だ。
首都だって奈良、京都、東京と移転しているし、
東京の人口は京都の約10倍じゃないか。 >>540
基本は文化的、身分固定が弱い程女性の社会的地位が高いでしょ
美化して云えば尚武だけど有体に言えば野蛮だし 男女平等のスキタイは文化レベルがギリシャローマより高かった!w 女性の権利を認めていて女帝を容認してるなら文化の高さと言えるかもしれんが、
ルールを守って女を公的地位につかせないのと
皇帝の愛人だったから女帝になれました(なし崩し)
ってのじゃ前者の方が文化高い気がする コンスタンティヌス帝とテオドシウス帝だったら、どちらが国のリーダーとして
優れていましたか?! >>543
遊牧民は家が安定しないから身分固定が甘い
1代で大きく成ったり落ちぶれたりするしね >>538
ビザンツ帝国なんて名称は滅亡後何百年も経った後からドイツ人が付けた名所だろ。 女性の権利を認めているから文化レベルが高いみたいな言い草が現代の価値観に当てはめたモノの見方なんで >>536
ユスティニアヌス朝時代のバルカンのスラブ化で断絶している
バルカンがスラブ化するまでは東ローマの支配層はラテン系だった
イリュリアやモエシアなどバルカンのラテン人居住地が
スラブ化したので東ローマ領内からラテン系がいなくなった
ヴェネチア人はイリュリア人がラテン化イタリア化した民族だから
ヴェネチアはルーマニアとともにクラウディウス・ゴティクスから
ユスティニアヌス朝の直系の子孫 >>549
というか古代地中海世界文化レベル最強のギリシャが女性の地位を全く認めてないからな まぁギリシャもローマも兵役就てこその市民権だからな。
無産階級が兵役つけるようになるのもだいぶ時代が下るぜ 一方、文明文化レベル最低のガリアは一般人の女も普通に民会に出席していた
遊牧民も大概、双系制で女の地位が高く普通に女首長がいる
十三翼の戦いでモンゴル軍を指揮していたのもチンギスじゃなくてホエルンだし
両者に共通しているのは牧畜狩猟社会で、常に部族あげて戦争していたこと 女性の社会進出とやらも戦時の労働力不足による徴用もしく貧困の結果起こったことにしか過ぎないからな
思想だとか文明レベルだとか関係ない
現在でも一位から順にルワンダ、タンザニア、マダガスカル、ジンバブエ、モザンビークとアフリカ勢が上位独占で
イスラム圏以外は後進国ほど、女性の就労率は高い >>550
ローマから東ローマ領域に移転したラテン系民族がスラブ系に飲み込まれて消えたってこと? ローマらしさが確立したのが共和政前期か中期頃
完全に断絶したのが帝政後期あたりという認識でOK? 大英帝国はローマ帝国意識してのかね
チャーチルだけは有名だけど 学問や贅沢を知らないあばら家に住む迷信深い屈強な牧畜民による戦士集団こそが真のローマと考えるなら
共和制前期からポエニ戦争まで 共和制末期までマジでそんなレベルまでローマを退行させようとした保守派が結構いたからな
実はキケロ物もその一人 キケロ自体が戦士とは程遠いと思うのにな
しかも田舎者だし キケロってプリンキパトゥス政の提唱者じゃなかったっけ?
ポンペイウスやカエサルをそう定義することで、共和政と僭主政の妥協を図ろうとした(牽制したともいえる)んだから進歩的じゃね? >>564
キケロがスッラと対立してたの知らない人? >>569
パルティア人がエヂプトで市民権者に抑留されてたのを
役持ち貴族の地元採用奴隷に助けられた様なもんか 大カトも小カトも軍事的には無能だよな
2人とも記録に残ってる勝ち戦ある? 軍事もダメだけど政治家としても微妙というね
テレビの批評家とかコメンテーターとかにいそうな感じ 小カトは数々のエピソードから頑固だけど良い人ではあるんだろうなと思えるが
大カトは人間性からして信用ならん 年取っても若い女とやってたのは市民を増やすためだから…(震え) グレコ=バクトリア王国やインド=グリーク諸王国の軍隊はマケドニア式ファランクスを維持していたのかな
あそこら辺で主流の軽装弓騎兵相手に鈍重なマケドニア式ファランクスは分が悪そうだが ローマスレで突然全く関係のないネタを振れるのすごいね スキピオの政敵が小カトーで
カエサルの政敵が大カトーだったらどうなってたんだろ 古代中国や戦国日本のスレチは全くお咎め無しで延々と続けるのになぜか古代ギリシャ方面に話が逸れようとすると神経質になる奴がいるな みんなポンペイウスをどんな人物だと思ってる?
自分はお人好しの天才お坊ちゃんだと思ってるんだけど
カエサルとの対比か、はたまたドラマROMEの影響か、叩き上げの軍人風だと思ってる人がいてビックリした 福々しい肖像彫刻を見ると、あんま苦労はしたことないんだろうなとは思う。>ポンペイウス お人好しのおぼっちゃまっていうのも塩野史観の影響じゃね
配下の軍人がついてくるぐらいには軍人然としてただろう >>583
エリート軍人風って意味で言った
甘ったれとかマザコンとかそういう意味じゃないよ
ただ根っこのところにお人好しな感じがあるというか。厳しさだけじゃない包容力で部下に慕われた感じ 大カトーとかキケロとかセネカとか、ローマの賢人は
なんで信用ならない奴ばっかりなんだ。 >>585
何だかんだ尚武の気風が残ってて、賢人に対しては周りの目が厳しくなったんじゃないの?
それを差し引いてもキケロは情けなすぎるだろって感じがするが ポンペイウスは逆境から立ち上がったカエサルとは真逆な感じだな
スッラやルクルスの後ろ盾もあっただろうし >>581
なんでかわかんないけどざっくりスキピオと被ってる
「慣習を破って若くして活躍」ってとこだけなんだけども ライバルが大カトー程度でカエサルがいなかったからな。
カエサルのライバルが小カトーしかいなかったらどうなのか。
もちろんキケロは風見鶏で。 スキピオにポエニ戦役時のやる気があれば
晩年における大カトーの難癖も跳ね除けて失脚せずに済んだだろうな
そこら辺が惜しい >>592
ネアカな大スキピオに陰湿な大カトーの相手は荷が重すぎただろう
同じローマ人相手に会戦するわけにもいかないし、マリウスみたいに粛正できるほどキチガイじゃない
小カト−はポンペイウス相手なら上手くやれただろうが、実は超陰湿なカエサルには敵わなかった
というか小カトーはあんまり陰湿ではないね。ちょっと老害っぽいけど気骨の人って感じ >>591
意外と鳴かず飛ばずで終わったりしてw
カエサルの雄飛はポンペイウスの甘さに助けられた部分が大きいからなぁ
元老院での弁舌合戦ではキケロに負けっぱなしだし 僕は古代ギリシャ人 古代ローマ人の弁論術にとても憧れて興味があります。
カッコイイイメージです 演説中に反対派勢力が武装して押し寄せて来たりギリシャ人ほどおとなしく演説聞いてる感じはないがローマ >>595
古代ギリシャでは、重要な行事のときには全裸が基本。
祭礼、戦争、民会の演説や決議、都市対抗運動会の競技、ともかく目立つ場面では
カッコ良く全裸だ。 戦争全裸wまだパジャマのペルシア歩兵の方がマシだな >>598
それって、マジですか!?
古代オリンピックは全裸で競技していたと、昔トリビアの泉でやってたのを思い出したwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています