なぜ神聖ローマ帝国は分裂しフランスは統一したのか
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神聖ローマ帝国は大空位時代以降諸侯が事実上独立し、
その後帝位を得たハプスブルク朝の領土への野心も主に帝国の外へと向けられ統一に向かうことはなかった
一方フランスにもアンジュ―帝国やブルゴーニュ公、トゥールーズ伯など王国に属していながら統一を脅かした勢力があり
王領がほんのわずかでしかなかったにもかかわらずそれらは全て駆逐され
更にその後ユグノー戦争をも乗り越えて再統一を果たした
どうして同じフランク王国から分裂したのにこれほどまでに違う歴史を辿ったのか? ブルゴーニュが現代にあったとしても、ドイツとフランスの緩衝国にしかなれないと思う EUの本部が首都にブリュッセルに置かれてるベルギーが独仏間の緩衝国になってる感 >>114
ベルギーでは両方の戦争を防ぐには荷が重い フランスとベルギーって割と密接な感じがするんだけどドイツとオランダって疎遠な感じがするのは何でだろ?
言語も割と似てるのに >>117
オランダ国歌の歌詞
余はナッサウ伯ウィレム一世
ドイツの古き血筋なり
余は永久なる忠誠を
祖国に捧ぐるものなり
余はオラニエ公にして
大胆かつ不羈なるぞ
余はスペイン王に対し
生涯の忠誠を誓いたり >>113
ブールゴーニュ公国が仮にロートリンゲンも制圧して中フランク王国の復活状態になったら
イタリアとの連携でフランスとドイツの双方に圧力かけられる面白い存在たりえたと思うけど
まあ、あの地域全体としてナショナリズムを喚起させられなそうだから無理よな >>118
ナッサウ伯って聞いた事があるな
ローマ(ドイツ)王にもなったアドルフ・フォン・ナッサウか?
そういえばシュタウフェン朝時代の対立王でホーランド伯のヴィルヘルムというのもいたな
>>113
ブルゴーニュって王国もあったし公国もあったし自由伯領というのもあったのだがこれらの支配者ってみんな血縁的な繋がりってあったのかな? >>118
>余はスペイン王に対し
生涯の忠誠を誓いたり
オランダ代表は、サッカーの試合前の国歌斉唱でこれを歌って、スペイン代表にボコボコにされて負けた ちなみに、オランダ国歌のメロディは、フランスの古い民謡
ドイツ・フランス・スペインの3大国を折衷したような国歌 >>120
ブルゴーニュ公国は西フランク王国の豪族が自立して成立し、
ブルゴーニュ伯国はブルゴーニュ公のアンリ一世の妻の連れ子がブルゴーニュ公国の隣(神聖ローマ帝国内)に建国したものみたい
なお、その連れ子は一時ブルゴーニュ公国も継いでいたらしい >>120
ブールゴーニュは、語源が「ブルグント」だって言えば理解できる?
大元まで辿れば、ブルグンド族の部族大公、または王だったって話
ただし、血族的にはブツギレです
一時期、皇帝はドイツ、イタリア、ブルグンド(アルル)の王を兼ねて称していたよ >>120
>ブルゴーニュって王国もあったし公国もあったし自由伯領というのもあったのだがこれらの支配者ってみんな血縁的な繋がりってあったのかな?
ブルグント王国は、中世初期の民族大移動でできたブルグント族の国で、フランク王国に滅ぼされて消えた。中世後期のブルゴーニュ公国とは別モノ。
ブルゴーニュ伯国は、神聖ローマ帝国のブルグント地方で、フランス王国に属するブルゴーニュ公国とは別の国。
この図で水色がブルゴーニュ伯国、ピンク色がブルゴーニュ公国。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/23/Duch%C3%A9_et_Comt%C3%A9_de_Bourgogne_au_XIVe_siecle.svg/880px-Duch%C3%A9_et_Comt%C3%A9_de_Bourgogne_au_XIVe_siecle.svg.png ブルゴーニュ伯国は、
イタリア王子のオットーギョームというのが
イタリアを追い出されて父の故郷のブルゴーニュに逃げてきて建国したらしい
で、母から受け継いだ所領がブルゴーニュ伯国の原点とも。 中世初期には、低地ブルゴーニュ王国とか高地ブルグント王国とか、
わけわからん国がいっぱいあるよな ブルゴーニュ王国→ブルグンド王国の歴史
411年 ブルグンド族のグンダハールにより建国(第一ブルグンド王国)
443年 第二ブルグンド王国 ローマ帝国の将軍アエティウスによりブルグンド族はサパウディア(上ローヌ川)に移動させられる グンディオク(グンダハールの子)により建国
534年 第二ブルグンド王国、フランク王国により滅亡
534-855 ブルグンディア分王国
841年 フォントノア戦い
843年 ヴェルダン条約 ブルグンディアの大部分はロタール1世の皇帝領(中フランク王国)に属す
855年 皇帝ロタール1世死去
皇帝領は長男ロドヴィコ2世のイタリア王国、次男ロタール2世のロタリンギア王国、末弟シャルルのプロヴァンス王国に3分
ブルグンディアはアルプス山脈を境として北部はロタリンギア王国、南部はプロヴァンス王国に属した 855-933 プロヴァンス王国(キスユラブルグンド王国)
863年 プロヴァンス王シャルル死去 イタリア王(兼皇帝)のロドヴィコ2世がプロヴァンス王位を継承(イタリア王国領)
870年 メルセン条約 プロヴァンス王位は西フランク王シャルル2世(禿頭王)が継承 但し、この時点ではプロヴァンス王国旧領の東半分はイタリアの皇帝ロドヴィコ2世の領土
875年 皇帝ロドヴィコ2世死去 シャルル2世(禿頭王)によりイタリア王国は占領され、皇帝位につく それと同時にプロヴァンス全域は統一される その際プロヴァンスは王太子ルイ2世(吃音王)の後見人であるボソ(ボゾン家)を伯に任じ治めさせる
876年 シャルル禿頭王のイタリアの軍事行動に従軍し、パヴィーア議会でボソはイタリアの首位の大臣および総督に任命され、公に格上げされた
プロヴァンスの支配を託され副王として振る舞い、ローマ皇帝ロドヴィコ2世の唯一の娘エルマンガルドと結婚することで、ますます威信を高めた
877年、ボソはシャルル2世のイタリアへの二度目の軍事行動に賛同せず、同じ意見を持つ貴族達と共謀してシャルル2世を打倒しようとした
同年10月 シャルル禿頭王死亡 共謀した貴族達はシャルル2世の息子に強制して、彼らの権利と特権を承認させた 878年9月 ボソは教皇ヨハネス8世をトロワまで送った際、教皇はそこで西フランク王ルイ2世(吃音王)に対し、イタリアでの支援を要請し、ボソを養子として迎えた
879年4月 ルイ2世(吃音王)死去 息子ルイ3世とカルロマンにより分割相続され、プロヴァンスはカルロマンが担当
同年7月 プロヴァンス公ボソはルイ3世、カルロマンに対する忠誠を拒否し反乱を起こす
880年 リブモント条約により領土を画定、首都を下ブルグントのヴィエンヌとし、ここにキスユラブルグント王国、別名プロヴァンス王国が成立した (下ブルグント王国、低ブルグント王国ともいう)
ボソの王国はアルル、エクス=アン=プロヴァンス、ヴィエンヌ、リヨン(ラングルを除く)、ブザンソンの各大司教管区、そしてタランテーズ、ユゼス、ヴィヴィエの各司教管区から構成される
882年 カルロマンの臣下であるリシャール正義公(ボソの実弟)により攻撃され領土を大幅に失う
※後のブルグンド公国はこのリシャール正義公の流れを汲むものである
884年 イタリア王と東フランク王を兼ねる皇帝カール3世(肥満王)が西フランク王位をも相続してフランク王国が統一されたが、ボソだけは従わなかった
887年 ボソ死去 寡婦のエルメンガルドと幼い息子のルイは皇帝カール3世(肥満王)の元に身を寄せ、ルイはカール3世の養子となる
888年 カール肥満王死去 フランク王国は再び分裂し、プロヴァンス王位にルイが就き(ルイ3世)、プロヴァンス王国(キスユラブルグンド王国)が復活 900年 トスカーナ辺境伯アダルベルト2世の要請によりルイ3世はイタリア進出 イタリア王ベレンガーリオ1世を破りイタリア王に即位
同年、東ローマ皇帝レオーン6世ソフォスの娘アンナを娶り、産まれた子供に西ローマ皇帝のカール大帝と東ローマ皇帝のコンスタンティヌス大帝にちなんだシャルル・コンスタンティンと名付ける
(のちのヴィエンヌ伯)
901年 ローマ皇帝位に就く
905年 マジャール人傭兵を率いたベレンガーリオ1世に反撃され、捕らえられたルイ3世は目を潰され(盲目王)、プロヴァンスに追放された
911年 ルイ3世盲目王はプロヴァンス王を名乗り続けたが、又従兄で義兄でルイの首席顧問兼摂政であるアルル伯ウーゴがプロヴァンス公、ヴィエンヌ公となり、
王国の実権を握る(王国の本拠地はアルルに移り、これ以降のキスユラブルグンド王国はアルル王国と呼ばれるようになる)
923年 ユーラブルグンド国王のルドルフ2世と皇帝ベレンガーリオ1世がフィオレンツオーラ・ダルダ(ピアチェンツァ)で衝突 ルドルフが勝利しイタリア王位に就く
(924年皇帝ベレンガーリオ1世は暗殺される)
925年 ベレンガーリオ派の貴族によりウーゴはイタリア王に推戴される
928年 ウーゴ不在のプロヴァンスにおいてプロヴァンス王ルイ3世盲目王はヴィエンヌの領地を(ウーゴに無断で)息子のシャルル・コンスタンティンに与える
(同年6月に盲目王死去、プロヴァンスに戻ったウーゴとシャルル・コンスタンティンはプロヴァンス王位を巡り対立するが、両者共に王位に就くことはなかった) 同年9月 ウーゴはフランス王ラウールとヴェルマンドワ伯エルベール2世とブルゴーニュで会見し、シャルル・コンスタンティンに対抗してエルベールの息子オドーをヴィエンヌ伯に任命
930年 シャルル・コンスタンティン、ヴィエンヌを完全に掌握
931年 フランス王ラウールはヴィエンヌとリヨネーの宗主権を要求
931年 ウーゴは息子のロターリオ(2世)を共同統治者としてイタリア王に戴冠
931年 ウーゴは異父弟のトスカーナ辺境伯ランベルトが自分にに対し陰謀を企てていると非難し、トスカーナ辺境伯位を剥奪し、弟ボソに授ける
(ウーゴはマロツィアとの再婚に際して障害があったため、ランベルトを排除したと言われている)
932年 マロツィアとの結婚式最中に、マロツィアの前夫(スポレート公アルベリーコ1世)との間に出来た子アルベリーコ2世のクーデタにあい、逮捕されるが幽閉先のサンタンジェロ城から脱出し命からがらプロヴァンスに逃亡
933年 ランベルト派の貴族はユーラブルグンド王のルドルフ2世に支援を求めたが、それを阻止したいウーゴはヴィエンヌとリヨネーを譲り、その見返りとしてルドルフはイタリアにおける権利を一切放棄した (※933年はキスユラブルグンド王国(プロヴァンス王国)の終焉を意味する)
936年 ウーゴの息子ロターリオ2世とユーラブルグンド王ルドルフ2世の娘アデレードの結婚
936年 ウーゴは弟トスカーナ辺境伯ボソの後に、自身の庶子ウベルトをトスカーナ辺境伯位に就ける
彼は、ヴィエンヌのオクタヴィオンをユーグ・タイユフェルに与えるなどし、プロヴァンスにおける影響力を保持するためシャルル・コンスタンティンとの関係を修復した
941年 イヴレーア辺境伯ベレンガーリオ2世をイタリアから追放、イヴレーア辺境伯位を取り上げる
945年、ベレンガーリオの反撃を受けてウーゴ敗走
ベレンガーリオがミラノで開いた帝国議会によりウーゴはイタリア王を廃位されたが、名目上の王位を保持することで彼はそれを受け入た
息子のロターリオを名目上の王として残してウーゴ自身はアルルに戻り、すべての事実上の権力はベレンガーリオ二世の手に渡った
(ロターリオはベレンガーリオにより950年毒殺され、寡婦となったアーデルハイド・フォン・ブルグンド(ブルグンド王国ルドルフ2世の娘) は951年保護を求めた東フランク王のオットーと結婚し、神聖ローマ帝国の皇后となる)
947年 ウーゴ死去 >>135
プロヴァンス王国(キスユラブルグンド王国)及びユーラブルグンド王国の歴代の支配者はイタリア王国の政情に介入して全て痛い目にあっている
これはユーラブルグンド王国のルドルフ二世の娘アデレード(Adelheid von Brugund)を通じ神聖ローマ皇帝にも受け継がれている
ブルグンド自由伯(フランシュコンテ)の創始者オットー・ギョームはプロヴァンス王国最後の支配者ウーゴを倒したイタリア王ベレンガーリオ2世の孫でそのベレンガーリオ2世の妻ウィラ(つまりオットー・ギョームの祖母)はウーゴの姪にあたる 初代の神聖ローマ皇帝・オットー1世は、イタリア王国のベレンガーリオを倒して、イタリア王の座についたんだよな
それは聞いたことがある 最初のブルグント王国はその後のブルゴーニュ諸国と全く関係ないから
むしろわかりやすい
その後のブルゴーニュ諸国は相互に血縁関係とかあるから分かりにくい 高地ブルグンド王国の歴代国王ってヴェルフ家なんだよな
これがのちに神聖ローマ皇帝をも出したヴェルフ家にどう繋がるのか調査してみたいと思う 低地ブルゴーニュ王国は、西フランク王国から分離した小国のひとつ
低地ブルゴーニュ国王ルイは、トスカーナ辺境伯などイタリア王国の
有力諸侯の一部によって、イタリア国王ベレンガーリオ1世の
対抗馬としてかつぎだされた
ちなみにルイは女系でカロリング家の血を引いている
900年、パヴィーアでイタリア国王に、翌年、ローマで皇帝に
即位したルイは、勢力を回復したベレンガーリオに敗北し、
905年、盲目にされたうえで故国に送還された ベレンガーリオに敵対するイタリア諸侯は、921年、今度はやはり最近独立した
高地ブルグンド王国の国王ルドルフをかつぎだした。
ルドルフは、翌年、パヴィーアでイタリア国王に選出され、923年、
ベレンガーリオを戦いで打ち破った。
翌924年、ベレンガーリオは家臣によって暗殺され、以後962年まで、
西方では皇帝の称号を持つ人物が不在となった。 ルドルフは、926年、低地ブルゴーニュ国王ユーグと同盟して、
イタリア北部と低地ブルゴーニュ(プロヴァンス)に進入した
マジャール人を撃退した。
しかし、同年、ルドルフと対立するに至ったイタリア諸侯が、
このユーグをパヴィーアでイタリア国王に選出したので、
ルドルフは高地ブルグンドに帰国した。
ユーグは、928年、ルドルフに低地ブルゴーニュを移譲し、
その見返りにイタリアでの地位を確保した。
933年、高地ブルグンドと低地ブルゴーニュが統合されて、
ブルグント王国が成立した。 イタリア王の話で恐縮だが、ベレンガーリオ2世で途切れたと思ったイヴレア辺境伯の流れだが、皇帝オットー3世死去後、ベレンガーリオ2世の甥の息子のアルドゥイーノ・ディヴレーア(イタリア王在位1002-1014)という人物が短期間ながらイタリア王を継承しているみたいだな >>143
そしてアルドゥイーノに敵対するイタリア諸侯の求めに応じたハインリヒ2世が、
1004年、ローマに遠征し、パヴィーアでイタリア国王に即位。
しかし住民の反乱に出会ってドイツに帰還したので、アルドゥイーノは権威を回復。
そしてハインリヒ2世は、1014年、ローマで皇帝戴冠を挙行したが、
ドイツ人支配に反発するアルドゥイーノ派の諸侯、とりわけトスカーナ辺境伯と
ミラーノ司教との反抗に出会った。 イタリアを追われたベレンガリオの子供だか孫がブルゴーニュ伯国を建国したりしてるからより複雑になってる オットー1世以来、東フランク国王が連続して皇帝となるが、
それは当時の西方世界にザクセン朝以外の有力な政治権力がなかったという
特殊な歴史状況によって規定された偶然の結果
東フランクにおけるオットーの後継諸王が、途切れることなく、
こうした皇帝の任務を実際に担い続けた結果、東フランク=ドイツ王位と
皇帝位とが切り離しがたく結びつくという伝統が形成された >>145
ベレンガーリオ2世の孫のオットー・ギョームのことだね
この人は義父のウード・アンリ(フランス王ユーグ・カペーの実弟; オットーギョームの母ジェルベルジュ・ド・マコンの再婚相手)から
ブルグンド公位も短いながら2年だけ受け継いでいるんだよね
ブルグンド公位の方はその後ユーグ・カペーの息子、フランス国王ロベール2世に持っていかれたが オットー1世は若い頃、弟に反乱され、負ける寸前まで追い込まれた。
その後は、息子に反乱され、これまた負ける寸前まで追い込まれた。
962年に、オットー1世は皇帝として戴冠した。
苦労に(962)めげず、オットー戴冠 >>147
オットーギョームの母親のジルベルジュは
ブルゴーニュのマコンの出身だということ。
オットーギョームの父親はイタリア王だったのに
その父の故郷のブルゴーニュ出身の妻を迎えたのか >>148
シュヴァーベン大公リウドルフは、953年に父に反旗をひるがえしたな
反乱側は、侵入していたマジャール人とさえ結びついたが、955年に鎮圧された オットー1世は、機会をとらえては大公の地位を彼の一族に与えた。
大公が部族と結びついて、王国内の王国となるのを避けるためである。
だが、彼らもまた結局は部族大公化し、自立を目指した。 なるほど、身内でも油断ならんと大司教、司教、修道院長を聖界諸侯として授封して重要な地位につけたんだな
彼らは公、伯といった世俗の封建諸侯に比較して教養があるし、基本的に子がいないという建前になっているので封土を世襲するという事もない(帝国教会制)
しかし、これが後々聖職叙任権闘争の原因となり、ローマ教皇と激しく闘う事になる ブルゴーニュ公国はやたらもてはやされるけど、
しょせんフランス王家の分家なんだからあまり意味はないな
ボゾン家かアンスカリ家が続いてほしかったよ ボゾン家の流れはベレンガーリオ、アダルベルト親子を通じてブルグンド伯(オットーギョーム)の方に継承されたとみるべきだろうね オットーギョームが父母の出身地であるブルグントに亡命したあと、
そこで国を樹立できたのは
ボゾン家の君主を期待する人間がいて、担ぎ上げてくれたから? 同じブルグンド(ブルゴーニュ)といってもボゾン家の根拠地だったプロヴァンスとオットーギョームが建てたブルグンド伯のいたフランシュ・コンテ地方は京都ー東京ぐらい地理的に離れていて
プロヴァンスにはボゾン家に代わって当時は古ヴェルフ家(オットー大帝妃アーデルハイドの兄コンラート王)が支配していたよ ドイツ王国で、ザーリアー家のコンラート2世が国王に選出されると、
イタリア王国の諸侯の一部がフランスのアキテーヌ公を国王に選出しようとした
この時期はまだイタリア諸侯とフランス南部の大諸侯との連携が存在していたらしい >>157
アキテーヌ公ギョーム5世(偉大公)の妻はブルゴーニュ公オットー・ギョームの娘アニェス・ド・ブルゴーニュだな
イタリアのイヴレーア家=ブルゴーニュのアンスカリ家と姻戚関係にあったようだが、偉大公はドイツ王コンラート2世(ザリエル王朝)との政争を避けるためにその申し出を断ったらしい >>157
そりゃ、北イタリアから見れば、南フランスは仲間に思えるだろうな
パリが南仏を征服してからは、その関係はなくなった 実際、ピエモンテ、サヴォイヤ、プロヴァンス、ラングドックからカタルーニャまでは、中世初期までは一体みたいなもんだったからなあ イタリア北西部のサヴォイア家は、元来はブルグント王国のサヴォワ伯だったからな
1046年、トリーノ伯領の相続者と婚姻関係を結び、それを契機に、
アルプスのこちら側のイタリア王国にも、もうひとつ伯領を得た。 トゥールーズからサヴォイアまでつなげれば、一角の国になるな 東フランク王国の高級貴族の中で、部族を統治する者たちは大公と呼ばれ、
ひときわ重要な役割を演じていた。
大公はもともとメロヴィング朝の時代には、一定の地域を治める伯よりも
上位にある官職だった。
ところがカロリング時代の末期になって、異教徒たちの襲撃が繰り返される中で
新しい部族大公制が成立する。
大公は国王が到着するのを待たずに、部族の民とともに襲撃者たちと戦わねばならず、
彼らの価値と力、民の彼らへの信頼は増大した。
大公は土着化し、官職というよりも地域の特定の家門に帰属し始めた。
この傾向はとりわけザクセン人やバイエルン人という、異教徒の侵略を
受けやすい辺境地域において著しかった。 もしシャルル・ダンジューが地中海帝国建設の夢をかなえていたら、
その後のフランスの歴史は変わっていたんだろうか? >>165
変わってなかったと思う
ポルトガルのボルゴーニャ朝や、アンジュー・ハンガリー家がフランス本国の歴史にほとんど関係なかったのと同じに ガスコーニュはもともとバスク人だからナバラ王国と一緒になるのがいいな >>165
変わっただろうな
何が変わったかといえば、懲りずにまた十字軍を海路で送っただろう 南イタリアが、スペインでなく、フランスの延長になる意味は大きい
フランスは、もっと早くイタリア支配に乗り出しただろう 地理的に国境が大西洋・地中海やアルプス・ピレネーで隔てられてたフランスと
大河や山脈はあっても四方が陸続きでマジャールやらトルコやらへの防波堤だった神聖ローマでは
中央への求心力に差異が大きく異なっても仕方ないような 90年間続いた「シチリア晩祷戦争」は、ナポリ王国とシチリア王国の
国力をともに消耗させた。
結局この戦争で利益を得たのは、莫大な戦費を融資し、商業特権を得た外国商人。
ナポリ王国では、トスカーナやヴェネツィアの商人が優勢であり、
シチリア王国では、トスカーナ商人に替わってしだいにカタルーニャ、とりわけ
バルセローナの商人が優勢となった
なんだか南イタリアは何をやっても報われないという感じだな トゥールーズ伯の家紋とカタリ派の紋章が同じなのはなぜなのか アルビジョア十字軍の時代には、南フランスの領主たちの中には
アラゴン王を君主に抱く者も多かったんだよな カタルーニャの王たちは、南仏オクシタニアとカタルーニャを
一つのまとまった領土と考えていた。
そして、このまとまりを確かなものにするために、代々、
オクシタニアの諸侯と姻戚関係を結ぶなどして外交政策に
心を砕いていた。 南フランスも南イタリアも、アラゴン・カタルーニャの傘下か
アラゴンは西地中海の支配者だな >>176
アラゴン海上帝国の歴史的異称は伊達じゃないですよ カタルーニャはイスラム化してタイファの一国になったほうがよかったな スペイン辺境伯領は、カール大帝によって設けられたものだから、
もともと南フランスとのつながりが強いんだよな カタルーニャはナポレオンの時もフランス帝国領だったしな アラゴンはカスティリアと合同しなければ、もうちょっと海洋政策がまともだったのではなかろうかという疑惑 カタルーニャのラモン・バランゲー3世の三番目の妻が、
南仏プロヴァンス伯のドルサだった。
この結婚は、その後長らく続くカタルーニャの南仏支配の始まりとなる。 シモン・ドゥ・モンフォール軍に、ペラ1世率いるカタルーニャ・オクシタニア
連合軍が勝っていたら、南仏はスペイン領になっていたんだろうか >>184
むしろピエモンテ=プロヴァンス=カタルーニャ・アラゴン王国爆誕で、スペイン誕生せず、ってなるんでは
イタリア王国も結果的に生まれなそう 神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世はフランス王に対して封臣となることを強く迫っていた
オットー4世のとき、ブーヴィーヌの戦いでオットー4世は敗れて失脚
このときオットー4世の側が勝利していたら、フランス王は神聖ローマ皇帝の
封臣になっていた? >>186
しかしもはや双方の合意に基づかずに国境線を変更することはできない
無理やりにでも今の国境線を引いたもん勝ち アルビジョワ十字軍は、現代のヨーロッパで起きていたら民族浄化と呼ばれたかもな
こんなこと大きな声では言えないけど、国民国家形成のためには少数派を
抹殺したほうがいい場合もあるのかも
日本のキリシタン弾圧も同様 民族浄化なんて昔からあったやろ
初期イスラーム教団のクライザ族虐殺
カルバラーの悲劇でのフサイン・イブン・アリーとその支持派抹殺
ドイツ騎士団による古プルーセン人の抹殺
悪名高きスペインの異端審問によるスペイン国内の隠れ異教徒虐殺
フランスのカトリック派によるユグノー虐殺であるサン・バルテルミの虐殺
枚挙にいとまがない >>187
無理じゃないかな
ドイツには強力なシュタウフェン家の勢力があって、例え1戦して敗れてもシュタウフェン家と結ぶことで対抗もできるし、
フランス王を封臣にした場合のフランス王配下の諸侯が納得しないしでどうにもなんないと思われる
英国的なウルトラCで、教皇の封臣(建前)って荒技もある >>190
日本では奈良時代平安時代初期の
隼人や蝦夷の征服戦争だな
それ以降は同じヤマト民族同士の内戦だけになる >>190
それらって宗教的弾圧で民族浄化とは異なると思うのだが 現代は多様性うんぬんといわれているが、国民国家をまとめるためには
異質な集団が存在しないほうがいいんじゃないのか?
東欧諸国は、第二次世界大戦でユダヤ人に対するホロコーストと、
戦後のドイツ系住民の追放があったおかげで民族問題を解決できた シャルル・ダンジューがホーエンシュタウフェンの末裔二人(マンフレディとコンラディン)を倒したことでさぞかし兄貴のフランス国王(聖王ルイ)はノリノリやったんやろな 国民国家や民族主義(Nationarism)という概念はフランス革命→皇帝ナポレオン時代の過程で生まれたものであって、それ以前の時代で「民族浄化」というのは非常に違和感を感じる 誰も民族主義の話なんてしてねーから頭の中に漢語がインプットされてない人はだまっててください アキテーヌとラングドックは西ゴート王国の支配下に置かれた時期もあったな
プロヴァンスは15世紀末までは、公式にはドイツ帝国に所属する、半独立的地域だった
ニースは実質的にはイタリア領だったが、1860年にフランスに割譲された >>195
敬虔なキリスト教徒である聖王ルイの目標は、南仏アルビジョワ十字軍に続いて、中近東に十字軍を送り、異教徒を虐殺することだからな
そのための海路を押さえるためにも、シチリア島は大事 >>199
聖王ルイの場合、「異教徒を虐殺せよ!」とならないあたりに、征服者としての資質は完全に欠いてるというかなんというか
そりゃ十字軍遠征失敗するよなあ、と トゥールーズ伯家の者たちは聖地イェルサレムへの情熱に燃え、
故郷をよく留守にしていた
トリポリ伯国はトゥールーズ伯レーモンが初代の領主 いちばんしっくりくるのは、
ブルターニュ公国、ラングドック公国、ブルゴーニュ公国が独立し、
ガスコーニュがナバラ王国に併合され、
残りがフランス王国になる感じか >>202
ガスコーニュは文化的にはナヴァラ=バスクと共通項が多いものの、政治的統一地域になったことがない
統合するのが自然かと言われたら、個人的にはノーと思う
トゥールーズとプロヴァンスも「ラングドック」と一括りにするのは微妙 結局、どんな形で国境線をひいても不自然な部分、
無理な部分は出てくるということかな このスレを読んでいると、ハプスブルク帝国が近代になって崩壊したのは、
やむを得なかったのかという気がしてくる
フランスのような国民国家の祖国でも、あちこち無理をして
国をまとめあげてきたわけだから ハプスブルクは東に手を広げすぎたな
チェコ、ハンガリーはともかく今のユーゴスラビア辺りまで手を伸ばしたのは非常にまずかった >>206
対トルコの戦線考えれば必然的な国家形成だったわけで、それを「手を伸ばしたのは不味かった」とかしたり顔で言われるのは完全な結果論だろう
一次大戦起こしたからドイツ統一は間違っていた、と同じ程度の暴論 神聖ローマ帝国やハプスブルク帝国の場合、東から異民族が侵入してくるからな
キリスト教世界を異教徒の脅威から守る、という義務も負っていたわけだし 南ドイツ(カトリック圏)と北イタリアがくっついて一つの国になる
可能性はあったのだろうか
ベルギーの場合、ワロンとフラマン、言語が違っても一つの国を形成している >>209
そりゃ、可能性はあった
でも、アルプス山脈は険しいからな 日本の中部地方だと、富山と名古屋は南北に300km離れていて、その間は「日本の屋根」と呼ばれる峻険な山脈。
この距離感と地形が、ちょうど南ドイツのミュンヘンと、北イタリアのミラノくらいな感じだ。
ただし、日本の中部地方の場合は、琵琶湖の方に回って、米原経由で福井回りというコースで北に行くことが可能。
中欧だと、アルプス山脈は東西に広がってるから、そんな迂回路すらない。
ディーゼル機関車のない時代に越えるのは、気の遠くなる道のりだ >>211
>この距離感と地形が、ちょうど南ドイツのミュンヘンと、北イタリアのミラノくらいな感じだ
まちがえた
「ミュンヘンとミラノの距離感」じゃなくて、「ミュンヘンとヴェローナの距離感」に訂正 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています