秦漢帝国
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>>268
左翼のプロレタリアインターナショナリズムと朱子学の名分論がどうすれば共存できるのか説明頼む >>269
プロレタリアート革命だけが左翼じゃないだろ 日本の一部がソ連に占領されてたら、
普通に皇族の一人が総書記になってただろうな
まあ皇族がつかまらなきゃ一般人を仕立てあげるだろうが。 おっと、安価間違えた
>>270
性即理と唯物論も相容れないが? >>221>>243>>274
日本人にとって
「王朝交代」「皇室廃絶」を肯定する革命は相いれないが? >>275
外国は知らんが日本における右翼の源流の一つは(朱子学と敵対関係である)陽明学
ちなみにもう一つの源流は日蓮宗 朱子学には、金やモンゴルに押し潰されそうな南宋のルサンチマンが色濃く流れている。
それが、幕末の日本の尊皇攘夷につながった。 江戸幕府が朱子学を奨励したおかげで、皮肉にも尊皇攘夷の天皇至上主義者が増えた。
誰よりも、将軍自身が天皇至上主義者であった。 >>273
朱子学の理気二元論はそうだが、朱子が師の1人と位置づける張横渠は、気一元論を唱えた。
なぜか、20世紀の中国共産党から、「唯物論の祖」として高く評価された。 はっきり言って光武帝の神格化は異常だ
でも劉邦とか朱元璋みたいな統一後のやらかしが無いから。ま、多少はね? 光武帝・劉秀の面白さとは何か
1.年齢が若い
光武帝は挙兵したとき28歳、皇帝に即位したときが31歳、天下統一が43歳である。
また、その家臣のケ禹や耿弇はなんと20代前半で国家の大臣となり、大活躍するのである。 2.武勇がすごい
光武帝は驚異的な武勇の持ち主であった。昆陽の戦いでは、王莽の新軍百万──実数42万の大軍に3000人で突撃して中央突破、
その大将である大司徒王尋を斬り、それに調子づけられた味方数万も参加し、ついに壊滅させた。
この後、河北で転戦していたときも常に陣頭指揮をしている。
天性の将軍であり、馬に跨り敵を陥落させ向かうところすべて打ち破った名将とされる。
特に驚かされるのは、皇帝に即位してからの小長安の戦いや桃城の戦いで、10万以上の大軍、最強の突騎部隊、
さらに呉漢、賈復、馬武、臧宮ら名高い猛将を率いているにもかかわらず、なお自ら得物を奮って敵を切りふせて戦っている。
単に最前線で指揮するというだけならそうした勇武の君主もいなくはないが、実際に敵中に分け入って戦う皇帝など前代未聞、空前絶後である。
このとき同行していた外国の使者は驚愕し、本国に帰ると「その武勇は人間に敵対できるものではない(其勇非人之敵)」と報告したほどである。
また銅馬軍数十万を降伏させたとき、不穏な空気の中を鎧もつけずに巡回したり、外国の使者である馬援とは護衛も武装もなく二人きりで面会したりした。
お忍びの外出を好み、遠くまで狩猟に出かけて夜遅くに帰ったりとまったく命知らずである。
3.でも強そうではない
しかし、昆陽の戦いのとき同僚の将軍は、「劉将軍はいつもちっちゃな敵も怖がるのに、いま大敵を見て勇ましいのは不思議だ」といった。
戦いとか喧嘩のときは逃げ回るタイプだったのである。
また、挙兵のときは「あの真面目な劉秀が!」と驚き、あいつが参加するぐらいなら絶対に勝つに決まっているのだろうと、参加者が増えたという。
皇帝になってからは、親戚の叔母などに「おとなしいあんたが皇帝になっちゃうなんてねえ」と言われたぐらい弱そうだったのである。
挙兵のときの同盟相手の李通と交渉したとき、光武帝は怖かったので刀を買って腰にさして面会したのだが、握手したときに刀を取りあげられてしまい、
「何とも勇ましいことですな」
と笑われてしまった。情けなかったのである。
光武帝は、身長7尺3寸──168cmと実に中途半端な数字が記録されている。普通この程度の普通の身長の記録は残らないので珍しい。
当時の男性としては、やや高いという程度で、体格も普通の人である。
しかも挙兵時は、牛にのってあらわれたというおとぼけぶりである。 4.だが格好いい
光武帝はなかなか美男子だったのである。彼が陣中で叱咤激励する姿を見て兵士たちは「天の人のようだ(真天人也!)」と感嘆したのである。
『東観記』では、才能もルックスも天性もので比べ物にならぬと称えられている。
洛陽に入城したときは、他の将軍たちがまるで野盗同然だったのに、光武帝のみは漢の正式の服装を着こなし格好良かったためみな心を寄せたとされる。
また弁舌も優れていて、親戚の納税問題について大臣に面会を求めて、協力させることに成功したこともある。 5.超親しみやすいお気楽キャラ
二枚目にして抜群の戦士、そして最高権力者たる皇帝である劉秀。
一つ間違えれば、近寄りがたいはずだが、劉秀は全く逆で実にざっくばらん。人を見下ろしたり、態度がでかいのが大嫌い。
皇帝なのになんと人の上に立つのが嫌い。
もともと皇帝になりたいと思ったこともないし、若い頃も出世の話は断るし、学業もあまり真剣じゃなかった。
皇帝になってからも大臣と会話するときは、座から降りてすぐ横で話をする。
冗談を言って笑わせるのが大好き。
その結果、周囲の人たちもみんな気軽に声をかけてしまう。
田舎の小役人に「陛下はお金にせこい」と言われ、通りすがりの老人に「そんなことをするのは殷の紂王みたいなバカ」と言われ、隠者には仕えたくないと断られ、一緒に話し込んで寝たら腹を蹴られる始末。
城外に遊んで夜中に帰ったら、皇帝だといって顔を見せても門を開けてもらえない。
家臣も全く遠慮なし。劉秀も家臣に対してお前は死刑とか、悪事の噂があると遠慮無く突っ込んだりするが、恐れ入る相手は一人もおらず、みんな賑やかに言い返してくる。 大極殿は奈良平安、今の紫宸殿は安政年間の建築、時代が違う
畳は日本にしかない 光武帝は多分美化されているだけ
それと兄弟が殺されて悲しむわけがない 劉縯は同母兄なんだから死んだら悲しいのは当然だろ
お前自身が兄弟と確執があるからそう思うのかもしれんが
世間一般の人間は普通は悲しむぞ 光武帝は、美化といっても、あんまりカッコよくないエピソードが多い 実際、イケメン好きの田中芳樹は洪武帝、もとい光武帝を賞賛した一文を書いていたからなぁ 中国人は、外見を重視する
歴史に残る英雄が美男だったとしても、不思議はないと思うが しかし、インターネットはもちろん、テレビすら無かった時代だし 朱元璋は、肖像画が2種類。
ひとつは威厳のある老紳士で、もうひとつは狡猾そうな醜男。
どちらが真の朱元璋なのかは、誰も知らない。
500年前の人物でさえそうなのだから、まして2000年前のなど >>296
朱元璋
かっこいいほうの肖像も威厳があるだけで顔はやっぱりブサイク 「これが、あの有名な曹操か?」と拍子抜けするほど小柄だった ・・・というエピソードもあるが、「当時としては普通の身長だった」という説もある >>297
ありのままの肖像画を描いた画家が、何人も処刑された 劉邦は、会う人を魅了する人間力の持ち主だった
カエサルとかゴルバチョフとか、真の大政治家はたいていそうだが 金正恩は問題児すぎて周りが気を使てるだけでカリスマ性はゼロだろ >>291
皇帝に殺されたけど兄の恨みを持ちながら頭を下げたと美化
実際には兄弟なんか死んで悲しむわけがない >>252
大極殿に高御座が設けられてたことも知らないのかよ >>306
俺は兄弟がトラックにひかれて死んだら喜ぶぞ
理想はお金が入ってくることだけど
死ぬだけでも全然うれしい ていうか、兄弟が最大の敵なのは、王子の宿命だろ。
普通の一般家庭と比べてどうする。 兄弟には、皇位継承を争う敵という面と、最も身近な肉親という、2つの面がある。
だからこそ、数々の人間ドラマが生まれた。
兄弟との死闘を経て皇帝になった、唐の太宗・李世民と、清の雍世帝は、中国の時代劇に欠かせない定番ネタ。 嫡流ではない庶子が王位を勝ち取るとかロマンあって好き。長男だけど庶子とか特に。 >>23>>252
支那畜はアホだから高御座の意味が理解できないのか >>310
それは異母兄弟の場合な
同母や乳母だと普通は同勢力になる
異母兄弟を排斥したあと同母兄弟間で王位を継承するってのは割とある 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
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8NU 清の考証学派が盛んに持ち上げたのは、南宋の朱子よりも、むしろ漢の鄭玄であった 文景の治(ぶんけいのち)は、中国前漢の文帝、景帝の統治期間(紀元前180年 - 紀元前141年)を表す。
漢初は秦末期以来の戦乱によって社会経済は衰退しており、朝廷は国力の充実を図るために黄老治術を採用、民力の休養と、賦役の軽減を柱とした政策を実行した。 文帝の生活自体も相当に質素であり、宮室内の車騎衣服も最低限のものとし、衣服も過度に長いものを禁じ、帷帳にも刺繍を行わないなどの徹底した倹約を行った。
また諸国に対し献上品の抑制を命じている。
これにより貴族官僚での奢侈が行われることはなく、その末年には民衆の生活は向上し、前漢の最盛期の基礎を築くと共に、次の時代となる武帝の匈奴遠征の物質的な基礎を築いた。 文帝の政策は、父の高祖や嫡母の呂雉、あるいは孫の武帝の時代に比べれば、目立った業績は欠如しているが、民衆にとっては社会が安定して歓迎すべき時代が創出された。
文帝の治世は次の景帝の代と合わせて「文景の治」と賞賛され、食料が食べ切れずに倉庫で腐敗したり、銭差し(銭の間に通す紐)が腐って勘定ができなくなった、などの逸話が残されている。 博物館で秦漢時代の文化遺産を見ると、弥生時代のハニワと大差ないな
原始人のレベルの文明なのに、大帝国を築いたのは奇跡 抽象絵画 埴輪
スーパーリアリズム(絵画) 兵馬俑
文化に優劣はない。あるとすれば技術力 後漢の時代に、青銅器から鉄器への移行が進んだ
鉄器そのものは春秋戦国時代からあったが、主流になったのは後漢 靭性が求められる武器の分野で青銅器が生き残っただけだな 結構前、稲のアジア史って本で読んだんだけど
漢代には品種改良の結果、江南周辺では50日程度で育つインディカ種が既にあったと記録されてるのに対して、
宋代に生育期間の短いチャンパ米(インディカ種)を江南に新たに導入したって言う記録が残ってるらしい。
唐代の農書が逸失して繋がりが分からんと書いてあったんだけど、漢代の米に詳しい人が居たらこの矛盾について教えてほしい Wikipediaの秦王朝に『秦朝(しんちょう)は、紀元前221年から206年まで存在した、中国最初の王朝である』と書かれているのですが、これは秦以前の殷王朝や周王朝とは意味合いが違うのでしょうか? 商(殷)や周は黄河流域を支配しただけ
まあ当時の意識が農耕に適した土壌が多く、文化レベルが高く、人口の多い黄河流域=中原が中華の枠組みだったけど、中原から離れた斉や楚が発展し中原諸国と争ったり従属させたりするようになって中華の枠組みが広がる
その広がった中華を初めて制したのが秦って事で、その秦の支配地が後世の王朝の統一の基本になったから、秦が初めての王朝って意味かな
商や周の支配域って後の世からみたら中華の半分に満たない範囲でしかないから、例えるなら三國の魏武が中原を制しただけで統一してないのと同じような感じ
商の時代の斉なんて蛮族しかいないという認識、周の時代でも楚は文化レベルの低い蛮族扱い
でも秦統一以後は斉も楚も同じ中華の民 後漢を学びだしたんだけどのちの歴史に強い影響をもたらす宦官の何が悪かったのかがさっぱりわからんからいまいち理解が進まん
使用人がでしゃばるなと言う役職意識?
士大夫とそうでない者もしくはチンコがないことに対する侮蔑意識?
寵愛されない嫉妬?
外積に脅かされることが多かった皇帝は自分の意を受けて命を懸けて動く宦官を信じ
動かない官吏を敵対者とまではいかなくてもあまり信用してなかった感じは端々から読めるんだけど 殆どの宦官は大局観の欠片もなく自己の利益を最優先するから 祖先祭祀の永続を価値の根本に置く儒教官僚からしたら、子孫を残せない宦官は唾棄すべき存在だったのは確かだな。
あと、宦官てのは後宮の住人だから、後宮の女と結びついて活動しがちだったことも士大夫官人からすれば不愉快だったろう。 歴代の天子が宦官を重用した理由の一つには「コイツラはどうせ人間以下の存在で、皇帝の信任や恩寵が無ければゴミでしかないのだから、きっと裏切らずに忠節を尽くすだろう」的意識もあっただろうな。
ローマ皇帝が解放奴隷を重用したのと似た構図。 宦官をマイナスに捉えるのは史書の受け売りで意味はない
なぜ史書で宦官が悪く書かれるのか
それは彼らが低層の出で権勢を振るったからだ
後漢は営々と続く貴族社会で、庶民への差別意識は周の頃よりも酷い
曹操の護衛を務めた許チョ、虎痴は、農民出で身長185もあり
たびたび華々しい武勲を立て忠誠も厚く中将に取り立てられた
大将軍の曹仁ですら虎痴にゴマをすり機嫌をとったとされる
彼の死後、息子許儀は名門貴族の鍾会に斬られる
皇族や名門貴族たちは前から農民出の許?をにがにがしく思っていたという
このように庶民が貴族に成り上がるには大変な障害があった時代だが
宦官はもちろん皇后、その外戚はしばしば下層から取り立てられた
皇后や外戚、宦官が優れた庶民感覚で統治したこともあるし
彼らが団結して無能な貴族と対抗してもやむをえまい 宦官が皇帝や王になったという例は、歴史上皆無なのでしょうか。 なぜ宦官が忌み嫌われてるかと言うと宦官の権勢は寵愛してくれる皇帝の代限りという期限付きってこともあり
今のうちとばかりに国庫に手を付けたり暴政に走りやすい そうなると今度は不正を許さない清廉潔白な官僚が邪魔になってくるので真っ先に消され
宦官と汚職に加担する濁流派ばかりが重用される悪循環に陥る
その典型が党錮の禁だな
>>335
皇帝の意を受けて命を懸けて動く宦官ってどこをどう斜め読みしたらそんな頓珍漢な言葉が出てくるんだ? 十常侍がそんなご立派な連中なら黄巾の乱も起きなかったし三国時代もなかったろうよ >>347
インディカなら古くから在るよ、有名なのだと黄膠稲っていう水害に強い早稲
チャンパ稲は旱害に強い早稲 いま読み始めたところなのだが
こんなどうしようもない内容が
最後の方まで続いてるんでしょうか、、、 まだ、スレの3分の1が終わったばかりだ
今ならやり直せる 宦官とは何か、というのを考えるためには、「後宮」的な組織を持つ他の文化圏との比較が
有用だろう。
ここでは、中華世界、日本、モンゴルを比較してみる。
まず、日本の後宮。
これは御所の後宮組織でも江戸幕府の大奥でもそうなのだが、天皇なり将軍なりの
正妻あるいは生母を頂点とする女性の自治組織で、基本的に男に口出しはさせない。
男女が別々の自治組織を作るというのは、たぶん日本の古くからの土俗的な基層文化で、
私がフィールド調査をしたことがある九州の某地方でも、部落(広義)の寄り合いに
男性の寄り合いと女性の寄り合いが別組織で行われていた。
次にモンゴル。
これは、モンゴル帝室の「オルド」に典型を見ることができる。
「オルド」は遊牧組織そのものであり、組織の頂点に正妻がおり、
その配下には君主の妻妾だけではなく、男性の牧民労働者や遊牧騎士軍人まで含まれる。
君主の遊牧組織が肥大すると、なんと「正妻」の数を増やして「オルド」を分割し、
遊牧組織としての適正な規模を維持する。
こうしてみると、中華世界における後宮の特徴がはっきりと見えてくる。
・女性は男性の支配下に置き女性の自立した自治は許さない
・後宮には配偶者たる君主とその未成年の子息以外の男性の存在を許さない
この条件を満たすため、一般家庭よりはるかに肥大化した君主の後宮を維持するためには
「男性ではない男性」が不可欠となる。
この目的のための「女性の群を管理する」ための「男性ではない男性」が宦官であり、
彼らは君主の女性支配の代理執行者たる一種の「君主の奴隷」身分である。 牧畜民族は、家畜の去勢を日常的に行っているので、宦官もその延長線上にある自然な発想といえる
日本人は、中国文化の大半を導入したが、宦官・纏足・人肉食だけは、まったく受け入れなかった >>349
ところが、>>348で述べたように、純牧畜民のテュルク・モンゴル系遊牧民の遊牧国家では、
後宮が去勢男性による管理じゃなくて正妻による統治なんだなぁ。しかも、非去勢男性が
正妻の臣下として牧畜や戦に従事している。
中華世界における宦官のルーツに関しては、牧畜文化由来だけではない要素をもっと深く考察する必要が
あると思う。 それから、纏足はそもそも「漢民族」以外、どんなに深く中華文化を受容した民族でも
受容していないだろ。
朝鮮半島国家でも、琉球王国でも、ベトナム王国でも、中華世界を支配した満州族ですら
受容しなかった。 >>352
確かに、朝鮮人でさえ、纏足はしなかったな 人肉食については、七年戦争のとき、北米のインディアンが集団で英国軍の兵士の肉を喰らっていたというエピソードがある
それも、「腹が減ったから」というようなことではなく、勝利の儀式として行われていた
中国人にも、それと似た発想がある やはり、嫁いできた女性の発言力を封殺する漢民族社会の民俗性のシステムこそが、
宦官の発達にしても、纏足にしても、効いていると思うんだよなぁ。
中華帝国でも、北朝〜隋唐帝国では君主の配偶者とか娘とかの発言力が強くて、
しかも皇帝に盛んに助言した皇后が名妻女として絶賛されていたりする。
ところが、唐朝でも科挙官僚の登用が進み(北族系武川鎮軍閥貴族の後退を意味する)、
王朝の漢族化が深まってくると、むしろ女性の発言権が非難されるようになって、
楊貴妃みたいに本人はほとんど政治に口を出さなかったのに亡国の女性呼ばわりされたり
するようになっていく。 >>354
古典的な民族学研究で、人肉食の背景を検証したのがあるが、農耕民の場合、打ち倒した敵への敵愾心の強調として、
狩猟採集民の場合、社会で高い敬意の対象になっていた人の聖性を受け継ぐため、人肉食が行われる傾向がはっきり出たらしい。
漢民族もむろん典型的な農耕民族だが、北米インディアンも誤解が多いがトウモロコシ、カボチャ、ヒマワリなどを栽培していた
農耕民が大半だからね。 中華でも数は少ないが後宮に女官はいて、女官組織も規模は小さいがあったそうだが >>357
女官がいなきゃ、大奥モノの時代劇か成り立たないよ(笑) >>357
宦官が真に実力を発揮するためには、パートナーとなる女官と組まないとダメだったという話もあるね。
日本における「妻妾女官自治組織」と中国における「宦官女官組織」の違いを掘り下げると面白そう。
それから、朝鮮では「宦官組織」と「妻妾女官組織」が別立てだったみたいで、前者はあくまでも王の身辺の世話係で、
妻妾の管理が業務ではなかったみたいなんだなぁ。
なんか、こういう後宮的組織の構造にその社会の「ホンネ」みたいなものが垣間見れて面白い。 >>359
オスマン帝国あたりの後宮が普遍的な完成形でそれ以外のは発展段階が違うということだと思う。
中国の場合は后妃の序列が明確で嫡母の概念があるという点で一歩遅れている。
宗教の違いによるというわけではない。オスマン帝国の後宮はイスラム法が想定するようなものではない。 途中からちょっとマシになってました
なんの話をしようかなぁ >>363
まあ、そういえばそうかも
最初のほうは、例によって「漢末〜魏晋南北朝の民族大移動」の話
これが始まると本当にスレが荒れてどうしようもなくなる >>352
満洲族は纏足は無理矢理規制していただけで受け入れ寸前まで行ってる >>239>>240>>241
銅山の名前やそこら辺に関する話などもあったのだけど
完全に失念、、、
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kosen/sub/han2.html
○文帝四銖半両銭
前元五年(前175年)四銖の重さ(2.7g)の半両銭を鋳工させます。
文帝四銖半両銭は、民間での鋳工を許可し、申告納税方式を採用した為、各地で鋳工が行われ、
特に「呉王び」と「ケ通」による大量鋳銭により、短期間で切り替えられていきました。
・呉王び(劉び):漢皇族の一人。呉王に封じられていた。
塩の専売と大量鋳銭により富を蓄え、文帝死後反乱を起す。(呉楚七国の乱)
・ケ通 :文帝の寵臣で銅山を賜り、大量鋳銭を行った。文帝死後、全て没収された。
※両者の財産は、当時の皇帝よりも莫大であったと伝えらている。
文帝四銖半両銭は、厳格な製作基準を定めただけではなく、違反した場合の処罰を明記した上で
民間に許可した事もあり、均一化された半両銭が流通する様になりました。また、それまでに流通
していた半両銭も、基準に満たない半両銭は流通を禁止されました。
※文帝四銖半両銭は、4枚で16銖(10.75g)以上の重量である事と、半両銭の銅質についても
厳しい条件を課しました。
当時、密告制度や相互監視制度により違反者を摘発し、違反した場合は、違反した者だけでは
なく、周辺の人々も罪に問われるなど、厳しいものでした。しかし、違反者は後を絶たず、
刑罰がより厳しいものに変化させていきます。
(当初は刺青、強制労働等の罪でしたが、その後死罪に変更されました。) 呉楚七国の乱の盛り上がりは異常
これほどスケールの大きい大乱にしては、なんで注目度がイマイチなんだろうな? >>367
単なる劉氏の内輪もめに見えてしまうからじゃないかな。
でも、秦による天下統一から呉楚七国の乱に至る「振幅」って非常に面白いよね。
完全に陝西(関中盆地)と陝東(華北平原+揚子江流域)の抗争の歴史という枠組みで語れる。
秦による六国征服:陝西による陝東の征服
秦末内乱:陝東による陝西支配体制の転覆
楚漢戦争:陝西による陝東の征服
呉楚七国の乱:陝東による陝西支配体制への反抗
前漢の終焉から新を経て後漢へ:陝西支配体制の終焉と陝東を中心とする豪族連合政権へ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています