古代ローマを語ろう【ローマ人の物語】33©2ch.net
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ポピュラーにはならなかったが東方の影響を受けて鱗鎧をつける連中もいたらしい
https://i.pinimg.com/originals/e3/41/04/e34104ed91af407b5549ac43cac20c04.jpg
アケメネス朝ペルシャの影響かと思ったけど歴史は意外と古くミケーネ人の一派とみられるペリシテ人がすでに使っていたらしい >>611
マケドニア諸王朝が成立する頃迄、兜や脛当てが青銅で鎧わ皮革 シュメール人の画像を検索してみると、上半身は裸ぽいね
あと、シュメール人 バビロニア人てモンゴロイド系だと予想している >>614
ゲルマン民族も古代ローマ人も昔は女たちもおっぱいむき出しだったの? 初めて裸を恥ずかしいと思ったのは、モーセに率いられ、アダムとイブの話を伝えたユダヤ人たち? >>598
そのとき、古代ギリシャの女子たちはどこでどうしてたんですか? 執政官「セプテンベルのカレンダエを宣言する!」
鳥占官「本月のローマ市の運勢は…」 >>617
出たがりの古代ギリシャ人でも全裸は市民正丁の特権。
女は半人前の人格しか認められてないので、公の場で裸になる権利はありません。
市民の妻女はよほどのことが無い限り外出すら許可されません。おうちで子育てと糸繰機織に明け暮れてます。 >>614
それは女神様
人は胸を覆った服を着てるよ
シュメールのあの顔でモンゴロイドだとしたら
古モンゴロイドだけど、鼻のあたりが違う気がする シュメールとかエトルリアの系統不明っていうのは所謂語族の系統が不明って意味だろ?
普通に原住だったんじゃねーの?知らんけど でもエトルリア人は古代の歴史家は必ず何処かから来た人たちってことにしてるし(アルプス以北説とアナトリア説があるにせよ)原住民族ではないんじゃね シュメール人はネアンデルタール系の生残りだったとか?
脳の構造が違うので、原始生活から脱却できなかったクロマニヨン系(メソポタミア人)より発達した文化が作れ、自らは絶滅乃至クロマニヨン系に吸収された
…みたいな >>623
割と近くのインドが北も南も古アジア系だから人種的にアジア系でも何の不思議も無い イタリア半島もメソポタミアもインドからは程遠いと思うが…… フィンランド人が東南アジアからやって来たってご存知ない? その話とインド-イタリア半島の地理の話と何の関係があるんですか? >>627
一昔前に流行った語族の話になるが
インドのアーリヤ人も、メソポタミアに君臨したヒッタイト人やペルシア人も、ヨーロッパ文明の始まりであるギリシア人やローマ人、そしてゲルマン人も、みんなインド・ヨーロッパ語族に分類される。
つまり彼らの使う言語は、元を辿れば一つの言語に収束すると考えられており、そのことが彼らが元は同じ地域に住んでいたと考えられる根拠にもなっている
ただしエトルリア人はその言語系統が不明なので…という話 僕も>>625の意見に賛成
古代文明の世界は、今を生きる現代人と違ってネアンデルタール人を始めいろんな種族の人類がいたと思う。
(もしくは生き残り)
もしかしたら超古代文明はあったかも知れない >>624
ローマ人だって祖先がアナトリアから来たことになってるだろ。
トロイヤの遺臣遺民があちこち放浪してカルタゴに寄ったりしながら、最終的にラティウム地方に流れ着いたと。 >>630
言語と血統と帰属意識との組み合わせは簡単に入れ替わるからなー
たとえば、アメリカ人。
血の量から言えば、一番多いのはドイツ系。大体4割。もともと英語を持ち込んできたアングロ系(イングランド啓・スコットランド系)はドイツ系の半分くらい。
なのに最も優生な言語は英語で、ドイツ語解る人は極僅か。
結構な数のヒスパニックは居るけど、古い時代に、たとえば米西戦争のとき地面ごとアメリカに編入された人は、アメリカ人でありヒスパニック系であるという
意識はあっても、スペイン語はおぼつかず、専ら英語。
フィリピン系、支那系、アフリカ系もやっぱり喋ってるのは英語。 キリスト教はじめそれの登場も大きいのかもね。
アナトリアの住民も元はレスプブリカに属するローマ市民って意識がいろんな集団の流入と今月で支配者がその地域地域で変わっていこうとも俺らキリスト教徒俺らイスラム教徒ってざっくりとそういう帰属意識に変わって
しまいにはトルコの文化言語を持ちながらも俺はキリスト教徒別にオスマン人じゃないしとか
ギリシャ系の文化言語を持ちながらも逆に俺らイスラム教徒だからギリシャ人じゃないしみたいな感じになって見た目や言語習慣じゃその集団がどのアイデンティティ持ってるかさっぱり不明というか 言語わ入れ替わり易いよね
アラビア語とかトルコ語とか民族意識より短時間で置き換わってる >>637
古代とそれ以降は単純比較はできんよ。
言語とか血統、帰属意識の組み合わせが簡単に入れ替わりやすいのは全く異論はないけどね。
語族による人間集団の規定は、あくまでも地域間交流がまだ質的にも量的にも盛んでない時代だからこそ有用。人間集団の多様性が少なければ、特定の要素でその人間集団を規定することはそこまで難しくはない。
ただ語族とか言語で人間集団を規定出来るとすれば、ヨーロッパ地中海世界に限って言えば遅くともヘレニズムまで。そりゃ18世紀に言語だけでアメリカ人を規定することなんて不可能なのは当然だよ あとは単純に、今現在の歴史学において、古代の人間集団を規定するには言語が一番確実っていうのがあるかな
そりゃシュメール人とかエトルリア人のDNAでも採取できれば彼らがどこから来たのかなんてすぐ分かるけどね。
それが出来ないから、今現在手に入る資料・史料から判断するしかないんじゃないかな
連レスすまなんだ エトルリア人のDNAというか、エトルリア地方の古代ローマ時代の住民のDNAは採取されていてアナトリア説が補強されてるよ
ただアナトリア出身の軍団兵か補助兵がエトルリア地方に入植して、それがたまたま採取された可能性もある >>613
逆、むしろオリエントの影響受けてリネンキュラッサや革鎧が流行ってる
こっちのほうが動きやすいし弓矢に強いから 何で英語ではLinothoraxなのに日本ではリネンキュラッサって言うの? その理由わりとあると思うな>語感がカッコいい
完全に新しい単語の日本語表記を作らねばならないときに
学問的正しさ等はもちろん最優先されるのだけれども
最終選択においてその音感は重要な要素になるよ
愛着ができているからね >>617
機織りから奴隷を引き連れて農業、牧畜、オリーブ栽培などすべての労働
基本、男は遊んで暮らして労働は女と奴隷の仕事と考えられていたから >>648
ポリスの中のアゴラでは、夏でも爆乳、胸チラ、ミニスカは見ることができなくて、男ばっかりだったんですね。
アゴラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B4%E3%83%A9
ペリクレスは自ら積極的にアゴラで売買を行ない、アテナイは商業的なアゴラを推進したが、
アリストテレスは市場としてのアゴラと政治的なアゴラを分離することを主張した。
市場での買い物も男の仕事? 現代の価値観を投影しすぎなんじゃないの
当時乳房をエロいと見なす価値観はまだなくもっぽら足だったはず
市場での買い物も基本は女で最終的に東ローマになると男は家から外に出ることすら滅多にしなくなり
イブン・バットゥータも「市場や街中にいるのは女ばかりである」と大旅行記に書いている おっぱいについてはどうなんだろうな
それこそ女の平和とか女の議会とか読めばなんかわかるんじゃない? 東ローマ国民総引きこもり状態か
そりゃ戦争に弱くなりますわ パラエストラもアゴラも演劇場もなくなっちゃったし
ま、多少はね? 闘技場も大浴場もないし、もうやだああ〜やだもうやだあ・・・無理い〜もう無理い〜 家で何してたのかが気になるよな
仕事も1日中ではないだろうし
やっぱ読書と象牙製品ぐらいか娯楽は >>640
一強多弱になると簡単に言語なんて入れ替わる。
長らく小集団がみんなバラバラの言語を話し隣の集団との交渉のために多弱がそれぞれ互いの言語を習得していたものが、
一教の登場で、多弱すべてが一強の言葉を使って弱小勢力どうしの交渉をやはじめる。
そうなると、ニ・三世代のうちに元の言語を失って、一強の言語を血統に拘わらず喋るようになる。 ローマで例えると西方領土は経済的に圧倒的だったラテン語が広がっていったけど、東方領土はオリエントはじめ経済的には優位で
その経済圏の共通語だったギリシャ語の方が後々まで残って、しまいには東ローマの共通語となったみたいな?
軍事力も要素なんだろうけどやっぱりより経済の強い奴らが話してる言語の方が主流になっていくのかね? ガリアもゲルマニアもクソ田舎で、谷ごと川筋ごとに訛が違ってて通じねーんだもん
ガリア語いくつも憶えるよか、ラテン語一つ憶えてりゃ隣の谷も3つ川向こうでもなんとか通じて楽だからなー 使いやすさもあるでしょ
古代ギリシャ語は当時にしては圧倒的な完成度 いやそれはない
ガリアはガリア・コマタとガラテア人が通訳なしで喋れるほど均一的だったらしい >>656
まあ一強多弱でも多弱の側の言語が一強と根本的に違っていればそう簡単には飲み込まれないんだけどね。
例えばアラム語圏やコプト語圏はアラビア語に飲み込まれてしまったがペルシア語やトルコ系の言葉は無事だった。
ベラルーシ語は今まさにロシア語に飲み込まれているところだがキルギス語やグルジア語は当面安泰だ。 >>662
シュメール語とか統一がままならんうちに、広域で言葉が同じで且つ政治力軍事力の強いアカディア語に飲み込まれてしまったろ・
シュメール語の各都市の方言が多弱、アカディア語が一強な。
コプト語やアラム語がアラビア語に飲み込まれたときも似たようなモノ。
コプト語派、下エジプトと屈曲部と上エジプトとで通じないくらい別の言葉になりかけていた上に、沿岸部はラテン語とギリシャ語、ナイルから10キロも離れると
モール人各部族。まさに、多弱の状態。 古代のケルト語はラテン語とかなり似た形だったようだが 島のブリトン語と大陸のガリア語よりも
ラテン語とガリア語の方が似ていたそうだ 経済と言語の結びつきはかなりあると思うな
アラム語はアラム人が登場して以降爆発的に広がり、少なくともイエスの時代までは使われていたらしい。イエスがアラム語て話したってのは有名だし、パルティアの公用語もアラム語が採用されたらしい。(公用語がアラム語単一だったかは不明)
ちなみに言語とはまた別に文字についていえば、アラム文字はソグド文字、突厥文字、ウイグル文字、満州文字にまで派生してるから超すごい(小並感) >>662
バビロニアからシリアからレバントからペルシャの西部からエジプトから支配するアッシリア帝国があったからな。
その後のカルデアもバビロニアを自称していたものの実質的な支配層はアッシリア人が多くてシリア・メソポタミア・レバントはアッシリア語が通用する。
古今東西どこでもそういうことやるけど、カルデアは特に念入りに、支配域内で地元勢が多数派にならないよう、住民の移し替えをやってる。
何千年も経ってもまだ怨み語と言われる、バビロン虜囚も、それな。
結果的に、領内各地で、アラム語の一強と、その他の多弱の状態を人為的に作り出したことになる。
次のアケメネス王朝は、一種の封建制のようなやり方での、間接支配。知事を派遣して地元勢力を知事に協力させるというやりかた。
なので、アラム語の通用している地域でアラム語が廃れることも無ければ、ペルシャ語が押し付けられることもなかったので、割と残った。 上でエトルリアが出てきたから聞きたいけど
お墓以外の居住地とかは遺跡ないの?
写真あったら見たい
素人な質問ですみません エトルリア人の暮らし
http://www.daviddarling.info/encyclopedia_of_history/E/Etruscans.html
街
http://i.imgur.com/d2eIyOc.jpg
神殿
http://blogimages.animhut.com/wp-content/uploads/2010/09/temple.jpg
陽気な連中だったようで笑みを浮かべた像や踊っている絵が多くギリシャと違って女性像が多いのも特徴である
また夫婦仲を重視していたようで男女一対像も多数残っている
男は半裸、女は全身シースールの服を身に着けていた
ギリシャ人とは暗黒時代からの付き合いで文化もよく似ていたが衆人環視の中で性交を行う文化があったことから野蛮視視されていた スパルタの方がアテネより男女平等に近かったっけ
男女皆兵だったし >669
そういう性癖のあるギリシャ人カップルが
態々エトルリアにプレイに行ってそう わざわざエトルリアまで?
有り得なそう
南仏か南イの植民都市からいくとしても安全な旅路は確保されてないし >>673
アドリア海は海賊が荒らし回ってますけど
運良く渡れても陸路はラテン人蛮族がひしめいてて誰も安全を保障してくれない マグナ・グラエキアはエトルリアと通商してたんだから交易路はあるだろ
コルシカ、サルデーニャのフェニキア商人に連れてってもらうのもありだな >>673
アルバニア人のボートピープルが良く流れてきてたオトラントとレッチェ(クレーテーの植民市)からローマまで550キロ
ターレント(ラコニア人の植民市)かローマまで400キロ
シチリアとの海峡にめんしたレッジョ(アカイア人のカルキスの植民市)で直線500キロ海岸沿いの道で700キロ
反対側のナポリ(ふてないの植民市)からローマまで20.0キロ
トスカナ(エトルリア)の本拠地の中心いまでいうとフィレンツェりあたりまでならプラス350〜400キロ
道が整備されるポエニ戦争より前には行くの大変だよ。 うんなこといったらポキス人とかえらく辺鄙なところにアルル、ニース、マッシリアとか
大規模なポリス三つも立ててるけど 必要に迫られて大人数で行う植民や通商とカップル旅行を一緒にすんなよ
男女二人で安全にそんな遠距離を通行出来るのはローマ帝国の覇権が確立されてからの話 ローマでもイタリア半島ですら盗賊が横行してたから男女二人で旅行なんてまずありえないが
普通はキャラバンか交易船に同行させてもらうってのが近代以前はどの国どの時代でも共通だろ >>677
古代ギリシャ人て、マケドニア帝国が例外的に大陸でも内陸でもガンガン責めていったけど、
基本、海辺川辺に港町作ってそこから歩いて耕しに行ける範囲くらいしか支配していない。
本領中の本領ペロポンネソスですら、内陸はバルバロイの住処。
アルルもニースもマルセイユも海っペリだろ。ポリス時代、お互いの行き来は船だったのよ。 >>675
南米へスペイン語喋れず伝手も無いのに行く様なもんだな、 小 型 船 で 普通はポリス周辺は友好的な部族だけ残して後は排除してあるのが普通だけどな
クセノフォンがシノペに向かう所、地元土着民からの襲撃にあって撃滅したのだが
後からわかったことだが、その部族はシノペ市と友好関係を結んでいた
彼らはクセノフォン一行が略奪に向かおうとしているのだと想い、それからシノペ市民を守ろうと襲ってきたのだった
とちょっと泣ける話がアナバシスにある オスマンごときにコンスタンティノープルとられるとかすげー弱いんだろうな ローマが地中海世界の覇者だった頃ならオスマンは返り討ちにされてただろうな
東ローマ単体では荷が重かったに違いない ごときてw
15世紀半ばにはコンスタンティノープルの町一つ分しか領土無かったと 十字軍にも占領されてるからしゃーないといえばしゃーない 東ローマ帝国は聖像破壊活動(イコン)をやっていたから、バチが当たったんだよね
(*´ノд) >>683
実際あちこちで酷い略奪為捲ったしなギリシア人傭兵 すべては時の流れよ。
オスマンも第一次大戦時には「瀕死の重病人」と呼ばれていたし。 教皇に雇われてたスイス傭兵も略奪してたの?
してたとしたら大問題じゃね? 略奪の合間に気が向いたら戦う事も有るのがスイスとドイチュの傭兵 カトリックもオーソドックスも大概
ローマ帝国が滅んだのはユピテル神を崇めなくなったからやろ 公認してるだけで良かったのにな
日本みたいに神道信者とキリスト教徒で共存すればいいだろ
まあ日本の場合前者は右翼、後者は左翼が多いけど
ローマにもペイガンとキリストが共存できない(どちらかが国教でどちらかを迫害しなきゃならない)政治的事情があったのかな 中世西欧であれだけ禁欲的な宗教だったのに、よく古代ローマで受け入れられたよな。 そらキリスト教が一神教だからでしょ
一神教は他宗教の存在を許さないのが面倒
インドとパキスタンだってイスラム教が一神教だから分離したようなもの 現代でこそキリスト教徒は
なあなあでやってる感じがするけど(エホバとか極端なやつ除いて)
明治のキリスト教徒は家の仏壇を海に捨てたりして、ゴリゴリの一神教だったみたいだな 戦国時代には神父に唆されて
農民達が寺社を破壊
そりゃ徳川から邪教と言われるわ 古代ローマ・ギリシャ神話は信者0人になったのにもかかわらず情報が残ってるのはなんで?
マニ教みたくぺんぺん草も残らないぐらい抹消されてもおかしくないのに カトリック信者がプロテスタント全部の2倍も3倍もいるというのがちょっと信じられない。
アフリカ人や韓国人はほとんどカトリックだというけど。日本人もカトリックが多いのかな。 困ってる人々が救いの対象を求めて信仰する場合
制約が多い方が御利益にありそうに感じるんだよな
悪徳新興宗教はその辺を良く知っている 日本に正教会がいるって意外。
ほとんどがアメリカ系プロテスタントだと思ってた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています