ゴーストライターがいたのは「詩学」「自伝」どっちだっけ。
晩年のストラヴィンスキーは、クラフトとの対話本を出した理由として、自伝では
十分な表現ができなかったから、みたいなことを言ってたと記憶する。ただしそれが
言語の問題だったかどうかはわからない。

知的な議論は母語でなくてもできる。「茶の本」も「武士道」もオリジナルは英語。
19世紀のロシアの貴族やインテリは仏語を使っていたし、ストラヴィンスキーは
ドイツ人の子守に育てられたのでドイツ語も堪能。