五胡十六国から南北朝
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五胡十六国から南北朝にいたるまでの、中国が混乱を極めた時代の歴史について
語りましょう。 五胡十六国の君主で一番の暴君は石虎かな?
荒酒淫色とめどがなく、夜になると王家の一族や臣下の家に忍び込み、
妻妾を犯すのは序の口で、宮廷の美女の首を斬り、血を洗って盤上に置いて
皆と一緒に眺めたり、美しい比丘尼と交わって殺し、牛羊の肉と一緒に煮て食べ、
周囲の者にも味見をさせたという 人間のマイナス面ばかり見ていては気が滅入る。
賢君良王の話はないのか。 苻堅がなぜ映画やドラマにならないのか不思議でならない。 五胡十六国自体がマイナーな時代だから、苻堅も映画やドラマにならないのかな 北魏は、日本はともかく中国では人気のある時代だけどな もともと、中国に五胡を呼び入れたのは八王の乱の諸王なんだよな
剽悍な北方遊牧民の武装集団を競って導入し、自己の戦闘能力を高めようとした
八王の乱で中原は荒廃し、農民たちは流民となり、多くは開発途上の南方に移動した
こうして一時、華北に真空地帯が出現すると、これを埋めるように、
北辺の遊牧民族が南下を始めた 苻堅はショタホモで最期がああやからドラマとかにならんやろ 苻堅は東晋との戦いのとき、雲母車(雲母のような上等の紗で四方を覆い、中から
外が見える女性用の車)に乗っていたという
苻堅は秦国が成立してから王となった人で、実戦の経験があまり無かったのだ
苻堅自身も流れ矢にあたって傷を負い、命からがら単騎となって慕容垂のもとに
逃れた 東晋のドラマといえば、これだな。
豪華メンバーの割にドラマの出来はあまり良くなく、早送りしたくなる場面の連続だったが
西暦344年、東晋の第五代皇帝に、わずか7歳の司馬タンが即位。華北では匈奴が趙を建国し、中国全土は災害や飢饉にも見舞われ、混乱の時代を迎えていた。
そんななか、重臣の曹安から、金華山に霊狐が現れたという話を聞かされた皇帝は、自らの目で確かめたいと行幸することに。しかし、それは罠だった。
魏の太祖・曹操の末裔である曹安は、司馬家に奪われた権力の座を取り戻すべく、幼い皇帝の暗殺を計画していたのだ。
http://www.u-picc.com/kyoei/images/about01.jpg
http://www.u-picc.com/kyoei/about.html 八王の乱は、後漢に降った南匈奴など、様々な事情で中国本土に移住していた
北方民族の生活をも直撃した
彼らは安価な労働力として搾取され、生活はもともと漢族の農民以上に
苦しかったから、被害は一層深刻だった
しかも、王侯の軍隊に編入されて活躍したにも関わらず、彼らは傭兵にすぎず、
身分や待遇は劣悪だった
彼らは生活苦も手伝って、やがて抵抗と自立の動きを始め、晋の崩壊を
決定づけることになる 後漢というともう五代の方しかイメージがわかない
東漢 苻堅は慕容儁の娘の清河公主と慕容沖が美貌だったので寵愛していた 五胡は西ローマ帝国に侵入したゲルマン人によくたとえられるが、
むしろバルカン半島に侵入してきたスラヴ人に近いのではないかと思う
スラヴ人はセルビア王国やブルガリア帝国をはじめとして、ビザンツ帝国の
縮小コピーのような国家しかつくれなかったし
西欧や日本のようにフューダリズムが成立することはなかった >>15
そうだな
日本では、なんで前漢・後漢というんだろう?
西漢・東漢のほうが分かりやすくて良い 北魏が長続きしたのは、部民が多かったのと、狩猟・遊牧の生活を捨てて
農業国家に脱皮できたからかもしれない
そのために、代々守ってきた部族制を自ら放棄し、族長たちを貴族とする一方、
部民を漢族と同じ州県民の戸籍に編入するという大胆な政策を断行した 前趙の第五代皇帝、劉曜は父や母の葬儀を粟邑の方法で行ったが、それは盛り土をし、
その下、周囲二里にわたって、墓の造作に従事した人間を配置し、灯明の代わりに
火をつけて焼き殺すというものだった
古墳時代の日本には陵の周りに近習たちを生きながら埋めるという習慣があったが、
ひょっとしてこれは大陸の影響を受けているのか? >>22
日本に本格的殉葬の風習はなかった。
古墳の周囲から大規模な人骨は見つかってない。 >>23
その点で『火の鳥』のヤマト編は納得いかなかった。 >>24
『日本書紀』垂仁記の記述が元ネタじゃね? 孝文帝の漢化政策には、やっぱり馮太后の影響もあるのかな 北魏のフウ太后はドラマで大人気の人物で、最近も「王女未央」が大ヒットした
でも、べつに「漢化政策を行った人物」として人気があるわけではない
家族全員を北魏の太武帝に殺された北燕の亡国の王女でありながら、敵地である北魏の宮廷に乗り込んで事実上の女帝にまでのしあがったという、数奇な人生に関心が集まっている 南朝が再統一していたら、六朝文化の影響がもっと強くなっていたのかな? 南朝は内紛が多いよな
宋の八代の皇帝のうち、暗殺されなかったのは武帝、孝武帝、明帝の三人だけ
皇子たちも十中八九まで犠牲となる異常事態の連続だった
さらに体制を支える重臣も多くは不慮の死をとげた
斉でも第五代の明帝は、直系の子孫を守るため、皇族27人を殺害する暴挙を
あえて犯し、これが原因で斉は滅亡 >>33
南方は漢人の社会が維持されたとはいえ
胡族と触れ合ったためか価値観が峻烈になったね
前王朝皆殺しは後々にけしていい影響はなかったと思う 北魏の道武帝は晩年、クーデターを恐れて多くの臣下をほとんど何の理由もなく
殺害するようになった
409年7月には、北魏にいた慕容氏の一族百余家が逃亡しようとしたとして殺戮された
(道武帝の皇后は慕容宝の末娘だった)
胡族はやっぱりやることが殺伐としているな 歴史書に残る北方民族の記述は
互いに殺した殺されたばっかりやしな 東晋の孝武帝は、396年に、貴人(妃の名称の一つ)が30歳という年増になったのを
からかったため、それを恨んだ貴人に暗殺されるという情けない最期を遂げている 北魏の太武帝も、史上に稀な大征服者でありながら、最後は宦官に暗殺された
これは有名なエピソードで、中国の時代劇にはよく出てくる場面 北朝の皇帝の子供つくる年齢と死ぬ年齢の若さが半端ないことに(;´Д`)ハァハァ 建康は富と文化と芸術の都だったが、王朝の交替期には必ず戦乱の巷と化すという
宿命を背負っていた
侯景の乱のときは、人口の1%を残すのみという壊滅的打撃を受けて廃墟となり、
ついに完全な復興を見ないまま、陳の滅亡の日を迎えた >>41
あの成り上がりは簒奪するための実績稼ぎで北伐遂行しただけ 五胡十六国時代の君主の贅沢の話だが、後燕の慕容熙は苻娀娥と苻訓英を皇妃として
寵愛し、二人の機嫌をとるため、二万人もの人民を使役して広さ十余里という大庭園を築造した。庭園の中に景雲山という十七丈もの山を作り、曲光海、清涼池という湖も
作った。夏の盛りの過酷な作業だったため、多くの死者が出たという。
大陸の専制君主の贅沢はスケールが違うな 動員した人夫2万で10余里(4キロ弱)の庭園を造営ってかなりリアルな数字だと思うが 石虎も大宮殿を建てていたな
彼が秦の始皇帝の陵を掘り返し、銅柱を取り出して器物を作らせたのは有名 宮崎市定先生の「大唐帝国」がおすすめ
全然英雄がいなくてすぐ惨殺ばかりする暗君ばかりの胸糞な歴史を講談調の名文でスラスラ読める >>36
その「歴史書」は大概漢人(の側に立つ者)が書いてるからな。
それ自体が中華思想の、裏を返せば現代も続く異族蔑視思想のプロパガンダ冊子として扱うのが至当。 でもヨーロッパの記録でも遊牧民は残酷だ、と書かれているな
フン族とかモンゴル人とか 史書編纂する時の王朝が前王朝がいかにくずでどうしようもないとふかすせい 劉曜は、西晋恵帝の皇后羊氏を皇后とし、自分と前夫と比べて如何と問いただすと、
漢族の名家出身の彼女は、
「比較になりません。私は恵帝の皇后であったとき、世間の男子はみな彼のように
暗愚なものと思っていました。今にして初めて天下に丈夫があるのを知りました」
と答えたという。 遊牧民は、農耕民を土人あつかいして見下しているところがある
実際、そういう面は否定できないので仕方ない 漢民族は遊牧民見下ろしてて酷い当て字つかってたやん
禿髪とかさあ 北朝は南朝を島夷(川や湖に浮かぶ島のような土地に住む野蛮人)と呼んでいた 千五百年前の江南は、まだドロドロな湿地帯だったということだな
漢朝の世と比べれば、だいぶ開発が進んでたとはいえ 逆に南朝は北朝のことを索虜(辮髪を垂らした野蛮人)と呼んでいた 北朝に仕えてたある漢人官僚は南渡した漢人を腰抜けと嘲笑っていた 隋唐と並んで南北朝時代はもっとも貴族文化が栄えた時代
法隆寺や薬師寺など唐代の様式を残した寺を見れば当時の貴族の暮らしに思いをはせることが出来る
と言うのも古代中国の寺院と言うのは貴族の家を転用したものが多くそれがそのまま寺院建築にも反映されている 六朝文化終わらせた侯景
貴族制度を終わらせた朱全忠 劉聡は311年6月に、一族の劉曜と王弥を遣って洛陽を落城させ、王族や百官、庶民に
いたるまで三万余も殺害し、大略奪を行った
さらに313年正月、劉聡は大会を催したが、このとき、孝懐帝に青衣(侍者の色)を着せ、
酒の接待をさせた。それを見て旧臣の一人が哭泣するのを見た劉聡は腹を立て、
孝懐帝を毒殺した。 皇太子派と皇后派の後継争いって応仁の乱の元祖みたいな感じ
武闘派異民族乱入であっちは五胡十六国になったが
日本も異民族が闖入したら似たようなことになっていたのか >>69
日本の場合、異民族が侵入してきたら、生き残った皇族や武将が東北地方あたりに
逃れて、スペインのレコンキスタみたいなことをやったりして >>70
甘いな。
この列島にどんな異族が来て暴れても
いずれなし崩しのナアナアのズブズブになって、
何だかよくわからないうちに何となく戦は終わる。
何千年も鍛え上げた暖簾に腕押し・糠に釘の曖昧体質をなめんなよ。 もし現在の日本が中国に占領されて中華人民共和国日本省になったら、
日本人に対する民族浄化が行われて、空いた土地には漢族が入植するかもな
中世と違ってテクノロジーが発達したからそれぐらいのことはできるだろう 冉閔は漢族に「五胡」の虐殺を命じた結果、胡人20万人以上が殺されてしまった
彼らの屍は城外で野犬や豺狼に食べられる始末だった
また各地で冉閔の命令書を受けた者が胡人の誅殺を行った結果、鼻が高く
鬚が多い人の半数は死んでしまった
やはり異民族同士の共存というのは難しいことなのかな >>73
そんなことはない。
列島では日本人と関西人が共存できてる。
仲は悪いが。 人口の99%が大和民族で占められている日本が異常なだけで
ほとんどの国は多民族国家だがな
漢族も漢文化を受容した民族をそう総称してるだけで実態は一つの民族ではない
宇文や独狐、赫連、段、宇文といった遊牧民の名族たちも現在の民族区分では漢族扱いだ 日本も、コロナで急ブレーキがかかったものの、それまではホンの数年間で「別世界になった」というほど外国人が急増していた
今はこんな状態だが、いずれ当時を上回る勢いでグローバル化が再開される 南北朝時代には中国に仏教が広まり、隋唐は仏教国となった
これは中国人が仏教を信じるようになったというより、仏教の信仰を持つ民族が移住してきたという面のほうが強い
「いずれアメリカはカトリックになる」とか、「いずれヨーロッパはイスラム教になる」というのと同じだ 仏教なら後漢末に入ってきてるし五胡の宗教は最初は遊牧民に典型的なテングリ崇拝
仏教は漢族からの需要
三武一宗の法難から分かる通り遊牧民系の王朝は基本的にはアンチ仏教のスタンス 仏図澄が石勒に受け入れられたのはその呪術や予言の能力によってであったとか
つまり現世利益的側面 北魏の道武帝は献明皇后の妹に惚れて、その夫を殺し、
彼女を奪って紹という皇子を生ませた
紹は町を出歩き、通行人を脅して物を奪い、畜生を切りつけて
楽しむ放蕩者だった
その紹によって、ついに道武帝は殺された
なんだか間抜けな死に方だな >>85
本当に布団蒸しなんかで人は死ねるものなのだろうか?
サウナなんか90度にもなるがへいちゃらでしょ。 この頃は皇帝が宦官に暗殺されることがよくあったな
こういう暗愚な皇帝ならまだ分かるんだが、北魏の太武帝みたいな大英雄も宦官に暗殺された 太武帝程度で大英雄なら楊堅やら李世民の扱いはどうなってしまうんだ 楊堅
北周の武帝が統一した北朝を棚ボタで引き継ぎ、史上最弱レベルまで弱体化していた南朝を滅ぼす
歴代統一王朝の中で、最も楽だった統一を実現 >>88
司馬炎より曹操が英雄だと思わんか?
それと同じだ 大陸統一した司馬炎と石勒と同レベルの領土しか獲得できなかった曹操を比べるのもおこがましい
出発点比べても石勒のが遥かに難易度高い 北魏には、皇帝位の継承者が定まるとその生母を殺すという慣わしがあった
なんだか残酷な習慣だな >>94
外戚の専横を防ぐためには、それが最善の手段だけどな
平安時代の藤原氏なんか、「いかにして、娘を皇后にして次の天皇を産ませるか」というのが権力闘争そのものだった 外戚一族ほぼ独占のおかげでまだ天コロ家として続いてる
代が変わるごとに外戚変わってた支那王朝は全滅 >>96
北方民族王朝だが、遼(契丹)は皇后を出すのは、
蕭(石抹)氏が多かった。 日本だと、父系は天皇家で母系は藤原氏
遼では、父系は耶律氏で母系は蕭氏
二人三脚で高貴な血統が続く でも遼の子孫なんか今いるのかどうかもわからないし仮に居ても皇帝でも何でもないやん 欧州では、オーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家で近親結婚を繰り返した結果、白痴や病気の王子が生まれる羽目になった
父系と母系の2本立てにしたのは生活の知恵だったのだろう 子供を目当てなら農家の健康な娘が一番だからな
京都の郊外の農家の娘を名家の養女という事にして、お公家さんの側室にするとか普通にあったろうな
そういえば東晋の皇帝には子供に恵まれなくてとにかく健康な子を産める欲しいと女を探し回ったら後宮の下女の黒人女が体格満点だったのかこれを皇后にしたとかいう話があったよな
その皇后は見事男の子を産んでその子は成人して帝位に付いたという
だから東晋には黒人皇帝がいた 北魏は文学では南朝におよばなかったけれど、美術の面では雲崗石窟など、
優れたものを残しているな >>102
そうか、そんな逸話があったのか
だいぶ前に見た中国の時代劇で、東晋の皇帝の妻が妙に色黒だったのはそのせいか >>103
北朝は北方民族だから、漢文や漢詩にそこまで習熟してないわな >>105
様々な北方民族についての考古学史料を見れば各々に固有の物語や「詩」があったのは明らかで、
華夏的文脈で読み解けないからと云ってそれを「文学的水準は低かった」と評するのは
あまりにも中華史観に毒された価値観偏向と思われるが、どうか? >>100
耶律氏一族は元の北帰後、今の遼寧省西部に居住した結果、女真族と同化した。
満州八旗の伊拉里氏は耶律氏の後裔で乾隆帝の皇子の
妃も出している。 北魏の文化人で有名なのは温子昇。
北朝まで範囲を広げると庾信が有名。
もっとも庾信はもとは梁の人で、使節として赴いて西魏の広陵攻撃に際会し、
そのまま留められて西魏・北周に仕えた 一口に五胡といっても、氐のように農耕化がかなり進んで漢族の文化にも
慣れたものから、鮮卑拓跋部のように牧畜と狩猟の要素を濃厚に保持し、
漢文化との接触も少なかったものまで、生活状態や文化状態はさまざまだったんだよな >>93
曹操は兵戸制の確立という功績がデカすぎる
千数百年以上のちの清代まで現役とかすごすぎる
あと武帝の塩の専売もな 漢朝は四百年つづいたんだもんなあ
当時の人々にとっては、平安時代の日本人にとっての天皇くらい「万世一系」に感じられただろうな >>102
>>東晋には黒人皇帝がいた
そんな話は聞いたことも無いがw
具体的には誰よ? >>115
> 平安時代の日本人にとっての天皇くらい
平安時代の日本人の九割以上は天皇なんざ知らなかっただろうよ。 >>117
京の帝としてなんとなく知ってただろ。
だから、平将門は新皇を称した。
一般領民に天皇に対する認識がなければ、
新皇と称しても何に対して新なのかってことになる。 >>117
んなわけねえだろ
源氏も平氏も天皇の親戚で、地方であれだけ根を張ってたのに 西魏になると漢化政策の揺り戻しが起きて、孝文帝の改革により漢族の姓に
改められていた諸族の姓をもとに戻した
のみならず、漢族にも功績によって鮮卑姓を与えている >>121
それを「胡化政策」と呼ばなければ不公平だな 西魏では鮮卑語がかなり広範に用いられ、胡族の服装もおこなわれている 庶民は京都にミカドという公方さまより偉い人がいるらしいくらいの知識しか無かっただろ
「江戸の豚、都の狆に追い出され」
豚公方の徳川慶喜が新政府に引き降ろされたことを歌った歌
天皇の自称朕にかけて天ころを犬扱いしている >>124
公方様より偉いって認識さえあったかどうか。
江戸っ児たちが天子様なんぞどうとも思ってなかったからこそ、
神田明神の一件で正面から喧嘩を売って明治帝が頭を下げるまで突っ張り切った。
秩父の在方も同じことで、
困民党は平然と「天朝様に敵対するから加勢しろ。」と仲間を募った。
仮に相手が公方様だったら彼等はどうしただろうか。
絶対不可侵の現人神なんて共同幻想は、
「大日本帝國」による洗脳が行き届いて初めて成り立った話だ。 >>122
胡化というより復胡政策の方が適切だと思う。 Z日やB落民が天皇家を憎むのは、やはり虐げられた底辺階級の上級への妬み恨みなんだろうな
Bさんは結構勤皇なんだけどね
Zさんは李氏朝鮮の王家には恨みを抱かないのが身内贔屓で笑えるよね 源氏も平家も、「桓武天皇の子孫」、「清和天皇の子孫」などとして全国でに分布し、領主をやっていた
関東や西国を初め、東北・北陸・九州、みんなそうだ
「天皇の権威が全国に浸透していなかった」というのは詭弁。
そりゃインターネットやテレビはもちろん無いし、紙すら貴重な時代の情報量は少ないに決まってるが
少なくとも、京都を中心とする畿内での権威は極めて高い 江戸時代もそうで、そりゃ江戸っ子は幕府の将軍しか目に入らず、天皇に関心がなかったかもしれない。
地方の庶民にとっては、まず何よりも藩主の殿様だっただろう
でも、京都や大阪でもそうだったというのは全くバカげた考え
幕府が朱子学を官学としたおかげで、全国の武家には尊皇攘夷思想が普及していた どこの時代地域だってそうだ
中世ヨーロッパだって、庶民は直接には地元の領主しか見てなかっただろうが、上には教皇や皇帝がいることくらい、みんな知っていた 中世ヨーロッパでは皇帝、国王は「貴族の中の第一人者」 Primus inter pares という存在であったが日本の場合はそうではない
日本の天皇は古くから祭司的な要素も持っているので中世ヨーロッパで言えば神聖ローマ皇帝にローマ教皇をプラスしたような存在だったと言える 「京都に天皇、江戸に将軍がいる」という体制は、欧州人には非常に分かりやすかった
「ローマの教皇、ドイツの皇帝」を誰もが連想した 北魏の皇帝は可汗を称したし、唐の太宗は服属した遊牧民集団から
「天可汗」とたてまつられていた 李世民は鮮卑族だったからな
中国の武人階級は元遊牧民であることが多い
欧州の騎士階級や王族階級は古代末期に移住してきたゲルマン人の末裔
だからフランス革命以後のフランスではゴロワつまりゲルマン人ではなくガリア人であるという表明が自由主義的フランス市民の自称になった
日本のサムライ階級も関東に移住した高句麗系や新羅系のサウラビだったはずだ >>134
サワラビは百済だろ。新羅はホワラン。
どちらにせよ、関東への移住者は
0と言ってもいい程度しか居なかった。 サワラビとか笑わせるなよ(笑)
「我が国にも、日本のサムライに負けない武人の伝統があるニダ」というコジツケにすぎない
欧米で忍者やサムライがあまりに有名なので嫉妬したことによるファンタジー歴史 >>134
日本の武士階級は桓武天皇の軍団の解体により設けられた
健児の制において兵士を供出した郡司階級と地方に土着した
受領階級の中の下クラスの貴族が母体だよ。
郡司階級は古墳時代以来の土着豪族だし、
中の下の貴族は中央で没落した非藤原氏系の
神別士族が多いのだが、神別は国つ神の子孫だから、
当然古墳時代以来からの土着氏族。
帰化人系氏族は諸潘だから。 >>131
寧ろアッバース朝のカリフが近いだろ。
途中からブワイフ朝やセルジューク朝に
政治と軍事の実権握られて象徴的存在になったのも似ている。 ソグド人は北朝末には中国内にも居留地を持つようになっていて、
自分たちの集落のリーダー薩保の存在を政権に認められていた
ソグド人は軍事力も有していて、北周では彼らは軍府に組織され、
ソグド人の軍府官がみられた 百済系の三善氏や高句麗系の狛氏みたいに実際に渡来系の武士って結構いたけどな
中央では帰化人系の家系は蔑視され栄達することが難しかったので国司として下向した後そのまま土着して
帰ってこなくなることが多かった >>137
健児はのちの軍事貴族であって武士の源流ではない。
武士は軍事貴族の家来となった武装農民と考えるべき。北条時政が好例。 モンゴルの王、カアンに汗の字を当てるのは、単に発音が似てるから?
それとも、風呂に入らなくて不潔で汗臭い野蛮人プゲラ みたいな蔑視をこめて? 日本はポカリスエットという商品名の飲料水を販売しているが、欧米から名前を不気味がられたらしい。
汗にどのような意味合いを持たせるかは人や地域によって違う。
軍事支援欲しさに自らテュルク・モンゴル勢力に臣従さえしていたこともある漢人社会が、汗に否定的な意味を与えていたとは考えにくい。 五胡十六国の時代以降、漢民族の身近な生活・風習にも遊牧民のそれが大きな
影響をおよぼしている
筒袖・詰襟、膝まである綿入れの上着、両股が分かれ、膝の下で縛ったズボン、
動物文や唐草文のあるバックルなどが着用された
食物にも胡風が入る
バター、チーズ、醍醐、羊肉の料理、現代人がバーベキューやジンギスカン鍋などと
呼んでいる調理法など
粉食も行われるようになった
胡牀が入ってきたのもこのころで、それまでは日本のように座っていたものが、
椅子に腰かけるようになった この時代の中国料理書にもチーズはすでに書かれていたが
現代中国人はフランス料理やワインは大好きだがチーズは敬遠するという
くさい遊牧民料理は中華思想では野蛮になるのか
平安貴族は中国からつたえられた甘いチーズケーキ状のものをべていたが
中国でチーズはある時点で豆腐にかわり、チーズは忌避されるようになった 可汗は古代トルコ語で匈奴の単于とおなじ意味らしい、皇帝ともされる。柔然や北魏がカガンと称したが
北魏の太武帝が先祖は「可寒・可敦」というのでたんに先祖の個人名である可能性もある
「可寒・可敦」が後世に可汗となったのは蔑称
匈奴に野蛮と言われた丁零、チュルクが勢いを増して柔然やトルコとして西方に押し寄せたときに
カガン号をさかんに用いてるところからチュルクの共通祖先と関わるのだろう
皇帝は秦始皇帝が作ったことばだが、北魏皇帝号は中華風であるとしてあとで天王号にかわったりしてる
日本は唐の高宗をまねて天皇ということになる。契丹耶律阿保機もキタイ天皇を称した
東胡である鮮卑や女真の族長はもともと大人と称した
大人は、匈奴単于やカガンのように推戴されるものではなく
先祖の血統が重視される、村長のようにきわめて家族的なもの
日本も天皇のまえは大王(おおきみ、大君)豪族は大臣(おとど)という、大人に近い称号だった 「日本は唐の長安をモデルに奈良の都を作りました」
と言われるが、「平城京」という名前の由来は、洛陽に遷都する前の北魏の旧都「平城」(今でいう大同)だという話もある 北魏の太武帝は長生きがしたくて熱心な道教の信者になった
太武帝が欲したのは難しい理論ではなく、食物をとらないでも
つねに健康で、体が鶴のように軽く飛べるようになるという、
超人的な能力を獲得したかったのだとか
中国の皇帝にはこういういかがわしい道士にだまされるという
パターンが多いね まあ、現代でも新興宗教にハマる人がいるんだからな
5世紀の中世人じゃ迷信に染まるのも仕方ない A.後漢末期
B.三国時代
C.晋王朝
D.五胡十六国時代
E.南北朝時代
F.隋王朝
マシな順に並べるとどうなる?
平民にとって最も悲惨なのはDでええのか? 奈良の平城京の頃の大同の平城とか廃墟だぞ
地面で連想したのだろうが適当なこと書くな ほぼ10年におよんだ永嘉の乱では大量の虐殺をともない、
中原の人口は「百に一、二無し」と記録されている
八王の乱を合わせると、二十数年にわたった二度の動乱によって、
ながく政治と文化の舞台だった中原の地は壊滅状態に陥った
この時代は庶民にとっては苛酷な時代だったんだろうな いまもだよ民衆に平穏が訪れることはない
統一王朝に従えば生命の保障だけがある国 もしも始皇帝が中華を統一しなかったら、
今の中国はヨーロッパみたいな感じになってたんだろうか? 始皇帝がいなくても、いずれ誰かが中国を統一しただろう
大河の治水には統一帝国の存在が不可欠 >>158
あと、匈奴の脅威に対抗するためにも統一帝国が社会的に要請されていたな
それから、増大する塩鉄の商業ネットワークのためにも 魏晋南北朝時代に大勢の漢人が南に移ったが、おそらく北の進歩した農業技術も
江南の地に伝わったらしい >>160
その江南から、農業技術がさらに日本に伝わった 中原の地を野蛮人に奪われた文明人たちは、江南や倭国に移動した 弥生人の紀元は偉大なる遼河文明の末裔たる太古の韓半島人によって土地を追われた穢人(無文文化人)であり華南のブタニグロとは関係がない >>155
それは中央政府の権力低下による課税人口の減少だからな
庶民は有力な豪族の庇護下に入って都まで労役や兵役を負担しなくてよくなったのだから
反って喜んでたのかもしれない
北魏の時代の話だが定州刺史の韓均が不課税者の摘発を行ったところ一気に十万戸も増えたという 江南の貴族文化の話だけどさ、謝霊雲、王義之、顧ト之などはみな一流の貴族だった
フランク王国の貴族たちは無教養だったのとは対照的
西欧中世と違って、この時代の中国は暗黒時代とはいえないと思う >>158
ヨーロッパにもカール大帝やナポレオン的な統一者がいたが秒で分裂したみたいに、
秦が始皇帝の死後、速攻で滅んで楚漢で争ってたように、
一時期統一王朝が現れても、一瞬で瓦解して諸国が乱立するのがデフォルト状態だったら、
中華の歴史はどうなってたかと思った。 話は脱線するが骨董屋で王羲之の真筆というゴミが骨董市で500円とかで良く投げ売りされてるんだが何とかならんもんかね
まぁそれだけ日本でも憧れの存在でたくさん偽物が作られたということなんだろうな
オレは日本主義者だが中華の大文明は尊敬している
対して近年のものは安いね
袁世凱の書を誰かが軸装したのが1000円で売られてたりもする
更に話がそれるが最近は趙大千の現地の土産物が10万とかで売られてたりする
趙大千の作品は偽物でも良いから飾りたくなるような強烈な魅力があるから買う人もいるかもしれない >>166
中国は大河の治水をしなければならないから、どうしても統一帝国が必要だと思う >>165
同じことは西洋史にも言える
西欧の文明は大幅に後退したが、東ローマ帝国は存続して文明を維持した >>168
それだったら、南北には分かれていてもいいな 古代の夏王朝は洪水対策のために成立したと言われているが、秦漢以後の統一王朝が治水対策というのは聞いたことがないな 長江以南は統一王朝のインセンティブなんてほとんどない気がするんだよな豊かで海にもでていける地域
華南だけって王朝は何度も成立してるわけで >>168
中欧・西欧にもドナウとかラインとかエルベとかkm4桁の川あるんですが・・・ >>174
大河でも黄河よりだいぶ大人しいからな。 サーサーン朝は455年に、初めて北魏に送使して以来、
476年まで、数回にわたって北魏に送使している
一方、エフタルもサーサーン朝が北魏に送使した翌456年に送使しているから、
サーサーン朝もエフタルも、北魏を味方にしようと懸命だったみたい 北斉の文宣帝は、即位の後東魏の廃帝を殺したのをはじめとし、
ついで東魏の一族を片っ端から殺した
しかし帝位を窺う心配があるというので、今度は自分の一族を殺しだした
ことに人望があって役に立ちそうな二人の弟を土牢に閉じ込めて、
最後にこれを焼き殺した
五胡十六国・魏晋南北朝時代にはこういう異常な君主が多いな 武こそ正義っちゅう遊牧気質が抜けきらんかったんか
血族すら信頼できんというのはアラブ部族とかぶるな >>178
文宣帝はこの時代の異常揃いの皇帝どもの中でも別格に最凶 北斉で比較的まともと評されてるのが廃帝殷とか孝昭帝の在位1年しかない連中なことを考えると、単に残虐行為の事績や犠牲者の数が在位の長さに比例してるだけかもしれん 石虎は息子の石韜を殺した石宣を倉庫に閉じ込め、鉄の環を襟にはめて
首環のようにし、数斗入りの飼葉桶をつくって、そのなかに汁と飯を
混ぜて入れ、豚や犬に餌をやるようにして食事をさせた
また石韜を刺した刀を持ってきてその血をなめさせ、記すに忍びないような
残酷な殺し方をした
石虎は宮女たちをひきつれてそのさまをながめていたという >>148
そのとおり。日本の平城京は北魏の仏教の都平城。奈良の大仏は雲岡石窟の大仏が元ネタ。 マジレスすると平城京では高麗尺という物差しが使われていた事が判明している
一昔前まで小学校で使われていた竹の30センチ物差しとそっくりなデザインだった
日本の物差しが半島起源という証拠に他ならなかった
奈良の都は正方形とは言えない変則的な形で実は新羅の慶州がその雛形になっている
平安京は中国的だが藤原京や平城京はまだ半島ルーツの文化的痕跡が強く残っているといえる 高麗経由で日本に入って来た東魏尺を高麗尺言うんやけどな 北魏の時代の洛陽は仏教寺院が甍をつらねる宗教都市でもあった
孝明帝の518年には500寺、北魏の末年には1367寺を数えるにいたった 斉が宋から革命して翌年、北魏が侵攻してくる
このとき魏書には斉の汝南太守が魏に降伏したことが書いてあるけど
このあと梁が一時取り返すまで汝南はずっと北魏が支配してたの? >>182
晋の最後の皇帝が匈奴に捕らえられ、豚小屋に監禁されて残飯を食わせられた、と
田中芳樹の小説にあった。
史実では庶民の服装をさせられ宴会の給仕係をさせられたとあり、
残飯云々の話はない。
この話からパクったんだな。
田中芳樹は漢民族マンセー、
日本含め、その漢民族様にたてつく異民族は徹底的に罵倒する。
だから清王朝は絶対に認めない。名君を輩出したといえ女真族だから
ましてや五胡16国なんか、漢民族様が匈奴にメタクソにやられた時代だからね
石虎も匈奴だが、残飯のエピソードは匈奴の内輪でやったこと。
だが漢民族の皇帝陛下にしたことにして、匈奴を「残虐性」をうったえる、と 符堅臣下の呂光も人傑やな
呂氏の猛将というと呂布に並ぶとか
後涼も建国するし
内政はからっきしだが 漢民族をマンセーする必要はないが
五胡にも特別親近感なんてわかない
史実として五胡十六国時代を楽しむまで ゲームの三国志ではカウントしない内モンゴル并州や遼東半島の北側もあるし、涼州もクソ広いからな
異民族はデフォであちこちにいる 五胡十六国時代で優秀な人物というと、慕容恪はどうかな?
恪は常に慕容皝に頼りにされ、ほとんどの戦いに参加している
性格は沈着にして度量があり、物腰は謹厳だったという
慕容儁と扶余戦に出かけたとき、身を矢で射抜かれながら
突撃して勝利を得たとあるように勇猛な人でもあった >>193
Wikiで斜め読みさせてもらった
麻秋という人物が前燕にも前涼にも攻めてて興味持ったわ
前涼の歴史読んでても麻秋出てきたから
ここらの小説あったら面白そうだ 慕容恪は、彼自身の短慮によって人を殺した例は一つもなかった
彼は捕らえた捕虜は兄の慕容儁のもとに送って賞罰を任せていた
彼は軍略にも長けていたので、皝も儁もしばしば恪の意見を採用したし、
彼も部下の意見を尊重した
恪が遼東に鎮するようになると、高句麗は彼を憚って攻めてこなかった
史書においてこれだけ良く書かれている人物は珍しい 前燕の人口は1000万ほどとWikiに書いてあった
一方三国時代の戸籍人口が三国全部合わせても1000万
総人口は推定でも2000万ほど
華中からの避難民と異民族混入度合いが多かったのかな いや乱世の三国時代はまともな戸籍調査ができてない逃散した農民流民を補足できてないだけでは 中国語の方言の話だけどさ、長年にわたって北から移住してきた漢人の方言が
入り交じり、福建省だけでも百種もの方言があるのだとか
ちなみに客家は広東、広西、福建に多い >>197
それだけではない
もし流民を捕捉できてないだけだったら西晋の統一時にもっと増えてる 時代違うけど四川に関しては明清代に虐殺で言語が変わったこともあった
成都の人口激減に伴い移住者により方言が変わった
下はWikiの抜粋
多くの記録で張献忠は残酷な殺戮を好み、「屠蜀(中国語版)」もしくは「屠川」と呼ばれる無差別殺戮により、四川の人口を著しく減じたとされている[1]。1578年(万暦6年)に人口310万2073人[2] だった四川は、1685年(康熙24年)には1万8090人となった[3]。 この時代の事について書いてある本を読むと「徙民」とか「流寓」といった普段聞き慣れない用語がよく出てくるな 八王の乱は中原地方を荒廃させ、自然災害と疫病も加わって農地は荒土となった
「百姓また寇賊に殺され、流屍は河に満ち、白骨は野を蔽う」と史書は惨状を
記録している
生活の場を失った農民たちは安住の地を求めて流民となり、多くは開発途上の
南方に移動したが、その数は約30万戸と推定されている
こうして一時、華北に真空地帯が出現すると、これを埋めるように、北辺の
遊牧民が南下を始めた 前涼も初代が良い統治をしたから長安辺りから沢山移民が来たようだな 石勒の史伝を見ると何遍も同じ城を落としてる
そして地盤を固めるのが相当後になってから
これは占領地には略奪で一定時期だけ滞在出来たものの補給が維持出来ないから別の土地に移動してるように見える
おそらくは元の占領地は放棄してるのだろう
これが異民族の強さであり弱さのように見える ただ全体的に
三国時代や西晋時代より把握されている人口は上昇している >>204
> 占領地には略奪で一定時期だけ滞在
> 補給が維持出来ないから別の土地に移動
> 元の占領地は放棄
> 異民族の強さであり弱さ
上杉謙信の話かと思った。 漢の時代の人口は、一桁まで把握されていた
当時の統計に、5959万4978人という数字があって、とても細かいが、
そういう体制が維持できなくなったのだろう >>200
張献忠はヤバイよな
「天生万物與人、人無一物与天、殺殺殺殺殺殺殺」
これ人類最悪の基地外だろ
満洲人によって中華は救われたんだろうな
満洲人は李王朝の儒教文明の感化を受けていた
明の末期になると既に中華の資格は東夷に移っていたんだろう
孔子は東夷こそ礼を知る民族と誉めたたえた
韓半島こそ孔子が理想とした君子の邦であった 都合の悪いこと全部を張献忠のせいにしたようにみえる不自然さがある
中国人の気質からいって反乱を起こすだろ
文化大革命のように民衆が主導して飢餓と殺し合いを行ったと考えたほうが自然 >>20
> 文化大革命のように民衆が主導して
待て。
文革は「上からの革命」って云われてるぐらいで、毛沢東が発動した動乱だ。
中共上層部の権力闘争に勝利する為に人民(主にヷカモノ)を煽動して反毛派に反動派のレッテルを貼って殲滅した−−というのが実態だ。
「民衆主導」の反対の極だぞ。 李承晩による大量虐殺を米軍のせいにする意見が一部の韓国人にあるが、
米軍が韓半島を撤退したら間違いなく米軍のせいにされる
それが中国や朝鮮の精神性 >>211
扇動に応じた時点で自発的なんだよ。毛沢東のせいにして済む話じゃない
これはヒトラー統治下のドイツ人も同じ
ヒトラーは嫌がるドイツ人に障害者やユダヤ人への迫害を強制したのか?違う
社会合意にもとづくヘイトクライムなんだよ 永嘉の乱もほぼ10年におよび、大量の虐殺をともない、中原の人口は
「百に一、二無し」と記録されている
八王の乱を合わせると、二十数年にわたった二度の動乱によって、
長く政治と文化の舞台だった中原の地は壊滅状態に陥った 中国人口は日本人には理解し難いカーブをするからな
唐の安史の乱でも凄い減ってる
虐殺は頻繁に発生してるだろうな
言語が通じにくい多民族の土地じゃないとこうはならないよ アメリカも多民族国家なので虐殺が多い
戦争ではなく宗教施設襲撃や銃乱射という形をとってるけど もし江南というフロンティアがなかったら、中国の文明は
シュメール文明みたいに滅亡していたのかな
現代にはもう中国国内にフロンティアはないから、
海外に向かって膨張しようとするかも 満洲、内蒙古、新疆(東トルキスタン)、チベットは拡大した結果 16国は直ぐに皇帝を宣言してる(天王に留まるものもいるが)
三国時代と趣を異にする感はある
そして二代目が無事に継承出来たことは殆ど無く簒奪して殺害されることはざら
また新たな有力者が王朝を立てることの繰り返し
ここまで血なまぐさいのも文化的なものが失われたみたいなものかな 日本では天皇を名目的最上位とし独立国家は無かった(実質独立国はあったが名目的には天皇の許可を受けている)
西洋もキリスト教文化により各王国は神から許可を受けた体を取ってる
中東もカリフから統治委託を受けた体を取ってる
どこも戦いはあったが小さな領土争いに留まる
王位の継承戦争レベルでも祭祀的上位者から追認を受ける必要があった
五胡十六国は別
天に2つの皇帝なしなため宗教的に敵となるため互いを殲滅するしか無くなった >>219
漢の文化を継承したとされる南朝でもそれは同じだから、関係ない
四百年つづいた漢朝の終焉は、日本でいえば天皇がいなくなったも同然
力さえあれば、誰でも皇帝になれる時代が到来した 南朝でも、宋の八代の皇帝のうち、暗殺されなかったのは武帝、孝武帝、明帝の
三人だけで、皇子たちも十中八九まで犠牲となる異常事態の連続だった
さらに体制を支える重臣も多くは不慮の死を遂げた 漢人の君主は割と柔軟で、臣従同盟と独立を使い分けてる感はある
三国時代も合わせると
孫呉
前涼
西涼
あたりか
主力国ではないので機会が無いと皇帝を名乗れなかったってのはある
イデオロギー的には反普・反漢人勢力のトップとしての劉淵の漢(漢と名乗ってるのが皮肉だな)とその後継国家が挙げられるか 東普は内実はともかく国としては比較的長命だった
皇帝はお飾りだが兎に角も生きていられたのは天命という宗教的文化的要素が生き残っていたからだろう 中国の皇帝は世俗権力を持つ文化だからなあ
祭祀的存在に甘んじていれば天皇やカリフみたいに存在だけは出来ていたかもしれないが
だが北方異民族から見ればそんな文化は合わなかったんだろうな(祭祀的権威のメリットを理解出来なかった) 周王朝がずっと生き残っていて、祭祀王みたいになっていればと思うときがある
でも秦によって滅ぼされてしまった 周王室はいうまでもないが、漢朝だって、遥かな古代から400年も続いてたんだからなあ
当時の人々にとっては、天壌無窮の存在だっただろうよ
曹丕も思いきったことをしたものだ >>227
こう考えると曹丕の簒奪は後世にまで尾を引いたのかもなあ 漢王家に本当に祭祀的な権威があったのであれば、再興されたはずだよ
現実にはそうならなかった
漢王家はその程度の権威でしかなかったってこと
三国志演義脳で美化するのはやめとけ 日本の皇室だって中世の一時期は凋落著しかった。
皇居の屋根は穴が空き即位式を行うカネもない。
毛利や織田からの巨額な寄付があってなんとか建て直せたが。
権威と権力は分けておいた方が便利という共同理解が
もう少しあれば、中国でも漢室再興の道はあったろう。 >>231
でも中国の場合、皇室の権威が日本よりは格段に低いよな 周代ですら夏商二代の後の三代目王朝
だし、漢の高祖劉さんの家柄は大した事ないのに秦滅亡後に皇室となった
日本の皇室には姓がないけど、
漢の皇室は劉さんの子孫でしかないから
元々権威は中国共産党の国家主席レベルだろ 豊臣秀吉が己の才覚に増長することなく天皇を敬い、神仏と相いれないキリスト教を排撃してくれたおかげで天皇家は存続できた 祭祀的トップは他の文化から見ると価値が分からないからな
むしろ滅ぼす対象でさえある
多文化の土地では難しいだろうな
皇帝専制になる方が自然な流れではある その点古代ローマ文化圏がキリスト教を残しローマ教皇が存続出来たのは対照的ではあるか
五胡は受け入れず(自分たちがトップになり)ゲルマン人は受け入れたということになる 磔刑にされた石工の息子を神格化することで民族集団間の上下関係を取り払う民族浄化ツールとして機能したからだろ >>236
ビザンツ帝国にはローマ教皇に相当する存在はなかったんだが
コンスタンティノポリス総主教はいるけど、ローマ教皇のような
力は持っていなかったし
それに対し、ビザンツ皇帝は「神の恩寵によって」帝位に就いた
「地上における神の代理人」「諸王の王」とされていた >>238
ビザンツはその点ではオリエント寄りの文化圏と言えそうだ 多民族の古代ローマが採用したツールなので文化圏をまとめるために利用したのは間違いないな
ゲルマン人を取り込んだことにより西洋全域はカバーできた
同宗教間では宗教道徳的にも虐殺は起きにくい ササン朝ペルシャ帝国の脅威に対抗するためには、こちらも強力な専制君主でトップダウン型の国家体制にする必要があった 司馬騰が并州刺史のとき財政の為に現地の異民族を拐って奴隷として売ってる
その中に石勒もいた
異民族は人権が無かった つうか石勒が指定された居住地から移動したから奴隷として捉えられても仕方ないかたちになったんじゃないか?あれ
そんな風な会話してるだろ 詳細はどうあれ并州には
・異民族が移住してきてる
・奴隷として売られる素地があった
とは言える >>241
これからの日本も、中国の脅威に対抗するために
トップダウン型の国家体制にする必要がある? >>245
日本も、すでにだいぶ変わってきている
昔に比べて内閣総理大臣の力がかなり強くなり、長期政権のアベ内閣も実現した 南朝宋の前廃帝は、大叔父にあたる劉義恭はじめ、柳元景、沈慶之などの老将を
次々に殺した
彼はさらに弟らを殺し、さらに三人の叔父をも殺すつもりで宮中に幽閉しておいたが、
その一人、劉ケが後園で夜遊びにふけっている前廃帝を襲撃して殺害した
劉ケがその母太后の命で帝位についたが、これが明帝である
廃帝の弟、劉子が江州で反乱を起こしたが、明帝は江州をおとしいれ、
劉子を殺した際、その兄弟がまだ13人残っていたのを、ことごとく殺戮した
孝武帝の子は元来28人いたのだが、ここにいたってただの一人も残らなくなった
東晋の時代には、さすがにこんなことはなかった >>246
そのうち、シーレーンを守るため、海上自衛隊を
ブルーウォータネイビーに脱皮させる必要が出てきたりして 毎日新聞の世論調査でさえ、「憲法改正に賛成」が過半数を超えた
日本人の意識もだいぶ変わってきている 暗黒時代の五胡諸国とゲルマン人国家の差でも考えてみようかね
五胡諸国→かならず次世代で衰退する
初代建国者の弟らが軍権を握り簒奪も行う
側室婚のため継承戦争が発生しやすい
皇帝になった場合自らが宗教的最高権威者のため他国と妥協し難い
臣従出来ずに殲滅対象となる
ゲルマン→部族連合制の形態
統治領域が比較的固定
継承戦争は比較的少ない、あっても殲滅まではいかない
宗教的最高権威者がローマ教皇のため臣従・同盟などはしやすい
ビザンツ帝国という共通の大敵がいるためこれまた同盟しやすい
神聖ローマとフランスがあまり戦わず分離傾向になるのは興味深い >>252
一つはキリスト教のお陰という皮肉な側面もあるかな
文明退行の元凶でもあるキリスト教だけど
一夫一婦を基本とした家族構成にある程度の正当性を持たせた宗教であったため
ゲルマン人たちの相続権はかなりの部分、嫡子に有利に働いた
さらにサリカ族たちのサリカ法典で嫡男に相続を限定する事で
お家断絶の危機が非常に高まる半面、嫡庶間での相続争いが相当減った
五胡諸国はそういうのないから基本男系相続だけど正室ですら複数人居て
さらに庶子ですら相続争いの権利があるから本当に大荒れにあれる 一夫一婦と側室制になる下地は米と麦のカロリー産出量の違いにも原因があるかね
麦食の場合は余りカロリー得られないので少子にして大切に育てる文化になったとか
イスラムがちょっとオリエントよりなのはよく分からないが寡婦扶養のために複数婚になったとか聞いたことある >>253
代わりに西洋の継承戦争はローマ教皇が必ず絡んでくる印象
あと公爵級は男子長子相続制だけど王/皇帝級は選挙制になってくるな
これはフランク人の文化かもしれないが >>254
キリスト教普及以前のノルド人の家庭は基本的に一夫多妻で子沢山
西欧よりもさらに食糧的に厳しい北欧でも宗教的縛りがないとこんなもんだし
キリスト教普及以降も嫡子1人、庶子数十人みたいな王侯結構いる
北欧に限った話でなく中近世の欧州なんて大体こんなもん
ドイツで慣習法として通用していたザクセンシュピーゲルなんかでは
「自然人(意味としてはほぼ嫡子)以外は法的権利がない」と堂々と条文化していて
庶子が山盛りいるのは前提になってしまって少子化してない なるほど
嫡庶の切り分けでのみ宗教的な緩和効果があったと
日本もそんな感じだったな ハプスブルク家も庶子が沢山いてその子らは遺伝症は少なかったようだな 対して北魏の長命さ
150年継続してる
詳しくはないがWikiの斜め読みして感じた印象
・君主の在位期間が比較的長命
三代目までは華北の統一に明け暮れた
適切な時期に司令官になってるため臣下の信用があった
領土拡大は恩賞による臣下の懐柔が容易
長続きする国家体制を考える時間的余裕があった
・部族制から貴族制への転換
創業者功臣を貴族に取り入れ権益を与え懐柔した
・儒教の導入
身分の固定化
君主(個人では無く)への忠誠心を道徳化 >>259
部族解体は懐柔じゃない
盛大に部族長達の権利や軍事力を削ぎ落す政策だったから不満が多かった
この反動で東西分裂からの混乱期突入して行く >>260
末期はそのようだな
トルコ人を軽視したオスマン帝国みたいになってるな
代わりに皇帝家の内乱を減らしたとも言えるが…軍閥化を招いたか
この辺は部族重視か能力重視かの永遠の課題だな 何故西魏(北周、隋)の系統が統一できたのか
華北の力を割ってしまったのに 周は候景の乱に乗じて上手く益州を取った
斉は逆に介入の仕方をミスって陳と連戦するハメになった
その状況で斉には暗君が立ち、周には名君が立つという興亡のお決まりのパターンになった Wikiには益州を取ったことが江南への容易なアクセスを可能にしたとあるな
三国時代で荊州と益州を得た蜀漢みたいなもんか
呉が必死に荊州取りにいったくらいだからそれほど致命的になるのか
揚子江上流は >>259
比較的長命、て在位期間は20年超も三人いるけど、35歳以上生きたのが二人しかいないってすさまじい体質の家系やな 大河の上流と下流では、そりゃ上流のほうが有利だわな
近代の蒸気船ならともかく、古代の船では上流から下流に向かって攻め込むほうが遥かに移動が容易 つまり益州の地の利と
長安の国力が必要条件ということか
蜀漢も華北国家もどちらかが掛けていたと
曹魏と西魏は両方揃っていた
時代が違うから状況も異なるけど ここの人達二十四史読んでそう
川勝義雄の魏晋南北朝と別の人の中華の崩壊と拡大って本を読んだんですけど他に日本語でこの時代で面白い本って有りますか? 最近はYoutube見てるな
一般的なもの、表層的なものがほとんどだけど深いものもある
特に八王の乱は本より分かりやすい
何しろ本では地名がどこかわからなかったから地図で表示されてるど分かりやすい
当時のギョウ(阝業)が大事な土地ということが分かった 予想されていた事ではあるが鮮卑がモンゴル系と判明したことで
女真が後から南満洲にやってきた集団だと分かってきた
扶余や高句麗や渤海は韓民族の北方系集団であったが渤海滅亡時に
契丹により渤海人は遼東に移住させられて白頭山周辺地域は無人化した
もちろん噴火の影響もあったのだろうがこれにより南満洲の
韓民族の歴史は断絶することになった
満洲を含めて南北朝時代を作った民族の歴史は日本のネトウヨや
中国共産党の東北工程という学問の歪曲によって消し去られようと
している
女真人や満洲人の先祖は渤海滅亡後に北方から移住してきた連中だった >>271
弓を重視する武器の文化を考えると、女真人は多分あの辺でずっと存在してるかも
朝鮮人も女真人も弓を重視する文化だった
その場合「朝鮮人の国」とされるもののいくつかが「女真人の国だった」と見るべきだろう
李成桂の出身が女真だった可能性を指摘する説もあるし
結構融合しちゃってて実は朝鮮人も女真人も明確な区分は不能になってるかもしれん 慕容氏族は特別に肌の色が白く、「白部鮮卑」とか「白虜」と呼ばれていた
肌が白いので東晋の貴族や士族は好んで慕容氏の女子を妾にしたという 映画「大秦帝国」見て思ったけどこの時期って多民族国家だけど法治主義とは思えないな
君主と側近の合議制だったんだろうな ゲルマン諸国と五胡十六国は似てるな
ビザンツ帝国は東晋といったところか ゲルマン諸国も五胡十六国同様に暴君や暗君のオンパレードだったのか? ヴァンダル王ゲンセリックは狡猾で非常だが暴君では無かったな
遊牧民的な超カリスマや超暴君は出なかったな 慕容儁が石虎の養孫の冉閔を殺した後、草木が枯れ、蝗の大群が押し寄せ、
半年以上も雨が降らず旱魃になった
慕容儁は冉閔の祟りと恐れ、冉閔を武悼天王と諡して祀った
その日に大雪が降ったという
鮮卑族にも、祟りという考え方はあったのか? 八王の乱後の混乱を見た北方異民族が中原に侵入し、この戦乱を避けて貴族を中心に
多くの人々が長江を渡って南下したが、これを機に江南地域に本格的に五斗米道が
伝わることになったとか
例えば王義之は道教マニアだったが、南渡前から代々熱心な五斗米道信者の家系だった 平安時代の日本とは違って、中国に怨霊文化のイメージはあんまり無いけど、
日本の怨霊文化を主導していたのが中国留学帰りの元・遣唐使たちだったということを忘れるべきではない 南北朝時代の中国では、五斗米道は「天師道」と呼ばれるようになった
北では北魏のときに寇謙之という道士があらわれる
もともと彼は五岳のうちの中岳とされる嵩山や西岳とされる華山で
天師道系の修行をしていた
そこで太上老君から、『雲中音誦新科之誡』20巻を授かり、
それを太武帝に献上したという 儒教は漢民族より
中華第一主義で下剋上を拒み、異民族は蔑む
南朝で発展
仏教は異民族より
民族差別は比較的少ない教え
北朝で発展
道教は庶民より
流行り物は何でも取り込む 仏教は、漢民族に広がったというより、仏教を信仰する民族が移住してきたというのが実態に近いな
まずは北朝、次いで南朝にも普及した 関羽については、唐代まではとくに一般の信仰対象だったわけではないが、
宋代以降ににわかに関羽廟が全国的に建てられるようになったとか
とくに元末に『三国演義』があらわれてからはその人気は絶大なものとなった 秦叔宝と尉遅敬徳が門神となったのも、宋の末頃からと言われている
「唐の太宗李世民が皇帝の座についてから不眠症になってしまいました。
尉遅恭と秦叔宝の二人を寝室の外に立たせるようになってから、不眠が改善され、無事に過ごせるようになりました。
毎晩二人に一晩中見張りをさせるのはあまりに気の毒に思った唐太宗は、画家に二人の肖像画を描かせ、それを門に貼り付けたところ、悪鬼がこなくなったと言われています」
という伝説が広まり、この2人の画が門柱に描かれるようになった
https://stat.ameba.jp/user_images/20150122/17/senyoltd0317/46/42/j/o0352024213196463243.jpg はたして、関雲長と秦叔宝が一騎討ちしたら、どちらが強いのか? Wikiから人気の門神を引っ張ってみたよ
秦叔宝と尉遅敬徳(『三教捜神大全』に引く『捜神広記』に基づく)
青竜(孟章神君)と白虎(監兵神君)(道教)
趙雲と馬超(河南省)
馬超と馬岱(河北省)
薛仁貴と淵蓋蘇文(河北省北部)
孫臏と龐涓(陝西省)
孟良と焦賛
燃灯道人と趙公明(『封神榜』に基づく)
銚期と馬武(『東漢演義』に基づく)
魏徴と徐懋功
賜福天官と劉海蟾
魏徴
鍾馗(『唐逸史』に基づく)
関羽と関勝
関羽、関平と周倉 媽祖はもともと福建に実在した女性、林黙が神格化された呼称
林は生前に予言などの霊能を示したというが、28歳で死去する
その後、海難を救う霊験を示したなどとされて地元で信仰が広まる
1123年に高麗冊封使の海難を救ったとされ、宋王朝から霊恵夫人、
霊恵妃などと賜号され、航海の神として国家的祭祀の対象となっていく
民衆には天后娘々と呼ばれる これもWikiより
中国の華北で最も有名な女神が山神の碧霞元君ならば、華南で最も知名度が高いのは海神の媽祖である[4]
碧霞元君は天仙娘々なんよな >>289
ぬおっ
マカオの名前の由来だったのか
マカオの媽閣廟は有名で、観光名所ともなっている。マカオの地名の由来は、この媽閣廟(広東語 マーコッミウ)近くで「ここはどこか」と尋ねたポルトガル人が地名と勘違いしたことによると言われている。 蜀の地にいた李特という人物は、成都郊外の青城山にいたという五斗米道の首領、
范長生の協力を得て成都を奪った
304年に、李特を継いだ息子の李雄はそこで成都王を称し、さらに二年後には
皇帝位に即位し、国号を「成」とした
この政権はのちに「成漢」とも呼ばれ、鬼神信仰にもとづく五斗米道的色彩の
強い政治がおこなわれた ちょくちょく宗教家が局所を聖域化することはあっても統一王朝にならないよね
なんでだろう 朱元璋が宗教家か?といわれれば違う
秘密結社に加入戦術的に加わりのちに皇帝になるのではなくて張角や洪秀全は宗教家 北魏の太武帝が行った仏教弾圧は、宰相の崔浩の建言で廃仏の詔勅をくだした
長安へ入った際に、仏寺中に大量の武器があるのを発見して激怒したのが
直接のきっかけらしいが 太武帝のときの北魏は、道教の教祖・寇謙之が国師で、漢人至上主義の儒者・崔浩が宰相
道教は北魏の国教になり、太武帝は熱狂的な信者になった 梁の武帝は504年に、先代も含めてそれまで好んでいた道教を捨て、
仏教に帰依する願文を作り、詔勅を発した
さらに老子とともに周孔(儒教)も一緒に邪道の名で連呼し、
仏道のみを正道と力説した
また517年には道観を廃し、道士を還俗させた
このため道士たちはみな北斉へ向かったという 当時の中国人は、仏教の「空」を、老荘思想の「無」みたいなものと理解した
そもそも、仏教と道教はハッキリ区別されてなかった。
大昔の日本でも、仏教と神道が混ざりあってたのと同じ 梁の武帝は、後になるほど仏教に深く傾倒していったが、若い頃は儒学を学んで奨励していた。
「科挙を創始したのは梁の武帝」という人もいるほど、儒者としても功績を残している
さらに、道教史に残る有名人の陶弘景を師と仰ぎ、
書簡を交わして教えを受けたため、陶弘景は「山中宰相」と呼ばれた。
武帝が若い頃に道教に傾倒していたのは、陶弘景の影響によるものが大きい
陶弘景は広く名声を博し、道教の教義体系を整備した。
開祖クラスの人物として、後の道教信者から崇拝されることになる。
道教の教義体系といっても、仏教用語がかなり混ざっていたが
ちなみに、陶弘景の弟子の1人が仏教に転じて曇鸞と名乗った。
この曇鸞こそは「念仏」を創始した人。浄土真宗の親鸞は、曇鸞から一字をもらった 昭和時代に盛んだった「日本人論」では、
「日本古来の神道と、外来思想の仏教を神仏習合してしまった日本人ならではの特質」
が盛んに論じられていたが、そんなの別に特別なことではない
中国人の「儒仏道」三教の習合っぷりも、また根深いものがある しかしなんだな、
有り難い教えを求める傾向って世の中が荒んでる方が大きいのだろうか その時代その社会に人間のクズが多ければ多いほど偉大な思想家が生まれる
後世の人間にとっては偉大な思想家を育んだ聖地を訪れて幻滅するまでが予定調和 なんで仏教に傾倒したのかは結局わからないのね
細かい知識だけあってもなんの役にも立たない 真諦(499‐569) Paramartha
中国の三大翻訳家のひとり。南朝の梁・陳時代の外来僧。名前はパラマールタを漢訳して真諦と称した。
梁の武帝の招きに応じて南京に来訪したが侯景の乱にあい、各地を転々としながら漢訳と著述に専念した。摂論宗の祖とされる。
『金光明経』『倶舎釈論』『摂大乗論』『摂大乗論釈』『中辺分別論』『大乗起信論』など64部278巻を訳した。
ただし、『大乗起信論』は中国・日本に多大な影響を与えたが、インド成立でないとする学説がある。 天台大師智 (538-597)
中国の陳・隋時代の僧。天台宗の開祖であるが、インドの龍樹、中国の慧文、慧思につぐ第四祖ともされる。
梁の高官で学問に通じた父と、仏教信仰の篤い母の間に生まれた。7歳の時に観音経を一度聞いて暗記してしまうなど幼少期から非凡の才能があった。
17歳のとき梁が敗退して一家が難民となり、両親が死去する。両親の喪が明けた18歳で出家し、やがて慧思の門に入る。
天台教義を体系付け、陳や隋の皇帝の帰依を受ける。
金陵(南京)の光宅寺で『法華文句』を講義し、故郷の草州に玉泉寺を創建して『法華玄義』と『摩訶止観』を講義した。 >>308
大川隆法に降霊してもらって、本人に直接きいたらどうだ? >>305
偉大な政治家が生まれるのも、世の中が荒んでいるときのほうが多いような 五胡十六国時代では偉大な政治家はいたが大半は狂った君主ばっかだったな
ユーラシアンステップの文化がそうさせるのか
しかし八王の司馬氏も酷いもんだったしなあ 「あの野蛮人の北朝でさえ、仏教の信仰が広がったおかげで、苻堅のような名君も出た」
というのが、南朝ではよく言われてたらしい
梁の武帝の先代あたりから、南朝も仏教に傾倒するようになった ゲルマン人のキリスト教といい、武力だけの民族は教化せんといかんと考えてそうだな
宗教=文化ってわけだ テュルクもスーフィズムでいくらか穏健化したかな
いまだに宗教で倫理が馴致しないのはアラブだけかもね コーランなんて道徳書みたいなもんだしなあ
あと砂漠地方で生きる知恵集みたいなところはあるな 北周の武帝は廃仏と廃道を同時に行った
仏道二教をともに廃すべきという詔勅が下り、
それぞれの経典や神像を廃毀し、
沙門と道士は還俗、寺観の財産は没収となった だから何なんだよ
理由を考えろよ
豆知識の羅列ばかり 五胡は、西ローマ帝国に侵入したゲルマン人とよく比較されるが、
むしろ東ローマ帝国領やペルシア帝国に侵入したアラブ人と比較したほうが良くね?
彼らがうちたてたのは中国と同じ専制帝国だし >>327
貧しい傭兵が裕福な雇用主に下剋上する構図、という点でゲルマン人のほうが近い >>328
いや、それは違うな
ペルシャはアラブ人に征服されたが、アラブ人の国になったわけではない。
ペルシャは、今でもペルシャだ
それに比べて華北では、先住民が滅びて五胡の国に変わった 五胡の民族的特性を挙げてみたい
・サイコパス
=超カリスマ
非常の時代には非常に有用
・長続きしない
サイコパスはカリスマだけでシステムを作らないから次世代で滅亡する
・美男
自然淘汰が凄まじく顔は良くなるはず(赫連勃勃など)
・サディスト
明らかに殺人を楽しんでいる記述があり性的快感も得ていると思われる
これはサイコパス遺伝子が為せる技か >>329
中世のペルシャは比較的割拠できたかな
それ以後はテュルク系民族が下剋上したみたいだな ペルシャ語とペルシャ文化の伝統は残ったが、宗教はイスラーム化してしまった そもそもホメイニ師もハメネイ師も黒ターバンだから預言者ムハンマドの一族つまりアラブ人だ 昔はペルシャがアラブ支配してたから自称アラブ人ではイーラーン人のナショナリズム的賛同は得れまい
イーラーン人はアケメネス朝やサーサーン朝の栄華を夢見てるはず 文化ではずっと圧倒的だったからな
選民意識は仕方ない 現在のペルシャ人には、アラブ人・テュルク系・モンゴル系など、
異民族の血が混じっているだろうな 個人的にはテュルクとモンゴルを別扱いする風潮に抗いたい 言語が違うんだっけ
匈奴と鮮卑の差がイギリス人とアメリカ人なら
モンゴルとテュルクはセルビア人とアルバニア人くらいは違うんじゃない せいぜい信仰する宗教が違うことくらいでしょ
カザフスタンとモンゴルの一番の違いは宗教だし 北アジアの遊牧民のうち、仏教を信仰する人々が「モンゴル人」と呼ばれ、
イスラム教を信仰する人々が「トルコ人」と呼ばれる 現モンゴルのハルハモンゴル人と現ヨーロッパイスタンブールのトルコ人くらいまで行くと差は分かりやすいんだけどな
中央アジアはかなり不明だな
今じゃロシア系もかなり混じってるし
トルクメン人
https://i.imgur.com/RhXS1NO.jpg
https://i.imgur.com/FR1FjKI.jpg
https://i.imgur.com/poHCYQ9.jpg 最近の若者は、美男美女だらけ
結婚がお見合いや許嫁から、恋愛結婚に移行したからだな
美男美女のみ子孫を残せる
ブサ面ブスは子孫を残せず淘汰される それだけじゃないけどな
100年前まで男性は兵士だった
死ぬから補充するため社会的に結婚の需要があった
現在は男性が死なないので需要がない もし五胡十六国の時代に、中国でフューダリズムが成立していたとしても、
モンゴル帝国の時代に潰されたんじゃないのかなあ >>341
同じトルコ系でもモンゴロイド顔が強い
北部のカザフ、キルギスとコーカソイド顔が強い南部のウズベク、トルクメンでは全然外見が違う気がする 文化も前者はモンゴル、
後者はトルコにより近いのでは 地中海 トルコ>トルクメン>ウズベク>ウイグル>キルギス>カザフ>モンゴル>ブリヤート>ヤクート>エベンキ>ニブフ>カムチャダール>チュクチ>アリュート 北米 封建制を経験していない社会は、個人の財産権を尊重する価値観が育たず資本主義の萌芽が摘まれてしまう ま、モンゴル帝国の略奪遠征そのものが株式会社みたいなもんだったけど
モンゴル貴族は、資本金の代わりに兵力を出して戦利品を山分けする投資家のようなもん 遊牧民は割と周辺国に物貰って兵出してるな
マジャール人もイタリア王位戦争に傭われてたりする >>348
全ての社会が必ず資本主義を採らなきゃいけない理由も無いけどな。 >>351
でも人類のほとんどは豊かな生活をしたいと思っているんだよな
だから発展途上国の人間は資本主義国に移住したがる 後趙の石虎は、平州の昌黎への侵略を計画して渤海上の島に三百万斛を輸送させ、
さらに船三百艘によって三十万斛を輸送させ、高句麗に至らせている
石虎は匈奴の一支族の出身であって、元来海と縁が深いとはいえないが、
海上輸送に着目して積極的に海船を利用した
モンゴルの例でも明らかなように、むしろ遊牧民のほうが漢人よりも
海上への進出に積極的だったみたい 遊牧民が海抑えるとオチデントでは海賊になるんだけどな
ゲルマンもスラブも
侵攻経路として見たんだろうな 石虎は青州において、船千艘を建造させ、山東半島沿海を荒らしまわってもいる
江南に移った東晋は、これに対し、蔡謨に討伐を命じた
この事件は国家間の戦争行為ともみなせるが、その実態は海賊行為にほかならなかった
海賊たちは、国家にやとわれれば直ちに海軍に早変わりする存在でもあった 石勒もそうだが占領した都市の維持をしようとしてないんだよなあ
割拠しようという考えに至るのが相当後
それまでは略奪したら兵站のために次の都市に行くみたいな感じ >>356
焼き畑農業と同じだよな
基本、略奪経済 諸葛孔明は長安維持を想定しての行軍だったが後趙とかそんなこと考えてなかったろうな 石虎の海上からの攻撃に悩まされた東晋は、末期になると今度は
孫恩・盧循の海上反乱に苦しむことになった
朝廷ではたびたび大軍を送って討伐を試みたが、そのたびに孫恩は
海上へと逃れてしまうので、平定することができなかったという
そして官軍が引き揚げると、孫恩は再び上陸するのだった
孫恩が死んだあとは盧循がリーダーとなり、東陽、永嘉を攻めたが、
後に宋を建国する劉裕の軍に敗れ、追われるところとなって、
海上を南下して広東にまでいたった このへん中世っぽい
交易寸断されて効率の悪い自給自足化
国も分断されて細切れ
動員兵力は古代の1/4 スレと直接関係ないけど、五胡十六国時代には中国で
日本列島に関する記録がみられなくなるんだよな
遊牧民は当初、記録を文字にして残そうとしなかったから
だからこの時期の日本史は「謎の四世紀」と呼ばれている 南朝には記録があっても北朝にはないんだよな
三国時代には魏に記録があるのに そりゃ北朝は異民族だからな
金も元もそうだ。漢文による記録は激減する あれやってなかったっけ
鮮卑サゲの史書になったから怒って粛清したとかなんとか 遊牧民側に史書の記録と編纂出来る人材が居なかったじゃないかな
漢民族を使うと漢民族視点の記述になって自分達がサゲられるから最小限の記録しかやってなかったかも お前ら和歌山県の下村拓郎様(35歳、元自衛隊)をご存知か、この方は将来素晴しい人物になるから覚えておいて損はないぞ 漢民族の家来は居たが、記録係に使うより政治の方にだけ使ったんだろうな 三崎 良章著
五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)
会田 大輔著
南北朝時代―五胡十六国から隋の統一まで (中公新書 2667) >>363
朝鮮半島を支配してた漢や魏の頃より日本の情報ないだろ。間にいる高句麗が大国化して遮ってるから。 南北朝と言えば、宇宙大将軍侯景のキャラは際立っているな。
爾朱栄や高歓に認められ、北朝の混乱期に暴れまわった猛将であり、
侯景の乱で卑劣な和議無視で梁都建康を陥落させる。
一方、梁武帝との会見では脂汗タラタラで完全に貫禄負け。
天子の威光には敵わない。もう帝とは会いたくないと言う始末。
建康を取っても打つ手打つ手が裏目で王僧弁らに連戦連敗。
帝位に付くも効果なく、謀臣の王偉にお前のせいだと悪態言って逃亡。
最後は側近に殺されるという波乱万丈な生涯。 侯景に関しては吉川忠夫の「侯景の乱始末記──南朝貴族社会の命運」がいいんじゃないかな
あと時代的には森三樹三郎の「梁の武帝 仏教王朝の悲劇 」 現存最古の農書で中華料理レシピ本である「斉民要術」は、北魏で書かれた >>378
亜細亜だろうが欧米だろうが新大陸だろうが、
人類の、そして文明の揺籃の地たる東阿弗利加から見れば辺境のド田舎だ。 上のほうでモンゴルとテュルクはほぼ同じって書いてる人たちいるけど、
モンゴル系言語とテュルク系言語ってもともと相当違うよ >>375
小説だけど田中芳樹の中編「長江落日賦」でだいたいの感じはわかる
後日談も短編「蕭家の兄弟」で読めるし >>381
文法が似てるから一緒くたにするんは
日本語と韓国語一緒にするとかのレベルじゃ チンギス・ハーンの「チンギス」は古代トルコ語で「苛烈な」を意味する語らしいが >>385
日本語と朝鮮語には同系説があったけどな。
但し共通の祖語から分岐したのはどんなに遅く見積もっても八千年前を下らないとか。
近年は日本語の起源論が混沌としてきちゃったからやや旗色は悪いが。 同系説は昔からあるが現代言語学の観点からは否定されている
たとえばものの数え方一つとっても
日本語ではひと、ふた、み、よ だが
韓国語はハナ、ドゥル、セッ、ネッ、と似ても似つかない
基本的な単語が全く違うので同系統とは到底考えられない >>389
確かにそれは昔から云われてたな。
同系にしちゃ基礎的語彙の共有が少な過ぎると。
そもそも今云う「朝鮮(韓国)語」が原朝鮮語の直系なのかどうかも不透明らしいが。 数詞の類似といえば高句麗語ですよ。
これ以上の研究進展はもう見込めないだろうけど。 高句麗語が似てるというのも地名の訓読みで判明したことだが
そもそもその辺の地域は高句麗が後から進出した土地なので
高句麗語ではなく先住民の言語という説が有力 ところで朝鮮語と匈奴や鮮卑の言語に系統関係はあるのかな。
と、無理矢理スレ主旨に戻す俺は小市民だなあと思う。 ムガール最後の皇帝「バハドゥル・シャー」の
バハドゥル部分、語源が
冒頓由来と知った時は鳥肌が立った。 三国志なんかより五胡十六国時代や南北朝時代の方が一万倍面白いわ 史書見ると人殺し好きな皇帝多いよな
これ性的快感になってる遺伝子が働いてる気がする
またサイコパスでカリスマ的でもあり戦にも強い
戦乱の時代には向いてる遺伝的特質なんじゃないかと思ってる >>396
近現代のアメリカ人も似たようなもんだぞ
中国人とアメリカ人は似てるんだよ、だから反発しあう
中国人とアメリカ人は敵を皆殺しをしなければ手に入れることができない真の栄光を知ってる
アメリカ先住民やチベットウイグルを皆殺しにする社会合意が形成されていく構図は同じ 中国のウイグル弾圧と同じかそれ以上にひどいアパルトヘイトをやってるイスラエルを全面支援してるだろ、アメリカは
血塗られた自分のことを棚に上げて中国を批判してるのがアメリカなんだよ >>397
そんな単純なわけあるかw
中国人とか習政権が本格化するまで本体の漢族を少子化させて相対的に少数民族を増やしてしまう
とかいう皆殺し思想からしたら本末転倒な政策を長々とやってただろう なにも敵は異民族だけじゃない
漢人であろうと思想が異なれば異民族と同じ
そうやってブルジョア階級という異民族を殲滅していった >>402
で、
(※)その結果世界最大のブルジョワ階級、彼等に支えられた貴族支配体制、及び一生搾取されるだけの労働者階級を生み出した、と。
マルクスの理論に従うならやがてプロレタリア革命が勃発するだろう。(※※)
そして(※〜※※リフレイン)
毛沢東の云う「永久革命」、即ちこれである(違)。 アメリカも中国も「社会合意」のもと大量殺人をやったんだよ
仲間なんだよ
どっちも民主的だろ? >>401
だから単純じゃないんだよ
そしてその文革もその後30年余り中国官民に否定され続けたことは知ってるじゃろ? 文革の否定なんてされてないぞ
文革に対して否定的な意見をいう個人の権利が一時的に認められていただけだ 誤って発動され国家と各民族が多大な損失を蒙ったと公式に否定された現象なわけだが…
改革開放の数十年よく見られた中国官民の文革否定意見も基本的にそれに沿ったものだし 否定はしてないだろ
多大な犠牲があったことを認めただけ謝罪もしてないし 鎌倉殿の13人を見ていて、北条氏の戦装束は鮮卑慕容部と完全に同じだよなぁという思いを強くした。
源氏の名の由来は鮮卑禿髪部の禿髪破羌とあるけど、これが本当に日本の支配者階級のルーツという説もある。
清盛の相国位は、中国でもそれほど数多くない高い地位で曹操や司馬昭もこの地位に就いたほど。日宋貿易で活躍した清盛にこれ程の地位があるというのは、宗像を祭る氏族に特有の、宗=宋の代字からも匂うように宋の南人王朝で高い地位を誇ったためかもしれない。
北方民族と南人の代理戦争、もしくは主戦場だったのが日本かも知れない。 ほんなら何でモンゴルが攻めてきたん?
蒙古襲来の主力が高麗なので高麗の前身の高句麗が鮮卑慕部と争っていた事を考えればそれもありかなとは思うが 鎌倉〜室町って乳母の地位が妙に高いのが
北魏っぽい。
流石に北魏みたく乳母を皇太后と同じ扱いにはしないけど 北魏には子貴母死制があったから北条政子みたいな振る舞いは一般的に中国の北朝ではあり得ないのだが 鎌倉時代は鮮卑のころとは1000年近く時代が違うだろ、何言ってんだ 鎌倉時代とか始皇帝の時代みたいにリアルな彫像を作る時代は、人殺しが横行する時代じゃないかな
人間と彫像の区別がなくなるので、彫像を破壊するような軽い感覚で人間を殺す 立ちションを稚児に笑われただけでいきなり斬り殺す事件が起きてた鎌倉室町と比較すると
「オレの挨拶をシカトしやがった」ってだけで朝廷の使者を鞭打ちしたどこぞの大耳さんは実は慈悲深かった? 斉の孟嘗君は、ある村を通りかかったときに笑われたのを怒って、村人を全員殺害した
大陸の歴史ではよくあることだ
歴史ドラマにもそういう場面はよくある >>411
宋人の国外最大拠点である博多の攻略が目標だった。モンゴルっぽいでしょ。 何だか源義経=チンギス・カーン説でも磐余彦=徐福説でも肯定されそうな流れだな…。 >>410
確かに日本語読みでさえも、「拓跋」「禿髪」は
「タクバツ」「トクハツ」で、発音がよく似ている。
禿髪破羌が北魏に帰順した際、太武帝は「貴公は朕と同族で、拓跋氏と源は同じである」と喜び、
新たに「源」姓を与え、この佳話が後世の日本にも伝わり、日本でも源氏が生まれた。
「禿髪」とはいかにも漢人が胡族を見下したような名前だけど、
おそらく当時の鮮卑人は頭部を剃り辮髪を垂らしていただろうから、見た目そのままの姓で
そこまで蔑視の意味はなかったのかもしれない。 これ誰か検証してよ。
https://japan.fandom.com/ja/wiki/禿髪阿毎
こんなセンセーショナルな内容が放置されているのもなんか変だろ。 ケータイ()がいくら怪しげな出自だとしても流石にないわ まだ遣隋使さえない時代
北魏や南宋と交流あったのか? >>424
あるわけがない
ちょうどその頃の日本って空白の4世紀(150年)真っ只中だから
交流があれば何らかの史料が実在するだろう なぬ?
かの有名な宋書「倭の五王」を知らずに、このスレをやってるんかい? wikipedia 「倭の五王」
中国六朝(南朝六代:呉、晋、宋、斉、梁、陳)の第三王朝である宋帝国の正史『宋書』(513年ごろ完成)には、宋代(420-479)を通じて倭の五王の遣宋使が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。
宋に続く斉の正史『南斉書』(537年)、梁の正史『梁書』(619年)、南朝四代:宋、斉、梁、陳の正史『南史』(659年)においても、宋代の倭王の遣使について触れられている。
一方、日本側の史料である『古事記』と『日本書紀』は宋への遣使の事実を記していないが、倭の五王に比定される歴代大王(天皇)の時代に「呉」との間で遣使の往来があったとする。
「呉」は六朝(南朝)最初の王朝であり、中華帝国そのものを意味したと考えられる[1]。 >>425
> ちょうどその頃の日本って空白の4世紀(150年)真っ只中だから
まあ、そうだな
倭の五王は5世紀だから、そうとも言える 禿髪阿毎の典拠がどこにもない。Fandomからの引用ばかり
禿髪破羌は以下
『魏書』巻41 列伝第29
『北史』巻28 列伝第16 >>426
倭と日本を一緒にすんな
倭は日本列島にもいたが元々は朝鮮半島南部にいた民族だ
倭の五王がヤマト政権の大王かどうかもまだわかっていない 倭王は、宋の皇帝から朝鮮半島南部の支配を認められていた
日本が朝鮮半島を支配した時期は、5〜6世紀と20世紀前半の2度 李朝の時期にも、釜山に出先機関の倭館を設置して半島進出していた 朝鮮王朝は、江戸に朝鮮通信使を送って日本に朝貢していた 北朝は?北周に滅ぼされて北斉から渡ってきた可能性は。
唐の皇帝一族の血筋だったり、中国では途絶えた雅楽蘭陵王が受け継がれたり。なんかありそうに見える 倭という呼称は当時としては破格に好意的な当て字だよ >>435
他の悪意向きだしの当て字(蠕蠕 芮芮 )と比較するとかなり好意的な当て字だわな。
陳舜臣センセイも書いておられたけど漢字一文字って当時では少数派(もしかしたら倭だけ?)じゃね >>435
大陸人に比べて身体が小さいこと=「矮」から生じた呼称
−−という説をずいぶん昔に読んだことがあるんだが、現在は否定されてるのかな。 倭という文字は、人に委ねると書く。
魏という文字は、鬼に委ねると書く。
それで? 中国で「鬼」は死人とか死霊という意味だぞ
強さを表す肯定的な要素はない 小人(倭)と小霊(魏)では、小人のほうがマシに思えてくる不思議 倭は濊(ツングース系民族)の南下に伴って濊→矮→倭に変化したと想像 石上は石氏? 五胡十六国後趙の、石勒、石虎のような。
伊勢志摩は、石+司馬?
なんで中国人の名前が日本語って思うわ。 小学生が思い付くレベルの話をドヤ顔で披露されてもな 後趙の石氏は羯族だがどうもテュルク系のようだ
のちの五代十国時代に後晋を建てた石敬瑭も突厥(テュルク系)
石氏はタシュケント出身のソグド人の姓 後漢や西晋時代にも石姓の漢人がいたから、必ずしも胡の姓というわけではない。
ただし頻出するようになったのは五胡十六国時代以降だから、胡人に好まれた姓かもね。
似たようなのには長孫氏もある。
北魏拓跋氏の親族である抜抜氏が漢風に改姓して名乗り、南北朝時代から唐にかけて著名人を輩出したが
昔からある漢姓らしい。三国志にも出てくる「公孫氏」に似ていてかっこいい。
あと知ったかの中国オタクが勘違いして言うことが多いのが、
「馬」氏は「マホメット」からとった姓で、中国に進出したイスラム教徒が作った姓とかいうもの。
確かに現代の回族には馬姓が多いかもしれんが、馬援や馬騰や馬超はイスラム教徒なのか?
孔明が泣いて馬謖を斬った時代にイスラム教が存在したのか?
こんな簡単に突っ込めるようなデタラメをドヤ顔で披露する人が何人かいた。 春秋時代は胡人が名乗ってもおかしくない妙な姓があったしそっからとったのもあるかも 石平の中国週刊ニュース解説・特番
https://youtu.be/bR3n_ajC2WE
2022/01/15
■共産党政権・漢民族による「少数民族支配」の実態
■中国、侵略と虐殺の民族浄化史
■民族浄化政策の最大の狙い 民族浄化政策の話、聞けば聞くほどヨーロッパから移民してきたキリスト教徒がインディアンに対してやったことと同じだよなぁ >>45
> 確かに現代の回族には馬姓が多いかもしれんが、馬援や馬騰や馬超はイスラム教徒なのか?
確かに馬騰や馬超は異民族ではないが、西域・涼州の荒くれ者
おそらく、いまでいう「中国人」という雰囲気の人たちではなかっただろう 馬騰は母親が西羌とも言われるが実際にどんな生活してたから不明 今のカザフ人とかモンゴル人じゃないの?
呂布なんて鮮卑つまりモンゴル人らしいし >>420
宗書索虜伝に北魏のことが書かれており、索虜とは縄のような髪をしたやばい輩程度の意味らしい
禿髪破羌=源賀の話題は、ルーツ探しの旅が始まってしまうような神話的な求心力を孕んでいるな。 >>437
> 漢字一文字って当時では少数派(もしかしたら倭だけ?)
五胡のうちだけでも羌、氐、羯。
他にも閩とか。 >>455
そもそも馬超の時代ではイスラム教がまだ存在しないし、ローマ系ギリシャ系ペルシャ系なら
馬(マ)より他の選択肢を選ぶだろう 董卓も、東周にさかのぼる千年の古都・洛陽を平然と焼き払ってしまって
中国人としての民族感情は感じられない あれ?三国志くらいの馬姓は超有名な話があるでしょ。ヒントは戦国時代。 巧みなドーピング隠蔽術で世界を席巻した馬軍団がなんだって? >>462
ローマの正式名称はSPQRだから、中国人がそんな長い国名を覚えられないから
略称として最初のSenatusを秦としたのでは ローマ帝国を「大秦」と呼んだのは、単に「西の方にある強大な国」という意味だったのではないかな アルサケス朝パルティア帝国については、「安息国」と音写している パルティアは確かローマ金貨そっくりの硬貨作ってたんだっけ ソグド姓
石=タシケント
安=ブハラ
康=サマルカンド
曹=カブーダン
史=キシュ
米=マーイムルグ
畢=パイカンド
何=クシャーニャ 鈴木真の方がいそうだろ。鉄木真にちなんだ名前とのこと 北宮純 ほくきゅう じゅん
きたみや じゅんではない パルティア王達は「ギリシア愛好者(ΦΙΛΕΛΛΗΝΟΣ)」という称号をコインに刻んだらしい。しかしローマの習俗から影響を受けたり、ペルシャ風だったりバビロニア風だったり。 ペルシャもパルティアも部外者から見れば似たようなものなんだが、「アルサケス朝ペルシア帝国」とは絶対に言わない
中国だったら、「野蛮なパルティア人は、ペルシャの文化に心酔して同化されました」で片付けるところ パルティア、クシャーンの滅亡と連動するようにして曹魏が滅び、何晏も殺されてるけど、ソグド系ってこの頃からあるのか? 夏→北方遊牧民(モンゴル系?)
周→姜
秦→西戎(姜)
三国(呉)→百越
魏晋南北朝→主に鮮卑
隋、唐→鮮卑
中国も征服王朝よな >>477
Wikiより。かなり長い期間いるようだ
ソグド人はアケメネス朝の支配下にあった頃より交易に従事した。マケドニア王国のアレクサンドロス3世の征服や、その後のグレコ・バクトリア王国支配下においても交易を続けた[3]。クシャーナ朝、エフタル、突厥と、たびたび遊牧国家の支配を受け、その都度支配者が変遷したが、ソグド人は独自の文化を維持した[4]。ソグド語とソグド文字を使い、宗教的にはゾロアスター教を信仰したほか、2世紀から3世紀にかけては中国に仏教を伝えた。6世紀から7世紀にはマニ教とキリスト教のネストリウス派を中国やテュルク人に伝え、東方のイラン系精神文化も中国にもたらした[3]。活動範囲はビザンツ帝国から唐の長安にまで及んだが、イスラム勢力の台頭によりイスラム化が進み、12世紀にはその民族的特色は失われた。ソグディアナはウズベク人の南下によるテュルク化が進んでいき、中国では漢人の文化に同化していった[3]。 宋も漢化した突厥系といわれている
あれだけ漢族ナショナリズムが高揚した宋でも
創始者は異民族
でも本人が漢族として振る舞って、漢族のための王朝としてやってきたんだから
征服王朝ではないわな 中国の歴代統一王朝で
純粋な漢族政権は
劉邦の漢と朱元璋の明だけと言われている
短いのを含めると、王莽の新や司馬氏の西晋もあるけど 趙匡胤が突厥系とかこの板でしか見たことないんだが
おおかた後唐の李克用と混同しのだろう
姓厥系の姓って安とか石とか李とかで趙なんていないし
>>481
劉邦が入っていて光武帝が漏れているけど基準がわからない
漢人という概念が出来る以前の存在を漢人のうちに入れるのは違和感があるわ >>482
趙匡胤のノーガード戦法、突厥系軍閥内でなれ合いができるからこそのことだぞ まあ、北朝五代がみんな北族なのに、趙匡胤だけ漢族というのは違和感があるからな
とってつけた感は否めない
こういうのは「後付けの理屈」ってのもよくあるから たとえ趙匡胤本人が漢族というのが事実だとしても、
非常に北族色の濃い政権なのは否定できない ゲルマン人のローマ帝国と同じで異民族の方が漢化されたっていう 遊牧民だって小麦や米を腹一杯食いたいんだよ
察しろバカ 南朝の文学、いいな
例えば文選とか玉台新詠とか(まあこれらはそれ以前からの時代のものを含むアンソロジーだけど)
それから文心雕龍とか 日本でいえば藤原摂関時代、フランスでいえばブルボン王朝のロココ時代みたいなもので、六朝時代は優美な貴族文化の最盛期
後世の文化人もみんな憧れる
「南朝がずっと続けば良かったのに」と思うのが人情 >>483
突厥系軍閥内でなれ合いってのがよくわらかないけど
後周の世宗の北伐時には騎兵総大将が韓通なのに対して趙匡胤は水軍総大将でしょ
荊南、楚、後蜀、南唐への親征でも自身は水軍を率いているし突厥系のイメージとか全然わかないけどな
>>484
朱全忠や郭威も北族じゃないでしょ 趙匡胤が発明した武器に多節棍があるのだけどこれは唐棹が原型の武器なんだよね
農具を武器にするって如何にも農耕民っぽい そんなもの戦場で武器になるもんか
ポテトロスじゃないやつは書き込むなよ 現存する中国武術の多節棍の演武
https://www.youtube.com/watch?v=ul69zQUdB78
日本では唐棹を武器にするという発想は珍しいけど世界的にはわりとありふれた武器で
ヨーロッパでは対騎兵用の武器としてフス戦争でもフス派が主力兵器として使っていたり
16世紀のドイツの剣豪のハンス・タールホファーも教本に残してたりする >>492
> 朱全忠や郭威も北族じゃないでしょ
朱全忠はともかく、郭威は北族でしょ 趙匡胤
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E5%8C%A1%E8%83%A4
宋の建国者の趙氏は、南方系の出自とされていたが、近年の学術研究では疑問視されており、チュルク系民族突厥である可能性が指摘されている[3]。
中国文学者の加藤徹は、趙匡胤の父の趙弘殷は突厥沙陀部の国家である後唐の近衛軍の将官であり、世襲軍人だった趙氏一族に突厥沙陀部の血が混ざっていた可能性は高いと述べている[4]。
文化人類学者の楊海英は、「960年、後周の趙匡胤が帝位につき、国号宋。趙氏一族もテュルク系出自との説あり」と述べている[5]。
歴史学者の岡田英弘は、「北宋は北族の王朝」として(以下略) >>491
大陸人が「南朝がずっと続けば良かったのに」と思うかどうかはいざ知らず、
この列島で藤原摂関時代が続くなんざ御免被る。
ナヨナヨしてる癖にネチネチ陰険で反吐が出る。
清盛と頼朝に深く感謝する。 >>497
ソースが加藤徹、オーノス・チョクト、岡田英弘な時点で信憑性ゼロ >>498
鎌倉期は個人的に好きな時代じゃある(今年の大河ドラマも面白そう)けど、
さらに個人的には、平氏政権期も負けず劣らず好きで、
もうちょっと続いてたら日本文化がさらに多彩で風雅で外交上手で面白かったろうになと思う
というわけでハプスブルク朝オーストリア対ホーエンツォレルン朝プロイセンを
六波羅/福原対鎌倉とか中国南朝対中国北朝というふうになぞらえてみたりしてます
「戦は他家の者に 汝幸いなる平家よ 婚姻せよ」
ってとこですね
あ、そうだ
それこそ平安中期のこと、清少納言は
「文は文集、文選、はかせの申し文」
と書いてますな
文選は美文の代表格扱いだったようですね
まああの当時、漢籍を原書で読む女官というのは珍しかったんでしょう
(こっちは白氏文集のほうが出典ですけど「香炉峰の雪」の一件とか) ああそうだ、自分は >>490 兼 >>500ですので (491は別の人) >>500
平安時代の貴族がナヨナヨ・ネチネチしてたと思っているなら間違いだぞ
平安時代は、のちに武士が受け継ぐことになる汚れ仕事も貴族がやってたんだぞ
いわゆる軍事貴族だ
なんにせよポテトロスじゃないやつは書き込むな >>497
漢民族の有力氏族出身者を登用して部隊を統率管理させることが五胡十六国時代からよくある
少数の遊牧民族が大多数の漢民族を統治するのに政権全て全て遊牧民族で固めるのは無理だし統治に支障が出る >>479
ソグド人の都市や氏族の構成にも変化があったかも。クシャーンやパルティアが健在の時代から、マーワラーアンナフルに何氏や安氏が住んでいたのかな。彼らが起こした国なら面白い。
クシャーンは途中でサカ族に乗っ取られ、ガンダーラ系の国になったようだ。
スサノオがオホゲツヒメを殺したり、クシナダヒメを娶るエピソード。スサから来たササン朝の武人が、大月氏を倒しクシャーン国を乗っ取ったような感じにも見える ソグド人はホータンのオアシス都市の出身地にちなんだ漢人風名字を名乗ってたとかだったっけ
石氏とか 「ソグド語はイラン語派に属するが、ソグド人は隊商のことをイラン語系のキャラヴァンではなく、サールトと呼んだ。これはサンスクリット語のサールタ(सार्थ)に由来しており、インドの商人がソグド人と同じかそれ以前から活動していた可能性を示している[2]。」
Wikipediaソグド人より。
サルタヒコ=サールタの一団。日本の歴史学者がこういうところでロビーイングしてるのか?謎過ぎる >>475
パルティアがあれほどライバル視していたローマの習俗の影響を受けていたなんて初耳
バビロニア文明の高度な文化、数学や建築技術もアケメネス朝時代にはすでにオーパーツ状態で残っていなかったと思うのだけど
パルティア人はヘレネスト(ギリシャマニア)の自称どおりギリシャ化したペルシャ人の一部族であるパルニ族の後裔
プルタルコスによるとギリシャの服装や演劇文化を模倣していたようだが、その一方で遊牧生活を送り
近親婚や多夫多妻という珍しい結婚制度などペルシャ人古来の風俗も維持していたようだ >>495
何か中国武術や外国の武術って速度が日本武道とは段違いだよな
朝鮮出兵したときの日本軍の兵士たちとかちゃんと相手の動きが見えたのかしら >>508
兵「と、殿っ。あああの速さを御覧下さいっ。容易ならぬ敵ですっ。我らが剣では勝てますまいぞっ。」
将「鉄砲で撃っとけ。以上。」 弓もあるやん
立花宗茂と細川忠興がこの戦役の時弓と鉄砲の優劣を競ったとか タシュケント出身者が石氏を名乗ったようだ
沙陀突厥もテュルク系民族であるがソグド人の血も混じってたのだろうか
石 敬瑭(せき けいとう)は、五代後晋の初代皇帝。廟号は高祖。祖先は沙陀より太原に移住したと言われている。石氏はタシュケントを出自とするいわゆるソグド姓で、ソグド系突厥と呼ばれる唐朝後半期から東突厥のもとで突厥から文化的及び血縁的に大きな影響を受けたソグド人の家系に属するとされる[1]。父の石紹雍(臬捩鶏)は沙陀族長李克用の率いる軍閥に従って転戦した功により、洺州刺史に任命されている。 例えば五胡十六国 後趙の王族である石氏は、石勒の後見人だった汲桑が漢人風の名前を付けるために命名したとある。
当時からタシュケントに石という人は住んでいたのかな。
そもそも漢人風の名前だったのだろうか。 「『ソグド』系」ってことを示す当て字じゃないかな?
「石」は日本漢音読みだと せき だよね
現代韓国語読みの発音だと 석【 sɔk̚ 】だし
唐代の「石」の漢語読みはどんな発音だったのかな >>513
タシュケントがテュルク語で石の町って意味だからであってそんな理由ではないわ
あほか ああ意訳ね
ならばソグド系以外の家系にも、ご先祖がタシケントの出なら石姓って場合もありうるか
石敬瑭の場合はともかくとして
てかなんでそんないきなり喧嘩腰
もう少し書き方ってものがあるでしょうに
文学史上でも有名な唐代の話ならなおさら >>516
> てかなんでそんないきなり喧嘩腰
> もう少し書き方ってものがあるでしょうに
横レスだけど、トンデモ説がしばらく続いてるからだろ(笑)
まあ嫌いな人は本当に嫌いだから 五胡十六国の歴史に、ムーもびっくりな世界の秘密が隠されているからだろ ソグド姓は魏晋の時代こそ目立つけど、八王の乱までに消えてそう。後趙くらいじゃない? 羯族がコーカソイドだったって本当かな
確かに鼻が高い、体毛が濃いという人種的特徴があったみたいだけど
中央アジアのカザフスタンやキルギスの国民は
今でもロシア系以外は基本東洋人で
日本人とも見分けがつかないからな 魏晋南北朝時代にかけて、ソグド系の人物や五胡が黎明期の中国仏教を推進してるような動きをしている。
安世高、康僧鎧、月氏の支婁迦讖、後趙仏図澄と石勒石虎、後秦鳩摩羅什と姚興、東晋孝武帝と釈道安。
ソグド系といえば?大月氏クシャーナのカニシカ王が代表的な庇護者だけど、大月氏とサカ族は険悪なはず。歴史ミステリー。 カザフ人もキルギス人もハプロタイプで見るとR1a1aが半数以上をしめていて
見た目的にはともかく遺伝的にはヤグノブ人やタジク人と同じイラン系人種に属する
新唐書によると黠戛斯(キルギス)人は長身、赤髪、緑眼、折面(ほりが深い)であり
まれに黒い眼のものが生まれるとこれを李陵子と呼び不吉とするという
現在のモンゴロイド系の形質はトルコやモンゴルとの混血の結果だろう
カザフ族も部族名を見るとジャライル、ナイマン、 ケレイト、コンギラトとか
元代はモンゴル族だった連中がだいぶん入り混んでるな >>522
> 魏晋南北朝時代にかけて、ソグド系の人物や五胡が黎明期の中国仏教を推進してるような動きをしている
「中国人に仏教が広まった」というより、「仏教を信仰する民族が中国に移住してきた」というのが実態に近い 日本の仏教も黎明期はそんな感じだな
7世紀の僧を見ると曇徴、法定、慧灌、恵慈、道登は高句麗系、 恵雲 観勒、恵隠、道昭、行基は百済系
智鳳、智雄、智鸞、隆観、行心は新羅系で倭人僧となると良弁しかいない
古代寺院とオンドル以降の分布もほぼ一致しているし飛鳥期の寺院は朝鮮系移民のコロニーみたいなものだったのだろう 東晋の司馬氏、百済、倭の朝貢関係を示す最たるものが石上神宮の七支刀なわけだが。
https://sekainorekisi.com/glossary/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80/
時の東晋皇帝は司馬奕。桓温に廃され呉郡に移った。
当時、石上神宮はアジールとして機能しており結界を越えて逃亡した罪人はそれ以上追及することが出来なかった。
蘇塗と呼ばれる同類のアジールは、東夷伝馬韓条にも見られる。
これが義経=ジンギスカン説、楊貴妃日本逃亡説のようなファンタジーを生み出してしまう。 日本全国各地に牟礼山という地名が残っているのだが
「牟礼」は山を意味する百済語mureの音写で百済人によって開発された土地であることを示しているらしい >>527
三鷹の牟礼はどうなんだろうか。
山どころか武蔵野台地のド真ん中。
微高地と無理矢理云えば云える…かなあ?
もしも百済系なら武蔵國には珍しい。
界隈の渡来人開発地名は高句麗(高麗)系と新羅系ばっかりだから。 東漢氏は蘇我氏の用心棒をやっていた。この氏族名がそのまま後漢の亡命者だとすると、後から亡命してきた司馬系の人間が気に入らなくて、石上系の氏族や物部氏と揉めていたかもしれない >>527-528
「牟礼」がmori「森」の転訛という可能性はどうだろう。
三鷹市牟礼も平地林の意味なら説明がつきそう。
ちなみに津軽弁「モリ」は「山」を意味し、
「青森」はもと「青い山々」の意だったそうな。
もしや、百済語mureは… >>530
なるほど。
その線もあるかもしれないな。
ありがとう。
因みに三鷹を含む北多摩では津軽とは全く逆に、
國木田獨歩が逍遙して賞揚したような雑木林や屋敷森のことを「ヤマ」と称する。
スレチ御免。 羯族は姜に近い
そして古代中国の秦一帯に住んでいた
始皇帝の中国統一の際に労役から逃げ伸び、朝鮮半島で秦韓を建国
古墳時代に日本に移住してきた一族が秦氏を名乗った
キルギス人が日本人に似てるのも羌族系類似点があったかもしれない(西域を通じて繋がっている)
桜蘭の美女など紀元前3000年にはコーカソイドが西域に住んでいた >>533
音節末に内破音の【 k̚ 】はあったのかな、なかったのかな 支婁迦讖はサンスクリット語でLokakṣema ローカクシェーマ。
邪馬台国は現代中国語でシェーマータイグォ。
schema。スキーマ。フランス語ではシェーマ 幼き日の白鵬が初代若乃花からうまい棒をもらった話は有名
人類の穀物に対する情熱を過小評価する学者はアホ
「うまい棒」値上げへ 「10円→12円」に、4月出荷分から
https://www.j-cast.com/2022/01/21429423.html
2022年01月21日18時48分
「うまい棒」が値上げをすることが分かった。
J-CASTニュースの取材に、販売元のやおきん(東京都墨田区)から通知を受けた複数の卸売業者が認めた。
現在の希望小売価格は税別10円。2022年4月1日出荷分から税別12円になる。 遊牧民の主食・ヨーグルトも美味しいけど、毎日そればっかりじゃなあ 「遊牧民は漢人社会の進んだ文化に魅了されたのだ」とか絶対ねーから
そんなこというは学者とりあえず死んどけ 漢文学の魅力よりも、穀物で作った酒をたらふく呑める魅力のほうがはるかに大きいわアホ
学者死ね 青海省の西寧 というかラサも含めたチベット人居住地はことごとく飯がまずいのだが、ヨーグルトと、モジャ界のマーとかいう店で食べたじゃがいものカレー炒めみたいなやつだけは別格だった。
東京のウィグル料理の店、ここもパサパサした遊牧料理が味わえる >>539
それ言ってるの相当古い学者やその学者の本真に受けた作家とかじゃね
陳舜臣センセイとかは流石に「漢族化したからこそ遊牧民としての強いアイデンティティに目覚め自分たちを蔑視してきた漢人への怒りに目覚めたんじゃないか」的な事書いてたけど 馬に乗って颯爽と草原を疾駆する遊牧民から見れば、農耕民は泥人形みたいな土人に見える
経済力で圧倒的な差をつけられた現代でさえ、モンゴル人はどことなく中国人を見下しているところがある
劣等感なんかあるわけない フン族の首領アッティラ、ヨーロッパを席巻するも深酒により無事、死亡
モンゴル帝国の大ハーン・オゴデイ、ヨーロッパを席巻するも深酒により無事、死亡 ロシア人と同じで、寒いから酒を飲まなきゃやってられない 北魏の馮太后は、遊牧系の王朝らしくガワだけの支配だった土地制度を改革して本格支配することに成功したが、次代の孝文帝から一気に漢化しておかしくなり、道武帝以来西晋を否定し漢の後継を称していたのを急に西晋の後継者に改めたり、子貴母子をやめて馮太后や胡太后などを生かしておいたら即座に専横が始まり、国が壊滅するのが凄まじすぎる。
そこへ道武帝時代からの宿臣である爾朱栄が現れ、胡太后や漢人官僚を大粛清し漢化を一気に北族風に切り戻すのがかっこいい。 越後の虎・上杉謙信の死因は、糖度の高い高級酒の常飲による糖尿病らしい 寒冷化で拓跋が南下してきた時期、母星が爆発したサイヤ人が地球にやってきたくらいの怖ろしさだったと想像 「535年にクラカタウ火山が噴火して世界気候が寒冷化し
古墳寒冷期到来」
じゃ時代が違うか… >>549
それを言ったら北欧のバイキングなんて、赤い顔した怪力で狂暴な巨人だ
そんな連中が船に乗って海を渡ってきて、陸上では船をかついで歩き、川をさかのぼって内陸まで攻めてくる
古代や中世は本当に怖い世界だった >>551
バイキングは中国を襲わなかったのかな。
体が大きいから有利だっただろうに。
230cmくらいの身長で記録が残っている人の中にバイキングがいたかも知れない。 >>551
古代は怖い時代ですよ。
何しろ或る日突然西方から乱入してきた武装船団の乱暴なイレズミ者たちが侵入地に居座って建ててしまった國が本邦なんですから。 ロシアはバイキングの国
ロシア民族の始祖と仰ぐリューリクは、北欧からやってきたバイキング バイキングの話はスレと関係ないのでよそでお願いします 古今東西、民族移動は世の常
とくに大陸では当たり前だ
でも、「移動してきた野蛮人は、中華の文化に心酔して漢民族に同化されました」に極端にこだわるのは中国史だけ
他の国々ではむしろ、「移動してきた新しい人々により、どのような変化がもたらされたか」に関心が集まる 「ローマの豊かな文化に感化された」的な言い方はわりとよく聞くけど、
ローマがキリスト教を国教にしてからのジメジメと腐った感じはなんなのだろうね 中国歴代王朝はすべて武人政権だったにもかかわらず、
あたかも常に文人によって徳のある政治が行われたような粉飾が行われるので、誰も実態に即した中国史を学べない
漢籍に描かれる理想の社会と現実の社会の乖離を理解するのに苦しむのは、日本人だけでなく中国人も同じ 漢人社会は政治と文学の境界線が存在しない
過剰なまでに褒めちぎる表現が横行すれば、お世辞のインフレによって外部からはまったくわからなくなる そうなんだよなあ
儒教では、「歴史」が信仰の対象となる
儒教思想に合わせて歴史が編集される イスラム世界と結合されていたモンゴル帝国時代だけが、等身大の中国社会を知ることができる時代だったという皮肉
耶律楚材の盛りに盛られた自己宣伝はイスラム世界の文献との照合で偽りと察知できる 中国共産党が大鉈を振るって儒教を捨てても共産主義が取って代わっただけで、やってることは歴代王朝と同じという虚しさ 今どき史書だけしか読まない奴ってジジイかにわかじゃね
ゼロ年代になってから行政文書や墓誌がゴロゴロ発掘されとのに 共産党だからダメなだけで共産党政権が倒れればもっとマシな政権が生まれるはず、というのはそもそもの間違い
中国の中央政権が倒れないように支えるのが周辺国の最善策って結論しか出てこない
アメリカ人が法輪功関係メディアに煽られて共産党打倒に共鳴するのは、マジ迷惑
あ、すみませんスレ違いですね >>558
匈奴も鮮卑も他の胡族も南北朝時代を経て
みんか漢民族に同化されました、めでたしめでたし、
とはいかんのだよね。単純には。
もはや魏晋の漢民族と、隋唐の漢民族とは
全くの別民族。
椅子に腰かける、乳製品を摂る、衣服は動きやすいズボンにブーツ
って、それは完全に遊牧民のライフスタイルですから。 イスラム世界と結合って唐代からでしょ
「中国とインドの諸情報」というアッバース朝の商人がかいた本が翻訳されている
当時のイスラムって絶頂期と思うのだがそれでも唐のほうが強国と認識しているのが面白い 最後にものをいうのは工業力よりも農業生産力だからだよ
工業力頼みな社会は飢饉に弱い >>567
>椅子に腰かける、乳製品を摂る、衣服は動きやすいズボンにブーツ
椅子は北朝時代に入ってきた文化だけど乳製品なんて周代からあるし
ズボンとブーツも前漢代の満城漢墓から出土してるけど
というか大陸の気候でズボンと靴はく習慣なかったら凍傷で死ぬわ >>572
> 椅子は北朝時代に入ってきた文化だけど乳製品なんて周代からあるし
周は遊牧民の王朝 中国人にとっての鮮卑や羗、百越って数ある自分たちのルーツという認識で異民族と言われても
?????????らしい
日本人も九州人は熊襲と隼人、北陸、関東、東北は蝦夷の大なり少なり蝦夷の血が流れているけど
隼人や蝦夷しての民族意識なんて残ってないしな 列島の気候でズボンを穿いて靴を履く習慣なんぞ採り入れたから疥癬が蔓延するようになったらしい。
生活文化はその国その地の自然環境と一帯不可分。
安易に真似なんかするもんじゃないな。 >>574
関東者の俺は関西人も関西弁も関西の文化も大っ嫌いだ。
蝦夷の血のせいかもしれない。 騎馬戦も魏晋の時代はほとんど無かったんじゃないの?
漢民族の基本的な軍隊は重装歩兵
馬はせいぜい指揮官の車を牽くくらい
そりゃ趙が採用した胡服騎射みたいな例外はあったけどさ
三国志演義に出てくるような
張飛と馬超の一騎討ちなんてのは
隋唐以降 >>577
漢王朝時代から匈奴と相当戦ってたから騎兵は持ってた 趙が取り入れた胡服騎射が各国に広まって戦国末期から大規模な騎兵運用が行われたし
兵馬俑にも騎兵があったのに騎兵がないとか 韓国では、満州から南下してきて朝鮮半島を征服した高句麗を「韓民族の歴史」と位置づけ、歴史ドラマをたくさん制作している
でも、中国と国境を接して、今も南下の脅威にさらされている北朝鮮では、この話を好まないらしい >>579
> 趙が取り入れた胡服騎射が各国に広まって戦国末期から大規模な騎兵運用が行われたし
> 兵馬俑にも騎兵があったのに騎兵がないとか
「秦漢時代に馬がいなかった」とは誰も言ってないし、程度の問題だろ
漢朝の騎馬軍団と、後の北朝のそれとではやはり質・量ともに異なる
本当の意味で、馬の大量投入による機動力革命が起きるのはモンゴル帝国
持久力のあるモンゴル馬を湯水のように投入し、乗ってる馬が疲れたら元気な馬に乗り換えて全速前進を続けた 兵馬俑にはまとまった数の騎兵があったから集団で運用されてたのは間違いないよ
少しずつ主張を変えてもレスが残ってるから変なこと言わない方がいい キングダムなんかを見ると、馬に乗った秦軍が、モンゴル騎馬軍団みたいな勢いで攻め込んでいるが
あれはあり得ない 秦軍の武器は青銅製だし、馬は持久力がなく頭数が少なかった 戦国時代の騎兵は胡服騎射の通りヒットアンドランの軽騎兵だからむしろモンゴルの騎兵に近い
というか戦術も編成も遊牧民族を真似したものだから 趙はそうだな
真似するも何も、あの時代の河北省や山西省には遊牧民が普通にいただろ マックのポテト割引断られ…女が従業員に発砲か 米・ミズーリ州 | 国際 | ABEMA TIMES
https://times.abema.tv/articles/-/10012426
2022/01/22 18:09
アメリカのミズーリ州で、フライドポテトの割引がなかったことを恨み、女が従業員に発砲した。
19日、マクドナルドのドライブスルーで接客していた従業員が休憩を取ろうと店舗から出たところ、近くにいた女に突然銃で頭を殴られ、その後撃たれた。
事件の直前、女は従業員にフライドポテトの割引を求めていたが従業員から断られ、口論の末に「銃で撃ってやる」などと脅していたという。
女が発砲する場面は防犯カメラに残っていて、その後警察に逮捕された。従業員は撃たれたものの、かすり傷程度で済んでいる。(ANNニュース) >>578
三輔黄図によると武帝の代に関中に三十六の官営の牧場が作られ、それぞれ数万頭の馬を有していたとか
>>577
魏軍の主力部隊である虎豹騎は重装騎兵部隊だが
三国史記高句麗本紀だと毌丘倹の率いていた鉄騎によって高句麗軍は壊滅し丸都山城が陥落させられるのだが
この鉄騎も虎豹騎のことをさしてるのだと思う 高句麗、百済、新羅も騎兵が主力だし大規模な騎兵部隊をもたなかったのは倭ぐらいじゃない?
日本書紀の欽明欽明十四年十月廿日の条にかなり生々しいおそらく百済記をもとにしたと思われる記述だと
高句麗、百済ともに騎兵が互いに名乗りを挙げて戦うという中世ヨーロッパみたいなことをしている
一方倭はというと丁未の乱の記述でもつみあげた稲束や樹の上から弓を射かけあうという原始的なもので
戦闘の質が違うという印象 秦はもともと咸陽だけの都市国家だったのが驪戎や義渠といった遊牧民を征服して出来た国だから
騎兵には困らなかったろうよ
キングダムだと庶民はみんな農民みたいな感じだが嬴政の時代だとまだ遊牧民も多かったんじゃないのか >>590
> 高句麗、百済ともに騎兵が互いに名乗りを挙げて戦うという中世ヨーロッパみたいなことをしている
騎兵が互いに名乗りを挙げて一騎討ちというのは、馬が少なくて一般兵士にまで行き渡らず、特権階級しか乗ってない時代のやり方
三國志もそういう場面は多いし、源平合戦でも「やあやあ、我こそは・・・」でオナジミ
モンゴル騎馬軍団からは、そういう戦場の風物詩がなくなった 唐側の史料にも「 俗重騎射 」(『通志』巻 194 百済)
「便鞍馬善猟射」(『通志』、巻 194、高句麗)とあるから両国とも騎兵が主力だったのは間違いないよ
日本は馬具は伝わっても騎射の風習はまだなかったのだろうね
壬申の乱でもみんなウマから降りて戦っているし 皇位を廃された李重茂は元の温王に戻されるが、714年に死去している。暗殺された可能性もあった 北の騎馬民族はほとんど半猟半農だけどな
扶余、靺鞨、女真、鮮卑、モンゴルの前身である室韋もそう
中国側の史料では高句麗人は土地が農耕には不適であり、馬を走らせては猟射することを好んでいた
またトナカイ養飼の風習もあったのだがトナカイを家畜にするというのはソロン、ニヴフ、ウィルタやなどの
北極圏に近い場所に住む北方ツングースに見られる特徴
高句麗が扶余から来たというのは権威付けのための仮冒でその実際の出自はかなり北であることを意味していると思う 韓国では、北方から南下してきた高句麗を「韓民族の祖先」と位置づけている
南の人間は、被征服民だ
彼らから見て南方に位置する日本や台湾に対する侮蔑的な言動が多いのは、そこに遠因がある 朝鮮半島から見たら
南方ほど漢民族圏だと思うが。
北方はむしろ、東胡、鮮卑、期待 途中で送信してしまった
きったん、女真と、
北の方が中華思想的には(小中華的にも)蛮族っぽいと思うがね 北は軍事力が強く、南は経済力と文化力に上回る
共通する傾向だな >>602
日本から大金貰ってあれこれ助けてもらうまで経済も軍事力も北の方が上だった 慶尚道のローマンガラス出土量は東アジアトップクラスで華北全体を上回っているのだから新羅の経済力は半端ではない 女性をなぶる朝鮮の陰湿な文化は、鮮卑や女真にない要素だと思う 百済王族の末裔である大内氏も、15世紀ごろにはタタール系の毛利氏に滅ぼされただろ。いわんや朝鮮をや 新羅や百済は、日本人の祖先だ
現代の韓国人は、もっと北から移動してきた民族 日本書紀にも「海の向こうに目もくらむばかりに金銀や彩絹が多い国がある。
その国を栲衾の新羅国と言う」(原文・有向津国、眼炎之金・銀・彩色、多在其国、是謂栲冬新羅国)
とあるな
栲衾はコウゾから作った寝具のことらしい 仁徳53年に、新羅が朝貢しないので、上毛野君かみつけのきみを新羅に向かわせ「数百人を殺した。四つの邑の人民を捕らえてつれて帰った」とある。 (神功皇后は)ことごとく神の教えたとおりにして軍隊を整え、多くの船を並べて海をお渡りになりました時に、海中の魚どもは大小となくすべて出て、御船を背負って渡りました。順風が盛んに吹いて御船は波のまにまに行きました。
その御船の波が新羅の国に押し上って国の半にまでいたりました。よってその国の王が恐れて、「今からのちは天皇の御命令のままに馬飼うまかいとして、毎年多くの船の腹を乾かわかさず、舵棹かじさおを乾かさずに、天地のあらんかぎり、止まずにお仕え申し上げましょう」と申しました。
かような次第で新羅の国をば馬飼とお定め遊ばされ、百済の国をば船渡ふなわたりの役所とお定めになりました。
そこで御杖を新羅の国王の門におつき立て遊ばされ、住吉の大神の荒い御魂を、国をお守りになる神として祭っておかえり遊ばされました。 新羅王子のアメノヒボコとニギハヤヒはもとは同一神と考えられているし
いずれにしても皇室は新羅と関係が深いー族とみてまちがいないだろう
十種神宝も古事記にはもとは新羅の神宝であるという 新羅の都・慶州は、朝鮮半島の中でも東南端の、日本に最も近い場所にある
朝鮮最古の歴史書「三国史記」には、「倭人が海を渡ってやってきて、新羅を建国した」とある >>613
敢えて記紀、特に古事記の記述に示唆を求めるのであれば、
考古学/古代史学の泰斗、森浩一氏(故人)は~武東征伝説やヤマト初期遺跡出土物に中国江南の影有りと指摘していた。
少なくとも大陸〜半島〜北九州では説明のつかない要素があると。
例の『魏略』の与太噺、「太伯之後」との薄気味悪い符合も気になる。
勿論、
ヤマト王権の起源が単一であるとか天皇(大王)家が万世一系であるとか決めて掛かる必要は無いわけで、
北回りの要素と南回りの要素が必ずしも矛盾するものではない。 >>608
石上神宮の七支刀には、東晋から百済に与えられたのを模造し、百済から倭国に与えられたという由来が刻まれているからな。 廃帝司馬奕か、百済の近肖古王の血を引いているわな。 >>616
> >>608
> 石上神宮の七支刀には、東晋から百済に与えられたのを模造し、百済から倭国に与えられたという由来が刻まれているからな。
百済は倭国に朝貢していたからな
珍しい品があれば倭王に献上する >>618
百済「あれは下賜したニダハムングルハセヨ〜」
倭國「ってやんでぇ献上してきたんじゃねえか篦棒メっ」
−−という不毛な論争があるらしいな。 中国の史書にもそう書いてあるからな
朝鮮人の主張には無理がある 新撰姓氏録だと百済系は最上位の百済王氏ですら諸蕃なのに対して新羅系の新良貴は皇別
しかも臣下としての格付けを表す八色の姓がないという破格のあつかい
天皇家と新羅が何も関係がないと考えるのは無理がある 半島南部は倭人の草刈り場だった
倭人によって男は殺され女は犯され数多くの財宝と共に列島に連れさられた 財宝と呼べるものはそもそも古代朝鮮になかった
はい論破 日本書紀 十九巻 欽明天皇 二十三年八月。
天皇は大将軍・大伴連狭手彦に兵数万をあたえ、高句麗を侵した。
狭手彦は百済の計略によって、高句麗軍を打ち破った。
その王が垣根を越えて逃げると、挟手彦は勝ちに乗じて、高句麗王の寝室に入り、珍宝や七織りの帳、鐵屋を得て帰還したが
それらは天皇に献上した。
甲二領、金飾の刀二口、銅の鏤鍾三口、五色の幡、美女媛と、その従女である吾田子は蘇我稲目に送られた。
稲目はこの二人の女を召し上げると、妾として軽曲殿に住まわせた。 ヴァイキング 〜海の覇者たち〜みたいなヒャッハーが主人公の歴史ドラマの日本史版をNHKがつくってくれねえかな
主人公は雄略天皇か阿倍比羅夫あたりで 北条政子のような女性は日本史にほとんどいない的な北条政子アゲ説明されるけど、
神功皇后が完全スルーされてるよな >>619
下賜説の根拠は「故為倭王旨造傳示後世」(故に倭王よ。この刀が造られた旨を後世に伝え示せ。)
と明らかに上から目線の銘文が刀身に彫られているのが原因。
しかし、倭「王」と同格表現をとっていること。当時の百済は高句麗をしのぐ勢いで、増長した態度をとっても
不思議ではないことからあくまで「対等」な関係を前提とした贈与と考えられる。 「北から南への民族移動」という話の流れで朝鮮半島にも言及されたのだが、どこかの時点で在日朝鮮人がブチ切れた >>626
戦国時代を実態に即してドラマ化したら飢饉とヒャッハー!!の連鎖になる。
みんな大好きな上杉謙信なんざ実は殆どそれだけ。
誰が観る? 世界のどこだってそうだ
地球は血で血を洗うサバイバルゲームの戦場
良くも悪くも、日本は特別なところではない 日本の支配者層は、最初中国の南朝系で途中から北人に入れ替わった。史料が揃ってるだろ 【イチオシ】“ポテトロスの冬”に 〜知っておきたい魅惑の専門店【Nスタ】
https://youtu.be/j-g6WnpeYuc
ポテトロスがささやかれるこの冬、いま知っておきたいフライドポテトの事を調べてみました。
デリバリー専門のフライドポテト店もリピーターが増えています。進化が止まりません。(19日17:50) 古代の初期渡来系豪族はきっとこんな感じだ。
百済などが脱走の手引きをして蓬莱というラストリゾートに隠棲。大陸を動かすよすがを探し陰謀を企ててきた。秦系の秦氏、後漢系の東漢氏、東晋系の物部氏など、様々な時代の支配者階級が軍馬を連れてやってきた 平安時代前後になって慕容、禿髪、拓跋などが攻めてきて、中国でたびたびそうしてきたように、支配者階級を分裂させ両陣営に傭兵を送り込み、国を乗っ取ってしまった。 時代的に大陸からの移民期は遅くても紀元300年くらいじゃないかね
大化の改新とかの時期に支配者層の移民は考えにくい >>627
日野富子がいるじゃん
北条政子といえば承久の乱
日野富子といえば応仁の乱 南朝は洛陽を攻めたら死亡
北朝は東晋を攻めたら死亡
廃仏をしたら君主が急死するか三族皆殺し
朝鮮の聖王が、倭国のみならず中国全土をコントロールしていた証拠 渡来人は漢と魏と高句麗と唐の朝鮮半島侵攻で影響受けた人達でしょ。 >>636
秦氏は新羅系な
秦氏の氏寺である広隆寺にある弥勒菩薩半迦思惟像は朝鮮半島の赤松で作られていることがわかっている
また使われている瓦も新羅系で秦氏系氏族の住居とみられる市尾カンデ遺跡からは半島系に属する大壁建物とオンドルの跡が
検出されているがその構造は新羅のものと共通
秦の始皇帝の末裔だとか言うのはフカシで実際は新羅系移民なのは確実 >>642
それは、秦氏が新羅に住んでいただけだ。新羅在住の不法入国者だったかもしれない 秦氏は中国系だよ
日本に来る途中で新羅を通過しただけだ そろそろ「渡来人」という奇妙な用語を廃止すべきと思う
「帰化人」のほうが実態として正しい 6世紀以降の来訪者達にとって、東晋=百済系の伊勢神宮は敵だった。戦争の結果勝利を収めた あんたらどっちもええかげん他スレへ移動してくれんかな
換気目的に梁の昭明太子の文章でも書こうかい
文選序
式觀元始 眇覿玄風 冬穴夏巢之時 茹毛飲血之世 世質民淳 斯文未作
逮乎伏羲氏之王天下也 始畫八卦 造書契 以代結繩之政 由是文籍生焉
易曰 觀乎天文 以察時變 觀乎人文 以化成天下 文之時義遠矣哉
若夫椎輪爲大輅之始 大輅寧有椎輪之質 撕u爲積水所成 積水曾微撕u之凜 何哉
蓋踵其事而揄リ 變其本而加氏@物旣有之 文亦宜然 隨時變改 難可詳悉
とりあえずこれ読んで解釈して南朝の風流な雰囲気あじわい始めてくれ
この文章、もちろん続きはまだある 史料が揃っているし言明も多いのに、史実の確定を避けてるなw
なにに忖度しろと >>522
ホータンはインドの仏教を中国に広める役割を果たしてきた
ソグド人もまた同じ役割を果たしてきた。ということでは。
民族がごそっと入ってきたのは五胡で、それこそ三国時代に民族浄化というレベルで漢人が1/3に減ったタイミングで進駐してきてる。
五胡とホータンやソグド人はどう関係あるよ? 仏教は漢人至上主義な儒教より扱いやすいしね
胡人には受け入れやすい 曹植が仏教音楽の作曲やってた事からして後漢末〜魏晋の頃には仏教はもう上層部の階層にはポピュラーだったのかも マクドナルドを悩ます「ポテトショック」の深刻度 | 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/505177
輸入遅延繰り返す恐れ、ポテチ各社は値上げへ
2022/01/26 5:00 逆に日本では奈良時代なんかは空前の仏教時代だったが土着神道も併存したんよなあ
廃仏時代も無かった 日本に限らず多くの国で、仏教は在来宗教を排撃していない
なので神道や日本社会の寛容さと捉えるのは間違っている
大航海時代に日本に入ってきたキリスト教がその後どうなったかは知ってのとおり 中国でも旧来の宗教や新興宗教だった道教と融合してるし 世界宗教ってそんなものだろ地元の宗教や土着的な風習とフュージョンしてたりする
ブレないのは恒心教だけ キリスト教やイスラム教は違うぞ
民族の歴史さえ奪う
実際、ヨーロッパ人は多神教時代の歴史と文化を失っただろ?
クリスマスが多神教の太陽の再生を祝う冬至の祭りだったことさえ忘れるよう仕向けられる イランでは、思いきりペルシャっぽい教えに変質したけどな ペルシア人てアラブ人と仲悪いくせに
宗教だけはアラブ起源のイスラム教を受け入れたんだな
宗派は違うけど >>661
そこでシーア派の登場だったのだろう
イラン人の不満と暗殺されたアリーを重ね合わせ
シーア派はかつてイランの王朝の勢力下にあった
地域が中心
近東でシーア派と言えば親イラン勢力で
それを駆逐しようとするのがトルコとサウジ
露骨っすなー >>656
> 日本社会の寛容さと捉えるのは間違っている
それが間違っている。
日本社会は寛容なのではない。
イイカゲンなのだ。
耶蘇降誕の聖夜を性夜として快楽に耽る、
一週間も経たないうちに神社に初詣して卑俗な現世利益を願う、
中には柏手を打たず数珠を繰ってお詣りするツハモノがいる、
その参道でムスリムの売るケバブを美味い旨いと喰らう。
生まれる時は神に死ぬる時は佛に世話になって怪しまない、
仕舞にはトマドイを起こして御七夜と初七日を間違えるウツケも現れるが笑って済ます。
亜細亜各地から吹き溜まったヤサグレが列島に蟠踞してここに幾万年、
磨きに磨き鍛えに鍛えた我が民族のイイカゲンさを舐めてはいけない。
世界に冠たる美質として誇るべきものなのだぞ。 >>663
そういう面については、中国がさらに上手を行くかもしれん
仏教も、日本では浄土宗とか禅宗がそのままずっと残ってるが、中国ではすっかり融合してしまって、坊さんは座禅を組んで「南無阿弥陀仏」と唱えるのが当たり前
儒・仏・道の三教は、後世になるほど混ざりあって区別がつきにくくなった
太平天国の乱なんか、一応はキリスト教だけど、おもいっきり儒教化した教義内容だった だからあくまで中華思想で外国勢力を味方に出来なかった 太平天国は儒教だけでなく道教もまじぇまじぇしてるから中国人があっさり受け入れた
キリスト教のままなら外国が納得しても中国人に受け入れられるのに時間がかかる 戦国時代の日本のキリスト教布教はデウスが大日如来でないことが発覚してからガラッと社会の雰囲気が変わった 今でも中国伝統宗教を信奉してる人多いしな
関帝廟とか 土岐頼遠センセイの「院?犬の間違いやろ?」発言を先取りしただけやから(震え) マクドナルド、マレーシアでもポテト不足:AFPBB News
https://www.afpbb.com/articles/-/3387413
【1月28日 AFP】アジアのマクドナルド(McDonald's)でポテト不足が広がっている問題で、マレーシアの店舗もフライドポテトの制限販売を始めた。
マレーシアのマクドナルドは、セットメニューも含め、フライドポテトのLサイズの取り扱いを休止した。
世界のサプライチェーン(供給網)は新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な大流行)を受けて混乱しており、食品から電子機器まで品不足が起きている。
米マクドナルドはAFPに宛てた文書で、マレーシアのフランチャイズで「現在、供給問題が生じている」ため、24日からフライドポテトのLサイズの提供を休止していると認めた。
今月に入り、台湾マクドナルド(McDonald's Taiwan)も世界的な輸送供給が「不安定」だとして、一部店舗で米国から輸入しているハッシュポテトが品切れになっていると発表した。
また、日本マクドナルド(McDonald's Japan)は昨年12月から2度にわたり、フライドポテトの提供をSサイズのみに制限。新型コロナ流行とカナダで発生した洪水のために輸入が滞ったと説明している。(c)AFP 後漢末期から三国時代にかけては疫病やら飢饉やらで人口が思いっきり減ったみたいだけど、
その頃に比べたら五胡十六国時代の方が民草にとってはまだマシだったのだろうか? 石ろくの後趙だけで三国時代全体と同じ規模の1000万人くらいいたようだな >>673
減ったのは戸籍の人口よ
屯田民や部曲民(平民以下だが人身売買の対象にはならない)は戸籍のある平民としてはカウントされない
国的には税収上げたいのと地域の情勢知るためにたびたび身分開放政策やってるけど 戸籍に載れば課税対象となる
後漢は重税を課したため住民は逃げて匪賊化する
黄巾の乱は人口の1割が参加した壮絶な規模の乱と言われている
蜀漢の兵士動員率は10%という信じられないくらいの軍事国家
というわけで戸籍人口の減少は実人口と乖離があっても、相当の動乱期であることを意味している 蘭陵王はルックスもイケメンだから嫉妬されて潰されたの? イケメンと聞くと赫連勃勃とかの狂った皇帝というイメージしかない ひと昔前は、イケメンは一般企業で出世しにくいという噂があったな
ブサイク上司に嫉妬されて潰されるから
昨今では女性上司も増えたから、彼女らに気に入られて出世という手もあるだろう
今度はブサメン同期からのやっかみが… 五胡十六国時代の皇帝は北方遊牧民だからまずはカリスマ!
それには高い身長、頑丈な体、イケメン!
あと戦に強い!これだけ!
だから建国は得意でも維持ができないんだよなぁ 南朝
百済、北宋、南宋
北朝
新羅、渤海、高麗、女真、契丹
↑
こんな感じでは?
明代、家康の時にまた南朝や漢人系が盛り返して見える。
洪武帝の豹変が、テロ&なり変わり事件じゃなければいいが。。 >>683
> 南朝
> 百済、北宋、南宋
>
> 北朝
> 新羅、渤海、高麗、女真、契丹
意味がわからん
北宋は北朝の五代政権だし、新羅は南の国 南北朝の親藩・譜代的な勢力っていう意味ね。
北朝に鮮卑を入れ忘れてるけど
ちなみに>>682の九州と近畿は逆じゃね? >>685
最近の遺伝子解析によると関西人と四国人が北京の漢民族に近いんだと
歴史的にも奈良は長安を模した平城京があるし北朝の影響が強いと思う
663年白村江の戦いで九州の倭国が敗れて国内での主導権を失い
代わりに近畿の大和が唐(北朝)に従ったので近畿にパワーバランスがシフトした
670年近畿の大和が九州の倭国を吸収して日本になった なるほど、百舌鳥・古市古墳群の時代は東晋司馬氏-百済-物部氏、大和王権、蘇我氏寄りだけど、時の皇帝はすぐ廃されたし、日本の状況も645年には覆ったもんな。もっと前の話かと思ってた。
近畿は大化の改新を経て、唐(北朝の後継)-新羅寄りになったわけか。
九州は11世紀以降、ずっとまだらに人が行き来してる回廊っぽいイメージ。倭国の目が黒いうちは百済寄りと言い切れるんだろうか。 >>687
元々、弥生人ってのは周の太伯の後裔なんだよ
太伯は後継者争いで敗れて中国南部に移住して呉を建国した
そして中国国内の動乱期に稲作を携えて朝鮮半島南部や日本列島に逃れたの
その末裔が今の日本人なの
だから弥生人ってのは長江流域出身だから
九州の倭人は代々、中国南朝を正統の中国の王朝とみなして南朝寄りだったんだよ
ところが中国では隋唐と鮮卑人の北魏をルーツに持つ北朝が続いたもんで
九州の倭国は対立するようになったの
それで白村江の戦いで九州の倭国が敗れたもんだから
国内の指導的地位を失いGHQならぬ唐の監視下に置かれたわけ
一方、近畿の大和は唐にすり寄り長安を模して平城京を作り
唐の律令国家を丸パクリして北朝に対して恭順の姿勢をとったの
その時に北朝から大量の渡来人が来た筈だろうね
近畿は唐の後ろ盾をいいことにその後の日本の指導的地位を獲得したわけ
元明天皇の時に「倭は雅じゃないから日本に国名変更したい」と唐に言ったが
「そんなんアカンよ」拒否られた
しかしタイミングよく武則天が一時期、武周を作ったんで
同じ女性の統治者ってことで意気投合して「国名変更エエよ」となって
670年に日本国となったの ちなみに日本って国名は元々は大阪にあった「日の本」国がルーツなの
「日の下の草香」って言葉から「日下」と書いて「くさか」と読むの
今の東大阪の孔舎衙小学校あたりが「日の本」国のあったとこなの
統治者はナガスネヒコと言って神武東征以前から大阪の支配者だった
物部氏は神武東征以前から大阪にいたナガスネヒコの一派だと思われる
神武東征で倭国はナガスネヒコを破りかつて九州にあった邪馬台国にならって
近畿で大和王権を建国したの
こうして近畿と九州の二大巨頭体制で日本が運営されていくの
聖徳太子の時代では九州でタリシヒコが皇帝になり近畿では聖徳太子は摂政として推古天皇を補佐した
ところが九州の倭国は磐井の乱で急速に力を落とすわ
度重なる朝鮮遠征で国力は低下しまくって
最終的に白村江の戦いでオワコン化する
んなこと正直に記録したら国のイメージ悪なるってことで
天武天皇は九州の歴史を一切合切無視して日本書紀を編纂したの
だから未だに「邪馬台国はどこにあんねん?」って論争があるの
でもまあ福岡ってのはほぼ確実やけどね
結局、日本って国名は神武東征以前の「日の本」国を復活させたってこと
中国の歴史書も「日の本国は元は小国で倭が制圧してその名をパクった」とある
多分その通りだと思う そんなに判明してんの!?
俺の知っている日本の歴史と違う!!!
教科書に載せてくれよ。 鞍作村に行ったら曽我さんという人が住んでいた。
蘇我入鹿(鞍作の別名)と司馬氏(後の鞍作氏)のミッシングリンクをここに見つけた気がする。もしくは、それを告げるために運命的に引っ越してきた人だと思われ。 平野郷には国家にまつろわぬ自治都市が中世から近世まで存在。
今はがんこ寿司から支配を受けているが。かつてはアムステルダムみたいに、怪しい活動をしてきたのだろうか。 >>689
北斉の高歓、後の神武皇帝=神武天皇が、ナガスネヒコ=物部氏を破って畿内を治めた...みたいな説はあるのかな。内心思っていたのだが。 東晋を簒奪した人か
概要ならYoutubeでだいたい分かるけど >>4
漢(前趙)の劉淵と後趙の石勒かな
逆にダメダメのクソ暴君は劉聡、石虎、冉閔 世界史で面白いのはディアドコイ戦争と五胡十六国と諸王朝乱立時代の神聖ローマ帝国 >>699
そうかぁ?
サピエンスとネアンデルタレンシスの相剋と共生から後者の期せざる絶滅
--という辺りが一番面白そうだが。
西魏の長楽公主は、突厥の伊利(土門)可汗に嫁いでいるな 日本の仏教は、北魏からの影響が強い
なら、そのまえの古墳時代、
ゲルマン民族の大侵入とか五胡十六国時代などの
異民族侵入で日本に該当するのが
卑弥呼とか神武東征にあたるんかな >>704
卑弥呼は異民族ではないと思う(在外倭人説はあるが) 五胡十六国って、五つの胡(異民族)が十六の国を華北に建てたってことなんだよな
そんな時代が中国史にあるって知ってちょっと驚いた!
ヨーロッパのゲルマン民族の大移動みたいにやっぱり気候変動が原因だったん? 重複スレ
というか、こっちのほうが伸びてるから、向こうのほうが余計 人類社会の「他人と協力できるよう」な「互恵的利他主義」では、「このシステムのうまみにつけ込んで他人にお返しをしない、「たかる者」に弱い」ので。こうした「たかる者をコントロールしない限り、社会はまとまらな」くなり、「しかも、言語の登場によりたかり屋は口先で人をだますというすごい武器を手に入れた」ので、宗教は。こうした「たかる行為に対抗する手段として発達した」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています