中国史は長すぎるので編集してみた。
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最近 何かと中国がニュースになるので中国を理解するために、
久しぶりに中国史を一から勉強しようと考えた。
しかし、中国史は長すぎる。しかも王朝交代の繰り返しで、金太郎飴みたいな歴史である。
全部を学ぶのは無駄な気がするので、映画フィルムのように編集してみた。
前漢末〜明後期までをばっさり切って、両端をつないでみる。具体的には
前漢の宣帝の崩御(紀元前48年)のすぐ後に明の万暦帝の即位<1572年>を持ってくる。
うんうん、全く違和感が無い。グダグダな王朝史がスッキリして見通しがいい。
こうやってみると中国は1600年間全く進歩していないことが分かる。 日本の明治以前の歴史のほうが変化なさすぎで酷いぞ
平安時代400年とか長すぎだろ
しかもほとんど藤原さんのお家争いに費やされるとか不毛すぎwww 清盛が出てくるまで、ずーっと藤原家の傀儡政権だからね >>4
>平安時代400年とか長すぎだろ
一理ある。 んじゃあ、応天門の変〜白河法皇の崩御までをカット。 >>7
うむ。 んじゃあ、南宋の理宗の即位〜明の洪武帝の崩御を間に追加。約170年間。
これで中国史はバッチリだな。 >>1
井沢さんの逆説シリーズは20年かけて明治だからなww
すでに個人で通史を作れるレベルを超えているよww モンゴル帝国の前と後とで、大きく変わる。
「全部は長すぎる」というのなら、モンゴル以後だけにしてはどうか。 >>1
「1600年間、変化がない」ってのは錯覚なんだよなあ。
中近東の歴史だと、ペルシャ帝国、ローマ帝国、サラセン帝国、オスマン帝国、
どれも、まるきり別物に思えるのに、中国史は漢も明も同じように見える。
本当は、根本的に変質しているのだが・・・。 最大の原因は、現代の中国が統一国家であることだ。
もしも欧州や中近東諸国のように、バラバラに国が分かれていたら、陝西省を本拠地とする周・秦・漢・唐と、北京の元・明・清は、ペルシャ帝国と大英帝国くらい違って見えたはずだ。 欧州では、昔はギリシャ・イタリア・スペインといった南欧が文明の中心だったが、近世に入って、イギリス・フランス・オランダといったアルプス以北に中心が移動し、南欧は衰退した。
中国でも、洛陽や長安の内陸部から、北京や上海の沿海部へと中心が移動したのは、それに匹敵する地理的変化だ。
しかし、中国の場合は、あくまでも「国内移動」だから、その変化が目立たない(笑) ローマ帝国の崩壊に伴うゲルマン民族大移動で、欧州人は人種的に大きく変わった。
漢が崩壊してからの民族大移動も、それに勝るとも劣らない変化をもたらしたのだが、これまた、現代の中国では「国内移動」みたいな扱いになっており、変化が目立たない。 実際のところ、長安には、唐の時代の面影がほとんど残っていない。
中国人にとって、唐朝といえば「失われた幻の文明」だ。
中国人が日本に来ると、当時の面影を濃厚に残す奈良を見て、ビックリする。 もしも、ヒトラーのドイツ帝国がヨーロッパを統一して、ギリシャやイタリアを併合していたら、ドイツ帝国は「4千年の歴史」を誇ることができただろう。
北京帝国が「4千年の歴史」を誇るのは、それと変わらない。 もしも、この先、中国が分裂したら(まあ、可能性が高いとは言えないが・・・)、過去の歴史も違って見えてくるだろう。 奈良が唐代の面影を残すとかないわ
唐代の日本の街並みって平安京でも庶民は掘っ立て柱か竪穴式住居だぞ
そんなとこに住んでる奴とか今はいないだろ
そもそも日本に「歴史地区」は存在しない
京都ですら戦後に立てられた建物がほとんどを占めるニューヨークよりもずっと伝統の浅い町だ 日本にしても、イギリス・フランス・ドイツにしても、各国の歴史は、それぞれの国民国家が形成されてきた歴史だ
中国の場合は、征服王朝がそのまま現代につながっているので、そういうストーリーがない 帝位簒奪者が現れる→身内や廃帝を粛清→外戚や宦官がのさばる→農民反乱や外敵の侵攻→帝位簒奪者が現れる
これを20回位繰り返したのが中国史。 >>11
そうかあ?
ペルシャだけなら中国と同様に王朝交代繰り返してる(時折外来勢力に乗っ取られる)様なもんだろ 四つに分けるのはどう?
華北中心時代 :秦以前
華北の政権がまだ華中を制圧し切れてない時代
統一中原長安時代:漢から唐まで
開封時代:宋代
北京時代:元以降現在まで >>23
「先秦時代」という言い方は、もともとあるからなあ >>21
アケメネス朝ペルシア帝国と、ササン朝ペルシア帝国の間に、「パルティア」ってのがあるけど、あれは中国の歴史感覚なら「アルサケス朝ペルシア帝国」だろう。
ペルシア人とパルティア人が別物だっていうのなら、漢人と鮮卑なんかどうなる? 漢と唐のあいだには、「西ローマ帝国」と「フランク王国」くらいの違いは十分にあるわなあ >>25
ペルシャ語もパルティア語も同じペルシャ系だから中国で当て嵌めると鮮卑みたいな異民族ではなく精々漢族の中の中原と巴蜀の間ぐらいの差しかないと思う >>26
唐と宋の間はどう? 唐宋変革で中国は別の国になったとはこの板でもよく聞くけど。 >>28
昔は逆に、「唐宋八大家」とか、連続した時代として扱われてたけど、実は大きな断層があることが明らかになった 日本では、平安時代の貴族社会と、鎌倉時代からの武家社会で、見た目からして大きく変わったけど、
京都はその後も日本の中心であり続け、平安貴族も幕末まで存続していた
それに比べて中国では、唐の貴族が唐末に虐殺されて消滅し、長安は廃墟となった >>30
日本では戦国時代、中国では唐末五代の戦乱で、何もかも変わってしまった 宋は、科挙による人材登用、商業の発達などにより、近代の市民社会や大衆消費社会を千年前に先取りしていたとして、高く評価されている
すでに、農民が作物を換金して金銭で納税するのが当たり前になるほど、貨幣経済が発達していた 貴族社会じゃなくなったといっても、モンゴル帝国ではモンゴル人、清では満州人の貴族がいた
明では、郷紳と呼ばれる地主階級が、かつての豪族の位置についた 思想史的にも、仏教国だった唐に対し、宋では新儒教が巻き返した。
南宋では朱子学が登場して、その後の思想的スタンダードとなった。
儒教は、キリスト教やイスラム教ほど露骨に宗教っぽくないから目立たないけど、これは大きな変化。
大宗教改革だ。 中華文明の絶頂期は宋代ということだな。 軍事面ではアレだが。
明以降は中華文明の衰退期か? ペルシャ史上で中国におけるモンゴル系や女真に相当する外来勢力はアラブとかテュルク
パルティアは殆ど同一民族 >>39
中国はともかく、モンゴル帝国の大陸制覇は、後のヨーロッパ列強の世界進出にも匹敵する世界史の画期 東アジアの最盛期は、間違いなく13世紀のモンゴル帝国 元朝はモンゴルの皮を被った中華帝国なのか、中華の皮を被ったモンゴル帝国なのかか、
どう捉えるべきですか? どなたか教えてください。 ローマ帝国に例えると「元」は皇帝属州みたいなものであくまで帝国の一部
「イェケ・モンゴル・ウルス」という巨大帝国の枠組みのうちクビライ家の所領が「元」
本来はすべての定住民はクビライ家が統治することになっていたのだがそれに不満をもったオゴデイ家やチャガタイ家といった各王家が反乱を起こし
勝手に分離独立してしまった
だからモンゴル帝国史と元史はわけて考える必要がある >>44
元朝は中華帝国ではなく、モンゴル国家ということですね。
では、「中国史」から除外しておきます。 モンゴルのチャイナ支配は百年ほど。大王朝としてこれは失敗でしょ。 >>45
モンゴル帝国を除外したのでは、なんで北京が首都になったのか分からないし、地方がいつから「省」にわかれたのかも分からないし、そもそも、なんであんなに広大な領土なのかも分からない
要するに、中国という国家形成のプロセスがまるきり分からなくなる >>46
失敗しても除外してはいけない歴史でしょうに
豊臣政権やナポレオン政権、ナチスドイツ、は元よりもっとずっと短いけど日本史、フランス史、ドイツ史には絶対欠かしちゃいけないわけだし
ソ連だって元より短いぞ やっぱり、それぞれの国家には、国の骨格が形成された時期ってものがあるわけで
たとえばドイツの場合、「プロイセンのドイツ統一」の時期を抜きにしたのでは、なんでボンでもフランクフルトでもなく、ベルリンが首都になったのかが分からんし、
なんで州があんな分かれ方をしているのか、なんでバイエルンはドイツなのにオーストリアはそうじゃないのか、そういった経緯がすべて分からない
中国史におけるモンゴル帝国も、それくらい重要 ローマ帝国はイタリア史ですか?フランス史ですか?それともイギリス史ですか?
と聞くようなもの
モンゴル帝国の歴史は同時に中国史でもあるしイラン史でもある
外国は分裂したり一つになったりの繰り返しだが日本はずっと孤立した歴史をたどって来たので
そんな疑問が出てくる >>47
成程、現代とも関係性において、やはり「中華帝国」のカテゴリ内と。 うむ。
>>50
地域性のハナシではなくて、 始皇帝以来の「中華帝国」の性格を質問しています。
従来の中華帝国と元朝は継続性と非継続性があるので一概にどうだ、と断言は出ませんが、
どちらに重きをおくか、という質問をしています。そうすることで元朝の特異性とその後の明・清との関連性を
理解できるという主旨であります。 モンゴル侵入後(南宋滅亡後)に中国は変わった、という論を目にすることがある(そういう新書本もある)。
しかし、しかし、社会の変化という点では唐宋の間の方が差があるように思うし、
世界帝国という点ではすでに唐がああるし、次代の明王朝は世界帝国ではない。
「モンゴル後」の中華帝国とそれ以前をどう理解すべきか、ということです。 >>51
江戸時代の徳川家の日本は、
平安時代までのようなヤマト朝廷の日本を前提にして成り立っているから連続性はあるが、
政権としては全く無関係みたいな感じ >>52
唐は、最盛期を除けば、日本でいえば室町幕府のように中央権力が弱くて、地方は事実上の割拠状態だった時代
宋は最盛期でも北京を領有できない歴代最弱王朝で、後には華北を金に奪われて南北朝になった
とても、明清の強大な皇帝権力と並べられるようなものじゃありませんな 首都が長安から北京に移るというのは、日本でいえば、首都が京都から札幌に移り、アイヌ人が全国支配するようなもの
「同じ中華帝国」と呼ぶには、あまりに異質 ヨーロッパに例えれば、ロシアがヨーロッパを統一して、モスクワがヨーロッパ帝国の首都になるようなもんだねえ
これを、古代のローマ帝国と同じと言えるかどうか? メキシコの首都メキシコ・シティーは、かつてのアステカ帝国の首都テノチティトランと同じ場所にある
ただし、プレイヤーは、マヤ人からラテン人に交代した もっとも、官僚制や貨幣経済など、多くのものは宋代に出来上がった >>555
「北魏〜南宋」と「元〜清」が別の国なのか?
「北魏〜南宋」と「元」と「明」と「清」は各々別の国なのか?
どうみればよいやら。 豪族の連合体にすぎなかった漢とは異なり、明は近代ヨーロッパの絶対王政にも比すべき国家体制
漢代には未開拓だった長江下流は、明代にはほとんど大衆消費社会に突入して産業革命の一歩手前
「進歩がなかった」ってのは、さすがにいくらなんでも >>59
少なくとも明と清については、皇帝が交代したのを除けば、ほとんどのことが継承されて連続しているので、これを全く別の国と見る向きは少ないでしょうな >>59
それも平安時代までのヤマト政権と、
徳川日本がおなじものかというのと同じだろう >>62
それはかなり違うんじゃないかな?
日本の場合は、「民族移動」という要素が少ないんでねえ 「蝦夷征討」は東北の住民を武力で制圧し且つ中央や半島からの移民を東北へ送り込んだのだからまさに民族移動だろ
また承久の乱によって約3000に及ぶ朝廷側の所領が幕府に接収され
毛利氏、熊谷氏、大友氏、千葉氏、渋谷氏、島津氏、今川氏ら東国武士が一族郎党や配下の下従、百姓を引き連れ少なくとも百数十万の人口移動が
一挙に行われたがこれを「中世の民族大移動」と呼ぶ学説もある(豊田武著作集 第6巻 中世の武士団) >>52
遊牧民が根拠地を残したまま定住民の土地である漢土を乗っ取ったという点では遼や金や西夏といった先例はあったろ 伝統的な中原だけの歴史じゃなくて今現在の中共の版図をもとに考えてみる
もっと広い範囲で考えて中原の政権しただけの中華帝国を日本史でいう日本列島全体を掌握してない大和政権みたいなもんとして捉える
中共より広い範囲を押さえたモンゴルが初の全国統一とする。中共以上からが外征の範囲
それまでは誰が京都を押さえたかの歴史である日本史と同じで上皇だか藤原だか平家だかが争ってるくらいとして見ればよい
唐滅亡〜モンゴル帝国成立辺りのかなり広い範囲で異民族入り乱れてる時代が真の戦国時代
北元と明が真の南北朝時代
清が中国初の安定政権
みたいな捉え方ならかなりすっきり 金は遊牧民ではないし西夏は漢化定住民化したし
「遊牧民が根拠地を残したまま定住民の土地である漢土を乗っ取った」という定義に当てはまるの遼だけのような 西夏を滅ぼしたのは漢族ではなくモンゴルだろう
西夏の出自たる羌族は今も遊牧民やってるので完全に漢化定住化したともいえん 漢化定住民化した羌族としなかった羌族がいるのでは? 漢化したかどうかは、解釈の問題にすぎない
唐だって、周辺諸民族からは「拓跋」と呼ばれ、「中国」とは思われていなかった 「漢化」を重視するのは、時代錯誤な中華思想
実際には、隋も唐も異民族の王朝だし、アメリカ合衆国のような多民族国家 ただし、隋唐の公用語は漢語だった
そこが、遼・西夏・金・元との違い 日本では唐風が流行して文化が大きく変わったが、その唐では、胡風が大流行していた
実際のところ、日本人が「唐から伝わった中国文化」と思ってるものは、かなりの部分が、もっと西から来た文化だ
仏像彫刻にしても、仏教はインドの宗教だし、彫刻はギリシャの芸術
雅楽も、大半がペルシアに由来する楽器 「太常の楽は胡曲を尚び(とうとび)、貴人の御饌には尽く胡食を供し、士女は皆競って胡服を衣る」
旧唐書 ペルシアに由来する文化といっても、今でいうイランとは限らない
当時は、中央アジア、新疆ウイグル自治区あたりもペルシア系 胡食というのは、パンとか麺類といった麦の粉食
胡服は、上着にズボン、ベルトにブーツという乗馬服みたいな格好で、現代人の服装に近い >>75
補足だけど、もちろん、今でいう新疆ウイグル自治区には、当時からトルコ系が多い
でも、ペルシア系もかなりいた >>73
それ紙は中国の発明だからすべての絵画は中国文化と言ってるレベルの屁理屈だと思うけど
ギリシャ彫刻と中国の仏像は素人でも区別がつくけど中国と日本の仏像はほとんど見分けつかないぐらい一緒
奈良や平安時代に伝わった仏教の律宗、華厳宗、法相宗、法相宗にしても開祖は中国人で
根本仏教とは大きく異なっているのに中国の影響は受けてないかのように言うのは無理があるだろ
それと儒教の影響も仏教と同じぐらい大きかったことはわすれてはいけない
公地公民制とか儒教の理想社会を追い求めて崩壊したようなものだし >>78
なんだ、その反応は?
「日本では唐風が流行したが、その唐では胡風が流行していた」とは言ったが、「日本が中国の影響を受けていない」と言った覚えはないぞ 中国史は楽だよ
帝政中国はたった3つの国からなる
秦〜陳
北魏〜南宋
蒙古〜清
この3帝国に属さない蜀呉や前秦や
遼金や明は捨象していい >>80
「北魏〜南宋」はわからんでもないが、他の2つはどうなんだろか。
遼金の除外はともかく、なぜ明を除外? 北魏と南宋も地理的にも時代的にも制度的にも接点ゼロで一体どういう基準で線引きしてるのは意味不明なんだが
何となく知ってる王朝名を勘で並べただけで本人もその点は説明できないと思うけど >>83
82だけど、80氏が言ってることは半分分るんだよ。禅譲ね。北魏〜南宋は帝位継承のバトンリレーがまあできてる。
後梁と後唐は断絶してるけど、元は同じ軍閥出身だし後唐は唐の後継を自任している。
前漢〜西晋〜南朝もそういうルートで解る。ただ、社会制度などで漢と南朝をくっつけるのはなんだかなあ、と。
で、ちょいと拘りたいのは明と清。これは一緒だろうと思うけどね。 続ける。 もっと拘っているのは元である。
>>66
面白い視点だけど、明朝の支配層に外蒙古(北元)や新疆、西蔵を「中華」に含める考えがあったんだろうか?
中共(国民党も含めても良いと思うが)の考える中華帝国はやはり清帝国だと思うね。
台湾(国民党政権)が戦後に出版した中華民国全図(正確な名称失念)は清帝国の版図だ。
しかし、「モンゴル以後」の意味合いをもう少し掘り下げてみたいと思う。
<続く> さらに続ける。
他スレで読んだレス(多分 当人はこのスレに来ているかもw)の受け売りを少し発酵させて書いてみる。
「モンゴル以後」に中華帝国の重心は中原から北京に移るわけだが、奈良から京都への遷都のようなものではなく、ヨーロッパで言うと文明の中心が地中海沿岸部からアルプス以北へ移るような、「文明の移動」に匹敵する。(らしい)
その産物として大陸沿岸部の都市の成立・発展がある。(らしい)
日本人の中国観では、中華帝国は大陸国家、当世流行の地政学の言葉を借りれば、ランドパワーと見がちだが、
モンゴル以後は実は海洋国家(シーパワー)の側面を帯び始めたのではなかったか?
未読だが『習近平と永楽帝』という本の広告を見た。一帯一路と鄭和の遠征をだぶらせてみたのかも知らんが、現在の中国支配層の中華帝国観は「モンゴル以後」にあるのは理解できる。
学研の『歴史群像』では、中共はモンゴル帝国の後継国家と書いてるしね。 >>86
なるほど。そう見えますね
ただ、シーパワーになる予感は
漢が華南を征服した時からあるだろう
華南の人は海外進出傾向が強く、
南朝の方が海洋国家の趣きは強い >>86
杉山正明によると、モンゴル帝国がシーパワーに変身したのは、南宋を滅ぼして、その海軍を吸収したおかげらしい >>87
さすがに、漢でそれを言うのは早すぎる
シーパワーと言えるのは、南宋から
モンゴル帝国が、ランドパワーの金とシーパワーの南宋を統合した 陸路のシルクロードによる東西交易は漢代から行われていたが、唐の後期あたりから海洋貿易がメインになり、陸路は廃れ始めた
アラビア商人は貿易商社を作って海に乗り出し、インドと中国の海洋貿易も仲介するようになった
それまでの中国は、南朝といえども陸の国で、水軍といえば長江が主戦場 南宋は、当時にしてはかなりビックリするほど巨大な海軍を持ち、
モンゴルと南北対立していた頃は、北京に近い渤海湾のノド元まで海軍を送るほどの脅威だった
モンゴル帝国は、運河を掘って北京と天津を直通にし、北京からダイレクトに海洋貿易する体制を整えた
どういうわけか、永楽帝の後の明朝は、日本でいえば江戸幕府みたいな鎖国志向になった 日本でも、関東の江戸幕府や鎌倉幕府は鎖国したがり、関西の平清盛や足利義満、豊臣秀吉は海外貿易に熱心だったのと同じで、
中国でも、北京の朝廷はどうも鎖国(海禁政策)を好む傾向があり、
南朝のほうがずっと海洋方面に積極的だった。 日本でいえば九州、中国でいえば広東省や福建省がもしも独立国だったなら、積極果敢に海洋進出して、スペインやポルトガルの強力なライバルになっただろう
ヨーロッパは、スペインやポルトガルが独立国だったのが功を奏した とくに広東省は、単独でも欧州の大国に匹敵する国家規模があり、アジアに関しては地理的にも有利
ここを北京が押さえつけてくれていたのは、欧州にとっては幸運だった >>63
蝦夷が京都に侵入して、将軍や天皇にったくらいのもんだろ
その場合でも国家としての連続性はある 南宋では、花火は実現してたんだよね。
大砲はなかった。
モンゴル軍相手に巨大花火の水平発射でもやればよかったのに。 「靖康の変」の時点で北宋、金ともに火砲を使ってるけどな
襄陽・樊城の戦いも最後は砲撃戦でケリがついたし 今の時代、特定の国や民族の歴史を
学ぶのでは無くて複数の国や民族の
歴史を複合的に学んでこの国や民族の
歴史は周囲や世界の国や民族と
比較してどのような歴史を歩んだのか、
と言う事を学ぶべきだと思う。
その国とそれ以外の国はどう関わったか
これを知るべきだろう。 日本史を学ぶのなら中国、朝鮮の歴史も
学ぶべきだと僕は思う。
日本はいつから文字を使い始め、
そして日本が文字を使いはじめたのは
遅いのか早いのか。
比較できる相手が居るから
遅いか早いかわかって
先進国なのか発展途上国だったのか
わかる。 世界全体の潮流を見て日本が
文明化したのは遅かったのか
早かったのか。
比較できる相手がいるから
日本がわかる。 >>90
陸路のシルクロードが廃れたのは
中国の輸出品が絹→陶磁器になったからかな
陶磁器は落としたり振動で破損しやすいから
陸路をラクダとかで運ぶ事に適さないようだ >>101
日本史には戦車の時代が全くないよな
メルカバやチャリオットが活躍した青銅器時代は
古き良き黄金時代として理想化されている 元朝はやはり海洋国家だった。(キリッ) 自説に都合のいい史料をつまみ食いして垂れ流すのはネットの常である。 というわけでコピペ投下。
【福建省泉州市の項目より抜粋】
1279年に崖山の戦いで南宋(1127年-1279年)が滅亡すると、元朝(1271年-1368年)に協力したアラブ人の蒲寿庚が重用され港湾都市として発展した。
「陶磁の道(海のシルクロード)」の拠点として漢人のほかにもアラブ人やペルシャ人などが居住する国際都市として発展し、
『アラビアンナイト』にも「船乗りシンドバッド」の住む舞台として登場する事からも中世イスラム世界にも知られた都市であったことが推察され、
またマルコ・ポーロの『東方見聞録』には「ザイトン[2]」の名称で紹介されている。
14世紀にはイブン・バットゥータも訪れ、『三大陸周遊記』に約100艘の大型ジャンクと数え切れないほどの小型船が停泊する「世界最大の港」と記している。 >>105
>『アラビアンナイト』にも「船乗りシンドバッド」の住む舞台として登場する
それを言うなら、アラジンだな。
アラジンが魔法のランプを見つけたのが泉州。
シンドバッドの舞台は、中国じゃなくてインド。 >>107
ふふふ。 ウィキからつまみ食いしたコピペの間違いを見破るたあ大したもんだ。
もしや、貴方様は東京帝大卒の方ですか?
これでも読みやがれ。
https://www.zkai.co.jp/high/saigen/contents/base.aspx?cd=15tw_d >>102
船だって揺れるし、積み下ろしでも割れちゃうじゃん。
というかラクダ交易は清末になっても盛んでした。
量的には漢や唐の時代より明清期間の方が増えています。
陸上隊商交易は19世紀末まで重要なもので、
タタール、オイラト、ジュンガルといった遊牧民国家が次々と勃興したのも交易の利があったからです。
ただ海上交易の方が大きく目立っているだけです。 マリンルートが開拓されるとシルクロードは次第に衰微していったって
山川出版の「世界史詳説研究」に書いてあるけどな
そもそも海運と陸運では規模がまったく違うし
ダウ船一隻でラクダ六百頭分の積載量があったことを考えるとシルクロードが衰微したのも当然
https://www.y-history.net/appendix/wh07-044.html >>110
長安から河西回廊を通って、月の砂漠をはるばると旅のラクダがゆくルートは衰微した
でも、モンゴル帝国の時代には、北京からモンゴル高原を騎馬で疾駆するハイウェイルートが盛んになった
馬の積載量もラクダと大差ないが、スピードが大きく異なる 唐の三彩は、馬の置物が多い
あとは、ラクダに乗ってニッコリしたソグド人のオジサンとか
長安には、よほどラクダが多かったのだろう 陶磁器は、割れるとかなんとかの以前に、デカくてかさばる
博物館で見てみるといい、マジでデカいぞ もちろん、日用の茶碗とか水差しとかもあったけど、イスタンブールやパリの富裕層から好まれたのは巨大な花瓶 東アジア人が工業に強いのは、今に始まったことではない
「詩と宗教はアラブ、技術は中国」、「知識を求めよ、中国にまで」とマホメットの名言にもあるほど昔からそうだった
インドやイランが、日本や中国のような製造業大国になるというのは、今後もまず考えられない >>110
アンドレ-グンダー・フランクの「リオリエント」では
従来、海上貿易に目を奪われがちだったのを批判して、
陸上交易の重要性は失われてなかったと主張してた。 露清貿易ではキャフタ条約(1727年)から1850年までの
年別平均の取引高は500-800万ルーブル
ロシアからの毛皮、清からの木綿や茶、元宝銀)など。
清朝(新疆省)とカザフとの取引も盛んで、
カザフ諸民族とロシア間の取引も多い。
キャフタ条約外の貿易が成立していると言える。
清朝は新疆でのロシア交易を禁じてたが、
実際はロシア商品は新疆から多く入っていて、
仕方ないので清朝官員は関税を徴収してたりする。
イリで茶を密輸出しようとしてたのを摘発した事例もあるが、
当然、密貿易を抑えることは出来ない。
18世紀後半からはコーカンド人商人が行き交うようになり
コーカンド=ハン国がタシケントを制圧すると、
19世紀前半まではコーカンド人の交易が盛んで、
新疆での反乱に関与したりしている。
特にヤクブ・ベクの乱では、中央アジアに覇を唱えた、
ヤクブ・ベク政権を英国が承認して取引したりしている。
ロシアが中央アジア進出し、イリ地区を確保。
一方、新疆でのヤクブ・ベクの乱を清朝が鎮圧すると、
清朝はカシュガル地域を確保。
両国のイリの係争となる。1881年のイリ条約締結。
曖昧だった国境が確定する。1884年に新疆省が発足。
海上貿易の比重が大きくなっただけで
「シルクロード」交易自体は衰微していない。 >>116
落としてもだいじょうぶな柔らかそうな積荷だな
布や毛皮とかをラクダで運んでいたようだ 北京の満州貴族にとっては、ロシア製のテンの毛皮とかが必需品だわな スレタイからずれてきてるぞ
編集するなら漢滅亡〜唐成立あたりのgdgd感をどうにかしたいな
隋はまぁ統一を果たした豊臣政権みたいに残しててもいいけど 中華帝国中興の名君 楊広。
とか、言ってみるテスト >>59
明朝の朱元璋は、
元朝の統治機構や官員の多くをそのまま採用した。
大臣クラスを含め、多くが前の役職のままだったりする。
清朝は辮髪に答え応じた明朝の官員たちをそのまま採用している。
元、明、清の官僚機構は断絶せずに連続している。
北京に入城した新王朝軍を前王朝百官が毎回、
万歳の歓呼で出迎えた。
元、明、清の王朝交代は
「北京帝国」の政権トップの交代に過ぎず、
中身は同一と見做せる。 >>122
もともと、「唐が、それ以前や以後と比べて、どれほど異質な文明だったか」という流れで、シルクロードの話になったんだがな ロシアとの貿易が盛んになった清代も、それ以前と比べて異質 >>125
ていうか、北京だ長安だという話でそうなった >>125
唐ではなく元ね。モンゴルを何故「はずしてはいけない」か?の話。 >>129
基本的には、元はモンゴル帝国の世界支配体制の一部であり、その意味では金も宋もない。
現実には、前王朝の官僚システムを受け継いでいる。
そうでなければ、行政の実務が回るわけがない。
でも、国家としては全くの征服王朝で、名目的にも前王朝を継承していない。
その辺りが微妙なところで、中華王朝の「元朝」と呼ぶ人もいれば、モンゴル帝国の「大元ウルス」と呼ぶ人もいて、意見が割れている。 でも、そうやって意見が割れるのも、「歴史の一貫性」にこだわる中国ならでは。
欧州や中東、インドなら、「異民族による別王朝」の一言で片付けられる。 逆に、上にも出てるけど、元から明、清にかけての流れは、「北京帝国の皇帝が交代した」という位置付けでもおかしくない。
ローマ帝国や東ローマ帝国、神聖ローマ帝国なんか、皇帝の家柄が変わっても、首都が移転しても「ローマ帝国」。 日本の明治維新の場合は、将軍徳川慶喜が京都で大政奉還して、天皇が江戸城に乗り込んで、明治新政府が江戸幕府を正式に継承した 大韓民国は、朝鮮総督府の官邸があった場所に大統領官邸を作って統治を継承するとともに、旧・朝鮮国王の李家を追放した。
これを見れば、大韓民国は日領朝鮮の継承者であり、旧朝鮮王朝からの流れは断絶していることが分かる。 >>129
どうかな?
金の滅亡の数十年後に元が成立するから
あまり引き継がれてないんじゃないか?
金朝出身の官員で知ってるのは耶律楚材ぐらいで他を知らない。
モンゴル帝国の人材登用では西方民を優遇してる気がする。 清は明から中華世界の皇帝と北元から大ハーン位も受け継いでるんだよな
明から従来通り北京帝国の政権交代したのは順で清はむしろまったく新しい政権だと思う 「死んだ人の数が多い」という点にかけては世界大戦級だったのが、太平天国の乱 そうだな
明に中華皇帝の座を奪われてからも、モンゴル帝国の大ハーンは続いてた
この相反する2つの流れを止揚したのは大清帝国 その通り。 大清帝国こそは中華文明の最終形態である。 日米は無駄な抵抗を止めて、
全ての国土を清国皇帝陛下に返上すべきである。
https://www.youtube.com/watch?v=QuO_KeJEj3k
今、中共がやっているのはこういうこと。 その前に支共を廃止して皇帝を復活させなければなwwww >>136
清は元を再現しようとしたんだよ。
「北京帝国」の原点に立ち戻り、再興した。
言わば「北京帝国」の本流は清だと言えないか?
明こそ「北京帝国」の異型脱線型なんじゃないか? >>138
欧州に例えれば、ドイツの皇帝とイタリアの教皇を兼任するようなものか? >>141
脱線というより、再びモンゴルと中華に分裂した南北朝時代だな >>142
同君連合だよね。
欧州で言えばイングランド王とスコットランド王、アイルランド王、後にはインド皇帝まで兼任しちゃって、称号だらけ状態みたいなもの。
清は中華、満洲、モンゴル、東トルキスタン、チベットを束ね、
儒教天子、大ハーン、チベット仏教の文殊菩薩の化身、イスラムの保護者を演じなければならない。 同君連合になるというのは、国民統合できないということ
現在の中華人民共和国による一党支配体制は、あまりにも無理がある >>137
農民反乱で王朝に打撃というのが
毎度おなじみのパターン。
秦・・陳勝呉広の乱
新・・赤眉の乱
漢・・黄巾の乱
唐・・王仙芝の乱・黄巣の乱
宋・・方臘の乱
元・・紅巾の乱
明・・李自成の乱
清・・白蓮教徒の乱・太平天国の乱・義和団事件 >>131
いやいや例えば「世界の教科書シリーズ」を見てるとほとんどの西ヨーロッパの国はローマ帝国を「我が民族の歴史」として扱っているし
ブルガリア何てトラキアもマケドニア朝もオスマン帝国も「自国史」として扱っている
日本は一国史がほぼ大和民族史として成り立つような閉鎖的な環境で近代まで推移してきからそんな勘違いが起きるのだろうけど
一つの王朝が複数の国家で自国史として扱われてることなんて世界的には普遍なことだよ 「中国の近世は宋から始まる」と喝破した内藤湖南の弟子である宮崎一定先生は柴栄(後周世宗)、趙匡胤、趙匡義の3人を信長・秀吉・家康に擬えた。
>>122
隋=豊臣政権ねえ。宮崎流でいくと、北周武帝=信長、楊堅=秀吉、李淵=家康になるかな。楊堅と李淵はそれぞれ倅とくっ付けて秀吉・家康に重なるけどね。
また、中国再統一は北による南の併合で成った。隋を鮮卑系とみるかどうかは意見も分かれるが、
夷狄王朝が漢民族王朝を征服する姿は数百年後にもお目にかかる。
農民反乱もそうだが、中国史はデジャブ(既視感)ばっかしである。
やはり、“編集”はしてよかろう。 違うな。元こそ中華文明の最盛期。 明中期〜が停滞期。
清乾隆帝末期〜が衰退期。 中華というシステム自体が四夷の存在を前提としている
同一の政権下という安全保障がされた状態で異民族側主導の交易を行えるなら当然栄える モンゴルに支配されたとこが没落して、支配されなかったヨーロッパが伸びたろ >>154
西欧が発展したのは近代以降の話じゃん。 ロシアの歴史は、モンゴル帝国のジョチ・ウルスから始まった >>154
モンゴル帝国が世界制覇したのは13世紀
アジアが没落してヨーロッパが勃興したのは18世紀
500年のタイムラグがあるんだが K・ポメランツの
『大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成』
が、中国の没落と西洋の勃興の分岐を探るものとして有名だね。
http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0808-2.html
読みこなすのに経済学の知識が必要だけど。
モンゴル云々はあったかなぁ? >>158
その本面白そうだね。中国と西欧の比較論は人気テーマであり読んでみたいが、その本値段も高く難解そうなので、
手っ取り早く今、カスタマレビューを読んでみた。 うむ、わからん。
その本では「大分岐」の時期を19世紀初頭と論じているようだが、素人的には西欧が中国を凌駕したのは
科学革命当たりかと思うがどうなんだろうか。
いずれにしても「モンゴルが中国を遅らせた」というのは根拠のない邪説とみるべきだね。 中国は別に明清時代は没落してないよむしろ経済的には黄金期
それ異常に西洋の発展が凄かっただけ 没落というよりピークを過ぎた斜陽期だな。プラザ合意以後の日本みたいな。
バブル経済なんか明らかに斜陽期の仇花。 18世紀の清は、康熙・雍正・乾隆の絶頂期
オスマン帝国は明らかに斜陽期で、ムガール帝国は一足お先に崩壊局面だったが、清はそうでない 19世紀の中頃には太平天国の乱が起きて、大清は崩壊局面に入る >>162
インドこそ発展も没落もしていないな
中国史をマンネリだと言う人がいるけどインド史こそマンネリ
インドの帝国はペルシャや中国のように安定期がない
マウリヤ朝もムガール朝も領土拡大の直後に分裂し始める
すなわち領土拡大と分裂内乱でインドはずっと戦争ずっと同じ 意味合いからいくと、文明の盛衰と国力の強弱(経済力・軍事力)は同義ではない。
例えば70年代のソ連は軍事的経済的には最大値ではあるが、文明論としては完全に衰退期である。
ロシアが一番輝いていたのはむしろ19世紀かもしれない。
康熙〜乾隆帝時代の清朝は軍事的にも経済的にも中国史上最大の国力を持ったが、
かつての隋唐、宋元のような先進性は失われ、日本をはじめ周辺国からもその文明を輸入することは無かった。
これは日本をはじめとする周辺文明が成熟したということであるし、明清が劣化退化したわけでもない。
要するに文明としての先進性がかげりを見せていることをもって、
中華文明の全盛期は 宋・元 明・清は斜陽と表現できる。 「斜陽」という言葉に抵抗がある向きには、
「爛熟期」と言い換えてもかまわない。絶頂期は過ぎたという含意がある表現ならそれでよい。 >>164
そりゃ、インド亜大陸は、ヨーロッパと同じくらい広いからな
安定した統一政権を求めるほうが無理というもの 北インドのアーリア系と、南インドのドラビダ系は人種が異なる
広大なデカン高原の気候風土は厳しく、北部は低地、南端は熱帯雨林
とてもじゃないが、統一に向かない地形 インドも、モンゴル帝国が登場する以前と以後の違いが大きい
あと、イスラム勢力の侵入ってのも、大きな画期になっている ムガール帝国の時代に、ペルシャ文化がどっと流入して、それ以前のインド文化とはほとんど別モノになった
それ以前のことを知りたくても、記録が少なすぎる >>165
どうかな。
その意味でも、15世紀の明を中国文明の最盛期と見なすことは大いにあり得る。
実際のところ、「なぜ産業革命は、15世紀の明の長江下流地域ではなく、18世紀のイギリスで興ったか?」というのが、経済史でよく問題になる。
15世紀の長江下流地域は、それくらい近代資本主義の一歩手前まで来ていた。 >>159
ポメランツ著作が面白いかどうかは人による。
無味乾燥な数字を元に延々と証明していくのが続く。
18世紀半ばまで、長江流域と英国、日本、インドも
発展段階はほぼ同じだったことを延々と証明。
18世紀後半から人口増加による資源枯渇に
どこも苦しみ、3地域は経済が停滞する。
英国だけが、石炭の入手のしやすさと、
アメリカ大陸からの資源収奪が可能だったことが
停滞しなかった理由とする。
良質の炭田と新大陸との距離という偶然が
最大の原因とする。
科学技術の有無は、それほど影響してないそうな。 中国史は
王朝発足→平和と発展→人口増加→貧困化→衰退→滅亡(人口激減あり)
の繰り返しだろう? >>165
宋=帝政ロシア
元=ソ連
明=プーチン
モンゴルもソ連も軍事的脅威として
全世界で恐れられていた 資源を取ることが法規に定められていないから悪い。常識でも受け入れられないから、
資源を略奪するものはマイノリティーの政治経済を立てるしかない。 人口増加で、
一人あたりの耕作地が小さくなり
生産性向上の限界時点で
貧困が始まる。
まずは飯を食わせないと何も始まらない。
明清での人口急増圧力は、
それ以前とかなり異質。 清朝後半での海外移民の急増は、
圧倒的な人余りのため。
目的地に着けずに
渡航途中に海の藻屑となった者は無数にいる。
無事に着けても、
奴隷以下の生活が待っている。
東南アジアのプランテーションや
米大陸の鉄道建設での酷使と低賃金、低福祉など
悲惨な労働に甘んじて得た僅かな金を故郷に送金し続ける健気な人々が凄い。
僅かな金でも集まれば莫大で、
送金業務請負で荒稼ぎする者もいた。
生きるための逞しさを感じるよ。 >>174
歴史は悪の連続さ。
民族闘争や宗教対立、
大虐殺と強奪、
奴隷化と差別ばかりじゃん。
奴隷制が廃止になったのは、
純粋なる人道的理由じゃない。
低賃金労働者の方がよく働いてくれるからだ。 >>170
綿工業の発達、貨幣経済の発達などをとれば宋元より明前期を「盛期」とみることはできる。
「宋・元が全盛期」というのはモンゴル犯人説に対する解りやすいフレーズであって、
15世紀中葉までをその範囲に加えてもよろしい。
しかし16世紀初頭 正徳帝期になるとハッキリ衰退の兆候は見てとれる。
そこに賛同いただければ、結構でござる。 ありゃりゃ、179失敗w 他の人の画像でちゃってるよww
貼りたかったのは万貴妃姐さんでしたw >>177
幼いな
まだ10代か20そこそこだろ?
奴隷より季節労働者のほうが安上がりかつ生産性が高いことは共和政末期のローマでも言われてたことだがな
それでも何故人々は奴隷制度という存在に固執し続けたか?よく考えてみよう 均田制って共産主義?
国土が荒廃してるときは
国家主導で土地を分配が役立ちそうだが、
ある程度経つと、経済成長が止まる。
荘園制の方が民営化みたいなもんで
成長するんだろうな。
佃戸には奴隷に近い佃僕と、自由民に近い佃客の2種類があるという説を読んだことがある。
荘園については均田制の崩壊で発生したという説と、漢代の大土地所有の延長だという説、折衷説や民族が関係という説、いろいろみたい。
佃客の方が生産性が高そうだな。 「国家が土地を均等に分配する」なんて制度は、征服者の北魏だからできたことだな 漢代の「豪族」と、明の「郷紳」は、どちらも地方の大地主だ
どこが違うんだろうな? ウィキペディア 「豪族」
豪族(ごうぞく)とは、国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと。
地域的支配権の源泉は自分自身の所有する財産や武力であり、広域政権の権威を権力の源泉とする地方官は豪族とは呼ばれない。
ただし地方官と豪族は排他的なカテゴリーではなく、同一人物が双方を兼ねたり、カテゴリー間を移行したりするケースは多くある。
広域政権側が政権安定のために豪族層の政権内への取り込みを行ったり、逆に広域政権の支配力が弱まると地方官が豪族化することがあるからである。 ウィキペディア 「郷紳」
郷紳(きょうしん、満州語:tesu ba i sula hafan)とは、1911年までの君主制下の中国の地方社会で、社会的・文化的地位を有する人を指す。紳士・士紳・縉紳ともいう。
一般的に科挙で得られる肩書き(生員以上)を持っている人を指す。郷紳は君主制中国の地方社会において大きな役割を果たした。官員と民衆とのパイプ役として、一方では官員の地方統治に協力し、また一方では官員に対して民衆の意見を代弁する役割を果たした。
しかしその地位を利用し、中間の利益を得て、郷里の民衆を食い物にしていた「劣紳」も少なからず存在していた。
郷紳は、科挙が廃止された後の中華民国でも勢力を保持したが、中華人民共和国が成立して消滅した。 明清の社会は、中央も地方も「科挙」を抜きにして語れない。
似たような制度は漢や唐の頃からあったが、明清ほど骨の髄まで社会に浸透していたわけではなかった。
漢の豪族は、地方の有力者で、半独立勢力。
唐の貴族は、都の高貴な家柄。
科挙によって社会的地位を得たわけではない。
科挙が大きくクローズアップされるのは宋なので、やはり、宋を飛ばして編集するのは無理がある。 唐の貴族と、明の士大夫では、日本の平安貴族と江戸の武士ほど見た目の違いが大きくはないが、
明の士大夫には「地主・科挙官僚・儒教信者」の三点セットが不可欠であり、
家柄は必須ではないので、やはり性格が大きく異なる >>183
井田制を儒家は理想としていたから、
案外、儒教と共産主義に親和性があるかも? ぶっちゃけ宋って中国王朝の中では小物じゃん
宋飛ばせなかったら晋くらいしか飛ばせへんで >>157
18世紀は勃興したときではなく、文明レベルで世界を引き離すようになった時期だろう
勃興は何百年も前 ロシアも、モンゴルさえこなけりゃ西洋と同じように発展して、
ルーシの諸国がそれぞれひとかどの国になってただろう >>191
飛ばせないけど小物っつーことだよ
隋唐を飛ばすのはもってのほか 服装の変遷史を見ると、漢と唐の違いが大きく、唐から明まであまり変わらず、明と清の違いが大きい
本当は、モンゴル帝国期も大きく変わったはずだが、それについては語られることが少ない 美人とされるタイプも変わった
漢の趙飛燕は細身で柳腰の美人だが、唐の楊貴妃は「豚」とアダ名されるほど豊満
「環肥燕瘦」と並び称されている
服装も、漢の女性は体を覆い隠すカッチリした服だったが、唐の女性は胸の谷間が見える開放的な服 中国ドラマの「武媚娘伝奇」では、ファンビンビンを始めとする美女たちが、胸の谷間が見えるセクシーな衣装で出演していたが、中国共産党の指導により画像修正された
中国共産党がますます嫌いになった 唐は開放的だったが、明になると、儒教思想の影響により、女性の服装は再び露出度が低下する
北京は寒いし、富裕層には毛皮が欠かせない >>199
唐代は武則天を始め、韋皇后や太平公主など女たちが続々と政治権力を振るう中国史上かなり特異な時代。
頭ガチガチの儒家には許せない事例がいっぱい。 7世紀の東アジアは女帝の世紀とも呼ばれる。 唐・新羅・日本に女帝が相次いだ。
日本は次の8世紀に女帝全盛期を迎える。しかし中国・日本ともなぜか律令制の衰退とともにウーマンパワーはダウンしていく。 >>194
ルーシの都市は壊滅したり人口が激減したりしてる
西欧の後を追ってルーシも急激に発展していたがここで発展は終わった ジョチ・ウルス以前にルーシに都市らしい都市はなかっただろう
モスクワは14世紀に人口十数万を要する北ヨーロッパ屈指の都市に成長したがそれはジョチ・ウルスの庇護があってのこと ロシアの西欧的発展は1570年イワン雷帝によるノブゴロト虐殺により阻害された 中華ドラマを見てて登場した
上官婉児が
武則天の側近女官として
辣腕を発揮してるので
何者だろうと少し調べてみて
なかなか凄い女だった。
父親や一族を武則天に皆殺しにされたものの
武則天に才能を見出され、助命され重用されてる。
三十年以上、武則天に仕え、
大臣を凌ぐ権力を持つ。
武則天死後の数々の闘争の中、
最後に玄宗に処刑されるが
すぐに名誉回復。
才能ある彼女を殺すべきでなかったと玄宗に後悔の言葉を残させた。 >>207
突厥やモンゴル、ウィグルなどで女が主導したことがよくあったんでしょうか? 遊牧民の社会を訪れた人が「女主人と召し使いだと思っていたら、実はその2人は夫婦だったのでビックリした」という話を、どこかで見た覚えがある それイブン・バットゥータの「大旅行記」のキプチャク平原を訪れた時の話でしょ
東ローマも男は家を守り女が外に出て働くって社会でイスラムとは大きく異なることに驚いてる 遊牧民だから女権社会とかそういうのはないだろ
それ言い出したら箸墓古墳から始まる何代目かまでの大和王権の大王墓だって皇后の墓かまたは被葬者不明にされていて邪馬台国が女王により治められていたという記述と一致する 玄奘三蔵も「女を尊び男を賤しむのが胡の凡その風俗である」とか書いてる
まぁ伝統 唐の高宗が、父の太宗の側室だった武則天と婚姻したのも、遊牧民にとってはごく普通だが、儒教の学者にとっては禽獣のふるまい
隋の煬帝も、陳宣華を寵愛したおかげで、「父を弑し、その妾を姦す。まさにこれ畜生」と後世の儒家に書かれてしまった
こういうのも、隋唐の皇帝に遊牧民的な風習が色濃く残っていたことを示している >>136
唐の太宗もそうだな
630年、唐の太宗(李世民)は軍隊を派遣してモンゴル高原の東突厥を攻撃した。唐軍は突厥と同じトルコ系の鉄勒と結び、東突厥を服属させた。
このとき、鉄勒諸族は、太宗に対して、天可汗(テングリカガンの漢訳)という称号を贈った。この称号は遊牧民の最高君主、「世界皇帝」を意味するもので、これによって唐の太宗はまさに「世界帝国」の統治者として認知されたことになる。 >>211
マッサゲタイの女王トミュリスや
ホラズム・シャー朝のテルケン・ハトンとか 『唐宋時代の家族・婚姻・女性
婦(つま)は強く』
http://www.akashi.co.jp/smp/book/b65090.html
唐の太宗時代に残された「婦は強く、夫は弱い。妻を抑えられないのに人民を治めることはできない」の史料は何を語るのか。唐宋変革期に女性の地位はどのように変化していったか。婚姻・家族関係や夫婦関係、女性の財産権などをめぐる史料の分析から解明する。 唐代は女が強い △
唐代は男が情けない ○
玄宗すら楊貴妃で骨抜きに。 >>218
捕捉すれば、それは唐の皇帝がというより、太宗・李世民だけの一時的な状況
李世民の後は、すぐに突厥帝国が復活した 突厥もウイグルも他の民族も、唐を「タクバツ(拓跋)」と呼び、鮮卑系の王朝と認識していた
「漢人化していた」という後世の後付けの理屈はともかく、実際の李世民がどういう人物だったかが伝わってくる 唐王朝が鮮卑系といっても出自以外に「鮮卑カラー」って何があるの?
実際は漢民族王朝じゃないの? >>223
北魏から連続した政権だったかそう読んでただけだろ 唐を興した李氏は隴西郡が本貫だから正確に言うと漢化した鮮卑じゃなくて
鮮卑化した漢族というのが実際
農耕民が遊牧民化することってあるの?と思うかもしれないが結構ある
例えばモンゴル男性の数人に一人は漢族と共通するハプロO系に属するのだがこれは遊牧民化した漢人と合流した結果と見られる
明代の「五雑俎」でも韃靼と境を接している農民が遊牧民化することがしばしばあったことが指摘されている >>224
絵画等で女性が結構ちゃんと馬に乗ってたりするから
その辺見るとやっぱ遊牧民やね、と言えるかな
血統で考えると厳密なことは言えんけど言語も生活文化でも鮮卑がベース
定住化して鮮卑が言語や生活習慣を維持しつつ漢人風に振舞ってる方が分かり易いかな
北魏の所謂漢化政策は部族的な集団の解体と帝国の一元化を目指してたわけだけど
その中には漢風の姓を名乗る事もあって漢人の名門の李を唐朝が名乗るのも何らおかしな話ではないし
この流れに逆らって鮮卑化した漢人なんて存在がしかも有力家系であるかって言うと相当怪しい >>224
上にさんざん書いてあるじゃないの。
未亡人となった父の側室を息子が妻にしたりとか(玄宗にいたっては、息子の嫁をとりあげた)、
兄弟を殺して父を幽閉して即位したりとか、遊牧民の気風や習慣が色濃い王朝だ。
このため、漢人の儒者にはじつに評判が悪く、皇帝たちは仏教と道教を尊崇した。 李世民は、漢人には「皇帝」、異民族には「カーン」としての使い分けをしていた
これまた、モンゴル帝国のフビライ・ハンと同じだ >>227
教科書的知識しかないんだけど、 北魏の漢化政策でゴタゴタが起きて東西に分裂。
北周は再鮮卑化に回帰するが、後を継いだ隋は再漢化に修正、と。
西晋以来の律令制を大きく発展・完成させた隋唐は、出自や禅譲ルートはともかく、
漢王朝の後継たる中華王朝という印象が強い。 >>230
教科書的な知識でも、律令制は西晋というより北魏に由来するんじゃないのかな? そりゃ、華と夷を統合した華夷帝国なんだから、どっちの側面に注目するかという、見る側の角度の問題だろ 個人的には、唐の建国は、「南朝の経済と文化に惚れ込んだ隋の煬帝が南に入り浸ってるスキを突いて、
鮮卑の気風を色濃く残す李淵・李世民父子が南下して長安を占拠。暗殺された煬帝に代わり、鮮卑王朝を創始した」というイメージ。
ちなみに、隋の煬帝が暗殺された理由も、「北に帰りたい」という臣下たちの不満を押さえきれなかったから。 唐はいろんな面で、漢よりもモンゴル帝国にずっとよく似ている 支那の歴史はものすごく大きく分けて、始皇帝以前と以後、
中共以後の主に3つの分類があると思う。
まず始皇帝以前は黄河流域の王朝。
歴史時代の始まり。
殷と周の時代でおよそ1600年ほど。儒の成立。
哲学者などが多数。
その後、始皇帝(秦)から皇帝と法律の支配という制度を
ずーっと辛亥革命(清)までやっている。皇帝の成立。
この間2000年ほど。
その後は中共の成立で今までと全く違う時代。
アッシリアに滅ぼされる前の
古代エジプト並みに長い間まったく変わっていないことが分かる。 先住民族の価値基準を多分に遺した儒と、
征服してくる周辺のガイジンからなる皇帝と、
2つの力が支那にあることが分かる。
被支配側は儒、支配側は法家であり、
互いに対立概念になっている。
西洋の場合は一神教によって儒のような土着思想・宗教はことごとく
絶滅政策に遭ったので、支那と比較はできない。 欧州の土着宗教は根こそぎ一神教に絶滅させられたが、
支那の場合焚書坑儒にあっても儒は生き残った違いがある。
欧州人なんて名前さえも一神教に奪われてるんだから
大笑いである。そしてその暴力を大航海時代で存分に
発揮することになるのは皆がよく知るところ・・ >>235
>アッシリアに滅ぼされる前の
古代エジプト並みに長い間まったく変わっていないことが分かる。
そのアッシリアに相当するのがモンゴルなんだが? >>235
違うな。国家原理からいくと中共は元から続く征服王朝の延長である。
国民党も同じ。 >>230
漢化政策に反発して反乱した鮮卑系の部族制支持者の一つが武川鎮
隋の楊氏、唐の李氏もこの武川鎮軍閥の有力家系で
どうして彼らが鮮卑系ではなく「鮮卑化した漢人」になるのだろうな 岡田英弘なんかは唐を漢人が中央アジアまででたんじゃなく
中央アジアとも関係ある遊牧系の鮮卑がついでに中原支配しただけみたいなこと言うてるな >>240
でも「俺中国人、鮮卑語しゃべれない」と、ら >>242
上古音と隋代の切韻を比較すると前者にあったはずの語頭の二重子音が後者からは消失し
R音がL音に置き換えられて発音そのものが省略されているし
現代のモンゴルやツングース系の言語にも共通する特徴が出て来た
という指摘も岡田英弘・淳子夫妻からなされてるね
そもそも鮮卑の言葉が中原の言葉になってた模様 それかなり斜め読みしてないか
岡田英弘も鮮卑の言語に入れ替わったとか極端なこと言ってないが
鮮卑語はモンゴル語、ツングース語と両説あるがどちらが正しくとも膠着語で
日本語、韓国語、モンゴル語のように助動詞によって語順を自由に入れ替えることができる
一方、中国語はいわゆる孤立語で英語以上に構文の自由が利かないなどモンゴル、ツングース語族とは真反対の性質を持つ
北斉の創始者である高歓には鮮卑には鮮卑語を漢人には華言をもって軍令を出したという記録(北斉書二十一巻)という記述があるのだが
もし当時の漢語=鮮卑語なら記述は出てくるわけがない 発音の入れ替わりが顕著というまでが岡田夫妻の指摘だね
んで、鮮卑の言葉が中原の言葉になってないなら切韻出ないよな
実際、そういう言語の入れ替わりの起きなかったモンゴル帝国時代は
モンゴル語と漢字でそれぞれ文章書いてそれが残ってたんだよな
清代の満洲語もそうだな
匈奴や突厥も文字を持っていたし鮮卑もその影響はあったはずなんだけど
北魏が自分の描き文字を漢字に置き換えちゃったことで言語そのものを置換しちゃってる
という推測が成り立ってると俺は考えてるよ、置換まで結構時間はかかっただろうけどね 前漢から明までタイムスリップしたら、マジでビビるぞ
なぜか、周囲が皆、細いツリ目の北方顔ばかりになってる 中華第一帝国・・・・秦〜後漢 創業者 始皇帝
帝国再興・・・・・・・・隋〜南宗 中興の祖 楊堅
中華第二帝国・・・・元〜清 創業者 フビライ
帝国再興・・・・・・・・中共 中興の祖 毛沢東 前漢から明までタイムスリップしたら、マジでビビるぞ
なぜか、周囲が皆、細いツリ目の北方顔ばかりになってる 漢の時代に、土地の開発が進み、貨幣経済も発展したが、その過程で貧富の差は拡大し、
後漢の段階になると、土地を集積した大土地所有者である富裕な土豪が有力者として成長してきた。
このような存在を豪族と言っている。
彼らは漢の武帝時代に始まる郷挙里選を通じて中央の官吏に登用され、さらに地位を利用して勢力を強め、土地と奴隷を独占的に所有するようになった。
漢王朝では、限田法を制定して豪族の大土地所有を制限しようとしたが失敗し、後漢時代を通じて豪族は成長していく。
後漢はそのような豪族による連合政権という一面があった。
しかし、豪族は次第に単なる地方の有力者ではなく、中央の皇帝政治を支える官僚としての地位を世襲的に独占するようになり、門閥貴族化していく。
そのような変化は三国時代の魏の九品中正などの人材登用制度を通じて、魏晋南北朝時代に進んだと考えられている。 中国では官吏選任は選挙といわれ、漢の武帝の時の郷挙里選で最初の整備が行われた。
その後、三国時代の魏で九品中正制が始まったが、有効な人材登用には至らなかった。
そこで隋の文帝は九品中正制を廃止して、学科試験による官吏登用制度を始めた。
その制度が唐の時代に「科目による選挙」という意味で「科挙」と言われるようになった。
しかし、実質的には隋の文帝(楊堅)に始まるとしてよい。
隋の文帝は、門閥貴族による高級官僚独占の弊害を改めるため九品中正制に代えて官吏登用制度を新たに整備した。 科挙は、宋代までは、実際に優秀な実務者を選ぶ機能を果たしました。
科挙の首席合格者が有能な宰相になったという例も少なくありません。
南宋の三忠臣の1人とされる文天祥などがその例です。
その理由には諸説ありますが、宋の頃まではペーパーテストとはいえ出題範囲も広く、
また「志」を育むような文章も勉強しなくてはならなかったという説が有力です。 趣が変わったのは明(1368年−1644年)の時代です。
この頃になると朱子学の影響が強くなり、出題範囲は四書五行(論語、孟子、大学、中庸、易経、詩経、書経、礼記、春秋)に限定されます。
ひたすらこれを暗記したものが科挙に合格するようになったのです。
では、どのような人間が科挙に合格するかというと、記憶力が良く、親がお金持ちで、子どものころからひたすら科挙合格に時間を使った人間です。
時代によって制度も変わるのですが、科挙にはいくつかのステップがあり、概ね30代後半で最終試験に合格するというのが、合格者の一般的なパターンでした。
子供のころからカウントすると、30年以上ひたすら科挙合格に向けて頑張った人間が合格するわけです。
合格できない人間は、60歳、70歳まで試験を受け続けたとも言われます。
一族からの期待があまりに高かったため、期待に応えられずに発狂したり自死を選んだりした人間も多かったと言います。 日本の指導階級は、
飛鳥朝の豪族→平安朝の貴族→江戸幕府の武士
と変わっていった。
中国の指導階級は、
秦漢の豪族→隋唐の貴族→明清の科挙官僚
と変わった。
つまり、前漢から明までショートカットできるかどうかは、豪族と科挙官僚がどれほど違うかにかかっている。 >>238
支那の黄河流域に成立した最初の政権、仮にこれを大本の
中原勢力としておくと、これらは全部西側から来たガイジンが
由来の文化・文明である。殷も周も、そしておそらく夏も、
西方から来た牧畜を主体とするガイジンなのでしょう。
その証拠に中原に文明と文化を齎せた者たちが半神・半人として
描かれるのはその顔つきが黄河流域の土人と違っていたからだ。 そして漢代になって初めて中原人由来の王朝が成立する。
それ以前は全部ガイジンの王朝だし、漢代以後も明が
成立するまでずっとガイジンの王朝だ。要するに政権交代は
古代エジプトの比ではないのである。だが支那は古代エジプトみたく
征服者によってへこたれるような情けない文明ではなかった。
それは征服者が誰であろうと、ずっと漢字や儒を持ち続けたことだ。
古代エジプトはアッシリアの征服で文明ごと滅んだが、
支那は五胡十六国時代であろうと、西方の勢力の一部になろうと、
北方の勢力の一部になろうと、南蛮(倭寇や欧米の侵略)を
受けようと常に核心部分を守ってきたことだ。
だが中国共産党によってこれが全部滅ぶ。だから中国共産党は
始皇帝以来の重要な時節なわけ。わかりますか? >>250-254
おまえつまらねえんだよ。失せろ教科書マン >>256
過去五千年で一番変化が大きかったのは、1989年以降の30年間でしょうな >>257
たまにスレタイに合った話をしたら、それかよw 日本の文系はつまらないよ
彼らの説は教科書以外に何の根拠もない >>246
兵馬俑と現代の漢民族ってそんなに顔違ったっけ? >>245
切韻の意味わかってるか?
隋代まで「代歌」といって漢詩とは別に鮮卑語の歌があった
いくつか残っているが唐韻とはまったく別物だぞ >>262
辞書の名前やろ
わざわざ解説して発音説明する必要があったわけ
それ以前にも韻書は存在してたのに新しく作ってな >>260
お前はまだ、世界史板の中国史スレってものがよく分かっていないようだ >>263
いやだからその唐韻と代歌は音韻が別物だから
鮮卑語が漢語になった論は成り立たないんだって >>266
そりゃ代歌が出来た頃からまたさらに変わったんでしょ
さすがに鮮卑側も漢字を書き文字にしていく段階で影響を受けないなんてことはありえないし こんなんどう? >254 >256
◆中華文明の盛衰
殷〜前漢武帝まで・・・・・中華帝国誕生期
(この間)・・・・・・・・発展期
北宋〜明前半・・・・・・・・全盛期
(この間)・・・・・・・・停滞期(又は爛熟期)
18世紀末〜現代・・・・・衰退期
発展期と停滞期はばっさり切るよ。途中経過は要らない。 中国史は、同じようなことをラセン階段のように繰り返している
「継続は力なり」だな >269
>>165を参照。
現在の中国は少子高齢化(30年代前半に人口減少が始まる)が日本より速く進んでいる。
「先進国になる前に高齢化がはじまる」という歴史上珍しい国だ。日本の数倍の借金を抱えており、
民度はすさまじく低い。 一部のテクノロジーが日米より進んでいるというのは文明の高さを意味しない。
自由主義民主主義をどんどん否定しているのは、そうしないと社会の維持が出来ず崩壊するからである。
この国は始皇帝や洪武帝や袁世凱など「強い手」を常に生産し続けないと持たない国である。
21世紀になってもこんな国が存愛していること自体が世界史の不思議である。 ↑
このような論は典型的な白人崇拝病ですな
自由だとか人権だとか民主主義だとか、彼ら欧米人が毎日
念仏みたいに唱えてるその内容といえば
まったく定義されておらず、信じれば救われる以上の
意味はない 神を民主主義に、
同教徒への安全保障を人権に、
信じれば救われるという概念を自由に、
それぞれ言葉を言い換えてるだけにすぎない。
現在の欧米人がやってることは、中世から
キリスト教徒らが世界中で行った絶滅政策(名前を
奪い、宗教を奪い、言語を奪い、政治制度も奪い
破壊する)と何ら変わりない。
その行いの延長としてめでたく原子爆弾を
落とされて「ソドムとゴモラを焼いたぜ」なんて
言われた日本人が、こんな白人の宗教を信じてるなんて
愚かとしか言いようがない。こんな民族は絶滅して
当然なんだろ。 そして現代の支那もこの一神教の毒に染まっている
共産主義は一神教の焼き直し(特にユダヤ教に奇妙な
ほど似ている)に過ぎず、自分だけを自己正当化する
その姿は一神教信者とまったく同じだ
曰く「共産主義者とはまず話ができない」 長らく多神教的であった欧州やローマ、ギリシャもあっけなく
一神教に敗北し、中東がこれに続き、その後キリスト教の
世界征服(日本も1945年に滅び、アメリカの軍門に下る)、
ソ連と中共の成立によってほぼ世界中が一神教の信者になってしまった。
今現在多神教なのはインドとインドシナくらいだな 何言ってるのかわけわかめなのでノイズとして処理する >>268
支那は自分たちが主体となって帝政となれたときなんて
まったくといっていいほどないよ。漢の武帝のときだけでねえの?
後は周辺のガイジンの「一部」に中原がなったときに
覇権国家となっただけだ。基本的に中原の連中は「去勢と服従」の
民族なので、武力は持たない。第一戦争にクソ弱いしな。
戦う前から離散する世界で唯一の軍隊だもの。 >>277
欧米の政治的な提言は宗教に過ぎないって言いたいのさ
彼らは結局「敵か味方か」「同じ宗教か違う宗教か」でしか
他者を判断できず、自分と違うと分かると絶滅政策を
してくる。これは第二次大戦後のアメリカやソビエトの態度を
見れば誰でも分かるにゃん。彼らは畢竟、政治じゃなくて
宗教を広めているに過ぎない。 上4つだな。前から準備してたコピペを272にかこつけてぶちこんできやがった。 >>279
敗戦後、米国から移植されたデモクラシー(日本)をどうみるかは置いておくが、
自由民権運動や大正デモクラシーなどを「宗教」とみるなら、日本は明治維新後の日本は
欧米型宗教国家であり、それは文明の発展・進化ではない、つーことだな。
現在の中共もマルクス・レーニン主義という、欧州からの宗教に支配された宗教国家であるな。
まあ、与太話としては面白いので許す。 今後の健闘を祈る。 >>269
数年前までは、史上最速の発展期だった
去年あたりから衰退期に入った >>281
自由だの民主主義だの人権だの、お前台湾人みたいだな
軍事力で負け外交力で負け経済力でも負けたから無理やり他の指標探してきてやっかんでるだけやん
そういうのを精神勝利って言うんだよ
世界史において国の力っていうのはほとんど軍事政治経済で測られるもんだろ
それを中共だけ謎の判断基準持ち出して衰退してるとか噴飯もの >>283
まあ、軍事については、今も国力が向上しているな
経済は、はっきりと下降局面に入った
今まで、無理な景気拡大策をやりすぎた反動だ アメリカのCIAのやり口を見れば民主主義なんてとんでもないペテンだと
分かるよ。アメリカの傀儡政権だと「民主主義国家」とか「優等生」とか
いい、そうじゃないと「独裁政権」「人権」と言い出す。
こういうのを一神教的二元論(敵か味方か)というのさ。
欧米なんて今も昔も一神教の考え方の枠内から出られない田舎者だよ。 >>282
違うな。中国が衰退期に入ったのは乾隆帝末期。おまえさんの理屈だと70年代のブラジルやエルドアン政権下のトルコは文明の全盛期ということになる。
高度経済成長と文明論は違う次元のお話。 儒教は実に称賛に価する。儒教には迷信もないし、愚劣な伝説もない。また道理や自然を侮辱する教理もない。
(略)四千年来、中国の識者は、最も単純な信仰を最善のものと考えてきた。(ヴォルテール)
ヨーロッパ諸国の政府においては一つの階級が存在していて、彼らこそが、生まれながらに、自身の道徳的資質とは無関係に優越した地位をもっているのだ。
(略)ヨーロッパでは、凡庸な宰相、無知な役人、無能な将軍がこのような制度のおかげで多く存在しているが、
中国ではこのような制度は決して生まれなかった。この国には世襲的貴族身分が全く存在しない。(レーナル)
共和国においては徳が必要であり、君主国においては名誉が必要であるように、専制政体の国においては「恐怖」が必要である。
(略)中国は専制国家であり、その原理は恐怖である。(モンテスキュー) 日本はアメリカの家畜であって主権がないのでバブルのときに戦争を
起こせなかった。それで結局バブルの崩壊で毎年三万人も自殺者をだした。
当然アメリカに対する批判は起こらなかった。去勢された家畜なんて
こんな程度の価値なのさ。
対して現在の中共はすでにバブル崩壊後の後始末を想定している。
最近朝鮮半島の狂犬を使って極東アメリカ軍(日本などではないw)を
挑発しているのはこのためだ。
最近韓国との火器レーダーがどうのこうのなんて話を日本側が打ち切ったのは、
明らかに横田幕府の意向だ「おい、相手の挑発に乗りすぎなんだよ、
何もできねえくせにきゃんきゃん吠えてんじゃねえ!」ってとこだ。
アメリカはこの挑発には乗らないよ。バカじゃないもの。 やはり日本人はまた再び中共と戦争したとしても、負けるよ
今回の騒ぎで韓国が主体的にこんなことをしてるって
国民のほぼ全てがそう勘違いしてるんだから。
もし中共と植民地日本が戦争を勝手に始めたら在日米軍は
中共を取るよ。こんな老人と愚か者だけのお荷物列島なんて
要らないから。それよりも中国共産党を崩壊させた後の
支那の15億人もの人間の支配、市場は魅力的だ。
蝶々夫人みたく白人米兵にこび売ってる醜悪な連中しか
残っていない日本列島なんて誰も買わないよ。 スレ違いなので消えるか心肺停止するか、どっちかしてくれへんか? (中国二千年の人口の変遷を振り返って!)
漢民族が古代中華帝国を建設して以来、千年以上に渡って漢末の「西暦2年のピーク人口6千万人」越えることはなかった。
その後、北宋徽宗の頃に9千万を超え、15世紀後半の明の時代に、1億人を突破した可能性があるが、
大台の2億人の人口に到達したのは、清の乾隆帝30(1765)年で、僅か250年前の出来事であった。 前漢末から明の中期までワープしたくなるというのは、スレ主が意識してるかどうかは分からんが、背景に「人口」という大きな要因がある。
実際のところ、前漢末に6千万人に達した人口を、それから明の中期まで越えられなかった。
その間、6千万人で一定だったわけではない。
日本人の常識では考えられないほどの激減や、大流入が何度もあった。
そこが、はてしない繰り返しに見える。 人口爆発や環境悪化などの現代社会が抱える問題へと、明清帝国は一足お先に突入した 中華文明の衰退は明中期からということになるな。
人口増加は経済成長と政治の安定の結果で、それ自体は良いことだと思うが、その弊害の規模が問題。
明清はダメージコントロールに失敗したということか? 人口流入とか日本以外の国々では普遍的なことだけどな
例えば現代フランス人の4人に1人が北アフリカからの移民を先祖にもち
現代タイ人も半数が華僑を先祖にもっていると言われる
だからと言ってフランス人やタイ人が入れ替わったとか言ってるアホはいない
むしろ同一民族同士で数千年にわたって近親婚を繰り返してきた日本人が異質すぎるだけ >>296
安倍政権が「外国人を34万人ほど受け入れる」という話で、大騒ぎになってるのが日本
とくに、自称「リベラル左派」の方々が「アジア人を日本に入れるな」と騒いでいる あの中国でさえ、最近は少子高齢化が深刻な問題になっている
「我が国も、そろそろ移民の受け入れを検討しないといけないアル」という話になってきた >>296
支那の民族が入れ替わったとか言ってる奴は単に支那を叩きたいだけだから
そういう当たり前のことを言っても聞かんよ
もっというと日本も人口流入し続けてるだろう
うちの祖先は明朝に派遣されて福建から琉球に移民した渡来人らしい
うちみたいに系図がはっきりしてなくても渡来人と混血してる人はいくらでもいるだろ >>299
そう思うんだったら、「シナは民族大移動で人が入れ替わった」
と言われても、「そんなの当たり前だろ」と言えばいいじゃないか
気にするほどのことと思えない 長編小説『キングダグダム』
<第一部>
BC311 〜 BC180 gdgd帝国のあけぼの
〜秦武王の即位から漢呂氏一族の滅亡まで〜
プロレス王の事故死からサイコパス婆の猟奇殺人までを俯瞰
<第二部>
88〜618 gdgd帝国の全盛
〜後漢和帝の即位から隋の滅亡まで〜
これでもかこれでもかとグダグダ200連発
<第三部>
745〜960 gdgd帝国の黄昏
〜楊貴妃登場から趙匡胤の即位まで〜
グダグダをとことん究めた人々の物語
<外伝>
BC48〜AD36 王莽編
〜前漢元帝の即位から後漢光武帝の天下統一まで >>299
そう思うんだったら、「シナは民族大移動で人が入れ替わった」
と言われても、「そんなの当たり前だろ」と言えばいいじゃないか
気にするほどのことと思えない >>302
太平天国から文革終了までは第何部ですか 自分には重要でも相手にとっては全く重要ではないことが人生よくある
何度レスを懇願したところで無意味なことが多い。 編集しても中共の時代は残るな
習近平が中体西用を実現させた皇帝として歴史に名を残すかどうかは知らない ここ30年の変貌ぶりは、過去3000年にも匹敵する 明の中期あたりから、人口の爆発的増加と、全国規模の森林伐採による環境破壊が急速に進んだ
ここ五百年の変化は、過去五千年の変化に匹敵する そう思うんだったら、「シナは30〜500年で変化した キリッ!!」
と言われても、「そんなの当たり前だろ」と言えばいいじゃないか
気にするほどのことと思えない >>313
まあ、確かに当たり前だが
でも、歴史の教科書を見ると、むしろ逆に、明の中期あたりから変化が乏しい停滞の時代に入った印象を受ける 人口爆発や森林破壊はネガティブな面だが、見る角度を変えれば、食糧の大増産で経済が高度成長した時代 人口爆発といえば18世紀が最も顕著だが、その点からいくと中国文明の最盛期は
康熙〜乾隆帝時代であり、やはり>>1の編集は正しかったということだな。 18世紀だったら、大清帝国の統治機構も、革命前のフランスの絶対王政に見劣りしない
産業革命が起きてイギリスには引き離されていくことになるが、それは清に限らず、世界中がみんなそうだ
ドイツ・フランスも例外ではない これは中国に限らず、日本についても思うことだが、イギリスと比べすぎだ
イギリス=欧州ではない
「18世紀には、欧州では産業革命が起きて工業化社会に突入し、議会政治が確立されて民主主義社会になりました」
「それに比べて中国は・・・」
というわけだが、それは「欧州」ではなく、「イギリス」の話 18世紀のイギリスには、日本や中国だけでなく、ドイツもフランスもイタリアも、一気に引き離されてしまった >>321
当時のイギリス労働者は無権利状態であり、
世界で最も植民地を持つ国でありながら、
世界で最も苛烈な支配を受けていた
正直、本国の白人労働者も半植民地のインドや
アフリカの黒人よりましとはとても言えない惨状にあった
イギリス自体がロンバート人の植民地支配を受けているような 18世紀イギリスに労働者階級の選挙権はない
ブラック企業の代表が議会にいても
労働者の代表は議会にいない
普通選挙を主張して虐殺された活動家もいるし、中国や他の欧州の国より進歩的とは言えない イギリスで普通選挙制が実現するのは、第一次世界大戦末期の1918年。
第4回選挙法改正の時で、そのとき21歳以上の青年男子と、30歳以上の女性に選挙権が認められた。
また1928年の第5回選挙法改正で、21歳以上の男女と改正されて、完全な男女平等の普通選挙が実現された。 日本で普通選挙が実施されたのは、1925年
要するに、イギリスとほぼ同時期 違うな。完全普通選挙制は1945年12月>>325 >★レーダー照射問題「韓国がどうしても隠したい」密漁と瀬取り
> 2018年の同漁港の水揚げ量は、過去最低だった前年の3分の2まで落ち込んだ。
>大和堆まで密漁にやってくる密漁船は、軍から石油の割り当てを受けているはず。つまり、軍の指揮下にあるとみていいでしょう。
>北朝鮮軍の傘下にある密漁船を、韓国の軍が救助していたとすれば、北朝鮮による違法操業を、韓国が手助けしていたことになります。
https://smart-flash.jp/sociopolitics/60330
韓国が謝罪するまで徹底的に批判と制裁し続け無いと日本の漁師が安心して海に出られません、海産物が値上がりすると日本の貧困層の自殺が増えます
韓国製品とアプリの不買い運動しましょう >>321
産業の工業化はヨーロッパ全体で起こったことだし18世紀のイングランドとか後進もいいとこで
工業力の指標とされる粗鋼生産量は1750年でフランス、ドイツ、ロシアが3強でイングランドはロシアの3分の1程度
日本に至っては明治に入っても工業化で清にすら負けてる始末で後進中の後進国やぞ >>318
日本の民主主義の幕開けである侍の時代(平安末から鎌倉)
それと織田信長。
日本で重要な歴史はこの2つしかないよ
江戸時代なんてクソ。
この時代の惰眠の結果、アングロサクソンの一神教帝国に敗北し、
アメリカの植民地になってしまった >>328
日清戦争に勝利した結果、急速に工業化が進んだ >>328
1750年の段階では、まだイギリスよりフランスが有利
1763年の七年戦争敗北により、資源の豊富な優良植民地をイギリスにねこそぎ 清からの賠償金で製鉄所を建てた
清から輸入した鉄鉱石で、日本の製鉄業は飛躍した >>334
すまん
ホアウェイの中華製タブレットでやると、いつも途中で送信されてしまう >>328
横レス。1750年頃の清国とフランス ドイツ の粗鋼生産量のデータがあれば教えて下さい。 1870年には、イギリスの粗鋼生産量が世界の50%以上を占めていた
それが、1890年にはアメリカに追い抜かれ、1902年にはドイツにも追い抜かれて世界三位になった
日本も、ソビエト連邦が崩壊してからの数年間は世界最大の生産量だったが、今は中国とインドに次いで三位
しかし、日本にはイギリスほど圧倒的なシェアだった時期はないし、急激に落ち目になったわけでもなく安定している いまや、中国の粗鋼生産量は、世界の50%を占めている
鉄鋼に関する限り、今の中国は、最盛期のイギリスに匹敵する存在感 その鋼鉄が余りすぎて同しようもないのだけど
市場と関係のない計画経済のをやってるようじゃねえ まあ、生産調整の命令をきかない製鉄所をダイナマイトで爆破したりとか、相変わらずムチャしてるようだが
それでも作った鉄の半分が余っているという話だ
あれだけカラッポの道路や鉄道、高層ビルを全国に広げまくって消費してもそうなのだから、今後はますます頭が痛い かつては森林に覆われ、大陸に木材を輸出していたイギリスだが、16世紀から森林伐採が激化して木材が枯渇するようになり、木炭不足で製鉄業が危機に陥った
代わりに登場したのが、石炭だ
18世紀初頭に高炉が発明され、さらに1776年のジェームズ・ワットによる蒸気機関発明(それまでは水車を動力としていた)により、18世紀末からイギリスの製鉄業は急激な飛躍を遂げ、世界シェア50%を占めるに至る
しかし、その百年後、19世紀末から20世紀初頭にかけては、今度はアメリカで爆発的に粗鋼生産量が伸び、イギリスを追い抜いたかと思うと、たちまち何倍もの差をつけて圧倒した
さらにその百年後、20世紀末から21世紀初頭にかけて、中国の粗鋼生産量が爆発的に伸びて日本を抜いたかと思うと、たちまち何倍もの差をつけて今では圧倒している
今の中国は、このような百年に一度のビッグトレンドの中にある 一つの国の歴史を現代の国境から追うのは不思議な感じがする。
まだ改良の余地があるだろう。 >>342
そう、いつも思うのはそれ
もしも現代の中国が、ヨーロッパのように幾つもの国家に分かれていたら、中国の歴史はまったく違って見えてくるだろうよ
16世紀の日本だって、新潟と山梨が宿命のライバルで、20世紀のドイツとフランスみたいに何度も戦争していたのだが、今ではそんな印象は何もない
もしもヨーロッパが統一して何百年もたったら、独仏の戦争は「内戦」ということになるな 辛亥革命の評価が少し低いように思う。それは帝政崩壊後も民主化に向かわず、袁世凱の「中華帝国」の出現、軍閥割拠、共産党独裁へと、始皇帝時代に逆戻りしたからである。
しかしながら短期間(1911〜50頃)は国家分裂状態であった。モンゴル ウイグル チベットは事実上独立した。
ソ連の解体、第一次大戦後の欧州諸帝国の解体に比すべき事態が辛亥革命なのである。
で、これを解消したのが毛沢東。中国本部の統一、ウイグル・チベットへの侵攻と、
台湾以外の“回収”に成功した。
時は流れて現在、香港では独立を公然と主張する団体まで現れている。 >>344
全省が一斉に独立宣言するという、ソビエト連邦崩壊を80年ほど先取りする事態
あの頃の夢をもう一度! 高層ビルを全部ぶっ壊して、もう一度、建て直したいだろうな ・>>268の改定
◆中華文明の盛衰
殷〜前漢武帝まで・・・・・・・・・中華帝国誕生期
(この間)・・・・・・・・発展期
17世紀末〜18世紀末・・・・・・全盛期
(この間)・・・・・・・・衰退期
21世紀〜?・・・・・・・・・・・再起動期?
うーむ。文明論としては現在の中国は終わっていると思うのだがねえ。
洋務運動みたいなもんだ。日本人は洋務運動を低く見がちだが、
明治政府の近代化政策よりはるかに多くの資金をブチ込み、大規模なインフラを築いた。
ついでに日本の場合は
◆日本文明の盛衰
3世紀〜日本書紀誕生まで・・・・・・日本国誕生期
(この間)・・・・・・・・発展期
18世紀後半〜20世紀末・・・・・・全盛期
(これ以降)・・・・・・・衰退期(TT) やはり、18世紀が最盛期ということになるんだろうなあ まあ、重要人物と言えば孔子と始皇帝と毛沢東ぐらいだもんね。
この3人と、フビライと孫文、この5人押さえればあとは勉強する必要ない。 孔子はそれほど重要じゃない
孟子の「民意によって支配するべき」という考え方のほうが
斬新であろう。それと基本的な仁義の概念。
始皇帝よりも高祖が重要だし、
毛沢東はソビエトのマネをしただけだ。
孫子、孟子、韓非子、淮南子、戦国策は
世界でも有数の哲学書。特に孫子は戦争に自然科学を
結びつけた点で空前絶後の戦争論の書物。これ以上のは
ない。それと西遊記かな世界的にも究極なのは。 逆に古代ギリシャ文明が不当に高い評価を得ていると思う。
あんなの古代エジプト文明の延長(当時のギリシャ人哲学者たちが
自分たちの文明・自然学はすべてエジプト起源と言ってる)に
過ぎないのに、エジプトの影響をすべて捨て去って単独分類に
してるのが謎。
ところで支那は五胡十六国時代から民族が大幅に変わっている。
支配制度は法家と儒教の折衷なのは変わらないが、この時代から
さき、中原はガイジンが常に皇帝となっていく。明になって
ようやく中原の皇帝が出た。 欧州が偉いのは自分自身の手で近代化をしたことだね。
中世の情けないヨーロッパ事情を自分の手で、自分の知恵で、
そして自分たちの行いで覆したことだ。対して日本などの
東アジアなんて無能のお偉いさんが偉そうに白人を雇って彼らにすべてを
させてた。こんな情けない女々しい地域ってあるかな?
自分で立ち上がった男性的な欧州と
現状保守・去勢・服従・お偉いさんの支配しかない東アジアと、
そもそも比べること自体がおこがましいでよ。
勝負にさえならんよ。男と女みたいなもの。 >>354
まあ、ギリシャといっても、現代のギリシャ共和国とは違うからな。
ヘラクレイトスは今でいうトルコ、パルメニデスは今でいうイタリア、アルキメデスはシチリア島で、ユークリッドはエジプトに住んでた人 よってこれから東アジアが他者から「立派」などと
言われても、皮肉でしかない。それは小さな犬から
大きな犬へと、少女から大人の女になったに過ぎないから。
敗戦後の日本を「素晴らしい」などと他者に言われて
その皮肉に気づかない間抜けと同じ。
欧州はいいよな確かに。町並みも文化もすごいし
世界は征服したし。ハア >>356
今のギリシャの話なんてしてないけろ?
古代ギリシャ文明は「無」から発生し、
アレキサンダーの世界征服によってアジアの文明の
起源になり、その後継者の欧州帝国によって
世界に広まり、世界の支配的な文明になった
とされるけど、まったくもってほんまかいなって思う。 >>353
毛沢東がソ連の真似をしたからといって重要性が下がるわけではない
むしろソ連のやり方を中国に導入してそれまでの中国史とは異なる時代を築いたことに大きな意味がある
辛亥革命の目的であった帝政廃止を完成させたのが毛沢東だ いやあんなのだれでもできるさ。後ろにソビエトがいて
中国共産は負んぶに抱っこ、何もかもソビエト共産党が
指図を書いていて、それに従ったに過ぎない。
こんなの英国の威を借りてロシアに勝った日本とか
アメリカの植民地になって金だけ儲けてたのは日本の奇跡なんて
言われるくらい筋違いの話。 人物評価と歴史のポジショニングの評価の区別が出来ない人がいて残念である >>359
要するに、東地中海沿岸地域の中で、大きく分けて南がエジプト、北がギリシャと呼ばれる地域
そのくらいの地理感覚だ >>360
毛沢東が皇帝になっただけだろ
トウ小平までは、帝位が世襲じゃなくなっただけで、実質的に皇帝そのもの
胡錦濤あたりで、ようやく近代国家の実務政治家っぽくなってきたが、習近平でまた逆戻りだ 韓国の時代劇を見て思うことは、明や清の存在感の大きさだ。
朝鮮の王宮なのに、明の役人が表門から入り、朝鮮国王が裏門から入って土下座するという関係。
何事も、北京の意向を無視して考えるのは無理。
北京は、細かいことにも口出ししてくる。
それに比べて日本では、中国の歴史といえば、漢や唐のイメージだ。
文系の大学教授が、「中国は歴史的に、西のシルクロードを目指して発展してきました。
東の日本や朝鮮とは、積極的に関わろうとしてきませんでした」
と真顔で語るというのが実情だ。
この大学教授、何かといえば韓国を称賛して日本をコキ下ろすので、日本では嫌われものだが、韓国では拍手喝采される。
でも、韓国人も内心では、この人の歴史観に共感していないのではと思われる(笑) 明から清に王朝が交代したのは、朝鮮にとっても史上最大級の大事件だった。
明に忠誠を近い、清を野蛮な胡族と見て差別的な対応をしてきた朝鮮に、
ホンタイジは激怒して何度も攻め込んできた。
朝鮮国王がホンタイジに三叩九拜する姿は、朝鮮史でも最も印象的な場面だ。
それに比べて日本では、明から清に代わったことなど、たいした問題とは見られていない。
実際には、日本にも大きな影響があった。
夷狄の支配を嫌った大勢の明の儒者たちが亡命してきたおかげで、日本の学術の水準は大幅に向上した。
江戸時代の学者には、「シナは夷狄に支配される野蛮な国。本朝こそ、万世一系の天皇が統べる真の中華なのだ」という考え方が台頭した。
でも、日本への影響っていったら、そんなものだ。
朝鮮人のような切迫感がない。 日本だったら遣唐使でインテリ送り込んで、官僚組織や仏典に箸の使用など
いいとこどりすればいい。
海が天然の防塁になってくれる。
でも朝鮮やベトナムは地続き。
文明が伝わるのも早いが、災厄が伝わるのもはやいからな。 日本の左翼の爺さんたちは、いつまでたっても「遣唐使」のロマンチックなイメージから抜けきれず、
東アジアの国際情勢に対するリアルな認識が、どうにもできないでいる。
「中国は歴史的に、他国を侵略したことがない」とか真顔で言うのは、どうにかならないものか。 >>366
明から清への交替は琉球にも結構な影響与えてるな
琉球は劣勢の明をあっさり捨てて清に鞍替えした結果、台湾に逃げた鄭成功がブチ切れて清へ向かう琉球船を妨害するようになった
それで琉球側は船舶や国全体の防衛強化を薩摩含む幕藩体制に依存するようになって、往来が増えて琉球侵攻に繋がっていく
内部社会では洪武帝が派遣した移民集団の三十六姓の人たちは初め明の服装や習俗を維持していたけど、明国滅亡とともに琉球在地の習俗を受け入れて同化していくことになる 当時のヨーロッパも中国大陸が再びタタール人に占拠されたと衝撃受けたらしいな 明の支配はほぼ今でいう「内中国」に限定され、清のような超巨大帝国ではなかったから、朝鮮にとっても、台湾や琉球にとっても、清ほどの圧力を受けずにすんでいた 琉球が海洋貿易国家として繁栄した時期は、明代とほぼ重なる 日本の歴史は支那王朝がひっくり返ると自分のとこの政権も
ひっくり返ってるんだよな >>365
敗戦後の日本と同じだな。アメリカの権力者は横田に自由に出入りできるし、
地位協定もあるしな。朝鮮と日本って本当にそっくりだよ。
>>366
支那帝国が滅んで自分が「小中華になる」って発想も東アジア人らしい
不毛なものだね。支那とは違う尺度や価値基準を作れないんだ、アホだから。
それと儒者なんて来ても迷惑なだけだねえ。こいつらのおかげで自然科学の
発展が遅れたのだから。 結局「去勢と服従」の民族性から脱却できない限り東アジアに将来は
ないよ。金を持っていても、すぐに賢く強い男性的な国に奪われるだけだから。
それを千年以上繰り返してもまだ分からないってこの昏さは一体
どこから来るのだろうか。 朝鮮半島は結局騎馬民族にも中原人に逆らわずに「去勢と服従」の
民族性を通した。そしてその結果は今の劣悪な逆恨みの性格になった。
日本もアメリカには逆らわずに東アジア人らしく「去勢と服従」の
民族性を変えようとはしない。そしてその結果はおそらく朝鮮人の
ような怯懦な民族性への進化であろう。
欧州は確かにすごいな。みじめな中世を自分の手でひっくり返し、
逆に世界を征服し、すべての世界基準を作ったんだからねえ。
こんな風に男らしく生きたかったなあ。 >>373
それは、朝鮮の歴史だな
日本にはそういう傾向が無いねえ 朝鮮の場合、唐と新羅、モンゴルと高麗、清と朝鮮が切っても切れない関係にあり、ほぼ同時に興亡したのは偶然ではない オッサン世代(まあ俺なんだがw)の中国観というか印象はやはり人民服と自転車なんだな。
若い頃 中国を旅行した時は改革開放もまだ緒についたばかりで、民度の低さも体験し「こんな後進国が日本に追い付く日なんて来るんだろうか?」と現地で考え込んだことを記憶している。
あれから50年以上経った。その後中国に行くことは無かったが(香港には行った)、ニュースで見る限り、
沿海都市は先進国の都市のようになり、AIやIT産業は日本を追い越していると聞く。
考えてみれば、中国は常に日本の上をいっていた。日本が中国に追い付いたのは19世紀になってからだろう。
そう考えると日清戦争後、100年余の「日本優位時代」は僥倖であったことが分かる。
この間の中国はグダグダで日本は天与のタイムラグを利用出来た。改革開放後の中国の猛ダッシュとバブル崩壊後のダグダで、日本はこれまでの先発者利益を使い切った。
日中は元のポジションに戻っただけともいえる。 >>380
いやいや、確かに北京や上海の都心部を見れば、どの先進国よりも未来的なんだが、そこから離れるにつれて、「やはり・・・」と思わせるものがある
都心部も、建物を建てすぎたおかげで空室だらけだ
これから、無理をしすぎたツケが回ってくる かつては、「日本はアメリカを追い越した」と言われた時期があり、その後は「韓国が日本を追い越した」と言われた時期もあったが、それは一時的なものであり、後になって、やはり地力の差が歴然としてきたものだ
新興国の勢いというものは、常に人を幻惑する 380訂正
>あれから50年以上経った
30年ね。 俺はオッサンだがジジイじゃあなーい。
今後20年位は日本は「ブルーチーム」だろうが、20年後30年後には米中のいずれかを選択を迫られ日が来るかもしれない。
まあ、それはともかく、日本が中国に追いついた(経済・文化・技術など)のは
「19世紀以降」という認識でよろしいか? >>382
中国は新興国ではないからなあ
>>383
賛成 >>384
中国が新興国じゃないのなら、どこが新興国なんだよ? >>383
>まあ、それはともかく、日本が中国に追いついた(経済・文化・技術など)のは
「19世紀以降」という認識でよろしいか?
18世紀の前半でしょうな。
18世紀の後半には、杉田玄白がオランダの医学書を翻訳し、「この先進的な医学をシナ人にも広めたい」と思って漢訳もしている。
あの辺りから、日本の急成長が始まった。 しかし、18世紀は、中華帝国の完成期でもある
国力としては、日本はもちろん、西欧諸国よりも大きかっただろう
だが、それはあくまで国家規模の問題であって、文明の最先端からは遅れ始めていた >>383
>今後20年位は日本は「ブルーチーム」だろうが、20年後30年後には米中のいずれかを選択を迫られ日が来るかもしれない。
それだけは、なんとも言えないな。
アメリカも中国も、日本よりずっと変化の速い、ダイナミックな国だ。
あの2国がこの先どうなるかだけは、なんとも言いようがない。 >>389
そうかなあ。
なんか、守りに入っちゃってて、面白みのない国に思えるんだが? でも、じつは東京オリンピックに大阪万博、リニア新幹線と、高度成長期なみに色々やっている
対外的にも、TPPにダイヤモンド防衛構想と、かつてないほど積極的な動きをしている >>383
アメリカか中共か日本が選ぶ?ありえない。日本に
主権はないから。もし中共に寝返ったら
アメリカ様に皇族を人質に取られて終わる。総理がロシアに最初に挨拶に
行ったというだけで日本のガキを数十人海に沈めるのだから、アメリカ様を
舐めすぎだわ。妾のくせに生意気すぎ。
>>386
に至っては笑ってしまったわ。進んだ白人の文明を広めると優位に立てるの
かよw田舎者というか、バカなんじゃねえの?なんかお前らって傑作だな
天然の田舎娘というかなんというか・・からかいがいもあるんだろうね
白人男性はこんな娘たちは。 日本が白人様の肉便器になってから文明が発達しただってよ。
な、去勢と服従の地域に住む宦官らしい考え方だろ?
日本が最も発達したのは鎌倉時代から信長が死ぬまでだ。
平安時代も江戸時代も暗黒時代であり、明治など天皇主権を
回復させた、先祖返りにすぎない。その結果アメリカの
植民地兼、肉として奉仕するメスになってしまった。
ああ嫌だ嫌だ >>391
経済成長率も徐々に回復してるしな
デフレマインドにやられた20代後半から40代前半くらいの層が
日本を逆に見くびってるという悲しい話
40代後半はそもそも無能 >>396
デフレマインドというかなあ
少子化で若者が減っていく国に将来は無い気がする
中国は人口多すぎだから、高齢化が社会問題化しても若者の人口自体は多い 中国はすでに、「我が国もそろそろ移民の導入を考えなければいけないアル」という話になってきている
とくに、農村の高齢化が著しい
農村で一生をすごしてきた土人たちなので、いまさらどうにもならない >>392
お前韓国でモテそうな顔してるな
射精エベンキらしくトンスル飲むか? 日本も、ここ20年ほどで超高層ビルが急増して、東京や大阪の夜景はすっかり様変わりしたぞ。
まだまだ、昭和の街を再開発するネタがほぼ無尽蔵だ。
北京や上海は、まだ建て替える時期にない。
一周まわって、日本の時代が来た。 左翼の爺さんたちは、「いまの日本は経済成長していないのだから、東京オリンピックや大阪万博、リニア新幹線などやるべきではない」とよく言うのだが、それが因果関係が逆だ。
そういうことをやらないから経済成長しないのであって、逆ではない。
そんな爺さんたちに限って、メチャクチャな公共事業バラマキによる中国の経済成長を、歴史的な偉業であるかのように称賛しているのだから、
まったくのダブルスタンダード、というより、経済がまるで分かっていないと言わざるを得ない。 <隋唐><宋元><明清>、 この3つのペアで最も重要なのは<宋元> 死にかけのロシアに挨拶しただけでガキが数十人海に沈められたんだぜ
今の中共に寝返ってみろ皇族は無事じゃねえわな。
俺は皇族なんて必要ないからどうでもいいけど、家畜たちが
暴れるかもしれない。当然それを想定済みで、在日米軍はそこを圧倒的な
軍事力と資源の封鎖で徹底的に鎮圧するんだなあ。そうやって
見せしめにするだよ。中共に寝返った南米なんてものすごい制裁を
受けてるからね。ましてや植民地の日本なんてどうなるのやら。
ちなみに同じ植民地の韓国が強気なのは失うものが何もないから まずインド沖の米軍基地を使って日本行き石油タンカーを封鎖。
つうかそんなことをしなくても湾岸諸国がアメリカに付く。
これだけでもう日本は終わる。敗戦後に政治をせず、アメリカの
支配を確固たるものにするために行政しかしなかった罰だな。
てか中共に寝返ってみ?俺としては面白そうだからぜひそうして
ほしいと思う。皇族が滅び(陵辱動画とか?娘たちがアメリカ白人と
結婚して混血するとか?)、日本を失うことで極東の軍事的緊張が
一気に増加し崩れるも、中共は信頼されてないので短期間の覇権で
外国からの資本を引っこ抜かれて自壊、結局増加された在日米軍と
強化された支配によってますます植民地としての将来が確固たる
ものに・・・・ >>402
現代中国(北京帝国)の開祖は永楽帝だよ。 >>409
・皇帝専制国家体制を完成させた。
・元朝の皇帝とも異質な絶対権力を確立。
・現代北京の実質建設者である。
・暴力によって国民を従順なる奴隷に教育し、
「中国人気質」を確定させた。
とかね。
洪武帝は各藩王に大きな領土と権限を与えるなどして、
封建制を志向するところがあったが、
永楽帝は藩王家を飾り物にして、天下を完全掌握した。
パワフルにして残虐、
紫禁城のような巨大建築趣味、
強圧的積極外交、
人命の大量喪失を屁とも思わない非人間性、
・・・・などなど
そのまま現代につながると思うけどなぁ。 その理由では現代中国の創始者はフビライの方に軍配が上がるな。
明と元の差より宋と元の差が大きく、現代中国の国家原理のルーツは元に求めた方が至当。 現代中国から見れば明自体は北元との南北朝時代だから完全掌握はしてない >>410
皇帝制は言うまでもなく辛亥革命で途絶えてる
北京も中華民国で一旦途絶えてる
中国人気質なんて根拠の無い妄想でしかない
藩王の権限掌握も清朝への交代で一回リセットされてるし
人民の命を屁とも思わないのなんか始皇帝以来の伝統やん
永楽帝から直接現代に繋がるものなんかあるか? まあ、永楽帝が北京に遷都しなかったら、中国はどうなったかってのはあるけど、こればっかりは考えても仕方ない
考えられるのは、おそらく明は、遠からず華北を奪われ、南宋のようになっただろうということ 永楽帝が鄭和の艦隊をアフリカまで送ったことは、栄光の歴史として今も語られている
左翼や朝鮮人は、この話が大好きだ 孔子以前の春秋・殷周も相当部分カットしてもいいけどな >>410
絶対権力の確率は雍正帝
現代北京の実質的建設者はクビライ・カァン
永楽帝は永楽帝で結構現代中国とは異質だよ
というか現代中国が過去の帝国のキメラみたいなもんだから
誰か一人に帰すのはどうかと思うよ 支那人が奴隷気質になったのは始皇帝からだね
それ以前は儒家みたいに「こっちが相手を尊重してるのに、
相手がこっちを尊重しないのはどういうことだ?こちらに
非がないのならハネるよ」って考えで、自由主義と同じだよ。
それを始皇帝は法家という考え方で徹底的に個人の自由みたいな
ものをなくし、人々を国家の部品みたいにしていく。そして
これが「法の支配」なのであって、まさに世界初の近代国家だろう。
今現在の世界の主流は欧米的な儒家的(あるいは儒家の
家族主義に道家の自然・自由の折衷)になっている点に注意。
中共はあくまで法の支配に固執し、市場も法律も国家に一元化させる。 法の支配なんてどこにもあるじゃねえか、ってのはそのとおりだけど
始皇帝の法家思想はその徹底にある。法の下の平等・・まさにこれだ。
その後の支那世界はこの法家制度から脱出することはできなくなった。
それほどまでに法家思想は重要な概念。ちなみに科挙はこの法家制度の範囲内での
人々の信用の数値化みたいなもので、対して投票制度は民意の数値化である。
儒家が主張した「民意による支配」は結局支那では実現せず、
あの宗教狂いの西洋で実現したのが面白い。もし儒家の支配が成立していれば
民意を可視化・数量化するために投票制度を用い、市場の動向もまた
民意の一部として扱い、政治の介入をあまり許さない方にでたかもね。 宗教と政治の分離を徹底的にやったのも法家だね。
カエサルのものはカエサルに、より成立が早い(ハムラビ法典が
より起源だと思うような気もするが)。
さらにこの法家思想から脱出できないという論の傍証として
現在の中共が「人々の信用を数値化する」と言い始めたことだ。
これはまさに科挙の精神と同じで、被支配者の等級付けである。
まったく始皇帝の時代から変わってないのに驚く。 被支配者になっている内は儒の彼我対等論に与するのに、
支配者側になると打って変わって法家の専制支配に偏るのが
支那人の性質だよね。なぜ支那の支配者は頑なに儒家が主張する民意による
統治を退け続けるのか・・まったく分からない。 >>419
儒家は儒家で別に相手を尊重しないのだが
貴方の論って思い込みとかが先にあって論理的じゃないよね >>418
フビライがつき 永楽帝がこねた天下モチ
座ったままで喰うは満州人
ってとこだな 元と清の国家規模と比べたら、明は「第三次南北朝時代の南朝政権」と位置づけるべき大きさ
まあ、それを言ったら、北宋なんかもっとそうだけど >>423
へー相手を尊重しないのが儒なんだ。その根拠は? >>426
儒家ってどんな学問?って言われて孔子の答えは「名分を通す」
尊重するのは「相手」じゃなくて大義名分ですよ >>428
論語
他にも「政治家として招かれたら何をする?」と聞かれると
「真っ先にやるのは名分を正すこと」と答えてるように
儒教ってのは相手じゃなくて理想を尊重する 理想に合わせて正すのであって正すから理想なのではない
そういう論理的な逆転を起こしてはいけない 韓国の大統領も、「歴史を正さなければならない」と言ってたな
未来から遡って過去を変える
量子力学みたい >>431
理想に合わせるだって?何の話だ。
孔丘が言ってるのは腐敗役人や悪徳商人による
数字や名称のごまかしを
まず正すべきだ、施政はそこから始まると
行っただけなのだけど 儒教というのは非常に身近なものから大事な倫理道徳を説くので
一神教みたいに「神が」という便利な言葉で殺人も強姦も
正当化しないし、自分の行いをあたかも神が代理するかのような
責任逃れもない。ただそのかわりあまりにも身近すぎるので
いきおい現金的な生き方になってしまい、極大までその考えが
進むと「俺とその家族しか信じられない」という視野が狭く
志の低い人間になってしまい、まとまりが無くなってしまう。
その考えがかの連中の町並みにもっとも現れてるのだと思う。
周りと合わせて力を統一するということができないよね。 対して自分の行いや考えに必ず「神」を主語にするのを忘れない
一神教の連中は常に大きな事を考えている。そして聖書を読めば
分かるけど殺人と略奪と自己正当化ばっかりでうんざりする。しかも
自分がやられたことだけは忘れず、常に被害者として振る舞い、
征く先々の虐殺を正当化する。こういう生き方をしてればそりゃ
自分が信じる神様は絶対の力を持ってないと駄目だよね、他の勢力からの
復讐を受け付けないくらいに。だから一神教の連中が
異教徒への暴力を振るえば振るうほど、ますます一神教の神は強く、
聖なる存在になっていく。まずは相手の存在を認めましょうという
儒教といきなり「俺だけが正しい、俺以外は絶滅だああああああ」って
一神教のやり方じゃそりゃ合わないよなあと思う。 あ、これは中共がいつもアメリカなどの一神教帝国に言う言葉だね
「あなた達は自分以外に人はおらず、自分以外の価値基準を持つものは
絶滅の対象としてしか見ない。自分の考えを押し付けるのではなく、世界の
価値基準、考え方の多様性を認めてみては」という。
まあ一神教の派生である共産主義が何を言ってるのという話はとまれ、
正しい指摘だと思うよ。 >>433
具体的にはどの文章が貴方の主張する意味になってるの? そこまで出せっての?面倒くさいよ流石に
論語なんてそこら辺に訳書があるのだから自分で調べてみたら >>438
そこらへんにあるならコピペすりゃええやん
まあ孔子さんそんなこと言ってないんですって素直に認めなよ
お前さんの主張は論拠なきゴミだってさ https://kanbun.info/keibu/rongo1303.html
この辺見ると大義名分を重視するとは言ってるけど
役人とか商人の誤魔化しがどうこうなんて話はないよね
>>434
孔子や儒教は神ではなく仁とか義とかそういうもので代替して正当化してるし
放伐を理論化もして天命さえあれば一神教同様とんでもねぇ攻撃性発揮するけど?
貴方本当にちゃんと調べてます? ああなるほど、大義名分のことか。俺はまず名称を正しくせよ(羊頭狗肉の
類を正す)のことを言ってるのかと思ったよ。
そして仁義で正当化はそのとおりだが、まずそれにはこちらが
相手を認めて対等になってから、のことだよ。最初から異教徒というだけで
虐殺に走る教えとは違うよ? 神様が異教徒は皆殺しにしろとおっしゃられた
と
こちらが相手を対等に扱い、それでも相手が不当なことを
してくるのなら、まずこちらに非がないかを反省し、どうしても
見当たらないのなら行動に出る
のが儒だよ
一神教の神と仁義はまったく違う。 >>442
違いますw
儒教って普通に「中原の文化が最高」って言って
そうでないものを拒絶してますけど?
やっぱ思い込みやんけ すげーな
孔子が周に見た夢の如き、偶像化した理想の儒教を勝手に作り上げてる猛者がおる そういや儒教原理主義的だった王莽は匈奴とか北方民族を散々侮辱してたな
あれ別に相手から何かされたとかじゃなくて儒教に基く非漢人差別だから
最初から異教徒というだけで虐殺に走る連中とやってること変わんねー 儒教はあんまり宗教っぽくないけど、やはり宗教であることを忘れてはいけない
儒教の徒にとっての中華は、イスラム教徒にとってのメッカと同じだ
朝鮮人があれほど中国に対して低姿勢なのは、宗教的な感情が入っている 一般的な日本人にとっての中国史は、「菅原道真の遣唐使廃止」から後が空白
そこから現代までワープしている その遣唐使廃止にしたって、「日本はもう、中国から学ぶことが無くなりました」という、一種の政治的なイデオロギーというか、建国神話みたいな漠然としたイメージで捉えられている
当時の中国は、黄巣の乱で極度に治安が悪化し、各地で外国人虐殺が起きていた
十年後に唐は滅亡する
「もはや学ぶものが無くなりました」とか、そういう問題じゃなかった気がするのだが(笑) >>448
菅原道真遣唐使廃止を建議 894年
南詔滅亡 902年
唐滅亡 907年
新羅滅亡 935年
渤海国滅亡 926年
平将門新皇を称す 939年
藤原純友が摂津攻撃 939年
京都の各所で放火 940年
律令制諸国家が次々と動揺、崩壊する時期だったね。
日本も危なかったが、うまく王朝体制を切り替えたのだと思う。 >>443
誤解も甚だしいな。
それならなぜ夷にも徳があればそれが君主と
なれると言うんだい? >>451
それは、「夷には徳がない」というのが当然の前提だから >>451
清の雍正帝がそうやって反論してたよね
つまり当時の漢人の儒者はそうではないって思ってたってことだね
儒者を良く知らずに騙る孺子ワロス
そして清朝って近代の荒波にぶっ倒れちゃったけど儒教の軛から抜け出そうとした
立派な王朝だったんだなぁって雍正帝の大義覚迷録読む度に思うわ
中盤以降、漢人に振り回されて失敗してしまったのが惜しい王朝だなぁ 清の雍正帝は、「満州が夷狄なら、周も西戎か?」と言って反論した 清では、儒学にイデオロギー色が薄れ、実証的な文献研究が主流になった
脱・宗教という点では、近代ヨーロッパに比すべき変化だろう だが、20世紀になって、またイデオロギー国家に戻るチュウゴクであった。
始皇帝以来のループ国家の面目躍如である。 >>453
そもそも周王朝自体が西域から来たガイジンなわけだし
その前の殷もまた西域から来たガイジン
その点で周を理想としてる中国人という言い方はあったとしても
土着の中国人などまったくいないのだ
このあたりが彼ら華夷序列思想に凝り固まっている連中の限界なのだな これまでの話を参考に>>1を改定しました。
● 〜前漢文帝没(BC157)
<この間 1016年間をカット>
●唐懿宗即位(859)〜明弘治帝没(1505)
<この間 217年間をカット>
●清雍正帝即位(1722)〜 現在
というわけで、合計1233年分の減量に成功しました。
【中国史ディレクターズカット版の5大特色】
@中華文明の最盛期である宋・元王朝の勃興から滅亡までを完全網羅
Aさらに産業革命の一歩手前までに経済発展した15世紀を追加し、倭寇・勘合貿易・琉球王国等、日本史に大きな影響を与えた東アジア海洋帝国の全貌にも迫ります。
B呉楚七国の乱と黄巣の乱を置き換えることによって、千年間のグダグダを排除、効率的に中華帝国史を学習できます。
C明と清を一つに合体させることで「北京帝国」の構造がよりクリアな「見える化」に成功。 中国共産党の内外政策と目指している方向がしっかりと理解出来ます。
Dマニア好みの雍正帝を初回限定盤のみ詳述。(次回版から「乾隆帝即位〜現代」となります。) なるほど、唐末から明の前半までは復活させるのか(笑) たしかに、唐宋変革期とモンゴル帝国をカットするというのはなあ
一番、変化が大きかった2大ポイントだけに 日本でいえば、平安末から鎌倉初期までの、貴族社会から武家社会への変革期をカットするようなもんだよ
たしかに平安時代と江戸時代は似ていてループ感があるけど、役者が違うだろ、やっぱり(笑) 期待に反して良スレ
ところで
「南宋が産業革命一歩手前」
というのが分かる書籍ってなんかありますか? >>463
「南宋が産業革命一歩手前」は、さすがに言い過ぎじゃないかな?
明(それも後期)とか清なら分かるけど 三國志・西遊記・水滸伝は、すべて明代の小説
これらの小説が、漢や唐や宋のイメージ形成に及ぼしている影響は計り知れない
日本人にとって、漢や唐と明が同じように思える大きな原因に、「明代のイメージで漢や唐を見ているから」というのがある 日本人が中国旅行に行って、万里の長城や紫禁城を見て、「やはり、中国四千年の悠久の歴史はすばらしい」と思うわけだが、これらは明代に建設されたもの
ついでに、唐の古都・西安も、廃墟になっていたのを明代に再建した都市 結局のところ、明清のイメージがあまりにも強い
それが、どの時代も同じように見える最大の理由 ぶっちゃけ明清はデカイ山みたいもんでその裏側つまりそれ以前の中国の姿なんて全く分からんよな 中国史という観点からすれば、むしろ清こそ不要じゃね?
政治的には永楽帝と袁世凱の間を削除して双方繋げば十分。
経済史でいえば、嘉靖帝と毛沢東の間をまるっと削除して繋げば十分。 そもそも「中国」は中華帝国、中華民国、中華人民共和国の略号で
地名としては中原周辺を指す狭い範囲だよな
何で清の勢力圏全体が「中国の歴史」になるんだろう >>470
それが、錯覚を起こす大きな原因だろうな
実際のところ、清がウイグルやチベットを征服したのは18世紀のことで、西洋列強がアジア・アフリカを植民地化してた時期と変わらない
勝てた試しのない相手を最終的に屈服させられたのは、西洋伝来の鉄砲の威力によるもの
中国は、これらの地域を「昔から中国の一部だったのであり、侵略したわけではない」という錯覚を起こさせることに成功している >>468
唐の長安は唐末五代の戦乱で廃墟となり、中国の中心は東に移動して打ち捨てられた
現代の西安は、韓国の慶州、日本でいえば奈良の明日香村みたいなもので、当時の文明の断片を残すのみ
昔のことなど、よく分からない ただでさえ、中国の歴史は長すぎて、大昔のことが、それほど昔に見えないという問題がある
日本の奈良時代や飛鳥時代なんて「古代」という位置付けなのに、同時期の唐は中世から近世への移行期だ >>470
日本もロシアに千島列島全部と樺太が日本固有の領土問題だから返せと言おうぜ
なにしろ間宮海峡を見つけたのは日本人だからな >>469
江戸幕府と大日本帝国をすっとばして純粋「日本国」を語ろうとする姿勢だね。
それやると今のチャイナが上手く理解できないことにならんかな?
日本史で言うと明応の政変の後に大正デモクラシーを繋いでしまうような希ガス 鉄砲は支那の宋代に発明されたんであって
白人が起源じゃねえぞ >>463
これも白人至上主義病の日本人の勘違いで
産業革命なるものは英国の一時代の産業様相を以て
基準・起源としてるのであって、よってどの地域もどの世界も
産業革命なるものは英国以前・以後には存在しない
お前たちはバカだ >>459
中華文明ってなに?
そんなもの存在しないよ
支那の文明は常に黄河の西からやってきたガイジンによって
齎された物が多く、独自の文明などないに等しい
漢字、火薬兵器、紙、茶文化などは「去勢と服従」の
支那文化では外に広がって国際市場を制覇することが
できず、みんなガイジンによってモノになったのだし 崩壊したモンゴルの東半分を中華帝国ってなんだよそれ
毛沢東かよ
ところで中原で勃興した文化も文明も必ずそれは現象で終わってしまい、
素材化させて発展させることがないんだなあ。
もし紙も茶も国際市場に出していれば当然カネになるわけで、
カネになればそれが大市場になるわけで、大市場になれば
そこに人が集まるわけで、カネと人が集まればそこを守る
軍隊ができるわけで、そしてカネと人がたくさん集まれば
帝国となれる。中原が一度も世界帝国になれなかったのは
「去勢と服従」の思想が強かったからだろうなあ。惜しいことだ。 なんか支那で発明品が起こると、それを扱うやつの
権力が大きくなるわけで、そうすると支那特有の恐るべき
考え方「秩序(序列)が乱れる」なんていって、そういう
創意工夫のあるやつを殺してしまうんだよな。バカだよねえ >>475
いや、中国の伝統的な政治経済社会って、明ですでに出来上がってるんだよ。だから清を全部削除しても問題がない。
日本の伝統的な社会は江戸中期ぐらいに出来上がるので、江戸時代をまるごと削除するとイミフになる。
でも、松平定信からペリー来航まで削除してもさほどの問題はない。
中国の場合、日本史でいう化政期のダラダラ区間がはるかに長いんだよね。 清って、満州国家・北アジア国家としては大変に興味深い存在だが、
中国史としては本当に代わり映えがしない。変わったのはヘアスタイルだけw >>465
赤壁の戦いの描写は
実は朱元璋vs陳友諒の
??陽湖の戦い(はようこのたたかい)
がモデルだという話があるね。 映画とか小説に描かれる漢や唐が実は明の「コピー」という見方は面白いが、
現代で市販され、私たちが手にする歴史本に記述される漢や唐が明のコピーつーことはないだろう。
研究者が書いてるんだから。 研究者が明のイメージで他時代を記述してるんだったら、
中国史家というのはそもそも、 >>484
明のコピーとまではいかないけど
明清のフィルターがかかってるかもしれない。
明代から急速に出版業が発達して、
残された書物が多い。
小説類はもちろん、唐詩選も明代に編纂されてる。
永楽大典とか、清代の四庫全書とかで
伝わる膨大な文字資料も
明清の学者たちの手が加わっている。 やたらに清朝を否定したがる奴がいるけど
後に支那が領域国家になるに当たっての領域の基準が清朝時代に大体確定するんだから、現代中国を語る上で清朝はめちゃくちゃ重要だぞ
清朝無視したら台湾やチベットや香港みたいな現代中国の問題を何一つ理解できなくなる >>465
江戸時代の歌舞伎の中の「平安時代」や「鎌倉時代」が
まんま江戸時代、みたいなのが
広範に残った、といことか >>483
大船団を火の海にするなど、火薬の無い時代にはあり得ない 解決済の質問
実際の項羽と劉邦の時代の甲冑と、実際の三国時代の三国志の武将の甲冑と、
水滸伝の北宋の時代の甲冑って本当はどんなものだったんですか?
よく聞く話で「三国時代に関羽の青龍偃月刀は実在しなかった」
などというのがありますし、それに横山光輝さんの三国志を見てみると
疑問に思うのが、200年くらいの中国ってこんな時代に日本の戦国時代のような甲冑なんてあったか?
とか殷周伝説や項羽と劉邦に対しては、紀元前なのにこんなに甲冑が派手すぎるのはおかしいだろ?!
と突っ込みたくなってくる気持ちでした。当時の各時代の実際の中国の甲冑はどんなものでしたか?
画像もあったら教えてください。 ベストアンサーに選ばれた回答
横山三国志のキャラは元ネタがあります。1970-80年代に中国圏で発行された絵物語(一枚絵のイラストと文章の組み合わせ)
の武将達そのままです。原題は失念してしまいました、すいません。
結局のところ、明代に歴史を題材にした小説が隆盛したために、挿絵もその時代のものを参考にしてしまっているんですね。
南宋が元に滅ぼされて明が興るまで100年くらいしかないですが、
明の軍装は元が採用したモンゴル起源のものもそのまま取り入れているので、
北宋時代の水滸伝でも違ってしまっているのです。
関羽の円月刀も明代のものですが、それ以前に鐙(あぶみ)の問題があります。
騎乗する時に足を踏ん張るための仕組で、これが無いと円月刀のような振りかぶるタイプの武器は使えなかっただろうと推測されています(突くタイプの矛や戟はOK)。
鐙の発明は三国時代が終わって100年以上後の北魏時代です。
他の方も紹介されているとおり、近年の中国ドラマはわりあい考証ができています。
三国志だったら、映画「レッドクリフ」がいいかと思います。 火薬は論外だが、紙も気楽に大量に使われ過ぎている。
紙は後漢ではすでに発明されていたが、まだ希少。
羅貫中は、うっかり冊子になった書物を登場させてしまい、さすがに後世の人に修正された。
「レッドクリフ」は時代考証がなされていたというけど、曹操が使ってる陶磁器は、どうみても明の五彩だった。 モンゴル騎馬軍が登場して、機動戦術が革命的に変わった。
さらに鉄砲が登場して、火力が劇的に向上した。
このおかげで、中央の正規軍の軍事力が飛躍的に強くなり、地方勢力を圧倒して、真の統一国家を形成することが可能になった。
中世は、中国の唐、日本の室町幕府、欧州の神聖ローマ帝国に見られるように、帝国といっても実態は群雄割拠で多数の領邦に分かれているというのが普通だった。
ましてや、古代の豪族の連合体にすぎない前漢と、皇帝専制の官僚行政国家である明が同じで進歩がなかったなんてことは、さすがにあり得ない。 >>484
中国史家は清代の考証学の成果に影響を受けざるを得ない。
明の李卓吾のような異端の歴史観にも影響される。
つまり明清文化のフィルターが入っちゃう。 >>492
鉄砲を発明したのは白人のポルトガル人だバカ >>495
え!
唐の飛発が始まりだろう。
ヨーロッパで確認されてるのは14世紀初めのスウェーデンの壺型銃が古いが、
モンゴル、ロシアから伝来と考えられてる。 明にも独自の火器が発達していましたが、西洋のものに比べれば明らかに時代遅れでしたし、その発達は主に大砲が主体でした。
小銃も存在していましたが、西洋式の火縄銃とは雲泥の差がありました。
もちろん明にも日本より早く火縄銃は伝わっていましたが、ほとんど装備はされていません。
そして当時の大砲は攻城戦には有益でしたが、野戦にはあまり役に立つ物ではありませんでした。 火薬が発明されたのは宋だが、鉄砲が発達したのは西洋
明にも独自の火器はあり、攻城戦で城壁を攻撃するのに使われていたが、西洋や日本の小銃のような精密なものは作れなかった 鉄砲が発達したのはオスマン帝国でしょ?
イェニチェリに欧州人ビビってたじゃん。 中近東人は、精密機械がマジで苦手だ
中国人も、中近東ほどではないが、日本人やドイツ人と比べたらそれに近い >>501
機を見るに敏な商人気質なんじゃないか?
意思決定が早い。
一方、日本は匠気質なんだよ。
信頼度が高く、
一途に技を極めようと精進するが、
顧客のニーズに合わないことも多く、
意思決定が遅い。
匠の精神と商の機敏さの両方を兼ね備えれば、
いいんだが。 >>499
趙士禎の「神器譜」だと魯密(トルコ)銃が最も上等としているけど
>>501
うんなわけねえよ
お前が今使ってるパソコンも服も作ってるのは中国人かベトナム人だぞ
つうか今時「日本製品」が日本人が作ってると思ってるのって世間知らずのジジイぐらいだろ >>503
中国やベトナムでは、最終的な組み立て工程をやってるだけ
精密な部品については、彼らが作るわけではない 嚕蜜銃(ルーミー銃)
16世紀、オスマン帝国(嚕蜜国)から中国の明朝にもたらされた鉄砲。朝鮮半島での日本軍との戦争を契機として明朝に採用され、同国の辺境防衛などに投入されて威力を発揮した。
時あたかも日本軍が朝鮮半島に侵攻。これに対抗する明・朝鮮両軍は日本軍の装備する鉄砲に苦戦を強いられていたことから、
明朝では日本式鉄砲に対抗し得る新式火器の導入が検討されていた。
このような情勢を背景に、趙子驍ヘ同年、倭(日本)の鳥銃(鉄砲)を破りうるものとして、「番銃(諸外国の鉄砲)」の採用を政府に建議。
趙子驍ェ導入を建議した兵器の多くは、明朝に採用されることはなかったが、その中にあって嚕蜜銃は高い評価を受けていた。 ウルバン砲(ウルバンほう)は、オスマン帝国が1453年のコンスタンティノープル攻略戦で使用した大砲。
「ウルバンの巨砲」とも呼ばれる。名前は開発者である15世紀のハンガリー人ウルバン (Orban) にちなむ。
ウルバンは当初東ローマ帝国側に大砲を売り込んだが、拒絶された(しかも牢獄に送られた)ためにオスマン帝国に与したと言われている。
・・・多くの欠点がありながらも、その破壊力によってコンスタンティノープル攻略に多大な貢献をしたことは事実であり、後世にその名を残すことになった。 >>504
ニュースとか新聞とか見ないタイプだろ
産業の空洞化って知ってるか?
企画や製図は出来ても図面から実際に部品造ったり組み立てるノウハウもった人材が国内にいなくて問題になってるんだが >>508
それな
メガネのフレームとかまさにそんな感じ
仕方ないのでdesigned in japanと書いてお茶を濁してるけど >>508
「中国やベトナムでは、精密な部品を作っていない」とは言ったが、「日本で作ってる」とは言ってないだろ 先進国が工場を他国に移転したら、中国の製造業は終わり 中国は、基本的に南の暑い国だ
経済の中心は上海とか広東省 北京は政府系機関が集中してるから繁栄しているのであって、首都じゃなかったら衰退する
国土の均衡ある発展のためには、北京を首都にしておいたほうが良い もしも広東省や福建省が独立国だったら、大航海時代に、スペインやポルトガルのような海洋大国になったのはまず間違いない
北京に支配され、海禁政策で押さえつけられているというのは、欧州に例えれば、ロシアが天下統一してモスクワが首都になり、スペインやポルトガルを抑圧しているような状態だ
結局のところ、それが欧州と中国の歴史的な大逆転につながった お前の恋人、白人男性を褒め称えるスレじゃないんだから
蝶々夫人は黙っとれ
支那は独立しようがすまいが発展などしないよ
去勢と服従の民族性がある限りダメだな
欧州は運がいいことに教会勢力も封建領主も十字軍あたりで
ずっこけてしまい、民間の勝手な勢力が強くなった
対して支那というか東アジアは常にお偉いさんの支配しか
受け付けないので、独立する勢力などありえない「次の
ご主人様は誰ですか」だ。
こんな地域に何が出来るんだよ 東アジアは去勢と服従の精神が遺伝子の次元で張り付いており、
創造・進取ということが出来ない。
彼らは始皇帝以来ずーーーーーーーーっとお偉いさんに服従するような
政治制度しか持てなかったではないかその証拠に。
欧州人みたいな知恵と勇気はない。
これからも欧米人は一人勝ちだと思うな。 だから東アジア女性は白人男性とだけ混血するんだよな
男を感じるのだろうなあ
自分の母親にしかモテないような生き方しか出来ない
東アジア人男なんて気持ちが悪いもん 欧米人が「東アジアの男性に生まれるのは最大の罰ゲーム」とは
よく言ったものだよな。こいつらって何のために生きてるんだろ?
ある中国人が言ってたよ「俺たちの歴史に誇れるものはなにもない」と。
紙とか火薬とかあるでしょ、なぜって訊いたら「そんなの俺たちに
何の利益ももたらせてない。俺たちの歴史はただ支配者と外人に
殴られるだけで、結局何もいいことなどない」と。 >>524
ベルサイユ宮殿より、紫禁城のほうが遥かに立派だ
比べ物にならない >>524
それは、シナの話であって、東アジアではない
東アジアには、モンゴル帝国の世界征服という栄光の歴史がある 古代 西ローマ帝国滅亡まで 西晋滅亡まで
中世 東ローマ帝国滅亡まで 大元滅亡まで
近世 神聖ローマ帝国滅亡まで 清滅亡まで
近代 ロシアンローマ帝国滅亡まで 毛沢東死亡まで >>527
清滅亡までは引っ張りすぎ
アヘン戦争あたりは、確実に近代史と思われる 18世紀において、確実に近代国家といえるのは、イギリス・フランス・オランダ・プロイセン・ロシア・オーストリアあたりか
ロシアを入れるとなると、清とオスマン帝国も入れていいような気がしてくる 1792年に訪清したジョージ・マカートニーの日記をみると清朝は軍事や医術、機械工学を除く科学技術が西欧よりも劣るものの
総じて平和で豊かな国として描かれている
ところが半世紀後に訪れたシュリーマンやクライトナーになると一転して嘗ては壮麗であったであろう廃墟が目立つ街並みと
異様な数の乞食たちみたいな記述が目立つ
この間に何が清朝にあったのか教科書ではろくに説明がされてないと思う ハインリッヒ・シュリーマン『シュリーマン旅行記 清国・日本』
石畳の断片、瓦礫となった下水渠、壊れた軒蛇腹、塑像、石橋……北京の街のそれらすべてが、いまや荒廃し堕落した国民を表していた。
現在では二階建ての安っぽい家、汚れきって、首都の道路というよりは巨大な下水渠のような通りに、かつては偉大で創意に富んだ人々が住んでいたのだ。
舗装され、清潔な見事な道路、大邸宅、壮麗な宮殿があったのだ。
もし少しでもお疑いなら、北京の堂々たる城門や城壁を見るがいい。 江戸時代に下水道があったというのはよく聞く話だが
清の「下水渠」とやらはいつ頃からどれぐらい普及していたのか? モンゴルは北アジアという分類
モンゴル人は女々しくて謀略ばっかしてくる中国人が大嫌い >>531
権威よりも実証を重視し、宗教より基礎研究を
重んじる国家であろう
民主主義がどうのこうの、というのは
欧米人の独りよがりな価値基準にすぎないので意味はない
そういう意味で支那は始皇帝の時代ですでに近代国家であった
本人が怪しげな水銀を飲んでたから馬鹿というのは、
先進諸国も怪しげな健康法で銭を失っているのと同じで
評価を落とす要素にはならない。 漢代になり儒教を国教にしてしまってから
支那世界は終わりの始まりとなる
このクソ思想と法家制度が合わさって人々は家畜と同じように
なってしまう(なおこの時代は孟子の教えは危険思想と考えられて
封印されていた。彼の思想が許可されるのは宋代以後)。
儒教と法家とはなにか?というのなら
あの東アジア特有の異常な停滞と保守、心のこもらない
権威的な礼儀作法などを思い浮かべればよい 同じくキリスト教によって停滞していた欧州は
自らの手でその軛をときはらい、世界を征服した。
しかし東アジア人は彼らのように自らの手で
儒教や法家思想の軛を脱してはいない。
去勢と服従―
この民族性がある限り中国人が嘆く「支配者と外国人から
同時に虐められる」という状況はなくならないであろう。 >>536
>権威よりも実証を重視し、宗教より基礎研究を
重んじる国家であろう
清がそれだな。考証学は、現代の文学部がやってるような実証的な文献研究。
儒教は、脱宗教が進んで近代化した。 へー
清朝が近代化ねえ
それならなぜ英国軍が襲いかかってきたときに
女の小便を以て迎えるようなことをしたんだい?
おまえはバカだ >>534
日本ていう地域は典型的な田舎者国家で
その時時の強い国家の風俗をモノマネするんだな。
清朝までは支那の、清朝がアヘン戦争でボコされてからは
欧米の、それぞれの文化を模倣しモノマネしている。
よって支那人からみたら日本の文化を調べることで
支那の文化のよすがが分かるらしい。
そのうち欧米人も日本の文化を調べることで
欧米の伝統文化を再認識できるでしょう
カステラなんてまさにそれだしな
「女は何にでもなれるが自分になれない」西洋のことわざ じゃあルーズベルト大統領の呪殺作戦とか本気でやってた戦前の日本も近代じゃないな 清朝は、人頭税を廃止する代わりに
アヘンを朝廷の専売にして
これに高率の間接税を掛けた
税の安定化と愚民化を兼ねた政策であった
清は所詮、女真族の植民地の国である >>520
イタリアの都市国家みたいに、小国に分裂している地域も必要 >>532
いつ日本と中国が逆転したのかというのもきになる >>541
>よって支那人からみたら日本の文化を調べることで
支那の文化のよすがが分かるらしい。
それは、そういう理屈になってるだけだ。
朝鮮人などは、法隆寺をまねて「百済時代の寺」を建てておいて、「韓日の文化は兄弟のように似てるニダ」と言い出す始末。
実際のところ、唐や新羅の文化はほとんど残っていないのだから、日本と似ているかどうかも判断できない。 日本は、欧州に例えれば、フランスみたいなものだ。
ギリシャやローマに比べて、歴史的なデビューは遅いが、東洋において傑出する文化国家なのは確実。 ドイツ=製造業
イギリス=金融業
フランスは文化しか誇るものが無い
日本もそうなるのか >>542
今だって日本が近代国家と言えないのは皇族がのうのうと生きてるのと、
原発事故などのどうしょうもない処理、「平和とか憲法9条を守れと唱えると、
物理法則が変わってミサイルや核兵器が消滅する」なんて
本気で考えてることから、誰だって
わかるでしょうに。 日本が近代国家となるには権威でしかない皇族の根絶やしと、
第二次大戦で日本を滅ぼした旧日本帝国軍幹部を日本人の手で裁き、
東京軍事裁判という茶番を無効化し、何らかの結論を出すこと、
そして米軍を追い出すし、主権を持つこと、
でせう。
まず出来ないことだが、欧米は出来たがね。今の日本よりも
もっと立場が悪かったが。 英国は未だ王室があるじゃねえか、なんて見当違いのみかたをする人が
いるけど、彼らは一度でも大きな戦争での敗北に自国民を晒したことがない。
というか、自国が他国に征服されたこともない。英王国は納税とそれに
まつわる義務を立派に果たしているから追い出される必要がない。
アメリカの植民地支配を隠すためのに存在してる天皇なんてのとまったく違う。
英王室は世界最大の権威。 >>546
日本が支那を追い越したときは一度だけ。
それは辛亥革命後の大陸無政府状態のときだ。
それ以後、中国は主権の回復、戦勝国連合入り、
さらに核保有。日本が追いついたなんてときは
ない。何を勘違いしてるの?お前たちはホンコンに
過ぎないんだよ大英帝国植民地の。経済に特化して
アメリカ様の為替操作のために何万人も
経済難民が発生し、自殺しておいて
ときの総理が「アメリカ様がいないと日本は
何も出来ないんです」だぜえ?主権国家と言うより
なんというか気持ち悪いっつーの。消えろこの世から。 あなたは何のために生きているの?
白人「この世に生まれた俺というものを表現し、
世界に今までなかったものを創って遺したいよ」
東アジア人「お偉いさんに服従し、テストでより高い点をとって
将来は官僚になって現状を誰よりも維持します」 中国文明の最盛期が元代というのはガチ。 編集ではここは外せない。
復活折衝で入ったのは良かった。
このスレで意外だったのは、唐の前半期(初唐・盛唐)を外すことに異論が無かったのは
皆さすが。 元はモンゴルの植民地だろ
中国文明ではないな
南宋が滅んだ事によりイスラムの高い技術がシナ大陸に流入したけどな
一方欧州では1453年にコンスタンティノープル陥落とグラナダ奪回(レコンキスタ)
によりイスラムの技術が手に入った。因みに同年英仏百年戦争が終結 「東アジア」という観点からすれば、モンゴル帝国が空前絶後の繁栄なのは間違いないが、「中国」というナショナリズムをもってすれば、そうは言えない
朝鮮人が、日本統治期の繁栄を否定するのと同じだろう 郭侃率いるモンゴル軍の漢人軍団がユーラシアを席巻したのだから充分「中国というナショナリズム」を満足させることでできるだろう
これと前後してマドファという明らかに中国の影響を受けた火器がイスラムやルーシで使用され始めるので世界史的にも意義がある 南宋戦にも積極的に携わった郭侃なんて中国人からすりゃただの漢奸だよ 明や清は鎖国志向で、海外貿易を制限しようといつも必死だったが、モンゴルは極めて開放的だったため、貿易が空前絶後の繁栄を迎えた
この時代に、北京や広東省・福建省といった沿海部が、内陸部に決定的な差をつけて現在に至る モンゴルは、天津から北京まで大運河を引いて、北京に海港を作った
イブン・バットゥータも、海路から北京に入ったようだ ガイジンに征服されないと何も出来ない文明って笑えるね 日本に例えれば、
「北海道からアイヌ人が攻めてきて、日本全国を平定しました。
それまでの日本の首都は京都でしたが、アイヌ人は、青森に巨大都市を建設して首都を移しました。
以後は、青森が繁栄して、京都はすっかり寂れました。
今も、日本の首都は青森です」
というような話。
どうみても、これが歴史上で最も重要な事件であり、これを境に、歴史を前期と後期に分けてもいいくらいだ。 もちろん、これは例え話であって、青森県にはそんな巨大都市を作れるほどの土地はないのだが もっとも、北京に関しては、モンゴル以前の金の時代から、巨大な世界都市だった >>567
意外なところで英国と同じなのが笑える
だが英国は勇躍して世界を征服したが
支那人はいつまで経ってもお偉いさんとガイジンに
殴られるだけの哀れな存在 征服王朝って何を以って外来って言うんだろう
例えば女真の金は外来だとしても、その後北宋を滅ぼして、また中原と一緒に元の支配下に入って、そのあとまた中原と一緒に仲良く明に支配されて、
そのあと後金として中原を支配した時点の女真って言うほど外来か?
五百年以上行動を共にしてるぞ 一口に女真や女直と言っても部族一杯あって
明と関係あったのなんて一部やぞ >>570
「モンゴル帝国の支配下にあったから外来ではない」なんてことを言い出したら、それこそ「世界は一家」になるぞ? 島国の日本では考えられない話だけど
大陸国家では基本的に外来王朝のほうが普通だぞ
スペイン、ポルトガル、フランス、イタリア王家はゲルマン人だし
ロマノフ家ももとはノルマン人でロシア人ではないからな >>574
それらは、中国と違って国民国家だ
中国は、帝国なので同列には語れない 「国民国家」の意味わかってる?
例えば中世の南フランスとか一つの都市がアラゴン王国や神聖ローマ、フランス王国に帰属してるとか当たり前だったし
外部との交流が近代に入るまでほとんどない閉鎖的な日本が特殊なだけで
近代入るまでどっからどこまでが何人かどの国の領土か何てどの国も基本的にグチャグチャだったぞ 「アングロサクソンの大移動」の話をして、イギリス人が怒り出すことはない
だが、シナは民族大移動の話を隠したがる傾向がある 古代ブリタニア人が絶滅して全員アングロサクソンになりました
とか言ったらイギリス人も否定するだろうよ
日本が鎖国過ぎるだけで諸外国は断続的に常に外部からの移動があるのが普通だから >>573
一部だけ切り取るなよ
元の後も前も中原と同じ圏内だったって言ってるだろ >>579
同じ圏内なら、なんで明は万里の長城を建てたんだよ? >>574
スペインはバスクのナバラ王国が起源じゃないの モンゴル帝国期は荒廃していた万里の長城を、明は再建した
満州と北京との境界線は、とくに重点防衛地域だった
ヌルハチの騎馬軍も、これを越えるのは大変だった >>576
> 外部との交流が近代に入るまでほとんどない閉鎖的な日本
中華文明圏自体がそうなんだよな。
モンゴル経由でしか外の世界とまともにつながっていない。
陸の孤島ならぬ大陸の半島。
まして日本列島となると西の辺境にたどり着くのがやっとの絶海の孤島だった。 >>583
意味不明過ぎる
明の万里の長城ってそれ秦の始皇帝の長城とかと比べて
大分南側に建設されてて再建じゃなくて新築やぞ 韓国の反日行為は知っての通り、
すべて中国共産党が脚本を書いて命令している。
そしてその中で必ずこういう要求をする
「天皇を謝罪させろ」と。
どうして彼らはこれにこだわるのか?
この行為が中国共産党やその走狗の朝鮮にとって
何を意図してるか分かる人は、
結構東アジアの文化に詳しい人 >>581
現王室はブルボン家だしフランスから入ってきた余所者だよ
というかヨーロッパはどこもそうだけどね >>584
「まともに」つながっていない
の意味がよくわからんが、要は征服したりされたりを繰り返す関係性というのをいいたいんかね? >>585
だから言ってんじゃないの
明の万里の長城は、満州の脅威から北京を防衛するのが大きな目的であり、秦のとは大きく異なる >>590
だから再建じゃなくて新築
追い込まれた状態で新しく境界線を引き直したのであって
再建という表現は全く間違ってるだろ 明朝は永楽帝の頃から長城より向こう側の瀋陽を中心に遼東都司を設置して開発してたんだから、長城は国境でもなんでもない
明の武将李成梁がずっと治めてたんだぞ
ここらが完全に明の支配から離れたのはその李成梁が支援してたヌルハチの時
でそのヌルハチが中華を統一したんだから、中華と満州地域が完全に分離された時期なんか無かっただろ >>592
呉三桂が山海関を開いて満州軍を内地に入れたことが、「中国史上最大の裏切り」とされているんだぜ? 歴代漢奸ランキング
1位 秦檜
2位 呉三桂
3位 汪兆銘 >>593
そうだね
それまで漢族が満族を治めてたのが逆になったわけだ
どっちにしても漢族と満族が同じ圏内で活動していることに変わりはない >>561
イスラムの造船技術が伝播したので
(比較的)安全に海を越えられる丈夫な船が造れるようになったから
それまでは内陸の港が物流の拠点だった >>595
治めてないので女真人は金の崩壊以降ヌルハチの統一まで内訌繰り返してたんやで チャイナマンの「治めていた」なんて話は全部眉唾だよ
彼らによると2000年前から東シナ海を支配してたそうなんだから 中国商人の東南アジアへの進出とか宋代には始まってるし
ジャンク船はイスラム商人の使っていたダウ船と根本的に構造が違う
日本でも鎌倉時代の寺社が保有していた唐船はその名の通り中国のジャンク船様式だったのだが
中国からそのまま購入していたので造船技術は伝わらなかった 應仁の亂に就て
内藤湖南
今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山です。
それ以前の事は外國の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、應仁の亂以後は我々の眞の身體骨肉に直接觸れた歴史であつて、これを本當に知つて居れば、それで日本歴史は十分だと言つていゝのであります 「応仁の乱より前の日本史を勉強したところで、今日の日本を考える上では役に立たない」と内藤湖南は言った
日本に限らず、どの国にも、こういうことは言えるだろう
英仏だったら、やはり、英仏百年戦争より前のことをいくら考えたところで、あまり意味はないだろう
中国についても、このようなことは言える 「中国の脅威というが、中国が日本に攻めてくるはずはない」と、左翼や朝鮮人の爺さんたちはよく言う。
それは人それぞれの信念の問題だから、他人がとやかく言ったところでどうにもならないのだが、問題はその根拠だ。
「漢も唐も、日本に攻めてこなかった」
「これを見れば、中国が日本侵略など考えていないことがわかる」
という理屈を、大マジメに唱える人がよくいる。
いくら爺さんたちでも、それはいかがなものか。
同じ時代、つまり、弥生時代や飛鳥時代の遺物をどれだけ見ても、日本が中国に攻め込むような気はまったくしてこない。
だが、現実に日中戦争が起きたではないか(笑) 実際のところ、「現在の中国が、どうしてこんな国になったのかという経緯を理解するために中国史を学ぶ」
というのなら、いつの時代から始めるのが最も効率が良いか。 個人的には、中華帝国の歴史をフビライ・ハンから始めてはどうかと思う コイツの頭の中では日中戦争は中国が日本に攻め込んできたことになってるのか >>601
中国人は日本人が春秋戦国時代や三国志など古代にばかり興味を持つのを不思議に思うらしいね
中国人は自国の歴史だから今の中国と直接繋がってる歴史を知りたいので、日本で例えると応仁の乱以前の歴史を日本人が勉強したい理由が分からんのだろうなあ
一方、日本人は今の中国より日本に与えた昔の中国の方に興味がある人が多いのかね いわゆる中華らしい文化が完成した唐宋は外せないと思う
唐宋代で中華が完成したから元や清や西洋列強に侵食された「中華を取り戻す」っていう歴史的目標ができた
元から始めたら明の行動理論が見えてこないだろう >>603
それならヘーゲルから始めてマルクス、レーニン、毛沢東と進めれば十分 >>606
日本では、諸葛孔明や関羽・張飛なら誰でも知ってるが、明の劉伯温や徐達のことは誰も知らない そりゃアメリカ人だってゲイシャ、パンパン、オマンコ、ヘンタイ
くらいしか日本を知らないのと同じだろ >>607
チャイナドレスもチャイナマン映画で流れる音楽も
アメリカ白人が制作したものですぜ
アジアみたいなオマンコ地域に出来ることと行ったら
売春くらいだろ 中国史は、やはり黄巾の乱以前と以後で大きく歴史の流れが変化している。
新石器時代から後漢までというのは、
やはり「邑」という華北固有の都市国家的な共同体のシステムが
ベースになっている世界。
この段階では江南は華北政権による被征服地でしかない。
ただし、漢代を通じて邑制の共同体社会が豪族の成長に蚕食されて解体に向かっている。
邑制社会の解体が頂点に達したとき、
地球レベルでの寒冷化によって大規模な民族移動が発生。
モンゴリアとマンチュリアの牧畜民の一部が武装難民となって華北に南下、
同時に華北の畑作民の一部が江南の稲作社会にやはり武装難民となって軍事侵攻。
ここら辺のプロセスが、黄巾の乱>三国時代>西晋>五胡十六国の歴史。
ここから、中国大陸全体で歴史に一つの方向性が発生する。
つまり、
・モンゴリアとマンチュリアの騎馬軍事力
・江南の農業生産力
の二つを
・華北という政治プラットフォーム
で如何に統一的なシステムにするか、という試行錯誤が始まる。 >>614に続く
モンゴリア+マンチュリアの軍事力、華北の政治プラットフォーム、江南の農業生産力を
ひとつに統合する試行錯誤は、モンゴル帝国の皇帝直轄領大元ウルスという形で
ようやく完成形をみる。
しかし、モンゴル帝国の政策はあまりにも先鋭的なものであったために、
あたかも日本の織豊政権の「天下統一」のように、「高転びに転ぶ」。
具体的には、
・貨幣経済の活性化が行き過ぎたことによる過剰流動性のコントロール喪失
・銀本位経済膨張がユーラシア大陸の銀保有量を追い越したことによる信用体系の崩壊
・人の動きのあまりの活発化による感染症パンデミック
・14世紀から19世紀まで続く「小氷期」の開始による牧畜経済や農業経済の危機
によってモンゴル帝国の弱体化が起こり、東アジアは北元と大明という危機管理の時代に
適合した政権による南北朝時代を迎える。 >>615に続く
やがて、ポストモンゴル世界は混迷を抜け安定の時代を迎える。
東アジアから西ユーラシアまでポストモンゴル帝国型の中規模帝国が連鎖することで
モンゴル時代のようなバリアフリーの過剰流動性が抑制され、
スペイン王国が新大陸からもたらした銀と日本から輸出された銀がユーラシアに
大規模に供給されることで決済の信用回復が成し遂げられ、
新大陸からもたらされたジャガイモ、サツマイモ、トウモロコシの普及によって
小氷期の農業危機が改善された。
この流れの中で大清国(ダイチングルン)によって、
・モンゴリア+マンチュリア
・華北
・江南
が再び政治的に結合され、東アジアの政治体制は安定した完成形を見る。
しかし、
・高度な金融システムと産業革命によって躍進した英国をはじめとする
西欧のパワーの到来
・銃器の急激な進歩によるマンチュリア+モンゴリアの騎馬軍事力の地盤沈下
によって、この「中華世界の完成形システム」は突然の没落に見舞われる。
と、以上が前近代の中国史のアウトラインになる。 何か勘違いしてる様だけど満州人は農耕民で騎射に長けてるという事以外は漢族とそう変わらないぞ >>617
女真族・満州族は農耕、牧畜、商業的狩猟採集のハイブリッド経済。
対して漢族社会では戦国時代以降、郡県の民を農業専業にして、
農業だけでは手に入らない資材を王朝の管理する山林叢沢からの
専売制で中央政府の収入を確保、という歴史をたどってきた。
それと、西マンチュリアは拓跋鮮卑、慕容鮮卑、モンゴル帝国東方王家領と、
遊牧世界が展開していて、ヌルハチの満州国(マンジュグルン)も
彼らを自国に包摂することで強力な軍事力としてきた。
そもそも、マンチュリアの遼東平原は女真・蒙古・漢族のハイブリッド世界。 >>617
民族としては「満洲人」が正しい表記だぞ
満州人は政治的な意図のある表記だから使うべきではないぞ >>619
「満州人」も「満州族」も、どちらも政治的にニュートラルとはいいがたいというのが実情。
「満州族」という表記には、中国国民党、中国共産党の
「満州族は歴史的に不可分な中華民族を構成する少数民族のひとつであり独立したネーションの主体者ではない」
というイデオロギーがどうしてもかぶってくるし、
「満州人」という表記には、
「満州人は決して中華民族を構成する不可分の構成者ではない」
というイデオロギーがかぶりがち。
歴史学的に中立な考え方をすれば、実はどちらのイデオロギーもある種の「極論」。 >>620
違う、そこじゃないw「州」ではなく「洲」
サンズイを付けろって話
満洲語で「マンジュ」を音写したのが「満洲」
「満」という「州」の人ではなく「マンジュ」という人々なの >>621
あっ!すまん。
主に漢字表記を避けて「マンジュグルン」「マンチュリア」表記を主体にしてきてたから、
変換プログラムの優先度が不適切なままだった。 東北平原は、日本でいえば石狩平野みたいなもので、広大な平坦地だけど、寒すぎて農業生産力が弱い
牧畜は欠かせない
満洲人やアイヌ人は狩猟民族 >>617
「騎射に長けている」という時点で、すでに農耕民じゃないだろ >>619
漢字変換すると「満州」が出てくる
わざわざ一字戻して修正するのは不合理 >>623
満洲人やアイヌ人、ピグミー系諸族(ムブティ人やバカ人)は商業的狩猟採集民で、
農耕もしているが生産性の低さを狩猟採集と狩猟採集産物の交易で補っている。
エスキモー系諸族(イヌイット人など)やハッザ人は
専業狩猟採集民で、農耕不能の地で狩猟採集産物のみに依存して生活していた。
満洲人は農耕だけではなく牧畜もたしなんでいたので、アイヌ人より高い人口密度を
維持できたので、マンジュグルンという国家形成まで達成することができた。 それはともかく、中世と近世で、何が一番違うのかってことを、念頭に置いとかなきゃいけない
日本でいえば室町幕府と江戸幕府、ドイツでいえば神聖ローマ帝国とプロイセン王国の違いだ
室町幕府は、統一国家とは名ばかりで、足利将軍は地方の守護大名との闘争に追われて忙しかった
寺社勢力は強く、奈良は興福寺の領土だった
それと同じような違いが、唐と明にもある 文字の発明から歴史時代の開始(4000年ほど前)→
殷周による黄河文明時代→始皇帝によって長江勢力統一、
法家支配の時代→共産主義によるカルト時代→現在
これでいいだろ
基本的にあんまり変化はしていない
ビサンツなみに進歩がないのう >>625
満洲は特にIMEなんかいじらなくても変換候補にあるよ 藩鎮(はんちん)とは、中国唐から北宋代まで存在した地方組織の名称である。節度使や観察使などを頂点とし、地方の軍と財政を統括した。節度使そのものを指すことも多い。
安史の乱の後、安史軍の根拠地であった河北には、投降した魏博(天雄軍)の田承嗣・幽州(盧龍軍)の李懐仙・恒冀(成徳軍)の李宝臣などの降臣をそのまま節度使として任命した。
内地にも次々と藩鎮が設置されて藩鎮の総数は50を超え、首都長安・副都洛陽の周辺部を除く多くの地域が藩鎮の統治下に置かれる。
裁判権を持たないが軍権と財政権の多く(両税法による税収を除く)を兼ね備えた藩鎮のうち1/5〜1/4ほどは反中央傾向が見られ、
特にその傾向が強い旧安史軍の三将は河朔三鎮と呼ばれたが、彼等も中央政府の与えた官職による威命が無ければ将兵を統率する事は出来なかった。 >>620
戦前の満州国だと、
「満州人(五族からなる満州国国民)」と、
「満州族(女真族)」と、
「満州語(満州語)」を
意図的に混同させようとしてるな 解決済の質問
唐の憲宗皇帝の藩鎮討伐について
憲宗皇帝の藩鎮討伐、統御策について宦官の勢力拡大を踏まえて
簡単でいいので教えてください ベストアンサーに選ばれた回答
分立統治と互いの離反策に身近な宦官を藩鎮の要職に就けることが主でした。
例えば有力な藩鎮でも節度使が死んだり部下が独立を図った場合は中央の朝廷が支援し幾つかに分割してしまうようにしたのです。
さらに隣接している藩鎮は対立を煽り一方を討伐し残りは服属させました。
これらで弱体化させた藩鎮に皇帝の側近に仕えた宦官を派遣して要職を占めさせコントロールさせようとしたのです。
中央の関与が及ばない藩鎮は少なくなりましたが弊害もありました。
弱体化した藩鎮は異民族の侵入や内乱に対応できなくなったのです。
中央の建て直しのために藩鎮の割拠していた地方には重い税を掛け反乱を誘発しました。
宦官の勢力拡大は致命的で皇帝の継承すら宦官らが左右し朝臣を差し置いて宦官が朝廷に君臨するようになったのです。
時に節度使にまでなった宦官もいたほどで任地では私腹を肥やすために苛斂誅求しました。
唐を滅ぼした農民反乱の原因となりました。 >>624
騎射に長けている=農耕民じゃないという理屈がよくわからないが
日本の蝦夷も隼人も騎射が得意だけど農耕民だぞ >>627
鎌倉幕府は地頭のボトムアップの連合政権(荘園・国衙領基盤)。
室町幕府は守護のボトムアップの連合政権(荘園・国衙領基盤)。
戦国大名は一揆盟約体のボトムアップの連合政権(村・町基盤)。
織豊政権は一揆盟約体のトップダウンの統制政権(村・町基盤)。
徳川幕府は一揆盟約体のトップダウン統制とボトムアップ連合のハイブリッド政権(村・町基盤)。
神聖ローマ帝国は部族大公>領邦君主のボトムアップの連合政権。
プロイセン王国はユンカーへのトップダウンの統制とボドムアップの連合体のハイブリッド政権。
初唐は漢族の豪族的世襲名門貴族のボトムアップ連合体を武川鎮軍閥系の鮮卑・匈奴貴族のボトムアップ連合体が支配する政権。
晩唐は沙陀軍閥など、胡漢融合した軍閥の割拠の名目的盟主として李氏皇帝が残存する政権。
明朝は農村の地主的農業経営者と自作農を県城に紐づけて統制支配する政権。 満州族が不満なら今の中国の表記で満族にすればいい
これで満足だろ >>632
×「満州語(満州語)」
○「満州語(中国語)」 満洲語は漢字も使わないアラム系の文字を使った別言語やろ 大日本帝国の属国だった方の近代の満州国では、
清代から入植で入り込んで本来の満洲人を人口的に圧倒していた漢民族を「満州人」、
彼らの使っていた中国語を満州国語という意味で「満州語」と称していたんだよ。 >>635
いくら練習したところで、狩猟民にかなうわけがない
プロとアマの差だ 唐は、都では貴族の連合体であり、貴族の丞相が大きな政治力を持っていた
地方では藩鎮が半独立国
明清帝国のような皇帝専制の官僚国家への道は、まだ遠い 漢から清まで、ほとんど進歩がないように見えるというのは、漢唐を過大評価してるのか、明清を過小評価してるのか、あるいはその両方 >>645
あと、19世紀ヨーロッパの発展段階史観やペルシア戦争以降のギリシア文人著作に毒されすぎて、
発展する西ヨーロッパと停滞のアジア、
男性的で容赦のない民主主義ヨーロッパと、女性的で柔弱な専制アジア、
という手あかのついたステレオタイプにどっぷり首まで浸かっているかだね。 >>623
だから女真族は産業は農耕と養豚を生業とする農耕民族
狩猟は農閑期にするぐらい
李氏朝鮮の使節申忠一が1595年にヌルハチの元へ訪れた時の記録では平地のほとんどが耕地で埋め尽くされ
山頂まで耕されているところもあったということから農業を主体としていたことは明らか
明に売る毛皮を得るために猟に出ることはあったがそれも自前で鉄製農具を作れず購入する費用が必要だったからで
基本は農民 >>647
いやいや、「半農半猟」くらいは言ってもいいが、「農耕民」は無い
そもそも女真族にはいくつもの部族があって、狩猟専門の部族もあれば、農耕もやる半農半猟の部族もある
だけど、基本はあくまで狩猟民 >>647
マンチュリアも非常に広いわけで、地域差も無視できないだろう。
実際、モンゴル時代から女真人、漢人、モンゴル人混在地帯だった上に
新石器時代に紅河文明の栄えた遼東平原のような昔からの農耕適地はあるわけだし、
その一方で、農地開墾の進んだ現代でもグーグルアースで調べてみても一面の森林地帯
の地域だってある。
実際、岡田英弘はマンジュグルンをかなりお互いに文化の違うマンチュリアの諸民族を
ヌルハチが統一したものと表現している。
岡田英弘は中国や日本の古代史に関しては、奇妙な極論をもてあそぶきらいがあるが、
彼の専門の北方史に関してなのだから、この表現には信頼をおいてもいいのではなかろうか。
それに、満洲人の八旗兵は騎馬戦を得意としていた。
前近代における騎兵育成は、
労働を免除された特権階級における幼少期からの英才教育(西洋の騎士や日本の武士)か、
普段の生業労働で幼少期から馬に乗りつけている環境で育成されるかの
どちらかと相場が決まっている。
大帝国の特権貴族階級を獲得する前の八旗兵が前者であったとはとても思えない。
農耕拠点から遠方に騎馬で放牧に行く牧畜も盛んであった地域も多かったと見るのが
自然ではなかろうか。 >>648
野人女真も建州女真も海西女真も基本は農耕民だぞ
せめて河内 良弘の「明代女真史の研究」を読んでからにしてくれ
>>649
残念ながら遺構からも定住農耕民であったことは明らかなんだわ
それと女真族はあくまで騎射に長けた連中が多かったというだけで全員が全員狩猟してたわけでも騎乗出来ていたわけでもない
馬もモンゴルか明からの輸入に頼っていてので騎乗できたのもある程度の資産がある連中だけ 野人女真は組み立て式の木造の家を使って移動していたとか聞いたぞ
そもそもあんな寒いところで農耕民なんかやれる訳がないだろjk >>650
半農半猟ってのは、遊牧民とは違うからな
「定住プラスときどき集団移動民」ってとこだろ それも河内良弘の著書に書いてあるけどな
頻繁に居留地を変えていたのも遊牧民や他部族からの略奪を避けるためで大抵は旧暦の2〜3月に集中していて
逆に農繁期にあたる旧暦の5月〜9月はほとんど行ってないんだわ
また遺構からは猪を大量に飼っていた痕跡が見つかる一方で馬を飼っていた形跡は少ない
庶民の墓からは副葬品として馬具や馬が見つかっていないことから専ら富裕層以外は騎乗の習慣なかったと思われる >>653
狩猟ってのは、馬に乗らなきゃできないもののか?
狩猟民は、騎馬民族ではない
狩猟民と遊牧民を無意識に混同するのは、よくある傾向 >>653
頻繁に居留地を変えるようでは、定住農耕民とは言えない
ただでさえ寒くて地味も肥えてないのに、新たに開墾する荒れ地に種を撒いても、たいした生産力は期待できない
農耕・牧畜・狩猟を複合した、半農半猟民と見るべきであろう べつに混同してないし>>649が女真族を遊牧民と勘違いしてるようなので釘を刺して置いただけ
狩猟にある程度の比重を置いていたことは間違いないが
移住が必ず農繁期を避けていたことや明との交易ではもっぱら農具を購入していたことから
農耕を中心とした社会であったことは明らか だから何度も書くけど遺構からは農具や大量の猪を飼っていた痕跡が見つかるものの
馬具は少なく牧畜民では決してない
戦乱が多く不安定な地域では農耕民もある種の移住性を持つことは珍しくない
伊藤正敏が「寺社勢力の中世」で中世日本の庶民層が集落ごと頻繁に移住していたことを指摘しているが
これをもって日本人は定住農耕民ではありませんとは言えないだろ しかし、ここで語られてる「農耕する女真人」ってのは、遼河の周辺あたりの話だよな?
そこは広大な満州の中でも南西の端にある、農耕に適した唯一の地域
現代の遼寧省も、その辺の地域では農業が盛んだが、それ以外の地域や吉林省・黒竜江省は、大半が森林か荒野だ
途方もなく寒い 沿海州地域の渤海や金代の山城からも農具は発掘されてるけどな >>646
トルコから東の連中男系子孫はギリシャや以西になく、
ギリシャの男系子孫は中東やインド、北アフリカにたくさんいる
集団結婚式をしたからね
ギリシャ人男性を喜んで迎えたらしいよ
東アジアみたいに
だからギリシャの著述は正しい
西の男性、東の女性 遼河周辺ってあんたねぇ・・
明代は遼東鎮の外郭城が遼河をすっぽり包み込んでいたので
あのあたりに女真族が進出するのはサルフの戦いより後だよ
https://zi.media/@yidianzixun/post/EdLFYd >>657
「馬具がない」→「騎馬民とは言い難い」であって
「牧畜民ではない」という話にはならなかったりする
山岳だったりで農耕に適さないところに定住しつつも
季節に応じて移動する生活スタイルは欧州のスイスとかでも見られるけど
彼らは「農耕民」ではなく「騎馬民」でもないが牧畜はするし定住しつつ移動もする形だし
満洲人が定住型の農耕生活に基板を置きつつ狩猟、漁労、交易等
複数の手段で北の厳しい生産力を補っていたという話を否定する気はないよ
ただ、論の展開がおかしいのでちょっと言いたくなっただけ 満州人=騎馬民族という日本人のイメージは多分に満州国時代の馬賊のイメージが投影された結果だと思うんだ マンジュグルンの生産生業が農耕と豚牧畜のハイブリッドってことは、
今気が付いたんだが、西ヨーロッパ型の農牧業から牛酪農を差っ引いた
生業形態じゃないか!
富裕エリート層だけが外部から馬を購入して騎馬戦士になったってところも
西欧の騎士に似ている。 >>662
柳条辺は明代の長城じゃなくて清代に満州人が作ったものだろいい加減にしろ! 遼東長城なら明代からあったぞ
ここによると正統七年(1442年)至成化五年(1469年)にかけて築城されたらしい
http://tc.wangchao.net.cn/baike/detail_2073663.html >>662
それなら、もっと狩猟の比重が上がる
遼河の周辺なら、寒いけど地味が肥えているから、まだ農業で生活可能
それ以外の地域の農業生産力じゃ、どう見ても足りない 満州は広いだのいろんな部族がいただの言うけど人口比はどうなんよ?
支那に近い側で農耕を主にしてた地域が人口のほとんどなんじゃないの? >>664
いやいや、それだけじゃない
清代に中国全土へと広がった満州人の服装や髪型は、騎馬民族の乗馬服スタイルそのものだ
騎馬イメージが強くなるのは当たり前 >>646
西欧と日本は、古代・中世・近世・近代の分かれ目が非常にハッキリしていて、進歩史観のストーリーが描きやすい
それに比べて中国史は、同じくような出来事の繰り返しが多いので、社会の進歩に目が向きにくい その上、中国特有のイデオロギーとして、「歴史の一貫性」を強調したがる傾向がある
民族大移動の話は好まれない 山海関の門を開き後金軍を引き入れたとされる呉三桂の愛剣
2mを超す長大な幅広剣で彼はこれを揮い人馬共に薙ぎすてたとされる
https://kknews.cc/zh-sg/history/aoq82xx.html 女真は農耕では食糧が賄いきれないから漢人との貿易に依存していたときく 女真ヲタが去ったところで話題転換。
さて、始皇帝以前も編集してみようか。
夏王朝から始皇帝の統一まで千数百年あるから、ここも無駄に長い。
春秋戦国スレが大人気のようだが、とりあえず殷周革命から周の東遷まで切るってみるか? 古層の、いわば漢民族のまだ形成されてない時代の中国の歴史で気になるのが
日本列島への渡来系弥生人の集団到来。
かつては紀元前4世紀とされていて、戦国時代の戦乱が原因ではと推測されていたが、
佐倉の国立歴史民俗博物館のプロジェクト研究によって、その開始は紀元前10世紀の
可能性が高いことが次第に受け入れられつつある。
そうすると、渡来系弥生人の到来開始は西周初期にまで遡ることになる。
さらに、古典に依存していた西周研究が、現代では考古学によって発掘された
青銅器銘文に大きく依存するように変化してきており、
西周期が安定した聖人の世どころではなく、西周という王朝が非常に好戦的で
陝西から陝東に打って出て、盛んに華北平原を荒らしまわっていたことが
認識されるようになっている。
また、渡来系弥生人は弥生後期になっても新来者が続々と中国各地から渡来し続けて
いたことが最近は指摘されており、
そうすると、殷周革命から前漢による統治の開始まで、延々と混乱した戦乱の世が
続いていたとみるのが妥当なのではなかろうか。 >>678
渡来人に当時の支那は無関係
遺伝的には朝鮮半島から連れて来られた慰安婦が主体
それは日朝双方の史書に裏付け(新羅から連れて来られた采女、倭が新羅王の娘を要求)がある >>679
紀元前10世紀の西周時代にはそもそも、「支那」も「漢民族」も「新羅」もまだ形成されてないんだが。 >>680
慰安婦とか言ってる馬鹿を相手にするなよ
しかし紀元前十世紀となるとその当時どんな民族があったんだろう
南島祖語が四千年前らしいから一応は存在してるか
タイ語族はどうなんかな >>681
当然、商人、周人、斉人、燕人なんてのは、同じ華北人でも互いに異民族同然だったんだろうね。 >>680
「当時の」という限定用法が読めんのか?
中国史学ぶ前にまず日本語学べやサルゥ
>>681
倭人の倭の字すら出てないぞ
魯の宣公の名が「倭」の文字の初出らしい
尚、殷周の頃には琉球諸島産の貝が出ていて縄文人と交易はあったらしい
その沖縄だがその頃には東北産の土器が見つかっていて日本列島全域が既に船運で結ばれていたそうだ 前漢の統治システムが里の父老に依存していた事なんかを考慮すると、
新石器時代に始まった華北の邑制社会の都市国家的な共同体は
前漢期までは濃厚に残っていて、
それを豪族の民衆支配が蚕食していって、後漢〜三国時代の豪族連合政権
に至っているとみているんだが、
そうすると、春秋期から戦国期への「都市国家から領域支配国家への変化」というのは
具体的にはどういう社会変化だったと言えるのか、
最近はそこら辺に興味をひかれている。
かつて言われた、鉄器の普及による農地開墾の強化というのは最近は否定されているようで、
領域国家への変化がまずあって、その影響で鉄器が普及したという風に解釈されているみたいなんだが、
そこら辺の評価をみんなに聞いてみたい。 農地が拡がって隣の都市国家の開墾地と接する様になったら境界争いが激しくなって、そうなればそれを仲裁する統一政府も必要とされてくるだろう
ターニングポイントがあるとしたらそこだろう
考古学的なアプローチで農地の発展の過程を突き止められないか? >>133
そういえば幕府がいい国つくらなくなって久しいが
明治幕府はいつごろ成立したのだろうか、、、 >>682
そうとも限らんと思うで
日本の弥生時代だって同民族が小国分立のして国取り合戦やってたわけやし
華北の広い平原を同じく民族の部族同士で取り合ってても不思議ではないやろ ということで、グローバルヒストリー風味にまとめると、
新石器時代〜前漢
・華北の邑制都市国家社会の発展と統合
・華北政権による江南社会の軍事的征服
後漢〜宋・遼・金抗争時代
・豪族的大土地所有と民衆支配による邑制都市国家共同体の解体
・県城都市社会と農村社会の分化
・モンゴリアの武装難民の華北侵入と華北の武装難民の江南侵入による文化的人種的融合
・軍事力のモンゴリア、政治プラットフォームの華北、農業生産の江南という機能分化の浮上
・モンゴリア、華北、江南のそれぞれの域内統治の成熟と統一システム樹立への試行錯誤
モンゴル大元ウルス時代
・モンゴリア、華北、江南のシステム統合の完成と急進的システムの一時退縮
大明・北元南北朝時代
・大元ウルスシステムの退縮後の危機管理時代
大清国時代
・ポストモンゴル時代の危機を克服して後のモンゴリア、華北、江南の再統合と長期安定
・火器の急速な進歩によるモンゴリアの武力の地盤沈下
・西欧の衝撃によるモンゴリア、華北、江南の統合システムの解体
中華民国〜中華人民共和国
・西欧発の高度金融産業社会への大清国システムの版図の適合に向けての再編
となると思うのですが、いかがなものでしょうか。 国内の歴史より外務的な歴史の方が勝率が良くて景気がいいのでは? >>689
たとえ戦国時代でも各国の言語はそう大きくは違わない
爾雅や別国方言みたいな辞書類に収録された語や楚辞みたいな地方特有の形式の文章を見ればどれも漢語の範疇に収まってるのが分かる
だいたいあの頃だと雲南にいた民族のシナ・チベット語族の他の言語とまだギリギリ言葉が通じてたレベルだぞ >>691
そういえば、藤堂明保の「単語家族説」時代と違って、現代の漢字上古音再建研究って、
チベット語やビルマ語みたいな他のシナ・チベット語族の語彙との比較研究が重視されているんだよな。 いや楚辞とか地域によって滅茶苦茶違いがあった証明にしかならんだろ
あれ通常の漢文訓読法では読み下せないぞ 少なくとも、楚、呉、越といった長江流域勢力と
華北勢力の言語は異なっていた可能性は高そうだよね。
それと、商の甲骨文語彙と周の金石文語彙では
確か語の修飾法が異なってなかったっけ。 >>693
いや、囃子言葉が挟まってるだけでほぼ普通の漢文だぞあれ
語彙には漢語と違うのが混じってるがあくまでも借用語とかそんなレベル 楚辞というとしょっちゅう文法的には意味のない「兮」が頻出するんだけど
これって語調を整える記号だとか言われてるけど今となっては意味不明だよな
当時はどう発音していたかもわからないし >>696
いやそれはもう既に復元されてる
https://en.wiktionary.org/wiki/兮
無理矢理カタカナに直すと「ゲー」みたいな発音だ そういえば、楚辞と同じようにやはり楚人の項羽の詠んだ「垓下の歌」でも
「兮」は多用されてるね。 「漢民族」の形成期というのは、殷周時代と春秋戦国時代のどちらを高く見るべきなのか、
それによって編集の仕方が変わる。
その辺はどうなのかね? >>699
むしろ、それより後の漢帝国による長期統一によって形成されたとみる方が妥当なのでは? 支那の言葉は黄河文明と長江文明を合体させた始皇帝のときに
発声や字体が統一され、その後しばしば本来の発音や字形を正す
運動が行われたと聞いたがな。
>>699
漢民族?なんだそりゃ
常にガイジンにぼこぼこにされてた時代に適当に造られた概念だなあ。
それ以前は都会(中原)に住んでる人が中原の人、それ以外が蛮族という
扱い >>699さんの「漢民族」という鍵かっこ表記は、まさにこのタームの持つ微妙な難しさを意識したレトリックだと思うけどね。
それはそうと、秦帝国の統一で本当に黄河流域の言語と長江流域の言語が
融合したと言えるんだろうか。
秦漢帝国の段階では華北が江南を軍事征服しただけだからね。
むしろ、魏晋南北朝期になると、モンゴリアの牧畜民の南下と同時並行で、
華北の畑作民が武装難民化して江南に続々と軍事侵攻を始める。
この武装難民の入植者としての側面が六朝文化の経済的基盤になり、
軍閥としての側面が六朝諸王朝の軍事的基盤になっていく。
この華北人の大規模な江南移動と江南人との雑居が、
本格的な南北の言語の融合につながったんじゃなかろうか。 中国語に対する知識が無くて、昨日の中国語問答がちんぷんかんぷんだったので、
ちょいとスレテーマに話し戻してみた。
中共成立までは(あるいは現在もか?)広東語も上海語も北京語もほとんど独立した言語であって、
その差は英語とドイツ語よりも遠く、両者の会話は半分も成り立たないと聞いたことがある。
日本人は漢民族(現代では漢族と呼ばれる)が単一の民族のように思いがちだが、これはユダヤ人やムスリムと同じく、
一つの文化集団名に過ぎず、
始皇帝による文字の統一で作り出された人工的集団と見ることが出来る。漢字は優れた表意文字だから、会話が通じなくても互いの意思疎通は十分に図れる。
こうやって「漢民族」が形成された、とざっくり理解してきたんだが、昨日のレス読んでみると、
どうもそう簡単な話でもなさそうな。
言語と宗教、この2つから「漢民族」の成立についてオツムの整理をしてみたくなっただけでごんす。
>ガイジンマン
このスレ気に入ってくれているようだけど、君のレスはあんまし面白くないよ。 >>703
歴史学者でも言語学者でもないが、
書家の石川九楊なんかは、「中国語」系諸語の成立を、
共通文語に引っ張られて本来は互いに異なる言語だったのが
共通性を帯びるようになった結果じゃないかと発言してるのが非常に興味深い。
ちなみに、石川九楊は、万葉仮名にみられる古代日本語の7母音が5母音に減少したのも、
仮名文字の発生に引っ張られたからじゃないかという趣旨の発言をしている。 漢文はあくまでも書き言葉である
漢文を書いてたからといって、日常生活でどんな言葉を話していたかはわからない
それを忘れてはならない 今でも、中国語のテレビ放送は、字幕・吹き替えが当たり前 中国での研究者の学会発表って、あらかじめ聴衆の研究者に
共通文語で研究内容のレジメを配布しておいて、
発表ではそれをそのままに朗読してアドリブなんてないんだってね。
なぜなら、言語的にも発音的にも共通口語が未成立に近いから。 >>707
学会だとさすがに普通話を話すのではないかな
今ではウィグル人でさえも漢語が出来ないと就職先の無い時代 香港のテレビってたしか広東語と北京官語のバイリンガル放送だっけ >>135
そもそもモンゴル帝国から元になるときの
成立母体が異なるんじゃなかったんでしたっけか
>>686
明治2年(1869年2月11日 - 1870年1月31日)
6月17日(1869年7月25日)諸侯に版籍奉還が勅許される[1]。
となってるから、やっぱ明治二年に成立なんですかね
廃藩置県だともっと遅くなるっぽいです 元は、あくまでもモンゴル帝国が領土を拡げて内中国を征服しただけであり、他の中華王朝とはちょっと違う
百年後、明の朱元璋に敗れたときは、北京を捨ててモンゴル高原に撤退したが、これも王朝として滅亡したわけではなく、単なる撤退だった >>703
巴蜀や夜郎やテンが上古漢語に近い言葉を話していたのか気になる
史書の記録を見ると秦にすんなりと帰順しているし、言葉が通じない蛮とか夷と称される民族は山間部で隙間を縫うように分布していたりもっと奥地にいたりする様なんだが
>>704
うーん
仮名文字はそもそも発生の時点で5母音体系に即していたなんてことはないんだがなー
変体仮名の存在を知らない人だったのかなー? >>713
いやいや、そんなことはない
「漢民族がいつ形成されたか?」というのは、このスレの主旨において決定的な要因のひとつ
なぜなら、「漢民族が形成された時期」をショートカットしてスッ飛ばすわけにはいかないからだ >>714
しかし、夏王朝〜始皇帝の全国統一は長い。全部そのままとはいかない。
どこを切るか、指南してほしい。 議論のゴールを忘れずに。
>>713
満州話よりスレに合ってるよ。あれはちと脱線だった。 「漢人」とそれ以外、という考え方はもう漢代にはあって
僻地の異民族と雑居してるような場所出身の人物で立伝されたりしてると
「漢人」という記述が付くことがたまにある >>715
やはり、邑制の都市国家的共同体社会が残っていた、新石器時代〜前漢という長い期間を分けるとすると、
春秋期前と戦国期以降という区分は非常に重要なんじゃないか。
春秋期前は戦争も戦車に乗った邑の貴族階層が戦力の主体で、
戦国期以降は都市国家共同体の庶民までが動員されて大規模な歩兵部隊が形成される。
社会システムも、春秋期以前は一つの邑なり都市なりが単一の氏族で形成されているか、
複数の氏族で形成されている場合でも、征服者と被征服者の氏族が融合しない、
分離された均質な氏族共同体に分かれている。
ところが、戦国期以降は都市共同体の均質性が敗れて、様々な出自の家父長制共同体の
集合体としての都市共同体、邑共同体が形成されている。 中国史の要約
華北の中国人は絶滅して
北方アルタイ人と置き換わり、
南方に逃れた連中が
現地人と混血しながら辛うじて生き残った。 >>696
その王族だの貴族だのはもともとミャオ族の同族かなんかで、
あとで中国語を話すようになったときもその名残を残していたみたいな感じか? そういえば、楚人苗族同族説と、楚人タイ族同族説があったなぁ。 >>722
20世紀末の、今みたいに簡単にDNA配列を読み取れない時代の日中合同研究で、
春秋戦国の斉の都である臨淄の遺跡で発掘された人骨のDNAを
当時のラフな技術で調べたことがあったんだよ。
その研究のデータで、春秋戦国期の人骨のDNAが西ヨーロッパ人のものに、
漢代の人骨のDNAが中央アジア人のものに、
近世の人骨が現代漢人のものに似ているって結果が出てきて、
当時それなりに騒がれた。
ただ、あの時代の精度では、現代の塩基配列まで詳細に読んでしまう研究と、
どれだけ比較できるかっていうと、かなり怪しいなぁ。 >>723
20世紀末ともなれば、DNAの塩基配列くらい分からないわけがない
100年前じゃあるまいし >>724
その研究が出た時代は、まだそれなりの長さのDNA断片を読むだけでも、
膨大な経費と手間と時間が必要だったんだよ。
この分野は技術の進歩が急なので、ほんの数年の違いで研究精度が段違いになる。
うろ覚えなんだが、確か、この研究だとPCRで増やしたDNA断片を
DNAハイブリダイゼーションで比較したんじゃなかったかな。 当時と比べると、今の「次世代シーケンサー」による塩基配列決定なんて、
まるでSFの超絶未来技術の世界だからな。
今やっている縄文人や弥生人のゲノム研究なんて、事実上残存している全ゲノム配列を
決定しているし、
医学分野だと、検便の1回のサンプルで、腸内細菌全フロラの全ゲノム配列を読み取ったり
なんて事ができる。 >>696
あれは、日本の民謡でいう「ハァ〜〜〜」なんだよ。
楚辞は、感情満載の詞を、秋田民謡のように節を付けて唄ってた。
どこまでも四角四面に畏まって詩を詠んでた中原の詩経とは文化が違う。
項羽の垓下の歌もエピソードもそうで、あれは
虞や〜〜え〜〜、虞や〜〜え〜〜、いとしい〜おまえを〜〜〜、どうすりゃ〜え〜〜〜
と絶望しながら唄ってたということ。 西周時代(紀元前1000〜800)の倗国古墓から見つかったYハプロはO3、O*、N、O3a2、O2a−M95
とあんまり現代と変わらない
まぁ現代の漢族にはこれに北アジア由来のC2も加わってるけどむしろ日本のほうが変動が大きいはず
日本だと弥生時代以前はYハプロはC1a1かD1bしかいなかったのだが今このハプロタイプを持っている男性は本土では3割にも満たないしな 臨淄古人骨の研究が出た当時は、それこそY染色体ハプロタイプの
人類集団ごとの分布や分化史なんて全然わかってなかったし、
ある人骨サンプルからとったDNAからY染色ハプロタイプを決定する
なんてほとんど無理筋要求だったからな。 >>709
中華歴史ドラマで、モンゴル人同士なのに普通話で会話してるのはご愛嬌。
康煕帝だってモンゴル語に堪能だったのだから、
モンゴル族長たちとはモンゴル語で会話してたんじゃないか?
公式場面ではどうだったかは知らないけれど。
中国内のTV放送では普通話字幕が付いてたぞ。
字を読めても聞き取れない人が多いからかなぁ?
台湾の地下鉄案内放送では標準中国語、英語以外に、さらに2つぐらいの言語を使ってた。
何語だったんだろう? >>730
自分で調べてみたら、台湾鉄道案内アナウンスは
中国語、台湾語、客家語、英語だそうだ。 >>731
その四つの放送は法律で決まってる
他に都市部の主要駅では日本語もあるし、東部ではアミ語も聞いた
あとなんかベトナム語とかインドネシア語みたいな移民の言語の放送も法律で義務付けるらしいけどどこにそんな余裕あるのやら >>717>>718
岡田先生、あちこちで目にする名前だけど著書を読んだことないので良く知らないが、
通説として受け取っていいのかね?
おいら、歴史に疎いのでマジに取っちゃうよ。
もう面倒くさいから中国史の始まりを周の東遷からにしちゃうよ。 >>725
確かに、21世紀のIT革命で、ゲノム解析のレベルは飛躍したな >>733
中国というより、モンゴルの専門家で、いわゆる中華史観みたいなものに異議を唱えている >>733
岡田英弘大先生は、モンゴル史とか満洲史の成果は勝れているし、
その立場からの中華中心史観への異議申し立ても、まぁ一理あると言ってもいい。
ただ、一般向けに書かれた中国史や日本史の特に古代史の分野では、何か確信犯的なぶっ飛び方をしている。
似たような側面のある、やはりモンゴル史の杉山正明先生が、情熱のあまり筆が滑りまくったな、
って感じなのとちょっとニュアンスが違って、何か「おまえら愚民はこの程度のものでも食っとけよ」
みたいな悪意じみたものを私なんかは感じちゃうんだ。
例えば、中国史では分裂期、動乱期には実際に人口減少が起きるのと、
王朝が戸籍で掌握している人口の割合が減少するのが重なって、
すごい人口の大激減が起きているみたいに見える現象があるのを、
後者の要因を多分意図的に無視して、前者だけの要因で
戸籍人口が大激減していたように解釈してみせている。
そういうレトリックの積み上げで、岡田大先生は、一般向けの啓蒙書で
魏晋南北朝期の動乱で周代〜漢代の華北人は隋唐までに生物学的にほぼ死滅していて
モンゴルや満州から華北に南下した諸民族の子孫にほぼ置き換わり、
古代以来の華北人の遺伝的子孫はほぼ残っていないとまで極論をぶち上げている。
実際には、正史なんかのデータでも江南に南下した人口が相当あった一方で、
華北に相当の人口が残存していて北方諸民族と混血していることが伺えるし、
Y染色体ハプロタイプの研究でも、モンゴリア系の遺伝子は華北人口に
確かに広範に混血しているものの部分的にしか影響を与えていないことが明らかになっている。 >>737
そもそも漢民族が全滅してたら文明レベルが大幅に後退してないとおかしい
随や唐は日本とは比較にならないほど上だったし 実際には、北魏皇族の拓跋氏一族が華北人名門貴族の女性と婚姻しまくっているし、
その反対の現象として、南朝から北朝に亡命してきた東晋旧皇族司馬氏一族が、
鮮卑系名門貴族の女性と婚姻しまくっている。
支配層レベルで、華北人と北方人がめちゃくちゃ混血しまくっている。 南北朝期に華北人名門貴族が貴族として命脈を保っているってことは、
当然、彼らの生活を支える華北人民衆も貴族層の支持基盤として
生き残ってないとおかしいんだな。 けど漢民族内での大移動はあったし、従来の社会はメチャメチャになっててもおどろかない >>741
うん。
そういう意味で、昔は華北への北方諸民族の南下だけが注目されていたのが、
最近の論文を読むと、同時並行で華北人が武装難民集団を形成して
江南へ武力侵略をかけていることが注目されたりしている。
実際、南朝の政体というのは軍閥の寄り合い所帯の性格があり、
じゃぁ、その軍閥とは何ぞやというと、江南に侵入した華北人の
武装難民集団が成立母体だったりする。 それから、華北で発生した武装難民集団というのも、
江南に南下したグループだけじゃなくて、華北各地を転戦して
群雄として台頭したグループもある事が知られている。
例えば、五胡十六国時代に匈奴石氏の建国した後趙は
漢人(華北人)の冉閔によって滅ぼされ、その時に胡人の大虐殺が起きていて、
かつてはこれを「異民族支配に対する漢民族の抵抗」と解釈する向きが多かったが、
最近はちょっと風向きが変わってきている。
冉閔一族は、実質的には華北人の同郷武装難民集団のリーダーで、
この集団を前趙の石氏一族が取り込もうとして養子待遇で迎えた。
そこから冉閔集団が増長して石氏政権そのものを相続しようと動いたのを
ことごとくはねつけられ、暴発に至った。
こんな風に解釈が変わってきているみたいだ。 >>738
「漢民族は激減」ってのは、華北の話だろ
隋唐は、南朝の貴族文化を吸収したから問題なし ふむふむ。 岡田先生の件は了解。Amazonのカスタマレビューなどで、そのユニークさは承知していたが、
そこまでナイスガイだったとは。
以前 中井貴一がナビゲーターをやってたNHKスペシャルの夏王朝の回が中々面白かったので、
個人的には興味があるのだが、やはり今回はバッサリとカットしようかと思う。
あと2日程 スレ読んでから考えるが、殷周時代も編集する方向で考えています。 申し遅れましたが、>>677 >>699も同じく私、このスレの1であります。 >>746
岡田英弘先生の場合、その純正に学問的に優れた業績を残している部分ではない、
ある程度の意地の悪い悪意が反映していると思しき「啓蒙書での放言」の方が、
「ネトウヨ」ないしそれに準じるような層に大歓迎されて、
「周代〜漢代に偉大な文明を残した古漢族と現代中国の漢民族は文化的にも生物学的にも全くつながりがない」
という言説としてコピペ的に拡大再生産されてきている、というのが大問題なんだな。 >>746
>>中井貴一がナビゲーターをやってたNHKスペシャルの夏王朝の回
これは、最新の考古学の成果を反映した優れたドキュメンタリーであった側面と、
中国政府の公認史観におもねった部分のある問題点の両方を包含した側面の
二面性があった番組だったね。
・まず、新石器時代末から青銅器時代初に反映した河南省の二里頭文化が
商(殷)に先行する、もしかしたら華北最初の盟主的な王朝の拠点で
あった蓋然性が非常に高い
・二里頭文化で栽培されていた主穀作物の多様性が非常に高い
・二里頭文化で確立した宮廷儀礼がその後の中華王朝の宮廷儀礼に大きな影響を及ぼしている
という部分は非常に良い報道だった。
しかし、
・確かに先商王朝としての二里頭文化は古典に出現する先商王朝の「夏」に相当する可能性は
かなり濃厚なのだが、それでも今の出土史料から「夏」とイコールで結ぶのはまだ決定打に欠け
時期尚早
・二里頭文化で確立した宮廷儀礼を宗教的、呪術的側面を欠いた人間中心主義的なものだとする
評価は、明らかに中国共産主義のマルクス・レーニン主義的唯物史観と中華ナショナリズムの
思想的影響がちらついている
という問題を抱えていた。 >>749に訂正
×「中国共産主義のマルクス・レーニン主義的唯物史観と中華ナショナリズム」
〇「中国共産党のマルクス・レーニン主義的唯物史観と中華ナショナリズム」 >>749
たしかに、番組から染みだす中国の「夏王朝はあった!!」は川口浩以上のクセ、
大本営発表臭は強かったね。 >>746
>>中井貴一がナビゲーターをやってたNHKスペシャルの夏王朝の回
ここら辺のNHKの取材活動にリンクした同一系列の番組だと思うんだが、
NHKBSプレミアムで放送した「中国王朝 よみがえる伝説 悪女たちの真実」のシリーズが
面白かったよね。
特に面白かったのが西太后の回と楊貴妃の回。
西太后の回では、彼女が光緒帝を幽閉した「戊戌の政変」が、
実は光緒帝の改革が机上の空論的に暴走して、あやうく外国人に清朝政府を乗っ取らせかねない局面に
差し掛かっていたのをすんでのところで阻止した可能性があるという研究の紹介や
彼女が政府の公金を横領して贅沢していたという史料が、実は山師的に清朝政府に食い込もうとしていた
英国人の根拠に乏しい著作に発していた事の指摘が面白かった。
楊貴妃の回では、なんといっても、玄宗皇帝による楊一族の抜擢というのが、実は四川省に地盤を持つ
楊一族の登用で、四川省の農業生産力を唐朝の中枢が直接掌握しようとした行為だった、という指摘が
面白かった。
中国史では「女が政治に口を出すから」というのと「天子が酒色に溺れて徳を失い」というのは、
ある意味儒教官僚によるポジショントークだから、用心してかからないとという思いを新たにした。 >>748
それは偏った見方だ。
むしろ、いままでの中華史観の押し付けがひどすぎたため、その反動が起きていると見るべきだろう。 >>752
そのシリーズ全部観たよ。(俺は暇人か?)
安禄山がどこか憎めないのであの時代の話も好きだ。(このスレではカットしたがw)
悪女シリーズでは始皇帝のお袋さんの回が一番面白かった。あと英雄編では李自成の回かな。則天武后が洩れたのは痛い。始皇帝の次に好きな皇帝だったのに残念。
皇帝編は3作ともあんまり面白くなかった。 この番組を見る前から、「玄宗皇帝が楊貴妃への愛に溺れて政治をないがしろにし」
という定型句には疑問を感じていたんだよね。
そもそも、唐朝の1代目と2代目は女性の助言を入れまくっているのに、名君扱い、
それなのに、楊貴妃は政治に口出しをしたわけでもないのに避難囂々。
玄宗皇帝に至るまでの政治の流れを見ていくと、
むしろ武川鎮軍閥系鮮卑貴族の合議体制で政治が動いていたのが、
科挙官僚を手足にした皇帝専制にシフトしつつある状況が見えてくる。
玄宗皇帝の後期の政治ってのも、実は楊一族を登用して四川省を把握することで、
皇帝直属軍を充実させて、武川鎮軍閥系貴族層から自立した皇帝専制を
目指した可能性が高いんじゃないのかな。 >>755
ファンビンビンが出てた武則天のドラマが、そんな感じだったな
官僚を手下とした武則天が、長孫無忌を筆頭とする関隴集団とハテしなく闘い続けるドラマだった
あんなメロドラマにも普通に出てくるってことは、中国では関隴集団の知名度が高いってことかな? あのドラマでは、山東貴族の存在感がまったくといっていいほど無かった
しかし、崔盧李鄭の四大貴族は、日本でいえば源平藤橘
唐代を通じて丞相を出し続けた貴族政 日本の平安時代と同じく、唐の貴族は広大な荘園を持ち、地方の有力者でもあった
さらには、節度使が各地で藩鎮を作り、半独立国と化した
皇帝専制にはホド遠い、中世の帝国だった >>757
北魏とか大元ウルスとか、そういう遊牧国家の伝統の予備知識というか、先入観から
唐の支配体制を眺めると、むしろ「丞相」を筆頭とする官僚組織ってのは
あくまで北族による支配集団が漢人を統治するための「使用人」ってことで、
皇帝の真の支持基盤てのは武川鎮軍閥系の関隴集団って事なんじゃないのかな。
つまり北魏でいう「内朝」に相当するような真の支配層だけしかその内実を知り得ない
「インナーサークル」があったんじゃなかろうか。
軍事という暴力装置を握っているのも彼らだし。 >>759
そういう面はあるな
ヴォルテールなんかは、「貴族政がない」といって清の官僚制を称賛していたが、科挙官僚の上には満州貴族がいたってことを忘れてはいけない おいおい何で六鎮の乱が起きたか分かってるか?
鮮卑兵戸の地位が下がって都から赴任してくる漢人の都督に私的に使役されてて奴婢さながらの扱いを受けてたり
漢人でも刑罰として組み込まれたり
逆に軍功を挙げた恩賞として家族ともども兵戸から解放されたりとほとんど奴隷と変わらない身分だったからだぞ >>752
>西太后の回では、彼女が光緒帝を幽閉した「戊戌の政変」が、
>実は光緒帝の改革が机上の空論的に暴走して、あやうく外国人に清朝政府を乗っ取らせかねない局面に
>差し掛かっていたのをすんでのところで阻止した可能性があるという研究の紹介や
おいおい西太后の「光緒新政」ってほぼ「戊戌の政変」の焼き直しだぞ
>彼女が政府の公金を横領して贅沢していたという史料が、実は山師的に清朝政府に食い込もうとしていた
>英国人の根拠に乏しい著作に発していた事の指摘が面白かった。
「北洋海軍章程」第二冊に当時の海軍衙門の会計資料が残っており頤和園造営のため艦隊編成予算が10分の1にまで削減されたことは間違いない
そもそもこれは横領じゃなくてどうどうと公的にやられてるからな
西太后は実質上の独裁者なんだから誰も口出しできないし当然だよね >>761
それは、鮮卑系諸集団を北朝統一(華北と南モンゴルの統一)の過程でみんな支配者貴族層に引き上げてきたのを、
洛陽遷都によって一気にリストラして、拓跋氏を中心とする狭い一族だけで「インナーサークル」独占を図ったんだよ。
だから、洛陽遷都後でも北魏の支配層は(漢姓化してわかりにくくなっているけど)ほとんど北族系貴族で独占されているという
研究成果が出ているんだ。
決して、「インナーサークル」を漢人貴族層で入れ替えているわけじゃないんだ。 >>763
えええ?最近の研究ではむしろ逆で北魏の実態は胡漢半々もしくは漢族優勢ってのが通説になってきるぞ
例えば孝文帝はそもそも献文帝の子ではなく漢人名族の李突の子であり漢族による王室乗っ取りがあったとか言われてるしな >>764
トンデモ説を鵜吞みにするな
目を覚ませ >>764
トンデモ説を鵜吞みにするな
目を覚ませ >>764
トンデモ説を鵜吞みにするな
目を覚ませ 一応、北魏南遷後も、支配者階級のインナーサークルが実質北族の限られたエリート氏族に
独占されていたという情報は、20年くらい前の岩波講座の「世界歴史」に掲載されていた
論文に典拠している。
ちょっと引っ越しで荷物の奥にしまい込んでいてすぐには引っ張り出せないんで、
巻号と論文名、著者名を挙げられないんだが。 >>768
1980年代初めの論文か。
岩波講座「世界歴史」の刊行は1990年代後半。
21世紀現在の学界の趨勢はどうなってるんだろう。 >>768
何が興奮だよ
こっちは華流時代劇「フウ太后」を見たおかげで、その手の俗説には慣れている(笑) >>768
何が興奮だよ
こっちは華流時代劇「フウ太后」を見たおかげで、その手の俗説には慣れている(笑) それにしても、「北魏の孝文帝の漢化政策」ってのは、シナ人の心の支えだな
これのおかげで、異民族に支配され続けた二千年の歴史が、すべて「漢化の歴史」だったかのように語られている ゲルマン人やガリア人だって、ラテンの言語や文化を学んだのだ
別に、それによってラテン民族になったわけではない 明らかに漢化しなかったのは、モンゴル帝国だ
あれは、あくまでもモンゴル帝国が版図を拡大して内中国を占領したにすぎない
百年後に明の朱元璋に敗れたときも、北京を放棄して撤退しただけで、王朝として
滅びたわけでもなく、モンゴル高原でそのまま存続した 明らかに漢化しなかったのは、モンゴル帝国だ
あれは、あくまでもモンゴル帝国が版図を拡大して内中国を占領したにすぎない
百年後に明の朱元璋に敗れたときも、北京を放棄して撤退しただけで、王朝として
滅びたわけでもなく、モンゴル高原でそのまま存続した 同じことを連投している馬鹿はスレ出ていくか、心肺停止するかどっちかにしろ。
スレを浪費するな 同じことを連投している馬鹿はスレ出ていくか、心肺停止するかどっちかにしろ。
スレを浪費するな >>778
連投じゃない
コピペしてかぶせてる馬鹿がいるだけ 春秋戦国もグダグダで長いだけだから、要らないんじゃないか?
中国史の開幕は始皇帝の即位からでいいかも >>1
春秋戦国秦漢と魏晋南北朝隋唐は同じパターンだから
とちらか一つでいい
宋元と明清は同じパターンだから
とちらか一つでいい
これで1500年ぐらい詰められる >>781
魏晋南北朝隋唐はすでに抜いてある。(>>495)
春秋戦国は全部もいるかね? 西欧諸国民におけるギリシャ・ローマに対応するのが、日本人における漢・唐とはよく指摘されるところ。
しかし、それはどうかな。日本も西欧も周辺文明ではあるが、日本に対して中国文明が流れこんだのではなく、
日本側が主体的にチョイスして文化を摂取してきた。つまり文化受容が限定的抑制的だったということ。
隋唐を外すことに日本人は多いだろうが、中国人にとってはどうなんだろうか?
隋唐よりも諸子百家が活躍した春秋戦国期の方が大事なのかも。 >>784
今では、むしろギリシア文明が西アジア文明(メソポタミア・レバント・アナトリア・エジプト・イラン)の
辺境の周縁文明で、ローマ文明がそのまたギリシア文明の周縁文明であるとつとに指摘されている。
西ヨーロッパ社会の版図の半分はそのギリシア・ローマ文明の生み出したローマ帝国の版図そのものである
事を考えると、日本が中華文明のエッセンスを限定的抑制的に取り入れたのとパラレルなのは、
西ヨーロッパが(それとは意識せずとも)西アジア文明のエッセンスを限定的抑制的に取り入れたことに
相当するのではなかろうか。 >>785
日本と中国の関係は、西欧と中近東の関係によく似ている
両方とも、先進国と後進国の関係が、18世紀からの三百年ほどで逆転した >>786
実際、中央ユーラシア史の研究者からは、東ユーラシアの中華文明とパラレルな存在は
イラン高原だという指摘がなされているね。
「農牧接壌地帯」、つまり農耕文明と遊牧牧畜文明が密接にかかわりあって影響を与え合う
世界、という点が酷似しているんだそうだ。 784編集ミス
日本人は多いだろうが ×
日本人には違和感が多いだろうが 〇
先のレスは日本と隋唐に対比する関係が西欧とギリシャなのか中東なのか、というのが主眼ではないので、話を元に戻すが、
日本人と中国人の間で「中国史」観のギャップみたいなものがあるんだろうか?という素朴な疑問である。
このレスでは元や明、先日では北魏にこだわってきたが、これは日本人の中国史マニアの見方であって、
中国人はまた違うこだわりもあろうかと思う。春秋戦国や魏晋南北朝が同じに見えるのは日本人だからだろうか? >>788
春秋戦国は新石器時代以来の邑制社会諸地域の統合プロセス
魏晋南北朝はモンゴリアから南下した遊牧民の文明と
在来華北畑作民の文化の統合プロセス。
統合していく母体の性格が全く異なっているものの、
異質なものが互いに影響を与え合って統合していく、
という点が似ているんじゃないかなぁ。 >>789から訂正
×「在来華北畑作民の文化の統合プロセス。」
〇「在来華北畑作民の文明の統合プロセス。」 「るつぼ」というか、融合のプロセスか。 春秋戦国と魏晋南北朝は相似形、つーことだな。
ふむふむ。
ちょっち、内藤コナン先生の唐宋変革史観からオツムを切り離さないといかんかもしれんね。 >>788
あと、日本人にとっての春秋戦国と魏晋南北朝は、両方とも
「どっぷり中華」っぽくない、
という共通性から引き付けられる要素があるように思えるな。
宮城谷の春秋戦国ものの作品群が典型なんだけど、
白川漢字学なんかで指摘されてきたような
万葉集の世界と深い共通性のある「呪術と言霊の世界」がそこにはあるし、
魏晋南北朝の北族系武将のメンタリティは、
中国で典型的な愛国武将とされる岳飛のメンタリティより日本人と親近性が
あるように感じられる。
日中で同じ時代にファンが多い三国時代にしても、
中国人が曹操に「予定調和的悪役」を素直に投影する傾向があるのに対し、
日本人の間では曹操に惹かれる層が通奏低音のように息づいている。 >>791
内藤湖南先生の
「唐宋変革史観」
と
「日本史は応仁の乱以降だけ学べばいい史観」
は、多分共通する視野に発しているんだと思う。
それは、数学の微積分学的に言えば「変曲点」を画期とする史観なんだよ。
私に言わせると、
唐から宋への変革というのは、魏晋南北朝期にはじまった胡漢融合、華北と江南の質的統合の
あくまで過程であり、それは大元ウルスでいったん完成、大明でいったん後退、大清で成熟完成形
という長期プロセスの中に位置づけられるんだけど、それでもこの長期プロセスを社会の編成原理から
前後にわけると、唐宋変革以前と以後で確かに大きな質的変化を経ている。
同様に、
日本の中世史というのは10世紀に一旦崩壊した古代的首長制共同体を基盤にした社会が
ドラスティックに再編成を遂げていき、近世の町村ベースの社会が安定するまでの長期的プロセス
なんだけど、それでもこの長期プロセスを社会編成の原理から前後にわけると、
地域にボトムアップの共同体の存在が希薄な応仁の乱以前と、
地域にボトムアップで生成した共同体の存在感が非常に大きな応仁の乱以後で、
確かに大きな質的変革が生じている。
つまり、大規模な長期プロセスをその出発点から読み解くのか、
長期プロセスのゴールポイントから見て、そのゴールポイントの原形が立ち現れた地点を重視するかの違い。
言い換えると、
大元ウルス、大明、大清という「ゴールポイント」の原形が立ち現れたのが唐宋変革期で、
江戸の太平の世という「ゴールポイント」の原形が立ち現れたのが応仁の乱。 中国の歴史モノというのは、岳飛や楊家将のように「異民族の侵略と戦う漢人」というのが大テーマなのだが、これがどうにも、一般の日本人には理解されない
それから、水滸伝のように「無頼の侠客が集まって独立国みたいになる」というストーリーも、どうにも日本人の感性に合わない(江戸時代まではそうでもなかったのだが・・・)
項羽と劉邦や、三國志は、それを抜きにして楽しめるギリギリのライン
本当は、三國志も「無頼の侠客が集まって旗揚げする」というストーリーなんだが、蜀はヤクザじゃなくて国家だからOK 要するに、歴史マニアならともかく普通の日本人にとっては、大陸の情勢というのが、民族構成の複雑さゆえに難解すぎる
三國志までが限界
本当は、春秋戦国時代など民族的にはもっと複雑なのだが、このスレに常駐する人みたいに「単一民族だった」という虚構を前提にすれば考えなくて済む >>794
江戸時代の日本にも藩という半独立国があったじゃん 江戸時代の「藩」てのがそもそも、江戸時代の「大名家御家中」を周代の諸侯になぞらえた
儒者の「業界用語」。
明治維新後に一瞬だけ正規の行政用語となった。 長期間にわたる社会変動を俯瞰し、そのピーク期の前部分をバッサリ切り捨てるのは解り易い手法である。
歴史のゴールポストを近現代に置き、そこに至るプロセスを理解する期間としてはせいぜい4,500年でいい。日本で言えば戦国後期、欧州で言えばルネサンス期、中国で言えば明朝あたりから学べばよろしい、
という「ばっさり歴史論」は当たり前の話ではないか、とも思う。
その国の誕生期(民族の形成期)とケツ400年を繋げば大体その国のかたちが把握できる。
日本史で言えば平安遷都の後に鉄砲伝来以降を繋げばもう十分であろう。
中国史で言えば>>1で十分。
しかし、>>1ではこの民族形成期に1500年間を取っている。この期間で最も肝心部分は一体どこなんだろうか?
ここをもう少し揉むことで編集は終わる。 798補足
レス中で「民族形成期」という言葉を使っているが誤解を生みそうなので、撤回。
中華帝国形成期、あるいは文化形成期という意味。
遺伝子がどうとかこう渡河の話はしないし、岡田先生もパス。 >>796
>>「無頼の侠客が集まって独立国みたいになる」というストーリー
中国で「王朝交代」の主役を演じるのが、モンゴリア、マンチュリアから南下してきた北族集団か、
社会危機で発生した武装難民集団か、のどちらかかに相場が決まってるからね。
そして、この後者が大勢力に結集する核になる上で大きな役割を果たすのが、
原始道教とか白蓮教のような宗教教団、
そして、塩の密売などを生業とする侠客的結合の結社組織。
中国人にとっては反政府的な宗教教団と、侠客的結合の結社組織というのが、
ある意味歴史の風景にとっての空気みたいな意識感の存在なんだろう。 個人的には、中華帝国形成期も、文化形成期も、どっちも明清だと思うんだがなあ
まあ、このあたりの見方は人によるでしょうな >>787
確かにペルシャは同じような版図の王朝が分裂したり外部からの征服を受けたりしつつ交代している点が中華王朝とよく似ている >>774
ガリア人ならラテン語の文化と言語を学んでラテン民族になってるぞ
というかフランス人がラテン民族に含まれるって知らない?
まぁ日本人は単一人種単一語族単一民族という世界でもまれなほど閉鎖的な歴史を歩んできたから一向に理解できないのもわからない人が多いが
人種と民族と語族はまったく別物 >>797
晋だの鄭だのは親藩で、
斉みたいのは譜代ってことでしょ 中国史に限らず外国史を日本人が理解するのは無理でない?
とにかく閉鎖的な環境で過ごし過ぎた
日本人にとって民族と言語と国家の歴史は不可分のものだけど日本以外の世界すべての国ではそうではないってことが経験がないから理解できない >>806
日本だって途中から単一になっただけだろ >>807
同一政権下になかった(弥生文化も来なかった)筈の琉球も言語的には(2000年前に分岐したとされる)日本語族なんだよなあ 他民族と歴史を共有したことがないからな
蝦夷も隼人も活動範囲はほぼ現在の日本列島のみ
しかも少数派過ぎる上に独自の国家や文化を形成する前に同化されてしまったからな
今もっとも漢民族の民族意識が理解できるのは日本人にあっては琉球人ではないかな
彼らは自分たちは日本人である前に琉球人だという意識を持っているが漢民族もこういう入れ子型の民族意識がある >>801
今の行政区画の基礎になってる省単位は多少区画は違えども大元ウルスの時代に定められたものだよ
また大規模な地形改造が行われたのも大元ウルス時代で
近現代の大規模工事以前の地勢この頃ほぼ形になってる
つまり明清じゃなくて大事なのは大元ウルス >>801
明清は、文化と帝国の形成期、というより形成プロセス終盤の成熟期なんだと思う。 文化って難しいぞ
中華文化って何だ
中国人は中華文化が花開いたのは宋代だって考えてるよ
蒙古に国を荒らされて逃げながら読む宋詞に中華を感じるらしい
射雕英雄伝にもそんな場面無かったかな >>808
それ、二千年前の琉球で日本語が話されていたっていう意味じゃないよ
琉球に日本人というか大和民族が来たのは西暦千年くらいだし >>808
琉球は高付加価値の珊瑚礁産の貝殻交易で弥生時代から九州と深く結びついてきた。
弥生時代〜古墳時代の倭国では首長制共同体の指導者層の威信財として
スイショウガイ科のゴホウラ(珊瑚礁の礁原に生息)と
大型イモガイ科(珊瑚礁のリーフに生息)の貝殻でつくられた腕輪が
珍重されたが、その素材を九州の海洋民が琉球列島にまで交易に出かけていた。
歴史時代になると、漆器や象眼細工の螺鈿に用いられるリュウテンサザエ科の
ヤコウガイの交易が盛んになり、やはり九州商人が大挙して琉球列島に渡っている。
この歴史時代の交易でヤコウガイの対価として重視されたのが、
肥前西彼杵半島の滑石露頭で主に制作された滑石製石鍋。
これが琉球列島全体に普及した結果、縄文土器系の伝統を引く
伝統土器をほぼ駆逐する。
平安時代になると九州の商人は地元の薩摩硫黄島と九重連山で採掘される硫黄を
軍用火薬の原料として大量に欲した宋に大量に売りつけるようになるが、
その硫黄には九州の地元の硫黄だけでなく、貝殻交易のついでに
琉球列島の硫黄鳥島で採掘された硫黄を加えていたことが知られている。
明朝の時代になると琉球人が自ら九州商人を介さずに直接硫黄を中華帝国に提供するようになり、
それが琉球王国成立の原動力となっていく。 >>803
それぞれの隣国のモンゴル国とアゼルバイジャン共和国が成立した経緯もそっくり。
中国とイランで違うのはイランが西にも開けていたのに対して中国は袋小路だったこと。 >>815
アゼルバイジャンというのは世界史を理解する上で非常に重要な土地なんだよね。
北方草原地帯の騎馬遊牧民が、遊牧国家としての凝集力を保ちながら
イラン高原やアナトリア半島に侵入定着するときの橋頭保がアゼルバイジャン。
だから、イルハン朝、白羊朝、サファビー朝、オスマン朝と、イランやアナトリアを支配した
名だたるテュルク・モンゴル系軍事力を基盤とした王朝の出発点がきまってアゼルバイジャン。 >>787
古代から中世にかけてはそうだが、近世になるとなあ
明清帝国と東西で対になる国家は、どう見てもオスマン帝国 >>817
江南経済の台頭と、地中海国家の側面のあるオスマン朝の台頭がパラレルな気がする。
多分、イラン高原とパラレルなのは華北なんだろう。 >>817
ずっとイラン側の勢力が支配していたイラクが東地中海勢の手に落ちたのが大きいと思う >>818
長江下流の江南は、豊かな穀倉であり中国で最良の地
中近東でここに相当する豊穣の地といえば、ナイル川下流つまり、エジプトの他に考えられない
オスマン帝国の本拠地であるコンスタンティノープルは、中近東世界における北端であり征服王朝の司令部という、まさに中国における「北京」のポジション
思うに、ペルシャ帝国は中国でいえば漢や唐、オスマン帝国は明や清に相当するのではないか >>820
補足だけど、これは昔から「似ている」と思っていた
半乾燥地帯のイラン高原(ペルシャ帝国)と、半乾燥地帯の華北黄土高原 (秦漢隋唐)
ナイル川下流の穀倉地帯(エジプト)と、長江下流の穀倉地帯(江南)
中近東の北端にある近世征服王朝の首都(コンスタンティノープル)と、中国の北端にある近世征服王朝の首都(北京) コンスタンティノープルじゃなかった、ここはイスタンブールと書くべき流れ(笑) >>822
んなことないって
古代ペルシャ帝国と秦漢帝国
イスラム帝国と隋唐帝国
イルハン朝と大元ウルス
オスマン帝国と明清帝国
中国史と中近東史は似たような流れで、これらの帝国が東西で対になってるというのほ、誰もが思うこと 日本と英国が似てる、という類の話に個人の思い入れがあるのは解る >>825
日本史と英国史はグローバリーヒストリー的視点からも全然似ていない。
確かに日本列島とグレートブリテン島には史上何度か大陸からの民族移動の波がかぶっているが、
歴史時代になってから日本は大陸からの軍事侵攻を基本的にはねつけているのに対し、
グレートブリテン島は何度も大陸からの軍事侵攻を被っているのみならず、
イングランドに至っては継続的に外国の有力国の王権を自国の王権として戴く地位に置かれてきた。
中国史と西アジア史の類似性は、中央ユーラシア史の複数の専門家ら何度も指摘されている現象。 日本と英国は、同じ島国ということで、たまたま似てるだけ
中国と中近東は、古代に農耕文明が発生し、都市国家が生まれ、遊牧民が大移動し、モンゴル帝国に征服され、その後継国家が登場して・・・といった、同じ世界史のマクロな流れを共有している、東西の両巨頭 似ているところをあげればいくつもあるし、似てないところをあげればいくつでもある。
日本と西欧の中世が似ている、という類の話ですわな。
この話は周辺文明である日本と中心文明である中国の関係は、西欧とギリシャ・ローマ文明ではなく、
むしろ西欧と中近東である、という指摘からスレが流れてきている。
文明の受容側から見える、中心文明の共通性という話。 時間軸で言うと古代の話で周辺文明が独自に成長した中世以降では
中国と中近東が似ている、たとえば「北京とイスタンブールが似ている」というのは、顔がそっくりさん、
という指摘以上でも以下でもない。
そういう比喩として日本と英国を出したまで。
先に「ついてこれない」と評したのは、類似性の理由が最初のそれから大きく外れ、鼻の形やほくろの数に及んでいる、
というふうに感じたから。 まあ、そんだけ。 イングランドが日本ならフランスがさしずめ中国だが
イングランドとフランスが13世紀頃から国力が拮抗し何百年に渡って争ってきたライバル的関係なのに対して
日本はずっと中国の後塵を拝する存在で日清戦争の頃も西太后の暴政が引き分けていたかも怪しいほどの国力差があったという点で異なる 歴史の本流 メソポタミア⇒ギリシア⇒ローマ⇒西欧
歴史の支流 メソポタミア⇒インド⇒中国⇒日本 >>830
英仏の関係性を見ても、日本とイギリスとは相違点の方が目立つなぁ。
まず、第一次英仏百年戦争をみると、当時のイングランドは実質本国がフランス西岸のアキテーヌ公国などである
半分大陸国、半分島国。
第二次英仏百年戦争でも、前半はオランダとの、後半はハノーファー選帝侯国との複合国家。
つまり、あたかも朝鮮国王が日本の天皇を兼ねて中国と戦争をやるような構図が繰り返されている。
英国が純然たる島嶼国家になるのはヴィクトリア女王以降。 日本の地理的特性として大陸から隔たったてるおかげで異民族の侵入が際立って少ない
近代に至るまで国家間戦争をほとんど経験したことのないというのは世界史的に見て極めて稀である
反面大陸の技術革新からも取り残されがちで羅針盤、火薬の受容に至っては中国の隣にあるのにも関わらず西ヨーロッパよりも遅い >>833
そうすると、紀元前10世紀から紀元後3世紀にかけての弥生時代の特異性が際立ってくるんだよね。
最近の弥生人全ゲノムの分析では、弥生時代草創期どころか弥生時代後期にも新来の渡来系弥生人が、
しかも東アジア大陸の多様な場所から継続的に渡来してきていた蓋然性が高いことが指摘されてきている。
時代的には、西周期から後漢期を通じて、という事になる。
いったい、この時期に(正史にロクに記録されないような)何が大陸で起きていたんだ。
それと、大陸での「スタンダード技術」が日本列島に定着するのに「周回遅れ」になりがちというのは確かにそうなんだが、
黒色火薬に関しては非常にユニークな軌跡をたどっている。
そもそも、北宋時代人大陸で軍用の黒色火薬需要が高まった時以来、火薬原料の硫黄の最大供給国が日本だった。
日本は中国の王朝に軍用黒色火薬原料の硫黄を売ることで貨幣経済の普及を見ることができたといっても過言ではない。
その一方で、中国王朝は日本に黒色火薬のレシピが流れることを非常に警戒していて、高麗や李氏朝鮮とは黒色火薬のレシピを
共有していたのだが、日本への情報流出を厳重に食い止めていたことが知られている。
それは、黒色火薬のレシピにとどまらず、硫黄と並ぶ重要な原料の硝石の培養技術の封鎖にも及んでいた。 中国のような乾燥気候では天然の硝石が採れるが、日本のような雨が多い国では人工で製造する必要があるので難しい 一方、日本では、紙の原料となる植物は豊富なので、和紙の国産化は早かった >>827
イギリスと大陸は、佐渡島と本州くらいしか離れてない
人によっては泳いで渡れる距離だ (簡単なことではないが)
日本と大陸の距離などとは比べられない >>829
>中国と中近東が似ている、たとえば「北京とイスタンブールが似ている」というのは、顔がそっくりさん、
という指摘以上でも以下でもない。
いやいや、それとこれとは違う(笑)
フランスでいえばパリ、インドでいえばデリー
征服王朝の首都が北に偏った位置にあるのは、洋の東西を問わず、よくあること
そうなった歴史的・地理的な経緯が似ているのであって、姿かたちが似ているという話ではない >>838
「同じ島国気質」とか、そういう話で日本とイギリスを比べるのなら分かるが、「大陸との関係史」ということなら、大陸からの距離が違いすぎるので同列に語るのは無理 多数のケースワークを並べてみたときに、
個々の個別性に注目しやすいタイプの脳を持っている人と、
複数のケースワークに通底する不変原理を抽出しやすいタイプの脳を持っている人は、
かなりはっきりと区別されるような気がする。 >>813
琉球語には上代の母音体系よりも以前の状態から分岐した基層があり
そこに加えて西暦千年くらいに分岐してきた語彙は日本語からの借用と分かる形で存在している
(月給をジッチューというように母音の変化がしてから口蓋化が起きるまでの間に入った語は日琉祖語から来た語とは違う音韻変化をする)
>>834
縄文人が大陸から人間を拉致ってきて自分から混血したというだけだぞ
いわゆる倭寇ってやつの元祖な
中国大陸から日本に渡るのは多大な困難を伴うが、日本列島の住民は操船の技術が上なので容易にやって来れた >>842
上代東国方言につながる言葉が八丈島に残ったのと同じことが西南でも起きたと考えればいい。
琉球祖語が10世紀頃までは南九州で話されていて、
それが南西諸島に広まったあとで九州では本土系の方言に駆逐されたと。 近代以前の時代は中国が世界最強の国家で欧州は僻地と同じ扱いだった
そして、米国が超大国として君臨するのは・・・・・。20世紀になってから
そのため欧米では今の中国について“Rising China”って言葉がある。要するにモトの中国の国力に戻っているということ。
世界のGDP、アヘン戦争前の1820年の清朝の世界経済に占めるGDPの割合は驚愕の33%
http://media.economist.com/images/images-magazine/2010/34/NA/201034NAC119.gif
https://www.abc.net.au/news/image/3752400-3x2-940x627.jpg
http://www.usfunds.com/media/images/frank-talk-images/2012-frank-talk-images/2012-ft-jan-jun/EcoHistoryMajorPowers-062012.gif
中国の発明品
→ 「火薬」「羅針盤」「印刷」「紙」
中国の特産品
→ 絹、茶、陶磁器
中国が作った制度
→ 科挙 (ペーパーテストの成績さえよければ「誰でも」高級官僚として登用)
清以降の中国が衰退したのは「欧州発の産業革命」と「重商主義から近代資本主義へ」という産業構造の転換についていけなかったから、
中国だけでなく、イスラム文化も産業革命まではヨーロッパよりずっと優位だった。 だけど中国もイスラムも産業革命で近代武装した欧米列強にまるっきり勝てず、
最終的にはアヘン戦争以降は一挙にボッコボコ。一気に半植民地化・清王朝滅亡・内乱の時代へと追いやられた
歴史的な長いスパンでみれば中国が貧乏だった時代はアヘン戦争以降の150年ほどの期間(1850〜1978)です。
中国の長い歴史からすれば王朝と王朝の間の混乱期による国力の低下時期とも言えることもできます。
ここ百年ほどは弱くなっているけど今また世界有数の超大国として強さを取り戻しつつあるし・・・。
これからまた唐や清の様に中華人民共和国が大いに発展して200〜300年の間、世界に君臨する可能性もあります。
ただし、同じ様な超大国のアメリカは、中国にとって覇権争いの手強いライバルとなりそうです。
なお、現在の中国で麻薬犯罪に厳しい刑罰があるのは、アヘン戦争がトラウマになってるから以外の何物でもありません。 >>843
その様な事態になる地理的政治的要因や考古学的証拠は見つかってはいない
上古における大和朝廷の支配範囲および出現時期と日本語派・琉球語派の境界および分岐時期とは完全な一致を見せる
琉球祖語琉球諸島外起源説は日本語日本列島外起源説という荒唐無稽な騎馬民族征服説や日鮮同祖論に基づいたトンデモを通すために唱えられた非科学的な時代遅れの考えだよ
最新の研究では再構された日琉祖語の形でも同系と考えられている筈の語彙に一致が見られず、縄文時代に遡りうる更なる古形の再構が求められていたりする >>845
琉球語派で上代日本語に遡れない音韻なんてせいぜい木が*ちーじゃなくてきーになる、ぐらいのもんだろ
他にそんなにあるの?
こんなん母とか気配がハ行転呼の原則から外れてる、程度のもんで例外扱いでいいと思うけど >>824
アッシリア = 秦
カルデア = 楚漢
古代ペルシャ = 匈奴+漢
アケメネス朝からササン朝にいたる古代ペルシャは
イラン高原からメソポタミアを征服して首都は
スサやクテシフォンなどメソポタミアにあった >>846
それは服部四郎がとうの大昔に既に対応する音韻法則を発見している
「せいぜい」なんて言える様な馬鹿らしいものではない
現在の標準日本語につながる上古日本語中央方言では日琉祖語における*e, *oがそれぞれ特定の状況でイ段甲類、ウ段に変換されたということが発見されており、
もとは*i, *uだった母音は琉球の諸言語では体系的に弱化することまで発見されている
逆に弱化しない*e,*oは本土の方言でも(主に東国方言の名残で)エ段オ段になっているものが散見されている
これらは文献時代よりも遡らなければ由来を求めることができない >>841
何を勝ち誇っているのかよくわからんのだが、君らのレスはスレ違いの薀蓄にすぎない、
という話。 >>845
考古学的にこそ南西諸島の日本語化は10世紀以降としか思えないだろうに。
縄文時代を持ち出すなんてそれこそトンデモだわ。
>>848
服部説やペラール説なんて通説でも何でもない。今のところ根拠が弱すぎ。 >>850
口ではなんでも言える
ペラールや服部レベルの研究をしてからそれを言え
琉球には縄文時代から継続して人の住み続けている痕跡のある遺跡があり、どう見ても人間が入れ替わったとは考えられはしない
その点では丁度、このスレでよく主張されてる漢民族は北方遊牧民に乗っ取られて別物になったという説と似たような暴論なんだわいな >その点では丁度、このスレでよく主張されてる漢民族は北方遊牧民に乗っ取られて別物になったという説と似たような暴論なんだわいな
それのどこが暴論だ
普通に考えたらそうだろ いま「俺たちは漢民族だ」と自称してるのは、もっと北からやってきて、黄河文明の先住民を追い出した連中 >>853
文献的にも、Y染色体ハプロタイプの分析でも、多数の古華北人の中に少数のモンゴリア人が混血した
レベルであることが確認されている。 >>851
いや人骨を調べても西暦千年頃からそれまでの縄文系とはちがう日本人系にガラッとかわることは有名 >>855
西暦千年ごろ、ってことは10世紀、平安中期、九州商人が螺鈿素材のヤコウガイの交易で
大挙して琉球列島に流入、西彼杵半島で作られた滑石製石鍋を持ち込んで
縄文系の土器文化の伝統を駆逐したタイミングだね。 >>855
ならトルコ人とフィンランド人はモンゴロイドじゃないとおかしいだろ
いい加減人種と言語は一致しないことを学べ てーか朝鮮半島ですら紀元前何千年って昔は縄文類似の旧モンゴロイドだからな
朝鮮にしろ日本にしろ新モンゴロイド形質は遼河文明の方からおもに女系でやって来て拡散した結果でしかなく
東アジアは全体的にミトコンドリアDNAは均一に近いのにY遺伝子は地域多様性を維持してる >>857
人種的な変化無しに言語が交代することは多いけど、
逆に人種が入れ替わって言語が交代しないことは珍しいだろ。
人骨は食生活でも変わるから人種的な違いと短絡的に結びつけることは出来ないけどさ。 確かに琉球列島では10世紀から九州商人の活動によって持ち込まれた
物質文化の影響が急上昇するんだから、
琉球列島全域の中でも地域的に九州商人との混血の激しい地域と、
混血の割合の低い地域の格差がかなりあるんじゃないか?
ちなみに、肥前〜筑紫の方言の語彙に、確かに琉球語と共通性の高いやつがある。
丘陵をハル、ヨモギをフツと九州北部では呼ぶが、
琉球では丘陵が同じくハル、ヨモギがフーチだよね。 >>859
トルコ人は先祖がモンゴロイドなのに今はコーカソイドだろがアホ
だいたい民族単位で移動していたら生活様式や什器墓制家屋一式が丸ごと移動してくる筈だが
日本の場合はどう見ても日本側から大陸の作物や物品や血統を選りすぐって採り入れてきている
射精エベンキのコピペ荒らしでも言ってるだろ、弥生人は鼎を使わないって >>861
>>日本の場合はどう見ても日本側から大陸の作物や物品や血統を選りすぐって採り入れてきている
それが、いったん日本列島に導入されてから取捨選択によって消失した文化も結構ありそうなんだ。
5世紀に大陸から馬の牧畜と騎馬の文化が導入されたときに、
それを担ったと思しき慕容鮮卑系人間集団のいけにえ儀礼も日本列島に入っていて、
東国に新設された古墳時代の牧の近辺から馬を斬首して埋めた祭祀遺構がたくさん出てきている。
しかし、それは古墳時代だけの現象で、歴史時代になると消滅している。 >>861
トルコ人の場合は「人種が入れ替わらないのに言語が入れ替わった」例だろう
モンゴロイドのトルコ系民族に征服されたコーカソイドがトルコ語話すようになったわけだから >>862
ハンゲームとかラグナロクオンラインをやる奴は全員韓国人か?
それは違うだろ
>>863
だからどうした
そこじゃなくてトルコ人の先祖がモンゴロイドではなくなった時点のことを言ってるんだ
なんでトルコ人がアナトリアに来てギリシャ人と入れ替わった時のことを言うのか >>864
>>ハンゲームとかラグナロクオンラインをやる奴は全員韓国人か?
祭祀儀礼ってけっこう保守的だぞ。
教義宗教みたいにすんなり横滑りするようなもんでもない。
技術を習っただけの人間が祭祀儀礼まで取り入れるとはとても思えない。
キリスト教世界でも、クリスマスツリーとか、ケルト・ゲルマン系の祭祀儀礼は
しぶとく生き残ったりしている。 >>864
トルコ人の先祖って誰のことよ?
ウズベキスタンとかあのあたりだったらイラン系の先住民がいたわけだし。 もはや、何の話かさっぱり分からなくなってきているな
ここで展開されているのは、「琉球人」の話
知らない人が見たら、「中国人」の話だと思うだろうよ だいたい人種が入れ替わったら言語が変わるとかいうのは人口希薄地帯での話で
元から人口密度が高い中国大陸や、狩猟採集民にしては異様に人口密度のあった日本では当てはまらないだろう
考えて見ろ、ヨーロッパには東方のステップから遊牧民が侵入してきてかなりの混血をしているが、それでも(ハンガリーを除けば)印欧語だ
人口の少ない側から多い側へ移動する場合は大きな影響はないし
それどころか渡るのが困難な海に阻まれた日本は完全に住民側に新規住民受け入れの主導権がある
>>866
ブルガール人が分岐するあたりの西丁零
カザフステップに拡大して言語を保ちながらコーカソイドと混血した 言語なんかで人種が判断できるかよ
もともと、アメリカはイギリス系よりドイツ系の移民が多かったが、公用語は英語
アルゼンチンも、スペイン系よりイタリア系が多いが公用語はスペイン語
いまや、テキサス州の人口の4割はヒスパニック・ラティーノだが、皆がんばって英語を勉強している >>865
文字を使用するために高句麗から人間を呼んだということまで日本書紀に書いてある
その際「高麗教日本」と書いた手紙を持って来て皇子をブチ切れさせたというおもしろエピソードだ
高句麗が日本に文字を教えてやったというその証拠に国字であるとされている「弖」の字が広開土王碑に書かれているのだ
そして日本ではその数十年後に初めて稲荷山鉄剣に刻まれた銘に「弖」が現れる >>868
西暦千年くらいまでの縄文系が主体だったときの琉球の人口密度が高かったともおもえん >>870
その高麗、新羅、伽耶、倭国に伝えられた騎馬文化が
慕容鮮卑系のものだ、というのが最近の考古学の研究成果。
先に述べた馬犠牲祭祀遺構から、少なくとも倭国では技術だけを習ったんじゃなくて
ある程度まとまった集団が渡来して東国などの牧に配置されていたらしい、という風になってきている。 >>865
クリスマスツリーこそ宗教関係なしに儀礼の形だけ世界中に伝播した代表例やん >>873
朝青龍ドルジ顔モンゴロイドからガチムチコーカソイドになっただろ
いい加減にしろ! >>871
だいたい当時の琉球が外来文明に容易に乗っ取れる環境だったら真っ先にオーストロネシア人の餌食になってたわい >>874
クリスマスツリーはキリスト教化と近代の商業化のフィルターを経ることで
初めて世界に広まったわけで、
もとはあれ、「御神木へのいけにえ儀礼」だぞ。
そのままの形ではとても世界に広まったとは思えん。 >>877
どんな理由であれ広まったのは事実やろ
本来の意義とか関係無しに形だけ伝播することなんかよくあるんだよ
聞いた話だけど朝鮮でもお葬式の時に茶碗を落として割るらしい
あれ本来は個人個人専属の食器がある日本文化だから死者との別れっていう意味を持つ
どの食器を誰が使ってもいい朝鮮文化では何の意味もなさないんだけど、形だけ伝わって定着した例だ 話を元に戻すけど、
馬の首をはねていけにえにして埋めるなんてドラスティックな儀礼が、
果して人間集団のかなりの規模のまとまった渡来を伴わない技術の伝播だけで
一定期間日本列島に定着するだろうかって話なんだが。 >>879
それに単なる流行だったら畿内か北部九州を中心に広がるはずだよなあ。
東国に伝わるのは入植以外では考えにくいよね。 >>880
同様に、
琉球列島での10世紀の肥前西彼杵半島産石鍋流入、
縄文系土器伝統の断絶、
九州商人の螺鈿用の琉球産ヤコウガイの取り扱い増加、
といった現象とともに、
縄文系琉球人と九州人のある程度の混血、
古琉球語(仮)への古代九州日本語語彙のある程度の混入、
という事象があったかどうかが、さっきまでの議論の焦点。 土器伝統の断絶とか言い出したら平安時代の本土かて弥生時代と大して変わらない生活だったのが次の時代には替わってるやんけ >>883
10世紀〜11世紀って日本列島本土でもすさまじく社会が激変した画期なんだよ。
・弥生〜古墳時代以来の在地の首長制共同体が崩壊
・在地での荘園公領制の成立
・中央での律令官制から官司請負制への転換
・中央と在地での武士の誕生
・東北〜蝦夷地や琉球列島と交易する商業の大発展
・日宋貿易による硫黄の大輸出開始
それが、専門の日本史家から小声でしか聞こえてこないのは、
中央での体制激変に伴ってこの時代だけ一次史料の保存状況が極めて悪く、
激変のプロセスを一次資料に基づいて史料批判の手法で語りにくい、
という事情があるからに他ならない。
そして、琉球列島での激変ってのも、この余波が波及した結果である可能性が高い。 >>876
結果として乗っ取ったから人種まで変わった
そもそも、「琉球では言語の断絶は起きて無い派」は、縄文系琉球人が日本語をしゃべってたと思ってるんだろうか? 今、日本経済新聞の夕刊小説で在原業平のものがたりが連載されているけど、
歴史学的にちょっと内容がおかしすぎて興ざめしたんだな。
というのも、まるで源氏物語絵巻の世界のような王朝風俗で描写されているんだが、
実は在原業平とか小野小町とか、平安時代とは言っても10世紀の大変動の前の世代。
つまり、10世紀の大変動前は平安時代とは言っても奈良時代と同じような
唐風の衣装風俗の世界。
それが、この時代を潜り抜けて再び資料が豊富な時代になってみると、
いつの間にか皇族や貴族が衣冠束帯十二単の平安王朝風俗になっているし、
摂関政治が完成しているし、
武士が誕生しているし、
と、まるで明治維新と以前で社会風俗がガラッと変わってしまったような
デジャブを覚えるありさまなんだな。 >>885
形質人類学的にも、遺伝子研究でも、琉球人が単純に縄文系の純粋な子孫なんかじゃなくて
かなりの程度、渡来系弥生人と混血した本土人(九州人?)と混血している集団であることを
明らかにしているが、
それでも現代の本土人(本州人、四国人、九州人)より縄文系遺伝子を非常に高い割合で現代に伝えている
人類学的集団である事自体は否定されていない。
問題は言語なんだが、
これは本土日本語の成立過程、つまり縄文系諸語と大陸系の多様な集団がもたらした
諸言語が、どういう風に相互作用を起こして日本語を成立させたのか、という問題と、
10世紀以前の古琉球人の縄文系言語と、主として九州から渡来した商人集団の言語が、
どういう風に相互作用して中世以降の琉球語を成立させたのか、という問題は
問題意識としてはかなり近接したところにあるんじゃないだろうか。 >>885
逆に言語系統が同じだと同じ文化を共有していなければならないのか?
オーストロネシア語族なんて起源に近い方は山の蛮族なのに分化拡散した方は高度な公開能力を有する海の民だろが
いい加減理解しろ
言語系統と文化・人種は一致しないということを >大陸系の多様な集団がもたらした諸言語
それ殆ど中国語だろ
齎し手は主に楽浪郡の漢人で邪馬台の「台(ト)」などに代表される古韓音と呼ばれる呉音以前の体系は後期上古漢語の朝鮮方言に基づいている >>890
それは邪馬台=ヤマトっていう結論ありきの論で、本居宣長が勝手に言い出したこと
大した根拠も無いだろ >>891
https://en.wiktionary.org/wiki/臺#Chinese
鄭張尚芳やWilliam Baxter & Laurent Sagartの復元で近年になって「臺(台)」はダイではなく乙類ドに近い音で読むことが裏付けられた
前世紀の精度の悪い上古漢語の復元音はなかったことになった
知識をアップデートしなさい その上日本書紀に興台産霊(コゴトムスビ)という神の名で「台」を「ト」と読む実例が残っている
本居が云々とかどれだけ知識が浅いのか
あと古韓音で一番よく出てきてそうなのが「支(キ)」だな
口蓋化で「シ」になる前の発音だ
こいつは中期朝鮮語の吏読にもあって、ハングルが出来て漢字の読みが一本化される以前はよく使われていた >>890
確かに、渡来系弥生人のもたらした語彙に西周期以降後漢代までの
上古漢語が非常に大きな地位を占めているだろうことは認める。
ただ、先日NHKの科学番組「サイエンスゼロ」で鳥取県青谷上寺地遺跡の
弥生後期の集団虐殺遺骨のゲノム解析の結果を紹介していてね。
この遺体群のほとんどの個体が新来の渡来系弥生人だったという結果だったんだが、
たぶんY染色体ハプロタイプによる父系遺伝子ととミトコンドリアゲノムによる母系遺伝子の
両方を調べてなんだろうけど、渡来元の大陸の出身地を示した図表を紹介していてね。
それが南モンゴルから中原、朝鮮半島、はては広州や東南アジア北部まで網羅するほどの
広範の地域に渡っていたんだよ。
ひとつの集団内でこれだけ出自がばらつくと、縄文語ベースのピジン・クレオールを
共通語にしないと意思疎通は不可能なんじゃないかと感じた。
>>891
最近の奈良県纏向遺跡の発掘研究で、「邪馬台」=「ヤマト」説の蓋然性は
むしろ急上昇しているんじゃないか? >>894
やっぱり優秀な血統を選りすぐって大陸から集めたんだろなあ
今でも違う国から来た外人同士が日本に来た時お互いの言語では話して理解できないから日本語で意思疎通を図る訳だがそういうのとほぼ同じ状況だろう 紀元前10世紀より前は、日本列島の文化に大陸からの影響がほとんどなく、
紀元前10世紀以降になると千数百年にわたって渡来系集団が継続的に
やってくるようになることをみると、
西周による東征もしくはそれを引き起こした要因の継続的インパクトって
実はすさまじかったんだろうな、と思ってしまう。 >>887
南九州から来た大和民族が、縄文琉球系の妻を得て、
言語にいくらか影響を受けるとかならあったとしてもおかしくはないな(縄文琉球語の影響をちょっと受けた中世薩摩弁みたいな)
もちろんあとから来た日本人により上書きされたものもあるだろうが >>897
滑石製石鍋の普及なんかを見ると、たぶん琉球に渡った主体は南九州の薩摩人や日向人
じゃなくて、北部九州の肥前人や筑紫人だと思う。 >>896
華夏族の朝鮮半島への侵入(箕氏朝鮮の出現)だろう
その頃から遼寧式銅剣が出回り始めた >>897
あり得ない話ではないけど、例えば台湾に入植した漢族の言葉なんかを見ると原住民語の影響はほとんど無いね >>892
邪馬台国を九州説の山門(やまど)にもっていきたいだけだろw >>899
そもそも華夏族というのが学術的には何も裏付けのない仮定なのだが >>902
そういう上代特殊仮名遣いも踏まえないクソザコはいなくていいから(良心) >>899
そもそも、朝鮮半島だけではなく東アジア全域からの日本列島への渡来の原因となった大陸の混乱を論じているんだが。 唯一の安全な航路は玄界灘だけだ
他は全て危険な遠回りだ
玄界灘までの安全な経路が確保できれば日本に行ける >>892
その鄭張やバクスターの「邪」の再構を見てみたらどうかね
邪馬台のどこがヤマトなんだか
しかもバクスターだと「臺」の再構音は/l/声母だし
よくもまあそこまで自信満々に言えるもんだ >>907
あガガイのガイ♪
三国時代は中古音への中間形態の時代やぞ 始皇帝以前の編集が完了したので投下します。
●斉の桓公即位〈BC685〉〜晋の分裂(BC452) ♯234年間
<この間 170年間をカット>
●秦荘襄王誕生(BC281)〜前漢文帝没(BC157) ♯125年間
<この間 1014年間をカット>
●唐懿宗即位(859)〜明弘治帝没(1505) ♯647年間
<この間 216年間をカット>
●清雍正帝即位(1722)〜 現在 ♯298年間
というわけで、合計1400年間+約1000年分の減量に成功しました。
中国三千五百年の歴史をわずか1304年間とダウンサイジング。 >>909
自分で鄭張にバクスターにwiktionaryのデータ挙げといてそれは無いわ
いい加減恥ずかしいぞ 始皇帝以前の編集が完了したので投下します。
●斉の桓公即位〈BC685〉〜晋の分裂(BC452) ♯234年間
<この間 170年間をカット>
●秦荘襄王誕生(BC281)〜前漢文帝没(BC157) ♯125年間
<この間 1014年間をカット>
●唐懿宗即位(859)〜明弘治帝没(1505) ♯647年間
<この間 216年間をカット>
●清雍正帝即位(1722)〜 現在 ♯298年間
というわけで、合計1400年間+約1000年分の減量に成功しました。
中国三千五百年の歴史をわずか1304年間とダウンサイジング 【中国史ディレクターズカット版の7大特色】
@人名を憶える事が全く無意味な院周時代を「白紙化」することで、中国史を
日本史サイズにまで縮小、手軽に持ち運び出来ます。
A戦国時代を“信長以降”としたことで統一過程が解り易くなりました。
しかも、大人気の春秋時代はバッチリ網羅。春秋五覇による壮大なドラマと
孔子・老子が目指した中華帝国の姿を両軸に、「漢民族」の形成を考察していきます。
B呉楚七国の乱と黄巣の乱を置き換えることによって、千年間のグダグダを排除、効率的に中華帝国史を学習できます。
C中華文明の最盛期である宋・元王朝の勃興から滅亡までを完全網羅
Dさらに産業革命の一歩手前までに経済発展した15世紀を追加し、倭寇・勘貿易・琉球王国等、日本史に大きな影響を与えた東アジア海洋帝国の全貌にも迫ります。
E明と清を一つに合体させることで「北京帝国」の構造がよりクリアな「見える化」に成功。 中国共産党の内外政策と目指している方向がしっかりと理解出来ます。
Fマニア好みの雍正帝を初回限定盤のみ詳述。(次回版から「乾隆帝即位〜現代」となります。) >>911
小学生レベルのマイクロペニスはまずチン皮剥くことから始めろ
恥垢溜まってくっさいんじゃwwwwwww >>824
アッシリア = 秦
ウラルトゥ= 趙
カルデア = 楚漢
メディア = 匈奴 >>824
古代ペルシャ = モンゴル帝国とするならば
パサルガダエ = カラコルム
スーサ = 大都 >>917
そういえば、アケメネス朝も宮廷が天幕とともに季節移動する政権だったね。 「日本の時代史」シリーズの琉球の巻みたけど、
それでも「琉球に大和民族が来たとき」と「琉球語が日本標準語と別れたとき」
を混同していた・・・ >>919
やはり、
・「本州・四国・九州」の弥生化による琉球語との分岐
と、
・肥前人・筑紫人の商人の大量渡来による北部九州系語彙の流入と、
それによる北部九州系語彙の九州本土と琉球列島での分岐
を混同しているのかな。 服部四郎の様な慧眼は世界的レベルでもっと知られるべきだったのだ
アルタイ語族論者のスタロスティンや日本ドラヴィダ同祖論の大野晋などよりもずっと真っ当な仕事をしていた >>912-913
とりあえずそれで年表作ってみて違和感ないか確かめてみようずwwwwww >>918
セルジューク朝にいたっては、首都がない
スルタンがテントを張ったら、そこが首都 >>923
実は、ヨーロッパ諸国の王権も似たようなものだった。
宮廷が各地の有力者の館を巡回して貢納を受け取り裁きを行う。
中世だけではなく、近世もだいぶあとまでそうだったところもあった。
スペインなんかも確か17世紀ごろまではそうだったはず。 >>924
それはある
とくに、カール5世のときのハプスブルク帝国は、どこが本拠地なのか分かりにくく、世界史の教科書にも首都が書かれていない ていうか、ハプスブルク家が皇帝を世襲するようになる以前の神聖ローマ帝国にも、首都がなかった >>925
近代以前のイングランドなんかもそうで、
王権はロンドン市の西郊に設けられた王家の礼拝所「ウエスト・ミンスタ」を中心として
王権の執行機関を集積させて実質上の首都に育てていくわけだが、
「ウエスト・ミンスタ」も本質的にはベースキャンプみたいなもので、
ここを中心として宮廷がある程度決まった経路を巡回していた。
面白いのは、「王の宮廷」「王妃の宮廷」「王子Aの宮廷」「王子Bの宮廷」というのが、
やはり「ウエスト・ミンスタ」をベースキャンプにして別々の順路で巡回していたのだそうだ。 日本も、京都の都が定まるまでは、ずいぶん転々としていた
日本の場合は、「怨霊の祟り」という宗教的な忌避による遷都が多かった >>928
それでも、日本や朝鮮、中国(大元ウルスや遼を除く)では、
統治のために拠点を定期巡回するって事が無くて、
基本は一か所の宮殿から全国統治できるシステムだからね。
定住する王権と、巡回する王権の、総合的な比較分析って面白そうだな。 牧畜民族は、「家畜が草を食べ尽くしたら移動する」という感覚なので、もともと定住志向が乏しい >>931
ヨーロッパも確かに牧畜民は牧畜民なんだが、王権の移動宮廷が中央ユーラシアの
テュルク・モンゴル系王権みたいに羊の群れまで引き連れているわけではないからなぁ。
やっぱりあれか、宮廷の直属軍事力の軍馬が草を食いつくすからか? 神聖ローマ帝国の場合は、皇帝が選挙で選ばれるシステムなので、「どの領邦の君主が皇帝になるか」によっても首都が変わってくる
いずれにしても、統一国家とは名ばかりで、皇帝は常に地方勢力との闘争やイタリア遠征に追われて忙しいから、一ヶ所にとどまってはいられない ローマ王に即位後、反対勢力を武力的に屈服させながらイタリアに遠征、
ローマで教皇に戴冠してもらってようやく皇帝になれるって、
考えてみればすごいシステムだよなぁ。 >>934
日本に例えれば、武田信玄が皇帝に選ばれたとしたら、必ず上洛しないといけないわけだな
京都への道中に立ち塞がる徳川家康や織田信長、浅井長政たちと戦って勝たなければ即位は無い
なんとも厳しいシステム 中央集権志向のフランスでも、中世の王権は巡回宮廷だったみたいだが、
いつごろまでそれを続けていたんだろう。
ブルボン朝初代のアンリ4世くらいまでかな? まあ、実態はどうあれ、フランス王国の場合は「首都はパリ」で異論がないから カペー家系の王権は、その実態はかなり範囲の狭い「イル・ド・フランスの王」から
スタートしているから、宮廷の巡回範囲がそもそも狭かったのかな。 最近中国史の勉強を始めたんだが、すげー違和感覚えることがある。
それは異民族や蛮族という表現。
異民族という書き方をしたらそれは中国史ではなく漢民族史だし、王朝を滅ぼすくらい強いならそれは蛮族ではないだろうと。
野蛮な奴に滅ぼされる王朝なんて存在意義はあるのか? >>939
あ、それは昔から実感している。
そもそも「漢民族」形成前の春秋戦国時代から「異民族」という呼称を無自覚に使っている
研究者や著者が目立つよね。
同じような傾向はローマ帝国へのゲルマン系諸族の侵入に対してもそうで、平気で「異民族」
使っている人が目立つ。「ローマ帝国」ってそもそも多種族に「ローマ市民」が「インペリウム」を
行使する体制なんだが。
ちょっと話はずれるかもしれないが、日本史のタームで私にとって違和感ありまくりなのが
「古代豪族」というやつ。「豪族」ってのは実は本来施行されてきた制度外で成長してきて民衆に勝手に
私的支配権を伸ばしてきた連中という含意がある。ところが、日本史で「古代豪族」とされているのは、
倭国成立前から自生していた首長制共同体の主で、むしろ倭王を共立、連合政権であった倭国を出発点から
構成する基礎要素であって、デフォルトでの制度内存在。そんなの「豪族」とはとても言えない。 >>939
それぞれの、見る立場からの問題だからなあ
騎馬で颯爽と走り回るモンゴル人は、内中国の農耕民を、土人あつかいして見下していたりする >>940
まあ、とりあえず、「地方にいるのが豪族で、都にいるのが貴族」だな
日本では、飛鳥朝廷の有力者は豪族、平安時代の京都にいるのは貴族
中国では、漢の有力者は豪族、唐の長安にいるのは貴族 >>942
中国史で、
春秋戦国の都市国家に君臨する地方有力者を邑の名を付して「〇君」などと呼び、
漢代に地方の郷里共同体社会を侵食して成長してきた地方有力者を「豪族」と呼び、
漢代豪族層から成長してきた魏晋南北朝時代の名門家門を「貴族」と呼んでいるのが、
極めて妥当な認識だと思うんだよね。
漢代の「豪族」は、まさにデフォルトの社会制度を侵食して成長してきた制度外の異物に他ならないけど、
魏晋南北朝の政権にとっては、彼らは社会制度にとってのデフォルトの制度内存在。
だから、中央にいようと地方にいようと、魏晋南北朝では貴族。
日本史でこの手の「豪族」に相当するものを挙げよと問われたら、
9〜10世紀に地方の首長制共同体を侵食して成長、伝統的郡司層を没落させた「富豪の輩」、「田堵」、「負名」
と呼ばれ、のちの名主層に成長していく連中だな。 >>941
結局、現在中国を支配してるのが(建前上)漢民族であるから、それ以外の民族をないがしろにしてるんだろな。
まあそれは漢民族にとったら当然の事だからいいんだが、漢民族以外、例えば日本人ですら蛮族という表現を使ってることが違和感ありまくるな。
俺はその蛮族がいかに先進的な文明を持って勝利したかが興味あるのに、なんかたいてい「蛮族の侵攻で〜」で終わる気がするんだよな >>940
そうそう。研究者なのに異民族とかいうざっくりした表現使っていいのかと。
日本史で言うなら、「日本は蛮族の侵攻を受け、原爆を落とされて降伏した」と言うようなもんだぞ。 >>943
そうだな
日本は大陸みたいな都市国家じゃないから、大陸的な概念をそのまま当てはめるのは良くない モンゴル帝国時代って中国の教科書じゃどう教えてるんかな。
元という国で漢民族のひっそりとした暮らしでも記載してるのかな >>947
「モンゴル族は中華民族を構成する不可分の一少数民族」
ってのが、中華民国、中華人民共和国の御用学説だぞ。 >>948
少数民族にボコボコにされたことになって逆に恥ずかしくならんのかな >>949
朝鮮人と同じだ
都合がいいときは「我がミンジョクの祖先ニダ」となり、都合がわるいときは「我が国を侵略した悪人ニダ」となる やめとけ
中国を落とせばそれを崇拝していた過去の日本人をもっと落とすだけだ >>948
中華民族は中国の国族(nation)っていう意味で、ここには多数も少数も無い
みんな同じ中華民族だ
だから中華民族の中の誰が中国を支配しても別に恥ずかしいことは無い >>953
いわゆる異民族は中華民族に入るの?
入るなら異民族という表現はおかしい 「中華民族史観」ってもっと恐ろしいもんだぞ。
「タイ族」も「カザフ族」も「朝鮮族」も、つまりほぼすべての隣接諸国の主要民族が
「中華民族を構成する不可分の少数民族」のリストに入っている。
つまり、いつでも隣接諸国を侵略併合することが正当化できるカラクリになっている。 >>955
全然違うぞ
むしろ逆だ
国族、中華民族っていうのは中国領内の「タイ族」と他国のタイ族を切り離すための概念
ethnicの繋がりよりもnationの繋がりを強調することで国内を安定させるのが目的
お前が言ってるのはナチスのゲルマン帝国みたいな民族主義だろ >>932
統治機構や司法制度がお粗末なので、君主が直接出向いて決済しないと何も進まないから
というのが封建制欧州的な宮廷移動の実情
この辺は封建制のまま広範囲を統治するようになって行った中世中後期に特に顕在化して
近世の絶対王制の発展に繋がる >>957
ああ誤読してた
国内外のタイ族を区別するためね >>958
あぁ、それで、
・絶対王政期の統治機構の大幅な拡大と官僚制拡充
↓
・貴族層とともに上層市民階級が官僚に大量リクルート
↓
・上層市民階級が新興エリート層として権力欲に目覚める
↓
・旧エリート層である僧職と貴族と、新興エリート層である上層市民階級がヘゲモニー闘争
↓
・フランス革命のカタストロフ
という流れになるんだな。 >>956
「大和民族」は「中華民族」の公式リストにカウントされてない。
ただ、台湾の「中国国民党」は琉球とモンゴルを「中華民国」の版図にカウントしている。 >>954
「中華」と「化外」という区分がある
中国の真ん中は、100%中華
中国の辺境地域は、50%中華
もっと遠いところは、0%中華
0%中華のところは「化外」であり、人の住むところではない >>962
モンゴルは放棄したし、琉球は入ってない
デタラメも大概にしろ 天皇も大日本帝国では唯一神とされてたし、ユダヤ教もイスラエルの神しか認めなかったし、中華思想だけ責めてもしかたなくね? このスレはネタスレなので何を話そうが自由で結構なんだが、こんなにスレの消費が早いとは
露にも思わんかった。
なんか盛り上がっているし、さりとて似たようなスレも昨日立ち上がったようだし、次スレ要るか?
リクエストがあれば立てるよ。 >>968
まあ、中国史スレはどれか一本が進行してればOKでしょう 文化史と政治外交史を分けた方が良いような気がした
政治はそのスレに任せて文化史のスレを別に立てたら?
案外全く異なる「編集」結果が出るかもよ >>966
琉球は大琉球(沖縄)ではなく小琉球(台湾)ですって言えば問題ないとして(詭弁)
モンゴルは蒙古地方って扱いでモンゴル国の存在認めてなかったんじゃなかったっけ?
それとも国交正式に結んだ? >>927
俺にはむしろ、王権とは別口の「ヨーロッパの都市」の定住性・地理的固定性の強さのほうが気になるかなあ。
これは東アジア、とりわけ日本と比べると本当に際立つ。
中国の都市も意外と固定しないんだけど、
日本の都市は、住民が政治支配者の思うままに根無し草的に移動していくのが通例だし、
なにか征服破壊されたわけでもないのに、世界史的感覚だとごく短期間で、あっさり消えることが多い。
政治首都の残影区画を誇りにして固定され続けた京都(旧下京、今は中京区付近。祇園祭で山鉾を出す地域)は
むしろ極めて特殊な例外。 >>972
外蒙古は2002年に民進党政権が正式に独立を承認した
その時国民党は別に反対してないし、2012年の国民党政権の時にも大陸委員会が正式に蒙古が独立国である旨を表明してる >>972
もちろん国交は無いよモンゴル側から見れば台湾省なんか中華人民共和国の一部に過ぎないから、台湾がなんて言ってようがどうでもいいことだ >>973
大阪府庁は、大阪城の隣にある
ついでに、古代の難波宮もその辺りにあった
大阪の中心は2千年前から変わってないことが分かる >>973
中東なら水利という鉄板の理由があるけど、ヨーロッパはなんでだろうね? >>976
それはちょっと無理があるな
大阪っていう都市の話をするなら府庁より市庁を見るべき
大阪市庁は大阪城よりだいぶ西側の中之島にある
この辺りは堂島の米会所みたいに江戸時代に経済の中心地として栄えたところ
古代とは全く別の場所が中枢になってるんだよ >>955
「中華民族」って変な言葉だよね。孫文だったかな・最初に言い出した人は。漢民族も含めた国民全体を
ひとつの「民族」と称するなんて「アメリカ民族」「ソビエト民族」とか言ってるようなもんだ。
こういうヘンテコリンな新概念を打ち出さないと「帝国」が維持できないんだろうねえ。 で、近世には心中話の舞台になったような場末が今や中心と >>973
何度も書いていることの繰り返しになるけど、日本の在地社会は10世紀に一度強力なリセットを食らってる。
それが、14世紀末に地域共同体の再結集がスタートし、農村部の「村」と都市部の「町(ちょう)」という
在地共同体が戦国時代に明確化、それが江戸時代になって安定定着、という道筋をたどってる。
都市部の「町(ちょう)」共同体にしても、まだ室町〜戦国期には不安定で、
けっこう簡単に解散したり、人間集団だけ共同体的結集を保ったままで別の場所に
移動して「町」を再開したりしている。
例えば、戦国朝倉氏の城下町「一乗谷」にあった「町」共同体が信長の焼き討ちで
その後に織田占領軍の柴田氏の築いた「北ノ庄」に移動し、それが秀吉の焼き討ちで
最終的に江戸期の福井城下町にまで移動を遂げている。 >>979
中国領内の民族すべてを中華民族とよぶなら、世界各国の華僑は中華民族じゃなくなるわな。
明らかにおかしい >>973
ヨーロッパの都市の固定性ってあれ本当になんなんだろうね。
・ケルト人部族国家のオッピドゥム
↓
・ローマ都市
↓
・中世都市
↓
・近代都市旧市街
って受け継がれているのが非常に多い。
中国では華北のように都市国家伝統が根強いところでも、名跡だけ
・殷周春秋戦国期の邑
↓
・王朝時代の県城
↓
・近代都市
と受け継がれても、場所はかなりズレまくっていることが多い。 >>979
だから民族と国族は違うって
お前ちょっとは民族学勉強しろよ
領域国家には必ず国族があるの
日本も例外ではない
和人だろうがアイヌだろうが琉球人だろうがみんな同じ日本人だろ?
この日本人っていうのが中華民族と同じ国族なんだよ
ちなみに中共が中華民族の国族を強調した理由の一つにタイ王国のタイ民族主義への危惧がある
タイはethnicの意味での民族主義が強くて、実際大東亜戦争期に雲南の西双版納を「取り戻そうと」したこともある >>985
いや日本人の定義は日本国籍を持つものだろ。 >>979
大清国のような前近代帝国だったら同君連合的な網をかければよかったんだけど、
近代的な国民国家の体裁をとりながら、「帝国の遺産」をその国民国家から
漏らさないようにする、ってところに無理があったんだよなぁ。 >>982
>日本の在地社会は10世紀に一度強力なリセットを食らってる。
何それ?
荘園の囲い込み? >>984
水利の都合で、地理的に必然の場所にあるから >>986
だから中華民族もそれと同じ程度の意味しか無いんだよ
ここで騒いでる奴はそれを何か他のものと混同して異常だとか言ってる >>985
日本の隣に突如アイヌ共和国なるものが出現して、「日本にいるアイヌも我が一族である」と宣言されるようなもんが。
分裂を恐れる日本としては「いや日本のアイヌは日本民族のひとつだ」と主張すると。
それが中華思想のはじまりと。 >>991
だったら中国系アメリカ人は中華民族になるか否か? >>983
中華民族はnationだから海外華僑は当然中華民族に入るぞ
移住先に帰化した華人やその子孫の華裔は入らない
華人華裔はethnicの意味での漢族でしかない
華僑と華人の違いは分かるよな? >>993
そいつがアメリカ国籍ならアメリカ国族(nation)を構成する漢族(ethnic)だろ
海外に行けばそんな奴ざらにいるぞ
見たこと無いの? >>995
なら国族=国籍やんけ
もうそれで間違いないな? >>987
例によって同じ問題を抱えていたイランはソ連式のイデオロギー帝国に生まれ変わったな >>992
大日本帝国から韓国が分離独立したのは、まさにそんな感じだったんじゃないか
中曽根康弘みたいな戦前感覚の爺さんたちが持つ、韓国への特別な思い入れには、明らかにそれが感じられる >>996
ほぼそうだよ
それをもうちょっと一体感を出すために強調する言葉だ
やっと分かったか >>989
弥生時代、古墳時代と発展してきた首長制の在地共同体が10世紀に律令制と共倒れで解体しているんだよ。
その荒廃した更地から、荘園とか国衙領なんてシステムが発生してきて、11世紀に荘園公領制が確立してくる。
例えば、群馬県の繰り返し榛名山なんかの噴火を被っているところで考古学の発掘をやると、
古代には何度火山噴出物で農地が埋められても、同じ土地に同じ地割りで農地や集落の復興が行われている。
ところが、10世紀の噴火の後は一切復興が行われずに荒廃地のまま放置されているんだ。
この辺のドラスティックな変化が起こった時期には中央の朝廷でも文書管理のメカニズムが激変しているんで、
一次史料の残りが非常に悪い。
だから、一般向けの歴史書なんかだと(起きたことの実証がしにくいからこそ)色んな社会システムの断絶が
起きたことを適当にぼかして書いていることが多いんで、世間に周知された史実になっていないんだ。
一般向け歴史書でも、広島大学にいた下向井龍彦さんの著作なんかだと明瞭に指摘されてるけどね。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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