唐宋変革期 2
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>>101
安倍晋三は協調的な調整型リーダーだが、習近平はヒトラー並みの独裁者になった あの知能障害の有る63才児に調整能力なんぞ有る筈も無し
胡錦涛が代わり習近平に成ってから報道管制の酷さが日本並みに成ったのわ感じるね 後唐、後晋、後漢も突厥臭が微塵もないのだけど完全に漢化していたのかな
鎌倉幕府のほうがまだ突厥や女真の国政によく似ている 草原で滅びた国の部族が中原に入って王朝を打ち立てることが多い
三國時代以降の匈奴、南北朝時代の鮮卑、で唐後期の突厥か >>97
突厥は漢民族よりも高度な文明を築くことが出来たのに、
沙陀族が創った北宋は軟弱で契丹女真の奴隷国家だった >>105
>後唐、後晋、後漢も突厥臭が微塵もないのだけど完全に漢化していたのかな
後唐の開祖・独眼竜の李克用は、野性味あふれる遊牧民。
後晋の石敬塘は、契丹軍に後唐を討ってもらう代わりに燕雲十六州を献上した。
それくらい、シナに対する愛国心はゼロな人。
そもそも、隋唐も宋も漢人王朝じゃないから、同じようなものだし。 >>108
契丹には高度な文化が栄えた。
シナよりも進んだ文化を持つペルシャと直結していたから。 遼は、燕雲十六州、今でいう北京や大同を、契丹式に統治した。
それまで遊牧民には中原を統治するノウハウがなく、漢人官僚を登用して中国式の統治機構を採用せざるを得なかった。
遼は、燕雲十六州の統治を通じて、征服王朝としてのノウハウを磨くことができた。
それが、のちの金やモンゴル帝国につながった。
中国史をマクロの視点で眺めれば、唐宋変革よりむしろ、こちらの方が後世への影響が大きかったかもしれない。 野性味あふれるとかそういう主観的な話じゃなくて国政や軍制についてだよ
大体、「愛国心」なんて近代以前にあるわけないし
突厥は基本的には武家政権や大和朝廷と同じ豪族の寄り合い世帯で、カガンもヤグブたちもそれぞれが自身の家産官僚や私有民をもっていたが
後唐、後晋、後漢は中国的な中央集権制国家で軍隊は皇帝が一元管理し、将軍たちは任命を受けて兵を領することになっている
家臣は基本全て皇帝の官吏で世襲の土地、兵士、職権を持たせない構造になっている 『護雅夫著『古代トルコ民族史研究』(1967・山川出版社) ▽護雅夫著『古代遊牧帝国』(中公新書)』
突厥の国家はイルilとよばれ、ハガンの下に小ハガン、ヤクブ、シャドなどの諸侯がいて、各地に一種の封建領をもち、領内の諸部族の統治にあたった。
これらはベグと総称され、支配階級を構成した。
一般民衆はブドゥンとよばれ、また主としてベグたちは家内奴隷を所有していた。
原始的なシャーマニズムが一般に信ぜられていたが、仏教が一時、ハガンを中心とする上層階級で行われた。 http://www.geocities.jp/fukura1234/rekisi/heisei/godai1.htm
五代十国は唐末の藩鎮の割拠による産物です。五代の各王朝の皇帝はすべて軍隊のなかからあらわれ、皇帝の地位の取得と強化は、
どれも手中の軍隊に依存していて世襲ではなく、朱全忠、李存勗、石敬塘、劉知遠、郭威そして彼らの後継者はこのようでないことはありませんでした。
これにより、各代の統治者はすべて軍権をきわめて重んじ、およそ軍事上の重要な作戦の策定は、すべて皇帝によって行われ、軍隊を統率する将軍は皇帝によって選任され、
出兵して戦争するのは皇帝の勅命によるのと同時に、みずから軍隊を掌握し、作戦を指揮しました。
およそ戦時には、中央はと言うと臨時に武将を任命し、招討使、都統、都部署、行営都指揮使などにあて、別々に勅命に従って軍隊を出して戦い、戦争が終われば解任されました。 >>111
北魏から唐、後唐から宋がひとまとまりになるように、
契丹から清もひとまとまりになるな >>106
鮮卑が漢土へ入った時わ別に弱って無いよ
>>107
毎年恒例の中国崩壊かな?
>>108
突厥もゴ多分に漏れず軍事と政治に偏った軍事国家、独自の高度な文明わ取り立てて無いよ
>>109
隋唐宋は漢人王朝
>>110
唐宋時代のペルシャも同時代中国程じゃ無いよ
>>111
南面の統治わ中国式、北面の統治迄中国式にせず古制を保った点に北朝との違いが有る 遼は文化も統治も基本的には漢人の南面官に丸投げで自分たちは何も生み出せてないが
中国をまねて都市を作ってみた者の経済規模はショボく現物経済の域を出ることはなかった
大体ペルシャと直結とか何寝語といってるんだ?最初から最後までコイツら中国から貢納品頼みのクズだぞ
10世紀のアッバースとか中国で言うと五胡十六国時代で没落著しく中国に匹敵するほどの力は素手にない >>117
そんなら渤海が存続したほうがよかったな
王建軍の精鋭が渤海に合流すれば勝てるかも >>115
そう、マクロな視点で中国史を見れば、隋唐から宋へという流れと、契丹から金元を通じて明清へという流れがある。
現代の中華人民共和国は、契丹からの流れを受け継いでいる。 馮道、これを「ひょうどう」と読む人が時々いる。
学者でさえも。
そのたび、ちーがーうーだーろー、と言いたくなる。 憑と勘違いしてんのか知らんがヒョウの要素無えだろw
>>119
金と元は全く別物、明と清は真似てる点も多いけど(悪い意味で)
元は歴代王朝中明らかに異質且つ有害だった
世界史板は、無駄なスレ重複スレ限定的なスレタイが多く分散しすぎて
スレの勢いが伸びていないスレが多すぎる
そういうなかで、このスレ(タイトル)はなかなかの良スレだと思う
調子に乗って、以下のようなスレを立てても
同じくらいに延びてくれるかどうか
元明清期
秦漢帝国
夏殷周期
三国晋五胡十六国
近代・アヘン戦争以後の中国史スレ >>119
明の時代は、南京時代は評価が別れそう
でも永楽帝時代からは完全に「漢民族による征服王朝」だな >>122
朝鮮ほどじゃないが、中国の話も荒れやすいからな 馮道是誰 一生歷五朝八姓十一帝的馮道是奸臣還是忠臣
馮道在五代史上是一個異類,他應該算是中國歷史上最為成功的官僚,因為他的一生都在做官,
並且侍奉了五朝八姓十一帝,最難能可貴的是一直位列宰輔,雖生處亂世,時局動亂,
他都能力挽狂瀾於既倒之時,使自己永遠立於高位不敗。
生前輔佐了一個個帝王,閱盡繁華與滄桑,死時葬禮達到萬人空巷,後周世宗柴榮罷朝三日,以寄哀思。
最後被柴榮追封為瀛文懿王。有人說他精通為官之道,一本《榮枯鑒》耗盡畢生心血,
也有人諷刺其氣節喪盡,到底馮道是個忠臣還是奸臣? 五代十国時代には皇帝・王朝が激しく入れ替わったが、その中で馮道は後梁を除いた五代王朝の全て(後唐・後晋・後漢・後周)と、
後晋を滅ぼして一時的に中原を支配した契丹族王朝の遼に仕え、常に高位にあった。
馮道は仕えた主君を「五朝八姓十一君」と称している。
五朝 後唐・後晋・遼・後漢・後周の5つの王朝。
八姓 後唐の李存勗、その養子の李嗣源(本姓不詳)、そのまた養子の李従珂(本姓王氏)の3つの李氏、後晋の石氏、遼の耶律氏、後漢の劉氏、後周の郭威とその養子の柴栄の2氏の合計8つの姓。
十一君 後唐4代、後晋2代、遼1代、後漢2代、後周2代の合計11人の皇帝。 遼も金も元も明も清も全然、別物だが
ロクな知識も持たず先づ結論ありきで持ってこうとするからそんな頓珍漢なことを書いてしまう 遼 北面官による遊牧民統治と南面官による漢人や渤海人統治の二重体制。最高機関も両者別々に置かれた。
金 征服王朝とされているが、その実態は隋唐同様、浸透王朝である。伝統的な部族制度を温存するも故地に残った者は漢化を免れたが世宗の代には固有の言語や文字、習慣をほとんど失った。
元 構造的には大和朝廷の部品制やカースト制度に近い。匠戸、儒戸、兵戸とあらゆる階層の人間が職業ごとにクラス分けされ代々職業を世襲するようになった。
明 世襲戸は軍戸を除いて廃止。宋制を模倣しているが宰相が置かれずすべての官庁が皇帝に直結し専制政治をより進めた点に特徴がある。 >>128
こうしてみると、元の統治が非常に合理的だな やはり、いまの中国が中国らしくなったのは、元の時代と言えるだろう 鮮卑が漢化したんじゃなくて、シナが鮮卑化したんだろ どっちにしても、次の時代のシナ人は鮮卑の子孫だけどな 鮮卑人とか人口比からすると10分の1にみたないんだが つまり、後世に及ぼした影響は、先住民よりも鮮卑のほうが大きい そんなに鮮卑が強固に文化を残すことに邁進してくれていれば
言語学者は苦労しなかったのだが
嗄仙洞の碑文ですら完璧な漢文で書かれているし >>139
鮮卑族のほとんどが東魏のほうに行っちゃったから
宇文泰は関中の漢人豪族集めて府兵集団をつくらざる得なかったんだが なんかここ1年くらいで助詞の「は」を「わ」と書く人が物凄く増えたな >>144
そいつらも漢人ではない
漢が滅んで民族大移動が始まってから、何百年たってると思ってるの 歴代皇后の出自
北周の武帝 阿史那皇后(突厥)
隋の文帝 独狐皇后(匈奴)
隋の煬帝 蕭皇后(漢族)
唐の高祖 竇皇后(匈奴)
唐の太宗 長孫皇后(鮮卑) 挨拶されようとわざと立ち止まるキモイ奴
街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる
弱い奴には強く出て 強い奴には媚びへつらい
店長崩れのニセモノは
仕事も人望も紛い物
人には厳しく自分には甘く ケジメも無しとする
何でもすべての事が人任せで それでも良しとする
大学行ってもクズだから 常識なんかは通じねェ
相手を選んでハラ立てて
得意の火病はお手のモノ
今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう
すべての人に 懺悔しな!!
https://www.facebook.com/katsuyuki.kida.923 >>146
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%9C%E5%85%B5%E5%88%B6-620185
>西魏の宇文泰(505?‐556)は,漢人徴募兵を直属させて六柱国・十二大将軍・二十四開府儀同が統率する二十四軍に編成
>漢が滅んで民族大移動が始まってから、何百年たってると思ってるの
全然基本的なことが理解できてないから教えてやろう
五胡の移動は、漢が滅んでからではなく後漢末の魏の曹操の北方遊牧民の武力制圧の結果による強制移住によるもの。
5世頃には北魏の華北を統一するが、道武帝は漠北に鮮卑人を放置したまま、自身は洛陽に遷都、漢人層を取り込むため胡服鮮卑語を禁じ同じ鮮卑人を弾圧した。
これがのちの六鎮の乱の遠因となり北魏は滅んだわけ。 >>149
だから、その北魏を滅ぼして漢化政策を終わらせた連中が、次の時代を創ったんだろ。 鮮卑人は、絶滅したんじゃなくて、彼らが新しいシナ人になったんだよ。
古代の黄河文明を築いた先住民に代わってな。 >>147
下4名見れば漢族の血が5割処か7割超えてるっていうね
文化的にも漢人だしな
>>152
北魏の支配層ですら移住制限する前で胡漢半々 どうしてネトウヨはこんなに物覚えが悪いの?
鮮卑人は遊牧民なのに北魏に存在していた数千の都市や寺院仏閣は誰が作ったと思ってるの?勝手に生えて来たんですか? 鮮卑は元遊牧民
定住したら遊牧民じゃなくなるからな モンゴル族はトルコ族と違って大抵農耕も少しやってたから
割とすんなり定住するしね >>154
そもそも、その仏教信仰を西域から持ち込んだのが遊牧民なんだよ。
先住民の大工を使って、仏教建築を建てさせたのは遊牧民。 ってか、古代国家の民族区分を人種的視点で見るのってナンセンスだなあ
遊牧民も農業帝国も、人種より文化なのは洋の東西を問わない 文化も大きく変質してるだろ
インドの宗教やペルシャの音楽が盛んになったのは、遊牧民がシナに持ち込んだグローバル文化 フランク族がラテン語を習得したといっても、古代ローマとの連続性があるとはいえない
そこには断層がある イラン史だって、ペルシャ帝国とパルティア王朝を明確に区別している
これが中国だったら、「パルティア人はペルシャの文化に同化されました」と主張して、一緒くたにするところだ >>157
逆じゃないか。テュルク系の方が
柔軟に遊牧と農耕も選択すると言う
印象だが。 >>161
西ローマ末期と中世初期との間に断層があったのか、という点については、今は「なかった」とする説のが有力なんじゃないか
そもそも、西ローマ滅亡からフランク族の台頭まで、東ゴートを筆頭に、かなりの時間経っているので、
ローマとフランクを比べて断絶があるのはむしろ当然 >>165
だから、漢の滅亡から唐まで、かなり時間が経ってるから、
当然に断絶があるという話をしてるんだが。
普通の国なら、なんてことない通常の歴史談義なんだが、
ここで「中国四千年の歴史にケチをつける気アルカー?」と
バカが騒ぎ出すのが、中国史に特有の厄介な特殊事情。 >>158
アホ?三国時代からすでに入って来てるが
>>166
じゃあ日本も縄文時代と弥生時代、邪馬台国と大和朝廷では断然があるってことでいいんだな?
飛鳥時代の国政を壟断していたのは曾我氏率いる渡来系氏族だし遣隋使や国博士もすべて朝鮮系渡来人が占めていたのだから >>167
勝手にしろ。日本史はとりあえず関係ない。
このバカがいるおかげで、世界史板では中国史関連スレがすぐに盛り下がる(笑)
コイツは、世界史板の癌。 まあ、ネット上で異常な奴が出てくるのは、お約束だけどな(笑) >>167
そんなの当然だろ
部民制は百済、評制は高句麗からだし
高松塚古墳の人物壁画を見てもわかる通り朝廷の女官たちはチマチョゴリ風の朝鮮服を身に着け
都には百済宮や百済大寺が立てられ、朝廷では百済語が話され、国博士や学職頭といった国政の決定や教育者はすべて朝鮮人から選ばれ
ていたことも、しっかり山川の教科書に明記されてる
古代日本で朝鮮人が支配層を構成していたのは常識だし否定しているのネトウヨの中でも頭の悪いごく一部だけだろ 勝手にやってろ。
こっちは、日本史にも朝鮮史にもあんまり興味ないんだよ、悪いけど(笑) 「北史」の「列伝」で鮮卑と漢人系の人名の比率が見ればどれだけ自分がアホなこと言ってるかわかると思うけど
上層部がほとんど朝鮮系で占められていた敏達朝とそれ以前の日本のほうがよっぽど断絶性があるけどね 漢が滅亡して、華北の人口が激減した。
その後、北から西から、異民族の大量流入が400年続いた。
単に大民族移動しただけでなく、異民族の支配が400年続いた。
いくらノンビリした古代のこととはいえ、400年っていったら半端な長さじゃないぜ。
ローマ帝国とフランク王国より断絶が大きいと見るのが当然だろう。 少なくとも、漢は、「滅亡した先住民による、失われた旧文明」と位置付けるべきだろう。
唐も、基本的にはそう位置づけてよい。
ていうか、それ以前の問題として、北京と長安なんかもともと異国だろ。 中国共産党なんか、単なる侵略者だ。
「四千年の歴史」なんか、あるわけがない(笑) >>173
朝鮮てのはモンゴル帝国支配の後だぞ
紀元前の古朝鮮は支那の流民が創った王朝だし 前趙時代で漢人口2000万にたいし胡人は500万ほど
更に冉閔の大虐殺によって胡人と特に羯は大打撃を受けて絶滅
さらに道武帝の頃の漢人至上主義政策によって鮮卑は漢人の都督の支配下に置かれほとんどが奴婢や兵戸に落される
不満もってた連中は六鎮の乱の際に破六韓抜陵と一緒に漠北に逃げちゃったので、一応ここが胡人政権の節目とみていいだろう >>177
何そのネトウヨ史観
まさか朝鮮人はエヴェンキの子孫とか与太話信じてないよね
古朝鮮は燕からの亡命者が造ったのは事実だが、それを推戴した朝鮮国民は漢書の東夷伝にあるとおり朝鮮半島の原住民だし
今の朝鮮人の直接の祖となる弁韓馬韓辰韓があったのはもっと南 >>177
なんだ、左翼の爺さんかと思ったら、朝鮮人なの?
まあ、朝鮮人なら反日でも仕方ないな(笑) >>175
だからさぁ漢人は圧倒的多数派を占めていて鮮卑人は劣勢だったし統治技術も未熟だったので
支配者層はわざわざ自分の部族民をイジメてまで漢人支配層のご機嫌をとらないといけなかったわけ
当時の人口動態については「魏晋南北朝官人身分制研究」という分厚い本にしっかり載せてあるからちゃんと読んでね >>179
馬韓と秦韓は別種族だろボケが
今のチョンの直接の祖先は和人だったり支那人だったりモンゴル人だったり契丹人だったり多種多様なわけ >>180
左翼=爺さんってイメージ持ってるあなたは大方、氷河期かバブル期のオジサンでしょ
自分はゆとりっ子なんで昭和世代のジジイは基本全員右翼でレイシストって印象しかないですね ほんとだ、アンカー間違えてた
>>179 だったよ(笑) >>183
左翼は嘘つきとキチガイしかいないよね
おまえは典型的だ 改めて、
>>179
なんだ、左翼の爺さんかと思ったら朝鮮人なの?
朝鮮人なら仕方ないや、お気の毒な人たちだから(笑) >>182
弁韓から新羅が起こり馬韓から百済が起こり、後に新羅が百済滅ぼして統一して
のちの高麗へとつながっていくんだから何も間違ってないが
>今のチョンの直接の祖先は和人だったり支那人だったりモンゴル人だったり契丹人だったり多種多様なわけ
昭和のおっさんのレイシスト根性はほんと反吐が出るね
大体契丹とかすべて遠征しっぱいして叩きだされてるじゃん
朝鮮から伝わった須恵器が在来土器、駆逐してる事実から考えてもどう見ても半島から日本への人口移動のほうがデカいよね >朝鮮から伝わった須恵器が在来土器、駆逐してる事実から考えてもどう見ても半島から日本への人口移動のほうがデカいよね
何が「昭和のオッサン」だよ(笑)
最近の小中学校の日本史の教科書を知らないってのが、この一言でバレバレ >>188
お前の方がよほどレイシスト根性発揮させてんじゃんよ >>188
おまえイカレてんな
弁韓の地域は加羅と任那だよボケ
秦韓は支那の流民で、新羅は和人の系統なんだよ
契丹からは軍事だけじゃなく流民も半島に入ってるわけ 須恵器なんてものは、たき火で枯葉を焼いてたら自然にできるほど簡単だ
半島から伝わったなんてウソもいいとこ 唐宋時代といふことは普通に用ふる語なるが、歴史特に文化史的に考察すると、實は意味をなさぬ語である。
それは唐代は中世の終末に屬し、而して宋代は近世の發端となりて、其間に唐末より五代に至る過渡期を含むを以て、唐と宋とは文化の性質上著しく異りたる點がある。
但し從来の歴史家は多く朝代によりて時代を區劃したから、唐宋とか元明Cとか一の成語になつて居るが、學術的にはかかる區劃法を改むる必要がある。
但し今は便宜上、普通の歴史區劃に從ひ唐宋時代の名を用ひて、支那の中世より近世に移る間の變化の状態を總括して説いて見ようと思ふ。
(「概括的唐宋時代觀」『歴史と地理』九−五、『東洋文化史研究』所収、『内藤湖南全集』第八巻収録) 支那の近世は何時から始まつたとすべきであるか。
從來は多く朝代によつて時代を區劃する方法が行はれたが、これは便利なやうであるけれども、史學的には必ずしも正確とは謂へない。
史學的に言ふときには、近世には、ただ年數から云つて今の時代に近いといふばかりではなくして、必ず近世を形成する内容がなくてはならぬ。
その内容が何であるかは次に述べるが、さういふ内容をもつた近世は、これを宋以後とすべきである。
而して宋になるまでには、中古より近世への過渡期がある。近世史を明かにするには、この過渡期から考へる必要がある。
(『支那近世史』(『内藤湖南全集』第十巻所収)第一章近世史の意義) その卓越した学説の一つが、いわゆる唐宋変革論です。尤も、「唐宋変革」という言葉を湖 南は使っておりません。「唐宋の変化」など、「変化」という言葉を使っておりますが、
この唐 宋変革という言葉は、戦後の日本の学界で特に若い研究者の間で使われだした言葉で、私たち がまだ大学を出たばかりのころ、この言葉を大いに使っておりましたが、
今やこれは全世界の 学界の共通語になってきました。
台湾に行きましたときに、台湾の学者と大陸の学者とが何か 中国語で話し合っていました。
内容は十分に分からなかったのですが、唐宋変革という言葉を お互いにしきりに使っていまして、唐宋変革で何か両岸同士でシンポジウムをやりたいという 話であったようです。
日本で私たちが若いころに使った言葉が、今、世界共通の学術用語にな っているということを知って、大変感慨深い気持ちでした。 その唐宋変革論はどなたもよくご存じの学説なのですが、唐宋変革というのは、唐宋の間に 大きな社会的、政治的、文化的変化が起ったという考えです。
政治的には、それまでの貴族政治から君主独裁政治へ、経済的には、現物経済の優勢な時代から貨幣経済の発展期へ移ってい く。
そのような状況の変化の中で、民衆も貴族の支配下から解放されて自由になっていく。
文化のいろいろなジャンルにおいても、これまでの形式重視の文化から自由な表現を重んじる文 化へ移っていった。
簡単に言うと、こういう説なのですが、今、私が考えておりますのは、次 のようなことです。
ここに(2)(3)(4)と番号を付して挙げました資料は、唐宋変革の中身 ではなくて、唐宋変革を述べる前の前文に当たるものです。
ここでは、いわゆる時代区分論 を、同じような趣旨で、それぞれ展開しております。時間的には一番早いのが(4)『支那論』 です。
(3)「支那近世史」と(2)「概括的唐宋時代観」がほぼ同じ時期です。
『支那論』とこれ らとの間には確か10年ぐらいの差があったかと思います。 >>194
契丹が滅亡した後に、高麗に渡来した契丹人は100万に達するという記録もある あまりにも有名な、内藤湖南の唐宋変革論。
その一方で、杉山正明史は、モンゴル帝国画期論を唱えて注目される。
いまの中国の始まりを、宋に見るか、元に見るかというスタンスの違い。 特に啓蒙書などの叙述において、モンゴル帝国主体からの視点によって中国史料やヨーロッパにおける叙述の視点の偏り、
それを「鵜呑み」にしてきた旧来の欧米や日本の歴史学界におけるモンゴルへの視座を否定的にとらえ、
モンゴル帝国の残虐性を糾弾する先人を批判し、モンゴル帝国の持っていた先進性を評価する。
また、モンゴル帝国の時代における世界の各地域を、グローバルなモンゴル・中央ユーラシア世界と
内向きな中国・日本・ヨーロッパ等という対立的な見方においてとらえ、本来の研究領域である
東アジア世界の叙述において、南宋・明などのモンゴル帝国に敵対した中国王朝の為政者や、
耶律楚材などのモンゴル帝国に仕えた中国系官僚の役割をモンゴルのグローバルな視点から
読み直す叙述を盛んに行っている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています