征夷大将軍っていつから源氏だけになったの?
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いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないってなったの?
鎌倉時代にも摂家から将軍を迎えてるし、
信長を将軍につけようとしたりしてるし。
いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないっていう
不文律ができたのか誰か教えて。 清和源氏以外に平氏や藤原氏、そして皇族も就任しており、征夷大将軍になれるのは源氏に限られている訳ではない。
また征夷大将軍イコール源氏長者のような印象があるが、これは足利義満以降の事である。
織田信長が征夷大将軍にならなかったことについては、三職推任問題のように議論が続けられており定説がある訳ではないが、
少なくとも俗説のように「織田家が平氏の系図を称していたため征夷大将軍にはなれなかった」のではないことは明白である。
豊臣秀吉についての俗説では、征夷大将軍となるために源氏である足利義昭の養子になることを執拗に計ったが失敗したため、
近衛家の養子となって関白に任ぜられたとされる。
しかし実際には、秀吉が自ら征夷大将軍就任を断っている事実がある。
また朝廷にとって関白就任の方が征夷大将軍就任よりも遥かに抵抗感が強く、秀吉はむしろ征夷大将軍就任よりも困難である関白就任を実現させている立場である。
徳川家康についての俗説では、征夷大将軍に任命されるに当たって、系図を偽造して清和源氏と称したとされる。
しかしながら実際の家康の目的は、当時称していた藤原氏を捨てることで豊臣政権からの独立を明確にするため(上述の通り、豊臣秀吉は関白就任にあたって一時藤原氏を称している)である。
その際に家康が源氏を称したのは、かつて織田家が平氏を称していたためそれを避けたからである。
以上が当を得た解釈であり、征夷大将軍就任に巷間で説かれるような制約が存在したとは考えにくく、
源氏でなければ征夷大将軍になれないという俗説は事実に反し誤りであり、源平交代思想も然りである。
もし北条氏が平氏でなく源氏の支流だったとしても執権のまま? 家康の場合、祖父の清康の時から新田流源氏(世良田)を称しているという
いきさつも大きいんじゃないかな。世良田と得川は同族だし。 頼朝は伊豆〜鎌倉拠点、尊氏は鎌倉の御家人、家康は関東の太守だったけど、
東国を制してない秀吉が征夷大将軍はないだろ。
信長もそうか。
秀吉は中央を押さえたからすばやく関白になっておくほうがよかった。
家康が将軍になることはかまわないが、源氏を私称するのはなぁ。
>>8
家綱が死んだときにね。
将軍はもはや天皇同様の名誉職で
有力譜代大名が執権や管領のようになって政治を代行することが模索されたが
結局実現しなかった。 >>6
家康の親父の代には藤原姓だったんじゃなかったっけ。
家康も初期には藤原姓を名乗ってるんだよな。 日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→義兼→義氏→のちに足利尊氏
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→義清→義実→細川義李(初代細川氏)
・”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆関ヶ原の戦い◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平 >>10
家康の「藤原」は、近衛前久に三河守任官の取り次ぎを頼んだ都合からでしょう?
そもそもが、「得川の惣領が二筋に分かれていて、片方が藤姓になって云々」という
無理やりな理屈で「藤原家康」になったということだし。 律令的には根拠がないけど、足利義満が征夷大将軍と共に
源氏長者も補任されたことが、慣例化したからでは?
そもそも、摂政も元々は皇族しかなれなかったのが
いつの間にか藤氏しかなれないと言う慣例ができたわけだし。
徳川家康が足利義満と同じように源氏長者になったことから
征夷大将軍=源氏の慣例を確定化させたわけじゃないかな?
ただ、あくまでも「慣例」なので、例外もありえるわけで
それが豊臣家の関白世襲化や江戸幕府の宮将軍擁立あるわけで。
>>15
1597年に足利義昭が没し、征夷大将軍と源氏氏長者就任に文句を言う人がいなくなったため、
その隙間に家康が入り込んだだけの気がするなあ。
義昭が生きていればその養子になるとか面倒な手続きが必要だった気もするが。
秀吉は近衛家の養子になるなど関白就任に当たって面倒な手続きを取ったが、
家康は誰の養子になることもなく偽の系図を源氏にくっつけるだけで済んだ。
摂政に関しては藤原氏以前に就任した例が一つしかなく(伝説の聖徳太子)、
律令に何の規定もないので、関白同様、ほぼ平安時代に藤原氏が始めた役職に近い気が。
摂政が法的根拠を持つにいたったのは明治時代の皇室典範が初めてで、
このときに初めて皇族限定(皇后や皇太子など)の役職になった。
その後、昭和天皇が皇太子時代に就任した例がある。 >>15-16
ちょっと待てよ。
岡野公彦によれば、足利義満以降も
久我家が源氏長者になってるだろ。足利義昭は
源氏長者にはなっていない。 >>3
多聞院英俊の日記は、同時代史料なんだが、いまいち評価されてないな。
秀吉が正親町帝からの将軍任官提示を断ったと書いているんだがな。 秀吉が近衛家の養子になったことからの派生なのかな。
正直、秀吉がどうしても征夷大将軍になりたいのならば足利義昭の養子にならなくても、
徳川家康みたいに出鱈目系図を用意して源氏を自称すれば済むこと。
近衛前久はこの頃明智光秀に協力したとの噂を立てられ隠居に追い込まれていたが、
娘の近衛前子を秀吉が養女として代わりに入内させてあげるなど、
状況打開のために前久のほうから言い出した可能性すらある。
前久唯一の男子には子がなく、近衛前子が産んだ後陽成天皇の皇子が近衛家を継いでいる。 関白になった後に征夷大将軍になる必要てある?
義昭は、88年まで将軍だったし。
仮に征夷大将軍になっても、秀頼の運命は変わらんでしょ。 鎮西大将軍ではダメなのか?
鎌倉、室町の前例にもとづいて征夷大将軍でないといかんのか 征夷大将軍
摂政
関白
太政大臣
偉さ(格式)の序列は? 摂政=関白>太政大臣>征夷大将軍
征夷大将軍自体はそれほど高い官職ではない。
家康は足利義満などの例にならって太政大臣を兼任することで
より高い地位につこうとした(征夷大将軍を辞した後も太政大臣だけを称している)。
江戸時代の将軍でも将軍就任と同時につくのは内大臣じゃなかったか。
すべての将軍が太政大臣を兼任していたわけではない。 >>23
家康の太政大臣任官は死の直前だ。実質上、贈官と変わらない 家康は死の一月前に太政大臣になってるね。
当然、将軍職を譲って大御所だった。
数年太政大臣であったのは秀忠だけ。
他の将軍は太政大臣にまでのぼってすらない。
朝廷に対し、もっとも威勢があったのは秀忠かもね。 >>31
本来は坂上氏だが、征夷大将軍任官前に源氏に改姓してる。それが慣例だったんだな。 >>32
坂上田村麻呂が源氏になったことは一度もない。
>>30
坂上田村麻呂は清和天皇よりもずっと以前の人。 最初に源姓を名乗ったのは嵯峨天皇の子供。
坂上田村麻呂が征夷大将軍のころ、嵯峨天皇はまだ10歳くらい。 >>34
田村麻呂は嵯峨天皇の養子になって源姓を下賜されたんだ。だから、征夷大将軍になれたんだ。 征夷大将軍自体には、摂関同様官職としての格があるわけじゃないんで、
単にその時々の力関係で上下が変わる。
室町時代の摂関は、将軍に伺候し裾を取ったり、将軍の機嫌次第で解官、
追放されたりという立場にあったから、公家社会も含め
将軍>摂関
という序列だね。 征夷大将軍はそもそも令外の官、いわば称号みたいなもの。
あ、それとどこかで話題になっていたが、
息長はソナ(ヌ)カが元の音、イキナガとは学者と称する方が勝手に言っているだけ。
歴代征夷大将軍
大伴弟麻呂→坂上田村麻呂→文屋綿麻呂
そもそも源氏が征夷大将軍になったのって、源頼朝が初めてなんだよな。 >>37
将軍自体の序列は摂関>将軍だよ。
将軍だけじゃ序列が低いので左大臣や右大臣などを兼務して
公家との序列のつりあいを合わせているんじゃないか? 源氏長者と源氏の征夷代将軍って全く別の物なんだが・・・
源でも足利でも源氏長者に付かない征夷大将軍っていっぱいいる 武家の棟梁が征夷代将軍
公家の棟梁が源氏長者
信長は天皇を越えようとしたが
家康は天皇の下のトップを目指したんじゃないか? >>42
そもそもどちらにも序列を規定する根拠が存在していないんだよ。
で、宰相の将軍でも、平気で大臣や摂関を伺候させたり首を飛ばし
ていたのが、室町以降。 >>45
それはみんなわかっているだろうよ。
事実上の権力者ではなく、制度上の序列の話をしているんだろう。
現在のイギリスに似ているかもな。
イギリスでは君主の国王は別にして、現在でも組織としては内閣より
枢密院の方が上位だし、序列も核ボタンを持っている首相は大法官や
カンタベリー大主教よりも下位。 信長が天皇を超えるためには、海外進出が必要では?
海外領土も含めた大日本帝国のようなものを新たに建国し皇帝を名乗る。
天皇は山城の国の大神主のような存在に。 国内の統一さえできない奴に、
どうやって海外進出ができるのか。 いや、秀吉は唐入りのあと天皇を北京に遷すつもりじゃなかったかな 家康が藤原から源に変えたから、将軍は源氏ってイメージになったのでは?
でも、家康は将軍より源氏長者を見据えて源氏に名乗りを変えた気がする。 山名豊国を交代寄合に取り立てたのも、新田源氏だったから? 源氏であればいいってもんではないな。
清和源氏正嫡といえば頼光の系統になるんだろうが、
将軍はやはり鎮守府将軍だった頼信〜八幡太郎〜頼朝の武門の系譜。
実際、武家政治の仕組みを頼朝が確立したこともあるが。
百歩譲って、義為よりわかれた新田、足利。
結局は足利と新田得川(実際は偽の徳川)が将軍となっている。
佐竹、武田あたりだと弱い。
八巻正治さん
山上の説教は、人に自分が不完全で
有る事を自覚させる事が目的なんだそうだ。
例えば、敵を愛しなさい、と言う戒めは
人が敵を愛せない不完全な存在だと自覚させる
為の言葉だそうだ。
愛についての説明は、有ったけど
敵についての説明は、無かったね。
八巻正治さんよ、アンタにとっての敵とは誰かね?
敵を愛せない自分を愛してくれる神の愛が
無条件の慰めなのだそうだが。
八巻正治さん、わかるかな?
問題は、敵を愛せない事より
敵をつくってしまう人間に問題が有るんじゃないか。
敵を作らないようにすれば
敵を愛する必要は無いんじゃないか?
コレは簡単、信長と秀吉はイエズス会の手下及び協力者だったから。
南蛮人と連帯してた人間が征夷は無い。
一方の家康は明らかに反イルミナティであり征夷大将軍が相応しい。 >>53
初代山名氏 山名義範は、実は三河生まれだからです
矢田義清(山名義範の実父)
・愛知県西尾市上矢田に本拠を構え、矢田義清と号する
・矢田郷が皇嘉門院領だった縁で、新田義重の娘を室にする
・水島の戦いで戦死、義範は祖父新田義重の養子となり初代山名氏に
蛇足だが、兄弟の義実は、豊田の広沢に移り住んで広沢義実に、義実の息子義季は岡崎の細川に移り住んで初代細川氏に
>>59
江戸幕府歴代将軍は第2代徳川秀忠一人を除いて全員
源氏長者に任命されている。
徳川慶喜の辞官納地まで、慶喜が源氏長者だったはず。
よって、幕末の源氏長者は徳川慶喜ということになる。
ちなみに慶喜が官職を辞した直後、一時期、
源氏で最上位となった久我建通が源氏長者だったともいうが
史料には書かれておらず不明らしい。 秀吉が将軍にならなかったのは
単に公家政権を作りたかったからでは?
頼朝以来の軍事政権幕府を自分の代で廃止して
それ以前の清盛のような存在になりたかったんじゃ 時代の端境期には、一時的に朝廷を中心とした政体が現れる。
院政→清盛政権→鎌倉→建武新政→室町→秀吉関白政権→江戸→明治太政官政 >>57
信長は兎も角秀吉がイエズス会の手下なら
「サン・フェリペ号事件」は起きないと思うのだがw >>68
坂上田村麻呂や文屋綿麻呂が征夷大将軍になってるんだから
関係ないだろ >>70
平氏を名乗っていた織田信長に対して三職推任、
すなわち征夷大将軍にならないかと朝廷が持ちかけているから
足利以降も問題なかった 家康が三河守への任官を望んだ時、先例から氏を源から藤原に変えたと何かで読んだ
だから、任官するには同じ氏の者や先祖が任官した先例は必要だったのではないでしょうか?
東京人ですが、今日は、大津市(膳所・石山)を周ってきました。
今井兼平の墓、義仲寺(木曽義仲や松尾芭蕉の墓所)、和田神社(石治少を繋いだ伝えのある大銀杏)などです。
楽しかったです。iPadできれいな写真も撮れました。 いや、そうじゃないんだよな。
そもいわゆる源氏史観、平氏史観ってのも実在の歴史と違う。
むしろ多分足利あたりが作り始めた歪曲史観
そして 歴史上常に無教養で水準低かった西日本の連中 (3けつともいうなw)
が権威づけてうそついただけで、
そもそも歴史学上10〜15世紀あたりの資料上の歴史もかなり懇意的なうそが相当入ってるし、
そもそも事実関係資料ではない。空想資料などを基にしてるから、相当なうそがある。
そもそも歴史でも歴史学でもない。ぶっちゃけ10〜15世紀は相当懇意的なうそ(今ではわかってるが)
が織り交ぜられたが、実は古代史並み、ないし以上に歴史にうそがある。
かつその都合で、
無分度∞無教養∞田舎もの≠フ西日本の酸欠が権威づけのためにうそついちゃったのが大きい。 征夷大将軍職そのものが本来大した役職じゃないのに、
なぜ天下人の代名詞のようになったのか、
教えてごじゃれ 戦時下の非常事態の時に
軍の最高司令官として
天皇の考えを逐一聞かなくても良いという職権を
過大解釈したから
>>76
電話もメールもないような時代に長距離遠征を行えば
遠征軍の最高司令官がいちいち朝廷のお伺いを立てながら戦うことは物理的に不可能である
だから遠征軍の最高司令官たる征夷大将軍は出陣すれば朝廷に相談せず自分の意思だけで行動できる特権が与えられる
そこで征夷大将軍になって今出陣中ですということにすれば何でも思いのままの事実上の独立政権が作れるから天下人の代名詞となった
よく比較される関白や太政大臣にはこのような特権は存在しない >>76
頼朝が征夷大将軍という名前の響きに漬かれたからとしか言いようがない
ただの将軍だけより、ずっとサマになるからな
別に征夷大将軍にならなくても既に政権の体をなしていたし 違うよ
義仲が征東大将軍になったからだよ
征東ってのは頼朝も含めた東を征伐する事だからな 家康って、上杉謙信みたいに
さっさと吉良の養子にでもなっておけば、後世
「偽源氏乙www」って煽られずに済んだのにな・・・・
家康の残した業績は多大で、正直、信長や秀吉よりもずっと偉大な人物だが
この点だけは、残念に思う。 >>82家康の悪いイメージは維新政府によってつくらたものだから何やっても悪く言われたと思う 信康なら母は源氏だな。
信康が跡継ぎになればまだマシだった。 桓武天皇(平氏)→清和天皇(源氏)→
平将門(平氏)→源頼義・義家(源氏)→
平清盛(平氏)→源頼朝(源氏)→ 松平信光の嫁は一色詮範の娘
松平氏は貴種だと何回ゆーたらわかるんや
養子縁組でもない限り、母系で貴種でも貴種とは見なされない。 家康が血統マニアなのは、貴種をサンプル的に収集してることから証明済み。
その上、謙信という著名な実例が同時代にあったわけだから、
同様に源氏の血統を「正統に」乗っ取って、正真正銘の源氏として血筋を残したい、
という考えも、もちろんあっただろう。
(源氏を詐称することで後世を騙せるとは、さすがに全く考えていなかったに違いない。
後世どころか、同時代人でさえ、徳川家が実は源氏などでないことはみんな知っていたはずだから)
吉良、今川はもちろん、足利、斯波の名をもつ家も断絶すれすれで沢山残っていたから、
やろうとさえ思えば簡単な話だったのは確実。
では、なぜそれをしなかったか。
恐らく家康の場合、自分の父祖への恩義、というのがあったのではないかと思う。
例えば吉良に養子に入って吉良家康になった場合には、松平家自体はただの土豪にすぎず、
自分の父や、尊敬していたであろう祖父は、田舎の、どこの馬の骨ともわからぬ小領主に過ぎないわけだからね。
父祖までをも格上げするためには、自分が養子に行ってしまってはダメで、
松平家自体を無理やり格上げする他になかったのだろう。 一色詮範
足助重範
楠木正成
家康は信長(過大評価の田舎猿)と比べたら貴種ですなw
松平信光つーのは凄いな、同時期の三河権力者と言ったら足利義満、細川頼之、斯波義将なんだからw
家康の先祖は、世良田の願人坊主あたり、ってのは
本当だろうか。 >>85
国津神族→天津神族→
出雲→百済・温羅→
邪馬台国→出雲→
大伴氏→新羅→
大和朝廷・吉備真備(吉備氏)→藤原仲麿=恵美押勝(藤原氏)→
嵯峨天皇(源氏)→中臣氏(藤原氏)→
桓武天皇(平氏)→清和天皇(源氏)→
平将門(平氏)→源護(源氏)→
孝元天皇(安倍氏)→源頼義・義家(源氏)→
平清盛(平氏)→源頼朝(源氏)→ 源氏がカリスマ性を有したのは事実。ただ、源氏将軍に絶対性はない。
源氏が絶対というのなら義仲が征夷大将軍を欲したとき、前例がないと一蹴されなかったし、
時代が下って藤原氏や宮将軍が誕生したり、信長に三職推任の話もでなかった。
足利が源氏将軍神話を作り出した説は一票投ずる。
ただどこまで作為的なのかは不明。やはり、摂家将軍の時代でさえ、頼朝連枝の
阿野氏や吉見氏は滅亡の憂き目を見ているし、甲斐源氏ながら門葉の平賀朝雅は殺害されているし。
前例主義がものをいう日本で、一度、源氏から将軍を出したという前例はやはり重いんだろう。
太平記の時代、白河結城の結城親光あたりが武門の棟梁=源氏という風潮に反発しているという事績を、歴史物シリーズでよんだ事ある。 >>97平氏も源氏も天皇の臣下、桓武天皇から始まる。 実際のところ>>91が何をいいたいのかサッパリわからんな >>98
桓武天皇自身は源氏でも平氏でもないだろってことだよ
嵯峨天皇(源氏)とか清和天皇(源氏)も
>>101
順序がめちゃくちゃ
桓武天皇の息子の嵯峨天皇が先になってるw
>>102
あっそれねW
最初の源氏の源融を基準にして、将門の乱の際の平氏が融死後だから
融=光源氏・・後に、平氏が桓武平氏名乗ったのかと思ってねW
違うのん?
融の源姓名乗りよりも、桓武平氏名乗りの方が早かったのけっ? 桓武平氏は、桓武天皇皇子より数代後に、平氏の名乗りと聞いてたし、清和源氏も、清和天皇から数世代後に名乗りだからね。
皇子でありながら、源氏と最初に源姓を賜り、名乗った光源氏=源融に、憧れ、触発されて、桓武平氏や清和源氏と自ら名乗ったと認識してるがね。 清和皇子筋源氏・桓武皇子筋平氏共に共通していたのは、武士が朝廷権威を支配しようとした歴史的経緯・・。 春休みだからか知らんけど
低能キチガイが各スレに湧いているよな いや、ここで暴れてるのは松浦厨とか松浦バカとか呼ばれている御仁で自称オサーン
春休みになる以前から源氏や安倍氏に関係するスレでとんちんかんなカキコをしてるよ 松浦厨だけじゃあ無いのに、イメージ貼り付けて揶揄とかそっちの方が幼稚な行為だぞW 足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0 ■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の2つの城(細川御前田城、細川城山城)
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)
【岡崎市西部、豊田市南部地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城) 松浦厨なんて知らんし
低能キチガイは低能キチガイだろ
目障りなことに変わりはない >>113
本人も、そんな知識ないと、認めてレスしてるのに、ダメダシ繰り返すお前が、一番・・ 知識がないことと嘘を平気で書くことは違うのだがな
それすらも区別がつかないのか? >>116
知識がないから間違った情報を判別できない、ということだろう
嘘を嘘と見抜けない(ry) >>103
桓武平氏=825年、桓武天皇の孫王たちが平氏を受けて臣籍降下したのに始まる
嵯峨源氏=814年、嵯峨天皇の皇子たちが源氏を受けて臣籍降下したのに始まる
微妙に桓武平氏より嵯峨源氏のほうが桓武平氏よりも成立が早い
ちなみに天皇の子孫で臣籍降下した者は源氏か平氏ばかりというわけではなく
桓武天皇の皇子たちには良岑姓、長岡姓をもらって臣籍降下した者もいる >>123でうれしそうにレス番つけているが
そのなかで>>122で指摘された源氏と平氏の賜姓順に言及しているのは
どれだけあるのかな?
ほんとにアホだねえ >>127
どおあっても、ブーメラン頭に刺さって瀕死でも、上から目線の真正Sを貫きたいんだね?
はいはいドSですね・・彼方は、立派なドSです。
これでいいか? >>127
>そのなかで>>122で指摘された源氏と平氏の賜姓順に言及しているのは
どれだけあるのかな?
識別アンカー付けずに、連続でID表示すらない板で揶揄ってる方が自ら事故してるだけ。
まぁ・・慣れてる奴は、理解あるし、それ俺のアンカーでこのレスへのレスと、訂正レスするだろうしね。
慣れた奴なら、一々、騒がんよ。
2ちゃんでは、良くある事・・ 思考回路が飛躍してますよ
あなたが喜んでアンカーつけてるレスはあなたをやゆしてるであろうことは明らかだけど
レスの内容からはやゆしてる対象が源姓と平姓の賜姓順のことだとは特定できません
実際にあなたも賜姓順を確認した上で書き込んだものではないことを白状している訳で
たまたまあて推量が史実と一致したに過ぎないとしか見えません
あなたの書き込み自体がほかにもツッコミどころが満載なものでして
そんな状況で鬼の首を取ったごとくはしゃがれても痛々しいだけですよ >>1
本題に戻すと
近現代の後付けじゃね?
江戸時代の文献で
「征夷大将軍は源氏に限る」
って記されているものはあるのかな?
教えてエロいひと! 鎮守府将軍が清和源氏だけ大量にいるからじゃねーの?
そんで頼朝で確定みたいなさ。
それに比べて藤原、平氏は臨時に適任者がいればみたいな扱い? >>133
逆に言うと、京の公家からすれば、辺境の蝦夷を狩ってる野蛮な田舎侍の頭に過ぎないのだろうがね・・。 足利尊氏以降だろ
その前は護良親王、守邦親王とか親王将軍が続いてるし 頼朝が征夷大将軍になりたかった理由って、奥州藤原氏討伐のためかと思っていた。
>>135
しかし、朝廷が信長に対して将軍就任を打診したという話もあるぞ >>136
もう藤原氏が退治された後だから、別にならなくてもよかった
ただ義家がなれなかったので、その悲願を果たそうと思っただけ
だが、それが結果的に武家棟梁の政権開始と後世に認識されるようになっただけ >>137
信長とかっ・・
江戸時代手前の武将出して来て・・・何なんだか・・? 早稲田の校歌ってイェール大学のパクリなんだって?
本当なら恥ずかしい事だね。 >>137
さんしきのうちからなんでも選べってやつだろ?
信長は平氏を自称してたからな。 まぁ要するに信長の段階では
平姓の者が将軍になってかまわないと
朝廷が判断したってことだわな
果たして将軍=源氏なんて不文律は存在していたのか? 平家も北条も織田もあれだけの権力を握りながら将軍になってないからな 北条は出自が低いから、権威を持つまでの時間が必要だった。 >>146
織田は傀儡将軍を自ら追い出してるから
さすがにそんなもんなる気は更々なかっただろう >>143
ないだろ。徳川家綱後継問題で、宮将軍擁立計画が
出たぐらいだから。 じゃあ近代以降の後付けによるってことでFA?
まるで都市伝説だね
誰が最初に言い出したのかなぁ >>151
天皇家は清和源氏の元の桓武平氏の本家だからOK? >>152
磯野家のマスオさん状態だよな
もっとも磯野家でのカツオはいないけど >>152
成人して用済みになったら京都に返されるから >>152
源氏より藤原摂関家のほうが格式が高かったからだと言われている
幕府が担ぐだけの将軍なら格式はなるべく高いほうがいい >>156
生まれたところで年頃になったら処分されて終わりじゃね? 清和源氏以外の源氏を担ぐという発想はなかったのだろうか? 別に源氏にこだわる理由がない。
というか源氏にはこだわりたくないだろw
足利やら新田がいるんだから源氏にこだわるならその辺を無視できなくなりかねん。
北条としては武門の将軍任官は絶対避けなきゃならんわけで。 ユ籠眥?,ヨアスモヒオフ?サハヨサマ゙ヤエハマオ」ネホコテタイ,オツエィスォセ?シメハヌマ?ヒオ,ヨサモミヤエハマイナモミラハクウヨホネユアセ >>159
後鳥羽上皇の乳母で権力のあった卿二位局(藤原兼子)が
後鳥羽の皇子を将軍に迎えてはどうかと北条政子に持ちかけたらしい(愚管抄)。
兼子が持ちかけたのは自分が養子にしていた頼仁親王(源実朝正室の甥)。
しかし、当の後鳥羽上皇が「日本を二分する」と反対しておじゃん。
親王がダメならということで摂関家からもらうことにした。
最初から天皇家→摂関家と朝廷からもらうことばかり考えていたみたいだね。
源氏のルーツは大阪
日本が天皇を中心にしたのが難波京(仁徳天皇などの皇居)(現在の大阪市)で行われた大化の改新 それは大化元年〜平成24年の今も続いている 結果論としてだが足利尊氏以降だな。
それ以降は源氏以外で征夷大将軍になっている氏族はいない。
平清盛が実権掌握して実質上の武家政権が確率した以降、
奇しくも平氏(系)と源氏(系)が交代で実権や政権を持ち回り担当。
>>165
宗良親王は?
李花集の詞書に「征夷将軍の宣旨など給はりしも」とあるということだけど。
もっとも、同じ自選歌集でも新葉和歌集では征東将軍になっているという
話だそうだが。(「皇子たちの南北朝」)
どちらも同じような時期に編まれているようだから、親王自身は対して区別
を重視していなかったんだろうね。 コ川将軍家の正史である「徳川実紀」に
将軍家綱が死んだあと大老酒井忠清が有栖川宮家から幸仁親王を将軍に迎えようとしたが
堀田正俊らの反対で実現しなかったと書かれてある >>175
家門に制限あるのは、臣下での話であって、皇族は基本、
どの官職にも就けるんじゃない?(摂関でも大臣でも)
>>165
厳密に言えば、徳川幕府以降だろう。
徳川家康が足利義満の征夷大将軍、源氏長者、淳和奨学院両別当の補任を
先例として、以後慣例化と言うことだろう。(秀忠の例外があるが) >>179
お前こそ幕府なんてのは江戸中期以降の呼称であるって事を知らなかっただろ? >征夷大将軍≒幕府 だと勘違いしてるやつ
などと下らん馬鹿げた事で突っ込む奴の方がアホすぎ なぜ秀吉は征夷大将軍になれなかったORならなかったのか? >>183
関白になって公家と武家の融合政権を作ろうと思ったから
征夷大将軍って武家のトップでしかないんだよね 摂関も公家のトップでしかないけど。
「鎌倉幕府」成立から秀吉までの間に、摂関が公武のトップになった
時期はないね。 まあ秀吉が征夷大将軍になりかったってのは林羅山の嘘だから >>185
将軍不在時には摂関がトップでしょ
摂関不在でも将軍が公家のトップに立つことはないが >>188
将軍が京にいなかったときやら空位だったときやらといろいろ
あるが、摂関が武家のトップに立ったことなどないね。
摂関が「武命に違う」等々の理由で追放、解官されたりといった
事例はあるけど。 >>189
「室町殿」は極官が太政大臣
摂関になったことはなく公家のトップに立ったことはないよ >>191
豊臣秀吉は摂関でありながら武家のトップだったじゃん >>192
「室町殿」の権威そのものが摂関を超越していたということだろ?
摂関が無条件にトップでという前提を立てているけど、そもそも
そういう官位を超越した形での摂関の権威そのものが、実力と
伝統以外に裏付けをもたないもの。
将軍家・武家の力と財力に圧倒され、摂関自身が実質的に家
礼として伺候する状態であり、将軍家の意に反するものは公武
問わず解官・追放される状態だった以上、摂関も含めた公家の
上に立っていたと評せざるを得ないだろうね。 >>194
「権威」で話をするなら江戸時代の将軍は摂関はおろか
天皇すら超越してたんだがw
太政大臣が摂関を超越した地位とされたことはないよ
武力を背景に摂関や天皇に疑似させることはできたけど
義満の子は皇太子と同待遇だったしね >>194
それをいうなら鎌倉幕府の執権は摂関を超越していた
鎌倉時代のただの執権を自称する(朝廷に執権などという官位はないので)
朝廷から見たらただの東武士が摂関を自在に罷免し
天皇を廃帝とし上皇3人を島流しにしてたんだよ?
鎌倉時代以降、幕府が朝廷権力を超越していたことなど教科書レベルの話じゃん
なにも将軍じゃなくてもよかったわけ
執権でも摂関の任命権や天皇の罷免権を持てたわけだし 得宗権力が確立した後の時期には、得宗が五位、北条他家が四位なんていう
状況が普通になったというな。
それはともかくとして、さすがに執権なり得宗のところに摂関が伺候したり、裾を
取ったりということは起きていないね。
室町将軍のところには年始の挨拶に伺候したり、裾を取らされたり、外出時に
付き従ったり、偏諱を拝領したりというようなことをしているけど。 >>199
任命権・罷免権があっても「権威」とはいえない、
「権威」とは「年始の挨拶に伺候したり、裾を取らされたり、外出時に付き従ったり、偏諱を拝領したり」?
そりゃ、京都にいた室町将軍の特権だわ。
東国にいた江戸幕府将軍に対して摂関は一切そんなことしてないからな。
室町幕府将軍だけが摂関に超越し、江戸幕府将軍は摂関を超越してなかったわけか。
こじつけすぎたな。 北条氏や足利義満はちょっと例外だと思うけどね
源氏も平氏も元は皇室から出た家系で、先祖をさかのぼれば必ず天皇に辿り着く
だから自分達も天皇の血を引く子孫だというマインドを強く持っていたし
それ故に、天皇に対しても公然を牙を剥く事が出来た
誰か昔の王孫ならぬ(=祖先が天皇家につながらない者がいるだろうか)
これ有名な言葉じゃん
承久の乱の時、帝に背けば天罰が下ると言われ、そう言い返したって有名な逸話だけど
義満にしたって、自分を単に武家の棟梁で源氏長者と考えていたわけでなく
自らも天皇の血を引く子孫で、天皇になる権利を有していると考えていた
まあ実際には源氏の血を引かない徳川家には、そんな権利はなかったけどね スレタイから脱線する事はどのスレでもよくある事だ
少々の事でガタガタ言うなボケ!!!! >>201
諸外国では皇帝や王を滅ぼして全く血縁関係のない奴が皇帝や王になっているのだし
別に源平でなくても天皇になどなれただろ
逆に源平は天皇の血を遠い先祖で引いていることを誇りにしていたので
本家本元を滅ぼせなかったんだと思うが
まあ、日本人の3分の2程度が天皇の血をどこかで引いているらしい
そう考えると徳川にしろ信長・秀吉にしろ絶対に天皇の子孫でなかった
保証はどこにもない >>204
何が言いたいのか全くわからない
>諸外国では皇帝や王を滅ぼして全く血縁関係のない奴が皇帝や王になっているのだし
>別に源平でなくても天皇になどなれただろ
>逆に源平は天皇の血を遠い先祖で引いていることを誇りにしていたので
>本家本元を滅ぼせなかったんだと思うが
前段と後段で内容が矛盾している事すらわからないのか?
日本は天皇家が倒れた歴史を持たない国であり
王家が攻め滅ぼされて王朝交代があった諸外国とは土壌がまるで異なる
承久の乱の時の言葉を見れば、源氏や平氏が自らも皇位継承権があると考えていた事が読み取れるだろう
鎌倉幕府の執権や、将軍足利義満が天皇の権威を超越し、し放題出来たのも、その血ゆえだ
>まあ、日本人の3分の2程度が天皇の血をどこかで引いているらしい
>そう考えると徳川にしろ信長・秀吉にしろ絶対に天皇の子孫でなかった
>保証はどこにもない
源平のようにきちんとした系譜を引き、子孫である事がはっきりしている家柄と
偽系図で源平を称した連中を同列に扱うとは傑作だね
馬鹿なのかあんたは? 【政治】 石原都知事 「東京と大阪をリニアで結び、画期的なマンモス都市に。東京の過度集中を分散」…世界都市サミットでスピーチ
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1341206973/
115 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2012/07/02(月) 15:16:15.63 ID:uqVrOteyO [1/3]
下品で下劣で臭い大阪人は、東京に来て欲しくない
というのが日本人の正直な気持ちです
133 返信:名無しさん@13周年[] 投稿日:2012/07/02(月) 15:25:24.93 ID:uqVrOteyO [2/3]
>>121 違うよバカだなあw
大阪人は生まれつきなのさw
彼は生まれつき臭くて、下品で下劣なんだ
そして大阪弁はそれらに拍車をかけている。
大阪支店から出向してきた大阪人を、みんなでノイローゼ→鬱に追い込んで
退職させたのは今でも笑い話さ
141 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2012/07/02(月) 15:32:00.10 ID:uqVrOteyO [3/3]
>>136 違うよバカだなあwww
大阪人というゴキブリ・ダニを殺すのにバルサンを焚いたとしても
誰も非難はしないだろ
おーい大阪人の鬼畜ども 関東には絶対に来んなよwww
>日本は天皇家が倒れた歴史を持たない国であり
王家が攻め滅ぼされて王朝交代があった諸外国とは土壌がまるで異なる
でも古代は謎のアマタラシヒコとか近江天皇の林太郎天皇暗殺とか
天武天皇の近江王朝強奪とか 王朝交代の可能性大だけど?
>>163
じゃ、何でw
安倍晴明を祀る神社が、大阪府と京都府にそれぞれ存在しているの?
教えてケロ
共に御神体があり、初代安倍晴明公神社は墓地でもある
掘れば人骨が出てきた筈だ
調べてミソwww
>>209
アメタラシヒコは、小野妹子が天皇の名前を問われた時に、
間違って自分の先祖の名前を言ったものだよ。
単純な間違いに過ぎないのだが妙な解釈をする馬鹿が増殖して困ったもんだ。 松平信光の室
幸手一色氏
一色時家の娘
一色公深→範氏→直氏→氏兼→長兼→時家
【神奈川】源頼朝を支えた「三浦一族ゆかりの地」を情報発信
…神奈川県がモニターツアー開催へ、地域の歴史文化資産を掘り起こし観光振興
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1352197553/
ソース(MSN産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121106/kng12110619020007-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121106/kng12110619020007-n2.htm
写真=三浦一族の武将が弔われた満昌寺
http://sankei.jp.msn.com/images/news/121106/kng12110619020007-p1.jpg
地図=三浦一族の主なゆかりの地
http://sankei.jp.msn.com/images/news/121106/kng12110619020007-p2.jpg
4 :やまとななしこ:2012/11/06(火) 21:44:02.59 ID:tZbJV+Ao
三浦一族は、『鎌倉源氏五代』のうち、源義朝、義平、頼朝、頼家ら四代は、確かに支えた。
しかし北条系の源実朝は、事実上三浦氏の指令で公暁(頼家子息)が暗殺しているぞ。
河内源氏の中の義朝流は、房総半島や相模が、勢力圏なので三浦氏が支えているが、
義朝流末代5代目の実朝は、執権北条家により擁立されている為に三浦氏とは縁が遠い。
というか敵対関係。
実朝と三浦氏は、キューバ危機のJFKとCIAみたいな関係。 公暁が実朝暗殺犯だったかについてはとても疑問がある。
実朝暗殺は暗がりの中、しかも同時に源信ら京都からの公家が殺害されている。
公暁は事件直後、外に出歩いた形跡すらないまま、屋敷を北条の兵に囲まれ自害させられている。
事態はこの後、京都の上皇と鎌倉の北条との決戦(承久の乱)という形に発展する。 (~)
γ´⌒`ヽ
{i:i:i:i:i:i:i:i:}
( ´・ω・`) 北条義時は、国家のためには、不忠の名をあまんじて受けた。
/ >‐ 、-ヽ すなわち自分の身を犠牲にして、国家のために尽くしたのだ。
/丶ノ、_。.ノ ._。) その苦心は、とても軽々たる小丈夫にはわからない。
. 〈 、〈Y ,ーiー〈ト 頼山陽などは、まだ眼孔が小さいわい。おれも幕府瓦解のときには、
\_ξ ~~~~~~Y せめて義時に笑われないようにと、幾度も心を引き締めたことがあったっけ。
|__/__|
|、,ノ | 、_ノ やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです
の北条義時はヘタレだったな 初心者スマソ。征夷大将軍って蝦夷討伐の官職なんですよね?
坂上田村麻呂は平安時代の人なんだが鎌倉幕府を開く時
にはその役目はあるのかなぞについて。 つまりすでに奥州
は平定されていたのか、頼朝の時に
まだ 蝦夷なぞにも、反攻勢力はあったのか? >>221
「大将軍」という地位に「朝廷の軍事最高司令官」という意味合いがあったので
頼朝はこの称号を欲したと言われている。
尚、頼朝に何の大将軍称号を与えるかは議論されたようで、当初、
頼朝が鎌倉に本拠地を置くことから「征東大将軍」が検討されたが
就任後すぐに滅ぼされた木曽義仲が朝廷から受けた称号であることから
縁起が悪いとして征夷大将軍になったらしい 違うよ
頼朝の場合は先祖の義家が征夷大将軍を望んだにも関わらず
実現できなかったから
先祖の悲願を果たす意味合いもあったからなんだよ >>224
義家は蝦夷征討(安倍氏は蝦夷)やった人だけど、
頼朝は就任時に蝦夷地を攻めたことはなかったよ
だいたい、征夷大将軍につくことが武家源氏の悲願ならば
同じ義家の子孫である木曽義仲が就任しないのがおかしい 秀吉が征夷大将軍を望み、それには源氏になる必要があって、
足利義昭に養子縁組を願ったが拒否されて、仕方なく関白に…
とか、まったくの捏造。家康・家光と御用学者林羅山、極悪だな。 家康が源氏を名乗ったのは、先祖が源氏を名乗っていたこともあるけど、
それよりも、源氏長者を獲得することによって
諸国の源氏を名乗る大名の任官で主導権を握るためだと思う。
藤原氏だと、五摂家ともかぶるから、
藤原氏長者を維持するのは難しいだろうし、
豊臣氏も藤原氏を名乗っていた経緯から、それを避けるためだと思うね。
家康は豊臣氏から独立した存在に徐々に移行しようとしていたから。 征夷大将軍は令外の官。
真の武門の最高の官職は、左近衛大将、または、右近衛大将。
でも、これらは、朝廷で務めないといけない官位。
一方、征夷大将軍は、朝廷から離れた場所で、幕府を設置できる。 そういえばサザエさんの磯野家も本姓は源氏だったな。
おはぎをたくさん食べて殿様に褒められた磯野藻屑源素太皆。 >>230
頼朝も実朝も左近衛大将または右近衛大将になってたと思うけど? >>228
別に極悪とは思わんけどw、
そういうイメージが流布してるのは徳川氏の思惑なんだろうね。
実際に秀吉は喜連川の姫君を犯して側室にしてるし、
もし、そこに婿入りして足利氏継ぎたい!って言ったら
ホイホイ喜んで継がせてくれただろうけどねえw >>230
家康も任官してるけど朝廷で務めてないじゃないか そういえば実朝って、朝廷で大将の職を務めるどころか
鎌倉で生れて、一度も上京してないよね?
鎌倉近辺、せいぜいが伊豆までしか行かない生涯だったんだろか?
それで宋まで行こうとしたんだから無謀すぎるw >>82
それはそうだすね。御一家衆の養子なら征夷大将軍に正当になれるわけだし。 本題に戻すと、上でも言われているように徳川が幕府を開いてからの近代の後づけじゃない?
そう考えると、鎌倉幕府で摂関・皇族将軍がいたこととも矛盾しない。
室町幕府以降と考えると、織田・豊臣がなりかけたことに説明がつかない。
だから、徳川幕府ができてから。それと、家綱の死後、摂関家から将軍を迎える計画があったからそれよりも後。
要は、徳川綱吉以降と考えるのが妥当。それで、じゃあ、なぜ摂家将軍じゃあダメなのかという話になって、「征夷大将軍は源氏に限る!」っていう理屈ができたんではあるまいか? いや>>88読んで尤もだと思った。
本当にそうだったのかどうかは誰も知る由もないが、
確かにどこかの養子に入るのは簡単だったはずで、
それを家康が考えなかったはずもない。
でも入らなかったからには、>>88かどうかは別として、何か理由はあったんだろね。 源、足利、徳川しか長期政権を作ってないから
源氏だけってにもサンプルが少なすぎるよね 徳川が源氏ってのもちょっと怪しいからなぁ
徳川が「得川」の末裔を称したのっていつ頃だっけ? >>243-244
このスレ10回ほど読んで出直してこい >>241
>摂関家から将軍を迎える計画があったからそれよりも後
っていう部分だが、軽々に首肯はできない。
藤氏が征夷大将軍として幕府を統治したことがある、というのは
前例としては認識されていたはずで、それが綱吉以降変化したとも思われない。
例えば現在の日本で、女性天皇が皇室の伝統に即してどうなのか?って議論と同じで、
基本的には「天皇は男性がなる」もの。
でも、女性天皇の前例があることも、誰もが知っている。
なので、どうしても女性天皇を作り出したい勢力は、それを前例として主張する。
それと同じだろ。
なので、やはり江戸前期には、「征夷大将軍は基本的に源氏がなるもの」という
認識があったとしても、おかしくはない。 「天皇は男性がなる」というのが明確に決まったのは、皇室典範ができてから。それが現在、女性天皇の論議になるのは後継者がいない、もしくは少ないから。
でも、徳川家には御三家という後継者を立てるための家があり、また、徳川宗家も完全に途絶えたわけではなかった。鎌倉幕府や天皇家とは事情が異なる。
そして、摂関家や皇族から将軍を迎えた後に源氏の家に跡目を返した前例はない。足利氏は実力で将軍の地位を得たのである。
だから、酒井忠清が皇族から将軍を迎えようとしたのは、中継ぎとしての目的ではなくて、以後、将軍を輩出する家を皇族に変えようとしようとしたとみることができる。
したがって、忠清のような考え方が出ているということは、この時点では将軍になれるのは源氏に限定されていなかったと考えられる。
綱吉以降に、源氏に限定するようになったのは、皇族や摂関家ではなくて徳川家こそ将軍を輩出する家であるということを明確にする必要があったから。
そして、朱子学の大義名分論が興隆するに及んで、なぜ天皇家ではなくて幕府が政を行うかという点を、
朝廷の許可なく裁量を認められた将軍→足利以降、将軍は源氏であるのが慣例→将軍は源氏である徳川家でなければならない、という理論を構築したのではあるまいか。 >「天皇は男性がなる」というのが明確に決まったのは、皇室典範ができてから。
今は「明確に決まる」話をしてるんじゃないはず。
征夷大将軍は源氏がなるものと、「明確に」、(皇室典範のような)「明文化された規則として」
決まったことは一度もない。
あくまでも慣例として、「基本的には」源氏がなるもの、という暗黙の了解の話をしてるわけで。
そういう意味でいうと、天皇は「基本的に」男性がなるもの、という慣習は、
古代から現代まで一貫して存在してるわけで、皇室典範云々は関係ない。
> でも、徳川家には御三家という後継者を立てるための家があり、また、徳川宗家も完全に途絶えたわけではなかった。
そうだけど、だから?
>酒井忠清が皇族から将軍を迎えようとしたのは、中継ぎとしての目的ではなくて、以後、将軍を輩出する家を皇族に変えようとしようとしたとみることができる
これは同意するけど、それがどうして
>したがって、忠清のような考え方が出ているということは、この時点では将軍になれるのは源氏に限定されていなかったと考えられる。
てことになるのかがわからん。
中継ぎ云々と、源氏に限定されるとは別の話でしょ?
江戸時代前期に、既に「基本的には」源氏が征夷大将軍になるべきもの、という
意識が人々の中にあった。
しかし酒井忠清は、何らかの理由によって、藤氏将軍の前例にこじつけて、
徳川家以外から将軍を取ろうと思った。ちょうど、今の日本で、女性天皇の前例にならって
女を天皇にしたがる人々がいるのと同様に。
・・・ということでも、おかしくはない。
俺が言っているのは、確実に↑こうだった、といっているのではなく、
そうかもしれない以上、
「将軍位を継ぐのは源氏、という慣例ができたのは綱吉後」と断定するのは早計だ、
って言ってるわけね。 ようは、>>247さんは、
「女性天皇を推す人は、後継難という理由があるわけだが、
酒井忠清当時の将軍家の場合は、他に後継者がいたのだから、
あえて藤氏将軍を推す理由がわからない」
って言いたいのかな??
でもそれだったら、「将軍職は源氏が」云々の慣例があろうがなかろうが、
同じだよ。
仮にそのような慣例が当時の人々に認識されていなかったとしても、
だからって唐突に、有栖川などから将軍を呼んでこようとした、ってのは
やっぱり、どう考えても普通ではないわけで。
そこはそれなりの理由があったに違いない。
例えばそれは、御三家やの面々や館林宰相を見渡して、こいつに幕府を預けたいと思える人がなかった、
というだけのことかもしれない。
そして、そういう理由があるのであれば、慣例を破ってでもそうしたい、と思ったとしても不思議ではない。 源頼朝が開いた鎌倉幕府(幕府と言う呼称は無かったかも)は僅か三代、実質は二代で源氏の血統は絶えて、
後は平氏の北条家が執政としてズーッと実行支配(北条政権(王朝))。
体裁上、形式的に傀儡、お飾りとして皇族から宮将軍を迎えて慇懃無礼に飼い殺し
(実質的な人質、南京錠耐)。
この(お飾りのお内裏様の)宮将軍が
政権(実質、平氏北条家政権(王朝)。)の権力構造や本質と己の危く脆い立場を弁えずに
権力的、政治的な妙な色気を出すと、、w 平清盛が藤原氏らの公家から実権掌握して平氏政権が出来して以降、
武家政権が六百有余年に渡り続きますが、
面白い事に天の配剤か奇しくも源氏と平氏が互いに持ち回り的に
平氏、源氏が政権、実権交代を繰り返しています。 >面白い事に天の配剤か奇しくも源氏と平氏が互いに持ち回り的に
>平氏、源氏が政権、実権交代を繰り返しています。
これが言えるのは平家→源家→北条→足利
までで、それ以降はどう見ても、こじつけだがね。 >>253
真面目に質問してみたいのだが、
単なる偶然でなかったら、何であり得るかも知れないと
あなたは考えているの? 偶然成立したことを後でこじつけた。源平交代思想も同じ。当然江戸時代以降。 >>1
いつからって質問には足利尊氏以降との答えが妥当かな いま源氏の長者を選ぶとしたら誰?
他にも候補は?
久我誠通氏
社団法人当道音楽会総裁、女優の久我美子兄、旧侯爵久我家の現当主
細川護煕氏
元内閣総理大臣、足利氏支流細川氏、旧細川侯爵家の現当主
実弟は旧公爵近衛家当主
コ川恒孝(松平恒孝)
公益財団法人徳川記念財団初代理事長、徳川宗家現当主 いま源氏の長者を選ぶとしたら誰?
他にも候補は?
久我誠通氏
社団法人当道音楽会総裁、女優の久我美子兄、旧侯爵久我家の現当主
細川護煕氏
元内閣総理大臣、足利氏支流細川氏、旧細川侯爵家の現当主
実弟は旧公爵近衛家当主
コ川恒孝(松平恒孝)
公益財団法人徳川記念財団初代理事長、徳川宗家現当主 いま源氏の長者を選ぶとしたら誰?
他にも候補は?
久我誠通氏
社団法人当道音楽会総裁、女優の久我美子兄、旧侯爵久我家の現当主
細川護煕氏
元内閣総理大臣、足利氏支流細川氏、旧細川侯爵家の現当主
実弟は旧公爵近衛家当主
コ川恒孝(松平恒孝)
公益財団法人徳川記念財団初代理事長、徳川宗家現当主 いま源氏の長者を選ぶとしたら誰?
他にも候補は?
久我誠通氏
社団法人当道音楽会総裁、女優の久我美子兄、旧侯爵久我家の現当主
細川護煕氏
元内閣総理大臣、足利氏支流細川氏、旧細川侯爵家の現当主
実弟は旧公爵近衛家当主
コ川恒孝(松平恒孝)
公益財団法人徳川記念財団初代理事長、徳川宗家現当主 岡野論文では久我通久が源氏長者の宝器である安摩面の矢羽を首からかけて
戊辰戦争に出陣しており、正式の宣旨こそないものの源氏長者の地位は
徳川宗家から久我家に返還された・・・としている。 岡野論文では久我通久が源氏長者の宝器である安摩面の矢羽を首からかけて
戊辰戦争に出陣しており、正式の宣旨こそないものの源氏長者の地位は
徳川宗家から久我家に返還された・・・としている。 岡野論文では久我通久が源氏長者の宝器である安摩面の矢羽を首からかけて
戊辰戦争に出陣しており、正式の宣旨こそないものの源氏長者の地位は
徳川宗家から久我家に返還された・・・としている。 岡野論文では久我通久が源氏長者の宝器である安摩面の矢羽を首からかけて
戊辰戦争に出陣しており、正式の宣旨こそないものの源氏長者の地位は
徳川宗家から久我家に返還された・・・としている。 コ川氏は実は賀茂氏。
久我氏も男系で見たら藤原氏の近衛家の系統に変わっている。
細川氏こそが源氏氏長者じゃね?
公家の村上源氏の男系はそこそこの名家では残ってないだろう?
清和源氏のほうは、源氏家系の細川家に残っている。 まず、源氏長者になるために本当に源氏の男系子孫である必要がないのは
徳川将軍家で証明済み。
その上でマジレスすると、「源氏長者」を何と捉えるのかによる。
「明治維新前まで日本に存在した制度」を「回顧的・懐古的」に、「実態を伴わず」「名目上のみ」
復活させる、というのなら、
(本当は、源氏長者っていう制度は維新前は当然、社会的に意味のあるものとして
制定されていたわけだから、それを実質上の意味なく懐古的に復活させるのは誤りなのだが)
その場合は、久我家当主だろう。
徳川家は維新で敗北したから、源氏長者ってのは変だし、本人がそれを主張しないと思う。
細川氏っていうのも明らかに変。歴史的に細川氏が源氏長者となった例がないのは誰でも知っているし。
もし本当に現代に有効なものとして「源氏長者」って制度を作る、というのなら、
(この場合も、「源氏長者」なる制度が維新後の日本において実質的に有効なものでは有り得ない、
ということ自体はその後の歴史から明らかなわけで、想定に無理があるのだが・・)
その場合、その時代で源氏と称している人の中で、最も大きな権力を
持っている人が源氏長者となる。
細川の殿は既に隠居の身だから、現在の源氏長者は
自民党の甘利大臣あたりだろう。 >>253さんみたいに、源平交代思想みたいなものを
「単なる偶然ではない」とか言いたがる人って、昔から今まで沢山いるわけだが
(だからこそ、まさに源平交代思想というような語が今に残っている)、
そういう人たちが正直なところ、何を主張したいのかが、俺には一度も理解できたことがない。
源平交代に限らず、この種の主張をする人に、「偶然じゃなかったら何なの?」って聞いても
答えが返ってきた試しがないのが不思議。
実際のところ、それは「天命」だと言いたいのだろうか?そしたら、その人は「天」というものが
明確な「意図」を持っていることを本気で信じているのだろうか?その場合、その「天」という概念は一体どういうものなのか?
そもそも何で、その「天」とやらは、源氏と平氏の間で奇妙な遊びをしなくてはならないのか?
そういったことを何も考えずに、ただ単に「偶然とは思えない」とのみ言って、
それで何か歴史について深い洞察を得たかのように考えているのだろう。この人々は。
つまり、実際には、「歴史」がどういうものかについて深く考えた経験が一度もなく、
かつ、それにもかかわらず、自分が深い洞察を得ていると信じたい人のみが
こういう主張をしたがるのだろう、というのが、現在の自分の見解。 「征夷大将軍は源氏」ってロシアのつるふさの法則と同程度だと思うよ
自然科学を持ち上げたいわけではないけど、法則に関していえば社会科学はその性質上かなりアバウトだし
身も蓋もないこと言うと、人がやることだから状況さえ整えば明日からでも覆るわけで
ちょっとスレチだねすまん こんな論争が起こるから信長もしくは秀吉はとっとと将軍になってれば良かったんだよ・・。 秀吉はともかく信長は天皇になろうとしてたんだが…… 大河ドラマ源平交代(自称源平、伝説含む)
八重の桜 源氏(会津松平)
平清盛 平氏
江 平氏(織田氏)
龍馬伝 源氏(坂本龍馬、明智氏)
天地人 平氏(長尾氏、上杉謙信)
篤姫 源氏(島津氏)
風林火山 源氏(武田氏)
巧妙が辻 藤原氏(山内氏)
義経 源氏 源氏も平氏も天皇の子孫なんだから
どうして天皇の子孫と言う事にしないのか? >>272
その考えも源平交代論と同じ類のものだぞ つうか、今の時代に源氏長者なんか実利ないだろ?よほどの歴ヲタしか氏の長者なんか知らないだろうし。 昔はどういう実利があったのかも、よくわからんけどな
江戸時代とか。 それだったら春日大社宮司の花山院弘匡さんでも良くないかい? >>280
名前から言うと、新藤義孝大臣か?
本人が藤氏を称しているかどうか微妙だがww >>279
江戸時代は徳川家の独占だったから、源氏長者としての力と統治者としての力を区別することは難しそうね
権威と権力が統合された時代とも考えられる >>280
五摂家筆頭の近衛忠W氏でもいいけど、
藤裔会会長、平安神宮宮司の九条道弘氏だろうな。 神主さんとかではなく、実際に政治的力を持った人がなるのが
氏長者。 神主さんいうてもいろいろや。
実際の話、同族の会である藤裔会や清和源氏同族会の会長が現在の長者ちゅーことになるわな。 > 清和源氏同族会
これは明確にダメだろ。
源氏って言っても村上源氏宇多源氏嵯峨源氏正親町源氏いろいろある。
> 同族の会の会長
これも違う気がする。
氏長者は宣旨をもって定められる権威をもつもので、私的な会合の代表者とは違う。
氏長者と同族の会の会長を比べるのは、あくまでも部分的な類推に過ぎない。 征夷大将軍は元々は臨時の役職で常時は鎮守府が担当していた
で頼朝が清盛みたいに軍事公卿になった失敗を見て征夷大将軍を家人の棟梁としての名目で拝領したのが始まりだな
坂上田村麻呂は当初は副将軍だったな >>1
別にそうと決まったわけではない。
たまたま足利将軍家が源氏の流れを汲んでいて、それが約200年15代と続いたこと、
鎌倉・室町と源氏の将軍が幕府を開いたこと、
これ等を慣例として徳川家康が江戸に幕府を開く権威付けに利用し、それが更なる慣例として積み重なっただけ。
明治以降「征夷大将軍」という官職が廃止されたため、尊氏以降源氏(自称も含め)のみが将軍職を歴任したという結果が残り、征夷大将軍=源氏というイメージが出来た。
ついでにいえば源氏と並び武家の棟梁の家門とされる平氏から征夷大将軍職を担った者がいないのも誤解の原因かな。 最初から鎮守府将軍が源氏ばっかりだったのも誤解される理由かもよ。 征夷大将軍なんていったら中国人の日本人討伐みたいな名称だもんなw
本当に昔これ使ってたの?日本書記なんかの捏造みたいに別の理由でも
ありそうだが あこがれたのは単に名前の響きだろ
あんまり難しい事まで考えるな >>292
源氏長者をググれば>>1が偶然だと分かるよね。 >>293
鎮守府将軍も源氏以外いるよ。
一時河内源氏の嫡流が歴任したけど、源氏以降清原氏や、奥州藤原氏、建武時代には公卿の北畠氏が着任しているよ。 >>294
元々は蝦夷(今の東北地方あたり)に攻め入る臨時職とかじゃなかったんだっけ
それこそ坂上田村麻呂とかのころには実態があったのでは >一時河内源氏の嫡流が歴任した
この時代でイメージが定着してしまったとか? >>299
良くも悪くも日本は慣例とか慣習が重んじられる国柄だからね。
藤原摂関家がいい例だよ。
江戸以降の五摂家も藤原の家系だし。
征夷大将軍や鎮守府将軍が源氏というイメージはこの摂関家の例に準えて後世の歴史家が作ったものなんだよね。 長い歴史のある国で、日本に比べて明らかに
「慣習とか慣例が重んじられない」国って、例えばどこだろう?
インドとかに比べれば、日本ははるかに、慣習が重んじられない国だと思うけど。 >>301
それでも慣習や慣例が重んじられてたことには変わらないんでね?
豊臣秀吉も関白就任するために近衛家の猶子になってるしさ。
武家が形式的とは言え、皇室を截てたのも皇室の権威という慣例や慣習を蔑ろにしなかったからでしょ。
歴史上皇室の存在や権威を危うくしたのは足利義満と織田信長の二人くらいかな。
つか、そもそもインドと比べる意味も必要もないでしょ。 >>303
何か、言ってることが通じなかったみたいだが・・・
>>300で「日本は慣例とか慣習が重んじられる国柄」って言っているのは
日本が他の国と比べて、より「慣例とか慣習が重んじられる国」だ、って言ってるわけでしょ?
そうでなければ、わざわざ「日本は」なんて言わないわけだから。
で、じゃあ日本が具体的にどこの国と比べて、より「慣習が重んじられる」と考えているのですか?
って聞いているだけなんだけど。
日本よりも明らかにずっと慣習が重んじられる国を挙げろ、って言われたら、未だにカースト制度を色濃く残すインドや、
その他にも色々思いつくけど、って言ってるのであって。
「インドと比べる意味も必要もないでしょ」とか、すまんが何を言いたいのかわからない。必要とかそんなこと話してないし。
・・・って、こういうことを言う理由はね、
よく何かにつけて「日本は・・・」とか言って、あたかも日本が特殊であるかのように言いたがる
(けど、実際には本当に日本がどうなのかなんて知らないし、興味もない)人が多いから、なんよ。
別に「日本は慣例とか慣習が重んじられる国柄」だなんて、本当か嘘かわからない(つーかきっと嘘だが)ようなことを
書く必要は全然なくて、あなただって実は、別に「日本」について論じたいわけじゃないんでしょ?
そしたら単に、「昔は今よりも慣例とか慣習が重んじられていたからね」と書けばすむ話じゃない。 あと
>歴史上皇室の存在や権威を危うくしたのは足利義満と織田信長の二人くらいかな。
これも嘘だなあ。
織田信長はむしろ、困窮して危機的な状態にあった皇室に資金的援助を行い、
滅亡から救った、っていうようなもの。
信長の出現があと50年遅れたら、本当に朝廷は滅んでいたかも知れないわけだからねえ。
あと足利義満は、もし仮に本当に行為簒奪の意図を持っていたとしても、
それは清和源氏として「皇胤である自分が正当に皇位を継承する」という意識であったはずで、
そうである以上、皇室の存在をなくすわけでも、その権威を無視するものでもなく、
逆に皇室の権威を最大限自分のものとしようとする底のものであったはず。
日本史上、皇室の存在を危うくしたのは
蘇我入鹿と、弓削道鏡と、あと太平洋戦争開戦に踏み切った当時の軍部の連中でしょ。 読み返してみて、また>>303さんに理解されないんじゃないか、と心配になったのでw
一応書いておくと、
> それでも慣習や慣例が重んじられてたことには変わらないんでね?
これは別に反対してないし、むしろ賛成してるわけね。
でもそれは、「日本は」とかそういう問題じゃないだろ、って言ってるわけ。
伝統のある国ならどこだって、慣習も慣例も重んじられますよ、当然だが。 >>306
横レスすまん。
>>303のってさ、日本は普通に慣習とかが重んじられてるってだけで、特別厳しく重んじてるとはしているように見えなかったけど。
それと、おいらもインドが日本より慣習を重んじるってことに意味がないと思うな。
インドほど重んじてないとしてそれが何?
他国と比べる意味がわかんない。
ま、いいや関係ないしね。
ムキになって返レスしなくていいからね、単なる戯れ言だからスルーしてちょーせ。 >>308
> 特別厳しく重んじてるとはしているように見えなかったけど。
厳しくとかそういう問題じゃなく、「日本は」って言ってること自体について
言ってるのだが、わからないかな?
> 他国と比べる意味がわかんない。
これだけ説明しても、わからないとは・・・orz まあ、仕方がない。
> ま、いいや関係ないしね。
> ムキになって返レスしなくていいからね、単なる戯れ言だからスルーしてちょーせ。
関係ないのなら、初めからそんな書き込みやめたらどう?意味ないでしょ。
あなたとは違って、「論理的思考」ってものが大事な人種もいるんだ、ってことは
理解していただいた方がいい。
ムキになって返答したり、煽ったりしないで、スルーしてくれていいからね。 2chって、複数の人の書き込みのふりをすれば
説得力が増すかのように思ってる奴らがよくいるが、あの思考回路は不思議だ >>303と>>308は言ってることも同じだし、
文体も同じなので90%同一人物扱いされても仕方がない。
そこはもう少し気をつけた方がいい >行為簒奪の意図
足利義満の孫が後小松天皇ジャン。 しかし鎌倉期の藤原将軍や宮将軍は養子となって源姓にはなってないんだな?
江戸期にも宮将軍案があったけど実現してたら徳川を名乗らないってことなんかね? >>315
そこは微妙。鷹司の例もあるから、養子で源姓になってたんじゃまいか
って気もする。
しかし宮様にエセ源氏名乗らせるってどんな極悪人だって気もするがw >>315
それは、大丈夫でしょ。
鎌倉時代の宮将軍は親王の身分だし、
江戸期に同様のことがあったとして、
もし臣籍降下しても、一世王は源氏だ。 流れ整理しておくと、結論は
1 室町時代頃
2 江戸時代前期頃
3 徳川綱吉頃
の3つでOK? >>315
頼経は春日大社で占ったら
源氏に変えたらダメと出たとかだった >>313
そんな決まりはないで終了。
源氏の流れを汲む足利将軍家と源氏を自称した徳川将軍家がそれぞれ15代に亘り世襲したから、それを源氏の独占と勘違いした後世の歴史家が決めつけただけなんよ。 征夷大将軍の資格は
× 特定の源氏のみ。
○ 姓は問わない。無姓の皇族・臣下でも就任可能。 >>304
日本は慣例とか慣習が重んじられる国柄だと、慣例で言われてるのさ
どこと比べてとかじゃなく、慣例。 源氏だけとか言い出したのは足利尊氏だよ
幕府継承問題の時にだれでも継げるならとっく北条が継いでる
なんで継げてないの?平氏だからでしょ!って論法でやり込めたっていうね・・・
まぁ実際源氏宗家が絶えた後は親王が着いたりしてるから関係ないんだけど
ここらへんが尊氏の上手いところっていうか >>327
最近の本で岡野友彦氏が書いた北畠親房の本があって、その中に書かれてたんだよね
尊氏自身が言った、と思うんだけどニュアンス的には>>326の通り >>326>>328
足利尊氏はそんなこと言ってない。
なんかおかしいと思ったら…
岡野氏はその著書「北畠親房」の中で、
・当時は80年間親王将軍が続いていた。80年と言えばほぼ生きている人間が入れ替わる。
当時の人は親王将軍しか知らない人ばかりで、征夷大将軍は親王が任じられるのが当たり前、という認識だった。
・北畠親房はその著書「神皇正統記」で足利尊氏の出自を「家人の列」(鎌倉幕府の家来である御家人)
と何度か書いている。当時、都の人に尊氏が身分の高い人だという意識は全くなかった。
ことをあげて、当時征夷大将軍と言えば親王がなるものであり、
足利程度がなれるものだとは思われていなかった。
幕府御家人にすぎない足利尊氏がなれるくらいなら北条氏がとっくの昔になっていた(これは岡野氏の意見)と言っている。 これは参考にならないんだろうか。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/geni.htm
あと、頼経が将軍になる時に源氏になるべきかどうか
春日大社に聞きに行った話もあったな。 >>331
「源威集」の作者とされる結城直光は、足利尊氏・義詮・義満に仕えた家臣。
主君である足利一門を讃えるために東国から兵を起こして幕府を起こした足利尊氏を
同様に東国で兵を起こし幕府を開いた源頼朝に例えたのは不思議ではない。
重要なのは、「源威集」が室町幕府成立後に書かれていること。
成立は14世紀後半とされ、室町幕府安定期に幕府権威高揚のために家臣に書かせたと考えられる。
また、藤原頼経は2代将軍源頼家の娘源鞠子(竹御所)の婿養子として将軍についた。
婿養子というからには頼経を先代源氏と養子縁組するべきかという議論があった。
しかし、幕府内では幕府権威高揚のために、武家源氏よりもはるかに身分の高い摂家藤原氏を
将軍に担ぐべきだという意見となり、頼経は藤原姓のまま征夷大将軍に就任することになった。
藤原氏出身の征夷大将軍はそれまでいなかったため(それまでの征夷大将軍は大伴氏・坂上氏・文屋氏・源氏)
幕府が藤原氏の氏神春日大社に使者を派遣し認可を受けてはいる。
尚、源頼朝が征夷大将軍になる際に氏神の許可を取った話は見えない。 >>330
少なくない東国の人間が
「親王将軍は借り物、源氏が俺たちの王」と考えていたとか。
天皇家の代わりに、天皇家より歴史のある孔氏を持って来られても、
日本人にとっては自分たちの王とは思えないように。 >>333
東国では源氏が自分たちの王なら源氏ではない
北条氏が鎌倉幕府の実権を握れないでしょ?
鎌倉時代の足利氏は北条氏から代々正室を迎え入れて北条に従っている
一御家人(将軍や執権、得宗らに仕える家臣の一人)に過ぎなかったんだから。 >>334
正統性がなくても権力を握ってる例なんて幾らでもあるだろ
結局力のある方に皆靡く >>335
北条に力があったから正統性がなくても権力を握っていたとして
当時の東国の人が源氏が俺たちの王だと言っている史料がない
鎌倉時代に足利が鎌倉幕府の王だと周囲の御家人たちから讃えられていた事実もない
根拠がないよ 自分たちの利権を守ってくれるならば誰でもいいんだろ
だから北条を受け入れたし、北条を討つのに協力したんだろ >>337
それなら結局「親王将軍は借り物、源氏が俺たちの王」なんて誰も思ってないじゃん。
北条が利権を守ってくれるなら北条が俺たちの王だし、
足利が利権を守ってくれるなら足利が俺たちの王だ。
親王将軍がいても利権を守ってくれる北条を担いでたってことでしょ。
氏族など関係ない。 なぜ朝廷から独立を目指したのに、
朝廷から王を迎えるんだ 1はいいことに気が付いたが徳川の頃だね。
例外を認めさせるのは大変だが、
過去に実績があれば強引にでも話を勧められる。
その理由で源氏を持って来た。
足利の頃は北条執権全盛期に対して過去の将軍職を持って来た。
強いて言うならその時から。 将軍が武家の棟梁なんて決まりは後付け。
足利がいなけりゃ歴史の1ページにも残らなかったかもしれない。
その足利も中央集権としては非常に弱い。
織豊が京復興を行わなければ事実すら風化していたかもしれない。 すぐ摂家、親王将軍を得意げに出す人って…
なんだかなあ、 まあ足利からだろうな
その後の徳川で規定化した感じだが
それより鎮守府将軍だの中国史にでてくる安東大将軍、征東大将軍だのの
記述の方が面白いw
過去の日本への侵略を示しているのかもしれんな
もっと研究するのでてきた方がいいかもしれんな 朝日だのマスコミの自意識のなさをみればやつらの意識がどこにあるかってのが分かる感じよな >>316
親王が臣籍降下したら源氏になるわけだから、エセ源氏ではないだろう。
>>317
実際、鎌倉後期に惟康親王は臣下に下って、源惟康として将軍になってるから、
源氏将軍と言えなくもない。
ただし、幕府が惟康を都に送り返すために皇籍に戻して、親王宣下を受けさせている。
頼朝直系でなくても、源氏が将軍=鎌倉殿であることに北条氏は脅威を感じていたんだろうか? >>350
源惟康は源氏を名乗りはしたが後嵯峨源氏
鎌倉幕府開幕から3代続いた源氏将軍は清和源氏だから
こちらとは養子縁組してないってことじゃ? 征夷大将軍は、初めは臨時の官で
、軍隊の最高官と同時に臨時の行政官でもあった。
しかし人を害するというのを穢れとして嫌った公家によって軍隊は廃止、警察のような組織だけになってしまった
しかし地方では、争いがたえず武士が発生リーダーとして地方官として来た皇族を持ってきた。
平氏は貴族化したが、清和源氏は本分を守り武門の棟梁として将軍となりそれが慣例となった。
武士がついてこれる家柄それが清和源氏であった > 人を害するというのを穢れとして嫌った公家
私闘のレベルまで考えれば、奈良、平安期の貴族も
普通に殺し合いをやっているけど。
中下級貴族だけでなく、公卿レベルも含めてね。 もともとは坂上氏・文室氏などが任官しているので、源氏とは関係ない。
源頼朝以降は摂家・親王が任官しているので、源氏というよりも、
「それ相応の家格の人が鎌倉殿になる、将軍任官」ということだっただろう。
足利政権では「尊氏の子孫が室町殿を世襲、将軍任官」ということで、
源氏だからというのではないのではないか。 >>350
だよなあ
清和源氏じゃないけど、まぎれもなく源氏ではある。決してエセ源氏というわけじゃないよなあ
この時期の段階では、征夷大将軍は清和源氏に限るという風習・前例なんて成立してないわけだし。
鎌倉殿でなくても、大塔宮も親王将軍として征夷大将軍になってるし。
>>352
貴族化したと言われる平氏政権だが、平氏が創出した組織構造やら政策のいくつかは鎌倉幕府も踏襲してるんだよな
武家政権が確立する前の試行錯誤段階とみた方がいいんじゃないのかな
>>353
貴族と武士が完全に分離して役割分担が明瞭になったのは室町時代に入ってからだよな
南北朝時代までは武士っぽい貴族もいた。
まあ、伊勢の北畠氏やら、戦国時代の土佐一条氏なんかも、武士っぽい貴族には違いないが。 幕府=御家人連合体制
平家=中央集権体制
対外侵略したがるのは平家。家康は秀吉のせいで明との国交恢復は
出来なかったが、朝鮮とは何とか通じた。 世の中が不安定化すると仮冒平家が元気になるだけだろ。 仮冒平家が我が世の春を謳歌せん時代に書かれた日本史とか
あんまり読みたくない。 尊氏が北条から取り返し徳川が習った、つー総意があったんだろね。
終了。 平家みたいに公達になる気は有りませんの中で一番由緒格式のある家柄と考えられて家系図買われたんだろ そう言えば征夷大将軍になる際に天皇が裏切んなよって源氏姓くれるんだったw 現代日本において最低最悪の鬼畜団体
それは『池田豚作真理教』である >>350
ごめん自分>>316だが、臣籍降下して源氏と将軍職を賜るのなら別に問題ないわけ。
鎌倉期の宮将軍みたいな。
>>316で言ったのは、もし単なる臣籍降下(つまり「後西院源氏」みたいな)ではなく、
近衛信尋が近衛家を嗣いだみたいに、徳川将軍家の後を嗣ぐ形で源姓になったとしたら、
それはやっぱり宮様にニセ源氏を名乗らせることになるでしょ、ってこと。
なので普通に考えれば「徳川家幸」とかではなく、「源幸仁」として新たに将軍家を興すことになると思うんだが、
そしたら残された他の徳川一門は、自分たちの家格が下がるように思うだろうから、問題あるだろうなあ、と。
まあ所詮は有り得ないIFだね。 新たに将軍家を興すとしたら御三家や連枝は将軍家の血族ではないことに
なってしまうから、それは有り得ない。
もし本当にやろうとしたら、宮様だろうが誰だろうが徳川の偽源氏を名乗らせるしかない。 >>366
なんでそうなるの?
近衛家は正当な藤原氏の摂関家だから、近衛家を嗣いだ信尋は正当な藤原氏。
徳川将軍家は偽源氏だから、もし皇族が徳川家を嗣いだとしたら、その人は偽源氏。 養子になっても改姓はしないという方法は?
つまり姓は無姓(王氏)、苗字は徳川みたいな >>369
そもそも無氏無姓の王氏が名字を持った例はあるのだろうか。
例えば白川家は源氏の間はともかく、源氏を廃して王号を称している間はどう名乗っていたのだろう。
白川宮とでも称していたのか、白川神祇伯何某王と氏が有るものと同じような名乗りをしていたのか。 >>361
頼朝と清盛の時代はそうだったけど、足利将軍家は完全に公家化してたな。 「完全に公家化」はしてないだろ・・・
確かに貴族ではあっったが、武家であって、公家ではない。
本人の意識もそうだし、周りの視線もそう。 では北条氏が平氏でなく源氏の傍流だったら、幕府を簒奪して将軍になってたてか? >>368
源氏長者も清和源氏がほぼ独占してたからね 征夷大将軍は清和源氏だけ、と本当に決まったのは(決まったことがあるとしたら、だが)江戸時代に入ってからだな
鎌倉時代や建武政権期には親王将軍だっているし、戦国期に平氏の子孫と自称した信長に将軍宣下をする可能性だってあった
源氏長者は、賜姓源氏に属する貴族のうちで最も高位高官のものという意味で、清和源氏の源氏長者は足利義満以後だろ
それ以前の源氏長者は清和源氏からは出てないだろ 足利家が15代に亘って将軍を独占したから既成事実化したんだろう 376
征夷大将軍は神格化したのは江戸時代じゃねえの?
いつまで痴呆ぶってるんだよ?分かってやってんじゃねえのかお前ら 足利将軍って言ったって島津はじめ九州の大名は従ってないし
奥州や関東だって将軍の権力外だぞ 室町時代中期(義満以後、15世紀末頃まで?)になると、格式という形で色々な秩序化、序列化が進んで、
将軍の地位・権威が確立してるからな。
といっても、軍事的に対立した敵対者に対して殲滅や処刑という形を取れず、
領地削減なり役職剥奪なりの形でしか処罰できてない、軍事的には弱い権力とも言えるんだが。
応酬とか関東とか九州は、いちおう幕府の出先機関の支配下にあったのは事実だよ。
その出先機関自体が幕府に敵対する事例が少なくなかったり、幕府に対し自立的で服従してなかったりするけどな。
将軍の地位を清和源氏が独占する体制自体は江戸時代になってから確立したんじゃね。
もっとも、松平氏が清和源氏の出身という系図そのものは疑わしいんで、
室町時代にこれが確立してなかったんなら偽系図を作った意図が不明瞭になる気はするが……
まあ、松平氏の中で自家が源氏だと言い張ろうとし始めたのが家康じゃなくその祖父、清康の時だったって事を考えれば、
松平氏が清和源氏の一門だと主張したことそのものは将軍職と無関係だったとは言えるだろうしな、よくわからんよ それどころか松平氏で源氏を称し始めたのは
家康の祖父の祖父の祖父の信光だという話もあるからな >>381
信光あたりになると、実在したという点以外のほとんどが史実じゃなくて伝説だろ >>382
せやろか(伊勢貞親関係の書状、日記や三河の寺院の古記録見ながら) 頼経も頼朝の妹の曾孫という関係から擁立されてるから源氏の血は入ってる >>384
母系で少しでも源氏の血が入っていれば姓が何でもいいならかなり範囲は広くなるな
親王将軍はどうする?
>>385
織田信長の三職推認が史実ならそれ以降も
源氏じゃなくてもよかったんだろ まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 朝廷の認識→別に誰でもいい
武士の認識→源氏の血統こそが正当な征夷大将軍 >>390 曲がりなりにも清和源氏の血を引いていない征夷大将軍って、大伴弟麻呂
と坂上田村麻呂だけ。 >>376
実朝が右大臣になった時、実朝が一瞬「源氏長者」になったりしないの?
右大臣より上って、なかなかいないと思うんだけど 木曽義仲
ttps://www.youtube.com/watch?v=i7z51xX833g 幕末から明治初期
ラスト源氏長者 久我建通(明治朝廷)
ラスト権征夷大将軍 伊達慶邦(東武北方政権)
有終の美は公家源氏と伊達男モノノフで飾った
>>57
ヒュペルボレアスって東北地方限定なのか?w
日本全部ヒュペルボレアスじゃねーの? >>1
正直根元に呪術があるんじゃねーか?
実は夷が源の元でそれ自身に征夷大将軍を名乗らせる的なとか? >>393
氏長者と官位の上下は無関係だよ。
藤原氏の氏の長者は摂関家から出るが、長者の摂関家の上位に清華家出身の太政大臣がいるとかしょっちゅう。 坂上田村麻呂―坂上春子―葛井親王―棟貞王―棟貞王の娘―貞純親王―源経基―源満仲
清和源氏は何気に外孫から坂上田村麻呂の血が入ってるんだよね。
源満仲が摂津守になって多田政所を置いたときに、坂上頼次を摂津介にして山本荘司として任命して多田政所の警備をさせてる。
源頼光に使えた坂上季猛が卜部季武のモデルらしいし、軍記物でも鬼切は田村麻呂から頼光に渡ったり。
征夷大将軍が源氏の専売特許になるまでに、坂上氏から武門を継承するようなプロパガンダはしてたのかなと。
でも坂上尚親の時に先祖の武功で平姓を賜ってたりするのがなんとも。 征夷大将軍の夷は実は東北というより地中海小アジアのアーシラト・バアルの討伐だったとか 私は創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組の官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカメラを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化して使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄へ落ちるから、
朝夕に南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えあげて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全部自分の出来心が招いた事で、どこに訴えるわけにもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切った上で、新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。 §3.山本荘司 - 歴史の小径
ttp://www.ninohenosato.com/%EF%BC%93-%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E8%8D%98%E5%8F%B8/
これ見ると、結局は清和源氏と坂上氏がズブズブの関係ってオチじゃない?
征夷大将軍の権威の拠り所が坂上氏嫡流からの守護弓になってる
最前線での軍事指揮権を利用して武家の頂点に立つなら、別に征夷大将軍なんて古いものを引っ張って来なくてもいいわけだし
>>403
東漢駒が実行犯で、坂上駒子と同一とされてるな
あれも後に天武天皇が坂上氏の七つの不可として、東漢氏の過去の大罪を責めて赦した直後に、東漢氏の中で坂上氏だけ何故か優遇してる
結果的に坂上田村麻呂に繋がるのよね 清和源氏の長男直系『貴族』は居ませんか?京都とか居ないの?自分は福山だけど
返事下さい。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
MU2YF それ日本史の虚構だからな
史実の源氏はクズチンピラで頼朝系も足利系もガチクズだった
でガチクズなのに「源氏英雄神話」を作った糞に過ぎないんだよ。リアル日本史は足利にいたるまで源氏はガチクズだっただけ とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
I0N 岡野友彦氏著「源氏長者 武家政権の系譜」(吉川弘文館)が全てを解明してくれましたね。 歴代征夷大将軍は
坂上氏、大伴氏、源氏、皇族、藤原氏だけ?
皇族以外では4氏だけ? >>407
陽成天皇がやらかしたからねえ、中央での出世は早々に
あきらめたからこそ逆に地方で活躍できたわけで。 廃嫡された陽成の同族清和源氏より宇多源氏、村上源氏のが家格は圧倒的 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています