殷周革命
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>>184
武媚娘の役にファンビンビンは、まさに適役だったわけだな >>6
殷の言語は不明とかいいながらシナチベット語族である可能性低いとかどうゆう理屈だw >>192
不明でも。これは違うだろってことじゃね。 殷の東の敵の人方ってのが気になる
なぜ人と呼ぶのだろうか 魏の国名は鬼方に由来するらしいから、そう悪くもないか? 鬼方が魏になり、人方が倭になった・・・というのなら面白いが、倭は遠すぎる(笑) 古代アメリカのインカ文明(殷・夏)との関連も解き明かしてほしいな そもそも古代中国でいう「鬼」は日本でイメージするオニではなくて死者の魂を意味する幽鬼である。
日本のオニも隠(オン)に由来して元々は目に見えない超自然的な存在を意味していたと言われている。
いわゆるオニのイメージができたのは日本に陰陽五行説が入ってきて陰陽道ができてから。
陰陽道では東北(ウシトラ)の方角が鬼門とされ、牛の角と虎皮の腰巻を合わせて鬼のイメージができた。 >>201
見下している敵を呼ぶのに人って字を使うのがなあ 周の成王が弟の虞と庭の木の枝を使って「これを以てお前を封じよう」と封建の儀式の真似事をして遊んでいた
宰相から「殿下をどこへ封じましょうか?」と問われた。成王は驚いて、
「私はあれと遊んでいただけだ」と答えるが「『天子に戯言無し』です。王の発した言葉は覆す事はできない」と答えた
周公旦がはるか北方のTang (唐)を征伐して、虞を唐公に封じた
このとき家臣として鬼方一族が付けられた(容易に従わない蛮族ともされる)
あとになって晋水にちなみ唐から、晋と変える。これがのちの大国晋である。
Tang (唐)
Tang (天乙)
あ・・
周と同じ血筋である晋公は春秋戦国でおなじ姫姓の国家をほろぼしてゆく。そして超大国になる
これはいかにも奇怪なことからまったく異民族でないかと言われるが・・ Tang (湯王)はテュルク語でテュルクの王のこと、つまり狄(テュルクの音訳)の王
と欧米では疑われてる 晋の文公は春秋の五覇王のひとりだが、重耳といって母親は異民族の狄の姫であった
また父親の献公は遊牧民の驪姫を寵愛した
晋の先祖は姫氏で間違いないにしても、下半身がかなり乱れてるね・・・ >>200
字源を知っていれば容易に理解できるが
「人」ってのはもともとひれ伏した様子を象った文字だから
「巴」という「方」もいるがこっちは女がひれ伏してるバージョン 「人」という字は支え合ってなかったんや! >金八先生 のちの東夷、夷とは巨大な弓をたずさえた狩猟民の絵文字で
日本やツングースをさすと言われる
孔子教団は「仁」の教義を掲げたが、孔子は「東の人は素直というから
わしは舟にのり日本に行って仁義のおしえをひろめたい」と嘆いた
弟子は「東国は野蛮で下品でございます」と止めた
孔子は「正しい生き方をしておれば、天下でなんぞ恥じることがあろうかい」と論破した >>209
戎はフンを指すのかもという欧米では向きもある
犬戎とミヌシンスクやスキタイサカとのリンクも 「ついに邪馬台国の位置を突き止めた!」というような話が、この時代なら中国でも展開されている >戎はフンを指すのかもという欧米では向きもある
白豪主義者だけでしょ
アーリア=スキタイ=匈奴=フンという壮大なファンタジー
匈奴は新疆ウイグル自治区バルコル県にある単于庭の墓の発掘によってハプロQに属するモンゴロイドだと確定してるけどね >>210
晋が姫姓ってのも、
全くのデタラメかもしくは他の姫姓国から嫁や婿を迎えただけなのでは 文献では晋は武王の息子成王が弟を封じた国ということになっているので
これがデタラメだったら他の国はもっと怪しいということになる。
特に呉は胡散臭い。 中山国はモロに狄が作った都市国家で、代も異民族の作った城塞都市だったと思う
趙が代王を騙して煮殺して殺害、乗っ取った
代国は北緯40度の遊牧民が多い異色の都市なのでのちのちにも重視され
武霊王の長男は代に封じられてる。また北魏は代王であり、このあたりは帝都でもあった
月氏も甘粛に大きな城塞都市をいくつも持っていた。遊牧民だから野蛮、というわけではない
ただ中国とは人種や言語が異なるから意思疎通できず恐怖であり野蛮とされた 武霊王は長男を太子から外して次男に譲ったので捨て扶持として代をやった。
そしたら調子に乗った長男は趙王である弟に反乱を起こし敗死。
武霊王もそれに巻き込まれて幽閉されたまま餓死。 >>214
771 BC Huns (Ch. Jungs) invasion of Zhou China. Zhou capital Hao falls
フン(中国語 戎)が、中国・周に侵入、周の都・鎬京陥落
とある このフンは犬戎を指してるのは確か
フン族デートライン
http://s155239215.onlinehome.us/turkic/70_Dateline/71_Huns/hun_dateline_1_En.htm >>220
代王を宴席に招いて暗殺したのは、晋の趙襄子ではなかったか? 天乙は商朝の初代王。殷墟出土の甲骨文占卜には、名は唐、と見える。
湯王、太乙、成湯、成唐とも
殷の建国者として実在の可能性が高い。聖王とされその徳は鳥にまで届くとされ・・
殷の湯王の出は唐(晋)に盤踞した遊牧民であった可能性がある
そして商をほろぼした周も、唐の土地は無視ができず、弟など重要な血縁のものをおいた
植民した人はなるほど城塞を造り農耕に精を出したが
北方の植物相が貧困で、南の洛陽のように五穀が取れるというわけに行かず
食事も全く変わったはずである。貧しい土地の漠北ではむしろ遊牧生活も悪くない効率になる
民の大多数は現地人であり代を重ねるうちに晋の公室も圧倒的に現地の色に染められて
妻は狄をめとるなど遊牧民の色が濃くなる・・というのはどうかな そうやって晋公をないがしろにして力をつけた六卿が晋を食い物にして、さらに互いに潰しあった末に
趙・韓・魏の諸公国として建国するわけだから間違いとも言えない。 現代の中国の華北当たりのイメージを投影してる時点で全然だめだな
商代の頃の黄土高原は落葉樹の広がる森林地帯でインド象やサイ、水牛などが生息していた
今のような植生になったのは北朝時代に入ってから 森林地帯なんだから、どっちかっていったら、遊牧民というより狩猟民だな 中国は食人の文化があった
飢饉の時ではない
平時に市場で普通の食材として売られていたのだ 考古学上殷周戦は存在しない。
そもそも同時期2対立的な部族と国家が存在しない。
商の時代商の人口は10万以上20万未満であり、同時期にあった日本、ASEANの集落と比べて特別大きいわけでもなく。通常の部落集落であり
王族、王国、支配朝的な力、社会はない
銅技術を持つがそれを武器、農具などにして利器恩恵を得てない儀式道具利用である。
このためブンド水準は同時期の日本、ベトナム、そのた中国の集落にたいして優れない。むしろ同時期にすでに鉄器は日本にもそのた中国にも伝わっていたため、ことさら商は優れない
そしてそもそも商と周は元同じ発音であり、考古学上継承される同一文化集団である。
このため商と周という同じ発音の同一集落が後世駅正革命神話などの影響を受けて、商と周にわかれ
商周神話が生まれた。この場合、商周神話が歴史じゃなく存在しないのである
尚考古学上周北部集落は秦の統一まで人口、ブンドが大したことなかった。
ところがなぜか古来から中国史の中のルーツ朝になってしまったが、ルーツでもなければ王朝ですらないのである 考古学と歴史上は
@BC3000年前後アジア全域に広がったマレー系海洋濃厚文化のひとつで沿岸から伝播した
A商周戦争はないが、沿岸から周都まで移動の痕跡がある
B銅技術を持つが、利用、用途、量産は優れず儀式用具にとどまり同時代の日本、ベトナムの集落と文化水準は変わらない
C北方遊牧民(きょうぞく?)が混ざった文化を混成し、鉄器武装や騎兵軍団結成こそはやかったものの
そういった動きは一時期強い一代の支配者、王による暫時製作で、技術、文化として固着しなかった
これが旗に負けた遠因である
Dある程度秦に対抗したものの、とどのつまり人口と政府力的なレベルで相手にならず粉砕→滅亡した
Eある程度人口と領域は保持したが、遊牧の侵攻と辺境であることから発達が弱く辺境であった
F曹操の遷都である程度発達したものの、その期間は50年でまた辺境に戻った
G以後北方遊牧の度重なる侵攻を受けて、北部首都になるものの侵略と人口の塗替えが著しく
首都あれどけして繁栄はなくどちらかといえば荒廃する
たいし南部は一定の繁栄は実は維持した
Hそれこそ明ー清の北京回復まで荒廃と辺境のままで、歴史上発展はつい最近の事
それこそ20世紀ですらこくみん党のダム飢饉とホロもズムで壊滅しかかった
それを繰り返して実は荒廃してた地域の一つといえる。
それこそ水の危機は文革の最中にもおきた。この時点でここは荒廃地域だった
尚中国は荒廃した時代が多いが、古来ー南北朝ー北元時代(第二次南北朝)時代においても南部は一定の農業繁栄を維持した模様
たいして商地域は歴史的に文化、人種ごと淘汰された >>231
>商の時代商の人口は10万以上20万未満であり、同時期にあった日本、ASEANの集落と比べて特別大きいわけでも
同時期の日本は縄文時代で三内丸山でも多く見積もって500人くらいじゃないの。 つまり商王10王家のうち西周が大虐殺で
革命をおこし王統を独占したと.. 天乙時代の都城である偃師商城からしてすでに6キロ四方、宮城周囲7キロと
日本で一番大きい都城である藤原京よりもはるかにデカいよ
また殷代の甲骨文字では周を「方」(敵)と呼んでおり敵対していたことも明らか
都市国家であるにも関わらず数十万の人口を擁していたのは当時としては驚異的なこと
デロス同盟時代の最盛期アテネで20万
日本何て縄文時代でもっとも人口が多かった中期ですら日本列島の全集落を総計しても26万を超えなかったのだから BC3000年ころにはまだマレー人は影も形もない
前身のプロト・マレー人ならいたが雲南の山奥で狩猟採集を行っていた集団で海洋民族ではない
殷周期の中国沿岸部は東夷と呼ばれる民族が割拠しており
ここまで諸夏族が伸長するのはもっと後の話
青銅は武器や鎧や戦車にも使われていた
農具は石器を使っていたの確かだが紀元前8世紀には鋳鉄による鉄製農具が普及している
鉄製の武器が前漢代まで普及しなかったがこれは他の文化圏では武器に向いた鍛鉄がまず最初に発見され次に鋳鉄が作られるが
中国では高度に鋳造技術が発展したため先に加工が容易な鋳鉄から製造がはじまったため鉄器農具の普及のほうが早い
古代中国では万乗之国千乗之国など保有する戦車の数によって国家の格付けが行われていた
オリエントや中央アジアの遊牧民と同様戦車戦を主体とする戦術をとっていたことは明らか
秦代は時代が離れていて何が言いたいのかわからない遊牧民の攻勢が始まるのは匈奴の時代に入ってからで
「竹書紀年」を見ればわかる通り春秋戦国時代は戎とよばた遊牧民は諸華族たちから一方的に侵略略奪を受ける側で
代や燕京や大同ももとは戎から奪った土地だ
曹操の三国時代とか貨幣経済が現物経済に戻り戸籍人口が豪族の囲い込みによって大激減した衰退の時代だが
江南が華北より発展したのも宋代に入ってからの話で7世紀にはいっても隋4500万に対して陳1500万と人口の7割は華北に集中していた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています