【春の祭典】ストラヴィンスキーを語ろう【結婚】
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モントゥのRCAのBOX化は90年代中頃だっけ
人気盤だったフィリップスのブラ2も同じ頃だっけ?
CD化として90年代中頃は早いとは言えないと思うな。 80年代初頭にCDが登場して普及はすごく早かった。
LPが併売された時期とはいえ廃盤も多くあったわけで
一部有名タイトル(モントゥのハルサイなど)を除き
そのほとんどは10年以上経ってからのお目見えだったってことだろ。一般には。 モントゥなんてLP時代からずっと知られた有名指揮者だ阿呆 >>204
いや、大阪FHの初来日を聴いて感動した
評論家の影響が多大。
早い話ユニバーサルが日本人用に特化した復刻に切り替えるまでは
ブーレーズなりアバド、ショルティみんな現役だった90年代。 ブラ2が人気盤と書いたが
実のところ故コーホ氏が事あるごとに騒いで
がんがった功績(インターナショナル発売より日本が少し前)もあろうか。
そりゃ春祭を知っていれば誰だって知っている知名度だよ。そんな事を言ってるわけではない。 有名だからCDで聴かれ続けてる指揮者もいるなか、
そうでもない人も、いたという。 いまは英語圏の人が100%「ふりっちゃい」
と発音するかどうか
そんだけやがな阿保らし >>205
ピエール・モントゥーという指揮者の存在が日本で認知されたのはいつごろか、という論争です。 >>210
違う。CD化されるまでの間はどうなん? >>212
こいつにとってはCD化が全ての基準らしい
まあ本当に何も知らないんだな >>213
まあ文字情報だけの世界でせいぜいがんがってよ
ネットという井戸の中でね >>205
言い合いというか、話の噛み合わない人が一人で連投してる感じだな
フリッチャイにしてもモントゥーにしても、日本語で定着した表記なんだから、
違う書き方されたら読者は分かりにくくて困る、という話なのだが
クラフトの著書なり、他のストラヴィンスキーの話題なりに戻そう さすがにモントゥー表記は間違ってないのでは?
CD最盛期にアナログも復活して
その中のデッカ、RCA盤の有名タイトル、もとからそれらオリジナル盤も高価。
にしてもフィリップス音源CD5枚はそこには含まれてない。
話をグチャグチャにして悪かったね
そんなつもりではなかったんだが 「モントゥー」は日本語で表記が固まってる有名な指揮者のただの一例だよ
そこにそうやって「オリジナル盤は高価」とか全然違う話題を出すから、話が噛み合わないしグチャグチャになる
多少話が広がることはあるにしても、本題そっちのけで雑多な話題を混ぜてくるのはやめてほしい
ではストラヴィンスキーの話題に戻りましょう ラヴェルと白鳥湖、ドビュッシーは
シルバーラインでも出てたからブラ2のみか
フリクセイほどではないが
ブレーズ、アッバード表記も時代による。 翻訳出版界のことはよく知らないが、この手の訳本て下訳使ってるのが多いんじゃね?
訳者として名前出してる人はフリッチャイを知ってたが下訳のチェック漏れ、ってことも
ありそう。もちろん商品として本を出す以上版元の編集者の責任もあるわけだが。 日本語表記がレコード会社か音友による
決定事項か実際どうなのか知らないが
NHKでも少し違う場合もある。
ヨーロッパ諸国も地方により発音は違うようだし人名となると、さらになんじゃね? また雑多な方向にいっちゃうが
実際、初来日時のインタビューで
失礼がないよう直接本人に訊ねている
なんて恒例だよね。
アーノンクールみたいにある程度
定着してる人だと多少違っても
その後、表記が改まったりしないことのほうが多いし。 >>219
それだと訳者が訳文読んでないことになる
擁護のしすぎで墓穴掘ったな ロバート・クラフトのストラヴィンスキー録音が
naxosから全部出切らないで終了した事のほうが痛いけどね。
どっちかいうと。 録音済み小品の残はCDにしたら1枚とか
そんな程度やし
旧盤とナクソス盤は微妙にダブる組み合わせになってるからさらにたちが悪い。 >>222
擁護なんてしてないよ。逆だ。
下訳を使っても良いが、訳者を名乗る以上チェックする責任が当然ある。 naxosよりCBSのクラフトの方が遥かに生き生きしている
てか、なんでCBSをお払い箱になったんだろう お払い箱というよりCBSの時は
ストラヴィンスキーの単なる助手扱いだったんじゃねーのかな? 単なる助手どころかヴェーベルンとヴァレーズの全集作って
ベルクやシェーンベルクも大量に録音してるわけだが それは知らなかった
CD化されてたっけ?
CBSのウェーベルン箱はブーレーズの印象が強いな。
新ウィーン楽派はストラヴィンスキーより量的に少ないのでは クラフトが一手に引き受けていた録音をブレーズが丸々横取りした感じだね >>230
ブーレーズのハルサイ旧録(フランスのマイナー、日本では日コロから出てる)
がブレークしたもんだからCBSが必死になって契約したんだろうね。
クラフトってやはりストラヴィンスキー助手のような存在だと思われてたに
違いない。
90年代からのコッホintやMMから出た新録音が
まとめてnaxosが揃えて出ると思ってただけに残念すぎる結果に。
シェーンベルクの録音は充実だが。 スターウォーズを久々に観たら、
BGMにホルストはもちろんのこと、春祭のパクリまであるね
これ著作権大丈夫か? 他にもドボルザークとかラフマニノフ、
リヒャルト、あらゆるクラシック曲を
引用してると公言してるよ
てか旧3部作をリメークした時の
それぞれ2枚組のサントラアルバムに
書いてある。 ウィリアムズが公言してるのか
しかしクレジットを観るとオーケストレーションも他人任せ
ハルサイ第二部冒頭のパクリは原曲のアレンジをわずかに変えただけだから
つまり何にもしてないに等しい… ウィリアムズのファンが擁護してるわけか
しかしここはストラヴィンスキーのスレッドなんでな 三流作曲家の方がえてして稼ぐからな
それが仮にパクリによる利益だとすると気分のいいものではない 春の祭典第二部冒頭を書き写せば金が稼げるのか
楽な商売だな 初代のゴジラの音楽も、なんだか春の祭典っぽいと思うのですが、
皆さんはどうおもわれますか? 実際伊福部はラヴェルが好きだったそうだが
貰ってきてるのかどうかは不明
また伊福部作品の中でゴジラが初出でもない
思うに>>247は変拍子的な不安定感を言ってるのではなかろうか?
俺的にはマッドマックスの劇伴が結構ハルサイ感あるな
てか明らかに頂いてそうなレベルw
怒りのなんちゃらでなくて第一作ね
2もその流れではあるかな 春の祭典って、もしストラヴィンスキー本人が楽譜ソフトでポチポチ作ったなら
作曲・記譜作業がかなり効率化できる曲ですよね
ヘンな想像ですいませんw いや、ピアノで作ったからこそああいうノリが生まれたと思うよ
ピアノが弾けることは非常に大事だ ダンバートンオークスはルビモフが録音してる
2台ピアノ版の方が
なにやらポストミニマリズムな曲を
聴いてる感覚におちいる💙 アポロが好きでよく聴いている
デュトワ、シャイー、カラヤン、小澤、ムラヴィンスキー、マリナーは良かった
サロネン、バシュメット、マルケヴィッチは今一だった 片腕必殺剣という1967年の香港映画を見ているとバトルシーンで春の祭典が使われていた 今朝、NHKFMで聴いたストラヴィンスキーの2曲、
「ハ長の交響曲」と「エボニーコンチェルト」
この人の古典主義的作品は枯れ木みたいにカサカサで潤いがない。
「エボニー」は黒檀の意味だが、枯れ枝みたいで「黒檀」とは遠い
感じだ 「エボニーコンチェルト」はウディ―・ハーマンが本当に気に
いったか疑問ね〜
FMでは、その後でガーシュインのPf協奏曲が放送された。
こっちはジャズのイディオムを活かして、とても良い曲よ〜
遊び性もあるし、やっぱりジャズを活かした曲はアメリカで
育った人は違うわ >>263
エボニーは自作自演のが良いよ。サックスセクションはスウィングしちゃってるし、ドロドロした感じが何とも言えない。 >>263
誰の演奏?
その2曲なら俺の推しはアシュケナージ
感傷・甘味を極力排除したのがストラヴィンスキーだから>>263みたいな感想が
出てくるのはある意味当然かと。
ストラヴィンスキーに限らずバルトークでもヒンデミットでも、音楽に何を求めるかで
どの曲を支持するかが大きく変わるような… >感傷・甘味を極力排除したのがストラヴィンスキー
でも塩味・辛味・旨味はたっぷりあるぜ
本人の演奏だと >音楽は何も表現しない。
と言ったストラヴィンスキーは「表現」とは何か説明してないので
賛同も反対もしようがないんだよね ストラヴィンスキーの自伝読んだ。
わきの下に手の平当ててプッププップ音出す練習してる。 結局ストラヴィンスキーの「表現」がいかなるものか
説明できる人はここには居ないというお話でした ハンスリックの音楽美学を読めばストラヴィンスキーの言っていることがわかる。
俺も同意見。
何も表現しない。 「春の祭典」という音楽は 春の祭典を表現しているとおもってた 曲を書いて音を出すのは表現行為だな、
で、家の猫がピアノの鍵盤上で歩くのは表現行為ではない、
あれは歩いているだけだ。運動だ。
音楽の曲っつうのは、作曲家が素描して、演奏家がそれを音にする
共同作業による表現行為だ、とまぁ・・
こんな風に理解してる。 「花火」なんて花火そのものの描写があるけど花火を表現してないのか
…禅問答だな、こりゃ >>287
んで、この人の場合は、音楽はピアノ鍵盤上を歩く猫の行為と
同じで、演奏している曲 (つまり”音楽”)は演奏家の指の
運動とか、腕や足の運動、声楽家の舌や喉や唇の運動以外の何物
でもないと思っておる。 花火を知っているから花火になる。
聴き手は作曲家の伝記的事項などを知っているから、喜びとか悲しみを音楽から勝手に感じる。
ここにいる名無しさんが、ある感情をもって作曲し、譜面に落とし込む。
その楽譜を100年後の誰かさんが偶然スコアを見つけて演奏する。
「ある感情」は演奏者、聴きてに届くか?
楽譜に記されている音符は、音符以外の何物でもない。
音符「ある感情」をキャリーすることはできない。
音楽は物理的な振動の音だけで聴き手の感情を揺さぶる。
聴き手はその物理的な音の振動を勝手に、自分の経験、知識に基づいて解釈しようと、音とのアイデンティティを求めたがる。
「ああ、この音楽は…」 >>289
「花火」で 花火を表現しようとしたのは若気の至り 忘れてくれ
作風や言動がコロコロかわるのが俺だってことを思い出してくれ >音楽は何も表現しない。
>楽譜に記されている音符は、音符以外の何物でもない。
そう信じているなら、バルトークやヒンデミットのように曲名をつけるべきだな
全部「なんとかのための音楽」でいい
そうすれば無駄な誤解や連想を招くこともない
ところがストラヴィンスキーには具体名が多い
言うこととすることが矛盾しているね ただの音でしかない楽器演奏に標題のイメージを重ねるなんて愚の骨頂 ただの音でしかないと信じているものにわざわざ標題を付けるのが愚の骨頂なんだよ >>293
具体名があるのは歌詞のある曲か舞台作品だろ 器楽曲にもあるわけだが…
例えば「バラライカ」とか「ナポリターナ」という題を見て
その言葉が連想させるイメージを重ねるな!と言われてもね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています