春秋戦国時代
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同じような出来事が多すぎて、いまひとつ頭に残らない春秋戦国時代
ここらで流れを整理しておこう >>212
脱亜論は福沢が書いたんじゃないっていうのが定説
それを無視してホルホルするのが馬鹿ウヨ
脱亜論に日本人そのものを見出して攻撃し続けるのが韓国人
韓国人に同調するのが極左
リベラルは史実を重く見て福沢を攻撃せず、しかし帝国主義の流れに批判的 >>220
定説ということは論文あるんですよね?
どの学者の何というタイトルの論文でその説が開陳されたのかご存知? その人が定説なんですか?本当に?
エビデンス何も無しに主張してる部分もありますよね >>223
ケチばかりつけててなんら生産性ないね君 検証に耐えない論説ってもっと生産性ないですよね
ただの嘘だし エビデンス出されても確かめもせず認めない奴がうだうだ喚いてもね >>85
戦国七雄じゃないんだ、どれが除外されてるのか 除外されてるのは燕だったかと
楽毅の登場で脚光浴びたけど、その前に後継問題の内乱を突かれて一度滅んだような状態だからね
薊を斉に支配されて、何事も斉にお伺いをたてるような感じで一時期は斉の従属国状態になっていた
その状態から回復させた昭王は優れた君主だったよね、後継ぎはどうしようもないけど 滅ぼしたあとの王家の扱いとかめんどくさいから?
生かしといたら復讐に怯えることになって、虐殺したら悪評うけるとか 属領化してもすぐ北に異民族いるし、緩衝地帯にしたかったのかね 王家が形骸化して
諸侯が強くなって
次にその家臣が台頭してって
日本と同じだよね
つうか世界中同じか ヨーロッパは割と王家が流動的だから
鎌倉幕府みたいなことになったら普通に王朝が交替してると思う 斉が残り2城を残して滅亡寸前だったのは事実だろうか
燕に実効支配できるだけの兵力があったかは怪しいし
他の国が関わってこないのも気になる 春秋から戦国にかけて消えていったたくさんの小国は、
当初は完全に「消えた」のではなく、継承者一族が「社稷」「宗廟」を残す、
すなわち土地神・穀物神と祖霊を崇めることを許されていた
滅ぼした側も祟りが怖かったというのもあるが、
それよりも他国の間で自国の悪評が立つことが怖かったのかもしれない
ただ段々とそういう「常識」が消えていったので、
本当に消滅する国も多くなっていった
そういう国の中で大きめの陳は諸国間で立ち回ってなんとか生き残っていたが
春秋末期には楚に完全に消滅させられる
三晋が立ち、周に諸侯と認められ、晋は事実上滅んだが、小諸侯として20年ほど残ったのも
宗廟を祀らせるという思想のためかもしれないが、やがて国も失い静公は庶民となり祭祀を禁じられ死んだ
という滅ぼされ方は戦国の新しいパターンだろう
斉が2城を残してもらえたというのは古い習慣の名残りか、完全に無力化したとみなされたか 残りニ城って、田単が楽毅から斉を守ったって伝説的なエピソードの話じゃないの? >>241
>>231と>>239-240はその話をしているだろう
違うのか? 春秋戦国を全く知らずに韓非子や戦国策や論語を読みはじめ、その後背景知識を仕入れたくなったので、概観を掴む目的で小説の春秋戦国志を図書館で借りてみました
その後史記も読んでみようと思い少し目を通してみたのですが、どうも紀伝体とやらになじめそうにありません
そこで諸兄にお伺いしたいのですが、
・史記を編年体的に変換しながら読むコツなどはあるのでしょうか?
・編年体的な読み方は諦め、韓非子戦国策などを読みつつ、疑問が湧いたら史記で調べるといった辞書的な使い方のほうが望ましいでしょうか? なんで左伝を読まないの?
あと、史記の各伝どうしで矛盾してることがよくあるからメモをとってためていくのもいいと思う 左伝は図書館で借りられるのがかなり古い本なので後回しにしてました
今度ビギナーズクラシックを読んでみます
メモの件ありがとうございました 電子書籍で左伝が出るのを待ってるんだけど、
岩波文庫の三冊本がなかなか電書化されないね
左伝って調べるとまずビギナーズ・クラシックスがまず出てきて、
それから徳間文庫の「中国の思想」シリーズの左伝
どちらも部分訳で全体ではないが一応電書なので
スマホやタブレットで持ち歩いて字を拡大して読めるので目が悪くても便利
岩波文庫は現代語訳だけだが通しで読むのに便利
いちばん詳しいのは明治書院の4冊本だが分量も多く1冊8000円ぐらいとお高い
こういうのが電子書籍で気軽に読める環境になるといいんだがまだまだだね 陳侯の次男?の子孫が斉侯になったんだから残っているともいえる 斉のキョとソクボクの2城は何で70余城を落とした軍と戦えているんだよ、、、 燕は楽毅を上将軍に任じ、大軍を発し、韓・魏・趙・秦の連合軍に合流した。
楽毅は連合軍の総大将として、五国連合軍を率いて斉軍を済西で打ち破った(済西の戦い, 五國聯軍攻齊之戰)。
その後、楽毅は燕軍を率いて斉の首都臨淄に迫り、湣王は莒に逃げ込んだ。 楽毅は破竹の勢いで斉の70余の都市を次々と落とし、残るは即墨と莒の二つとなった。 濟西之戰
燕國
魏國
趙國
韓國
秦國
約六十萬
齊國 數十萬 秦滅六國之戰
秦國 約120萬人
韓:10萬
趙:50萬
楚:40萬
魏:10萬
齊:30萬
燕:約10萬
合共150萬人 魏って孟子を読むと
本文中では梁の恵王と梁と呼ばれ
恵王自身は我が晋国と晋を自称し
また恵王自身は夏王と称していた >>256
正確には、首都が安邑にあった頃までは「魏」、秦に大敗して開封に遷都してから「梁」となる 戦国時代の初期、恵王の頃までは、魏が覇権国だった
恵王の時代に、東の斉、西の秦に敗れて転落する
魏は、中華と呼ぶにふさわしい位置にいたが、強国に囲まれた地形はあまりにも不利だった 秦の攻勢に圧迫された格好で大梁に遷都したってみられるむきがあるけど、
たしか竹書紀年じゃその前から大梁に比重が向いてた気がするんだが >>258
別名というか、国名ってのがなかったのだろうか
それと戦国末期には魏としか呼ばれていない気がする >>260
そりゃそうだろうな。
開封は昔も今も、黄河の水運の要衝
商業価値が違いすぎる なんであんな形なったんだろな、ふつうに考えりゃ韓の方が100倍有利じゃね?
どっちか滅ぼせば半減しそう 実際には持っている「城」と周辺の田園が領土で、
山や川、森や道路などは所有が曖昧というか各国共用だったのはたしか
城の取り合いが戦なので、領域という概念は希薄だったのだろう
ということは地図で見ると細長く不利に見えても、
ある程度の縄張りにはなっているのでそれほど不都合ではなかった 韓も春秋時代から韓原、平陽、宜陽、陽テキ、新鄭と、拠点を次第に黄河の南岸へ
更に東へ東へと移動させてはいるのよな
戦国時代の韓の領土って農業的には恵まれない地域だったみたいだし、
まかなか腰が落ち着かなかったのかね
韓原や平陽なんかは戦国時代じゃ魏に移ってるけど、摩擦もなく受け渡してたのか
そこがよくわからん >>259
バリョウの戦いでも斉12万、魏10万らしいし
覇権国にしてはそこまで圧倒的でもない
初期の鄭を覇者のように言うけど小国でしかなかったように 春秋戦国と言えば、やはり、呉だろうな。
専諸や要離のような刺客に憧れる。 戦国時代のどの国の君主になりたいかと言えば
私は斉王になりたい >>268
初期の鄭は、圧倒的な先進国だった
でも、やっぱり小国 鄭は周の卿士で有力ではあっただろうけど
仮に斉とか晋とか楚とかと戦っても勝てない程度だと思う
戦国末期の韓が新鄭だから鄭ってその程度の領土なんでしょう 1対1で戦うという状況自体が無いからね
小覇の頃の鄭はいくつもの周辺の盟邦を会盟で束ねて戦ったから強い
辺境のやがて覇者になる国は、まだあまり徳(実績)がないから地位が低く、
国力も開発途上で弱かった 斉は魯を小国と見下していたけど兵力的にはそんなに差がないんだよね
3万と2万ぐらいかな
他の国も都市国家でしかないから大した兵力ないし
周も7万5千とかいうけど実数は5万5千ぐらいらしいし
それも諸侯達を率いた兵力に過ぎない 智伯の領土は秦よりも広かったらしい
趙は3氏の軍勢に持ちこたえるぐらいだから
智氏の次ぐらいの勢力だよね
3晋で最強なのもおそらく趙だろうし 信長の野望でいう島津効果(海に囲まれていてそっちの防御は軽視できる)が一番強いのって斉?呉?
晋と後釜三国とか、晋くらい強けりゃいいけど弱くなったら四方敵なの辛いよな
ただでさえ中心地にあるのに 春秋初期の話をしてるやつと春秋末期から戦国初期の話をしてるやつがいるぞー 戦国末期の西周と東周の話を知りたいよ
※周の東遷の話じゃない、幽王のすぐ後じゃない、周が東西に分裂したやつね >>271
オランダみたいなものだと思う
貿易で覇権みたいに世界史でやるけど
オランダはイギリスやフランスやドイツと戦っても勝てるわけがない 秦がイングランド
楚がロシア
越がブルガリアかな
呉がルーマニア
韓がイタリア
魏がフランス
趙がドイツ
鄭がオランダ
宋がトルコ?
衛がモナコ? >>281
オランダは当時の世界最強スペインと戦って勝ったけどなぁ >>280
佐藤信弥『周-理想化された古代王朝』中公新書
は読んだかな
むしろ読んだからそう言ってるのかも知れないな
このスレにも読んだ人は多いだろう
ざっとだけど面白かった >>281
17世紀のオランダは、イギリスともフランスとも死闘を続けた
当時は、「ドイツ」はまだ地理的概念に近い >>282
まあ、東西の大国・秦と斉がドイツとフランスで、間にある3つがベネルクス諸国ってのが、一番にてると思うけどな オランダは、ライン川下流の平野という、欧州で最も豊穣かつ水運の要衝にある。
その点では、同じく長江下流の平野という、中国で最良の地を占める呉に似ている。
地理的なポジションとしては、この2つが最も似ているように思う。 フランクが分裂した三晋だと思う
ナポレオンもヒトラーも勝てなかったイギリスとロシアが秦と楚だと思う >>283
山東には極一部白人もいたかもしれない、だぞ 古代中国と近代ヨーロッパは、いろんな面で似てるんだよなあ
当時としては、統一なんか考えられなかったでしょうな 春秋戦国時代に関しては、ヨーロッパ諸国のようなイメージで見た方がいいだろうな
後世の統一王朝の歴史を知っているだけに、どうしてもバイアスがかかってしまうが モンゴル帝国による大征服がなかったら、中国はいまでも統一されてないんじゃないかな? 春秋時代は、基本的には、北の晋、南の楚という、南北の超大国による争いの時代
紀元前546年、宋国の仲介で晋と楚が休戦協定を結ぶことで、一時平和が訪れた 小国の宋が、超大国の晋と楚の和平を実現した
これぞ、史上にも稀なバランサー外交の見本
これに習って、我が国も米中を和解させるニダ 歴史に残るバランサー外交を実現したのは、宋の名宰相・華元
宮城谷昌光の小説の主人公でもある 紀元前595年、楚の申舟が宋国内を無断で通過したので華元はこれを捕えた。
華元は「楚が通行の挨拶をしないのは、宋を自国の領土として扱っているからだ。
自国の領土して扱われれば国が滅びたのと同じであるし、
使者を捕えたことが楚王に知られれば宋は討たれ、どちらにせよ宋は滅びるだろう」
と言って申舟を殺した。 その年の内に、楚の荘王は宋都商丘を包囲し、7ヶ月に及んだ。
宋では餓死者が続出したが、文公と華元のもとでよくまとまり、なかなか落城しなかった。
すると荘王は宋都の郊外に家を作って耕作し、持久戦の構えをみせた。 華元はそれを見て密かに宋都を抜け出して、楚将の子反に会いにいった。
華元は子反の陣幕に忍び込み、寝台の子反を揺すり起こして
「宋では今や子供を交換して食べあい、死者の骨を砕いて炊事している有様です。
どうか三十里退却してください。そうすればどのような盟約にも応じます」と言った。
不意を突かれた子反はこれを了承した。
華元は自ら楚の人質となったが、文公はすぐに公子囲亀を代わりとして楚に送り、華元を取り返した。 紀元前589年、文公が没すると華元は楽挙とともに宋に前例がないほど盛大な葬儀を行った。このため世の人々は華元を非難した。
同じ年に、華元は中華の大国である晋と楚の和議を取り持った。
これは華元の生涯の中でも大功に値するもので、後に華元の後を継いで右師となった向戌も一度は破れた晋と楚の和議を再び取り持っている。 それから数十年を経た、紀元前546年。
晋の趙武・楚の屈建・魯の叔孫豹・蔡の公孫帰生・衛の石悪・陳の孔奐・鄭の良霄らが宋で会合した。
ここに、晋と楚の大和解が成し遂げられた。 >>298
小国宋にそんなことができたのは
多少なりともかつての殷王という権威が残ってたのだろうか 殷王の権威なんてないでしょ
それより中華中に広がる商業ネットワークの方が断然強い 宋は公爵というが
その前のぶこうろくほは殷侯だった かげんのせいで子供を殺して食べるめにあわされた
メンツなんかのために 衛も最後まで残ったし
宋はかなり悪逆だとして滅ぼしたし
なんかあったんだろう せんごくししでんにいたそうのけんおうはそうのくんしゅにそんなひとはいなかった >>308
「殷の末裔」というメンツは、それほど重かった 春秋時代だと、まだまだ中原の小国の文化的な権威は大きかっただろう 君主は諸侯のことであり
主君は大夫のことである
どちらも君と呼ばれる
君主は君公とも呼ばれる
主君は大夫のことだったのに後には諸侯も 晋の卿は諸侯に匹敵する
諸侯には本来は卿はいなかった
上大夫のことを卿と呼ぶようになった
周の卿士が高貴な職だったらしい 斉の青銅器に丁公とかを王片で書いていたらしい
王丁王公みたいに
王丁
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