唐宋変革期 2
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男系女系で随分違う
メキシコのメスティーソも女系たどれば9割はインディオだが
男系は1割とかそんな感じ
移民はほとんど男なのと政略結婚して結びついた部族以外は全滅した結果だが >>219
無いよ
琉球人、アイヌと本土人に特徴的な抗原とか見つかって無いし
本土内での地理的勾配のあるのとかも見つかって無いから今の所
一応、南九州と琉球に見られる遺伝的なガンは有るけど急性の伝染病じゃ無いし 遺伝性があるガンは子宮頸がん以外はエビテンスがないって講義で聞いたけどな
あとアイヌは日本人と比べて腸チフス、天然痘、結核、梅毒の罹患率が優位に高かったはず 遺伝性の有る癌は幾つも有るけど集団的に確認されてるのわ〜って話でしょ
南九州と琉球に多いガンはウイルス感染が原因、虫歯とかその手のやつ 「支那」やら「チョン」なんていう侮蔑語使っている時点で
そんなレイシスト野郎の戯言は一切聞くに値しないと思っているんだけど
よく皆さん相手にできますね >>227
おまえは支那チョンて言われると発狂しちゃう人種なの? 中国人もレイシストなんだから、別に日本人もレイシストで構わないやろ?
お互い様だ。 近所に支那竹が美味い支那そば屋があるけど
店主がレイシストだとは思わないけどね 売国奴死ね蕎麦を食え蕎麦を
愛国人は蕎麦を食え、って言ってただろ きたああああああああああああああああああああああああああ。
李淵
唐朝の始祖・李淵のY染色体は、ハプログループN(N-M231)である(注1)。
さらに、STRの配列に関しては、安徽省出身の商人・胡雪巌とされている数値とほぼ一致していることも明らかとなった。
唐朝を開いた李氏と、胡氏は父系で何らかの関連があったと考えられている 高麗は唐王朝の血を引いていないし、現代中国人に唐王朝の血を引いている人はほとんどいません。
大成果だ。 ) ソ ,. .' /^^⌒^へ
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唐の太宗のY染色体ハプログループついに判明。
李淵
唐朝の始祖・李淵のY染色体は、ハプログループN(N-M231)である(注1)。
さらに、STRの配列に関しては、安徽省出身の商人・胡雪巌とされている数値とほぼ一致していることも明らかとなった。
唐朝を開いた李氏と、胡氏は父系で何らかの関連があったと考えられている。
残る皇帝は、隋のみ。
そして、老子がNである可能性が浮上。
でかいぜ、こいつは。
これで、世界史板で語られていた妄言が大量に整理されることになるぞ。
すごいぞ、ハプロ研究。
朝鮮の高麗は、唐皇帝家の男系子孫ではなく、女系子孫でした。 >>233-236
ハプログループNは、
ネネツ人に97%、ヤクート人に88%、 フィン人に63%、チュクチ人に58%、サーミ人に47%、エストニア人に41%、ユカギール人に31%、ロシア人に20%だよ >>234
Karafetの2005年の論文だと中国人全体で9%とさほど少ないわけでもない >>240
逆だアホ
東アジアから北上していった系統 >>241
シベリア土人の皇帝に支配された支那土人w >>227
シナもチョンも、侮蔑語じゃないだろ
「馬鹿チョン」なら侮蔑語だが、「チョン」は朝鮮人によくある名字に過ぎない
日本人を「ミセス・ワタナベ」と呼ぶのと同じだ 李淵のソース追加。
注3)『明經胡氏宗譜(始祖傳條)』には「大唐第22代皇帝・昭宗は、
唐朝末期に産れた幼皇子(李昌翼)を宮廷の危険から遠ざける為に、
近侍していた股肱の臣・胡三に預けた。
胡三は皇子を御駕に載せて東へ遷り、己の身の危険を顧みず養育したが、
唐朝は朱全忠の圧力に抗し難く昭宗は廃位されて殺害された。
皇子らも、翌年、洛陽苑の宴で謀殺され、ついに天祐4年(907)、哀帝(李昌翼の実兄)は、
朱全忠に帝位を禅譲し唐は滅亡。これを受けて朱全忠は「後梁」を開いた。
その後、李昌翼は、養父の姓を享けて胡氏を名乗った。これが明経胡氏の始祖である」とあり、
従来は一家伝に過ぎないと看做されてきたが、DNA解析の結果、
何らかの史実が反映されているのではないかと指摘されている。
史実としては、天祐2年2月9日(905年3月17日)、洛陽苑内で行われた偽りの宴会の最中に、
朱全忠らによって哀帝の兄弟皇子(男子)17人のうち9人が謀殺され、7人の皇子らが身を隠し行方不明となっている。
紅頂商人・胡雪巌(1823-1885)のY染色体は、ハプログループN(N-M231)である(注1)。
胡雪巌は、安徽省の績渓の出身で、清朝の末期に杭州で起業し官商として巨万の富を得た。 隋がわからないことにはなんともいえないな。
北方民族の流入ってことは、五胡十六国時代がいちばん顕著なんだろ? タラス河畔の戦いに、唐皇帝家の一族は従軍していたの?
なんか、タラス河畔の戦いが、中国対イスラムってだけじゃなく、
北方系民族対中東系民族の戦いって見方もできるようになってきた。
いいかえれば、農耕の発祥の地メソポタミアにとどまった民族と、遠くまで旅に出た民族の合戦って様相を呈してきた。 >>240
東アジアから沿岸伝いに満州→沿海州を抜け北回りで北欧迄拡散した集団
トルコ族よりモンゴル族に多く居る系統 >>247
本物も偶にわ居るんだな
日本へ渡来した氏族にも皇帝の自称子孫とか色々居るけど >>249
全然違う
概説書から学んで来い
元々後漢末とくに魏があちこち北方民族の土地を荒らしまくって、その住民を拉致して
兵力として利用してたのが遠因 >>249
多分北魏時代、胡人も大分増えて今や半々だって発言あるし >>255
北魏とか胡人の大量離反を招いた六鎮の乱があった時代だし
やり直し >>252
秦氏って朝鮮系なのか中国系なのか混合か >>250
唐とサラセン帝国というより、西域の節度使・高仙芝と、「ホラーサーンの虎」こと総督アブー・ムスリムの戦い >>258
流入で一番多いのって支配が確立してから支配民族が入るパターン
当たり前だけど >>244
トルコ系ったって、ロシア人が憶えやすいからヤクート語で交易だのなんだのやってたら、周辺の連中もエベンとかシボとかサルタンとかも
みーんなヤクート語に切り替えてしまった。
そうこうするうちに、極圏の人口が急減して、従前の慣習もロシア人のもってきたものと入れ替わって、200年くらいの間に、そこら一帯
ヤクート語話すヤクート人という意識が生じてきた。 >>261
道武帝の強制的な漢化政策と鮮卑や軍戸の地位低下のはてに六鎮の乱があったんだが
何言ってるのかわからないなら「魏晋南北朝社会の研究」でを読んで基礎的な知識を身に着けてから来てね
アルファベットも読めない人に英文はかけないでしょ? >>264
従前の特権が無くても漢化してでも、移住するだけ
漢土の豊かさと文明わ魅力的だった、という事だよ >>264
ゲルマン人やフランク人が、ラテン語を勉強したのと同じだな。
支配民族が、先住民の旧文明を学んで身につけることはよくある。 >>266
哀れなシナ人から、豊穣の地を奪い取ったんだな。 人間も悪貨が良貨を駆逐する
支那人と雑居してりゃ、下品な支那人のようになってしまうんだな 鮮卑王朝の騎馬民族とか王室直属の奴隷みたいなもんだけどな
鮮卑族は兵戸として軍役についていたのだが、漢族でも犯罪を犯したものがこの兵戸に組み込まれたり
降伏せずに戦死した兵士の家族が兵戸から解放されたりとほとんど奴隷に近い扱い 美の基準はそれぞれである
もし、楊貴妃の写真が残っていたら…
【簡単に説明すると】
・145人の男にプロポーズされた美女が公開される
・どうみてもおっさん
・しかし当時は絶世の美人だった
http://gogotsu.com/wp-content/uploads/2017/12/001-19.jpg
19世紀のペルシャカザール王朝(1779〜1925)の姫として紹介されてきた「伝説の美女」の写真が公開され話題になっている。
その伝説の美女は生涯に145人の男性にプロポーズされるほどモテモテだったという。
しかし、公開された写真を見ると意外にもそんなに美女では無い。今と19世紀では「美女」の基準が違うのだろうか。ぽっちゃり体型に太い眉毛、そしてヒゲまで描かれているように見える。今では美人に程遠いルックスであるが、当時では最高に美女だったのかもしれない。
この美女はナーセロッディーン・シャー(Naser aI-Din Shah Qajar)王の8番目の娘。
先ほども書いたように145人の男がプロポーズし、更に姫の気を引くために13人の男性は自ら命を絶ったという。
この美女は外見だけで無く内面も美人で男女同権のために常日頃活動していたという。
http://gogotsu.com/wp-content/uploads/2017/12/002-15.jpg
http://gogotsu.com/wp-content/uploads/2017/12/003-9.jpg
http://gogotsu.com/wp-content/uploads/2017/12/004-4.jpg
http://gogotsu.com/archives/35487 >>273
大航海時代の船乗りみたいなものだ。
遠洋航海は王様の勅許が要って船には王侯貴族のスポンサーから出資を受ける。船長ほか船の決定にかかわる人は特恵層。
下級の船員は買われてきた奴隷だったり囚人の払い下げを受けたりだったりする。
騎馬民族も同じようなものだろ。もっと新しい時代の言葉で言うホショとかアイマグとかに相当するものの長は貴族、その下に
騎馬の兵員があって、さらにその下に日本で言うと足軽とか岡っ引のような奴隷がある。 >>274
楊貴妃は「豚」と言われるほど豊満
漢の趙飛燕は柳腰だった
この2人を合わせて、「環肥痩燕」と称する
開封府(かいほうふ)−北宋を包む青い天− チャンネル銀河
北宋時代末期に活躍し、その清廉潔白で公正無私な姿から、
中国史上で最も愛された名裁判官・包拯(ほうじょう)。
現在も人々から尊敬をこめて「包青天」「包公」と呼ばれ、
その人気ぶりはあの諸葛孔明や関羽にも引けをとらない偉大な人物だ。
包拯 - Wikipedia (ほう じょう、999年 - 1062年)
同時代の日本人は 藤原頼通 - Wikipedia (992年 - 1074年)
ほかの国々はどうだったかな 他の国つってもイスラム全盛期じゃね?
わしペルシャ語とかアラビア語解らんし >>122
五胡のすれは以前あったのに今ないね
欲しいな 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
LO331 科挙官僚による全国統治システムが完成する以前には、都の貴族が、地方の武士を抑えておくのは大変だった。
全国に広がる荘園のガードマンとして武士を雇ったのだったが、相手は軍事のプロ。
ケンカになったら勝てないだけに、貴族がコントロールするのは難しい。 安史の大乱で、唐は「国破れて山河在り」という崩壊状態になった。
しばらくは、長安の朝廷はおとなしくしていたが、やがて徳宗の代には、
地方の節度使に対して高圧的な態度をとるようになり、怒った節度使が
反乱を起こして長安を占拠した。 憲宗は、地方の節度使たちに片っ端から戦争を仕掛け、次々に勝利していった。
「唐の足利義満」といったところだろう。
しかし、足利義満と違って、天下を取る目前で、宦官の暗殺に倒れた。 ついには、節度使の朱全忠によって、唐そのものが滅ぼされてしまった。 唐が滅んだあとも、節度使の争いはそのまま続いた。
五代十国時代が50年つづいた。 宋の趙匡胤は、科挙官僚を全国に派遣するという統治機構で、全国を安定支配することに成功した。
江戸幕府の幕藩体制により、戦国時代が完全に終焉したのと同じ。 科挙官僚は、都で皇帝に採用された公務員だから、人事ローテーションで地方を歴任する。
現代の中国人民解放軍と同じで、中央が人事を押さえている限りは軍閥化しない。 唐は迷信深い時代で、加持祈祷がきわめて盛んだった。
そのために、仏教が隆盛した。
宋で、周敦頤や程兄弟たちが儒教ルネッサンスに乗り出したのは、
そういう迷信深さに対する啓蒙運動という側面があった。 >>284
足利義満にも天皇位奪取寸前で暗殺されたという説が唱えられている >>290
仏像なんかに御利益なんて無いから銅や鉄を使うの禁止令出てるしなw
かなり合理主義 旻(みん、生年不詳 - 白雉4年(653年)6月)は、飛鳥時代の学僧。
推古天皇16年(608年)遣隋使小野妹子に従って、高向玄理・南淵請安らとともに隋へ渡り、24年間にわたり同地で仏教のほか易学を学び、舒明天皇4年(632年)8月に日本に帰国。
その後、蘇我入鹿・藤原鎌足らに「周易」を講じた。舒明天皇9年(637年)に流星が現れた時には天狗の吠え声と主張し、
舒明天皇11年(639年)に彗星が現れた時には飢饉を予告するなど、祥瑞思想に詳しかった。
大化元年(645年)大化の改新ののちに、高向玄理とともに国博士に任じられ、
大化5年(649年)高向玄理と八省百官の制を立案している。
翌大化6年(650年)に白戸国司から白い雉が献上されると、
その祥瑞を説明したことにより、白雉と改元された。
のち病を得て、白雉4年(653年)5月に孝徳天皇の見舞いを受けたが、翌月没した。 僧の日文や空海をはじめ、唐で長いこと修行した連中は、みんな加持祈祷や占星術の専門家になって帰ってくる。
日本で、怪しいご託宣を繰り返している。
唐の社会が、どれほど迷信深かったかがよく分かるというものだ。 歴史の教科書では、「遣唐使は、長安で先進文化を必死で学びました」ということになってるが、
実際には、日本人が最も欲しがったのは、仏教の経典や、易学の占い書などだった。
日本人が来ると、経典を争って買い占めるので、地元では値上がりして困っていた。 平安時代には、「日本は、世界の中心から遠く離れた辺境のハテの国で」
と嘆く日本人がしばしば見られたが、この場合の世界の中心とはどこかというと、
仏教の聖地インドであった。
日本人にとって、昔から聖地といえばインド。
中国は、特別な存在ではなかった。 空海が本当に頭よかったら密教なんぞにうつつは抜かさなかった。
ただし書は天才的だ。 平安時代の日本は公文書はすべて漢文で教養と言えば漢詩
日本書紀には「史記」「漢書」「後漢書」「三国志」「梁書」「隋書」「芸文類聚」「文選」「金光明最勝王経」「淮南子」「芸文類聚」
などの多数の漢籍を引用しているがインドの書物など一つも引用されていない 駅伝制、官道、公地公民制、国府、国分寺、二官八省制これすべて中国の模倣
天皇号も道教から
建築技術では礎石、土壁、瓦葺、枡組もすべて6世紀の飛鳥寺建立のさいに百済の寺大工によってもたらされた南朝の建築技術で
それ以前の日本は竪穴式か伊勢神宮みたいな高床式住居しかなかった
唐代にはイスラム教徒の街が出来て
末期には大虐殺されたりしてるんだけど
日本にイスラム教徒が来ることは無かった
初めて日本に来たイスラム教徒は、元寇の前の使者だった
結果は斬首で終わった その遥か後世になって、湯川遥菜さんと後藤健二さんも斬首された これも何かの因果なのか >>295
刀と建築位であと碌に技術学んで無いんだよな日本人
製鉄や窯業や医学や農業や色々学ぶ事有ったのに 鉄製農具もすべて中国からの伝来だし
磁器も17世紀に朝鮮から伝わるまでずっと輸入頼みだったし
農書も江戸時代はいるまで国産のものはなかったし
医学書なんて明治になるまでずっと中国から輸入してたが >>302
日本にとって唐宋は反面教師だったからな >>303
だから、それらを身に付けさせれば善かったのにそれを為ず
中国人顧問雇ったり輸入為たりで、何だかなあっていう >>303
水銀や鉛を不老長寿の丹薬として服用させる支那医学を輸入したのは、
日本にとって弊害だったね しかし中国以外に学ぶ相手も…独自開発するにも中世の日本では苦しいのでは >>304
反面教師どころか宋学なんてありがたがって江戸時代には国教化されてるが
討幕派のスローガンの尊王攘夷にしても宋学から来た言葉だし体制派も反体制派も中国的な思考回路から抜け出せない点で終わってる
もっといろんな文化圏と接していれば相対的な考え方も出来たんだろうが
ヒンドゥーもイスラムも入ってこなかったしキリスト教も江戸幕府に根絶やしにされてしまったしな >>310
負け犬の宋と違って日本はモンゴルに勝利した
そして江戸時代の外交官は儒官を批判してた 海という大きな防壁があったおかげだよね
南宋はモンゴルに対して40年もの間戦い続けた末に倒れたけど日本は2回っきりだし
しかも中国が戦ったのはモンケ、グユク、スブタイ、郭侃という中東やヨーロッパを席巻したオールスター揃いばかり >>310
キリスト教徒の少なさは江戸時代と現代とでさほど大差ない
ヒンドゥーもイスラムも日本では圧倒少数だし、
ヒンドゥーでもイスラムでもキリスト教でもない圧倒多数の日本人の思考回路と、
中国人の思考回路はまったく異質だ 日本帝国が掲げてた一君万民、教育勅語や八紘一宇のスローガンはもろ中国の焼き直しだけどな >>310
反体制派が、中国的な思考回路するなら易姓革命だろ >>312
>南宋はモンゴルに対して40年もの間戦い続けた
のに国家滅亡しちゃうなんて、
属国として存続できた高麗よりミジメだね >>316
そりゃ、宋ほど人口も生産力も大きい国をそのまま従属国にするとか無理だしなあ >>317
人口も生産力も大きい国のはずなのに、
モンゴルに滅亡させられちゃうなんてミジメだね その前には遼にも金にも虐められてたしな
宋は最弱だよw 文化面では素晴らしかったが モンゴル人や満州人にいじめられて悲憤慷慨した宋の知識人たちの言葉が、江戸時代の日本人に大きな影響を及ぼした。
「このままでは、宋みたいになってしまうぞ」という危機感が、幕末維新の原動力となった。 >>312
モンゴル人にとって、南中国の気候風土はものすごい障壁だぞ
それでも滅ぼされるほど、宋は弱かった >>319
宋が文化面ですばらしかったというのは、ワビサビを好む日本人ならではの評価。
そうでない人々にとっては、なにごとも地味で目立たない時代。
渋みを好む日本人には、それがかえってウケた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています