ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ9
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ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ
文明が終わるということ
識字率そこそこ → 神父以外文盲
上下水道完備 → 糞尿垂れ流し
食器と食事道具 → テーブルのくぼみに盛り付けて鷲掴み
街道は安全 → 野盗・山賊だらけ
貨幣経済 → 物々交換
地中海貿易 → サラセン海賊跋扈
巨大建造物 → アーチすら作れなくなった
各地の特産物からなる豊かな食生活 → 雑穀雑穀雑穀、ちょっと小麦
地中海の覇者 → フン族、アヴァール、マジャール、ヴァイキング、イスラム、モンゴル、オスマンにボコボコ
人類史上最も幸福な時代 → 重税、蛮族の侵入、疫病、餓死、王侯貴族による圧政、教会による支配
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1585306305/ なぜ中世ヨーロッパは厳格なキリスト教を受け入れたのでしょう?
そこにはもちろん、合理的な理由があったのです。
最大の理由は中世の貧しさです。
禁欲のキリスト教は貧しい中世の荘園世界にジャストフィットしました。
それ以前…古代ギリシアやローマの時代は豊かでした。
なぜなら地中海を支配していたからです。
温暖な気候の中、各地域はそれぞれの特産品の生産に特化し、海上貿易が盛んに行われていました。
人々はその経済力で食と性の享楽にふけりました。
しかし、ゲルマン民族の大移動で西ローマ帝国は崩壊。経済秩序が破壊されます。
またイスラム勢力に地中海の制海権を奪われ、貿易も不可能になりました。
ヨーロッパは深い森の中で、小さな村(荘園)単位での自給自足体制を強いられます。
中世とは都市も海も失ってしまった時代。
人々はアルプス以北の寒冷な森に入って行きました。
地力もなく、流通もなく、深い深い森の中にある小さな村での自給自足。
その貧しさに耐えるため、中世は神への強い信仰を必要としたのです。 なぜローマ崩壊後の欧州における文化生活水準が一気に下がったかというと、通常は古代の農村や都市社会は地産地消で
自分たちの必要分はすべて生産できたが、古代ローマではすでに比較優位にもとづく産業の地域分担制が確立されており
高度に発達した流通路を使って庶民でも遠隔地で作られたそれら生活物資を使うことができた
しかしこうした各都市間が互いに依存するシステムは一度交通が遮断されると一挙に石器時代まで戻ってしまうことすらありえる ブライアン ウォード=パーキンズ (著)、南雲 泰輔 (翻訳)
『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』(白水社、2014年6月20日)
ローマ帝国末期にゲルマン民族が侵入してきたとき、
ローマ社会や経済に何が起き、人々の暮らしはどう変化したのか。
史学・考古学双方の研究を駆使して描く、激動の時代の実態。
ギボン『ローマ帝国衰亡史』以来長らく、ローマ帝国は衰亡し崩壊したというのが常識だった。
ところが一九七〇年代以降、研究者のあいだでは、それまで主流だった政治・経済面を中心とした研究に対し、宗教や社会に着眼することで、
「衰亡」とみなされてきた時代を独自の価値を持つ「古代末期」という新しいポジティヴな時代と捉え直す動きが起こった。
さらに九〇年代になると、考古学的史料を用いて、ローマ帝国はやはりある時点で「崩壊」したのだという事実をつきつける研究者があらわれた。
著者ウォード=パーキンズもそのひとりであり、本書では、何がどう問題なのかというレベルからわかりやすく解説しつつ、
「ゲルマン民族が侵入してきたとき、経済や社会に何が起き、人びとの暮らしはどう変化したのか」を、文献史料や陶器・家畜の骨・建築物(の跡)などを使い、
史学・考古学双方の研究を駆使して描き出している。ローマ帝国の洗練された生産・流通システムがひとたび崩壊してしまうと、
地域によっては先史時代の水準にまで後退し、回復には数世紀を要したという事実は、かなり衝撃的である。
英国ペンクラブのヘッセル=ティルトマン歴史賞受賞。 神崎 忠昭『ヨーロッパの中世』
近現代に結実する、豊穣なる中世
―― 中世とは真に暗黒の時代だったのか。
「ローマ」「キリスト教」「世俗権」「都市」「国民」「科学」など、ヨーロッパの基底となるキーワードから読み解く。
▼ヨーロッパ史を学び直したい人のために。
中世ヨーロッパは確かに暗黒の時代であった。しかし、近代において飛躍するヨーロッパを育んだ豊かな苗床の時代であったともいえる。
「ローマ」「キリスト教」「世俗権(王権・帝権)「都市」「国民」「科学」などのキーワードから中世ヨーロッパ史を読み解き、近代の「人間」の時代へと誘う。
▼中世を読み解くための6つのキーワード
【ローマ】中世人は模範として仰ぎ見た。政治的にも文化的にも深い刻印を残したが、中世は古代ローマの繁栄を1000年以上も超えられなかった。
【キリスト教】中世人の心を絶対的な規範として律した。人々はそのメッセージを遵守し、理想に殉じたが、時に軽んじ、自らの利益を優先した。
【世俗権】君主個人の能力やカリスマに基づいたが、教会との闘争を経て宗教性を減じ、官僚制と軍を備えた近代国家へと脱皮した。
【都市】西欧の復活にともない、社会全体の成長のエンジンとなった。生活を向上させるだけでなく、新興階層を出現させ、新しい文化を生み出した。
【国民】帝国でもなく宗教でもない、ヨーロッパが生み出した新しい統合の絆である。現在に至るまで世界を支配している。
【科学】近現代におけるヨーロッパの繁栄の源泉となった。技術を手がかりに、理論を実験や観測と結びつけ、新しい合理的な世界観を生み出した。
・・・そして【人間】へ・・・ 艱難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず。
急いで得た富は減る。少しずつたくわえる者はそれを増すことができる。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
明日のことを思い煩うなかれ。明日のことは明日思い煩え。一日の労苦は一日にて足れり。
いつも与えなさい。そうすれば、人々はあなた方に与えてくれるでしょう。
「眼には眼を、歯には歯を」といえることあるを汝ら聞けり。
されど我は汝らに告ぐ、悪しき者に抵抗うな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。
暗いと不平を言うよりも進んで明かりを点けましょう。
狭い門から入れ。滅びに通じる門は広く、その道はなだらかでこれに入るものは多い。
人生は短く、苦しみは絶えない。花のように咲き出ては、しおれ、影のように移ろい、永らえることはない。
己を愛するごとく、汝の隣人を愛せよ。
自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 かんこくがかんじをはいししはんぐるのみにしたのはしっぱいだったな
にほんごにたとえるとすべてかなでひょうきするようなものだしね
はんぐるだけだとよみにくいうえにどうおんいぎごにまったくたいおうできない
こうしてかんじごにゆらいするじこくごをどんどんうしなっていった
ゆえにかんこくじんはにちじょうをはなれたこうどなぎろんや
ちゅうしょうてきなぎろんをするのがむずかしくなった 東ローマ帝国が東地中海の大帝国として復活した9世紀になると、
宮殿や教会・修道院が多数建設され、孤児院や病院のような慈善施設も建てられた。
古代ギリシア文化の復活とそれを受けたビザンティン文化の振興も進み(マケドニア朝ルネサンス)、
コンスタンティノープルは東地中海の政治・経済・文化・宗教の拠点として、
またロシア・ブルガリア・イスラム帝国・イタリア・エジプトなどの各地から多くの商人が訪れる交易都市として繁栄を遂げ、
10世紀末から11世紀初頭の帝国の全盛期には人口30万〜40万人を擁する大都会となった。
当時の西ヨーロッパにはこの10分の1の人口を抱える都市すら存在せず、
コンスタンティノープルはキリスト教世界最大の都市であった。
※現在のスペイン領のコルドバはコンスタンティノープルに匹敵する大都市であったが、
当時のコルドバはイスラム王朝・後ウマイヤ朝の支配下にあった。
また2世紀の古代ローマ(都市)は100万人を超える住民を抱えていた。
西洋において再びこの人口に匹敵する都市が現れるのは19世紀になってからのことである。 十字軍運動の魅力の秘密
もともと十字軍は一部の騎士に対する呼びかけであったが、
やがて膨大な人数を動員して移民活動のような状況を呈することになった。
十字軍への呼びかけというのは当時のカトリック教徒にとって魅力のある言葉だったのである。
東方のビザンツ帝国やイスラム諸国がもたらす発達した文化や洗練された工芸品や文物、
富は西欧の人々を魅了していたのである。
下級騎士は封建制度の息苦しさと貧困から逃れようとし、農民や職人も貧しく困難な日常から逃れたいという気持ちを持ち、
東方には豊かで文明的ではあるが柔弱な世界が広がっていた。
西ヨーロッパ中世におけるキリスト教徒の2つの生き方、聖なる戦士と巡礼者が一つに結びついたのである。
戦闘に参加した者に免償が与えられる、あるいは戦闘で死んだ者が殉教者となりうるというのは、
十字軍運動の中で初めて生まれた概念であった。
そして十字軍に参加することで与えられる免償は、エルサレムへ詣でるという巡礼者としての免償と、
キリスト教戦士として戦うという免償の二重の意味があるため、どちらにせよ免償を受けられるというのが魅力であった。
このように宗教的なものから、世俗的なものまで、さまざまな動機によって十字軍運動に身を投じたのである。 寡兵で大軍を破った戦いだと日本ならやっぱ桶狭間の戦いだな
駿河・遠江・三河を支配し、海道一の弓取りとまで言われた今川義元の軍2万5千を
小国尾張の一領主に過ぎない織田信長が3千で撃破し、義元の首級をあげた
まさに戦国最大の番狂わせ イタリア料理、フランス料理、スペイン料理
美味いのはラテン系ばかりだな
料理についてはゲルマン系はてんでダメ 人類77億人の頂点が日本国天皇とローマ教皇だと思うと胸熱 中南米はスペイン・ポルトガル人とインディオと黒人がセックスしまくりで混血の坩堝
一方、北米は多少の混血はあれど、白人は白人、黒人は黒人、インディアンはインディアン、アジア系はアジア系
という具合であまり交わらない
ラテン系とゲルマン系の気質の違いなのかね フーリー(アラビア語: حورية)は、イスラームに伝えられている天女達の総称。
その肌は白く、金髪の乙女であるという。フーリーはペルシア語で、古代アラビア語ではフール(Hur)と呼ばれる。
フーリーは天国に来たイスラーム信者の男性のセックスの相手をするとされ、一人につき72人のフーリーが相手をするともいわれる。
彼女たちは永遠の処女であり、セックスを行い処女膜が破れても、すぐさま再生するとされる。
イブン・カスィールによれば、ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは
『天国では男性は一日100人の処女とセックスが出来る』と述べていた。
また、『われわれは天国で処女とセックスが出来るのでしょうか?』と問いかけた信者に対して、
『もちろん出来る。そしてセックスが終わった後には、彼女は清らかな乙女に戻るのだ。』と述べたともしている。 生活面で言えば京阪神や名古屋が一番バランス良くて暮らしやすいよ。
大都市の割には住居費・物価が安いし、商業施設や娯楽などの一通りのものは揃ってる。
イベントや巡回展も基本的に回ってくるしね。
仙台や広島は都市のレベル的に色々物足りないし、
札幌や福岡はそこそこ都会だけど、東京・大阪まで遠過ぎるから、
ちょっと遊びに行くだけでも交通費や宿泊代がかかりまくって大遠征になってしまう。
金持ちなら東京が最強だけど、住居費が高過ぎるから庶民にはきつい。
娯楽なら東京、コスパなら名古屋、飯なら京阪神が最高。 アフリカでまともに暮らせそうな国なんてエジプトとモロッコくらいしかなさそう カルタゴはギリシャやケルト諸部族と同盟してローマを討つべきだった ガリアとマケドニアと組んでも勝てなかったのに?
意味ないよ ローマとカルタゴが死闘を演じている時、ゲルマン人はやっぱり森の中でウホウホやってたの? 中世の東欧(ポーランド等)の歴史を学べる本を教えてくれませんか 何で中世ヨーロッパでは、テーブルの窪みに料理を盛り付ける、なんて訳の分からないことしたんですか?
普通に取り皿を使ったほうがよっぽど食べやすいのに 皿を作る技術がないし、
ゲルマン諸王国の割拠による交通の分断で皿の生産地との交易が途絶えたから 日本のマスク不足にも通じる
マスク工場が殆ど中国にあるから全然こっちに入って来ない >>25
でもテーブルを作る技術があるなら、木を削って木皿くらい作れないか? 皿のように固いパンがあって
それを皿代わりに使っていたから 木皿は洗っても汚れが落ちない使えば使うほど汚れがひどくなる
古代ではそれが当たり前だったけど中世期になると伝染病流行ったりで使うのを辞めた
東アジア圏、主に中国では木皿を辞めて汚れ落としやすい磁器皿に早いうちから切り替えてた
その情報自体は知られてたけど原材料だったり技術までは伝わってこなかった
ヨーロッパに磁器もたらされたのは大航海時代以降中国との貿易確立してから
CHINAと言う名前は磁器由来の単語 古代日本のように、使い捨ての土器(かわらけ)の小皿、というわけにはいかないか。 アルムおんじの仕事は、山から切り出した木で皿や椀を作って
デルフリ村の雑貨屋に卸すことでした。 現代でもサラダボウルとか気が多いやん
ラーメン屋の匙も気が多い >>33
それはコーティング技術が発達したからだよ
この時代にそんな物は無い 食器の歴史は面白いんだよね
木器でも、例えば漆器という東アジア生まれの特殊な器が珍重されたりする
欧州だと漆がなかった分、中世にはワニスの利用がされたんだけど、漆ほど性能が良くなかったんだよね
たから中世から近世の欧州では、テーブルそのものが器の代わりだったりもした >>35
既に書いたけど、東アジアには漆があるんだよ
これ、紀元前9000年くらいから利用されてたりする
考古学的な裏付けもある
ただ、漆器って陶磁器より量産性良くない この時代であっても、白木の木器に蜜蝋なり亜麻仁油なり塗れば
ある程度のコーティング効果がある。 >>37
食器、陶磁器関係は結構歴史と紐づいてるから意外と深い
日本の有田焼も豊臣秀吉の朝鮮出兵で朝鮮から連行した人が祖とされてるし 朝鮮陶工「アイゴー!倭人に拉致されたニダ!ウリナラに帰りたいニダ・・・」
その後
通信使「おい、戻るぞ」
朝鮮陶工「イルボンでの待遇が良いから、もうあんなとこ戻りたくないニダ!」 >>40
有田焼の祖が朝鮮の陶工というのは事実だが、強制連行したというのはウソ >>42
>朝鮮陶工「アイゴー!倭人に拉致されたニダ!ウリナラに帰りたいニダ・・・」
拉致なんかしてないって(笑)
陶工は、朝鮮じゃ奴隷の身分だよ。
選択の自由はないし、愛国心もない。
「九州でやらないか?」と言われたら、ついてくるに決まっている。
それに鍋島藩は、朝鮮から来た陶工に磁器の制作をさせる一方で、せっせと明から最新の設備や技術を導入していた。
欧州や中東の金持ちに輸出するためには、彼らが好むカラフルで華やかな陶磁器を作る必要があり、朝鮮の技術だけではできなかった。 中近東では、アラビア商人が輸入する中国産の陶磁器が、中世から珍重されていた。
モンゴル帝国の時代には、陶磁器が輸出されすぎたため、中国に残っている作品が、宋代や明代に比べて非常に少ない。
もっとも、白磁や青花文様は、派手好きなアラビア人にとっては、ちょっと地味だった。彼らは、輸入した磁器に、金の口を付けたりしていた。
欧州までは、なかなか到達しなかった。 預言者マホメットも、「詩と宗教はアラブ、技術は中国」と言ったほど、中国の技術には定評があった。
現代でも、東アジアの製造業は他地域を圧倒しているが、それは今に始まったことではなかった。
でも、欧州だって、ローマ帝国の時代には最先端の工芸があった。技術は先進国のギリシャ人に頼る面が多かった。
2000年前のガラス工芸は、驚くほどモダンな作品。東アジアにも輸出された。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/be/Portland_Vase_BM_Gem4036_n4.jpg/100px-Portland_Vase_BM_Gem4036_n4.jpg >>42
通信使の記録にあるな
朝鮮に帰ると奴婢にされるという噂が広まり、帰国に応じる者は少なかったと
そういう国だったんだよ昔から ノモンハン事件の日本人捕虜「帰国すると自分は自決強要、家族は村八分になるので帰国できません」 10世紀頃のアジアが凄いのは事実だが、それは中国や新羅高麗の話であって、倭人国の事ではないからな 結果だけを見ると
火薬技術も中国発→1000年守ってきた城壁陥落中世の終わり
羅針盤も中国発→大航海時代の立役者
陶磁器も中国発→ルネサンス文化に貢献
この頃の中国は欧州に影響与えまくり インフラの話をしてるのに、鉄砲の話を出す馬鹿がいるからなー 日本最古の印刷物は、百万塔陀羅尼だな。
その印刷された経文は、ロクロ細工の木製のミニチュア仏塔に納められている。
つまりロクロ細工の技術もあった。
このまえのNHKスペシャル、アイアンロードによれば、ロクロ細工の木工技術は
すでに弥生時代からあったようだ。 新大陸では轆轤は発明されることがなかった
なぜなのか そもそも、新大陸では金属を使ってなかった。
高度な文明なのに、なぜか石器だった。
石器といっても、旧大陸の原始人のより段違いに優れていたが フックの法則も知らず、経験と勘に頼ってた古代ローマの土木技術者に、17世紀フランスの土木技術者みたいな構造計算ができたのか? 暗黒の中世でも
最盛期のイスラムに、一歩たりともローマへ踏み込ませなかったのは
意外と、西方世界も手強かったのか
イスラム帝国が見かけ倒しだったのか
ttp://hadith.main.jp/vol3-742.html
あなたたちがアラビアの地を攻撃すれば、アッラーはその征服を可能にして下さる。
その後、ペルシャを攻めれば、アッラーはそれを可能となさる。
その後、更に、ローマを攻めれば、アッラーはそれの征服も可能となさる。
そして、その後になってダッジャールを攻撃すれば、アッラーは彼を征服することを可能ならしめて下さる >>68
>意外と、西方世界も手強かったのか
イスラム帝国が見かけ倒しだったのか
ビザンチン帝国という、強固な壁が防いでくれたおかげ なぜ、中世ヨーロッパでは交通インフラが衰退したのか。
「職人がいなくなった」というのもさることながら、やはり、人の往来が以前ほど活発でなくなったのが根本的な原因と思われる。
江戸時代の日本が、馬での移動を制限したおかげで、馬車すらない後進国になったのと似ている。 人の往来が減って衰退・・・・まさに今同じ状況・・・ >>68
中世の途中までモンゴル帝国がイスラム勢力圧迫してたから
ビザンツが延命できたのもモンゴルのおかげ
雑魚の十字軍に陥落させられるようなコンスタンティノープルだけじゃ侵攻防げない おかげで、東方には謎のキリスト教国があるという伝承が生まれた。
伝説のキリスト教国王「プレスター・ジョン」へ使節が派遣されたほどだ。 >>69
シチリアまではイスラム化してたからあの狭いメッシーナ海峡を隔ててもう一歩だったんよな >>63
ギザのピラミッドのほうが圧倒的にでかいけど
あとクテシフォンもその大聖堂の身廊がすっぽり収まるほどデカい >>63
パンテオンやアヤソフィアと比べると技術的困難さは小さい気がする ローマの優れた技術が忘れ去れたのち、ローマ時代から残る水道橋は
「悪魔が作った橋」との伝承が生まれた。
美的にも技術的にも「人間技」じゃないから >>69
フランク王国「ワイも」
>>76
ポルトガルはエチオピアに使者を派遣してたみたいだね カール大帝以降のフランクの君主はフランク国王であると同時に西ローマ皇帝なんだから
フランク帝国と呼ぶべきでは? 12世紀のゴシック建築地域はパンテオンやアヤソフィアのある地震の多い地域とちがうので単純に高さだけで比較出来ない >>82
その理屈は極めておかしい
ローマ皇帝がローマ市民の選挙(歓呼)なくなれるとでもいうのか >>63
古代との比較はともかく、素晴らしい建造物であるのは確かだろうね
古代や他地域と比較して、全ての面で大きく遅れていたわけではない >>85
なれるんじゃないの
事実上前帝から事実上の後継者に認定されてたり、軍隊の推挙だったり、
軍団長が勝手に皇帝を名乗った後ライバルを合戦で破って単独皇帝になったり
そんなのばっか
市民の歓呼なんて事後承認
市民が歓呼しなくて就任できなかった皇帝とかいるのだろか 少なくともローマ元老院の承認は必要
カール大帝の時代にはローマ元老院消滅した後でどっちにしろ無理だった
東ローマは西側放棄してるくせに嫌がらせのように承認しなかった
カール大帝可哀想 ウァレンティニアヌス三世の即位って元老院の承認必要だったの?
あったとしても事後承認なんじゃないの? アサシンクリードの新作(アサシンクリード ヴァルハラ)の舞台がイングランド
これはやりがいあるなー >>80
「伝承」としてのいわゆる「悪魔の橋」って、中世に作られたものも多いんだけどね >>87 >>89
実質どうであったかは別にしてあくまでも元老院が一番上でインペラトル(皇帝)がその下と言う社会組織
色んな経緯で皇帝排出してきたけど武力であろうと事後承認であろうと元老院承認の伝統はローマ帝国時破られたことは無かった
カール大帝戴冠は西ローマ末期皇帝と同等の権力持ってた教皇の独断
2〜3番目が2番目を指名した話なので正統性の話をするならちょっと違うよねって話 古典時代のギリシア人もミケーネ文明の遺跡を「あれは一つ目巨人キュクロプスが作ったに違いない」とか言ってたしなあ ギリシャ暗黒時代は暗黒だから何があったのかわからんからなぁ
イーリアス見るとミケーネ時代のことは伝承で伝わってたみたいだが >>92
君のいっているのはほぼ元首政だけに該当する内容
元首政時代の慣習の基準をカールの時代に当てはめるのは無理がある
>元老院が一番上でインペラトル(皇帝)がその下と言う社会組織
これは後期帝政では逆になる
後期帝政期の元老院議員は皇帝が決めた爵位階層に分けられていた
決して元老院が皇帝に爵位を与えるということはなかった
その実態を反映して4世紀末に官職表が作られた
この官職表には皇帝という職位の記載はないが、皇帝が第一位なのは自明だったから
ランキングを数える時は皇帝を一位、官職表トップを二位としてカウントすることになっている
社会制度や組織は変化してカールの皇帝位は後期帝政の延長線上にある
教皇が戴冠するというのは当時としてもずいぶん無理があったが、強引な伝統破りが
新たな伝統となっていくことも多いのが歴史
>事後承認であろうと元老院承認の伝統はローマ帝国時破られたことは無かった
元老院が承認しなかったマクシミヌスも4世紀の皇帝一覧史料では正統帝扱いになってるけどね・・・ >>82
日本では、「神聖ローマ帝国は、962年のオットー戴冠から始まった」ということになってるが、
ドイツでは、「800年のカール戴冠から始まった」とされている >>85
神聖ローマ帝国の皇帝に、市民の歓呼は必要ない
「ドイツ王」と「ローマ王」の称号を獲得し、ローマに上洛して教皇の戴冠を受ける、というのが条件 >>86
12世紀くらいから、ヨーロッパの文明もだいぶ進んでくる
それまでは本当に「暗黒時代」と言われても仕方なかった >>80
それを言ったら、エジプトのピラミッドとか、ナスカの地上絵なんか、「宇宙人が造った」と主張した人が現代にもいるくらいだけどな メロヴィング朝の初期の頃はゲルマン語を話していたんだろうけど
カロリング朝の頃はもうみんなフランス語を喋ってる感じ? >>97
残念ながらカールの頃は、ただの西ローマ皇帝なのよね
それが単に西欧の「皇帝」(まだ神聖ローマ帝国ですらなく、帝国でもない)となるのはザクセン朝のオットー1世を待たねばならない >>100
日本では、フランク王国は、どっちかっていったらフランスの前身と考えられているからな >>101
逆なのでは?
メロヴィング朝はネウストリアが本拠で
カロリング朝はアウストラシアが本拠 アインハルドゥス「カール大帝伝」によると、母語はゲルマン語らしい。 >>102
いや、西ローマ皇帝じゃなくて「ローマ皇帝」だぞ
西ローマ皇帝としての戴冠だと勘違いされやすいが、
東のビザンツ帝国に対して、こっちの方が
ローマ帝国のかつての首都だったローマの教皇からの戴冠だ!
こっちの方が正統だ!
お前らからの承認なんて必要ないわギリシア人の皇帝ごときが!
という主張だったんだべ。
単一の皇帝であり東も西もない、唯一無二だ!とね。
もちろん東ローマはカールを『ゲルマン人の皇帝』と呼びローマ皇帝だとは認めなかったわけだが。 ローマ皇帝として戴冠されたカールは、自らの称号を認めるよう東ローマ帝国へ使節を送った。
この交渉でエイレーネーは、自身の女帝即位について帝国西方での承認を取り付けるべく、
自分とカールとの結婚を提案した。ローマ帝国を統一するこの結婚にエイレーネーは乗り気であったし、カールの側でも提案を好意的に受け止めたという。
しかし、失政の続くエイレーネーの求心力の低下とフランク人への反発によりエイレーネーへの反対勢力が強まり、
802年10月31日にエイレーネーは財務長官ニケフォロスの宮廷クーデターによって廃位された。
これにより、イサウリア朝は断絶した。こののち、ニケフォロスはニケフォロス1世として即位し、ニケフォロス朝が始まった。 エイレーネー「私たち結婚しない?」
カール大帝「いいですね(本音:BBAはちょっと・・・)」 実の息子の目ん玉くり抜くとかエグ過ぎる
バシレイオスの場合はまだ敵兵のブルガリア人だったからまだしも >>106
エイレーネーは皇帝とみなされず、帝位が空位状態と認識されていたからね 近代のブルガリア国王もツァーリなのに、誰も皇帝とは読んでくれない(>_<。) フランスもロシアもオーストリアもイギリスもちゃっかりと。 ロシアもインペラートルを名乗った時は
諸外国から「東方のスラブ人の酋長風情が皇帝を名乗るとかwww」と馬鹿にされたみたいだけど
西欧化を推進したり、相次ぐ戦争に勝利して国際的地位を高め、徐々に承認されていった >>113
ナポ公の場合はローマ教皇からの正式な戴冠だから王道中の王道でしょ >>112
高宗「自分から皇帝を名乗ればええやん」 http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/018/157/89/N000/000/000/125481428609216132572.jpg
132 <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん 2011/05/20(金) 19:51:34.91 ID:EdrCPrGF
>>86
大韓帝国
(大=Greatが付く帝国ってのは、どこか他国を占領・編入したか、
複数民族・言語で成っている帝国の場合なので、
それもないのに、大=Greatを僭称するのはおかしいと
英仏ロシアから何度も忠告されたが、理解出来ず無視ww)
初代皇帝である高宗
明治天皇に嫉妬、対抗するため、服装だけ急遽真似した。
やけに小さなプロシア式突撃兜をかぶってるのはおかしいのだが・・・・
部下も本人もアホで、何にも調べず、適当にかき集めたから・・・
ドイツ帝国陸軍歩兵帽に、歩兵用ベルト、剣はフランスの軽騎兵のものw
フランス騎兵の歩兵ズボンなんかをかき集めたw
上着は英国騎兵馬世話係の古着らしい。
アイロンもかかってないし、お披露目した途端に各国大使の物笑いにされた。 >(大=Greatが付く帝国ってのは、どこか他国を占領・編入したか、
>複数民族・言語で成っている帝国の場合なので、
大日本帝国はアイヌ民族と琉球民族を(のちには台湾の諸部族も)支配していたからセーフやな >>101
メロヴィング朝は俗ラテン語が主流
8世紀から北部は、フランク語の語彙が混じった古フランス語(オイル語)へ変化する
南部はフランクの影響がなく、北部とは現代に至るまで言語の差異(オック語)が存在する(プロヴァンス地域など) ちなみにフランク語は細々とではあるが、10世紀まで使用されていた(フランク人の人口比率がローマ人に対して1%なので)
ローマ系住民がゲルマン名を名乗り始めるのは7世紀から 北京語は清の時代に女真訛りがかなり入っている
華南の方が古来の中国語の姿をよくとどめているらしい? アイルランド固有の言語であるゲール語は、ケルト系の言葉
ゲルマン系の英語とは意思の疎通が不可能だということだ。
ゲルマン系の言葉やラテン系の言葉はともに国際言語になっているのに、
あわれなケルト語 >>102,>>106
最初カールは「ローマ帝国を支配する者」と称したが、その後ビザンツにケチをつけられ
ビザンツに当てた書簡で「東方と西方の帝国」と区別することに妥結した
だからカールを西ローマ皇帝ととらえることもできないわけではない >>127
アメリカのアーミッシュも古いドイツ語使ってるね
現代ドイツ人にはもはや通じないという フランク帝国とビザンツ帝国は国境を接していたのだから軍事的に決着をつければよかったのだ
どっちもそれができるほどの国力はなかったから玉虫色の妥結交渉にとどまった
最盛期のローマ帝国の皇帝たちがこれを見たら辺境の僭称政権同士の競り合いにしか
見えない程度の話
いっそのこと教皇が中ローマ帝国を復興して三国時代にすればよかった
当時のイタリアに孔明みたいな天下三分の計を策案して実行できる実力者がいなかったのが惜しまれる >>131
ピピンにわずかな土地を寄進されるまでまともな領地も持たず、その後も軍事力は皇帝に頼りっきりだった教皇がなんだって? >>131
それは、正親町天皇に「織田信長と戦え」というくらい無理がある そもそも、ローマ皇帝に「教皇からの戴冠」なんぞ必要ないどころか、そもそも戴冠って何よって話だからなあ
登位するって方がより正確だわな >>133
クローヴィスの出生地で、サリーフランク族の本拠地でもあったからね
この時は、ソワソン管区のアフラニウス一族と仲良かった 確かに教皇単独では無理だが後にベレンガーリオやフーゴーなどもイタリア単独の勢力を築こうとしていたし
ノルマン王国がイタリアの半分の領土を持ち、神聖ローマ皇帝にもなったことを考えると、イタリア単独でフランクとビザンツと
たたかえる帝国を構築できる可能性がなかったわけではないと思うのだが >>137
ノルマン王国が神聖ローマ皇帝になったって、あれは両シチリアの王位が断絶して、ホーエンシュタウフェン家に移っただけやんけ >>131
ビザンツの方はすぐ隣にアッバース朝があるからフランクを相手にしてる場合じゃないしな
そういやフランクとアッバース朝は仲良かったみたいだね
後ウマイヤ朝を挟撃しようぜ!みたいな話もあったらしい
時代は下ってフランスとオスマンも共通の敵である神聖ローマに対抗して同盟みたいな関係になっていた >>125
人口比でいったらたった1人のフランク人に99人のローマ人が支配されていたわけか
どんだけ軟弱なんだよローマ人w
むしろフランク人がマッチョ過ぎて99人のローマ人相手でも無双出来るくらいマッチョだったのか? 金も清も少数の女真族(満州族)が大多数を占める漢族を支配していたな 第4次十字軍は悪名高い
ビザンツもビザンツで内輪揉めに十字軍を利用したはいいが、見返りの金を払えず、
乗っ取られて一旦滅亡とか、ちょっと見苦しいな 袁世凱、皇帝を名乗るも支持を得られず終了
オスマン帝国滅亡後に某アラブ人がカリフを名乗ったが、これまた民衆からスルーされて終了
あとアメリカにも一人だけ皇帝に即位した人がいたらしい >>133
こうしてみると、メロヴィング朝というのは、ほぼ「フランス+ベネルクス3国」だな
今でいうドイツは、ほとんど入っていない 欧州・南北アメリカ以外でemperorとして認められたのは
日本の天皇、中国の皇帝、トルコのスルタン、イランのシャー、インドのパードシャー、エチオピアや中央アフリカの君主くらい
なんちゃってウリナラエンペラーはただの自称 メロヴィング朝は、首都もパリだし、ほぼフランスそのもの コンスタンティヌス大帝も、コンスタンティノープルに遷都したおかげで東ローマ帝国のイメージが強いが、父の代からガリアが勢力基盤
事実上、ガリア帝国による東西統一に近い キリスト教徒が一致団結してレコンキスタに励んだかと思いきや
カスティーリャ=レオン王国からポルトガルが独立を掻っ攫ったり
敵の敵は味方の論理で時にはイスラム勢と手を組んだりと
美談ばかりではないのが現実なのよね
そもそも西ゴート最後の王様が味方の裏切りで戦死してるか >>158
WW1後におけるドイツへの賠償金を思いだした
結局ヒトラーが踏み倒したが 「中国が保有するアメリカ国債をチャラにすることにより、賠償金の代わりとする」という案も浮上している 今でこそ「上品な文化国家」のイメージが定着しているフランスだが、昔は粗暴の代名詞。
刀でブツ切りにした肉を、手づかみで食べる肉食人種。
中世の十字軍を観察したアラビア人の記録でも、ちょっとしたイザコザでたちまち殺し合いの喧嘩になり仲間を殺してしまうという、フランク人の想像を絶する粗暴さにアラビア人はあきれ果てている ラグビーも、祭りでボールを奪い合うゲームをするたび毎回のように死者が出るので、死人が出ないようにルールを工夫したのが始まり。
あんなに反則規定が多いのは、そのせい。
昔のイギリス人やフランス人は、それくらい狂暴な荒くれ者で、モンゴル人より怖ろしい >>164
イタリアからスプーンやフォークが伝わるまで鷲掴みってマジ? 投石器で敵兵の生首を砦に投げ込んだり、人間を焼いて食ったり、
なかなか素敵なエピソード満載な十字軍 >>164
そのフランク人ですら恐れたヴァイキングはもっとヤバかったのね >>158
情弱ネトウヨはこんなフェイクニュースではしゃいでんの?
まあネトウヨだからしょーがないかw >>169
それ某Q&Aサイトで情弱がフェイクだと見抜けず質問し、サヨク自任してるカテマスも
フェイクだと気づかず回答してたwww 元々日本語で使われてるフランクな人もそのまんま初期のフランク人が語源
気取らない率直な性格、遠慮しない人等そのまんま当てはまってた民族
後期になるとキリスト教化が浸透してかなり落ち着いた性格になってたけど ヴァイキング「ヒャッハーw」
フランク人「あいつら野蛮杉」
サクソン人「同意」
ワイ「あれ昔のお前らの姿やで・・・」 金目の物や家畜は勿論、人攫いまでしていた
捕まった人たちは奴隷としてイスラム世界に売り飛ばされた
なお東ローマ帝国に行き傭兵として活躍した者も多かった 中世の海はサラセン海賊やヴァイキングが跋扈していて危険極まりないな イギリスは私掠船を使ってスペインの船舶を襲わせて利益を得ていた
ヴァイキングの血が色濃く残っている >>164
>>165
それって戦国時代に日本に訪れた宣教師の日本人像そのものだな
日本の伝統スポーツでも競い馬も現在では洋式の競馬に準じるルールになっているが
本来は鞭で相手をしばいたり掴んで引きずり倒して勝敗をつけるデスマッチ
実際に賀茂競馬図屏風や江戸城図屏風にはそういう場面が描かれている >>171
あの、それはフランク王国ではフランク人Populus francorum=自由民身分だったので、後にfrancと自由の意味の混同が起きた結果なんよ… フランク族が「ハーイジェニファー!今日もイカシテルネ!」みたいなナイスガイだった、ということではないんよ… 2004年のアテネオリンピック
入場行進の放送で
フランスはガリア、ドイツはゲルマニアとそのまま言っていた。
日本を倭国というのと同じじゃないか。
さすがに英国はブリタニアではなかったような気がする。 ヒトラーはベルリンをゲルマニアに改名しようとしていた 中国は昔みたいに支那と呼ぼう
欧米だってchinaと呼んでるわけだし、
中国もニホンのことをリーベンとか訳わからん読み方で言ってるからお互い様だ 中国語では法国と徳国
何やらありがたい御経がありそうな、そこに行けばどんな夢も叶いそうなフインキ カレドニア=スコットランド
ブリタニア=イングランド+ウェールズ
範囲はほぼこんなもんか >>181
ゲルマニアやジャーマンっていずれも「他称」だよね?
「倭国」「ジャパン」みたいに。
ドイツ民族の自称でなくていいのだろうか。 >>183
>中国もニホンのことをリーベンとか訳わからん読み方で言ってるからお互い様だ
現代中国語では「日本」をribenと発音するというだけ。日本側が「chuugoku」と発音している時点で既に「お互い様」
中国を日本が支那と呼ぶ場合、お互い様にあたる中国側の日本の呼称は「倭」だろう 純正ゲルマン語ならライヒスシュタットとかドイッチェスブルク?
アドルフヒトラーシュタットとか作んなかったのか もともと支那は差別語ではない
中国を指す国名として仏典にあった「チーナ」が由来 >>183
中国だと日本の中国地方と紛らわしいシナ おいジャップ、語源が差別的じゃなければ差別語じゃないとか言いたいのかいジャップ、Japanの後半を略しただけなんだから差別語のはずないよなあジャップ、おいなんとか言えよジャップ、元気かジャップ、強く生きろよジャップ 日本の自称は
「やまと」
「ひのもと」
「あきつしま」
「とよあしはらみずほのくに」
このあたりか。 >>190
>もともと支那は差別語ではない
そうだね。きっと君は中南米やスペイン語圏でチーノと呼ばれても怒らないんだろうねぇ ヘレネスとバルバロイ
古代ギリシャも中華思想に通じるものがあるな そういえば中世のビザンツ帝国ではヘレネス(ギリシア人)は侮蔑語だったらしいね
末期になってやっと差別語ではなくなり、自分たちをヘレネスというようになった 古代ではギリシャ人はローマ人を下に見ていたけど
中世ではギリシャ人の意識は消えて、自分はローマ人だという認識がメインになっていったの? 中世ではアリストテレスもソクラテスも忘れ去られていた
アレクサンドロス大王はあまりにも強烈過ぎたので欧州でも中東でもみんな覚えていたがな 古代インドでもアーリアと黒い肌の人(ドラヴィダ系)
中世アラブでもアラブとアジャム
ペルシアではイーラーンとトゥーラーン
とか中華思想はどこでもあるようだね
>>198
そうらしいね 中世のキリスト教世界でもアレクサンドロスは英雄、トラヤヌスは名君として伝わっている
コンスタンティヌスは教会補正で聖人に、一方のネロ、ディオクレティアヌス、ユリアヌスはボロカス >>142
当時ガリアをまとめる人がおらず、クローヴィスが代わりにまとめたに過ぎない
つまりフランク王国は外交で建国した
クローヴィスは、バラバラになっていたガリア各地の元老院貴族を説得し、領土と地位を約束して味方につけ、シアグリウスに勝って建国
が、王権が弱く誰も税金を払ってくれない
そこでガッツのある奴を雇って収税官に任命した
その収税官が力を持ち、後に地方長官や辺境伯へと変化した
ちなみに移住したフランク人が、元老院貴族の支配下にある例も普通に見られた >>169
情弱はお前だよ(笑)
フェイクニュースじゃないぞ
日本では「トランプは反中だ」ってことになってるが、アメリカでは議会のほうがもっと反中 >>202
外国人コンビニ店員でどう見てもフランス人かイタリア人あたりにしか見えない人いるけど
あれインド人かネパール人
インド人の場合はラジャスタンとか北インド出身の人が多い
色が黒い場合でも色黒の白人って感じで明らかに東南アジアとは顔立ちが違う アメリカの黒人もほんとに真っ黒な人から白人やアジア人が日焼けした程度の黒さの人まで
色々いて結構グラデーションな感じだよ >>205
目の色で判断つくんじゃない?
白人はブルーやグリーンだけど、アラブ人ペルシャ人インド人は黒目
トルコ人はたまに金髪碧眼もいるから白人と見間違えそうになるけど >>202
北インドのアーリア系は、色が黒いだけで、顔つきはドイツ人みたい
南インドのドラビダ系は、「南洋の土人」という形容がピッタリの外見 >>207
北インドの人は碧眼も普通におるで?
当然イランにも多い >>188
倭は、単なる古名だろ
別におかしくない アラビアでは、十字軍を「フランク」と呼んでいた
「フランク」は野蛮人の代名詞だった 上の方でコロナ賠償がフェイクニュースだどうとかといっているが
これの元ネタは台湾の民進系自由日報の29日の記事で内容を膨らませて伝えたもの
例えばドイツのゴシップ紙が独自に「コロナでドイツの経済損失は1490憶ユーロ」と推計してみた、
という記事が、自由日報では、「ドイツ政府は中国政府に1490憶ユーロを請求するつもりである」
と断定している
自由日報のこの件は、その前日28日にトランプがドイツの記事の件をメディアに質問されて
「アメリカはドイツ以上の額になる」と答えたものを「アメリカはドイツ以上の額を請求すべきだ」
と解釈して、その他各国の似たり寄ったりの情報を搔き集めて総額を足し算して記事にしたもの
そもそもトランプは質問されたドイツ紙の記事がどんな性質のものか知らずに答えたのだろう
これをフェイクニュースといえるかどうかはわからないが、ゴシップ記事が雪だるま式に
広まったものだとはいえよう 関係ないけど、唐は、周囲の諸民族から「タクバツ」と呼ばれてた
唐としては「中華帝国」のつもりだったが、他国から見れば「タクバツ王国」だった 漢族本土の天子に加えて突厥から天可汗の称号を贈られたのだから
単なる王国を上回る帝国だと考えたのではないか
ちなみにタクバツと呼んでいたのは周辺民族中でも西方民族だけじゃないかな 拓跋(一発変換できる!)は北魏を興した民族だったな。
もとは遊牧民だったが、徹底的な漢化政策を敷いた
小説家の田中芳樹はシナ、漢民族マンセーで
明や北宋、南宋マンセー
清はぜったいに認めない。
だが北魏は異民族ながら漢化したので認めてるふしがある。 >>211
スラブやフランク人の系統もやっぱり入ってるのかな。
基本、トルコ人の祖先は突厥とされているが。 >>210
スリランカに行ったことあるけど碧眼が緑目がちらほらいるんだよなそれが
若者は男はダルビッシュ顔、女はローラ顔で色黒の美男美女で多い >>213
東ローマも一括してフランク人と呼んでたね
その野蛮さ&ハンサムな顔立ちに、東ローマの貴族女性は色めきだったそうでww
フランク人はアラブとかをサラセン人と呼んでた 千一夜物語には、よく白人の宦官が出てくるな。
出身はスラブやフランクなんだろうが、やっぱり見た目を買われて採用されたんだろうか。
白人女と結婚してめでたしめでたし、なんていう話もあるし。 >>217
中華史観の人は「北魏の漢化政策」の話が大好きだが、漢化政策は、個人的に漢の古代文明を愛好した孝文帝がやったことで、孝文帝の死後はただちに鮮卑貴族たちが反動的な六鎮の乱を起こした。
その前の太武帝のときは、やはり急激な漢化政策を進めようとした漢人宰相の崔浩が、皇帝の怒りを買って誅殺される事件が起きている。 インドの例だと、ムガール帝国のアクバル大帝が進めたヒンドゥー化政策が挙げられるだろう。
それ以前の初代パーブルは、皇帝でありながら、「暑くて、メシがまずい」といってインドを好まず、死ぬまで中央アジアに帰りたがっていた。
2代目のフマーユーンは、一時期ペルシャに亡命していたので、大勢の料理人を連れ帰ってきて、一気にペルシャ料理が普及した。
アクバルの後のアウラングゼーブは、逆に反動的なイスラム化政策を進めて、帝国崩壊の原因を作った。
でも、「北魏の漢化政策」の話が中国で好まれるのに似て、アクバル大帝のヒンドゥー化政策は、現代のインド人から高く評価されている。 北魏の鮮卑人が、滅びた漢の先住民文化を一生懸命に学ぼうとしたのと同じで、フランク人もいにしえのローマ帝国の古代文化を学ぼうとした。
シャルルマーニュ大帝は、ラテン語ができるどころか、そもそも文字が読めなかったと言われているが メロヴィング朝の初期、フランク貴族とローマ元老院貴族の息子らは「王と食卓を共にする者たち」として幼き頃より交流を深め、成長した際は一緒に政治を担った
これは権力が弱かった為、常に軍と共に数ヶ月単位で、地方から地方へと移動したメロヴィング宮廷の習いである >>186
ジャパンは日本やから自称やで
訛ってるだけや 日本では、「朝鮮人」が韓国人の蔑称
中国では、「高麗人」が朝鮮人の蔑称 >>229
そりゃ苦しいな
露助がРусскийだから自称、と言うようなもんだ >>222
ややこしいけど、十字軍遠征の時はもう『フランス王国』と『神聖ローマ帝国』なので
彼らの自称はもうフランク人ではないな
もっとも、アラブ人などイスラム世界側での呼称はずっと”フランク人”のままだったが
西欧世界のお国事情など知らないので、イスラム教徒側の記憶は
ウマイヤ朝がイベリア半島から西欧に侵攻した時代のままなのだ
まあそれはともかく、
>その野蛮さ&ハンサムな顔立ちに、東ローマの貴族女性は色めきだったそうでww
これは本当なのか?
確かに、アレクシオス1世の娘であるアンナ・コムネナの伝記では、
第一回十字軍の中心的な騎士の1人ボエモンのことを
「(中略)恐怖感を感じさせる一方で、何とも言えない魅力があり」
「この男に勝る資質の持ち主と言えば、私の父である皇帝だけであろう。」
などと一定の好評価を下しているから、性的な魅力も感じていておかしくはない。
ただ、よく見るボエモン1世のポーャgレートと比較bキると、
試タ物は金髪碧眼=A色白、顔の毛bヘ髭も含めてきb黷「に剃る、頭粕ッは耳の辺りで鋳Zく剃っているb轤オいので、
大分外見は違うようだ。 >>223
アラブ人のほうが文明度上なのに、
白人のほうが美しい扱いというのは不思議 白人を美しいと思うのは、西洋文明に毒された結果だろうか
それとも人間の本質的な欲求だろうか
光源氏にバイキングの姫君を紹介したら、彼はどんな歌を詠むだろうか そりゃ単純に人種的なルックスの問題だろ
イスラム圏の男は中世から金髪白人女が大好きな奴ばっかだからな
ファーティマ朝のカリフ、ハーキムもベルベル系とキリスト教徒の奴隷(金髪白人女)とのハーフだったっぽい
一方で黒人の女にはあんまり性欲が湧かんらしい
黒人の女は臭くて性奴隷としては不向きだって当時のアラブ人の記録にすら書いてあるくらい
だってそうだろ?こればっかは差別じゃなく、性癖の問題なんだよ
実際、今でも黒人女はあらゆる人種の女の中でもっともモテない
逆に金髪白人女は白人の世界でもモテるし、その他の人種の男からも好まれる かの有名なドラキュラ伯爵のモデルとなったのは、
バルカン半島の小領主だったブラド・ツェペシュ
彼の弟はオスマントルコに人質として差し出され、
スルタンの男色相手を務めていたそうな。 東欧や南欧あたりなら良いが、北欧やイギリス・オランダあたりは体格がデカすぎるな >>235
アステカ帝国は、白い神という伝説があり、侵略してきたスペイン人を神として待遇するという
過ちを犯した
しかし一方、アフリカではアルビノは迫害される
このあたりの肌の色の文化論を人種偏見から距離をおいて真面目に研究したものって何かないのだろうか >>233
>アラブ人などイスラム世界側での呼称はずっと”フランク人”のまま
近世に入ってフランスがシリア・レバノンへ進出した際,現地のイスラム教徒は
「またフランク人がやってきた」と思ったりしたんかな。
十字軍時代にレバントへ進出したヨーロッパ人はフランス人の各勢力が中心な
イメージあるが ナポレオン率いるフランス軍がエジプトへ遠征した時も”フランク人”呼ばわりされてたりして >>243
これを言うとまたキッズが騒ぎ出すけど
日本人が朝鮮人と言ってるのと同じ感覚では
韓国人、北朝鮮人と言う言葉があるにも関わらずにだ 朝鮮を恥ずかしい言葉にしたのは南朝鮮人自身
北朝鮮共和国こそ朝鮮半島の正統政権 自称と他称が相違するなんていろいろな理由でよく起きることだし、そんなに不思議がることかなあ? >>241
>アフリカではアルビノは迫害される
ハリーズローってアメドラで迫害を逃れてアメリカへ渡ってきたアルビノが
強制送還の判決を受けるエピがあったの思い出した まあ、熊だって、熱帯のマレーグマやアメリカクロクマは、黒くて小さい。
温帯のツキノワグマはダークグレーで大きく、冷帯のハイイログマはライトグレーでさらに大きい。
北極のシロクマは、真っ白で巨大だ。
こればっかりは、生物学の法則というか原理であり、人間も同じ。
南の国が北から攻められ、その北の国ももっと北から攻められる。洋の東西を問わず、アリガチな状況ですな。 逆に南が北を制したというとイングランドがスコットランドを下したのがあるっけ >>251
wikipedia 「ベルクマンの法則」
ドイツの生物学者クリスティアン・ベルクマン(Christian Bergmann)が1847年に発表したものであり、
「恒温動物においては、同じ種でも寒冷な地域に生息するものほど体重が大きく、近縁な種間では大型の種ほど寒冷な地域に生息する」というものである。
これは、体温維持に関わって体重と体表面積の関係から生じるものである。類似のものにアレンの法則があり、併せてベルクマン・アレンの法則と呼ばれる事もある。
例えばよく例として挙げられるものに、クマがある。 西ローマ帝国が滅亡して、ゲルマン民族の大移動。
漢が滅亡して、五胡十六国の民族大移動。
洋の東西で同じような歴史の流れになった背景には、地球の寒冷化がある。
それまでの北方民族は、ときどき南下して暴れたり略奪したりしても、あとで北に帰っていた。
それが地球寒冷化の影響で、、北に帰らずに、そのまま南に住み着くようになってしまった。
文明のレベルが大幅に衰退のは、文明人から野蛮人に交替したせいもあるが、地球寒冷化により農業生産が落ち込んだのも大きな原因とされている。 北のローマに打ち破られた南のカルタゴ・・・
そのローマは北のガリアを打ち破ったものの同じ北のゲルマンにはフルボッコにされてたなw ゲルマン民族が”新大陸へ”大移動したのは逆に文明が進んでった頃か 5世紀には、ヴァンダル族のガイセリックが南下して北アフリカに至り、かつてのカルタゴの地にヴァンダル王国を建国した。
ガイセリックは西ローマ帝国に戦いを挑み、455年のローマ略奪で、ローマの没落は決定的になった。
まるで、カルタゴの亡霊の怨念に滅ぼされたようだった。 北が南からフルボッコといえば南から来たイスラム勢に滅ぼされた西ゴート王国なんてのも 洋の東西で同じような歴史の流れになった背景には
洋の東西で軍に騎兵が普及した事も原因だな
騎兵が主力になったので遊牧民の騎兵を追撃して
罠にはまり大敗を喫するようになった
歩兵が主力の時は遊牧民の騎兵を追撃する事を
諦めていたので互いに勝敗がつきにくかった オスマントルコがバルカン半島を制したのは西が東に倒された感じだが
位置的に見れば北が南に倒されたといえんくもないような。
(さらに北のウィーンはダメだったが)
>>257
知恵の館の破壊といったモンゴルのバグダード襲来に匹敵する物だったん? 北は色白で美しく知性も高い
南は色黒で猿っぽく知性も低い
北のギリシア人が南のフェニキア人を征服
北のローマ人は南のカルタゴを征服
北のゲルマン人はローマ人を征服
北のアングロサクソンは南のインディアンを征服
北のスペインポルトガル人は南のインデオを征服
北のペルシア人は南のインド人を征服
北のイギリス人は南のインド人を征服
北のモンゴル人は南の宋を征服
北の満洲人は南の明を征服
北の漢民族は南の越南を征服
北の韓民族扶余族は南の倭人縄文人を征服
この法則から逃れられない 猿怪臭エベンキ>>261「ということにしたいニダ」 キリスト教がローマ帝国で天下獲ったらヒュパティア虐殺がおこりましたとさ 最近の韓国を見てつくづく思う
未開部族に文明を与えるという日帝の壮大な社会実験は
百年の時を経て悲惨なる失敗に終わったのだ
土人は土人に還るほかないのだと 『新型ウイルスのサバイバル』という韓国製の子供向け科学漫画がコンビニに並んでたので立ち読んでみた
韓国人が未開の部族のもとに探検に行き伝染病に感染するという内容だったが
日本人の感覚で見たらどっちも不潔な習俗を持った土人にしか見えなかった そもそも韓国は日本の北にない定期
よくおるんよな、自国の周りだけ切り取られた地図みて日本が南の国だと勘違いするニダさん >>223
イスラムで言う白人ってのアラブ人も含むけど
ちなみにヨーロッパでは伝統的にとくに男性は金髪碧眼より褐色肌黒髪黒目を美しいという価値観があり
ハーレクイン小説という欧米の恋愛小説では男性主人公はきまって大抵シーク(アラブ人)かギリシャ、イタリア、スペインなどの南欧系
日本人女性が好みそうな北欧やスラヴ系はまったく人気がない まあ、こすっからい朝鮮人に比べて、日本人がおっとりしてるのは事実だ
その点では、北と南の法則どおり >>268
金髪や白い肌は女性的で美しいイメージ、
黒髪や褐色の肌は男性的でりりしいイメージってことだろうな 北の民族が、南を侵略する
実際に中華の統一王朝は漢も隋も唐も宋も、
あるいは清も元も、みな中原に興るか、あるいは北方から征服した。
長江の南から興って統一したのは明だけ。
一方でベトナムは漢にも元にも明にも、あるいは共産中国にも攻め込まれた
ベトナム側から攻め込んだのは、北宋の時代に一回だけ
そしてベトナム国内では、北方の越族が南方のチャム族をじわじわと征服していった形だ。 朝鮮半島では、南東に興った新羅が西の百済や北方の高句麗を攻めて統一した。
もっとも新羅には半島北部から攻め込んできた唐王朝もついていた
そして高麗の末期に、女真族征伐のため北方に送られた将軍・李成桂が謀反し、
南に戻ってきて都の開城(けそん、で一発変換できる!)を乗っ取り、
李王朝を興した。 >>272
でも日本も朝鮮も、
南の農耕民族が北の狩猟民族を征服したろ でも日本国内では、大和民族が北のアイヌと南の琉球を征服している。
アイヌが馬を使えたら、話は変わったかもしらん。 >>271
本スレ3月頃から急に活発化した
恐らくコロナ自宅待機学生が増えたのだろうと思われるのだが
最近の荒れ具合程度なら大したことはない
というか、この程度ならワッチョイ入れてもたぶん効果はない 日本のほうが集団での戦術や動員人数は上かもしれんが、個人的な武力では蝦夷のほうが遥かに上で、
武士も蝦夷の影響を大きく受けてるらしいしな 元から世界史板で一番人気があるスレは食文化スレだった。
あそこは基地外に居つかれて崩壊してしまった >>235
明治初期くらいまでの日本の絵では毛唐はバケモノみたいに醜く描かれてる 今でこそアイヌ(北海道に逃げた蝦夷?)は別言語だけど
縄文人から枝分かれした和人と蝦夷は言葉通じたの? 本スレは人気があるというより、スレタイ以外の話題が多い点から見て
単にsage進行にすれば解決する話だと思われる
age進行にすると、どうしても世界史一般の雑談スレ化するのは避けられない 5月2日のコロナ感染者数
東京 160人
大阪 17人
愛知 0人 >>252
ローマのガリア・ゲルマニア・ブリタニア征服
明
蒋介石の北伐
ウマイヤ朝がモロッコから北に渡ってイベリア征服
朝鮮戦争で仁川上陸から中国義勇軍参戦まで
第二次大戦末期にイタリア半島を北上して進撃した連合軍
ほかにもまだまだいっばいあるやろ >>288
日本語は縄文系の言語じゃなくて大陸系の言語なんじゃないの >>274
でももなにも、人類の歴史は、農耕文化が狩猟採集文化を飲み込み、駆逐し、人口を増大させていった代物だぞ
狩猟採集文化と、遊牧文化は完全に別物だからな
遊牧文化は農耕文化より後に生まれた、古代世界の中でかなり効率的に組織化された文化だから ローマ帝国の頃のコロッセオでの動物とのバトルが進化して
西ゴート王国での円形闘技場での闘牛になり、今のスペインまでその闘牛文化が続いたってことなの? パエリア、フラメンコ、闘牛、情熱の国、カルタゴ、トラヤヌス、ハドリアヌス、
西ゴート王国、レコンキスタ、アルハンブラ宮殿、太陽の沈まぬ国、ハプスブルク家、アルマダ、
フランコ、ピカソ、レアルマドリード 5月2日のコロナ感染者数
東京 160人
神奈川 36人
北海道 33人
埼玉 21人
大阪 17人
愛知 0人 >>294
闘技場における剣闘士の試合が最終的に中止されたのが、六世紀(実際はほとんど行われていない)
闘技場は市場や住居・砦・石材として転用された
申し訳ないが西ゴートの場合は分からないが、人同士から闘牛へと変化した可能性が高い >>279
そりゃそうだ
狩猟民族は弓矢の腕一本で生きてんだ、命中率が違うだろ。
乗馬のうまさも段違いだ。 カエサルのガリア征服の話は有名だ。
「ガリア戦記」は、現代ならノーベル文学賞確実の傑作だ。
もともと地中海沿岸の、いまでいう南仏はローマ帝国の領土。カエサルは、そこから北上してガリア征服に向かった。
カエサルの宿敵、ガリアの英雄ヴェルキンゲトリクスは、いまでいうオーヴェルニュ地方あたりが本拠地。
パリは、この頃はまだパリシー族の集落にすぎなかった。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5c/Auvergne_region_locator_map.svg/440px-Auvergne_region_locator_map.svg.png >>277
東洋史スレがあまりに不調なので、本来なら東洋史スレに書くべきことまで、ここに書き込まれている >>291
イタリアの勢力が、ドイツ・フランス・イギリスを侵略
その後は2度となかった状況 中国も南方から北方を征服することはあまりない
蜀と呉で同盟を組んでいたが、魏に勝つことは出来なかったし
南朝も何度か五胡や北朝に遠征してるけど華北の完全征服には至らなかった
明と中華民国は例外的なケース
理由は江浙熟すれば天下足ると言われたように華南は農作物の実りが多く経済的に豊かなので
余程のことでもなけりゃわざわざ北に侵攻するだけのモチベーションが高まりにくいから
逆に北は寒冷で貧しく、富を奪うためにいつも南への侵攻を伺う形になり、統一王朝になりやすい
ちなみに宋は金に華北を奪われて大ダメージかと思いきや、北からの搾取がなくなったので南宋になってますます繁栄した >>161
ナチス期と戦後混乱期の中断を挟んで、請求のあった分は2010年までに払い終わってるよ。 戦国時代でも東北は九州は強兵の産地だが
尾張は弱兵っぷりで有名だった 隋の煬帝や清の乾隆帝は何度も江南に行幸したが、
都を移そうとは思わなかったのかな
さすがに北方民族の出身だから、祖先の地を捨てるのはためらったか。 江南はクッソ暑いから夏がきつい
呉に侵攻した蜀も、中華民国を攻めた日本軍も暑さに悩まされてる ローマ帝国はアラビア遠征を試みたが、暑過ぎなのと水不足によりさっさと諦めて撤退した
アレクサンドロス大王も次はアラビアを狙っていたらしい 北はビンボーだが戦に強う
南は裕福なので戦意がない
そんなイメージ 十字軍、灼熱の砂漠をあの重装備で行軍とか、そら死人出るわ
兵站が糞過ぎて砦を包囲する側なのに餓死者を出してる有様(この時代は現地調達が基本か) >>310
で、中原や西ヨーロッパに移住して何世代か経つと奢侈文弱になる 遼も金も漢化して惰弱になったが、元は漢化しなかった 他の北方異民族と違い、イスラムやヨーロッパなど中華とは別の文明圏も知っていたからというのも大きい フビライの絵に黒人が描かれている
交易の範囲はかなり広かったようだな >>306
隋の煬帝は、「何度も江南に行幸した」というより、「行幸すると言って江南に行ったまま、帰ってこなかった」というべき
そういえば、京都御所から江戸城の跡地に移ったときの明治天皇も、そんな感じだっけ >>316
イブン・バットゥータは、中国に行って、広州のアラビア商人と会った
後に、アフリカ内陸部の黒人王国に行ったとき、そのアラビア商人の弟がいたのでビックリしたと書き記している >>301
ローマ帝国も軍人皇帝時代からはバルカン北部出身者が
南のイタリアやオリエントを支配する国になった >>316
元の時代まではわからないけど少なくともモンゴル帝国時代は
日本海から地中海までモンゴルの領土だったしな
同じ国だったので関税撤廃、征服されなかった地域も交易ネットワークに組み込まれ
交易は大きく栄えたと言われてるね
それまでおとぎ話のような中華文明もちらほらアラブ人、欧州人、アフリカ人の目に入って来て
>>53のような出来事に大いに近づけた
付け加えるとペストの大流行もこのパクス・モンゴリカが世界中に広まった要因とも言われてる >>317
周の昭王も南巡したまま帰って来なかったしな インド洋交易圏、ダウのおかげでずっと活発だったしなあ 隋唐演義モノの時代劇では、煬帝が江南の地で歌舞音曲におぼれる一方で、兵士たちが「故郷の関中に帰りたい」と騒ぎだし、宇文可及が彼らをなだめる。
北では、唐の李淵、鄭の王世充を初めとする群雄が不穏な動きを開始する・・・というシーンが定番だ。
あれを見ると、「遷都ってのは大変なんだな」と思う。
コンスタンティヌス大帝は、よくやった。 コンスタンティヌス大帝の父は、バルカン半島出身で、ガリアの兵役を通じて成り上がったという軍人皇帝にアリガチな典型的パターン。
大帝が生まれたのは今でいうセルビアとされてるが、父の代からフランスを地盤とするガリア皇帝だ。
それが、天下統一してからは東方のコンスタンティノープルに新都を建設したのだから、周囲の反発はかなりあっただろう。 ディオクレティアヌスもバルカン半島、いまでいうクロアチアの出身で、一兵卒から皇帝の親衛隊長にまで出世し、軍に擁立されて帝位についた。
後のオスマン帝国も、軍事の主力はバルカン半島出身者だった。やはり、山岳国家なので鍛え方が違うということか。 中華大陸は、秦や漢の滅亡後に混乱しても統一される。
一方、ヨーロッパはローマ崩壊後は統一されなかった。
やっぱり地形が原因だろうか。
中国は華北や華中の平原があり、黄河も長江も淮河も西から東へながれる。
ある意味、地形が単純。
だがヨーロッパはアルプスにピレネーと山岳地帯があり、
セーヌにローヌ、ラインにドナウと、川の流れもバラバラ。
地形が複雑だ。 中国の地形も全然単純じゃないし欧州と変わらんよ
むしろ土地の生産力の違いじゃないの
欧州だと60万の大軍とか無理だろ 始皇帝の経済や文字の統一などが中国統一の要因の一つじゃないの? 文字の統一っていっても、文字を理解できたのは上流階級だけじゃないの?
肩や西洋では、ラテン語を理解できたのは人口のうちどれくらいだろうか 長野県は地形が複雑
山岳地帯で盆地が隔てられ、犀川に千曲川、木曽川に天竜川と流域はバラバラ
おかげで北の長野、善光寺平と、中部の松本盆地、南の伊那谷で地域対立がある。
とくに松本は城下町としてのプライドがあるから、もとは善光寺の門前町である「長野」を県名として名乗りたくない
だから長野県の国立大学は「信州大学」であって「長野大学」ではない
県歌「信濃の国」がなくなったらすぐにでも分裂するかもしらん >>330
>県歌「信濃の国」がなくなったらすぐにでも分裂するかもしらん
うまいこというなあ
静岡との間の県境を巡る綱引き大会での長野ナショナリズム鼓舞も、分裂回避のための
施策といえなくもない >>327
海岸線の形状(すなわち海運の容易度と陸運の相対的困難度)の影響については、論文も結構あるし、書籍でも出てるぞ
一番有名なのは銃・病原菌・鉄かな イギリスは島国で、海を隔てている。
イタリアとスペインは半島で、しかも半島の付け根を大山脈で区切られている。
ドイツは森林と沼沢に覆われていた。
各国がバラバラに分かれるのが当たり前の地形。
ローマとベルリンは、東京とハバロフスクくらい離れている。
そんなとこまで、峻険なアルプス山脈を越えて征服しにいこうと思うわけがない。 「トンネルを抜けると、雪国だった。夜の底が白くなった」という川端康成の小説があったけど、川口マーン恵美は、ドイツからイタリアに行ってみて、イタリアの陽光の明るさにビックリした。
それを見て、イタリアに対するドイツ人の気持ちが、初めて理解できたという。
南ドイツは、樺太くらいの緯度。北ドイツに至っては、カムチャッカ半島くらい北にある。
昼でも微妙に薄暗いし、冬は日が暮れるのが本当に早い。
明るい陽光を見慣れた陽気なイタリア人は、そんなところに行きたくない。
逆にドイツ人は、みんなイタリアに行きたがる。 地中海沿岸+その他=ローマ帝国
地中海交通を抜きに地形を語っても意味なくないか?ピレネーやアルプスがいくら嶮しくても、海上交通が機能していれば問題無い。 >>335
だから、あの巨大なローマ帝国ができたわけで ドイツは、海上からも行くのが難しい。
デンマークのユトランド半島という巨大な障壁がある。
周辺の海域は北極みたいに寒くて、島が多く海岸線が入り組んだら荒海。
バイキングは怪力の大男たちなので、船を担いでエルベ川まで陸路で移動し、そこでまた船を浮かべたという。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a2/Nseamap.gif/220px-Nseamap.gif ドイツの過半とデンマークはローマ帝国じゃないじゃん
「なぜ中華帝国は分裂しても再統合するのに、ローマ帝国は再統合できなかったのか」の答えは、イスラム勢力の侵入で地中海が安全な航路でなくなったから、だな。
その後地中海がそれなりの安定を取り戻した頃には、分裂が政治的文化的事実として固定されていた。旧ローマ帝国の北東部は、ドイツやイングランドやスカンジナビアとくっついて、
「ヨーロッパ世界」という新しい世界の一部になってしまった。 >>277
今の東洋史スレはヘッダーにスレ内容が書いてないが、アレは
元々主に院生とポスドクが情報交換や愚痴をたれるスレなの
東洋史の学問的議論をするスレではなく、東洋史で入院してしまった人たちの猟官のためのスレ アメリカ大陸まで行ったヴァイキングもすごいけど
サラセン海賊もアイルランドあたりまで略奪しに行ってるんだな 劉邦「農家出身です」
朱元璋「農家出身です」
豊臣秀吉「農家出身です」
毛沢東「農家出身です」
ポル・ポト「農家出身です」 >>338
これほど大きな問いともなると、答えは1つじゃないし、いろんな見方はあると思うんだけど、それはどうかなあ?
中世の南欧は、「アラゴン連合王国の海上帝国」だよ。
むしろ、バラバラな西欧世界の中で、この統一感は異彩を放ってると思うんだが。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0f/Imperi_de_la_Corona_d%27Arag%C3%B3.png 兵農分離されたとはいえ江戸時代でも百姓や商人から武士になることもたまにあったけど
中世ヨーロッパでも農民や商人から貴族や騎士になることも可能だったの? 南イタリアは中世だとスペイン領だったから
北イタリアとは今でも食文化がちょっと違うらしい 貧しい身分から成りあがっての、完全無欠な名君はいないもんかのう
ポルポトは論外だが、秀吉は朝鮮の役や秀頼の擁立で晩節を汚し
朱元璋は農民には優しいが官僚はコンプレックスで粛清しまくり
劉邦は男も惚れるイケメンだが、やっぱり王朝を興したのちは粛清をしている ローマ皇帝でお忍びで大浴場に潜入して庶民と語り合う人もいたようだ
リアル水戸黄門 静まれ―静まれ―、こちらにおわすお方をどなたと心得る?
恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞー!
御老公の御前である
図が高い!控えろ―!! >>344
ローマ帝国の軍人皇帝時代だと平民から皇帝になってるのもいるよね
コンスタンティヌスによる王権神授説以降は身分が固定化される傾向
成り上がりはフランス革命の申し子であるナポレオンを待たねばならない >>347
ハールーン・アッラシードのは水戸黄門と同じでフィクションだぞ
さすがにバグダード市内をカリフがお忍びでうろつくなんて現実的じゃない デーン人は実力主義だなーと思う
明らかに東アジア人と見られる族長とその家族の墓が見つかってるし
女性戦士の墓もある >>344
騎士には馬と装備を自前で用意して馬術の訓練を積むだけの余裕が必要だな
つまり元からある程度の資産と時間の余裕があるものが騎士になる
貴族には初期の頃に既に資産と権力を持っていたもののみが神と交信できると信じられてたから後からは無理だな
富を受け継ぐもの、神に選ばれし血筋が貴族
あとから力をつけた平民は従来の貴族と融合して新しい貴族と言われる別の階級を作る 日本の大名は借金塗れで貧乏なのが多かったけど(主に参勤交代の負担がデカい)
欧州の王侯貴族は権力だけでなく富も独占していた >>344
ローマ帝国や東ローマ帝国だと、兵隊になった農民が軍人皇帝にまで昇りつめたという例がたくさんあって、ディオクレティアヌス大帝やユスティニアヌス大帝がそういう成り上がり。
でも、中世ヨーロッパの身分制は固定されていた。農奴なんか、一生どうにもならないし。
15世紀のルネサンス期に入ると、イタリアでは身分制度が再び乱れてきた。
貧民の出からローマ教皇になったジュリアーノ・デッラ・ローヴェレとか、傭兵隊長の庶子から、ミラノ公国の公爵になったフランチェスコ・スフォルツァとか、有名な成り上がり者が出現したのも、この時期。 >>354
参勤交代は「大名に金を使わせて貯蓄を減らし、反乱への余力をそぐ」ことを
目的としていたわけだが有効に機能していたわけか。
でもやり過ぎると薩摩の尾張三川改修工事みたいに、幕府への明らかな恨みに発展するわけで… 商家のメディチ家がフィレンツェの有力者からトスカーナ大公という
れっきとした諸侯にまでなってるのよな >>355
西ローマ帝国滅亡後のローマ軍兵士たちが行き場を失ったと思うけど
こういった連中が貴族や諸侯に仕えて騎士身分になっていったの? そんな会社が倒産して路頭に彷徨うサラリーマンじゃあるまいし
現代の労使関係を古代に投影してね? >>344
大商人が金に物を言わせて貴族の仲間入りみたいなことはあった やはり世界一の成り上がりは乞食坊主から皇帝にまで上り詰めた朱元璋 それと士農工商と完全にヒエラルキーが成立していた日本と違ってヨーロッパの場合は
コムーネやコミューンが封建領主を従属下においたり騎士身分と農民身分を兼ねる農村騎士なんてのがいた >>346
悠々自適の隠居生活を送り、晩節を汚さなかった成り上がり者としては、ディオクレティアヌス大帝こそ史上最高の例でしょうな __
/;;;;;;;;;;;;;\
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∈=━/,,;;:::::::::::::::::::::::::.;ヽ━=∋
L::;;,__ ..:::ゝ
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/j/三三三三三三三三三三ヾ
l::||:::: |l
/ ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′|| >>361 凌遅三千刀、滅九族!
r┤ ト::::: \___/ ||
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ 中国は唐末の混乱で貴族階級が死滅した
宋代以降は科挙で官僚を選ぶわけだが、合格して採用されるには膨大な勉強量およびそれにかかる時間が必要になり、
その学習環境を用意できるのはかなり裕福な家庭だけだった >>363
家康「三河の領主から天下人になったけど、ウンコ漏らして武田から逃げて、最期は天ぷらに当たって死んだのがマイナス評価か」 >>343
イスラムの侵入によって地中海が封鎖されていた期間をどのくらいと見るかにもよるけど、アラゴン連合王国が成立した頃には既にレヴァント貿易が盛んな時期だし、封鎖が解けた後の安定〜興隆期だと思う。
言いたかったのは、イスラムによる地中海の封鎖が解けた頃にはもう、地中海世界の北西部、北東部と南部はそれぞれ別の道を歩み始めていた、ということなので。ピレンヌの主張もそういうことじゃないかな。 >>362
江戸時代の身分制度は意外と緩かったよ
百姓でも武家の養子になる人もいたし、商人でも苗字帯刀の人もいたしな >>355
イタリアはそうだけど、フランスは革命まで身分は基本的にずっと固定だったのかね? >>368
旗本株の売買は御禁制だったらしいね。バレると両方とも処罰される。御家人株はおk。
>>369
アンシャン・レジームのフランスでは、官職を購入すればそれで貴族だよ。金さえあれば貴族になるのは簡単。 >>361
日本だと、成り上がりといえば「豊臣秀吉VS朱元璋」になるけど、世界で一番有名な成り上がりは、やっぱりナポレオン・ボナパルトでしょうな。
他には、
ドサ回りのストリップダンサーから、「女帝」と言われるまでになったテオドラ皇后 (夫のユスティニアヌス大帝も農民の出)
辺境の地の羊飼いから、史上初の軍人皇帝になったマクシミヌス・トラクス
両親の身分が不明で、奴隷・農民・漁師など諸説あるディオクレティアヌス大帝
女官見習いの奴隷から、イスラム史上に稀な女帝になったマムルーク朝のシャジャル・アッドゥッル >>371
百姓から旗本になった近藤勇は例外中の例外か >>373
お取り立ては別にいいんじゃないかな。御禁制なのは金銭売買だから。例外中の例外というのは確かだけど。 >>372
それでもナポレオンは貴族出身なのよな(親父が貴族に叙されたんだっけか) >>372
オスマン帝国だと奴隷からスルタンの皇后にまで上り詰めた人もいたよね
映画にもなってて世界的に有名な人
外戚による影響を排除するために母親は卑賤の出みたいなケースはある >>368
身分制度と言うものが根本的に違う
日本では農工商が士を上回ることは絶対的にありえながいが
ヨーロッパだと市民共同体の力がやたら強くて時には封建領主を家臣として従えたりする
これを史学では「集団領主」とか言う
また日本だと武士が >>371
フランスだって、身分制度がゆるんできたのは、中世もかなり後の方になってからじゃないのかな? ナポレオンは地方の貧乏貴族の家に生まれてるが”郷士”みたいな存在だったんかな トルコ傭兵の軍事力を当てにするはいいが、そのトルコ人に乗っ取られるアラブ人
オスマン帝国はィェニチェリに結婚を許したことが失敗だった(世襲化して腐敗)
ローマ=カトリック教会が世界最大宗教として今日まで続いているのは世襲ではなく実力主義だから 朱元璋は、親兄弟が餓死して、本人は乞食坊主となり托鉢でかろうじて生き延びた。
世界史上の成り上がり者の中でも、スタートラインの低さはワーストクラスだろう。
個人的には、上にも書いたけど、ユスティニアヌス帝国の「女帝」ことテオドラ皇后を推したい。
夫に離縁された、しがないバツイチのストリップダンサー。
場末の劇場を転々としてるところを、大帝に一目惚れされて運命が激変した。 薩摩藩は4人に1人が武士だから他の藩みたいに百姓一揆が起こらなかった フェリペ2世だっけか
もう王侯貴族はこりごり、生まれ変わったら騎士として気楽に生きたいな
と言った逸話があるそうな >>377
確かドイツで農民反乱が起きたけど、騎士たちにフルボッコにされた事件あったやん 京都の伊藤仁斎は町人だったが、儒学を極めて武士からも一目置かれる存在になった。
息子の伊藤 蘭嵎(らんぐう)には、こんな逸話がある↓
蘭嵎は博学能文で挙止が端重であった。初めて紀伊藩主(徳川宗直)に伺候し書を講ずる段になって、蘭嵎は沈黙し動かない。
周囲の家臣は「貴人に面接するのに慣れていないから緊張しているのだろう」と考え促したが、蘭嵎は応じない。
しばらくして口を開き「公、褥に坐す。聖人の書を講ずべからざるなり。」と言ったので、藩主はあわてて褥を片づけさせ講説を聞くと、音吐朗々と弁論鮮やかであったため、居合わせた皆は「真の儒者なり」と嘆賞したという。 >>383
「書類王」と呼ばれるほど、書類を決裁する事務負担が膨大だった
国家運営も、過剰債務で財政破綻を連発する綱渡りの日々 >>377
ワット・タイラーの乱
ジャックリーの乱
なおどちらも英仏それぞれの国王軍に鎮圧された模様 職業軍人の集団の正規軍が、百姓一揆に負けるなど、中国だけの特殊な現象だろ。
日本や欧州では、まず起きない。 フス戦争はヨーロッパ史最初の火器を使った戦いといわれる。
1420年代初頭にヤン・ジシュカの生み出した、弩・手銃・砲を装甲馬車(Tabor)とともに活用する戦術によって、
当時の騎士による突撃戦術を完膚なきまでに打ち破った。
ヨーロッパ諸国を敵に回したフス派は貴族や庶民が団結し、当時の国王の私兵である軍隊ではなく、国民軍の原型のような軍隊を作り上げた。
最後は内部抗争やポーランドによる取り締まりで壊滅したけどね >>358
騎士はカロリング朝〜カペー朝時代のミレス(従士)から発展した
ローマ帝国末期には軍団は消滅し
各地の元老院貴族や将軍の私兵へ
これらとフランク従士団がメロヴィング朝に再編成され、スコラカリウスと呼ばれる従士団になる
同じ頃ランゴバルドでは、ガスタルドと呼ばれる従士団ができ、身分としても確立された
カペー朝時代には、緩やかに解体されミレスと呼ばれる貴族と平民の間に位置する戦士身分となる >>383
>生まれ変わったら騎士
ドンキホーテに転生したフェリペ2世・・・ >>391
詳しい説明でよく分かったわ
サンクス! 在地領主論、職能論、国衙軍制論
武士の起源は果たしてどれかね >>384
農民反乱軍の矢面にたったのはランツクネヒトからなる傭兵
フス戦争以降は火器の普及と騎士階級の没落によって騎士が前線にたって戦うということはほとんどなくなっていった
ドイツには帝国自由都市といった皇帝に対して軍役を負担する代わりに領邦と同等の権限を持つ都市があったが
この軍役にしても実際に負担するのは市がやとった傭兵で市民自ら剣をもって参加するわけではない
>>387
>>388
中世ヨーロッパには貴族騎士と農民農奴の間に「市民」と呼ばれる中間階層があって
こいつ等は城壁都市の住人であり財力に物言わせて多数の荘園や軍隊を持っていたり封建領主を屈服させることもあった
日本史で言うと堺の町衆が近いがあくまで日本の町衆が自治独立で満足してたのに対してヨーロッパの市民共同体の場合は領土や軍隊をもっていたり
ほぼ古代のポリスと変わらないという違いがある >>395
帝国都市と自由都市は本来別物なんだけど、諸侯に対抗するために皇帝が都市に特権付与しまくってたら、気がついたら同じような存在になってるあたりは面白い
イタリアの都市国家とドイツの自由都市だと、性格がまるで違ったり、フランスにおけるパリの別格さとかも >>397
ザックリした説明だな
高校世界史だとこんなもんでいいのかね 中世ヨーロッパで言う自治権=独立権ってのは世界史の教科書でも明記したほうがいいと思うわ
自治都市は東洋史で言う属国とほぼ同義で宗主国(国王)に従属してるけど行政権、司法権、軍事権は別個にもち時には自治都市同士が同盟して宗主国(国王)に抵抗することもあった >>393
ちなみにメロヴィング朝時代の軍装はローマ末期と変わらない
スパンゲンヘルム式ローマ兜にチェインメイル、ローマ式盾、スパタにフランクの投げ槍(アンゴン)、サクス
フランクの隣にあったアルモリカ(ブルターニュ)のブリトン騎兵に至っては、戦闘方法もローマ末期式で、いったん逃げると見せかけ、引き返して投げ槍で倒した >>372
ブルガリアの豚飼いからツァール(皇帝)にのし上がったイヴァイロ、
宮廷のスラヴ人女奴隷からスレイマン1世の妃にまで成り上がった、
オスマン帝国のヒュッレム・ハセキ・スルタン(ロクセラーナ)とかも忘れずにな あ、そういや近代エジプトの父ムハンマド・アリーも成上がり者やな
アルバニア人傭兵隊長からオスマン帝国支配下のエジプトの総督へ、
そこから半独立化して事実上のエジプトの支配者となり、自身の名を冠した王朝の創設者に。
現地エジプト人からはアラビア語エジプト方言で「エル・キビール」(大王という意味)と呼ばれた
自身の出身を語る時は
「私はアレクサンダーの故郷で、ナポレオンと同じ年に生まれた」と語ることを好んだが、
これは恐らく自分の出自がさほど大した家柄でなかったことに対するコンプレックスに寄るものだと言われている
父親は街道警備担当の非正規部隊の隊長、母親はカヴァラ市長官の親戚(娘ではない)。
そこらの一般住民よりは収入も社会的立場も多少マシだろうが、
とてもとてもエジプトという一国家を預かるほどふさわしい家柄とは言えない。 >>394
平安時代中期頃に古代以来の在地有力者層の没落と新興階層の勃興があり
武士階級の発生もそれに伴うものだというが、そこらへんがまるで史料が
ないのでようわからん >>399
ザックリしすぎてるんだよなあ
本来「自治」ってのは自己決定権のことを指すので、一定以上の独立を指すのは当たり前
(日本の自治体がむしろ異常)
高校生に対する説明としては、ああいう言い方でいいけど
その上で、君主大権としての外交権、同盟権、叙封権、徴税権、裁判高権等の何を認め、何を認めないのか
選帝侯が帝国において特別な地位を占めるに至った決定的な権限はどれか、ってことのが重要 中世期の自治は日本ならそのまま幕藩体制で置き換えることが出来るじゃん
現代の自治体と中世の自治の意味合いを混合するのはさすがに暴力 戦国時代に来日したポルトガル人宣教師は、当時の日本の政体を
神聖ローマ帝国と類似のものと理解していたらしいな >>323
コンスタンティヌスは「遷都」なんかしてないで
ビザンティオンに新しい第二のローマを作って奠都しただけや
ローマはローマで都のままや
つまり平城京を南都としてそのままに新しい平安京を建設した平安奠都と同じや >>326
ユスティニアヌスの再統一と隋の再統一がパラレルやで
時代も近い
隋の再統一はすぐに唐に引き継がれたけど
ユスティニアヌスの再統一は引き継がれることなく一瞬の再統一で終わったのが違う
その後すぐにイスラムが勃興して重要地域のシリア、エジプトを失ったのが大きいやろ
シリア・エジプト無しではもうローマが嘗ての力を取り戻すのは無理やろ >>410
隋唐との関連性で言うならば
むしろ、コンスタンティノポリス征服できず、アナトリアを支配下に置くことができなかったイスラム勢力
って見方の方が正しい気がする 北アフリカがヨーロッパに組み込まれるか、
中東に組み込まれるかのターニングポイントか >>406
教皇(天皇)が皇帝(征夷大将軍)を戴冠(委任)して自治権持った各諸侯(藩主)を束ねる
各自治権持ってるとは言え皇帝や征夷大将軍が号令掛ければ一致団結する辺りも
選挙制や世襲、実権の握り方等多少の違いはあれど大まかに類似してるよね やっぱり、ローマカトリック・ギリシャ正教・スンニ派・シーア派という、4大宗派に分裂したのが大きかったな
ペルシャ帝国もローマ帝国も、こうなってからは再現されなくなった >>410
唐も、太宗と玄宗の最盛期を除けば、事実上の分裂状態。。
皇帝は、常に地方勢力との闘争に追われて、神聖ローマ帝国や室町幕府と似た状況だったけどな
どの文明圏も、中世はそんな感じだ。
古代と比べて、地方が力をつけてきたので、全国を統制するのが難しくなった。 >>402
ムハンマド・アリーはアルバニア人だからローマ帝国の生き残り
ディオクレティアヌスやコンスタンティヌスの後継者
>>410
バルカンがスラブ化しなければ再統一を維持する事が出来た
バルカンがスラブ化して軍の主力が消滅した オスマン帝国だけは全盛期(ユスティニアヌスの頃)の東ローマ帝国を超えた ドイツは、
日本や中国と違って国家や政府自体は連続してるのに、
王朝が変わったらそれまで得た領地がリセットされるのが嫌だね
血は繋がってるはずなのに。 >>416
西ローマがゲルマン傭兵を用いたように
スラブ人を傭兵にする手もあったんじゃない?
金はあったからね東ローマ >>415
むしろ江戸幕府になってからの権力の強さがようわからん
大名を次々取り潰す力はどこから来たんだろ ユスティニアヌス期の遠征で国庫が空になってしまった・・・ ユスティニアヌスの版図はむりくり築いた張りぼてに過ぎない
現に彼の没後ランゴバルド、スラブ人、ササン朝などに領土を削られてる
やはり東ローマ帝国の全盛期はバシレイオス2世の治世 >>420
関ヶ原の戦いの結果、たまたまそうなっただけかも
秀忠が到着してたらより強い徳川王朝が成立してたかもしれないし、
西軍が勝ってたら弱い豊臣政権が中央政府だったかもしれない
どこの国もそうかもな スラブ人は飲んだくればかりで働かない
今のロシア人を見れば分かる 中世と近世では、中央権力の強さがまったく違う。
まず、モンゴル騎馬軍団が登場して、機動力が飛躍的にアップ。
さらに、鉄砲隊が登場して、それまでとは比較にならぬ火力アップ。
これにより、中央の正規軍の機動力と火力が格段に向上したため、地方を統制することが可能になった。 >>420
守護→守護大名→戦国大名と武家のイエ支配力が強力になっていった結果だろ
守護大名戦国大名は自分も上から統制されてないけど、自分下の国人や家人も統制できてない。
幕藩制の大名は、自分も統制されてるけど、家臣も同じくらいしっかり統制してる。 江戸時代の大名は、妻子を江戸屋敷に置いていた。
大名の子どもは江戸で育ち、大人になったら領国に赴任して大名になる。
大名になってからも、参勤交代で、江戸と領国を行ったり来たり。
こんなことを江戸幕府が200年以上も続けた結果、日本中の大名が転勤族のサラリーマンみたいになり、本社に逆らえなくなってしまった。
中国では、北京で採用された科挙官僚が、全国に赴任して任地を支配。
北京に戻ったり、別の任地に転勤したりを繰り返し、退官しても地元の名士として君臨する。
こんなことを明清帝国が500年以上も続けた結果、各地の有力者はみんな、転勤族のサラリーマンみたいになって本社に逆らえなくなってしまった。 ヨーロッパ諸国はみんな、分離独立志向のある地方を抱えて、どの国も揺れている。
それに比べて日本では、独立問題など起きる気配もない。しいていえば、沖縄だけ。
中国だって、なんだかんだ言いつつ、独立問題が起きるのはチベットやウイグルなど外地だけだ。
「広東省が独立する」とか、そういう話が内地で出ることはない。上海人は中国から独立したがっているが、それくらいだ。
こうたるまでには、何百年もかかる。 日本にもかつて蝦夷、熊襲、隼人、琉球、アイヌなど異民族はいたけど殆ど同化された
朝鮮も扶余族やワイ族、北の方にちょっと女真族もいたが、殆ど同化された イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド 明治維新で木戸孝允が廃藩置県・版籍奉還を断行したのを見て、あるドイツ人は、「こんなことを我が国でやろうとしたら、何十年も戦争が続くだろう」と言ったとか。
まあ、日本でも会津や越後はこれを受け入れず反乱を起こしたが、あっという間に鎮圧された。 なぜ、日本ではこれが可能だったかといえば、「天皇が神だったからだ」という人もいたけど、そうではない
江戸幕府が、200年以上もかけて洗脳してきた結果だ >>431
ドイツはユンカーとかあるけど
フランスは革命以後だと貴族の権利は全て奪われてしまったの? 西欧だと城は領主の私有財産で今でも城住まいの貴族がいたりするが
日本では公共建築物と見なされて地方自治体の所有になった
幕末には藩が地方自治体で廃藩置県は自治体再編だったとしか思えん >>434
日本の場合、江戸時代から城や陣屋は公共建築物であって領主の私物じゃないからな
そもそも、江戸時代の大名の私有財産って極端に少ないので、もはや江戸時代の文化としか言えんと思う
欧州の場合も国によって違うけど、ドイツあたりだと、領民含めて領主の可処分資産だったりしたね、ほとんど農奴
イタリアやフランスだと領民支配はそこまで強くなくて、領主裁判権すらかなり制限されてたりする 米国名(United States of America)を和訳しようとした場合、素直に考えるとアメリカ合州国だけど地方自治を嫌った明治政府が州を衆にさせたという話もあるね >>437
「合衆国」という言葉のほうが、明治政府より古い >>438
日本語だと同じ発音だけど、中国語では異なる
「合衆国」の由来には諸説あり、中国人が考えた訳語である可能性も高い 日米和親条約の正文で「米利堅合衆国」となってるね。
思うに、幕府時代の日本人は共和制という概念を知らなかったから、その訳語という意味も含んでるんじゃないかな。「衆庶があつまって作った国」ってことで。
単に「州があつまった国」では、後漢だって唐宋だって州制の国は皆そうだ、とも言えなくもないし。 >>441
日米和親条約の10年前に、アメリカと清朝が同様な条約(望厦条約)を結んでおり、その条約の文書が「合衆国」という用語の初出。
清朝の官僚が考えた訳語である可能性が高い。 >>441
>「衆庶があつまって作った国」
本多勝一は、「人種差別がひどいアメリカは、民衆の国とは言えない」という理由で、「アメリカ合州国」を提唱した >>442
なるほど、じゃあ創案はそっちだろうな。 「衆志を連合して一国と成す」という意味だったらしい。 本田勝一はともかくUnited statesだから合州でいいんでね 437だが少し上の地方自治の話から連想して真偽はともかく当時腑におちた話を思い出したのでろくに調べもせずに書き込んだがスレチの話題で空気悪くしたらスマソ
いろいろ教えてくれた方々には感謝している アメリカは人種差別はひどいかもしれないが特定の民族への敵意やヘイトそしてそれを放置する国のトップはいない >>448
いやいや、ドイツとかイタリアとか、バラバラな国の話をしているので
Federation と United States の違いは無視できない そもそも、EU統合する大きな目的の1つに、「ヨーロッパを連邦にしてしまえば、イギリスとかベルギーとかバラバラで分裂寸前の国も、小さな国内の争いを止めるんじゃないか」という期待があった >>448
もともと世界史なんでもスレだったからw キニスンナ
すべての道はローマに通ず、というから無問題 >>435
>日本の場合、江戸時代から城や陣屋は公共建築物であって領主の私物じゃないからな
えええええ????城や陣屋に町人百姓や他藩の藩士が入ったら命はないでしょ
それのどこが公共物ですか 旧藩主所有の城郭や陣屋などが「公有」とされたのは明治6年1月14日発布の太政官達「存城廃城令」からな
そもそも「公有」という概念そのものが箕作麟祥が「仏蘭西法律書」 を翻訳する際に「発見」した概念であり
それ以前の日本には「公有」という発想そのものがなかった 警察の施設は公設だけど、無断侵入したらただじゃ済まんぞ。 >>453
江戸時代における城というのは
1 修繕や改修するのに許可が必要で、かつ簡単に許可は下りない
2 指示があったら即退去し、また利用しなければならない
3 城内の建築物の利用の仕方についても、許可を得なければいけない、許可がなければ利用してはいけない
という、私有物とはとても言えない代物なんでね
入居している大名に自己決定権はないのだよ(イコール、私有物ではないってこと)
既に出ているけど、パブリックな「物」であることと、その空間がパブリックスペースであることはイコールではない
>>455
それは、西洋法導入に伴う「私有」「共有」「公有」の定義確定の話で、それ以前の法にそれぞれの概念について全く存在していなかったとかそういう話ではない
実体法の分野と、法制史の分野を混同するのはNG 日本に中国の会館やヨーロッパのアゴラに相当するものって近代以前にあったけ? >>334
ミラノが稚内、ローマが札幌、ナポリが青森と同緯度
イタリアかて充分に北国やろ >>409
西欧には行ってないんやな
パリやロンドンに行ってみたいとは思わんかったんか >>461
イブン・バットゥータはイスラムの教師。
本場アラビア人の専門家からイスラム教の話を聞きたい人はアフリカにも中央アジアにもいるので、どこにでもニーズがあって仕事になる。
インドは当時、イスラム王朝のトゥグルク朝。恐怖の独裁者 ムハンマド・ビン・トゥグルクに仕えたイブン・バットゥータは、いつ粛清されるかとハラハラドキドキしながら数年間をすごした。
中国は、広州や泉州はもともとアラビア商人が多いところ。当時はイスラム教徒に寛容なモンゴル帝国の時代。イブン・バットゥータは北京まで行ったようだ。
キリスト教の国には行ってない。 イスラムの教師っていうか、法学者。
イスラム法の知識がないと社会を運営できないので、専門家はどこでも重宝された。
大旅行家といったって、何十年もかけて各地を周遊するわけだから、旅費も生活費も必要。
奴隷市場で購入した女奴隷の妻を何人も連れていた。
キリスト教国にはイスラム法学者のニーズがないから行かなかった。 マルクスは資本主義が成熟し、共産主義が生まれると言ったが、
実際に共産革命が起きたのはロシア、中国、カンボジアなど資本主義が未発達の国ばかりだった
貧しい国ほど共産主義というカルト宗教にハマりやすい >>461
この頃のパリやロンドンなんて雑魚もいいとこ
コンスタンティノープルの足元にも及ばない >>409
改めて見るとコンスタンティノープルの重要性がよく分かる地図
ヨーロッパ・アジア・アフリカの結節点
メフメト2世の征服事業はオスマン帝国は勿論、今のトルコに至るまで莫大な利益をもたらした 京都 → 東京
サンクトペテルブルク → モスクワ
イスタンブール → アンカラ 一極集中を緩和するために首都を移転するのもありだと思う
そして東京の代わりとなる都市は大阪か名古屋しかないな
札仙広福は日本の中心部である東名阪から遠過ぎるし、京都や神戸は街のキャパ的に厳しい
横浜は近過ぎて遷都する意味ないしね >>462
>キリスト教の国には行ってない
コンスタンティノープルには行った
ここもアラビア商人が多いところ >>468
首都一極集中システムをそのままで遷都しても、そこがまた過密化するだけでは?
首都が岡山でも甲府でもやっていけるようなシステムを作る方が先だろう。 五本山でキリスト教圏に残ってるのはローマのみだな
アレクサンドリア、アンティオキア、コンスタンティノープルはイスラムの支配下に入ったし
エルサレムは今やイスラエルの都市 >>465
それは言いすぎ
中世初期ならともかく、14世紀ともなれば西欧もそこまでひどくない >>468
大阪は勘弁
大阪は商都であるべきや
首都なんか持ってこられたら政商みたいなのや国策企業ばっかり跋扈して商都としてダメになる
畿内に都を置くなら学研都市の近所あたりに田辺京でも建都するべきやろ コプト教会はエジプトがジハードで征服されてからも細々とやってるね
たまにテロリストにも襲撃されるがしぶとく存続してる シリアのキリスト教徒は人口のおよそ10%
中東のど真ん中にあるイスラム教国としてはかなり高い比率
厳格なイスラム教国と思われるイランでも
未だにゾロアスター教徒は駆逐されずに残ってるし、ユダヤ教徒やキリスト教徒も少数だがいる >>472
二枚目は自分で撮ったん?
ゼリョーヌイ・モストの上からモイカ運河を北に見たところだな。 >>474
明治維新後、大阪を首都にする案もあったようだが、
大阪は商都だからとか、江戸は行政機能が既に整ってるからという理由で
結局江戸に決定した 日本では、首都の移転先をどこにするか決めるのは無理だ
日本の首相よりずっと強大な権力を持つ中国の主席や、韓国の大統領でさえ、首都移転には失敗している 中ソ対立が激しかった頃は、北京では脆弱に感じただろうなあ… ピョートル大帝がサンクトペテルブルクに新首都を建設したときなんか、貴族も庶民もブーブー文句いって大変だった。
厳寒の湿地での作業は困難を極め、逃亡する土木労働者が続出するので、見せしめのため鼻削ぎの刑にしていた。
身長2メートルの巨人で天才的な頭脳を誇る、超カリスマ大皇帝にして初めて成し得たことだった イタリア王国成立
ローマ帝国以来、久々にローマが首都になった(中世は教皇領) >>480
ワシントンDCで安定するまでUSの首都はコロコロ移転してた
平城京で安定するまでの古代日本もかくやていうくらいの頻度で
当時の連邦政府も大統領も今と比べたら小さい権力しか持ってなかったのに
>>481
そのために北京は地下深くに地下要塞が張り巡らされてる
その一部分が今では公開されてて地下街に改装して観光地
実はモスクワもワシントンDCも地下深くに要塞張り巡らされてるで >>483
プロイセンがドイツを統一して、ベルリンがそのままドイツの首都になったことから考えると、イタリアも、トリノが統一イタリアの首都になるのが自然だった。
でも、トリノなんかじゃ誰も納得しない。
象徴的な意味を持つ「ローマ」が選ばれ、統一の英雄ガリバルディが勢いで押しきって決めた。 >>485
イタリア人にとってローマは日本人にとっての京都みたいな感覚? 東ローマ帝国がずっと続いた理由のひとつに、コンスタンティノープルは万人が認める世界の都だったことが挙げられるだろう
それに比べて西ローマ帝国は、ラヴェンナなんかじゃ軽すぎた >>487
似てるけどもっとずっと大きな存在じゃないの?
京都は世界帝国の首都だったことはないし、世界宗教の総本山でもないし、世界最大の都市だったこともないし ネロ「永遠の都ローマがカルト宗教の総本山になっとる・・・うあああああん」 >>487
あの国は、ヴェネチア・ミラノ・フィレンツェと、世界的な古都が多い
日本にとっての京都ほど、特別な存在ではないんじゃないかな? >>487,489
日本人にとっての長安か落陽やろ >>489
京都は、江戸時代にも京都産の工芸品が「下り物」として江戸で珍重されるほど、割とつい最近までずっと日本の中心だった。
鎌倉時代も、江戸時代も、末期になって幕府が崩壊したら、政治の中心がすぐ京都に戻ってしまった。
それに比べてローマは、廃墟も同然になって放置されてからが長い。
ナポリのほうが、ずっと大都会。
辺境だったローマを統一イタリアの首都にするのは、かなり強引な決定だった。 >>493
幕末には徳川将軍もその他の幕府高官も京都に居たからな イラクも、別にどこでもいいのに、あえてバグダッドを首都にした >>492
長安は、滅亡して廃墟になってから、跡地に建設された明代の都市
習近平は、長安にファンタジー古代建築を建てて、観光名所として強引に振興しようとしている。
「韓国じゃあるまいし、そんな無理して見栄をはることないだろ」と、中国人にも評判が良くない >>496
明代に作られた都市は「西安」や
で、長安は廃墟になってたんやからローマとかぶるやろ >>497
確かに、ローマと似たポジションにあるな
日本では、「昔の中国の都」といえば長安を思い浮かべる人が多い。
実際には、千年近く前から、ずっと北京が首都なのに >>498
日本人にとって長安・落陽は世界の中心・文明の中心やから
北京は日本人にとっては外国の都市でしかない >>498
千年はふっかけすぎだ
せいぜい800年(じゅうぶん長いが)
>>493
廃墟って、どの時代のこと想定してるんだよ?
ローマが廃墟も同然になったのは、6世紀の東ローマによる再征服と、16世期のローマの劫掠時
8世紀頃には、ローマ教会の門前町として、また教皇領国家の首都として復興を遂げて、14世紀から16世紀初頭にかけては、ルネサンスの中心地の一つとして繁栄した
16世紀のローマの劫掠に関しては、文化の中心ではなくなったものの、都市としては復興している
各種の人口推計がなされているけど、ローマよりナポリの方が栄えていた時代なんてほぼない ほぼ一貫してローマカトリックの総本山だったわけで
廃墟として放置されたのはベリサリウスやサッコディローマの時くらいじゃないか >>477
ミトラは日本で弥勒菩薩として生き延びてる >>500
10世紀でローマ人口は約5000人
巡礼相手の商売で成り立つ
ローマ遺跡は埋もれつつあった >>503
その数字、誰の研究?
10世紀の推計人口に関しては、いくつかの研究が並行してるけど、おおよそ10000〜35000って数字なんだけども
なお、10世紀の欧州で5000の人口あればかなり大きな都市
11世紀のドイツ最大の都市ケルンの人口は、おおよそ1〜2万 >>490
キリスト(邪教)とゲルマン(野蛮)はローマ帝国(文明)に勝利した
そして暗黒の中世へ コンスタンティヌスやジャンヌ・ダルクは天使を見たというがラリっていたのかな 平安時代から続いた京都の街並みは応仁の乱であぼーん
戦国時代になっても廃れていたが、織豊期に色々と再建され今日まで続くと 今の京都の街は秀吉が作ったから
大坂とだいたい同じくらいの歴史で江戸よりちょっとだけ古い >>508
大坂は、大坂の陣で応仁の乱より徹底的に焼き払われていて、そこからの復興にそれなりに時間かかってるから
秀吉の京都改造プランを起点としても、大坂は京都よりかなり新しい >>500
>ローマが廃墟も同然になったのは、6世紀の東ローマによる再征服
いや、それよりは、もうちょっと前だな、
まず410年、西ゴート王国のアラリックによるローマ略奪。これにより、ローマの不落神話に土がついた。
次に450年代、ヴァンダル王国のガイセリックによるローマ略奪。このときは、メチャクチャに破壊することを意味する「ヴァンダリズム」という言葉が残るほど、徹底的にやられた。
最後の決定打は6世紀、東ゴート王国のテオドリックによるゴート戦争。この長い戦乱により、ローマは廃墟になった。 >>511
日本語なら鯖田先生の本なんかどう?
文庫でも出てるよ
海外だとチャンドラーとかベロックとか、Wikipediaで言及されてる人のが定番だけども、正直数字の幅広すぎてどれ採用しても穴しかない いま調べたら、違った。
ゴート戦争が、「6世紀の東ローマによる再征服」だな。
今まで、かなり長い間、間違った知識で生きてきてた(笑) 6世紀っていったら、西ローマ帝国はとっくに滅んどるわな。
ユスティニアヌス大帝が、東ゴート王国からイタリアを取り返すべく再征服を仕掛けたのが、ゴート戦争だ。
この長い戦乱で、ローマは廃墟になった。 ゴート戦争でSPQRが消滅した
本当の意味での西ローマ滅亡 西ローマ帝国の首都がラヴェンナに移ったといっても、それは東との交通に便利だからであって、依然としてローマは圧倒的な最大都市。
当時の人口が100万というから、古代にしてはすごい。
「中世ヨーロッパでは、1万人もいれば稀に見る大都会だった」ってことから考えると、ゼロが2つ違う。 ローマ貴族のコロンナとかオルシーニって、ランゴバルドとローマ元老院・騎士階級と、どっちと繋がりあるんだろうな 東ローマ帝国が東地中海の大帝国として復活した9世紀になると、
宮殿や教会・修道院が多数建設され、孤児院や病院のような慈善施設も建てられた。
古代ギリシア文化の復活とそれを受けたビザンティン文化の振興も進み(マケドニア朝ルネサンス)、
コンスタンティノープルは東地中海の政治・経済・文化・宗教の拠点として、
またロシア・ブルガリア・イスラム帝国・イタリア・エジプトなどの各地から多くの商人が訪れる交易都市として繁栄を遂げ、
10世紀末から11世紀初頭の帝国の全盛期には人口30万〜40万人を擁する大都会となった。
当時の西ヨーロッパにはこの10分の1の人口を抱える都市すら存在せず、
コンスタンティノープルはキリスト教世界最大の都市であった。
※現在のスペイン領のコルドバはコンスタンティノープルに匹敵する大都市であったが、
当時のコルドバはイスラム王朝・後ウマイヤ朝の支配下にあった。
また2世紀の古代ローマ(都市)は100万人を超える住民を抱えていた。
西洋において再びこの人口に匹敵する都市が現れるのは19世紀になってからのことである。 イタリアに侵攻したアラリックは、西ローマ皇帝のいる首都ラヴェンナには見向きもせず、まっすぐローマに攻め込んだ。
ローマは人口100万の超巨大都市で、しかもローマ市民には地主が多くて、地方に広大な荘園を持ってたし、圧倒的に富が集中していた。
ヒエロニムスは、「全世界を収奪し続けたローマが、外敵から収奪されている」と記したという。 フランクもゴートもランゴバルドもみんなカトリックに改宗
ヴァンダルだけは最後までアリウス派 イタリア全土を荒らしまわったランゴバルドも流石に教皇には手を出せなかった 東ローマ糞過ぎだろ
ローマ人たちに重税を課すくせにランゴバルドの侵略からはケツまくって逃げるとか >>524
他はヨーロッパだけど、ヴァンダルだけは北アフリカだからな ランゴバルドのローマ化は、「北魏の漢化」と似た流れだな
野蛮だったが、やがてランゴバルドらしさは失われ、「イタリア」の原型になった >>526
こういうの見てたら、何でもかんでも「西欧は野蛮で悪い」史観も偏っているって分かるよな
西欧中心史観の反動でそうなってるとしか思えない ビザンティウム
コンスタンティノポリス
イスタンブール >>510
焼き払われてて言い出したら大阪大空襲が >>529
ローマ周辺はわかるとして
つま先とかかとはどういう理由で死守したんやろ
当時は重要地域やったんか? >>535
地中海貿易の拠点なんじゃない?そういや西ゴート王国の南端も占領してたな
シチリアはその後イスラムに占領されるけど、更にその後ヴァイキングに奪われる >>535
山口県がどっちかっていったら九州の一部なのと同じで、カラブリアはどっちかっていったらシチリアの一部 町田なんて実質神奈川
同じ東京都である多摩や八王子とは多摩丘陵で分断されてるのに対し
隣県の相模原や横浜とは市街地でつながっている イタリアはシチリアを蹴飛ばそうとしてるけど
わざわざシチリアの尖った所を蹴ろうとしてるのが最高にアホ
刺さるぞ >>523
アウレリアヌス帝が城壁で囲んでからは
ローマは100万人都市ではなくなった >>538
拡大ギリシア世界の一部だ、とも言えるな。ホメロスの時代以来、長靴の爪先にはギリシャ植民市があってギリシャ人が住んでいた(確か現代でもちょっぴり残ってるんじゃなかったかな、ギリシャ語話者)。 コンスタンティノープル陥落したちょっと後にイタリア半島のかかとの部分が
オスマン帝国に攻撃されてかなりの被害を受けてる
その時はすぐ引き返したようだが、後にバルカン半島を征したオスマン帝国からすりゃ
イタリア半島なんて目と鼻の先だけど、なんで攻略しようとはしなかったんだろうと思う >>409
現代人でもここまで旅してる奴はそうそういない >>543
かかとまで占領され、危ないところで大征服者・メフメト2世が病没した。
たちまち深刻な跡目争いが始まり、イタリア征服どころじゃなくなった
モンゴル帝国が攻めてきたときもそうだったけど、西欧の歴史には幸運が多い >>544
イブン・バットゥータが中国の広州に行ったとき、そこでアラビア商人と会って話をした。
その後、アフリカ内陸部の黒人王国に行ったときも、そこでアラビア商人に会った。
なんと、その2人は兄弟だった。
現代でも、こんなに離れたところで暮らしてる兄弟など、なかなかいないだろう。
当時のアラビア商社のスケールのデカさを感じさせるエピソードだ。 明の鄭和の艦隊が東アフリカ沿岸まで行ったときも、鄭和がイスラム教徒だったのが大きかった
ムスリム商人のネットワークは世界に張り巡らされており、彼らのツテを頼れば、どこにでも行けた >>548
たしかスウェーデンに残るバイキング時代のルーン碑文で、三人兄弟のうち一人はイングランドで、もう一人はコンスタンティノープルで戦死、生き残った一人が碑を建てた、なんて話があった というか日本人の行動範囲が狭すぎるだけでそんなの普通にある話でしょ
ノルウェーのハーラル3世とか国を追われた後はキエフ大公国で士官
そのあとは東ローマ帝国に流れ着いてヴァリャーギになってる
アイスランドのサガにも遠くローマやコンスタンティノープルで軍功を積んだあと
故郷に錦飾るなんて話よくあるしね >>535
地中海の制海権を抑えるため
その実力を伴ったかはともかく建前では地中海は「我らの海」だった
イスラムが海軍を創設してビザンツ艦隊を破った後は後地中海の制海権はイスラムに奪われたが、
アッバース朝が内陸に都を移しレオン3世が艦隊を再建したため東地中海はビザンツの制海権に戻り
9世紀後半にビザンツ海軍が南イタリアに派遣されて一時的に西地中海もビザンツの制海権に戻った
当時西地中海は後ウマイヤ朝の制海下にあったが10世紀頃には南仏のイスラム拠点を叩くために
ビザンツ艦隊が派遣され、更にチュニジアのファーティマ朝がエジプトに遷都して艦隊を持たなかったため、
西地中海のイスラム勢力圏は弱体化し、強力ではないとはいえ相対的力関係からビザンツの地中海制海権が復活した >>551
日本人の行動範囲が狭い方なのはその通りだが
唐で高官になった阿倍仲麻呂とか戦国時代の東南アジアの日本人町とか山田長政とか
数は少ないがいるにはいる 鎖国がなかったらオランダやイギリスの東インド会社で傭兵として働いて箔つけた後に日本に帰国して士官なんて風習が出来ただろうね 鎖国がなかったら艦隊を創設してマラッカあたりでスペイン艦隊やオランダ艦隊と海戦をやらかしてたかも
日本軍に勝ち目があるとしたら、ポルトガルかオランダを味方につけてスペイン艦隊との決戦に持ち込むとか >>556
当時の日本に勝ち目あるとしたら
上陸させて陸戦だろ
その時点で圧倒できるぞ
艦隊自体は停泊してるところ夜襲 >>555
1623年、インドネシアの島で、オランダ人がイギリス商館員を大虐殺したアンボイナ事件。
「インドはイギリス、インドネシアはオランダ」という勢力圏が確定した大事件だけど、
虐殺された20人のうちイギリス人は半分で、残りの半分は日本人の傭兵だった >>551
日本は細長い国なので、国内の移動距離が意外と長い
源義経なんて、京都の鞍馬寺から奥州の平泉に行き、鎌倉から平家を追って九州まで進軍したあと、最後は平泉で死んだが、この移動距離を合計すると数千キロ >>556
日本人は小銃を造ることにかけては世界一だったが、帆船や大砲が造れないだろ >>551
>>555
蝦夷地や琉球が正式に領土に組み込まれたのも明治になってからだしな
つか日本人がもっと貪欲なら前近代の段階で北はカムチャッカから南はフィリピンあたりまで征服してるでしょ >>547
キリカス「神がヨーロッパを守ってくれたんじゃああああああああ」 >>547
全盛期のスレイマン大帝の頃ならイタリア征服しようと思えば出来たんじゃない?
と書いたけど、この頃はウィーン包囲に注力してたか >>559
実際に計算してみたが、京都→富士川(約400)、富士川→壇ノ浦(約1000)、
壇ノ浦→平泉(約1500)、合計約3000キロ すげえな >>547
中国や中東と違って、あの頃のヨーロッパなんて何も取る物もない貧しいエリアだから
(ヴァイキングは人を攫って奴隷として中東に売り飛ばしていたが)
モンゴルはハンガリー荒らして、ドイツ・ポーランド連合軍を凹って後はスルーしただけ
一方、日本を攻めたのは黄金の国ジパングと言われるほど金があったのも(奥州の金か)
フビライに目をつけられた一因 神聖ローマ帝国へスパイを出してるからなモンゴル
少々遠くても本当に豊かな国だったら確実に狙われてる >>564
地球1/10周もしてなくてショボすぎ
海外にでたことない現代日本人でも飛行機鉄道自動車で何十倍行くぞ >>563
地中海には、聖ヨハネ騎士団という強敵がいた。
スレイマン大帝は、ロードス島の城塞に千人でたてこもる聖ヨハネ騎士団に十万の大軍を送り、半年かけてやっとロードス島から追い払ったが、
マルタに根拠を移した騎士団にはさらに苦戦して敗退した。
「オスマン帝国外伝」のテレビドラマでは、スレイマン大帝がイタリア遠征して、かかと(オトラント)のあたりまで占領するところで大いに盛り上がるんだが。
メフメト2世と同様、やはり、イタリア征服する前に生命が燃え尽きた。 >>567
平泉と九州なら、ロンドンとローマくらいには距離がある
国際性はともかく、移動距離だけをとってみれば、見た目ほどのスケールの差はない 斉明天皇
天皇直々に九州まで親征するのはかなり珍しい 上級国民昭恵「暇過ぎて退屈だからUSA神宮に参拝してきたわ」 >>569
えええええ?????それ本気で言ってる?
ロンドンからローマの距離は1807kmで平泉から京都より1200kmぐらい離れてるのですけど
さらに言うと海も超えないといけない ザクロス山脈 533,500 km²
アルプス山脈 298,100 km²
日本本土 228,000 km²
こうしてみるとアレクサンドロス大王の東征やカエサルのガリア遠征がどれだけ大規模だったかわかる 歴史を初めて習ったガキの頃
徳川家光が嫌いになった
「こいつが日本を引きこもりにしたせいで、日本は西洋科学文明から立ち遅れたんだ!」と
だが鎖国政策のせいで日本的な文化が洗練され、海外の侵略を避けられたと聞き
多少は慰められた
そしてネラーになって…
改めて家光が嫌いになりましたとさ >>568
聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)は、現在医療ボランティアとかで活躍してるなー >>575
聖ヨハネ病院騎士団って名前で、もともと病院やってたから、先祖返りだね >>572
平泉から鎌倉だけで、500qは離れている。
そこから九州まで、1000qだ。
関門海峡はドーバー海峡より狭いが、海も越える。
大丈夫か? 平泉から九州だと、ローマからロンドンまでは行かないな
ローマからパリくらいか >>577
関門海峡の幅なら、大きな川で似たような幅はいくらでもあるよ… どっちにしても、アルプス越えが大変なので、同列には語れないが アラリックのローマ侵攻とフレグのバグダッド侵攻。文明の破壊度はどっちが凄まじかった? >>582
アラリックのは、「カネさえもらえば、用はねえよ」って感じで、破壊活動には熱心じゃなかったらしい バグダードは記録の限りだと本当に酷かったらしいな。 ヴァンダル王国のガイセリックによるローマ略奪のときは、かなり都市が破壊されたようだ
メチャクチャに破壊することを意味する「ヴァンダリズム」という言葉が、英語にも残ってるほど。
ローマの金品や職人が、カルタゴに連れ去られた。 476年、傭兵隊長オドアケルが西ローマ帝国を滅ぼした。
東ローマ帝国の皇帝ゼノンは、ただちにオドアケル追討令を発し、東ゴート王のテオドリックがイタリアに侵攻した。
テオドリックは勝利し、宴席にオドアケルを呼んで謀殺した。
最初の「イタリア王」が、オドアケルなのか、テオドリックなのかについては諸説ある。
でも、このときに「イタリア王国」が成立したのは確か。 >>587
東方に強力な実力皇帝のゼノンがいて、東とのやり取りがややこしかった。
ただ、それでも、その気になれば西ローマ皇帝を名乗れたはずで、「何か考えがあったのだろう」としか言いようがない。
オドアケルが帝位についていれば、「西ローマ帝国は滅亡した」と言われることもなかった。
むしろ、統治能力の高い名皇帝とされただろう。 その頃の皇帝は対立皇帝、共同皇帝ばっかりになって権威は失墜してた
更に教皇による皇帝の代弁者まで居て、もはや不要論まで達してた
そこにオドアケルが帝位を奪ってゼノン帝に返還した オドアケルはゼノンに帝位を返上したんやから西ローマは滅びてない
東西二帝国時代が終わって唯一のローマに戻っただけ 西ローマと室町幕府の滅亡は同じパターンだな
どちらも統治機構の実体はなくなり実力者の傀儡と化していた
最後の実力者である信長とオドアケルが傀儡を捨てて代わりを
立てなかった時点で滅亡認定と 所謂オドアケルも東ゴート王国も唯一ローマ帝国(東ローマ)の属国として文化や法を残しつつ繁栄させてた
どっちも裏切ったのは主である唯一ローマ帝国 支配してない南京を首都にしてる中華民国ていう国があるんやし バグダッド大虐殺80万人!
モンゴルは他国の文化に敬意を払わないのだな
現在でも中近東には反蒙感情があるのかな? オドアケルさんは結構まとも
元老院はじめ、政治&経済活動も回復させたし 当時の認識としては、むしろ、「西ローマ皇帝の資格がないのに僭称する不届き者を、傭兵隊長さんが成敗してくれた」くらいの感覚だったそうだが? >>586
>東ローマ帝国の皇帝ゼノンは、ただちにオドアケル追討令を発し、東ゴート王のテオドリックがイタリアに侵攻した
ゼノンがオドアケル追討令を発したのは、だいぶ経ってから
それまでは西の皇帝代行みたいな形で認めてた テオドリックは、宴席を設けるという名目でオドアケルをおびきだし、ノコノコ宴会に出てきたオドアケルを誅殺した
この点に関しては、なんだか中国っぽい展開だった ヘリオガバルス「アラリック、ガイセリック、アッティラ、オドアケル、テオドリック・・・良い男ばかりね。私もローマ末期に生まれたかったわ」 第二のローマしか無いのにルームカイセリと称してたり
第三のローマだけでツァーリと称してたり >>584
トルコ人は獰猛だったが、アラブやペルシャなどのオリエントの文化にはある程度敬意を払っていたように思う
モンゴル人は・・・ 元々モンゴル高原は匈奴や突厥などテュルク系がメインだったが
契丹あたりからモンゴル系がメインになってくる 旧ソ連ブレジネフ政権末期のソ連共産党幹部の顔ぶれが豪華すぎる件
https://youtu.be/fyi4sxBj3c8
ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコ、コスイギン、グロムイコ、ゴルバチョフ、エリツィン
ラスボス勢揃いって感じがたまんない >>604
テュルク系やイラン系はイスラム化したから、
アラブやペルシャに敬意を払うのはある意味当然の流れ。
しかしモンゴル人はムスリムではないので、イスラム文化に敬意なんて持ってるはずがない
ひたすら西へ、蹂躙・破壊・征服。
しかし、この征服活動によって東のルーシ文化圏や中国から、
中央アジアより西のイスラム世界との商業ルートを繋ぐ新たな流れが生まれた。
どんな歴史上の動きにも功罪があり、大規模な破壊・征服が行われれば次は新しい文化圏が創造される。
ただ、モンゴル帝国内での対立が進み、各ウルスの支配者が地元の勢力に同化して権力基盤を固めるようとすると、
逆にその地元勢力に精神的な部分でも取り込まれて、次第に彼らの中でもモンゴルへの求心力は無くなっていった。
そうなると、モンゴル帝国内の一体性も消失し、パクス・モンゴリカは一時的なものとして終わったわけだ。
その後は各地の勢力がモンゴル的な要素を取り込みつつ自立していく流れ。
ティムール朝(とその後のムガル帝国)、オスマン帝国、サファヴィー朝、ロシア・ツァーリ国、明及び清・・・
影響力はそれぞれだが、モンゴル的な要素は消え去ったとは言えない。 モンゴル人のキリスト教徒もいたようだが
チベット仏教徒のモンゴル人とムスリムのモンゴル人の間に埋もれて消滅していった ギリシャローマ以来の知識が詰まったバグダッドの教育機関を破壊した
まさに蒙古は「無知蒙昧」! 西ローマ帝国滅亡後
ゲルマン人「ウホッ?知識何それ美味しいの?」
カトリック神父「神だけを信じていればいいのです」 脅威を西に押し付けローマを復興せず荒廃させた東ローマ
ローマの遺産を理解できず食い潰したゲルマン蛮族 ウホウホゲルマンが古代ローマに追い着くのは19C後半。
日本ではそれより前の江戸時代にウホウホゲルマンの学問が入ってきてるな ヨーロッパがようやくローマ帝国の生活水準に戻るのはルネサンス期でしょ 東の彼方のスラブ人もウホウホゲルマンの某国家をお手本にした。
君主自らその地にやってきて同地で船大工になりすましたり・・・ >>599
ゼノンはイサウリア人の代表だった
イサウリア人とゴート族は東ローマ軍内で競合関係にあり
ゴート族が減ればそれだけイサウリア人に有利になるので
ゼノンはゴート族を移住させた
ゼノンはオドアケルじゃなくてゴート族が邪魔だった
オドアケルは不運だったね "神聖"ローマ帝国滅亡後はむしろ文明が発達していってるな >>615
日本「あ〜^ウホウホゲルマン帝国いいっすね^〜」 ゲルマン人のローマ皇帝。
西ローマ皇帝、神聖ローマ皇帝・・・ >>615
ピョートル大帝をディスるのはそこまでにしたまえ ゲルマン人は傭兵活動でローマに対する憧れが強かったからなー
傭兵から戻ってきたら、ローマ人スタイルになってる姿を見て「かっこええ!」って感じだったかもねえ ウホウホゲルマンだが、もともとのルックスがよかったからなぁ
蛮人のほうが美男美女なんて、ローマ人はどう思っていたんだろうか ローマ人は金髪にあこがれてて、ガリアとゲルマンからカツラ用の金髪を輸入してたしからねー
が、昔の原ゲルマン女性は出土した骨から想定するに、ちょっと顔も体格もゴツいとか…
なのでゲルマン男性はローマ、ケルト&スラブ女性が好みだったのでは?という話もある
傭兵に行く→赴任先で可愛い女性と会う→帰らない→ローマ人化する
というのも多かったと思う 現代の日本人の美意識を投影しすぎじゃね?
大体西ヨーロッパのスラヴ系のイメージって醜男醜女って感じ決して良いイメージないぞ
ベラルーシが美人大国なんて言ってるのも日本ぐらい ジャップが醜悪すぎる
モンキーと言われるくらいだからな 偏見だけど
ローマ人から見たゲルマン人は貪欲で肉食で刺激的遊び尽くした人間は大体そっちに行く
ゲルマン人から見たローマ人はやれるにはやれるけど物足りない遊び感覚
ローマ人から見たスラブ系は不潔近寄るな
ゲルマン人から見たスラブ系はヒョロ餓鬼は死体漁りでもしてろ
スラブ系はどっちからも性的魅力を感じてない ジャップが醜悪すぎてスラブ女が綺麗に見えるんだろうな
嫌儲でもネトウヨがロシアに渡米するなどと言っているよ ロシア人ってモンゴル人の血がかなり混じってるせいか
西欧人に比べてごつい顔つきの人が多いね >>626
お前ら朝鮮人のキツネ目よりマシだよ(笑) 日本で一神教は広まらなかったよね
キリスト教は中国や韓国に比べて全然だし、イスラムに至っては制約が多過ぎて改宗する奴なんて皆無
仏教の中では日蓮宗がかなり一神教的ではあるが(法華経以外は邪教という認識) なにしろ同調圧力という純で強力な宗教に入団済みだからな。 味噌カツ大好きで、酒も飲む俺にはイスラム教なんて死んでも無理だわ 仏教徒でも神社にお参りに行ってるし
外人からしたら訳ワカメだろうな 神道と仏教は互いに混じりあって切っても切れない関係になったけど
ヒンドゥー教とイスラム教は今でもインド国内で相容れない存在同士なの? 日本は割と日常生活に経典のない宗教的価値観が入り込んでるからな
無自覚に
文化的、民族的アイデンティティにすらなってる >>632
日本はイスラム教なんかより厳しい宗教だと思うわ >>638
それ言ったら一番厳しい宗教はカルヴァン派だろ
資本主義肯定の自立主義 八ツ橋「三位は京都やで」 味噌「おっ、おう」
明太子「三位は福岡に決まっとうやん」 味噌「おっ、おう」
海鮮丼「三位は札幌だべさ」 味噌「おっ、おう」
味噌「余裕余裕」
シウマイ「三位は横浜じゃん」 味噌「嘘こくな。三位は名古屋だがね」 ユリアヌス
百合厨だからキリスト教を優遇しなかった >>642
学問版でそのネタは馬鹿にされるからやめた方がいいぞw
中学生かな? 大人だとしても知的レベルは子供だねぇ
〇子というのは元々は男の名前だったんだよ
孔子や孟子も男だろ
奈良時代に藤原光明子という女性がいた
女なのに子がついていてしかも光明いう変わった名前
まぁ完全に今でいうDQNネームだ
親の顔が見たいと言いたいところだが、実は彼女はかの藤原不比等の娘
その彼女は聖武天皇の妃にまで出世した
それどころか慈悲深い仏教信者の女性として歴史に名を残すに至る
光明皇后という名前は聞いたことあるだろう
この光明皇后にあやかって、貴族たちの間で女子に子をつけるのが流行した
やがて子というのは女性につけられるようになり、今に至っているという訳だ >>637
小野小町を世界三大美女に数えている日本だけだぞwww そもそも、三大なんとかとか言い出しちゃうのはほぼ日本人 >>647
そうでもないが、三大なんとかの常として、3つのうち2つはすぐ決まり、あとの1つには異論が噴出する
「三大料理」がいい例で、「フランス料理、中華料理」までは鉄板。あとの1つがイタリア、タイ、トルコなど、人によって割れる しかし、「中華料理」というくくりはいかがなものか
広東料理、四川料理、山東料理、江蘇料理・・・と沢山ある >>631
日蓮宗が異民族であるアイヌに布教しに行ってたのは一神教ににてるな
他の宗派も沖縄には布教してたけど、
沖縄は大和民族と近いからな >>649
「中華料理」と「フランス料理」を並べるアンバランスっぷりが凄い
「中華料理」と並べるなら「欧州料理」になるはず >>648
もともとそれ、三大宮廷料理だし
由来も不明で欧州で誰が言ってんのかも不明という代物
(その意味では、トルコまたはムガルあたりが来るのご妥当)
中華料理って大枠すぎるとか、そういうツッコミ自体は意味がないと言えば意味がない 中国語は方言差が激しいが、どれも「漢字」で表記できる
ヨーロッパはラテン系言語とゲルマン系言語、それ以外の言語が入り乱れ
文字もアルファベットにロシア文字、ギリシャ文字とある意味様々
ヨーロッパの料理を欧州料理とひとくくりにできない 世界三大料理で上がってる国のなかでイタリア以外は宮廷料理で納得できるが、
イタリアの宮廷料理ってちょっとイメージできない
イタリアの都市貴族料理というならわかるが
ナポリ王国の宮廷料理とかあまりうまそうな感じがしない >>654
だからイタリア料理は入らないことが多いってお話
まあ、フレンチの由来はフィレンツェを中心としたトスカーナ料理だったりするし、もうどうでもいいわ状態 食文化が発展するには上流階級が存在するか、貨幣経済が発展しているか、
どちらかの要因が必要
日本料理は近世お江戸の貨幣経済をもとに発展した料理
フランス料理は宮廷で発展した料理
中華料理は、宮廷と庶民の貨幣経済の両方 韓食も最近は人気あるけどね
倭食は日本の経済的地位の没落とともに人気もなくなるだろう
いずれ韓流のように世界のメインストリートを走る事になる >>656
上流階級のジェントルマンが存在するのに食文化が発達しなかったどこぞの島は? >>656
東南アジアや中南米の場合は、
経済力付けたのがわりと最近だし、泣く子も黙るほどの強力な王朝は比較的少ないけど
あっちこっちに美食文化があるのは、食材自体が豊富な土地柄ってことも関係してるのかな >>656
京や大坂は、江戸とはまた違った経済圏でもあったね
何せ、江戸時代になっても西日本と東日本とで通貨統合されてない
だから、料理文化も独自性がかなり強いね
しかも京料理は日本料理の正統とも見なされるし >>656
>フランス料理は宮廷で発展した料理
それがフランス料理の基盤なのは確かだけど、本当に世界的に突出するようになったのは、フランス革命以後の19世紀から20世紀。
世界に先駆けて市民社会・消費社会が形成され、そのニーズに応えてアントナン・カレーム、オーギュスト・エスコフィエといった天才シェフが登場して、高級レストラン文化が確立された。
料理に限らず、文学や美術もやはり、フランスが本当にすごいのは19世紀から20世紀の中頃くらいだろう。 しかし、そんなフランス料理も、16世紀までは、刀でブツ斬りにした肉を手づかみで食べるという、荒っぽい野蛮な肉食人種
カトリーヌ・メディシスがフィレンツェから王家に嫁いできて、フランス人にナイフとフォークの使い方を教えた。
それから、フランスの宮廷料理が発展し始める。 まあ、それをいうとロシアでも宮廷ではフランス料理食べてたってあたりにフランス(宮廷)料理の偉大さはあるのかもね
独自の体系化された宮廷料理持ってたの、他にはウィーンくらいかも ドイツ(この場合ベルリン)の宮廷料理ってあったのかな
ジャガイモ食ってりゃいい的な質素で合理的な栄養摂取しか感じないんだが >>665
あえて書かなかったけど
ウィーン風かフランス風の料理だったよ
あえていうならウィーン風の方が強かった >>657
定期的に日本sage韓国age厨湧くな
韓流ドラマは確かに日本のドラマよりは世界である程度需要があるみたいだが、
韓国の食事が日本ならまだしもその他の国々で人気があるなんて聞いたことがない
そもそも韓食なんて世界的には一ジャンルとしてすら認識されてないだろ
バカも休み休み言え
韓国の食文化で有名なのは、ほとんどが現代的なものばっかりだろ
チーズダッカルビとかな
寿司や刺し身などと言った昔からの料理がウケてる日本とは比較にならない 〉寿司や刺し身など昔からの料理
受けてんのはカリフォルニアロールとかなんだよなあ 少なくとも朝鮮では外食産業の発展は近代以降だった
李朝では商業や工業は蔑視されていたからな。
当時の朝鮮で外食ができる施設は、酒幕と呼ばれる、居酒屋を兼ねた宿屋のみだった。 ウィキペデータ
日本料理 39言語 英語版 Japanese cuisine 85000バイト
韓国料理 27言語 英語版 Korean cuisine 86000バイト >>662
>しかし、そんなフランス料理も、16世紀までは、刀でブツ斬りにした肉を手づかみで食べるという、荒っぽい野蛮な肉食人種
古代ギリシャやローマも手づかみでモノ食べてたし野蛮とは思わんけどな
というか日本食も魚の生食とか一つの鍋を大勢でつつく文化とか世界的に見ても奇妙奇天烈だぞ JAP「鍋うまかったね〜はい!雑炊するから汁戻してー!」欧米人「Dont stop!」
欧米人「Japさぁ 自分たちの取り皿に入ったものを
みんなの食べる鍋に戻すってどういう神経してるんだい?
そんな気持ちの悪い料理を喜んで食べる それがNIPPONなのか?」 >>672
don't stopっておかしくねえから >>672
日本人だって普通戻さねえよ何言ってんだ >>668
寿司は海苔が受けないんだよね。黒いものを食べ物と認識できないようで。
だから天婦羅なんかは割と日本風のまま食われてる。
あとはうどんかな。 ヨーロッパでプロテスタントがおこらずゲルマン圏全域がカトリックのままだったら
同地の食文化はなんぼかマシになってた? >>676
イカスミパスタは普通に英語グルメ採点サイトでも高得点だが ゲルマンの酒:ビール
ラテン、カトリックの酒:ワイン
ケルトの酒:ウイスキー 16世紀に描かれたエリザベス1世の肖像画に秘められたヘビが姿を現す
https://www.google.com/amp/s/gigazine.net/amp/20100305_serpent_in_queens_portrait
だいぶ前の記事だけど、何故かググる先生が提示したので貼る。
これってまだこの時代でも蛇がそんなに悪いものとして捉えられてなかったということだよね?
時代をさかのぼって中世だともっと肯定的なシンボルとして一般的だったことになるよね。 >>684
蛇は知恵の象徴でもあるしなあ
東洋でも西洋でも同じようなシンボルになってるあたりは面白いね、比較文化論的に >>687
中世農業革命と村落共同体の確立
強制的な文化の交流(美化)による、技術的進歩
……以上! のちの世のRPGやダンジョン物に貢献した事だったりw >>684
そこに書いてあるけどキリスト教(補足入れるとアブラハム宗教全般)ではサタンや原罪への結びつきもある事から消されたのではないかとも書かれてる
すなわち一般的には悪として捉えられてるのが浸透してたって事じゃないかな
それ以前の原始宗教時代は世界各地神の使いだったり神聖なる象徴として扱われてた >>687
かっこいい刀を作った
ダガーとかパルチザンとか 確かに…
だから良い剣の刃は、スペインとサラセンから輸入してたからなー >>676
>寿司は海苔が受けないんだよね。黒いものを食べ物と認識できないようで。
どこかの半島国が、例によって「我が国の特産品ニダ」と主張しているな >>678
ゲルマン人は根本的に味覚が独特な奴が多いからな
文化って言うより人種的なもんだから変わんないんじゃね >>696
一体どこで見聞きした与太話か知らんが、
そんなこと言ってたら
それこそ日本や韓国やウェールズの人間(いずれも海苔をごく普通に食べてる)は
よっぽど生物学的に風変わりだっていうのか?
まっさかぁ
そんな話を本気にするなんて、情報リテラシーの基本がなってない パルチザンはゲリラじゃ!と思ったら、元は武器の名だったのか
ついでに、フランス語だったと初めて知った
てっきりロシア語だと思ってた >>699
ふむ、腸内細菌の話か
ただ、それが実際に生理学的にどう具体的に作用するのか説明が弱いし、
そもそも人体そのものの直接的な生理機能じゃないな
それこそ韓国やウェールズの人の腸内はどうなのかってことになるし、
そもそもサンプル数が少なすぎて、仮説の域を出なさそうだが・・・
ネイチャーって、先鋭的な論文も敢て載せる傾向がもともとあるというし、
それこそUKの自然科学論文誌なら「ウェールズ人はどうなのか?」って編集段階で突っ込みが入らなかったもんだろうか >>695
>ゲルマン人は根本的に味覚が独特
最たるはスウェーデンのシュールストレミングなんかね >>701
まあそれ言い出したら、例えば日本にも「くさや」やら「ふなずし」やら「いかのしおから」やら「しょっつる」やら・・・ってもんがありまして そういや、古代ローマには、ガルム(しょっつる)が広く普及してたな
なぜか今では、イタリアのごく一部の漁業地域だけで作ってる珍味扱いらしいけど 万年属国の下朝鮮料理は世界的に無名
文化的価値もないから観光客も少ない 「日本人の海藻消化」の話は腸内細菌だが、北欧人の胃腸に乳製品を消化する酵素があるのはガチ。
これは生活習慣の問題ではなく、本当にDNAの変異でそうなった。
牧畜生活を始めて、たったの数万年で人体が酪農に適した進化を遂げた。
「生物の進化はこれほど早いのか」と生物学者は衝撃を受けた。 歯が生えたら母乳を分解する酵素が失われるのが本来の哺乳類だしな >>707
人間が介入したら進化も早くなるよな
家畜化と一緒で 高緯度地方の人間のビタミンD不足、カルシウム不足はまじで命に関わるからねえ
くる病になると出産の難度も上がるし、非常に強い淘汰圧がかかったんだろう
北欧人は大人になっても乳糖分解酵素が産生されるという適応をしたのに対し、エスキモー/イヌイットは生肉主体の食事でビタミンDを摂ってタンパク質過剰摂取の害を軽減する代謝系の適応があるそうだ
人類への自然選択は文化と込みにして起こる、というのは当たり前ではあるが面白いと思う
日本人の海苔消化は……あんまり生き死にに関わってるようには思えん そうだな。
乳製品の消化吸収能力の高い人間が生き残り、そうでない人間が淘汰された。
保温能力の高い大柄な人間が生き残り、そうでない人間が淘汰された。
あれだけ北極に近い地域ともなると、それくらい生存環境が厳しいということだろう。
温暖な南国に攻めていったバイキングが、無双だったのは当たり前。 サッカーでも、オランダ代表とスペイン代表にはかなりの身長差がある
オランダが小国なのに強いのは、高さのおかげ オランダ人は長崎出島に来てた頃はそんなにデカくなかった。近代以後成長期に良質な肉を食べさせるようになったらデカくなった。ちなみにサッカー選手はオランダ人としてはチビが多い。 韓国人も、「焼き肉ばかり食べている」というイメージがあるが、日本と同じく、肉食が増えたのは20世紀後半に食生活が洋風化したおかげ >>707
イングランドの煤煙の激しい工業地帯で
わずか数十年の間に蝶の色がドス黒くなって
すすけた街での保護色になったていう話しがあるやん >>711
ところがな
モンゴロイドの身体もやっぱり寒冷地仕様やねんで
同じ北方人種でも毛唐の身体は日射不足対策重視で
モンゴロイドの身体は寒さ対策重視らしい >>715
そもそも日本で言う「焼肉」は日本料理や
正確に言えば在日料理
おそらく日本で入手可能な食材や調理具でプルコギに似たものを作ろうとしてできたものやろ
韓国でも日本で食うような焼肉屋はあるけど
そういうとこは「日式焼肉」て看板が架かってる 移民コミュニティが故郷の料理を現地の材料で再現しようとしたらなんだか似て非なるものができたけど、これはこれで美味いからヨシッ
他に何があるかな? 日本人が牛を解体して肉を取り、捨ててた内臓その他を朝鮮人が拾って、焼いて食べた
それが、ホルモン(放るもん)焼きの始まり。
今では、世界に冠たる内臓料理になった。
日本ほど、ムダなく全部の肉や内臓を捨てずに食べる国は珍しい。 だから、個人的には移民の受け入れに賛成している
日本から新しいものがなかなか出てこないのは、移民を入れないのが根本的原因 しかし、ローマ帝国は、あれだけのスーパー多民族国家だったわりには、新しいものはあまり出てこなかった
創造性にかけては、古代ギリシャに大きく見劣りすると昔から言われている >>725
建築技術と土木技術と軍事技術は当時の世界でトップのはずや >>723
コリアンコミュニティが創造した文化を日本の手柄みたいに言うのはちょっと・・・ >>723
骨髄も血液も脳も食わないじゃん日本人、まあ食肉の歴史が浅いからしょうがないけど。
遊牧民は糞まで有効利用する。 >>730
魚の場合は骨も骨髄も血も脳も使うね
糞は食わないな(燃料にはなる) >>730
牛丼屋で出てくる肉は、アメリカ人にとっては脂身が多すぎる屑肉。
一方、日本人は、白身魚と舌触りが似ているので脂身が大好き。
だから、こういう肉は日本の商社がみんな買い占めていた。
でも、今世紀に入り、中国というさらに巨大な買い手が登場して、肉の仕入れ競争が激化した。 >>730
鳥獣骨髄は移入系料理だと日本でもかなり広く使うね
吸い物の出汁にするよね
血液は日本では食べない地域が多いけど、例外的に沖縄では豚の血を食べるね
(沖縄料理からの影響の強い薩摩料理では、どうなのかな? 鹿児島県民さんこのスレ見てたらご回答を)
ただ、古来の獣肉食文化圏でも、血を食べるか食べないかは、
ヘブライズム文化の影響の濃淡によって違いがあるようだね
ユダヤ教、イスラム教では、戒律で血を食べないことを定めてる
キリスト教では一般的には血を食べることを禁じてなくて、
例えばドイツにもブルート=ヴルスト(血入りソーセージ)があるな
血入りソーセージはユーラシア一帯にかなり広くあるね
モンゴルやチベットにもあるし、韓国でもスンデ(腸詰め)には春雨などと一緒に血を詰めてある
(蒸しスンデは、韓国の飲み屋や屋台の定番メニューの一つだし)
脳は、獣肉食文化圏ではかなり広く食べられてるけど、
異常蛋白質の摂取の回避目的で徐々に食べなくなりつつあるんだろうかね? >>734
韓国料理はむしろ野菜類の使い方が上手いな
動物性食品と植物性食品を献立全体で組み合わせた栄養バランスの取り方に長けてる感じ
日本の場合は、なにぶん、獣肉食文化が長い間一般化してなかったからなあ…
確か、日本人の平均的体格は江戸期が一番小柄だったんだっけ、むしろ鎌倉期とかのほうが大柄だったとか >>736
上にも書いたけど、韓国人が盛んに肉食するようになったのは、20世紀の後半、日本人と同じく食生活が洋風化したことによるもの
韓国人は、20世紀から始まった「伝統」を、大昔からあったかのように装うことが多い >>737
その点を論ずるなら、料理・食材そのものの様式として獣肉が通常の様式に含まれてたかどうかを見るべきじゃないか?
例えば、日本の京料理の一般的献立に、牛肉料理とか豚肉料理とか無いだろう?
朝鮮半島の料理様式の場合、獣肉の食材使用が衰えてたのは高麗中期頃の一時的なことで、
高麗後期以降から今に至るまで、獣肉の使用そのものは忌避されてない >>737
それは韓国に限らず世界中で普遍的にある現象で、日本も例外ではない >>737
やりなおしw
それは韓国に限らず世界中で普遍的にある現象で、日本も例外ではない
>韓国人は、20世紀から始まった「伝統」を、大昔からあったかのように装うことが多い >>737
明治維新後に創造された宮中行事を2000年続く伝統かのように騙る右翼も多いけどね >>738
そういうのを「詭弁」というんじゃないのかな?
朝鮮王朝に肉食が復活してたのは事実だが、「肉と野菜の栄養バランスが良い献立」なんか無いよ(笑) >>739
そりゃ、19世紀や20世紀に人類の文明がどれほど変わったかを考えれば、大なり小なり、そうなんだけど、程度の問題ってものがある。
韓国の肉料理は、焼き肉とそのバリエーションがメインで、これは20世紀に日本から持ち込まれた在日料理。
それでいて、「江戸時代の日本人は肉食しなかった。我が国は肉食文化の先輩ニダ」とか、そういうことをやたら言いたがる(笑)
この件に限らず、韓国が誇る「伝統文化」は、20世紀に日本の影響で始まったものが多い。 まあ、この話をしだすと左翼と在日が怒るから、ここまでにしとくけど。
それより、こんな話をしてたら、サムギョプサルとかヤンニョムチキンがまた食べたくなってきたな(笑) >>744
在日料理が日本の影響だ、というのも強弁というか詭弁に聞こえるけどね。
>>735も言っているように、たとえば獣肉食文化に広く分布している血液食も韓国文化にはあって日本文化にはない。
「韓国は肉食文化の先輩だ」という人がもしいたら、それを否定する理由はないと思うが。
あと語尾に「ニダ」とかつけるのは、韓国人と韓国文化を侮辱や揶揄することにばかり熱心な、下品な人々のやることだから、やめたほうがいいよ。 >>742
伊勢の大黒屋幸太夫の一行の船がアリューシャン列島に漂着した当時のことを知らないか?
ロシア人入植者に保護されてから、冬場に獣肉しか保存食が無い状況下で、
獣肉食を拒んで餓死した船員がいたくらいだぞ
体力仕事人の極みのような船員が餓死すら選ぶほどの拒否感っていうのは
よほど社会全般で獣肉食忌避が当然視される背景が無いと、あり得ないことだろ >>746
>在日料理が日本の影響だ、というのも強弁というか詭弁に聞こえるけどね。
在日料理が日本の影響ではない、朝鮮王朝に由来する韓国固有の伝統文化だという方が、よほど詭弁に聞こえるが。
>あと語尾に「ニダ」とかつけるのは、韓国人と韓国文化を侮辱や揶揄することにばかり熱心な
そういうけど、あんなにウソで塗り固めた連中を尊敬できるのか?(笑) >>747
例によって、ズレまくった反応だな。
こちらは、「韓国で肉食が盛んになったのは20世紀の後半であり、日本と同様、食生活が洋風化したことによるもの」と言ってるだけ。
「江戸時代の日本人は肉食してた」と言った覚えは無いのだが・・・。 >>738
戦国時代や安土桃山時代の京都で鯨肉が献上されていた 朝鮮では、牛は農耕の作業用であり、食用ではなかった。
その朝鮮牛を日本人が日本に持ち帰り、品種改良を重ねて食用に改良したのが、高知県などで飼育されている「赤牛」。
脂身が多い日本人好みの「黒毛和牛」とは異なり、赤身が多いので固定ファンがいる。 >>750
京都の老舗料亭で、わざわざ江戸時代まで遡らなくても明治・大正時代に鯨肉ステーキが主菜になってたりしたかい?
魚の一種と見做された時期があったんだろうけど、
それでも、社会一般の日常的食材にも、上流階層の宴席の定番食材にもなってないでしょ? >>645
DQNネームといえば、フランス人名の「フィリップ」というのもそうだな。
同名の十二使徒もいるし、今ではありふれた名前だけど、当時は妙にギリシャ風味の違和感を感じるネーミングだったそうだ。 >>749
だから、ここでみんなが議論してるのは、食文化の様式上の獣肉食有無の話じゃないか
家計の事情での肉類確保可能不可能の話をしてるんじゃないだろ >>752
捕鯨地域の漁村では江戸時代から常食だった >>752
そして室町時代の料理書に食材の最高位は鯨と記載されている >>750
当時の日本人が鯨を獣類とみなしてたと思う?鯨字は魚部だし和名も勇魚、魚とみなしてたんだよ。 >>754
いやいや、そうではないよ
「韓国の伝統料理は、肉と野菜のバランスが良い献立」というから、それに異論を唱えてるわけで。
あたかも、朝鮮においては、肉という食材が豊富であったかのような言い方だ はっきり言って、韓国の肉料理の歴史は、「戦後の日本の闇市」から語り始めれば十分
それ以前も肉食があるにはあったが、食材として普及してたわけではない >>755
>>756
「捕鯨地域では一般的だった」という点については異論は無いね
では「最上の食材」であると捉える説がありながら、
なぜ高級宴席料理などでの主菜として広く使われるようにならなかったのか、という点についてはどうだろう?
保存技術の未発達などの事情があったからかもしれないが、
内陸都市の京以外にも、江戸や大坂や博多といった、政治・経済・文化の大規模集積地しかも臨海都市は、中世以降各地にあったのだし >>760
広く使われるようにならなかった、という史料は? >>761
獣肉の話ししてるんやけど
なんで突然鳥肉にすり替わるねん
そんなすり替えしてええなら魚肉のほうがもっと食うやんか アメリカのペリー一行がやってきた時に幕府が勢を尽くして作った日本料理について彼は貧相な食べ物が大量に出たと書き残している
彼は琉球王国の歓待料理を美味かったと述べていることから差別的観点を持っていた訳でなく本当に日本料理が不味かったのだろう
このように伝統的な日本料理は貧相なものであったと判る >>738
戦国武将が都で将軍を歓待した時の本膳料理の食材には、ウズラが使用されてたらしいよ >>765
獣肉の話ししてるんやけど
なんで突然鳥肉にすり替わるねん
そんなすり替えしてええなら魚肉のほうがもっと食うやんか >>760
>なぜ高級宴席料理などでの主菜として広く使われるようにならなかったのか、という点についてはどうだろう?
鯨の肉は腐りやすいし、捕れる量も限られている。
江戸でも高級料理の食材として使われてはいたが、いつもあるわけではない。 >>760
捕鯨地域じゃない京都や大坂でも鯨は食べられてた
江戸では鯨肉は商品化されてた 昔の日本人はイノシシを食うのに山鯨といって忌避した
鯨は獣扱いじゃなく魚扱いやな >>766
インド人だって、ビーフカレーは食べないが、チキンカレーは食べるぞ
まあ、それだって人によるが 日本料理は肉が欠如したクソバランス料理だからこそタンパク質を補うために醤油や味噌などを使うしかなかったわけだが >>762
きみは室町の書物を挙げてるが、
(まあ「室町時代」といっても長いので、いつ頃の時代かにもよるだろうが、)
社会的安定や経済水準の高度化が進んだ江戸時代にも鯨肉料理が結局一般化しなかったことは、
それこそ上で書いたように、鯨肉料理が近代以降も和会席の通常様式になってないことから明らかだし…
それこそ、江戸時代の料理書ではどういう扱いになっているんだろうか? 何か挙げられる史料があるかい? >>757
江戸時代だと鯨は猪の肉と似てると言われてた >>771
昔の日本人が獣肉を忌避してたていう話しをしてるのに
それに対する反論が「ウズラ食うてた」「鴨食うてた」てどういうことやねん >>773
>社会的安定や経済水準の高度化が進んだ江戸時代にも鯨肉料理が結局一般化しなかったことは
そこがおかしいんだって
何なんだよ、その自信満々な決めつけっぷりは(笑) >>773
江戸時代は室町時代より鯨食の史料が多いと思うけどな
町民にも普及してたくらいだし >>764
ペリー一行の反応の違いって、やっぱり豚肉食文化の有無が大きかったのかねえ? 絢爛な中華文化圏である琉球と、貧相を虚勢で誤魔化す侘び寂び(笑)クソジャップの文化の違いや
内部にいるとそれに気づかないんや >>773
元禄時代の江戸に獣市が存在してたという史料もあるよ >>780
大逆罪に対しては凌遅刑があったんだっけか>琉球 >>773
>それこそ、江戸時代の料理書ではどういう扱いになっているんだろうか? 何か挙げられる史料があるかい?
なんでそんなに鯨にこだわってるのか分からんが、そんなに言うなら、とりあえずコピペしとくわ
1643年(寛永20年)に『料理物語』という料理書の中で10種類の鯨料理が紹介されている。
1669年に『料理食道記』という料理書には、日本各地の鯨肉産地(詳細後述)が記載されている。
1763年(宝暦13年)に『料理珍味集』という料理書に「鯨蕎麦切」という鯨料理が紹介されている。
1832年(天保3年)には、捕鯨の様子を描いた絵物語の付録として鯨料理専門書『鯨肉調味方』が発行されている。
鯨の約70もの部位についての料理方法として、「鋤焼き」という焼肉風の料理、すき焼きに似た鍋物、揚げ物などが紹介されている。
鯨肉普及のための一種の広報誌だったとも言われる。
天保年間には『日用倹約料理仕方角力番附』という家庭料理書の中で「夏場のおかず位付け(ランキング)」の前頭16番目に鯨料理が紹介されている。 >>764
いまや沖縄県民自身も沖縄のメシマズに嘆く有り様 >>753
フランス王フィリップ1世は聖ピリポにちなんでこの名が付けられた?
はたまたアレクサンダー大王の父フィリッポス2世にあやかった? 食の普及を話すに辺り
保存技術もさながら運送技術インフラ技術を無視してはいけない
普及とはそういうインフラ整備が整った環境でしか普及はしない >>775
だから、「牛を食べるのを忌避するインド人も、ビーフカレーの代わりにチキンカレーを食べる」という話をしてるんだろ(笑) >>764 >>773
江戸時代は上流階級になる程、肉食が忌避されてたんだよ
町民はそれ程でもない 朝鮮半島では高麗の頃から焼き肉が一般食じゃなかったか?
火鉢の上で焼いて食べるやつ。
コリアンバーベキューの源流は既にこの頃からあった。
確か高麗では国教が仏教であり、動物でも殺生は推奨しないと定められているにも関わらず、
高麗では焼き肉が人気だったため誰も止めようとするものはいなかったとか何とか
あとイザベラ・バードの著書「朝鮮紀行」では、何も朝鮮が一方的にsageられているわけではない
例えば・・・朝鮮の釜山だったか?
あそこにいた兵士達は、その辺りをたむろする日本や中国の商人たちより
ずっと立派な体格をしていたと記録されている。
欧米人という第三者の記述なので信憑性は高い。
現代でも、日本人や中国人に比べるとチビやガリは少ないイメージがある
かたや日本人の若者は最近細く小さくなり過ぎ・・・
50代のオッサンに10代後半の少年が身長負けてるってんだから深刻だよ
少食になった影響やな >>780
中華文明圏の国際秩序では、琉球王国は朝鮮より格が上の扱いを受けていたからな ×中華文明圏の国際秩序では、琉球王国
〇中華文明圏の秩序では、琉球中山国 >>764
プチャーチン使節団は日本側饗応に結構好意的だが「上品で美味だが、とにかく量が少ない」とボヤいてるな
「調味料か付け合せかな?と思ったらそれが主菜なのだ!」みたいな >>790
>確か高麗では国教が仏教であり、動物でも殺生は推奨しないと定められているにも関わらず、高麗では焼き肉が人気だったため誰も止めようとするものはいなかったとか何とか
それは、モンゴル帝国に支配されていたからだ。
支配者のモンゴル人が羊の串焼きを美味しそうに食べてるのを見て、高麗人も、「あれ? 肉って、食べてもいいものなのかな?」と思い始めた。
そもそも、高麗の国王からして、ほぼモンゴル人。
高麗王とモンゴル人の王妃の間に生まれた王子はハーフ。その王子が、またまたモンゴル人の王妃と結婚して、王子はクォーター。
しかも、子供の頃は北京で育ち、大人になったら高麗に下って国王に即位する。
なかには、「故郷に帰る」と言って北京に行ったきり、高麗に戻ってこない王様も出るありさまだった。
このため、高麗の後期は、文化がかなりモンゴル化していた。 別に欧州の大多数の農民も年中肉を食ってた訳じゃなくてほぼ貧相な雑穀やオートミールを食ってたわけだが
こいつは欧州の肉食文化も20世紀以降の習慣を大昔からの伝統のように装ってるとかいちいちキモい嫌味を言うのだろうか? >>797
お前は、この話の発端を見てないのかよ?)
「韓国の伝統料理は、肉と野菜のバランスが良い献立。それに比べて日本は、肉食文化の歴史が浅いから・・・」
とかなんとかいうから、「韓国で肉食が盛んになったのは20世紀の後半のこと。日本というから、同じく、食生活の洋風化によるもの」と言ってるわけで。
朝鮮にも肉食はあるにはあったが、食材が豊富で普及してたわけではない。
「肉と野菜のバランスが良い献立」なんか、あるわけないだろ(笑)
韓国の肉料理は、戦後の日本の闇市に由来する焼肉とそのバリエーションがメインであり、まさに在日料理だ。 >>798
韓国の伝統食がバランスがいいかどうかしらんけど
日本に肉食の伝統がないのは事実だし
それに比べりゃバランスは良いだろ
なにムキになってんの 維新後の近代日本では兵役を通じて牛肉の味を知った人も多かったりして 朝鮮大好きおじさんは隙あらば韓国をくさそうと寄ってくる北朝鮮人なんだ許してやってくれ >>799
>それに比べりゃバランスは良いだろ
だから、その「バランス」とやらが良くなったのは、ここ数十年の話なんだよ
何度でも繰り返すが、韓国の肉料理の歴史は、「戦後の日本の闇市」あたりから語り始めれば十分 >>799
チョン国の「伝統食がバランスがいいかどうかしらん」
のなら、比較すること自体が無理だなあ 高麗の宮廷から蒙古に沢山の人材か送り込まれている
高麗が一方的にモンゴル化したわけではなく、文化というのは相互影響で作られていくものだ >>801
いやまあ確かに、サムギョプサルやヤンニョムチキンなど、韓国の肉料理は好きだし、しょっちゅう食べてるが >>802
肉食自体がない日本食はバランス自体がないけど 日本人の肉食の歴史も高度経済成長期以降から語れば十分やな
田舎のどん百姓は肉なんか食わんし >>803
ゼロと比べれば任意の正の数nはかならず大きくなるので比較はできるぞ >>804
言っちゃあ悪いが、そこが朝鮮人のおかしいところなんだよ
日頃はあれだけ、「日帝は我が国から奴隷を強制連行していったニダ。賠償金を払うニダ」と騒いでるくせに、
なんでモンゴル帝国に対しては「我が国から北京に人材を送りこんでやった」となるのか。
北京では、女は世奴隷。男はチョン切られて宦官だ。あれこそ奴隷だろ。 朝鮮大好きおじさんは毎日朝鮮人のことばかり書き込んでる変人 >>806
鹿、猪、兎
鴨、軍鶏、雉、雀
鯨、牛
昔から食べられてたけど >>811
豊富じゃないから肉食文化と認められないってさっき言ってましたよ 清代には、清の役人が北京からやってくると、朝鮮国王は裏門からコソコソ入らなければいけなかった。
弁髪に満州服の役人に、明朝様式の服装の朝鮮国王。
清の役人は正門から堂々と入り、朝鮮国王は裏門からコソコソ入って、土下座して三叩九拝しなければならなかった。
朝鮮国王は、愚かにも大清皇帝に逆らって反乱した戦犯の子孫。
この世に清と朝鮮がある限り、永続敗戦国なのだった。 >>808
日本の肉食がゼロだという証拠を出そうか
日本の肉食がゼロじゃないという証拠は出てんだし >>814
食材が普及してないから文化としてはなかったんだよなあ >>811
獣肉食の話ししてるのになんで「鴨、軍鶏、雉、雀」が出てくるねん
鳥肉まで挙げるならそれよりももっと食うてるのは魚肉やろ >>817
動物性タンパク質をとってないヴィーガンが暴れてるのかも。 >>808>>816
日本の肉食がゼロだという証拠を出せなかったねえ
あと日本には江戸時代創業の老舗すっぽん料理屋があるみたいだよ >>820
お前の説だとゼロだろ
普及してないんだから ゲェジ「朝鮮の肉食は食材が豊富じゃなく普及してなかったから食文化として認めんけど、
日本の肉食は少しでも食べられていたから立派な食文化なんや」
草 >>821
文化の話してたんだよなあ>>816
日本には江戸時代創業の老舗すっぽん料理屋があるみたいだよ
チョン国にはそれより古い老舗すっぽん料理屋があるのかい? >>823
すっぽんは日本人の食卓に毎日並ぶ豊富な食材なのかい? >>771
ありそうで実はないものシリーズ
本場インドのビーフカレー
さあ皆さん続きをどうぞ >>825
文化の話してたんだよなあ>>816
毎日並ばなくてたまに食べる料理でも文化だろが
で、日本には江戸時代創業の老舗すっぽん料理屋があるみたいだよ
チョン国にはそれより古い老舗すっぽん料理屋があるのかい? >>830
毎日豊富に食卓に並ばないと食文化じゃないって言い張ってた奴がいるんだよなあ
お前毎日すっぽん食っとんか? >>831
お前は言い張ってる奴に同調しちゃってんだねえ
おれは同調した覚えはないけどさ
>>816
で、日本には江戸時代創業の老舗すっぽん料理屋があるみたいだよ
チョン国にはそれより古い老舗すっぽん料理屋があるのかい? >>833
じゃあ朝鮮にも肉食文化はあるってことになるね
それなら日本にも肉食文化はあるんじゃね
しょべえけど しにせすっぽんしにせすっぽんって
スッポンのようにしつこいネトウヨだなあw >>834
で、日本には江戸時代創業の老舗すっぽん料理屋があるみたいだよ
チョン国にはそれより古い老舗すっぽん料理屋があるのかい?
老舗料理店がないなら文化としては日本より下だろうね >>837
すっぽん好きすぎだろお前
勃起不全か?? >>839
日本みたいな老舗料理店がないチョン国の料理文化ショボ過ぎw
寄生虫入りキムチでも喰ってろや 「朝鮮王朝の永祖年間に創業した老舗の犬料理店」でもあるのなら、朝鮮にも固有の文化伝統があると認められるのだが
犬にとっては迷惑な話だ >>834
朝鮮王に奴隷のションベンを直飲みさせるのがチョン文化 前スレぐらいから若干臭ってたけどここに来て一気に爆発したな 俺は西ローマ滅亡から中世期全般の話だと思ってた
だから正直西ローマの話も若干スレチなのかと >>771
>>787
やたら鳥肉や牛肉忌避にこだわる一方で、羊肉について全く言及しないのはわざとだな
それこそローマでも中東でもインドでも東アジアでも古代以来一般的に食べてるってのに ・ゲルマン民族大移動(ヨーロッパの域内)&西ローマ帝国滅亡:4〜5C
・神聖ローマ帝国滅亡&ゲルマン民族大移動(新大陸行き):19C
上はその後暗黒時代を迎えたが後者はこの時期に文明が発展していってるな 東ローマ帝国滅亡時、イタリアではルネサンスにより暗黒の中世から脱しつつあった。
この時期のゲルマン民族は大移動の気配なし? 名著「魏晋南北朝」の川勝博士が、「中国では、漢が崩壊して華北の文明が衰退したあとも、江南で南朝が漢の文化を継承した。
それに比べて、西洋ではローマ帝国の崩壊後、文明が受け継がれなかったのは何故か?
この疑問を考え続けてきたが、まだ答が見つからない」
というようなことを書いていた。
でも、その答は明らかだ。
西欧では文明が衰退したけど、ギリシャ、シリア、エジプトといった東方が文明を受け継いだ。
その一言に尽きる。 >>859
ジンギスカンは源義経だから
実質日本料理 >>622
ゲルマンなんて、男女ともネアンデルタール人の
遺伝子の濃いゴツイのばっかだよ。最近のドイツの
若手女優、アイドルでも、「エェェー?!」ってくらい
雌ゴリラ並みにゴツイ。男性でも、シュワツェネッガー顔や
シューマッハー顔が多い。ラテン系やスラブ系の方が顔立ちはいい。 >>624
ドイツの田舎の自家製ソーセージが自慢の肉屋の
おばちゃんは生きた子豚を逆さ吊りにして首を
包丁で 叩き落として血抜きして解体してるのを
見たことある。おばちゃんといってもガタイが違う。
単なるデブでなく、大相撲力士の様な骨太筋肉デブ。 >>657
韓国料理というのも、殆どが日本でリファイン洗練されて
逆輸入されたものばっか。日本式韓国料理との大きな違いは、
変な臭いと薬品臭い味の荏胡麻の葉を多用すること位。 >>667
韓国朝鮮料理のグチャグチャに混ぜて盛り付けを
滅茶苦茶にするところが、世界の多くの地域で嫌われる。 >>867
混ぜないと旨くないだろ
ネトウヨはスパゲティのミートソース混ぜないのか?
カレーでも石焼ビビムバでも混ぜるから旨いんだよ >>868
石焼ビビンバ自体日本で考案されたもの。
在チョン料理だが。 >>796
高麗がモンゴル化してるのは知ってたが(もちろんそれはモンゴル支配の影響だということも知ってる)、
モンゴル人の料理って基本的に『煮る』ものばかりで『焼く』ものはないと聞いたことがある
だからホントに羊の串焼きなんて食べてたのか?と気になる点があってね・・・
調べるのめんどくさいからおせーて
>>800
日本の場合はあれだろ、牛鍋
明治天皇に伊藤博文だったか大久保利通だったかが寄進して食わせたのがきっかけ・・・じゃなかったか?
その後牛鍋屋は明治日本の都会各地で出店ラッシュだったとか何とか ウヨサヨ対立の激化は、日本に限らず世界的な傾向だ
日本は、移民が少ないから欧米みたいな極右勢力がないぶん、まだマシ >>875
モンゴル人の主食は乳製品
肉料理は、茹でる >>> 煮る >>> 焼く
の順番で頻度が高い 「茹でる」と「煮る」はどう違うのか?
と言われそうだから先に補足しとくと、
調味料を使わず、水に入れて加熱するのが「茹でる」
調味料を入れたスープで加熱するのが「煮る」 ウヨサヨ以前にここに入り浸ってる嫌韓厨はただの馬鹿だろ
空気読まずスレチな話ばかり始めるし事実誤認ばかりじゃん >>879
何いってんだ?
スレチな話を始めるのは、いつもお前だろ? 「韓国料理の献立は、肉と野菜のバランスが取れている。それに比べて日本人は、肉料理の歴史が浅いから・・・」とかなんとか、素っ頓狂な与太話を始めたのはお前だろ(笑)
「日本には、江戸時代から続く老舗のすっぽん料理屋がある。
一方、韓国の肉料理は、大阪の闇市で日本人が捨ててた屑肉を、在日が焼いて食べたのが始まり」
というのは、歴史的な事実そのまんまではないか どっちが始めたとかどうでもいい
スレチの話を続けるなキチガイが >>684-685
>>690
発注者がコレコレな絵を描いてと注文→製作者(工房)が下絵を描く→下絵を重ねつつ打ち合わせ→下絵OK→塗り開始→塗り完成→発注者がお披露目
たぶんこの段階までは誰もマズイのではと言わなかったのだと思う、浸透ほどじゃなかったのではないかな。 中世ヨーロッパと最近のこのスレの荒れっぷりとではどちらがひどかったのやら ビザンティンの歴史家は、アヴァールもマジャールも、北方からくる蛮族はみな
古法に乗っ取りスキタイと呼んでいた。 スキタイというと漫画「ヒストリエ」のエウメネス(よくもだましたなのアレw)が
スキタイ人設定になってたの思い出した >>539
町田は明治初期に自由民権運動がさかんだったから、保守的だった神奈川からきらわれて
むりやり東京に編入されたため、まるで飛び地みたいになっている
湯河原だかどこかの温泉地は観光需要があるので神奈川と静岡でとりあいになったが
結局神奈川を住民が選んだ
こういう話は各地にある >>1
巨大建造物の件はどうかなー
たしかに土木系の巨大な建造物は中世にはあまりめだたないが、ゴシック教会建築は素直にすごいと思う
アーチも巨大ではないが、ゴシック教会内部にあるし、それを支えるフライングバットレスはかなり革新的な技法だろう
もともとはロマネスク教会で発明されたものだけど >>1
暗黒じゃないのはたとえば農業革命、三圃式や改善された農具によって収穫高があがり、休耕地を放牧地に転用して
家畜をたくさん飼育できるようになった >>892
その都市伝説を間に受けて町田の話するのやめとけ
歴史板とは思えん
もともと町田は、養蚕物流の一大中心地である八王子と積み出し港の横浜を巡る結節点に存在し、当時は八王子経済圏の一部だったんだよ
(ちなみに相模原は外れている)
もともと町田と相模原は武蔵と相模で国違いだし、あそこに府県境ひかれるのはむしろ当然、八王子が東京に編入された時点で、町田が外れるという選択肢はなかった
それより、旧武蔵国のうち、川崎と横浜の中心部が神奈川県として整理された方が恣意的な話なんだよね >>895
>>892だけどその説もきいたことがあるな、詳しくは書かないけど被差別部落の
ことを調べていたときに八王子との結びつきはすくなくとも江戸時代後半からあった
(おもに宗教面)のを知った
>>892に書いたのは生まれ育ちが町田市なので子供時代に学校で郷土史家からきいた説
たとえば小野路などでちょっとした抵抗運動があったのは事実だし小野路が一時神奈川だったのも事実
スレチになるのでこれ以上はやめます、すみません >>896
自由民権運動が盛んだったのは、多摩地区全域がそうだったのは確かだ
多摩地区はほとんど幕府領または旗本領だった経緯で、江戸時代と比較して明治政府の統治が過酷だったとも言われる
また、豪農富農が多く、教育水準が比較的高かった上、小作人と豪農層の距離が近かったからとも言われる(新撰組とか典型)
有名なのだと、五日市憲法で著名な五日市だな /\___/\
/ / ヽ ::: \
| (●), 、(●)、 | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ,,ノ(、_, )ヽ、,, | < ま〜た始まった
| ,;‐=‐ヽ .:::::| \_______
\ `ニニ´ .:::/
/`ー‐--‐‐―´´\ 古代〜中世には武相国境は多摩丘陵にあって、町田は相模に含まれてたんだよな >>901
少なくとも日本よりは長く深く厚い歴史がある 朝鮮半島の歴史は長いけど
朝鮮の歴史は短いかもしれない
李氏朝鮮=オスマン・トルコ
高麗=東ローマ帝国
東ローマがスラブ人とトルコ人に滅ぼされたように
朝鮮半島の先住民らも滅んだという説がある >>902
長いが深くも厚くもない属国史だな
一番生き生きしていたのが三国時代で後は墜ちるだけ
李朝に至ってはむしろ高麗時代より後退してるという すぐ日本とか朝鮮の話になるな
西洋史に関して書くことがないならROMれや よりによって何でこのスレに書き込むんだろう
中世スレに何か深い恨みでもあるのか 4chanでも日本人ユーザーは関係ないスレでいきなり韓国叩き始めて向こうのオルタナ右翼からも呆れられてるぐらいだから仕方ないね
しかも韓国人はかなり日本文化好きが多いのにそれを叩くものだから猶更印象が悪い
>>864
「ヒスパーニア戦記」だとゲルマン人兵士の容姿を讃える記述があったけどな
ローマ人の眼には古代ゲルマン人の容姿がイケメンに映ってたのだろう 古代ゲルマン人ってサッカー選手のカーンみたいな風貌の人が多かったりして ベッカムはすっかり老けちゃったね
ウィリアム王子はすっかりハゲちゃったね >>910
カーンに、伸び放題の長髪と長髭をつけて、斧と盾を持たせたイメージ
絶対に敵に回したくないタイプだ >>911
悪くない年齢の重ね方だと思うんだけどな、見た目は<ベッカム ローマ人がゲルマン人の容姿をたたえる?
ならばヒャッハーじゃなくて、色仕掛けでローマを征服したほうが安上がりではないか >>914
安上がりってのがよく分からんが
ローマ人になりたいのではなく、とりあえず今の生活のまま食いつなぎたいのではないのか、蛮族は 共和制の頃からゲルマン系ローマ人とか普通にいたし
何百年にわたる移住の結果にしか過ぎないのに
ゲルマン人がいきなり5世紀に大挙して移住してきたと勘違いしてる日本人は多い フランク族とかの族長層は、ローマ風の装束で埋葬されてるらしいな ローマ人がフランク族長だったこともある
また、彼らの武装そのものがローマ式 >>916
それまでもゲルマン人移住者がいたことは一応わかっているのだが、
5世紀の大規模移住の時には、なぜか既存の移住民はなかったことになってしまっているのだww俺の頭の中では
五世紀の移住とそれまでの移住の整合性をちゃんととれる解説が少ないからじゃないかと思うわけ
自分の不勉強はおいといて >>915
ゲルマン人は文明に憧れてローマに来たんやないんか >>921
そういうケースももちろんあっただろうけど、五世紀の大移動は東から移動してきた
フン族の攻撃をうけたためで、やむをえず西方面のローマの版図に移住してきた、
と教科書には書いてあるね
なかにはローマ貴族に仕え、奴隷用のスラブ人を狩りにでかけたゲルマン人もいたので
slaveの語源はスラブ人 >>916
何百年もかけて先行者が徐々に移住してたのも事実だが、5世紀に一斉に民族大移動したのも事実
たとえば、ランゴバルト族は北ドイツのエルベ川岸に何百年もいたが、5世紀に、ハンガリーのドナウ川岸へと移動した。
6世紀に、いきなりイタリアに攻め込んで、ほぼイタリア全土を征服した。 学校の歴史の授業ではじめてゲルマン人が出てきたのはトイトブルクの戦いですた
>>923
ロンバルディアとしてその名をとどめてるよね >>919
フランク人はゲルマンとガロロマンの寄せ集まりだってフランクスレに書かれてたな >>916
学校の授業における初期のゲルマン人といってもトイトブルクの戦いと民族大移動しか
教えてくれんのでやむをえない部分もあったりして しかしゲルマン人に勝てなくなったローマ人は情けないな
殺戮を戒めるキリスト教の影響かな
イスラム教に聖戦の考え方入れたのは理由があるんだなと考えさせられる
民族が滅びたら教えも消えるからな
正教もカソリックも一向一揆のような強さを持ち得なかった
一向宗は戦で人を殺そうが殺されようが死後の救済は定まっているとするから
新教も救済が決定してるというのだから戦争には強そうだ ゲルマン人の異教でも戦で死んでもヴォータンの世界に行くと定まっていたからゲルマン人は予定説が好きなんだろうな イスラム教の"目には目を"もイスラム以前のハンムラビ法典の頃から
定められてたよね。
聖戦の元となった考え方もイスラム以前の中東社会で伝統的に根付いてた物
だったりして >>909
あれは容姿というよりは、体格がいいのを称えているのだが。
スーパーモデル華やかりしころのクラウディア・シファーとか、
ナジャ・アウアーマンなんかでかくてごついという印象しかない。 ナショナリズムがない時代の軍隊は弱かった
やる気のない農民を強制徴用して戦場で真剣に闘う訳がない
ギリシアやローマの市民階級が強かったのはナショナリズムがあったから
初期のイスラムカリフ国が強かったのも宗教的ナショナリズムがあったから
近世に入りナポレオンがナショナリズムで組織された軍隊の強さを証明した
ナショナリズムはやがて各国へと広がっていったが、それは資本家階級による勢力争いに利用され、やがて第一次世界大戦を引き起こすこととなる >>925
なんだかんだで数世紀にわたって交流してるからねぇ
出稼ぎ行ったり、居候したり
だからローマ人として活動してるのか、フランク族として活動してるのかの違いだけ 資本家はより一層の利潤を上げるために市場の拡大を必要とした
自国民への強烈な搾取は自国の内需不足を発生させ、海外への輸出が必要になる
こうして植民地争いが発生し、資本家によって建てられた政府は、国民にナショナリズムを吹き込んで戦争の絶えない世の中を産んだ
これはレーニンも同じ事を言っている カビの生えた階級闘争史観で歴史語るのはブログでやってくれまいか >>927
ローマ軍は、ゲルマン人に「勝てなくなった」わけではなく、もともと勝てていない
その勝てない相手のゲルマン人が、ドイツの森の中にいてくれた間は良かったが、5世紀に気候が寒冷化して、彼らが南下してきたのが問題 小学校の6年生が学芸会で演じる芝居といえば、毎年の様に
「哀れなお百姓が、ついにお代官様に立ち向かう」ストーリーだったな >>622
しかし、明治頃までの日本の絵では毛唐はバケモノみたいに醜く描かれてるで ドゥルーススやティベリウスがいた頃はゲルマン人に連戦連勝してたな
それ以前だとマリウスやカエサルがゲルマン人に勝利してる
トイトブルグは正直ヴァルスが油断してただけ >>937
ローマ帝国モノの歴史映画や歴史ドラマでも、ゲルマン人はたいてい、髪や髭を伸ばし放題にしたゴリラみたいな原始人 >>941
そうだな
ゲルマニアを征服できなかっただけで、戦闘には何度も勝っている ゲルマニアは北へ北へ征服し過ぎるとヴァイキングと接触する危険性が高まる
ゲルマニクスはアルミニウスとの戦いで北欧までギリギリのところまで進出したらしいが
刺激したら危なかったな ノルド人は西ローマ崩壊後に、ヴァンダルと接触してから成長したからねー
まだ、この頃は細々とした連中だよ 当時のユトランド半島周辺には
ユート族とアングル族とザクセン族がいた
ローマとの戦いでケルスキー族らが疲弊したので
ザクセン族はエルベ河以南に移住出来た ローマに攻撃される前にはマルコマンニ族もエルベ河流域にいた
ボヘミアはまだボヘミアのままだった 共産主義・社会主義・無政府主義者
「資本主義が全ての元凶。持つものと持たざるものの争いが歴史の全て。
異論は許さない」
こいつらはこうやって全ての出来事を単純化しようとする
全てはマルクスが正しいと主張するための方便
そしてこれもある意味マルクスを個人崇拝する宗教そのもの >>941
オクタヴィアヌス「俺の軍団を返せ!!」 >>949
結局社会主義国家が実現したのはロシア中国など農奴制の
伝統のある国ばかりというお笑い沙汰
貴族の代わりに党官僚が支配するコルホーズだの人民公社だのと
新農奴制となっただけ 帝政初期にローマの手先として活躍した部族にバタウィ族がある
現代のオランダに住んでいたカッティ族の分派で早くからローマ化し同盟軍としてドルススやゲルマニクスのゲルマン遠征に従軍している
ローマ皇帝を守備する親衛隊もこのバタウィ族出身者が多かった ・Numerus Batavorum
おそらくアウグストゥス時代に創設
バタウィ族の出身者を中心とした皇帝の警護部隊
プラエトリアニ(親衛隊)とは別組織でこちらはより皇族の私有部隊としての性格が強い
そのため四皇帝の年にガルバによって解散される(ネロへの忠誠が強すぎると判断され)
創設時のみならずその後もゲルマン系を主に構成されたらしく
解散によって放逐された元隊員はキウィリス反乱に合流したとされる
・Equites singulares Augusti
トラヤヌスが創設した部隊で初期隊員はバタウィ族が中心だったとされる
もともとはトラヤヌス個人の私的な警護要員だったものの
彼の治世中にプラエトリアニへ合流し正規部隊となって拡大
初期はNumerus Batavorumの性格を引き継いでいたらしくも
ゲルマン系が主体だったのは初期のみで
時代を経ると全土の補助騎兵体から人員を集めるようになり
徐々に「プラエトリアニの騎馬隊」という性格に落ち着いていった模様 >>953
現在のオランダに住んでたゲルマン部族というとフランク族が頭よぎるがカッティ族って
フランク族の中にとりこまれていったん? フランス、ベルギーは部族名が訛って国名になった
イングランドはEngla-land(アングル人の土地)が由来
ロシアはルーシ
スペイン(エスパーニャ)はイスパニアから 日出づる処
世界の「中」心に咲く大輪の「華」
朝(みつぎもの)鮮(すくなし) >>956
フランスはフランク族の名前がそのまま国名になってるけど、
ベルギーは近代になってから古代の名前を流用しただけで、直接の繋がりはないない しかし何で学問板に底辺低学歴低脳ネトウヨが湧くのだろうか >>951
マルクスは資本主義が成熟し、共産主義が生まれると言ったが、
実際に共産革命が起きたのはロシア、中国、カンボジアなど資本主義が未発達の国ばかりだった
貧しい国ほど共産主義というカルト宗教にハマりやすい スラブ人の波が来てもルーマニアだけはロマンス語を保ったね >>953
ゲルマン人を傭兵として大々的に活用しまくるようになったのは
やはりカラカラ帝によるアントニヌス勅令でローマ市民権の価値が暴落して
軍団兵の成り手が激減してからか? >>962
スラブ人が来る前は、
バルカン一帯がラテン系だったわけか トラヤヌスに征服されてから徹底的にローマ化されたからな
ちなみにルーマニアの国歌の歌詞にトラヤヌスが入っている 属州でもバルカン半島は皇帝・軍人を多数輩出している ルーマニアはまだいいわ
ダキア人とローマ人の混血だし
でも南スラブがマケドニアを名乗るとか糞飯物にも程があるw ギリシャ人もローマ人・スラブ人・トルコ人とかなり混血して原型を留めていなさそう >>941
ローマ帝国全盛期のトラヤヌスの時に
総力を挙げてゲルマニアかパルティアのいずれかを征服しておくべきだったな
衰退期に入ってからの二正面戦争はきつい >>969
ハドリアヌスの判断
[これ以上は兵站も統治能力が保たない]
だったわけでな 肥沃な三日月地帯と言われたメソポタミアだけど
あの頃はもう干乾びていたの? 軍人皇帝時代の皇帝でゲルマンの血を引く人がいてもよさそう。
それはそうとローマ帝国ではゲルマン人出身の高名な学者もいたのやら・・・ パルティアの方が難易度低そう
いくら全盛期ローマとはいえ、ゲルマン全部族を屈服させるのは困難かと ダキアが瞬殺されてゲルマン人もしばらくは大人しくなった パルティアはあれで縦深が極めて深いのに、徹底的に叩くとか不可能だろうよ
アレクサンドロスが征服できた頃のアケメネス朝とは違うぞ ゲルマン人って金髪碧眼でガタイの良い男多そうだから
絶対ヘリオガバルスの男娼にされてるな ササン朝を滅ぼし、東ローマ帝国を追い詰めるとか、トランス状態のイスラムヤバ過ぎィ >>979
ローマに負けて弱ってるとこ叩いたからな
あの頃のアラブ人は運が良かったのもある
もちろん運も実力のうちである >>962
語彙にスラブ語が多数入ってるけどね…これは仕方ない
スペイン語もアラビア語の語彙が多数入ってるし ムハンマドが釈迦やキリストと違うのは
宗教者であると同時に軍事指導者でもあったところ >>964
ダキア戦争の時にダキア軍でダキア人は歩兵で
サルマティア人が騎兵を担当していたから
ダキア人は農民で人口が多かったのだろう
イリュリア人やトラキア人は
ローマ軍で騎兵を担当していたから
牧畜民で人口が少なかったようだ ローマの文化技術の衰退はキリスト教のせいじゃないって言ってる人がたまにいるけど普通にキリスト教のせいじゃね?じゃなきゃ東ローマまで衰退してヘッタクソなもん作り出したりしないだろ 文化とかは時代でそっち方面の有能が固まって出てくる傾向あるからなー
普通に政治不安情勢不安、ゲルマン人を傭兵で雇いだした頃にはもうカオスだったんだろ
うと予想 いわゆる流れ ゲルマン人傭兵のファッション調べてもローマ人と同じだし、これは国に帰って自慢したくなるなー 公務員の定年延長が、野党の猛反対で見送りになった
立憲民主党の支持基盤の1つである自治労が激怒している。
このままじゃ、本当に労組が自民党支持に回りかねない。
いま選挙をやったら、立憲民主党は壊滅するんだけどなあ! >>993
枝野の旦那は、「検察庁の話は、公務員の定年延長から切り離すべき」と言ってたが無視された(笑) はいはいわろすわろす
〃∩ ∧_∧
⊂⌒( ・ω・)
\_っ⌒/⌒c
⌒ ⌒ >>989
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