秦漢帝国
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これだけ「日本は未開だ、野蛮だ」としつこく熱弁を振るう奴なんか、朝鮮人のほかに誰がいるんだよ。
日本人はもちろん、中国人もやらんわ、そんなこと。
ましてや、それ以外の国の人がやることではない。 >>163
日本書記は挿入された和歌以外はそのまま中国語で読めるぞ 例えば「仁徳紀」では語調を整える「爰」を多用している
一旦古代の伝承を中国語で音読してから文書にしていた形跡と思うんだよね 「漢服」と漢文化ブームの背後に透けて見える「大漢帝国」の「復興」
石平のChina Watch2015.4.30 11:30
中国では最近、18歳になった若い男女のために「成人の礼」を毎年4月に行うことがはやり始めている。
話題となっているのは「漢服」を着用しての「古式成人の礼」だ。
たとえば今月14日、南京市内の大学で、成人となった男子大学生たちが「漢服」を身につけて昔ながらの「成人戴冠(たいかん)式」を粛々と執り行った。
15日には、江蘇省の中等専門学校が在校生の新成人のために「漢服」着用の成人の礼を催した。
同18日、今度は内陸部の古都・西安市内の博物館で、朱色の「漢服」に身を包んだ新成人女子30人が古式にのっとった「成人の礼」を盛大に執り行ったことが地元の新聞に大きく報じられている。
それらの「古式成人の礼」では「漢服」の着用が共通点となっている。
それは中国前漢時代の正服をアレンジしてデザインされたもので、前漢王朝の人々がこのような服を着用していたらしい、と今の人々は思っている。
成人の礼だけでなく、漢服の着用はさまざまな場面で一種のブームとなっている。
たとえば今月10日、南京の大学付属中学校の女子生徒たちがいっせいに「漢服」を着て集団登校したことが話題となっているし、
同14日、河南省の公園で大学生たちが「漢服」を身につけて桜の木を植える儀式を行ったことも報じられている。
福建省の女子大生、朱頴さんに至っては、1人で10着以上の漢服を持ち、毎日それを着て授業に出ているという。 今や漢服だけでなく、「漢文化」、すなわち漢王朝時代の文化に対する関心が全国で高まってきている。
洛陽で開かれている「漢服文化節(文化祭)」は今年で2回目を迎えたし、天津外大が設立した「漢文化伝播学院」は現在、31人の教員を擁する大所帯となっている。
広西省では、展覧スペースが約2万平方メートルに上る「漢文化陳列展示館」が建設中である。
もともと漢民族が中心の中国人だが、ここにきて突如、自分たちのルーツに関心の目を向け、「漢文化ブーム」を巻き起こしているのは、
やはり、2年前に発足した習近平政権が「民族の偉大なる復興」の政策理念を高らかに掲げていることと大いに関係があろう。
西洋の「文芸復興(ルネサンス)」が古代ギリシャやローマ帝国時代を模範にした「復興」であるなら、中国の「民族の偉大なる復興」は漢王朝の時代を念頭においたものである。 だからこそ、習政権の政策ブレーンで「中国きっての外交戦略者」と称される人民大学の時殷弘教授は習政権になってからの著書や発言において、
周辺諸国を武力で征服して最大の版図を作り上げた前漢王朝の武帝を絶賛し、「武帝という“戦争の覇王”の出現は中華民族にとって幸いだ」と評している。
要するに、この「戦争の覇王」のまねをして中華帝国の再建を図り、民族にとっての「幸福の時代」を再現させること。
それこそが習政権の掲げる「民族の偉大なる復興」の真意なのだ。
この数年ではやり始めた漢服や漢文化ブームの背後にあるのは、結局政権側のこのような大いなる野望である。
だが、われわれにとって、中国がやろうとしていることが単なる漢服や漢文化への郷愁ならともかく、アジアにおける「大漢帝国」の「復興」であるとすれば、まっぴら御免である。 習近平、ゴルバチョフみたいに、書記長からそのうち大統領になってしまうんじゃね?もちろん終身大統領 >>198
英語では、いまでも “President” だけどねえ。
トランプにも、“President for life” と言われてた。
むしろ注目は、毛沢東の時代から空席の「党主席」に就任するかどうかだったりする。 習近平を、明の永楽帝にたとえる人はよくいるが、本人が目標にしてるのは漢の武帝か 文景の治(ぶんけいのち)は、中国前漢の文帝、景帝の統治期間(紀元前180年 - 紀元前141年)を表す。
漢初は秦末期以来の戦乱によって社会経済は衰退しており、朝廷は国力の充実を図るために黄老治術を採用、
民力の休養と、賦役の軽減を柱とした政策を実行した。 文帝と景帝の時代、漢は道家の黄老思想に基づき、休民政策をとった。
秦から続く長い戦乱に疲れた国民は、やっと一息つくことができた。
経済発展し、国庫の蓄えも大きくなった。 武帝は、国教を儒教に変更し、黄老治術を放棄した。
対外強硬路線に転じて、大征服者となった。 現代の中国も、これに似ている。
長い戦乱に疲れた国民は、改革開放政策により、ようやく経済発展できた。
いま、習近平は改革開放政策を放棄し、毛沢東路線に回帰しようとしている。 武帝は好戦的で匈奴戦に全力挙げちゃったから
いたずらに国力を疲弊させたってことで、高評価ではない向きもある >>209
文景の治で豊かになった国庫が、武帝の一代でカラッポになった もし文景の治の恩恵がなかったら、武帝の匈奴掃討作戦は成功せず、暗君扱いになってたかも? 文帝には有能なケ通がいたが、景帝の男妾には有能なのがいない >>125
朱子学の「世界観」自体が、いかなる意味でも今の日本社会では「信じられていない」からね。
世界観や宇宙論、あるいは形而上学に踏み込む領域の議論。
これが、朝鮮民族の間では今でも固く信じられているし、漢民族の間でも世界観の一部になってる。
しょせん、日本人は他所の国の哲学を学ぶという「教養」として、朱子学を勉強したに過ぎないんだろう。
戦前のインテリ学生が熱中したドイツ観念論が
日本人の世界観の血肉に全くなっていないように、朱子学もまた、血肉になっていない。 確かに。哲学マニアや漢文マニアならともかく、普通の日本人の世界観に、朱子学やドイツ観念論の 朱子学はもう十分すぎるほど日本人の血となり骨となっており最早不可分
労働や苦痛を神聖視、官尊民卑、男女の別、長幼の序などなど
古事記の時代にはまだなかった本居宣長の言う「漢意」に他ならない
中国語には敬語がない(敬意表現はあるが日本語のように動詞を変化させない)
男口調、女口調もない
「礼」も宗族間内のみで日本みたいに年長者なら誰でも敬うという意識は希薄
そもそも中国人は礼儀にうるさくない
日本と韓国は朱子がみたら涙を流して喜ぶほどの空前絶後の礼制国家であろう キーボード操作中に誤ってenterに触れてしまうことだってあるだろ、揚げ足取りのクソタコ! >>220
タブレットだと、誤送信が起きやすい
スマホなら大丈夫なんだが 文帝、景帝、武帝も道教や儒教など国教にしていない
前漢の本質は秦の後継で支配的な思想は法家
「塩鉄論」を読むとよくわかる >>221
労働を神聖視するのは、朱子学とは正反対。
朱子学が神聖視するのは、読書。
読書こそが聖人への道であり、労働はそうではない。 >>221
そもそも、中国語は漢字を並べるだけの言語で、語形変化に乏しく、表現に限りがある。
簡潔なので、映画やドラマの字幕には便利。 >>214
殷周から、北斉・北周あたりまでは、西が東を征服するパターンが多い
その後、西の存在感がなくなる >>225
イギリス人がテニスをやっているのをみた清国人が、そんな汗が出るようなことは召使いにやらせればよいのにと言ったとか さすがにテニスは武術の訓練には見えても労働には見えないだろ。
やくざ者にやらせておけと言うなら分かるが召使い云々なんて言うわけがない。 >>230
テニスは自分でやらないで、下人にやらせてこっちは鑑賞する方が面白いし疲れない、という話。
まぁ実際、現代人はテレビで試合を見て喜んでいるわけだが 君子は肉体労働みたいな下卑た事はやらないということ 呉楚七国の乱で、反乱側が勝利していたら、その後の展開はどうなったか? >>236
明の永楽帝だって、勝つ前はそう言われてた 秦は、地方全てを郡と県に分けて直轄支配する体制である郡県制を採用していた。
漢は、郡県制を布く地方と、諸侯王を封じた半独立国を作って治めさせる地方とを並立した。これを郡国制と呼ぶ。
しかし、秦以外の旧6国地域の士民の中には漢の皇帝を「秦王」と同じように見なすものもあり、
そ諸侯王を王としてかつての6国(戦国七雄)の復活を願う傾向が完全になくなったわけではなかった。 景帝はこれらの諸侯王の力を押さえ込むため、御史大夫の鼂錯を用い、
些細な罪など口実を設けては諸侯の領地を次々に削り始めた 呉王劉濞は紀元前154年に、呉にも領土削減の命令が届いたことをきっかけに反乱に踏み切った。
これに楚・趙など六王が同調して反乱に加わった。呉も合わせて七国となったため、この反乱は後に「呉楚七国の乱」と呼ばれた。
反乱側は、劉氏の和を乱す君側の奸臣鼂錯を討つとの名目を掲げた。 袁盎は「反乱軍は呉王の巨利に寄っただけ、また周辺も奸臣で反対しなかっただけで、この乱はすぐに収まります」と前置きした上で、人払いを願う。
その後「反乱軍が鼂錯の誅殺を名目にしているのだから、鼂錯を殺すべきです」と進言した。
景帝は驚き悩んだが、結局鼂錯を処刑した。 >>221
朱子学って易性革命による王朝交代を肯定してるよね?
日本人で皇室廃絶を肯定してるのはキチガイ左翼くらいなんだけど 「革命」という文字に骨髄反射してるのか?
皇帝専制を前提とする「易姓革命」と身分の平等を前提とした左派の「プロレタリア革命」は全然ものだろうが
むしろ朱子学は保守派と思想的には近い
皇国史観も八紘一宇も教育勅語も出所は朱子学だしな 前漢は政争や陰謀が多すぎて何でこの時代が理想郷みたいな扱いされてたのかよくわからないっす 始皇帝の父親は白人のギリシャ人であった
西方から来たアレキサンダー大帝の軍隊が中国で
始皇帝になり、兵馬俑を造った
兵馬俑の精巧な写実主義は、アレキサンダー大帝に
征服された天竺の白人職人が
作った石像と同じ技術水準であり、始皇帝の父親が
瞳の青い白人であったという記述と一致する。 かの孔子や孫子もギリシャ人だった
この時代の中国の地層を発掘すると骨格の大きい白人が
出てくるのがその証拠だ
この白人たちはモンゴル帝国に負けたあと混血し
今の醜いシノロイドになってしまった
それ以前は白人だった >>243
「八紘一宇」の出所は「八紘為宇」で朱子学よりもっと前になる >>248
後漢は光武帝が史上稀に見る人格者だっただけ
後漢から中世(文明が退化した時代)が始まってる >>251
大極殿に畳が敷き詰められてたたは初耳だ 晋(秦)漢は、普通にコーカソイドの民。日本のルーツの一つ。
日本人はモンゴル人じゃなーい。 体格が良くて青い眼なら、そりゃ100パーセント古代ギリシャ人じゃないぞ。 瓦、土壁、礎石そのものがもとは百済からの伝来だし
それ以前は茅葺板壁掘っ立て柱建築しかなかった 秦が崩壊したら、たちまち、魏や斉や楚が復活した。
漢が統一して、劉一族を各地に封じたが、しばらくすると、彼らが独立戦争を起こした。
なかなか、旧国の意識は消えなかった。 その服属していた国にすら文明レベルでは敵わず
技術者を送ってもらって作ったのが日本最古のお寺なんですけどね >>257
どういう意識があったのかまるでをからない
それぞれの国民に一体感なんかあったのだろうか? >>258
倭に臣従していたのだから、職人を送ってくるのは当然 >258
ジャパニーズホワイト専用マンコはチャイナマンに影響を受ける→
チャイナマンは進んだインドに影響を受ける→インドは白人の古代ギリシャ人に
影響を受ける
なんてことはない、すべての文明は白人の古代ギリシャが起源
日本の仏像や仏閣は彼らが起源だよー >>254
そんなわけない
古代の日本は神社仏閣を天竺を征服した
白人の古代ギリシャ人に作らせたことが
わかっている
なぜ天竺かわかるか?ヘレニズム都市だからだよ。
ヘレニズム文明と文化が栄えた場所だ。
シャカもギリシャ人のヘラクレイトスだからね。本当は 仏像が白人のギリシャ人が起源なのはすでに証明されている通りだ アレキサンダーに征服されたインドは速やかに文明化し
中国や日本の文明や文化の起源となったのだよ >>243
「王朝交代」「皇室廃絶」という文字が読めないのか?
朱子学の易性革命は「王朝交代」「皇室廃絶」を肯定してるかどうかってことだぞ
日本人で「皇室廃絶」を肯定してるのはキチガイ左翼だけなんだし
「日本人の血となり骨となっており最早不可分」ではないだろう>>221 >>268
左翼のプロレタリアインターナショナリズムと朱子学の名分論がどうすれば共存できるのか説明頼む >>269
プロレタリアート革命だけが左翼じゃないだろ 日本の一部がソ連に占領されてたら、
普通に皇族の一人が総書記になってただろうな
まあ皇族がつかまらなきゃ一般人を仕立てあげるだろうが。 おっと、安価間違えた
>>270
性即理と唯物論も相容れないが? >>221>>243>>274
日本人にとって
「王朝交代」「皇室廃絶」を肯定する革命は相いれないが? >>275
外国は知らんが日本における右翼の源流の一つは(朱子学と敵対関係である)陽明学
ちなみにもう一つの源流は日蓮宗 朱子学には、金やモンゴルに押し潰されそうな南宋のルサンチマンが色濃く流れている。
それが、幕末の日本の尊皇攘夷につながった。 江戸幕府が朱子学を奨励したおかげで、皮肉にも尊皇攘夷の天皇至上主義者が増えた。
誰よりも、将軍自身が天皇至上主義者であった。 >>273
朱子学の理気二元論はそうだが、朱子が師の1人と位置づける張横渠は、気一元論を唱えた。
なぜか、20世紀の中国共産党から、「唯物論の祖」として高く評価された。 はっきり言って光武帝の神格化は異常だ
でも劉邦とか朱元璋みたいな統一後のやらかしが無いから。ま、多少はね? 光武帝・劉秀の面白さとは何か
1.年齢が若い
光武帝は挙兵したとき28歳、皇帝に即位したときが31歳、天下統一が43歳である。
また、その家臣のケ禹や耿弇はなんと20代前半で国家の大臣となり、大活躍するのである。 2.武勇がすごい
光武帝は驚異的な武勇の持ち主であった。昆陽の戦いでは、王莽の新軍百万──実数42万の大軍に3000人で突撃して中央突破、
その大将である大司徒王尋を斬り、それに調子づけられた味方数万も参加し、ついに壊滅させた。
この後、河北で転戦していたときも常に陣頭指揮をしている。
天性の将軍であり、馬に跨り敵を陥落させ向かうところすべて打ち破った名将とされる。
特に驚かされるのは、皇帝に即位してからの小長安の戦いや桃城の戦いで、10万以上の大軍、最強の突騎部隊、
さらに呉漢、賈復、馬武、臧宮ら名高い猛将を率いているにもかかわらず、なお自ら得物を奮って敵を切りふせて戦っている。
単に最前線で指揮するというだけならそうした勇武の君主もいなくはないが、実際に敵中に分け入って戦う皇帝など前代未聞、空前絶後である。
このとき同行していた外国の使者は驚愕し、本国に帰ると「その武勇は人間に敵対できるものではない(其勇非人之敵)」と報告したほどである。
また銅馬軍数十万を降伏させたとき、不穏な空気の中を鎧もつけずに巡回したり、外国の使者である馬援とは護衛も武装もなく二人きりで面会したりした。
お忍びの外出を好み、遠くまで狩猟に出かけて夜遅くに帰ったりとまったく命知らずである。
3.でも強そうではない
しかし、昆陽の戦いのとき同僚の将軍は、「劉将軍はいつもちっちゃな敵も怖がるのに、いま大敵を見て勇ましいのは不思議だ」といった。
戦いとか喧嘩のときは逃げ回るタイプだったのである。
また、挙兵のときは「あの真面目な劉秀が!」と驚き、あいつが参加するぐらいなら絶対に勝つに決まっているのだろうと、参加者が増えたという。
皇帝になってからは、親戚の叔母などに「おとなしいあんたが皇帝になっちゃうなんてねえ」と言われたぐらい弱そうだったのである。
挙兵のときの同盟相手の李通と交渉したとき、光武帝は怖かったので刀を買って腰にさして面会したのだが、握手したときに刀を取りあげられてしまい、
「何とも勇ましいことですな」
と笑われてしまった。情けなかったのである。
光武帝は、身長7尺3寸──168cmと実に中途半端な数字が記録されている。普通この程度の普通の身長の記録は残らないので珍しい。
当時の男性としては、やや高いという程度で、体格も普通の人である。
しかも挙兵時は、牛にのってあらわれたというおとぼけぶりである。 4.だが格好いい
光武帝はなかなか美男子だったのである。彼が陣中で叱咤激励する姿を見て兵士たちは「天の人のようだ(真天人也!)」と感嘆したのである。
『東観記』では、才能もルックスも天性もので比べ物にならぬと称えられている。
洛陽に入城したときは、他の将軍たちがまるで野盗同然だったのに、光武帝のみは漢の正式の服装を着こなし格好良かったためみな心を寄せたとされる。
また弁舌も優れていて、親戚の納税問題について大臣に面会を求めて、協力させることに成功したこともある。 5.超親しみやすいお気楽キャラ
二枚目にして抜群の戦士、そして最高権力者たる皇帝である劉秀。
一つ間違えれば、近寄りがたいはずだが、劉秀は全く逆で実にざっくばらん。人を見下ろしたり、態度がでかいのが大嫌い。
皇帝なのになんと人の上に立つのが嫌い。
もともと皇帝になりたいと思ったこともないし、若い頃も出世の話は断るし、学業もあまり真剣じゃなかった。
皇帝になってからも大臣と会話するときは、座から降りてすぐ横で話をする。
冗談を言って笑わせるのが大好き。
その結果、周囲の人たちもみんな気軽に声をかけてしまう。
田舎の小役人に「陛下はお金にせこい」と言われ、通りすがりの老人に「そんなことをするのは殷の紂王みたいなバカ」と言われ、隠者には仕えたくないと断られ、一緒に話し込んで寝たら腹を蹴られる始末。
城外に遊んで夜中に帰ったら、皇帝だといって顔を見せても門を開けてもらえない。
家臣も全く遠慮なし。劉秀も家臣に対してお前は死刑とか、悪事の噂があると遠慮無く突っ込んだりするが、恐れ入る相手は一人もおらず、みんな賑やかに言い返してくる。 大極殿は奈良平安、今の紫宸殿は安政年間の建築、時代が違う
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