【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
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南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか? 安徳天皇と後鳥羽天皇のどちらが正統かも定まっていないからねぇ
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真の思考停
(在位 2009年9月16日〜2010年6月8日)
民主朝の初代考停、言行不一致、虚言、脱税、
そして外交において巨大な負の遺産を築いた。 >>1
明治天皇が勅裁しているので、この問題は解決しています。 もともと後嵯峨天皇が亀山天皇を寵愛したことに端を発しているのだが、後深草天皇のどこが気に入らなかったのだろうか? >>6
後深草院は幼いころから病弱で、足腰の発育も遅く、長じても右側に傾く身体つきだったらしい。
一方亀山院は健康で聡明だったから、自然と両親の愛情や期待が弟の方に集中したんだとか。
余談ながらこの兄弟、後白河院の五世孫であるが、同時に、
今年の大河ドラマの主人公・平清盛、及びそのライバル・源義朝の五世孫でもある。 天子摂関御影では、他と比べて一回り小さく描かれてるよね>後深草 熊沢天皇を愛でる会
1月7日22:00開催
場所:日本史板 >>6
皇后腹の男子が複数いる場合、兄弟相続される例はよくある。
後嵯峨→亀山の兄弟継承はそれほど問題はない。
後嵯峨が亀山を優遇したと言われるのは、
亀山の皇太子に兄後深草の皇子ではなく弟亀山の皇子が立てられたことから。
しかし、皇太子に立った亀山皇子が皇后腹であったのに対し、
後深草の皇子はすべて身分の低い女官腹であったことから仕方がなかったともいう。
むしろ、後宇多と不和になった西園寺実兼が後深草の妾腹の皇子を担ぎ出して即位させ
自分の娘を中宮に立てたことから皇統が2つに割れた。 宮内庁では南朝が正統ってことになってるみたいだけど、なんでだっけ? 三種の神器を根拠にすると安徳→後鳥羽の正当性が否定されちゃうのがアレだな しかも御南朝が神璽を取り返したりもしてたし
まあ元の天皇や上皇、摂関のついた方が正統とされるのかな >>18
すぐに奪い返されたじゃないか。それに、三種の神器があっても前天皇の譲位、立太子または治天君の指名が
なければ天皇にはなれない。 >>10
伊勢斎宮のことかな?増鏡の記述に院との情事があったがかつてはこの院が亀山
とされていたがとはずがたりから実はこの院が後深草だとわかったんだよな。
>>20
いや、後深草が関係を結んだ伊勢斎宮とは別の姫宮と亀山院が関係があった。
「増鏡」で亀山上皇が関係を結んだとされるのは異母妹の懌子内親王(五条院)。
美貌の姫宮(後の五条院)のもとへ異母兄亀山上皇が通い、密かに姫宮を産ませ、
乳母に育てさせたとある。
一方、「とはずがたり」で後深草上皇が関係を結んだのが異母妹の元伊勢斎宮、ト子内親王。
二条の仲立ちで関係を結んだがすぐに仲は途絶えたらしい。
後深草も亀山も、それぞれ別々の異母妹と関係を持っていた。
父の後嵯峨からは有望と思われた亀山も晩年は可愛がっていた自分の子の恒明
を天皇にしようとしたり、息子の後宇多の嫁に手を出したりして大覚寺統にひびを
いれたり有害な存在になったんだよな。 >>23
恒明親王の母は権門(西園寺家)の出身で、もちろん西園寺家の希望があったからだろう。
後醍醐天皇が立太子できたのは母五辻忠子が亀山の愛妾になったからという説もある。
息子を即位させたい継子の希望によるものだったともされている。
後醍醐天皇が兄二条天皇の愛妾を自分の愛妾にしていたり、
後伏見天皇が父伏見天皇の愛妾を自分の愛妾にしていたり
この時代はそういう話が多い。 神皇正統記で後醍醐をdisり、手紙で後村上を幼稚呼ばわりする北畠親房は逆臣だよね。
江戸時代から昭和初期の政治状況が生んだ価値観だよ。>南朝は正統 南朝公家で唯一残った北畠阿野もさっさと北朝貴族になって後南朝弾圧
白河・菊池といった南朝方で勢力保持したものも北朝幕府にゴマすり初めて >>1
南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか?
単純に長幼の順でいうと持明院統(のちの北朝)。
しかし、正統な荘園(八条院領)承継の流れでいうと大覚寺統(のちの南朝)。
後嵯峨院の意思も、亀山以下の大覚寺統。
しかし、それで納得しない持明院統の後深草上皇が、
幕府に働きかけて「両統迭立」を実現させた、が事実。 後深草は、亀山の皇太子に世仁(後の後宇多)が指名された時、落胆して出家しようとした。
当時は後嵯峨上皇が生きていたからこの決定は絶対だった。ということで後深草自身には
そこまで強く自身の皇統にこだわりは無かったのが正解。
ではどうして出家も中止され、幕府を巻き込んだ騒動になったのか?
実は後深草に娘を入内させている西園寺家の意向が働いている。
娘の夫が院政を開けるか否かで、自身の生活が天と地ほど違ってくるから。
西園寺はこの時期武家伝奏だから、幕府に泣きつくアイディアを出したのは間違いない。 後嵯峨上皇の時代が朝廷が最後にきらめいた時だね。
1300年代に入ると荘園の浸食が進んで行く。
後嵯峨がきちんと「亀山に皇位と荘園を継がせる」と
明言していればその後の歴史は大きく変わっただろう。
時として人間を徹底して切り捨てることも必要だ。 後嵯峨は自分の責任じゃないとは言え簒奪者だから、
あまり強くは言えなかったんじゃないのかなあ。
天皇家の歴史は簒奪者の歴史でもある。
天武、光仁か桓武のどっちか、嵯峨(即位はしてたが事実上簒奪)、
光孝(望んでじゃないらしいが)、一条(これも本人の責任じゃない)……
これだけ長く続けば時々ごたごたがあるのはしょうがないけどね。 後嵯峨即位を決めたのは鎌倉幕府
後嵯峨が亀山の皇子を皇太子に定めながらも最終的には
幕府の判断にゆだねざるを得ず西園寺実兼が幕府を動かして
後深草の皇子を担ぎ出すと朝廷は何も言えず >>28
後嵯峨院の死去後大覚寺統(南朝)の後宇多(91代)まで皇位が行っていましたが、
1275年(建治元年)幕府の意向で、持明院統ののちの伏見(92代天皇)の立太子が決まりました。
このころ両統迭立時は、皇位そのものよりどの派から皇太子が出るか「立太子」の方が重要。
両派とも幕府の支持を得ようと、鎌倉まで競馬まがいの競走をしたらしいです。ww
>>29
極めて強いこだわりがあったから、抗議のために尊号返上や出家の意思表示を
したんでしょう?
こだわりがなかったなら、わざわざそんな行動はとらない。 >>29
後深草が出家しようとしたのは後宇多が皇太子に立った時ではなく
後宇多が即位したとき。
父後嵯峨院政期にはその存在は絶対的で後宇多が皇太子になっても
後深草は何の動きも見せず黙認していた。
父没後、弟の亀山が後宇多に譲位して院政をとる気配を見せると
兄である自分を治天にしないことに異議があるとして
出家の意思を鎌倉幕府に通達、初めてこれに抗議したってこと。 この辺りの事実関係を整理すると、
1259年後深草(持)強制退位・亀山(大)即位で両統分裂。
後宇多(大)立太子 1268年
後嵯峨院死去 1272年
後宇多(大)即位 1274年
伏見立太子 1275年 ←事実上の両統迭立の始り。
後宇多(大)退位・伏見(持)即位 1287年
持:持明院統のちの北朝
大:大覚寺統のちの南朝 を示す。 神戸市中央区の風呂谷部落は楠寺で切腹した
楠木正成の遺体に献花し、埋葬した功績により
後醍醐帝より摂津国内の花の専売を認められた由緒ある、部落です。
明治までその特権は続きました。
最後の弾佐衛門を生んだ、住吉部落とは婚姻を結ぶ事の多かった部落です。 >>28
どっちが正統っていうか南北朝分裂以前には
両統迭立の建前があるんだからどっちも正統でしょ。
どっちも皇位継承権を保持した皇族なんだから。
どっちが正統なのかって話になるのは光厳在位期間と
後醍醐の吉野遷幸以降だけじゃないの? >>38
その通りだと思う。
少なくとも光厳天皇在位時と光明天皇即位から後小松天皇までの
南北朝時代までは、その世の天皇は1人だったわけだし、 そういえば、博多の筥崎八幡宮に亀山上皇像を祀る社ができている
東公園にある像の原型になった木造像で
よみうりランドで公開されていたのを九州国立博物館で修理し
この度上皇と縁の深い場所ということで筥崎八幡宮で祀ることになったらしい
結構デカくて立派でしたわ
中共の力が増大する昨今何かしら思うものがあるな 顔貌は、南禅寺の法皇像を参考にして作られたと聞いたな
ttp://www.nanzen.net/about_image/rekishi_kameyama.jpg >>39
なにいってんだかわからんけど
特に後半へんだろ >>43
南北朝時代は南朝と北朝どれぞれに天皇がいて、天皇が2人いる状態
だから、どちらが「正統」とか?と言う議論になるだろうってことだろ。
それ以前は、2つの系統が交互に皇位継承しているにせよ。天皇が
1人しかいないから正統という話にならないと言うことだろう。 >>44
現存する北朝側公家の史料にも「南帝」という書き方があるから
二帝両立という認識でいたんだろう
絶対的にこちらが正統で生涯こちらにお付するという確固たる意志が
あったわけでもないってこと
官僚たちも時と場合により北朝についたり南朝についたりしてるしな 今の天皇が南朝系だから南朝を正統としたほうが合理的かな
明治維新の時に南朝系に摩り替えられている
薩長土肥の面々は南朝支持ばかり >>49
「天にニ日無く、地にニ帝無し」という言葉は中卒には難しいようだな。
話しを戻して、
荘園の継承でいうと八条院領の大覚寺統(南朝)、持明院統の長講堂領は後発。
三種の神器・保持でいうと南朝。これも祭政一致の中世社会では、意外と無視できない。
持明院統(北朝)は、幕府の後援を得たのが大きい。 当時の公家の日記では観応の頃にはもう南朝を朝廷とはみなさなくなっていたよ。
ぶっちゃけ南朝優位とかいっているのは神皇正統記の記事をを都合よく抽出した江戸以降の
国学者連中の仕業だろう。
無理に法則や正当性を定義したがるのは歴史研究の悪しき慣習というべきか。三種の神器も
院の指名も強引にこなして後光厳は即位したけどそれが原因で北から南に離反した人間なんて
公家に1人もいないじゃないか。
>>52
いや、観応の擾乱の時に足利尊氏が南朝後村上天皇に降伏して
北朝の上皇・天皇・皇太子が全員南朝に連行されてるんだが
それ以降も「園太暦」など当時の一級史料で南朝の天皇を
「南帝」と表現しているよ >>53
>それ以降も「園太暦」など当時の一級史料で南朝の天皇を「南帝」と表現しているよ
北朝天皇のことをどのように表現しているかで、南帝という表記の価値は大きく変わってくるよ。
もし北朝天皇を北帝などと書いてたのならともかく、
今上とか帝と書いてるのなら、南帝という表記は「正統ならざる地位」という意図を含むことになる。 >>54
「帝」という言葉自体が天皇を表すってことだよ。
東京は東の京と書くから首都ではない(京都が本当の都)、
みたいな屁理屈だな。 たとえば。「一天両帝」と記された場面では、南北朝並立というニュアンスで記されているわけで、
北朝正統という意図を読み取るのは、この語句だけからは不可能だ。
だが、南帝という語句に関しては、北朝正統という意図を読み取れないとは言えない。
むしろ、正統ではない天皇が存在していて不快、みたいな意図を読み取る余地すら否定できない。 >>56
後村上天皇が正統とされたときでも「南帝」だったんだから意味ないだろ。
後醍醐天皇が隠岐に流されていたとき、都の公家たちはこぞって「先帝」と書いた。
で、「先帝」と書いた都の公家たちは後醍醐が帰ってきて
「正統ではない天皇が存在していて不快」と思ったわけか?
そのときの都合でどうにでもなるって話。
逆に、南朝の天皇を将軍や先帝とかかずに現役の帝と書いているのが凄い。
隠岐にいる後醍醐を都の公家は完全に廃帝扱いしてたからな。 後村上天皇の御製を拝読したてまつれば吉野朝の正統性がわかろうぞ
四方の海波も静まる印とて三つの宝を身にぞ伝ふる
高御座帳かかげて橿原の宮の昔もしるき春かな >>58
先帝は先帝
形式上は、隠岐に流されていた間の後醍醐帝は廃帝/先帝で間違いない。
京都に戻って重祚したと解釈せざるを得ない。
後醍醐帝自身は退位した(させられた)事実を無かったことにして、
重祚ではないと強弁したけど、それは実体を伴っていない、いわばウソ。
まあ、公家社会では、あの重祚(名目上は重祚ではない)によって、
後醍醐帝が再び正式の天皇になってるから、「正統ではない天皇が存在していて不快」と思った公家はいないと思う。
>後村上天皇が正統とされたときでも「南帝」だったんだから
幕府が後村上天皇に帰順した際も、公家社会全体が南朝を受け入れたわけじゃないし。
というかむしろ、公家社会としては、京都を支配している方が正統って感覚では。
後村上帝は入京したっけ? >>52-53
北朝公家の南朝への離反は、皇位の正統性よりも自己の官職や所領を巡る争いに由来するから、それはあまり意味がないな。
>>33
競馬騒ぎは正中の変後 >>59
後村上以下の吉野在住の公家たちが京都に帰りたい和歌を詠んでるから
本音ではもう自分たちの負けでいいと思っていたよ。 >>64
それは勝って帰るつもりだったんだろ?
それじゃなければ、4回も(結果的には役に立たなかった)京都占領なんてやらないから。 >>61
北畠親房が元弘の乱の後醍醐同様官位や所領問題のちゃぶ台返しを強行しようとするから
正平一統は失敗した。(そもそも正平一統なんて歴史用語として存在している意味なんかないだろw)
公家社会(もっと言えば寺社勢力)としては京都支配もさることながら崩壊中の荘園支配を支えてくれる事が何よりも大事だろ。
南朝の機構では本所復活の徳政どころか、半済ですら無理だろう。
>>65
いや詠んでいるのは帰るのが絶望的な状況の時でまさに望郷そのものだから。
正平一統以外の占領は山名、細川など幕府内部の直義派や尊氏死後の権力抗争
ではぶられた連中がしているだけでもう南朝上層部は応仁の乱時に引っ張り出された
後南朝の末裔と変わらんレベルだよ。 >>64
和歌史方面の研究で、後醍醐・後村上の代には還京を切望して詠んだ歌が多いが、
長慶の代に入ると吉野を都として追認するような歌が現れる、という分析があったな。
君すめばここも雲居のよしの山なれてぞみつる花のさかりを(阿野実為) 南・北朝、特に南朝の存在意義がよくわかりません。
北朝には大方の公家も従っているし、幕府の後援もあります。南朝との差は歴然です。
それでも南朝は、南北朝合体(1392年)までそれなりの存在意義があったんですよね!?
はたまた「後南朝」なんてのもありました。このあたり、うまく説明できる方お願いします。
足利兄弟が喧嘩を始めたのがすべての元凶、と言うのは極端だが
喧嘩の原因が荘園の本所の権利回復をどうするかの方針にあることは確実。
蒙古襲来以前から弱肉強食の経済原理がまかり通るのが鎌倉中期の日本の
現実で荘園の所有者が流動化してそれまでの家格などの秩序が崩れだした。
武士でも公家でも庶流でも嫡流に取って代わろうとする下克上が珍しくなくなって
きた。分裂、抗争が当たり前の時代になったのだから担ぐためのシンボルも分裂しだした。
ついでに言うと応仁の乱以降は将軍も分裂したよ。 >>70
まずは自分たちの利益を尊重してくれる人間を担ごうとするし、
担がれた方も担ぎ手の利益を守ろうとする。
次に担がれた人間に自分たちの利益を守る力が無い時、少々怪しくても
自分たちの意になる人間に挿げ替えようとする。
最後には自分が直接政権を奪取する。
南北朝期は上で言う第二段階だった。 持明院統と二条派、大覚寺統と京極派の組み合わせなら
面白かっただろうにね。 「吉野朝の悲歌」が京極派調で詠まれていたら新葉集は日本文学史上に
得意な地位を占めていただろう。 二条派のほうがオーソドックスかつ優勢だったように大覚寺統の方が
本来有利だったのに・・・なぜこうなった。
権力亡者の後醍醐のせいか、女狂いに走った亀山のせいか、
密教にはまって院政を止めてしまった後宇多のせいか。
>>74
後二条天皇早世がターニングポイントでしょうな。
後二条の皇子がまだ幼かったために後宇多はやむなく後二条の弟後醍醐を
臨時的に即位させた(→後二条の系統に皇統を返す約束だった)。
しかし、本来大覚寺統の傍系であった後醍醐が持明院統はおろか
自分の兄である後二条の系統も無視してわが子に皇統を伝えようとしたことから
大混乱に陥った。 大覚寺統の方が有利だったってのは、単なる「従来イメージ」のような気がしなくはない。
むしろ、非主流派ゆえに色々と悪あがきする中で力を付けた気がする。 >>76
後嵯峨天皇は生前、後深草の系統を断ち切って
亀山を天皇に、その子後宇多を皇太子に定めて死んだので、
この時点では亀山の系統(大覚寺統)が正統だ。
しかし、亀山は西園寺家の后を冷遇したために西園寺家と不仲になった。
起死回生をかけた西園寺実兼が関東申次の座を利用して鎌倉幕府に図り、
後深草の庶子(伏見天皇)を皇太子に立て、自分の娘を伏見天皇の中宮に差し出した。
西園寺実兼の入れ知恵がなければそもそも持明院統は成立しなかった。 先日、河原町から南下して京都の街中をぶらついていたら、「長講堂」を発見した。
南北朝対立の遠因でもある史跡なんで、妙に感動してしまった。 >>78
長講堂って、元は今の京都御所にあった筈
京都御所の元になった里内裏の土御門東洞院殿の隣にあったのだが、
土御門東洞院殿が御所として固定化されたために室町時代初期に拡張工事が行われたために立ち退きになった筈。
土御門東洞院殿を御所として固定化したのは、光厳院だと言われているから、いろんな意味で北朝と縁が深い。 >>79
長講堂がもともとあった場所は六条西洞院だよ
もともとは後白河法皇の院御所六条殿の中に設けられた持仏堂
現在も後白河法皇の念持仏を所有
後白河法皇は六条殿で亡くなっている
豊臣秀吉が洛中改革をした際に現在の寺町通に移転した
土御門東洞院内裏(現在の京都御所)とは全く場所が違う 亀山院も最後には色ボケして、末子恒明親王を帝にしようとしたからな。
西園寺を宥めるためとはいえ、情けないことだ。 それも間違い、
1207年の火災で六条にあった長講堂が焼けた後に一時的に土御門東洞院殿の南隣の場所に移転して六条の長講堂が再建された後も当該地区の土地と建物は長講堂の所有だった。
1401年の火災後の土御門東洞院殿の再建の際に足利義満が長講堂から土地を接収して南側に土御門東洞院殿を拡張した。 >>81
晩年に寵愛した若い妃に色狂いして末子を天皇にするなんて
鳥羽上皇(第八皇子を即位させ近衛天皇とする)
後白河上皇(第六皇子を即位させ高倉天皇とする)など大勢いるじゃん
むしろ天皇家のお家芸 >>84
院政時代になって初めて出てきた例だよね。
上皇になってから生まれた子供は、本来天皇になれないはずなのに。 >>81,84
そもそも、両統迭立のきっかけを作った後嵯峨自身が。
そして同様の意図を持った亀山・後宇多は意図をくじかれて逼塞する。
大覚寺統の初代である亀山即位の例は、結局は引き継がれず、否定されたわけだよな。
>>86
後深草と亀山は同母兄弟で、かつ母は中宮だ。
ちょいと亀山の例とは異なるだろう。 >>86
亀山の母は後深草の母と同じで、後嵯峨晩年の子ではない。
中宮腹に男子が2人以上いた場合、兄弟相続するのは普通だよ。
亀山は弟の系統であったために即位は否定されたというが、そもそも弟の系統が残っている例も多い。
朱雀天皇(兄)・村上天皇(弟)・・・弟村上天皇の系統が残る
後一条天皇(兄)・後朱雀天皇(弟)・・・弟後朱雀天皇の系統が残る
崇徳天皇(兄)・後白河天皇(弟)・・・弟後白河天皇の系統が残る >>75
そこが南朝を好きになれない理由の一つだな
後醍醐は後二条の木寺宮家に皇位を譲れば印象が変わってた 後宇多が後二条亡き後、後醍醐に帝位をまわしたのが大覚寺の運の尽き。
後醍醐が後二条の系統の皇子を養子に取ればまだよかったんだが、
院政を否定した以上この解決策も実行不可能。
突き詰めて言うと、大覚寺統後醍醐流vs持明院+その他大覚寺だったわけで、
それを五分の勝負に持ち込んだ後醍醐を立派と言うべきなのか??? >>90
後醍醐は武力で既成概念を打ち破った
これまでの天皇家の二朝分裂や兄弟の礼といった従来の枠から飛び出して
新王朝を打ち立てたに近かったんだと思う
自分が建武新王朝初代だから2代目は自分の子が就くで問題ない
まあ、兄の遺児が即位できなかった例というのは後醍醐以外にもあるしね >>91
建武という年号を立てたのも、新王朝を意識してるのかもね。
後漢の劉秀も王家の一族だけど傍流でありながら天下を取った。
後醍醐の意識の中に劉秀が居たのは間違いあるまい。 >>90
後醍醐も後院を設置しているから、いずれ院政を構想していたことは確か。
ただ、建武政権が早期に崩壊したために譲位するタイミングを逃しただけ。 院政と言うのはあくまでも後継者を定めるのが最大の目的だからね
勿論、実権までを譲り渡すなんて論外。 >>93
延喜・天暦の時代を理想として生きたのだから、天皇親政を貫きたかったのでは?
>>95
そもそも延喜・天暦は自己正当化のための主張だと思うけど >>96
天皇大権を阻害する摂関を排除する口実だから、
当然に院政も否定することになると思う。 院政は皇位と天皇家の家督が分裂した状態。
家督掌握者が、意中の親族に皇位だけを譲った状態が院政。
莫大な荘園を抱えていた頃は国家を動かす権力を持っていたが、朝廷の権威が落ち、武家政権に養われるようになるとその権限もコップの中の嵐みたいなものになった。 神戸の後醍醐天皇行在所
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。
境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、
明治後合併廃寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりました。
また〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されています。 >>98
そりゃ違うだろ。
家督は院のほう。
天皇が家督を保持していない状態が院政。 >>100
>家督は院
>>98も同じこと書いてると思うが? 大覚寺統にしても長男筋は後醍醐天皇ではなく、
後醍醐天皇は執拗に彼等に干渉し長男筋を皇位につけないようにした。
だから大覚寺統でも長男の方は北朝方だった。 >>103
そもそも大覚寺統の始まり亀山天皇は第七皇子だぞ
ちなみに持明院統の始まり後深草天皇は第四皇子だが
どっちも長男系ではない >>103
後醍醐天皇の異母兄、後二条天皇の中宮は名門徳大寺家の出身だったが、
不仲のため別居しており、後二条天皇は徳大寺家からの支援を受けられなかった。
後二条天皇の遺児邦良・邦省親王は、典侍五辻宗子との子。
五辻宗子は後醍醐母五辻忠子の姪で、宗子の父は後二条天皇の在位中に死亡、
邦良・邦省親王は外戚の力も弱かった。 >>105
だが、邦良・邦省親王らは祖父である後宇多上皇の強いバックアップがあったぞ。
その対立で後醍醐帝に敗れたことで力を落とし、失意のうちに衰弱死したとまで... >>106
邦良親王はもともと虚弱体質
後宇多は邦良親王を大覚寺統正統と考えていたとも言われるが、
持明院統に対決しうる強い帝王が誕生するならば必ずしも後醍醐を否定していなかった。
後宇多は両統迭立の上限である10年を超えても退位しない後醍醐を咎めることもなく、
皇太子邦良親王(この時期、天皇も皇太子も大覚寺統だった)への攘位を強要することもないまま没している。 >>107
もうこの頃の後宇多は密教三昧で政治からは遠のいているから
なあ。なにより譲位がいやで討幕運動を起こしたことが後醍醐
の立場を一番良く説明している。 >>108
後醍醐が討幕活動してたときの皇太子は持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)
邦良親王に譲るのが嫌で討幕志したわけではない(邦良親王はすでに死亡)
日本の歴史上、天皇家が権力闘争して兄系から弟系になったことはいくらでもあるし
後醍醐だけが特殊だったとはいえない >>109
邦良だろうが、量仁だろうが、一旦譲位をしたら自己の子孫が皇位を継承する可能性が限りなく低くなると言う点では何ら変わりがない。 まあ後醍醐は譲位したはずの新田に同行した恒良の皇位をさらっと
否定しているから自分のことしか考えていないかも。 >>110
我が子継承を優先したという点では歴代すべての天皇がそうだろ
願いがかなったにしろ叶わなかったにしろ
皇統をたがえたという点では(当初予定されていた通りに皇位を継がせなかった)
白河天皇、桓武天皇、天智天皇、後一条天皇・・・たくさんいるぞ
傍系相続など天皇家では当然のことで自分の子に皇位を望まなかった天皇など一人もいなかった まあ、そうだな。
しかも、中世には幼少期に即位して、自分の意思に関係なく皇太子を決められてしまった(または譲位させられた)ために、
別の実子を後継者にしようと目論む天皇や治天は多かったよな。
鳥羽上皇(近衛を避けようとした)とかさ。
それが大覚寺統では特に顕著で、ほぼ全員が問題を抱えていたみたいだな。
だからさ、
「いつの時代もそうだった」みたいな大雑把な括りしたら学問にならんじゃんよ
自分のやりたいように出来るか出来ないかってのは100%か0%じゃなくて
その時代や環境によっていろいろ微妙なあわいが生じるだろ
そのグラデーションの中に差異があるわけで >>114
スレの流れ見てる?
「我が子継承を願った後醍醐は特殊で異常な天皇。そのせいで天皇家は分断。
だまって兄の子なり持明院統なりに帝位を譲るのが正常な天皇」
が正しいとはいえねえぞ?
後醍醐以前の持明院・大覚寺の各天皇の熾烈な帝位争いを
無視するのは無知な証拠。 >>68
ミヤコ(都)の語が面白い。
住めば都は冗談にせよ、ミヤコは天皇のいる空間のはず。
ところが後村上ほかの歌では、都は吉野や賀名生ではなく、明らかに京都を指している。
少なくとも後村上にとって、京都は帰るべき土地であり続けた。
今谷明先生は「中世の天皇は基本的に京都にいるもの」と喝破しておられた。 >>76
案外、大覚寺には正統性への不安があったのかも知れない。
鎌倉後期の勅撰集は、大覚寺が4、持明院が1だが、後宇多は2回も編ませている。
これは大覚寺統の不安が背景にあったかも知れない。
後光厳が2度も勅撰集を編ませたのも、崇光を押しのけて王位を継いだという不安があったかも…?
まあ二十一代集が新葉集を数に入れないことが何よりも北朝正統論を象徴してると思うのだが。 >>72-74
おそらく黙殺に近い扱いを受けていたと思われ。
江戸時代まで、京極流和歌は受けが良かったわけではない。
近代になって土岐善麿(哀果)が再評価するようになっても、一部識者の愛好の域を出ない。
「吉野朝の悲歌」とは言っても、後世の我々が勝手に望むような戦いの歌なんか無い。
和歌は、心を落ち着けるもの、神仏に祈るものではあっても、殺戮を賛美するようなものではなかった。
京極派も得意としたのは風景を詠むことで、その点では定家の流れ以外の何者でもなかった。 >>117
勅撰集の数で正統性への不安を推し量ることなどできないよw
後宇多天皇が和歌への造詣が深かったというだけで…
後嵯峨天皇の遺志が亀山天皇にあったことは大宮院も鎌倉幕府も認めるところで、
関東申次を世襲する西園寺家への配慮から幕府は持明院統の即位を認めたに過ぎない。
当時、鎌倉幕府は両統迭立を保証しており、大きな不安があったとは思えない。
持明院統へのライバル心は常にあっただろうが、
後宇多自身、後深草の后腹内親王を妻にするなど別の融合も見せている。 >>117-119
大覚寺統が自前の祭祀施設(ってなんじゃらほい)を持たなくて、
新規造営する必要があったとかいうし、
大覚寺統の成立当初には非主流派扱いだったと考えざるを得ないかな
その影響もあってか、建武政権は伝統破壊の新規政策が非常に多い >>119
持明院統と大覚寺統の関係は複雑怪奇だよね。
後醍醐皇女が光厳院と結婚していたり。
さすがに勅撰集は天皇の正統性の根拠とするほどのものではなかろうが、
南朝方の和歌が北朝の勅撰集に入れてもらえなかったであろうことも事実であり、
勅撰集の意外な性格が露呈した一件とは言える。
ちなみに、最後の勅撰集(南北合体後の唯一の勅撰集でもある)
『新続古今和歌集』には「後亀山院」の名で収録されており、院号は公認されていた。
長慶院は「よみひとしらず」として収録されていて、
長慶が北朝方にどう認識されていたかの指標とはなるかも。
長慶が長らく即位したかもハッキリしない帝だったことはご存知のとおり。 >>121
>>117-119 は鎌倉時代後期の話でしょ。南北朝時代の話じゃない。
南北朝時代(後醍醐天皇が吉野に南朝を開いてから南北朝合一まで)には北朝の勅撰集に南朝が入らず
南朝の准勅撰和歌集「新葉和歌集」に北朝の歌が入らないのは当たり前のことで…
(そもそも住む土地柄・距離も離れており、同時に歌会などやっていない)
鎌倉時代には天皇は大覚寺統と持明院統一があっても、廷臣は基本はどちらの天皇にも仕えるので
大覚寺統よりの公家は持明院統天皇の勅撰和歌集に入らないとか(またはその逆とか)はない >>120
大覚寺統が設立時に作った自前の祭祀施設というのを聞いたことがないが、
史料を提示してくれるかい?
大覚寺統初代の亀山天皇は後嵯峨天皇の皇子で、後深草天皇の皇太弟に立ってから即位、
祭祀施設を作る必要などなかったはずだが?
亀山法皇や後宇多法皇が大覚寺で院政を取ったことを言っているのかい?
亀山・後宇多天皇は退位後、出家して法皇となり、大覚寺に住んだ。
大覚寺は平安時代に開かれ代々法親王が住職を勤めた門跡寺院。
独自の祭祀施設でもなんでもない。 古筆を見ていると 後深草院と亀山院では 身体が不健康で色好みと言われる兄後深草院の方が能筆って感じを受ける
写真の掲載数も多いし 子の伏見院が本朝一の能書帝と言われるし すでに現役の天皇と、その実子である皇太子が存在していて、
彼らの反対が通ったからだろ 岩手県の座敷わらしの宿のご先祖が南朝の公家で後醍醐天皇の側近だった
万里小路藤房の子孫だという話を見たけどどうやって南朝の公家が岩手県で
暮らすことになったかちゃんと読むの忘れた 南朝を支えたのは名門の小石一族だと聞きました。
子孫の小石さんから直接聞いたのですが本当ですか? その小石さんって家ではそういう伝承があってもおかしくない
って程度の話だろ なるほど、源平の戦いでも小石一族が源氏を支えて勝ったみたいです。 (信憑性はともかくとして)
その手の祖先伝承を残してる家は少なくないんじゃないかって事だろうに...
130のレスによって、その家の祖先伝承の信憑性が大幅に低下したな >>89
貴見のごとく、
木寺宮家が大覚寺統の正統なり!
ところで、戦国時代までなんとか 血脈を伝えてた
木寺宮家を 最終的に断絶させたのは 誰?
某・トンデモ(?)本では、松平氏みたいに書いてあったやうな??? >>134
だが、すんなりと木寺宮家に皇位を譲り渡すような人柄だったらそもそも倒幕なんて目論むはずがなかったとも言える 南北朝争乱が 現代の我々に 残してくれた
唯一の 恩恵とは ?
答:
おかげで、少女マンガの傑作 『ガラスの仮面』が 生まれた^^ 長子優先、親の遺言優先の視点からは、後醍醐は親不孝、兄不孝かも知れない。
しかし平安の昔から、天皇や上皇が親の遺志に反することを平気でやってたのも事実。
南朝正統論て結局、南朝びいきの人が無理矢理こじつけたものでしかないよね。
きわめてプロパガンダ性が強い。 だって、北畠親房すら、長子相続を正しいとしながら、後嵯峨以降はなかったことにしているし。 なんでゼロか100かって発想するかね
大覚寺統の論理において長子相続ってのは
相対的な正当性の根拠にはなるってだけで先帝の意志のほうが優先順位は高いだろ
だから別に長子相続が全面否定されてはいないわけで
長子相続が絶対的な正当性の唯一の根拠だったようにいうやつはあほなのか まーた北朝狂信者が発狂してるのか
血筋的には北朝の末裔である明治天皇がわざわざ南朝が正統だと宣言したという事の意味すら分かんないのかね
やれやれだぜ >>137
持明院統の初代、後深草天皇は第四皇子。
長子ではないよ。
鎌倉幕府の親王将軍となった宗尊親王が第一皇子で後深草の兄だから。 あげあし取り楽しいかね?w
宗尊親王は確かに生まれた順番しかみなければ長子ってことしかわからんだろ
確かに長子だよ。なんで天皇にならなかったのかよく調べてみ >>137 =>>142
自分の間違いを指摘されると揚げ足取り?
長子優先なら長子である宗尊親王と言っただけ
お前の言っていることが間違いなのであって長子優先ではなく嫡子優先だろ
しかも嫡子は父親の権限で決めることができる
同じ母親から生まれた兄弟であっても兄を廃嫡して弟に家督を譲るなんて
天皇家の歴史ではいくらでもある
よく調べてみ だが、肝心の「先帝の遺志」ってのがな。
後嵯峨帝の遺志は明証のあるものはなく、当時から疑う人が少なくなかった
一方で、大覚寺統の諸帝で、末子を次期皇太子にしたいと明言のうえで根回しまでしておきながら、実子によって無視された例は多かった
遺志とやらの優先度が高いのであれば、先帝の遺言を反故にした大覚寺統の諸帝は不実を働いたことになるな
だが、その件で後世の人間から責められたわけではない。
先帝の遺志なんざ、その程度の物なのさ >>144
だから、鎌倉幕府は大宮院に聞いてるよね
後深草・亀山両帝の実母であり後嵯峨の中宮であった大宮院が
後嵯峨の遺志は亀山にあったといったので亀山が正統になった
晩年に末子を帝にしようとした噂があるのは亀山だろ
ただしこれを聞いたと言っているのは亀山の末子恒明親王の叔父である西園寺公衡のみだった
女院の発言と親王外戚の発言は一緒にできない
当時院政をしいていた後宇多は亀山から何も聞いておらず反故にされた そりゃあ、後二条の子孫に皇位を継承させる方針だったのだから聞いていても反故にするわな>後宇多 >>145
聞いていなかったとは考えにくい内容の史料も有るぞ 亀山院自身が、後宇多、伏見両院に話して了解を得たと
いう恒明親王宛書状を残していたのではなかったかな。 >>148
そういったものは残っていないはず
亀山の死後、後宇多と対立する西園寺公衡・昭訓門院が持明院統伏見上皇に近づき
恒明親王の立坊を条件に後二条の早期退位と富仁親王(花園天皇)の早期即位を了承
持明院統側から恒明親王の立坊を求める書状が幕府に送られたことはある
ただし後宇多がこの件を了承した記録は残ってないはず 宸翰英華 第一冊
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586902
の43号文書ってのが、148の内容だろ
文書を書き残した亀山院が後宇多の了承を得たと認識していたことはわかる
後宇多が本当に了承したかどうかを確定することはできないだろうがな。
騙してたとか、言葉巧みに誤魔化してたとかの可能性があるし。 >>150
当時は後二条天皇にまだ皇子がなかったので
後二条の次にはそれより幼い叔父恒明親王をというのはあり得たのだろうね
後宇多といえどもまだ孫が産まれていなかったのだから
弟を皇位に立てよという意見を無下にはできなかった
後二条に皇子があっても亀山がまだ恒明親王立坊にこだわったかは微妙だろう
後深草にすでに皇子がいるのに亀山皇子を立坊させた後嵯峨とは違う 後鳥羽を後醍醐と入れ替えてたら少なくとも半世紀以上は続く
朝廷主導の安定政権ができてたと思うわ。後鳥羽の時であれば
むしろ朝廷有利だった。後鳥羽の根回しとか戦争指導がカスで
あっただけで。
後醍醐の時じゃもう手遅れ。 後醍醐帝前半(倒幕前)には、後醍醐帝のような強いリーダーシップを望む廷臣も少なくなかったが、
後鳥羽帝の頃の朝廷にはいなかっただろ
だから、もっと早期に見捨てられて終わってただけかもしれん。
つまり、承久の乱と大差ない結果に終わっただけで、どっちでもかわらんかったンじゃね。 >>153
朝廷を要因とするよりも幕府の方が問題ありすぎだろ。
政子の大見得も後醍醐の頃に言ったら、「何言ってんだこいつ。」だろ。
足利、新田に限らず、御内人の安東蓮聖もバックれるなど御家人の大量
反逆にあったのではどうしようもない。 >>144
観念上の正統性のことをいってるんだよ
もまえのいうような実態があったればこそ大覚寺統は
木寺宮、常盤井宮に分裂してるだろ >>156
概念上って言うと、後々まで存続しえた方が、存続した方の祖先が正統
漢王朝の正統を引き継いだと自称する蜀漢より、禅譲を受けたと称した魏の方が実際には正統だったのと同様、
中央を逐われて辺境に落ち延びた時点で亡命政権。
捲土重来して中央政権として復活できたならともかく、最後まで亡命政権に終わった以上、政権としての正統性なんてない。
というより、政権ですらない。 >>157
おまえが言ってんのは単に勝ったほうが正統っていう薄っぺらい話
そう思ってんなら最初からそう言えばよかったのに。
「概念」も糞もぜんぜん関係ないじゃんw 正統の基本は「勝てば官軍」だぞ
この「ば」は仮定形ではなく已然形(過去形みたいなもの)であって、「勝ったから官軍」みたいな意味だろ
衰退消滅した亡命政権に正統性を見いだすようなのは、なんらかの自己投影による特殊意見。
北宋南宋の頃の中国人たちが、北方遊牧民の圧迫を受ける自分たちの境遇を蜀漢に投影して作り出した蜀漢正統説と同類
南朝/大覚寺統と同様な形で皇統を逐われた「元」正統なんて、他にも複数あったのに、
大覚寺統以外は全無視する恣意的な視点なんてゴミ同然 何故か負けた方の南朝が正統だと後の天皇が宣言してしまうのが歴史
勝てば官軍(キリッ >>159
違うね。
もまえの言ってることはただの事実認定、
そんなアカラサマな物理条件なら「正統」という観念自体なくて済む。
そうじゃなくて正統とはまさに「勝てば官軍」の逆なんだよ
敗北したにもかかわらずそこで無に帰すことなく残されてしまった
精神的か道義的か文化的か心理的か何らかの不条理感を
救済し説明し納得するためにもちだされる概念が「正統」なんだよ 正統争いをする連中は常に、自分こそが正統と標榜して、相応の理屈をつけるものだ。
それに、それらの理屈がどんなに正しいとしても、正しい理屈をつけた側が最後まで勝ち残ることはないしな。
それともなにか?
負けた側による自己憐憫の道具、オナヌーのことを正統とでも呼ぶのかね? >正統争いをする連中は常に、自分こそが正統と標榜して、相応の理屈をつけるもの
そうだな
>理屈がどんなに正しいとしても、正しい理屈をつけた側が最後まで勝ち残ることはない
そんな誰でも知ってることをわざわざ書いて、何か反論できてるような空気作り?
>負けた側による自己憐憫の道具、オナヌーのことを正統とでも呼ぶのかね?
そういうのももちろんあるだろうな 勝ってる側は自分の正統性に理屈をつけることに必死にはならん
負けてるからこそ必死に理屈をこねるもんだ
だから逆説的に、一見して正しそうに見える方が負ける。
勝ってる方は、勝っていることそれ自体が正統性の根拠たりえるから、わざわざ理屈をつけようとまでは考えない。
南朝は、敗者だからこそ理屈にこだわらざるを得なく、
北朝は理屈をこねるまでもなく勝者だったから、自分の正統性を主張するための理屈を作ろうという意欲を持たなかった
後の人間が、両者の理屈を並べて比べたら、北朝側になんの主張も見えないのは当然だな。
だが、その理屈は正統性の根拠にはなりえんのだよ。
理屈と膏薬はどこへでも付く と言ってな、負けて消え去った敗北者であろうとも、その正統性を主張する理屈などいくらでも作れるぜ!
って程度の意味しかないんだよ。
敗者の自己憐憫の産物が、たまたま数百年後に発掘されて再利用されただけといった方がいい。 多くの武士にとっては武家政権のほうが良いいのだから
朝廷直属の軍隊つくらないかぎり
武家政権側が勝つだろうな 後醍醐帝が天下とった時に一つに統一しておけばよかった >>166
いや、統一しようとしたでしょ
その施策があまり受け入れられずに反感買ってひっくり返されただけ。 光厳天皇と後村上天皇以降の南朝の天皇を天皇ではなかったことにすればスマートじゃないかな 後醍醐天皇は光厳上皇の姉と結婚
光厳上皇は後醍醐天皇の皇女と結婚
で血統統一しようとした、後醍醐天皇は >>168
後醍醐帝が廃位され島流しされてた期間の天皇として実働してた光厳天皇を外すなんて論外で、
南朝正統論の色眼鏡が反映されてるだけだぞ
光厳を外すなら古代の弘文天皇とかも外さないと片手落ちだ それと、後村上天皇はごく短期間だけとは言え京都を制圧して崇光天皇たちを正解から放逐し吉野へ拉致したわけで、
この短期間に関して、天皇としての実働を認めるべきだとは思うわけよ。
それ以外の期間には天皇とは認められないけどな。 >>170
光厳を外さないとなると後醍醐を無理やり重祚したことにしないといけなくなる
もしくは建武の新政を無視するか
やはり重祚した事実がない以上は光厳排除が妥当かなと思った それ以外の天皇については後小松が南朝の譲位を受けて改めて即位したわけではない以上、その皇位は誰から受け継いだものかというと
後光厳、後円融、崇光、光明とさかのぼるわけだよね
この流れが正統だと個人的に思う
弘文の即位は否定してもどちらでもいいや そしておそらく後醍醐が光明に渡した神器は本物だろうからね
神器のありかはどうでもいいが、後醍醐が光明に譲位したとするのが妥当
問題は
後醍醐→光厳→後醍醐→光明
後醍醐→光明
後醍醐→光厳→空位→光明
この中では光厳をなかったことにするのがいいかなと >>172
事実上は重祚じゃん、重祚じゃないと自称してるだけで。 全部読まんとレスしてた、すまん
>>174
朝廷を動かしてた実態としては後醍醐重祚以外は全て実態に合わない
幕府と戦って敗れた後醍醐は、幕府軍を恐れる朝廷の要人たちによって廃位されて遠流に処され、
当時皇太子だった光厳が即位して朝廷を主導したが、まもなく後醍醐派の勝利によって光厳廃位となったのが実態
この際に、正式な手続きをせず、自分は退位していなかったと強弁して光厳即位の事実そのものを無かったことにしたところから周辺事情が混沌と化していったんだろ
光厳が朝廷を主導していた時期に後醍醐が帝位を保持し得ていなかった事実を無視してはいけないよ。と宮内庁には言いたい >>172
重祚した事実を無理やり否定しようとしても意味ないぞ。 >>178
手続きはしてないだろ
光厳時代の公家とかを政界追放したりもしてるし、かなり無道な人 (鎌倉)幕府軍に負けて遠流に処された際には、退位の手続きをさせられていなかった可能性なんて無いだろ
それを、何の手続きも踏まずに、(自分が幕府軍に負けてから今までの人事は)全部無効と宣言して一方的に反故にしたんだろ >>181
後醍醐、後村上の頃には摂関家や西園寺家が兄弟で
それぞれ南朝と北朝に分かれるなど拮抗していた時期もある
公家社会を敵に回していたわけではない >>182
吉野側の公家は少数派だろ
南北両朝に別れた公家はいくつもあるけど、それは各家の継承争いが原因の場合が多いので、
北朝で居場所がなくてしかたなく吉野に行った人の方が多いわけ。
一家一門をあげて吉野側についた公家は、かなり少ない。
ましてや、朝廷の実務を動かす官人で吉野に行った人なんてほとんどいない。
公家社会を動かしていた人々の大多数は北朝支持だったわけで。(といっても、その基準が在京か亡命政府かという点に求められた場合のが多いんだろうけど)
少なくとも、後醍醐の政権運営が多くの公家に批判されたのは間違いない。
南朝の重鎮たる北畠親房も政権批判を書物として残したぐらいに多く、後醍醐に対する批判があった。 >>183
そんなことはない
摂家筆頭の近衛家や西園寺家では
当代の関白が後醍醐天皇に従って南朝入りしている
北朝方の公家だって光厳上皇や足利尊氏を褒めてはいない
園太暦を読むとどちらが都に取って代わるか分からない状況下で
都に残った公家たちが南朝を「南帝」と呼びその後も敬意を表していたことが分かる
親房は後醍醐天皇批判をしているわけではない え、親房は後醍醐天皇の政策の多くに対して批判と愚痴を書き残したじゃん 親房は原理主義者で頭が固く、そのせいで3上皇+萩原前坊を拉致したのに講和に失敗した。
これほど南朝に有利な交渉材料は無かったのに、西園寺寧子を担がれて全部パー。 >>187
少なくとも観応年間には開祖の後醍醐は死んでいた。
親房が現実路線に転換しても何の問題も無かった。
後醍醐は皇位を子孫が独占継承することと引換に、
政治を武家に委ねていれば時代に合った安定した社会が作れただろう。 >>188
足利の娘を中宮に立てて武家におもねる必要があっただろうがなあ
尊氏は娘の鶴王を崇光天皇の中宮に立てようとしていた
娘が若死にして実現しなかったが朝廷に文句言って
死後に崇光院后として従一位とと頼子という諱を与えてもらった
公家が「無位の人にいきなり従一位は先例がない」と言ってもお構いなし 鎌倉幕府→大姫入内工作
足利幕府→鶴王入内工作
徳川幕府→和子入内工作
幕府の創設者は娘の入内を指向するようです。 今は正統は、南朝だけです、自分の家系も南朝に奉公してた時期もあったみたいですが(800年以上前)、戦後しばらくまでは、高知県からまで行商人を装った密偵(ほぼそうだと思う)が来てました(実家は東北)、しばらく奉公もしてないので、今は見捨てられたみたいです。
カンのおもむくまま、独学で勉強したため、少しは、からくりが分かるつもりです(かなり複雑で普通の人にはまずわかりません)。
その奥深さに驚くと共に、真の日本の支配層には尊敬します。 >>193
あなたが信じる国は七百人近く前に滅亡して歴史から消え去りました
あなたが「どこにも存在しない国」の国民だというのであれば、
実在国家「日本国」の国民ではありません。 800年以上前に「南朝」につかえていたのか。どこの国の南朝だろうね。 800年前が1215年、鎌倉幕府が1186年ごろに成立してから30年ぐらい、承久の乱が1221年で、その6年前。
討幕準備を始めつつあった後鳥羽上皇の様々な行動にたいして幕府がまだ個別に対応してて動きのほとんどが水面下だった頃か
それより昔の南朝?
言われてみれば、すごく意味不明だ。中国の南北朝時代には、日本はまだ先史時代だしなあ 安徳天皇の系譜なら可能性はあるな。
薩摩に逃れたのを南朝と呼んだか? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まあ結局のとこ、天罰が下って滅亡して、子孫もいないわけだしな。
それでも100年ほどはゴキブリのごとく、しぶとい抵抗を続けてはいたけども。 今の天皇は北朝の血筋。
その北朝を否定する事は天皇制廃止を主張するに等しい。
今から南朝の天皇を即位させろとでも言うのか? 南朝正統論は天皇制廃止を目論む者に利用されてるのが実情。
今の天皇は正統じゃないから天皇位を剥奪すべきだと。
天皇制の存続を求めるなら明治政権の決定を覆して北朝を
正統と国会で決議して今上天皇の口から公表する必要がある。 安徳天皇は平資盛らに伴われて硫黄島に逃れた。
現地で天寿を全うし、崩御したのは1244年だったという。 >>207
偽神器しかもってなかった南朝が正統って太平記史観乙
空箱しかもってなかったのは後期北朝(後光厳〜)
南朝も正平の御一統までは偽神器しかもってなかった 9割以上、馬鹿の集まりの2ちゃんねるって聞きますが、ここもそうですか。 は?
俺は別に学者じゃないけど? そしてここは学界じゃないんですけど?
学者は正統性って概念をしっててもそれを価値基準にはしないから
左翼学者でも定年退職したら天皇から勲章もらって喜んでんだろ
別にそれはそれでいいと思うけど。
>>209の発言は俺だけど
それは>>207のツッコミに乗ってやっただけだw >>205 でも、北朝正統論になると、楠木正成の贈正一位はつじつまが
合わなくなるぞ。どうするのだろう? >>214
「一応北朝を正統にするけど南朝も王朝として認める。
楠木や新田などは南北朝の争いの犠牲者として尊重する。
南朝側人物への贈位等も従来通りとする。」で良い。 >>215 正成が贈正一位だけど、尊氏が贈従一位。いまさら、贈っても何だし、
正成の格下げもおかしい。北朝の大忠臣の尊氏の処遇をどうする? >>216
求心力のないヘボ政府こそが、そういう風に過去の人物に位階の追贈とかをやって人気取りするんだよね、
としか言いようがない。
今は、その種の位階追贈はしない。バカは無視しとけってな感じかと >>218 政治家の没後贈位については、関係者は気にしているが。 >>220 やはり、官位が逆転しているのはおかしい。尊氏に太上天皇にしておけば
いい。あと、北朝と南朝との差は北朝にインフレ贈官位をすればよい。 >>222
皇室領の荘園を分割して持明院統にも大覚寺統にも十分な規模の領地を持たせたから、
両統迭立なんてのが始まったんだよ
亀山を跡継ぎにしたかったなら、後深草にあれほど大きな領地を渡さなかったはずなんだ >>224
それゆえに北条から乗り換えて倒幕に走ったんだろ、筋が通ってるじゃん
中先代の乱の時には、自分自身の存亡にかかわる件だから、後醍醐の命令に従うわけにいかなかっただけ
それ以後、何度も関係修復を求めた尊氏に対し、降服以外認めないとか無茶ばかりいって対決姿勢を崩さなかった後醍醐の強硬姿勢がなかったら、大覚寺統が滅び去ることはなかっただろうにな。
後醍醐帝の子孫が滅亡した原因は後醍醐帝の失策に帰結する >>151
亀山院は恒明をゴリ押ししようとして結局自分の系統を混乱の上に断絶させる結果となった
もっとも恒明の系統を嫡流にしろという意味かまでは曖昧だが 傍流の傍流たるところは分裂を再生産する点
その意味でも大覚寺統は傍流の典型 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった どうして南北朝関連でも恒明親王に触れる書籍が少ないのかが不思議
彼の存在を踏まえてこそあの時代も一層劇的になるのに >>231
1つには、この時代を特に注目する人の多くが後醍醐正統説のイデオロギー汚染されてて実態を正しく見れてないとかでは?
研究者の本では、そういうのは少ないと思うんだけど、この時代を特に研究してる人が研究者の中には少ないんじゃないかと
森先生以外の本を読んだ記憶がないぐらいにレア? なるべくしてなったという解釈をしたい後醍醐信者としては妥協の産物だなどと思いたくもないわけか >>233
鎌倉時代末頃の足利氏って、たしかに本貫地は足利荘だけど、一族の多くは鎌倉で生まれ、鎌倉で生活してるわけだし、
足利氏の領地である諸国の荘園は極めて多数あり、その大国は代官を派遣するだけで、そこに自ら足を運ぶことは少ない状態。
足利一門の有力者たちの中には、足利の地に赴いたことのある人はいなかったんじゃない?
それに経済的には、足利一門の領有する荘園全体のうちに占める足利荘の比重は1%にも満たないわけだろ。
足利氏の当主たちにとっての足利荘の意味は、天皇家における三種の神器とかと大差ない、シンボル的な役割だったんじゃないかなあ。
足利氏傍流の家の多くが苗字の地としてる三河を筆頭に、美濃とか尾張、近江、あと丹波あたりとかの所領の方が、
少なくとも財政の面では足利氏にとって重要だったんじゃないかな。 とにかく母親の件もあって後宇多としてはあくまで恒明に皇位が渡らないための後醍醐の起用だったはず
ただし立坊以後の後醍醐が急速に力を付けてしまい後宇多系としての大勢を掌握してしまったのが計算違いだったか 公家たちの支持が割れたから長引いたんじゃないか、何を言ってるんだ。
公家たちの支持が一方に集中してたら幕府が口を挟む前に皇統が一本化されてたのに、割れて争い続けたから両統迭立になっちゃった。
そういう形で、持明院統支持の公家グループが確立された状態だったから、
後宇多(当時)上皇と対立した恒明親王は持明院統支持の公家グループを味方につけようとしたりして、第三極になったりもした。
(大覚寺統にとっての)状況を混迷化させていったんだよね
大覚寺統側の在位期間が長くなって苛ついていた持明院統側としても、大覚寺統側の早期退陣(譲位)を実現するための味方として、
恒明親王をそれなりに遇したわけで。
状況が混迷して行くにつれて大覚寺統支持の公家内でも票が割れていったし。 文保の和談って結局本当にあったのかな?
最近の研究にいまいち付いて行けない 持明院って、いまでもあるの?
大覚寺はお庭の池が人造なんだよな >>247
wikipedia>持明院(じみょういん)は、平安時代末期から江戸時代にかけて平安京北郊に存在した邸宅およびその邸内にあった寺院。
>現在の京都市上京区安楽小路町の光照院の付近にあった。鎌倉時代以降には仙洞御所や里内裏となり、持明院統の由来となる。
>邸宅を持明院殿、また寺院を安楽光院(あんらくこういん)・安楽行院(あんらくぎょういん)とも称す。
現存の寺院じゃないね
同名の寺院なら、場所がまったく違うけど、高野山に持明院という寺があるみたいだね。
いまは宿坊としての利用がメインなのかもしれん? >>240
確かに「文保の御和談」があったのならそれが積極的に破られるのは
不可解な気はするな
当時は起請文も飲んで神仏に誓ったろうし 承久の乱で紛失した2代目壺切を後深草立坊時に後嵯峨院の気分で新造して3代目壺切を進上してるけど、15年後に亀山立坊の時に何故か勝光明院の宝蔵から出て2代目壺切を進上。
それで3代目壺切は廃止されたから、結果的に東宮累代の太刀は後深草ではなく亀山に伝授されてる。
後嵯峨の死後に遺言で内裏の坂上宝剣をそのまま亀山に伝授して、昭訓門院瑛子との間の恒明親王に護身刀として授けた事に後深草が不満を抱いてる。
レガリア性を持つ壺切御剣と坂上宝剣が後嵯峨から後深草を超えて亀山に渡ってるのが運命的というか意図的というか >>249
起請文など飲むわけない
当時は親父が決めた跡取りさえ
親父が死んだら廃嫡したりしてるのに 明治維新で入れ替わって、今上天皇は南朝になったんだよね? >>252
それ、ごく一部の陰謀論者によるフカし
入れ替わろうにも南朝の皇統なんか残ってなくて、南朝の子孫と自称するヤツで信憑性のある者は皆無だった。 あちこちバラバラに散ったんじゃないの?
名和が九州に居たりするし。
後醍醐帝の皇子も各地に散ったしさ。
とはいえ、>>255のは「自称」に過ぎないと思うけども。
確実性の高いヤツは絶滅したからさ。 南北朝もだが
今も男系派と女系派で政治も民も騒乱中ですな こんどは男朝と女朝で分裂か。
男朝軍は筑波山か高尾山あたりに立てこもって、首都攻略の機を窺うのかなw >>260
吉野は都じゃない
後醍醐帝をはじめ南帝たちにとっても、吉野や賀名生は首都ではない ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 だから徐福が水田広めたって言ってるだろ、ボケ!!! 徐福は日中韓合同で世界遺産登録の話しが進められているんだぞ 日本会議の神社本庁はなんでYAHOOに明治神宮の記事もってきたんだ、
昭憲皇后ではなく昭憲皇太后なのはどうしてとか聞きたいのかな、それはだな
大室寅之祐の前の睦仁親王の皇后だったからだ。 >>263-264
徐福は日本列島に来てない
すぐに中国に戻ったって記録に残ってるだろ BC3C末、徐福一行の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲や鼎です。
灰陶も鬲も鼎もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルであり、祭器であり、死後、墓に副葬されるはずの鼎が
土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
古代中国の主力の農耕具だった石鋤などの石刃の農耕具もさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な楽器もさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器は飲食器が中心のはずですが、鬲や鼎のみならず、様々な器形の酒器も
さっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の表面を飾る文様である龍文や雷文はもちろん、龍信仰さえ伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物なども全く出土しません。
徐福なんて来ておりません。
ただ無知で馬鹿で頭の弱い知恵遅れだけがダマされる創作です。 アルコールを分解できない遺伝子を持った人は
江南〜〜北九州〜近畿・東海
地球上でここだけ まあ、たいていの人口過密地域ではアルコール分解できないと渇水期に生き延びられない強い選択圧があったから、
他の地域で少ないのはむしろ当たり前だけどな。
ヨーロッパも遊牧民の社会も、アルコール分解できないと渇え死ぬ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルは稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>270
最新の南朝正統論という感じでしたね
ただし後醍醐の血統的正統性や現在の天皇家との関係にまで突っ込んでないのがやはり相変わらずの南朝贔屓の限界という感じ
南朝が正統だというならば今の天皇家は正統でないのか
今の天皇家が正統ならば何時の時点でそうなったのかとか 南朝が正統だというならば、吉野遷都を高校の教科書に載せろ
福原遷都でさえ載ってるだろ 現在の天皇家も正統とするなら南北朝合体を絶対化し以後の後南朝を一切無視しなければならない
ところがその辺も妙に曖昧で >>274
南朝正統説が主流派だった時代には南北朝時代じゃなくて吉野朝時代と呼んでいた。
吉野朝と呼ばないことで南朝正統説を否定しているんだよ
吉野朝時代と呼ばない以上、吉野遷都はないものとみなされるわけ 南朝正当性なんて水戸の田舎侍が何か言ってただけなんだろ
そんなの間に受ける必要ない
ラーメンでも食ってろって言っとけば、それで終いだ 後醍醐は廃帝にされて隠岐に流されまた皇位に復帰してるけど、
南朝が正当というなら、ずっと天皇のままだったんでしょ
それなら隠岐遷都もあっていい わけないか >>280
遷都じゃなくて遷幸かなんかじゃないか?
>>278
複合的な理由で強弁してただけだと思うよ、理屈じゃなくて、ただただ言い張っただけ
南朝正統説の効用
1. (当時の)朝廷を相対化できる→(少なくとも短期的には)幕府の権威高揚
2.自家の祖先ということにした得川家およびその本家たる新田氏の主君だった南朝の正統性を標榜することで云々
これもやっぱり、短期的には幕府の権威を向上
そんな感じで利己的に作り出した史観がなぜか暴走して幕府排斥の理論づくりに流用されちゃっただけ 南朝正統論は黄門さんが楠木さんを顕彰なんかしたからできたんや。 むしろ後醍醐帝に厳しい文言が多い気がする
あげく、死後に魔王に生まれ変わって世に乱の種をまいたりしちゃうしな 昔、分倍河原に住んでたが
新田なんて地元民でも有り難がっていない ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>278 >>280
「正統」と「正当」は正しく使えや 大覚寺統が正式に残っていれば
皇位継承権所持者が多かっただろうね 院政の勝利か
まただからこそ終身在位の親政を目指さざるを得なかったわけだが 教えてクレクレクレクレクレクレクレクレクレクレ
後南朝は、どうなったの?確からしい説は、どんなの? 常盤井宮恒明親王は嫡流になり損ねた傍流
後醍醐帝は傍流のはずだったのを自力で覆して強引に嫡流になった
厳密にはどちらも傍流であって嫡流じゃない 正確には自流だけで南朝を作っただけ
むしろ大覚寺統からの独立かも >>295 ん?
天皇位にあるうちは荘園を持てない原則だが? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 そこが朕の新儀かも
とにかく後醍醐が依存出来る正当原則は現職優先でしかない
少なくとも即位の時点では全体合意があったのだと 高村光太郎の詩の、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
と、「朕が新儀は未来の先例たるべし」って、この部分だけ抜き出すと同じことを言ってるよね! 但しそれは先例として確立するまで自力のみでやっていかざるを得ない事も意味するわけだが むしろ乱倫の極みみたいな人物なんだがな
それこそ親も含めて うーむ、南朝側で、懐良親王が一番成功した人ですかね。
尊雅王で消滅か・・・
ちょっと出てきた西軍南帝も消滅・・・
南朝再興運動って、幕府=北朝に不満をもった人たちが、南朝皇族を利用して
暴れた、ということですかね。南朝を担ぐことで自己正当化してるんですね。 不満または危機感だろうな
粛正されそうになって、生き延びるために叛乱を起こしたって人もいるわけだし
ダメモトで南朝皇族を担ぎ出してみたけど、やっぱりダメだった、敗北して死んだ、みたいな? 後醍醐の本音としては神器ではなく自分自身に価値があると言うところだったのかも 後醍醐天皇は基本的に自己評価が高く、自分はできる子だと思い込んでるよね
でないと、あんな行動取らない
失敗しても、めげずに問題起こし続けてる GO-DIE-GO
行く、死んでも、行く
だからな ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>315
さすがに、それはないね
当時の常識として有り得ない、中年で即位した天皇なわけで、自分の立ち位置の不安定さは熟知してただろう
むしろ、「失敗しても失う物は少ない!」とばかりにアグレッシブに動いたんじゃないか。
どうせ自分の子孫にまで皇位が回ってくることはないんだから、負けても大して失うものがマジで無い。 そんな負けても大して失うものがないと割り切ってたのは足利尊氏だね
あいつはいざとなったら死ねば良いんだろって精神だったから、思い切った行動がとれた 後醍醐にとって自分と子孫が皇位を独占できなかったら天皇家などどうなっても構わないくらいの腹だったかも 即位して10年たったら退位して光厳に皇位を譲らされ、その際の皇太子も自分の子じゃなく亡兄の子にさせられる予定で、
自分の子どもには皇位が回ってくる予定が全くない
そういう未来図を最初に見せられていた後醍醐にとって、ダメでもともと当たれば儲け、って感覚で倒幕を行うしか道がなかったんでないの
何もしなくても数年後には皇位を失うし、自分の子どもに皇位を譲ることもできない
それだったら戦って負けても大差がない 徒に自己への権力の集中を図り、皇位の私物化
それが、あのような国を割る悲惨な戦いへと流れた
その罪重し
器でない 器は無くともカリスマはある
それこそ異常なくらいの あと晩年の後宇多は後醍醐に根負けしていた感じも
要するに恒明に渡らなければどっちでも良いって 本来の大覚寺統嫡流だったはずの後二条流は邦良親王の死後に分裂して弱体化してしまう 後深草天皇、亀山天皇、どちらが為政者としての能力は高かったんだろうか ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 天皇自身が為政者として失敗すれば天皇制自体が存続の危機になる >>333
>天皇自身が為政者として
その存在が大きければ大きいほど、在位期間は短い? >>333
昭和天皇はそのお陰で天皇制存続したな
自分の意思を容易に見せないよう育てられ基本傀儡だったから生き残った
あの人が全面に出て指揮とったり、自ら国民の戦意を煽りまくったら天皇制は潰されてた >>334
こだわってぼめんね。
横軸に在位期間、縦軸になんか為政者としての権力の強さを
尺度にしたら、どうなるんだろう?傾向でるかな?
縦軸の尺度がむつかしいか?・・・ 他国の王家に比べて
天皇制が長続きした理由でよく語られるよね
権力は武士に奪われたけど権威ではあり続けたからだと >>336
こだわってごめんね
横軸に在位期間をとって、そこに歴代の天皇を並べて、
日子波限建鵜草葺不合命とか神武天皇とかは除外して
それぞれについて、権力の大きさを検討したらどうでしょうか? 最初に奪ったのは藤原氏
正確にはミウチ政治だったらしいが >>338
少なくともこの時代では在位期間の長短を比べても権力の大きさは比べられないよ
院政を主宰していた期間なら多少は傾向がつかめないこともないかもしれないけど
まぁ両統迭立以降は、基本的に両統の家長の政治的な実力は拮抗していたんじゃないかと思うけどね
文化や宗教面だと、本人の才能だとかどれだけのめりこんだかで差が出るから一概にはいえないけど 競争原理もあって安閑としてられなかったという印象も
特に血統的に下の大覚寺統としては ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>5
父親孝明天皇は北朝にも関わらず何故明治天皇は自らの血統北朝でなく南朝を正統とした? 南朝が正統としても合体後は北朝に一本化されたとするならば問題はない >>346
天皇が実権を持たなくて維新政府の要求を丸呑みせざるを得なかった時代の話だから不自然じゃない
着たくもない洋装を義務づけられても拒否できなかった頃の話だぜ そりゃ必死の工作しないと消え去る一方だしな
政権は失ったは子孫はないは、正統性にまで疑義が深まってきたから、もうなにも残ってないんだもんな >>348
今でも天皇はそんなもんだね
ちょうど生前退位で揉めてるけど、
完全に天皇の基本的人権の無視が行われてて気の毒にと思うよ
天皇制の否定はしないけど、
法的には天皇の発言力は俺以下なんだから
あの縛りについて考えると苦しいところだ 明治天皇なんか伊藤博文にマブダチ扱いされて女狂い注意しても口答えされてるもんな そもそも退位や譲位を禁じたのも明治政府だし。
明治維新の時は古くからの側近らをことごとく遠ざけたしな
(とうっても明治天皇は即位直後だから、古い側近って言っても知れてるか) >>355
あーそうそう、何故か高位の女官らを一層したんだよなー ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 なぜかもなにも、疑問に思う奴がいることのほうが不思議なくらい普通のやり方だろ。
新政府が必要としていたのは新政府の君主としての天皇であって、何の功もないのに旧弊墨守を求める連中やその代弁者などは、有害無益の存在でしかない。 そもそも北朝の孝明天皇の時から長州にとって天皇は玉でしかなかったんだし >>360
明治天皇がまだ日本帝国臣民に知られていなかった時に各地を
巡行されたのですが、そのときに、天皇が田んぼのなかに放って
置かれて、お付きの連中が帰ってしまい。天皇が泥だらけになって
宿舎に帰ってきた:という逸話がありますね。ほんとうかどうか
わかりませんが。まさに、お前はだまって玉になっておればよい!
という・・・ >>365
226事件とかの叛乱将校らも同等だろ
違いは成功したか敗北したか。 >>367
>叛乱
その行為に、「竹内文書」(荒唐無稽な偽古文書群)が関係している、
と聞いたのですがほんとうでしょうかね?w
南朝の正当天皇(w)である熊沢天皇は、竹内文書は、その系統の
所有物であったが、竹内巨麿に盗まれた:と主張したそうです。
スレ違い、すみませんでした。 >>335
それはどうかな。昭和天皇はけっこう政治的軍事的決定に関与してるし、君主意識支配者意識を
むき出しにすることもあった。肝心なのは、天皇の政治的意思を公衆から隠蔽して、もし
致命的失敗があっても、あくまで「君側の奸」が悪いのだ、という建前を守ること。
>>336
陳舜臣氏が「中国史では君主の独裁制が強いので、無能で意志薄弱な君主は
すぐ位から退けられる。結果として、長期間在位した君主ほど賢君英主だったり、少なくとも
独裁的権力をふるった君主である、という傾向がある。」と言ってたね。 >>369
昭和天皇や皇室は親英米派だったのに、親ドイツ派の「君側の奸」がいたからなあ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 昭和の天皇家事情を語るのに欠かせないのが秩父宮の存在
要するに亀山や後醍醐に相当する存在でもあった 明治早々に南朝正統化を宣言した
それで充分だったんだろう だがそれは血統的に北朝系であるはずの現皇室にとって得にはならない 江戸中期以来の皇室の権威上昇が水戸学の流れにのっかったものだったし、南朝は完全に
絶滅しきってるからそちらから現実的に意味のある対抗偶像が出てくる可能性もなかったから、では? >>381
天皇に政治権限が絶無で維新派武士らの言いなりだっただけ
南朝正統と言いたかったのは武士たちであって明治天皇ではない。以上 >>381
明治天皇が南朝だったから
もしくは明治天皇として担いだ志士たちが南朝派だったから 明治時代に南朝を正統と認めたのは、
「両統が並立した南北朝時代において(のみ)は、南朝を正統とみなす」
ということではなかったのでしょうか?
「当時(明治時代)の天皇の地位や存在は問わない」と。(問うと厳罰)
いや、素人理解ですみませんが。 すくなくとも、認めさせた政府の立場ではそのはずだよな
のち、南朝正統説の経信者たちが暴れておかしくなっていっただけで。 とりあえず北朝のはずなのに急いで南朝の復権を果たしたのは確か >>380
そりゃあ天皇に得はなくとも明治政府にとっては得があるからね
顕密体制が顕著だけど、戦前だと政府にとっては天皇なんて政府の命令を国民に絶対視させるためのものでしかない
そこへいくと北朝というより、天皇と正面切って反旗を翻した(と当時理解されていた)足利尊氏が問題になってくる
天皇が直接統治するという名目で絶対的な強権を握った明治政府にとっては、その天皇に逆らった絶対に認められない先例になるわけだからね
そしてそうなるとその足利尊氏が引っ張り出した北朝は、「明治政府」にとっては邪魔な存在になってくる
その結果明治天皇は北朝の天皇の子孫なのに南朝を正統と決定するなんて言うことが起こることになる
まぁ政治と歴史を絡めすぎると、結局どっちも歪んでいくっていう典型的な例ですな ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 後醍醐天皇って、真言立川流をやっていた、と読んだことがるんだけど
ほんとう?そのような文献資料あるの? >>398
呉第五と立川流のかかわりは有名だけど、実は直接的な史料はなかったりする
真言立川流とかかわりが深いとされていた文観を護持僧にしていたから、類推でそう言われてるだけで
まぁその文観自身も立川流と本当にかかわりがあったのかも確証がないんだけどね
文観に関してもそれっぽい史料が、高野山の衆徒が文観を口汚く批判したものぐらいしかないし 「太平記」に、後醍醐天皇たちが倒幕計画を話し合った時に、
烏帽子を脱いで髷を解いて、裸同然になって、これまた
裸同然の少女たちをたくさん侍らせて乱痴気騒ぎをした
ということがあります。
エロいね 謀略の中身としては鹿ヶ谷と大して変わらないだろうな 「建武の新政」って、元寇で鎌倉幕府の権威が失墜して
その結果として成立した(実現した)って聞いたんだけど
それで合ってるの?素人質問ですまん。 さすがにそれは正しくない
幕府が倒れたことと元寇の影響とが関係するとこまでだけあってる
だが元寇の以前も以後も、幕府の権威が朝廷を上回ったことがあるわけではないし 朝廷は幕府に軽んじられてはいたよね。
餓死した天皇いなかったっけ?幕府に無視されて。
なまぐさい後醍醐天皇はちょっとね。
やっぱり白拍子といっしょに歌の本作っているのが気楽でいいよね。 元寇から後醍醐天皇の倒幕運動まで何年の開きがあるかわからん奴がいるようだな。
もしかして元寇の時に後醍醐がすでにいたと思っていないかね。 1.元寇の対策のために、それまでは幕府の指揮権に浴さなかった独立の(というか、朝廷の下というか)勢力の方が多かったところ、
幕府麾下でない全国の過半数に及ぶ武士や加持祈祷を行う自社への命令等まで幕府の影響が及ぶようになって権限が拡大した
ところが、それらすべての勢力を適正に保護・統制するほどの能力を幕府が持ち合わせてなくて、幕府の限界が露呈することになった
2.元寇対策の関係で朝廷内の重篤な派閥争いに対して強硬な処断を行えず、敗者をなだめて将来的復権を期待させる形に持っていく必要が生じた。
その結果が両統迭立の始まりであり、それをズルズルと続けた結果が後醍醐出現の原因となった
どっちも元寇の影響じゃん じゃあ江戸幕府が倒れたのは寛政の時代にロシアが来たからでいいね 風が吹けば桶屋が儲かる、程度の密接とは言えない程度の関係があるって言っただけなのになんでそんな執拗に否定したがるんだよお前ら。 鎌倉政権のうち元寇はおおよそで2/3くらいのところ。
元寇からまだまだ持ちこたえているんだからこれが鎌倉政権の弱体化のきっかけではあるが、
決してそれが全てであるとは言えないだろう。
江戸幕府にとっての天明の大飢饉くらいの位置でしかない。 >>414
それがすべて、みたいなこと誰も言ってない
あえていうなら、405に怪しい与太話を吹き込んだらしい知人とかいう人ぐらいだろ >>406
天皇の代替わりと人選を幕府にお伺い立ててなかったっけ 朝廷と幕府の不幸なスレ違いの結果だと思うけど、朝廷から幕府に働きかけて皇位継承に関わらせてたんだよな
承久の乱で倒幕を主導した3上皇の復帰を強く恐れる幕府が、
最も有力だった忠成王(仲恭天皇の異母弟)の即位は実父たる順徳上皇の復帰に直結するとみて恐怖して、
幕府自身の存亡をかけてでも阻止しようとしたんだよな
そのときの幕府の強硬な働きかけが朝廷内で(特に後嵯峨天皇らの中に)トラウマとして残ったことで、
幕府が皇位継承に関与する下地ができた
それ以後は基本的には、朝廷内で解決できない揉め事になったときか、劣勢な側が乾坤一擲で幕府を説得して支持を求めるかした場合にしか、
基本的には幕府からの干渉はないはずだよ。
といっても、後嵯峨没後幕末までの皇位継承のすべてで幕府が関わってる気がするけどw >>421
さっきのNHKのニュースでは、東大寺燃えてるみたいです。 >>420
土御門上皇という名はやはり通親の子ではないのかという暗示か とにかく後嵯峨が明確な後継者指名をしなかったのが大きい 上皇になってからの時代に、里内裏の場所で○○殿などと呼ばれて、
その呼び名がそのまま上皇としての名前になるパターンか、土御門帝って。
安倍氏末裔の土御門の苗字は、もっとあとになってつけられたものだから、
土御門帝の名前の来歴には関係ないね。
でも別系統の土御門氏の名前はすでに存在してたっけ?記憶がない 問題の通親は村上源氏
とにかく当時としては順徳系が後鳥羽の嫡系と認められていた模様 過去に在位していた元天皇との血縁が近いほどいい(直系が大前提なのはもちろんだが、世代が近いほどいい)
として皇位継承候補の皇子をピックアップして、同じ代なら在位期間が新しい天皇の子孫の方がいいとピックアップしたら自動的に順徳の子孫になっただけだろ
嫡系かどうかを考慮してたかどうかは不明。
で、順徳の子孫だと、当時まだ存命の順徳を帰京させる公算が高いと認識してたし(だって、儒教的なものも含め、赦免しない理由がないはずだと考えられたわけだから。)
なし崩し的に順徳の院政が始まる可能性があると、幕府側は恐怖していたはずだよ
こんどこそ倒幕が現実のものとなるのではないかという恐怖から順徳排斥に動いたはずだ。 明治時代に
吉野遷都が教科書にのらなかったのはなぜですか? 吉野遷都なんてなかったからさ
ぶっちゃけ南朝正統説の立場から見ても行宮に過ぎない吉野には遷都してなどいないんだからさ
遷都と言うからには造都して、吉野を皇都として整備したことになっちゃうよ
そんな整備された都など吉野には作られたことがない。 持明院統と大覚寺統にはそれぞれ当主的な存在はいたの? 福原も遷都じゃないんだけど、それでも吉野と違って最小限度ながら都市っぽかったんじゃなかったっけ?
>>439
いた
それぞれの当主(みたいなの)のうち、自派の天皇を出してる側が治天だ。 >>440
福原は遷都だよ
安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇、みな清盛が連れて行った
当然、整備された都城制の都などなかったわけだが 宮は移ったが都を作ってないんだから美也子が移ったとは言えないだろ
新都を造営してないのに遷都とは呼べないよ 遷都は天皇の遷都の詔が必須なのでは? 古代はようしらんけど藤原京〜平安京はあったでしょ。間違ってたらスマン。
ちなみに明治の場合は東京遷都と言わず「東京奠都」て言うよね。あれは遷都の詔が無かったからでしょ。
東京奠都
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A5%A0%E9%83%BD >>443
では、福原は何だったのか?
行幸かい? >>443
なんだよ、その理屈はw
じゃあ、明治2年の東京遷都も遷都とはいえないというのか?
江戸には都城制の都はなかったからね
江戸城とそれを取り囲むように大名や旗本たちの武家屋敷があっただけ >>448
遷都を示す詔や勅やその他の行政文書を出さなかったからなあ
とはいえ、政府を支える行政官を完備した点、福原や吉野の不完全さとは隔絶してる
文武百官を整備した東京政府は遷都の条件を満たしてるではないか 遷都に詔が必要というルールが現在まで生きているとは限らんだろ
次の遷都のときに詔が出れば、東京へは遷都ではなかったとなるけど いや、首都を東京に移す又は東京を首都と定める旨の太政官符も法律も政令も何も出されたことがないって事だよ
東京が首都であることを前提として何かを定める法律とかはたくさんあるようなんだけど、奇妙なことだ。 東京が首都であることが奇妙なんじゃない。
首都を東京都定める法律なり布告なりが存在しないことが、それなのにいつの間にか東京が首都であることが明示されているかのように扱われるようになったことが奇妙なんだ。
いつそれが確定したのか分からない。奇妙じゃないか。 室町院領の伝領がどうなっているのか非常に分かりにくい
宗尊親王が早死にしたのが皇統分裂にとどめをさしたのではないだろうか 吉野や五條はあくまでも仮の皇居で、南朝は京都奪還を目標としていたからな。
都を移そうとした福原とは違うと思う。 南朝の行宮の中でも、有力寺社が存在した
吉野や住吉、河内天野などは理解できるが、
何もない賀名生だけは理由がよく分からない 負けて逃げ延びた先なだけじゃん
辺鄙で追撃しにくいトコに逃げ込んだ、それが賀名生 南朝の生き残りたちが吉野に逃げるんだけど、具体的にはどんな生活してたんだろう?そういう死霊はまったくないんでしょう?
誰が世話をして、誰が金を出して、どんなところに住んで、どんな人とXXしてたんだろう? 賀名生がいくら辺境とはいえ幕府が本気出せば攻め込めたでしょ
放置したのはそれなりの理由があったんだろうな >>259 : こんどは男朝と女朝で分裂か。
ありえない
仮に女朝になったとしたら、その時点で天皇家は天皇家ではなくなる。
たとえ天皇家を名乗ったとしても有名無実のただの家として存続するのみ。 >>462
どうにか平和的に(笑)降伏させて両統迭立に持っていきたいという非現実的な目標を持っていたらしく、
武力での殲滅だけはやりたがらなかったらしい。アホなことだが。 >>463
アホウヨw
じゃあフランク王国以来のサリカ法を廃して女子相続を採用したオランダデンマークノルウェーベルギールクセンブルクで王位についてる奴らは何なんだ?ありゃ王家じゃないのかw >>465
横レス失礼ですが、日本語をきちんと理解してからレスした方がよろしいですよ。
>何なんだ?ありゃ王家じゃないのかw
>>465
横レス失礼ですが、日本語をきちんと理解してからレスした方がよろしいですよ。
>何なんだ?ありゃ王家じゃないのかw
>>463が書いていますよね?
>たとえ天皇家を名乗ったとしても有名無実のただの家として存続するのみ。
と。だから>>465があげられた国々は勝手に名乗ってるだけの、何の価値も無い家という事でしょう。念のため
に言っておきますが、どういう価値観が良いか? って事を論じてるわけではありませんよ? 彼、>>463の言葉
の意味合いを理解した上で投稿したほうが良いと言っているだけですから。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 宗尊親王が早く死にすぎたのもねえ
北条に暗殺されたんじゃないか >>470
ありうると思う
蒙古襲来という国難を前にして、
名越に接近する反得宗家の前将軍の存在が邪魔だった
結局、文永の役の2か月前になくなった 得宗家という呼び方自体が本来は嫡流家ではないというニュアンスを暗示させ権力的な強さと共に権威的な弱さをも匂わせている
亀山や後醍醐が目指したのはまさに自流を皇室内の得宗家とする事だったか 亀山として明確に恒明を自分の正嫡としたかったのが本音だったろうが流石にそこまでは公言出来なかったという感じ
とにかく将来での可能性は作ろうといったところか 伏見宮家ができた原因は正平一統のときの南朝がわの行動にある 神器を持ってるのが正統に決まってるでしょうが。
そもそも、大覚寺統というのは、兄である御深草天皇とケンカして絶縁状態になった
亀山天皇の孫(後醍醐天皇)とつづく3代の天皇が大覚寺という寺を支援していたというだけのことであって、
連綿と続いた皇統には何の影響もありません。
兄弟げんかがひ孫の代まで続いてしまい、互いが支援する寺の名を借りて競い合ったというだけの話です。 わかりやすく言うと日本列島、
この島が形作られたときから、住んでいる人なの?
それとも渡って来た人なの?
精神病患者が言うには、
島が出来たときからの住人だという話 それと中華思想、天子でしょ
『天子神璽』
あと、ふなっしー?船氏など? 専門家に聞いたほうが良いと思う
タケミカヅチ・・・天皇家=藤原氏とか、
よくわからない話 >>480
大覚寺というお寺を支援した亀山天皇の皇子たちのことであり、今の皇統と別の皇統などではありません。
亀山天皇に譲位した後深草天皇の皇子が持明院というお寺を支持したのと比較して、大覚寺統と呼ばれますが、
後深草天皇は、正式に亀山天皇に譲位していて何も問題はありません。
あえて言うなら、後醍醐天皇が、父上皇との約束を破って地位にしがみついてしまったことで、
他の皇子たちとケンカした状態が4代もつづいたことくらいですが、
ちゃんとお孫さんの代で仲直りして(うわべだけですが)、皇統をつなげることができたので、めでたしめでたしです。
ちなみに、大覚寺統の天皇たちも、持明院統の天皇たちも、どちらも今上天皇のご先祖天皇の皇子たちです。 それで?神代と言うのは?
頭の病院には行ってきたの? 実際は、お前の事なんて知らないんだけど?
このような人ばかり 神器に政治的比重を置いたのは南朝派
何故なら血統的には劣勢なのが明白だったためで後醍醐が最後まで天皇であり続けた一因でもある >>484
現皇室は持明院統の天皇の子孫ではあるが大覚寺統の天皇の子孫ではない
現皇室の祖先の親戚でしかないよ
皇統分裂後の大覚寺統の子孫から持明院統の方に合流するような婚姻はない。
それに、後醍醐帝が隠岐や吉野にいた時期には神器を持ってない。
渡した神器は偽物で本物は自分の手元にあると嘘を言っただけだよ
正平一統のときに京都占領に乗じて神器を入手するまでは、
吉野には本物の神器はなかったんだよ まあ後醍醐としては神器でなく自分自身に一番の価値があるというのが本音だったんだろうが >>489
後醍醐天皇の論としては、 神器は武家に脅されて盗まれただけで譲位詔書は無効なり
神器の所有権は朕にあり、皇位も朕にあり ということだろうな
今の法律でも脅迫による契約は無効、盗まれても所有権は被害者のものにありとなるはず
だから筋は通ってるよ
もっとも建武の新政は失敗したんだから、おとなしく足利に政権委任しとけば天下「太平」
になったのにと思うが 武力行使を禁止してる現代だから違法なだけで、
自力救済原則の中世には武力行使は合法なのにな むしろ自力で守れない奴こそが悪い
だからこそ非力でも自力で戦っていた南朝が一目おかれていたとも言える >>491
後醍醐天皇は神器を奪われることなく最後の最後まで守り抜いて、ちゃんと皇子に
伝えてから崩御したのだからそんなふうに思うはずはないでしょ。何を言っているの? >>489
持明院統も大覚寺統も等しく今上天皇の先祖の天皇たちだよ。
北朝は、足利によって一時的に形式上おかれただけであって、皇統には数えられていない。
神器はちゃんと正式に今上天皇まで受け継がれてきた。
4代前の天皇兄弟のケンカのせいで、4代もあいたけど、
孝徳天皇も3代あいた即位だし、継体天皇は5代あいている。
何代あいても男系を守ってさえいれば今のところ問題はない。 そもそも持明院統とか大覚寺統というものが実際に存在したわけではなく、
御嵯峨天皇の皇子二人が喧嘩をして一時期それぞれ持明院という寺と大覚寺という寺を支援した
だけの話です。
今上天皇は、持明院統の子孫というわけではなく、天皇家の子孫なんです。 東京行幸、つまり二都構想とは全く違い、
難波宮への遷都は、645年の孝徳天皇の詔に基づくものであり、正当な遷都です。
ただ、孝徳天皇は姉らの改革に協力させられただけで、まったく実験もなく、
それゆえその都は完成と同時に用済みとなり、再び姉の宮に遷都されました。 天皇家全体の子孫と言うニュアンスで行くなら南北朝合一を絶対視しないと
そしてその後の後南朝は徹底無視で 南北朝問題の本質は神器などよりむしろ後醍醐という強烈な個性に肩入れするか否かの問題
それこそ理屈など後からいくらでもで神器問題もその一つに過ぎない 後醍醐の正当化として最も有効的な論理は現職優先
それこそなってしまえばこっちの物で後をどうするかは自分の勝手
但しだからこそ最後まで天皇でいなければならなかったとも言える 後醍醐天皇は、確かに、先帝(父親)との約束を破って皇位にしがみついたけど、
そうはいっても、先帝から神器を受け継ぎ、そして、次の天皇へと神器を伝えた、
正式な天皇です。
左翼たちの屁理屈に騙されず、当たり前に天皇の系図を眺めれば、
花園天皇→後醍醐天皇→後村上天皇→長慶天皇→後亀山天皇→後小松天皇→称光天皇‥‥‥‥→今上天皇
という、当たり前の男系天皇の系図がわかるはずです。
持明院だの大覚寺だのいうのは、単に天皇たちが支援した寺の名前であり、
そういう皇統が実際にあったわけではありません。
俗に持明院統と呼ばれたり、大覚寺統と呼ばれてるのは、
後嵯峨天皇の次の天皇(後深草天皇)と、さらにその次の天皇(亀山天皇)が兄弟げんかした為であり、
結局玄孫たちが仲直りしたので、 持明院だの大覚寺だのいうのは、単に天皇たちが支援した寺の名前であり、
そういう皇統が実際にあったわけではありません。
俗に持明院統と呼ばれたり、大覚寺統と呼ばれてるのは、
後嵯峨天皇の次の天皇(後深草天皇)と、さらにその次の天皇(亀山天皇)が兄弟げんかした為であり、
結局玄孫たちが仲直りしたので、皇統は分裂せずにずっと受け継がれました。 たから合一に逆らった後南朝などは論ずるにも値しないただのテロ集団 >>498
その難波宮は、その後も副都として利用され、聖武天皇の代に
大規模整備を受けて立派なみやこになった。
この後期難波宮、首都だった時期は短いが、
建物の多くが長岡京遷都の時に移築再利用されたほどだ >>497
両統それぞれが家産を別個に継承するなど、明らかに別々の家に別れてたように見えるが。
それどころか、少なからぬ貴族が片方にだけ仕えるようになるなど、
家なりの規模で別家に別れてると思う >>503
明け渡した神器は偽物だ本物は今も自分が持ち続けてるなどと強弁しはしたが、
実際のところ吉野に逃げる前に神器を奪われてるのがほんとのところだろ まあ後醍醐の本音としては俺が持ってるから本物なんだなんだろうな
価値があるのは神器じゃなくて俺自身なんだと >>503
>>504
万世一系ウィルスに脳が冒されるとこうなる、という典型のような症状ですね。お薬はきちんと飲んで養生してくださいね。
はい次の方どーぞ この時代はウジからイエへ社会組織の基底が移っていった時代だと言われているけど、天皇家もその例外ではなかったということかなあ。
王氏というウジから持明院家や大覚寺家というイエが分化していったと考えると理解しやすい。 確かに後醍醐は後宇多との約定を破ったが後宇多もまた恒明についての亀山との約定を破ってるからな
これこそ先例と 後醍醐期の諸々の新制度新政策も亀山後宇多からの継承、延長のものが多いって研究も出たし、
奇抜は奇抜だけど突出・孤立してるわけではないみたいだよね
むしろ大覚寺統の全体が奇抜だったかもしれない もっとも後宇多にしてみれば自分の場合はあくまで本来の大覚寺統の嫡流を守るためで恣意的な分裂につながる親父や息子の身勝手とは違うと言いたいだろうが 『ザ・モモタロウ』という漫画も同じ
凄い人(不明)が、
出家したところを狙ったというような物語 謎の存在 しゅてんどるふ?
殺されたのか、
殺されていないのか、わからないけど
名を出せないので、
仮名と言うか、伏せられていたという話とか 後宇多の院政停止は自分の意思か
それとも後醍醐からの強要か >>508
持明院統に譲り渡したのは後醍醐天皇じゃないよ?わかってる?
後醍醐天皇は自分の息子に譲り、息子はその息子に譲ってる。それはわかってる? >>519
後醍醐帝が吉野に逃げる前、幽閉(?)のときに神器を取り上げられてて、
あとで吉野に到着した後醍醐が明け渡した神器は偽物で本物は吉野まで持ってきたと嘘の宣伝をした 正平一統でわざわざ北朝の神器を取り上げたのが怪しい 正統の宣伝、自分の正しさを強硬に主張する様子。
南朝はまさに「弱い犬が吠えたてる」ようなものだよな >>526
歴代天皇の一覧みたことある?
北朝の天皇は天皇には入れられてないよ。
もしかして、南朝と北朝を間違えて覚えてる? >>522
神器を渡したのは、後醍醐天皇じゃなくて、
後醍醐天皇から4代めの後亀山天皇なんだけど。
後醍醐天皇が崩御した後、半世紀以上も経ってからのこと。
なんで後醍醐天皇が明け渡したって言い張ってるの? 比叡山で降伏した時に渡したのが本物という説も
これこそ無駄死にさせられた正成の祟りかも >>527
南朝正統説は明治維新派の旗標みたいなもんで、
それが敗戦まで引きずられてたからな
以後も南朝正統説の誤りをただすものがいないまま踏襲されただけ
南朝こそ正統と信じてるのは今は一部の宗教家だけだ >>529
幽閉されて神器を明け渡したあとで、
あれは偽物だ本物は俺が持ってると、
三度か四度ばかり偽神器を渡した前科もち後醍醐の嘘八百も知らないの? >>532
それなら、なぜ、後醍醐天皇の孫である後亀山天皇から神器を譲り受けるまでの
北朝の天皇たちは歴代天皇の中に入れられていないの?
後亀山天皇が継承し、後小松天皇に譲り渡した神器が本物だったからでしょ?
だからこそ、元北朝天皇である後小松天皇は、1392年に歴代天皇としての即位したと言われているんでしょ。
歴代天皇と呼ばれる人たちこそが本当の天皇です。これ常識じゃない? 南朝正統論による歴代設定でも北朝系は準皇統的に扱われてるんだよな
そして合一後の後南朝は徹底無視 >>535
南朝も北朝も、後亀山天皇が神器を後小松天皇に渡した時点でなくなったんだよ。
ちなみに、たくさんいる天皇の皇子たち(皇位継承候補)のうち、実際に天皇になるのは一人いるかいないか。それ以外の皇子はそのまま無視される。
それは神武天皇の時からずっと変わらない。
そして、ほとんどの親王宣下を受けた皇位継承候補の皇子たちの子や孫、子孫たちは誰も天皇にはならない。
これを「無視された」というのですか?
自らの子、孫、ひ孫、玄孫と、5代も続けて皇位を受け継がせた天皇なんて歴史上ほとんどいません。 皇位以前に後南朝という存在その物が無視されたという事
南朝正統論者といってもそのほとんどは合一後の彼らの存在と活動については触れようとしない
それこそ面倒な厄介物みたいに >>534 南朝正統論が強まったから明治天皇がそう決めただけで、
それまでは北朝の天皇が正当な歴代天皇だったよw
神器云々をいうなら何が本物か偽物かなんてわからん
例えば正平一統(1352年)で 南朝軍が一時京都を占拠した時に、
確保した北朝の三種の神器が本物なら、
後醍醐天皇が1336年に花山院で足利に渡した三種の神器は本物であったということであり、
1336年から1348年まで北朝で天皇だった光明天皇は、
本物の三種の神器を有する正当な天皇だったということになる 神器を持ってなかったはずがない光厳天皇が、なぜか歴代の方ではなく北朝初代に入れられてるのを見ても、
基準は神器の有無ではないと分かるだろ 少なくとも合一までは南朝が正統だったと主張するために神器の所持が後付けで重視された感じ
その辺りが曖昧な後醍醐期については現職優先を適用で >>509
後醍醐の主観を歴史の客観と同一視することが許容しうるのは後醍醐が京都で権力を握っていた期間だけだろ
それ以後、つまり南北朝に入ってからは、後醍醐の主観は歴史の客観とは別に扱わねばならない。 南北朝論争の客観ってのは結局はそうした後醍醐を肯定するか否定するかなんだよな
贔屓する向きは正成戦死にしても坊門のせいにして後醍醐の決断責任を無視しているが 当事者(要人)の主観を無制限に受け入れてたら客観なんて成立しないんだよ
後醍醐帝やら親房やら要人の主観は横に置いて当時の世情を考えていかないと客観なんてできない 客観なんて所詮は主観の集合体
主観の入らない報道などもありえない
この場合は後醍醐の主観を他の主観が受け入れるかどうかの問題
それを正当化するための理屈や論理など後からいくらでも作られるし御都合的に取捨選択できる >>539
つまり、神器のあるなしを問わず、先帝から正式に立太子されたり攘夷を受けたりして
即位した天皇が本物ということ?
光厳天皇は神器を持っていても、正式な即位じゃなかったから偽物だということですか? その辺りが曖昧かつ御都合主義的になったのはやはり後鳥羽天皇の即位からか というより、武家政権との摩擦が原因じゃない?
後鳥羽天皇の即位のごたごたも、平家政権のせいだし、
仲恭天皇を廃したり、後醍醐天皇を朝廷から追い出したり、突然、明の皇帝を君主として
冊封を受けたり、皇室を統制して将軍を権現(神)としたり、
武家政権が帝の地位を左右するようになったのがすべての元凶だと思う。 >>545
神器を安徳天皇一行(というか平家)に持ち去られ、先帝安徳から譲位を受けたわけでもない後鳥羽天皇だが、本物の天皇だろ
先帝が京都にいない点がすごく重視されたことがうかがい知れる
単に京都から去って西国(福原など)に行ったというだけの理由で、神器を保持しているにもかかわらず欠格/廃帝あつかいされちゃった安徳の先例と比べてみよう >>547
武家の台頭という時代の流れを受容できないこと自体が時代錯誤な欠格者という意味でもある
時代の流れを読めなかった後鳥羽を激しく批判した意見書(のようなもの)も残ってるわけだろ。 神器の所有を重要視すると後鳥羽天皇はどうなんだってなるわな
やはり号一時に後小松天皇があらためて即位したのではないこと
後亀山天皇は不登極帝の扱いを受けたことをもって
北朝こそが正統とすべき 大多数の天皇が武家と折り合いをつけてうまく付き合ったなかで、
どうしても折り合いをつけることができなかった少数派の天皇を批判すると、なぜ天皇制批判になってしまうのかね?
大多数の天皇たちと違う特殊な天皇を、特殊な人ですね異端児ですかと言ってるだけだろ >>551
少なくとも当時の北朝はそういうスタンスをとってたし、
そのスタンスに異論を唱えるのは後南朝支持者の一部ぐらいで少数派だよな どんな理屈で天皇制を否定しようと、中臣鎌足の指導の下、この日本という名の独立国を
建設したのは、皇極天皇とその皇子たち。
そしてその子孫が、朝廷を守り抜くことで、折に触れ統治権や主権が脅かされても、この
日本という国家の独立が守られてきた。
もちろん、皇極天皇の先祖は神武天皇までさかのぼる歴代の大王たち。
我が国が誇る皇室の歴史は、そのままこの日本国の歴史です。 後鳥羽天皇の場合は在京と共に後白河法皇の存在が大きかったんだよな
すなわち院政による皇位起動の先例でありこの有効が認められていたからこそ親房は神器だけでなく二上皇の拉致まで必要だったわけで >>556
存命の上皇たち全員(2名)のみならず皇太子も連れ去る必要があったんだよな
そこまでして北朝の存続を妨げようとしたのに、そのあとで即位した後光厳天皇の
即位要件の不備を問題視する声は、南朝側が期待するよりも小さくて、
予想外に北朝が安定していたんだよな
このときにはたしか、後高倉上皇に次ぐ二人目の、天皇未経験の上皇がたてられたんだよな
そしてこれらの先例踏襲とかいう名目で、後亀山を三人目の「天皇に即位してない上皇」とすることで、
北朝がわの主張である「南朝は偽帝」説と合一条件の後亀山を上皇にする件を両立させようとした 後光厳天皇の即位は継体天皇の先例により群臣による推挙の形をとった
広義門院はあくまで持明院統の家督を代行しただけでは >>554
光厳天皇や後光厳天皇をふくめ北朝は、その「皇極天皇の子孫」であり、正統の皇室ですよ 北朝の天皇たちは便宜上足利氏に担がれただけで、
尊氏などは北朝なんてどうでもいいと思っていただろうな。 そりゃあ、後醍醐との対抗上の理由で仕方なく足利と手を組んだだけだろうしな
もともと光厳上皇が自発的に使者を派遣して尊氏と接触しようとしたのが最初だし。 皇位継承で最も重要なことは、先帝から正式に立太子されるか攘夷を受けて即位すると
いうことだろうね。
正式に即位したのであれば、その天皇の皇子が天皇になるか、その弟が天皇になるか、
その甥や姪が天皇になるか、その従弟や従弟の孫が天皇になるか、そういったことは
問題にならない。
平城天皇や淳和天皇、朱雀天皇、花山天皇、歴史上、自分の子や孫やその子孫を即位させること
なく終わった天皇は山ほどいる。後亀山天皇だけではない。
むしろ、自分の子、孫、曾孫、玄孫と即位させた天皇のほうが珍しい(摂関政治などで
朝廷が他氏に管理されてたような時代でもなければ)。
後醍醐天皇は、歴代天皇の中ではそれを実現した幸運な天皇だ。 >>562
それが必要条件だとすると、後鳥羽院とかどうなるって話になる。 先帝安徳は皇太子を定めてないし誰にも譲位してない、
むしろ壇之浦で入水するまで天皇として現役のつもりだったはずだ
そんな安徳が京を去ってすぐ即位した後鳥羽は、あれの論に従えば偽帝ということになってしまうもんな
安徳は最後まで後鳥羽に譲位してないまま死んだから、あれの論に従えば後鳥羽以後のすべての天皇が偽帝となってしまう それ以前に三種の神器が揃ってない…
何人かの皇子を法皇が膝にのせて、怖がって泣いた御子とにこっと笑った御子がいるんだよね
笑ったほうが、後鳥羽です 一生の分かれ目だな だからこそ後白河の院政なんだよな
皮肉にも後鳥羽こそが後白河が自分の意思と力だけで即位させた最初の天皇だったわけで >>565
源氏の反乱により、天皇が御遺志を示す前に殺されてしまったのです。
継体天皇、舒明天皇、孝徳天皇、元明天皇なども、立太子する前に先帝が崩御したので、
立太子や攘夷を経ずに即位した。
内乱の際など、緊急時にはそういったことがよくあります。
先帝からの攘夷や立太子(遺言によるものであっても)がある場合は、それを他のものが
覆すことはありえない。
継体天皇も、舒明天皇も、後鳥羽天皇も、後醍醐天皇も皇室が正統と認めている天皇です。 >>568
西の平氏の元に安徳天皇が存在するうちから京都には後鳥羽天皇がいたが、平家支持者たち以外は後鳥羽天皇の方を正統と見なしていて、安徳帝のことは廃帝と認識していたってこと。
安徳帝の御意志云々というなら、それまでの時期の後鳥羽帝はどういう立場なのかという問題点は、けっして無視してはいけないよ 臨機ないし非常の措置ってのがポイントなんだよな
それによって大抵の先例無視は黙認される 安徳・後鳥羽の先例はいわば在京こそが三種の神器を超える最強のアドバンテージになったという事なんだよな
すなわち京自身が第四にして他を遥かに超える絶対最強の神器
分かりやすさとしても完璧で 京都という存在の大きさを指摘した御説は断然支持するものですが、
南朝の天皇は京都にいらっしゃらなかったわけでして。
そこがこのスレで一番ネックになるところですね。 南朝の最大の弱点である在京してない、できてない点が、
当時の人々の多くにとって最重要であったという事実は
南朝に正統性を認めない人が多数派だった事実と重なっている
少なくとも同時代人にとって、南朝正統説には説得力がなかったんだよ
賛同者がほとんどいなかった
自分の利害と対立する敵対者・ライバル等が北朝側にいるから対抗のために南朝に従ってるだけの、
南朝を利用するための支持者の方が主流だったぐらいでな。
南朝にしたがってる人々でさえ、南朝が正統だから従ってるというわけではなかった。 中世期における京の政治的絶対性について一番近いのは近世以降のパリかも
あのナポレオンですらパリを失った時点で政治的に終わったわけだし 南朝正統論者が殊更に三種の神器を強調するのもこの最大の弱点のためか 中世の中上級貴族の世界の狭さは異常
国司として地方に赴任することもなくなったし、熊野か明石あたりでもう
地の果てみたいに感じてたっぽい 吉野は今でも山奥に感じるからな
電車で行くだけで結構時間かかる
そんなもんがない昔ならなおのこと 今の国際情勢でもいえるよ
首都が陥落すれば、中央政府として認められなくなることが多い
イラクのサダムフセイン政府も首都バクダッド陥落で、
「政府」でなくなったとみなされた
アフガニスタンのタリバン政府も首都カブール陥落で、
「政府」でなくなったとみなされた 重慶に逃亡した国民政府は?
英米の支援がなく負けていれば当然ただの残党と歴史には残ったんだろうけど 国民政府は首都南京を失っても、
統治機関としての機能が重慶で残ってたからなあ
京都を「一時」失った足利幕府だって、
統治機関としての機能が残っていたことと似ている 当時の南京は現在の北京と比べても政治的に絶対的な都市ではない しかし中国の南北朝に比べると京都vs吉野では差がありすぎでしょ。
賀名生に移ってからはなおさらのことだ。 特に吉野が落とされた後はもはや北朝側に分裂が生じない限りもはや付け込む隙が無かったからな
その意味でも正平一統は最後のチャンスだった 洛陽長安程度の差じゃないもんなあ
あえていえば、平陽(三皇五帝の終わり近い堯帝の時代の都)と長安の差ぐらいか、辺鄙度や距離感的に。 薬子の変の時期にはまだ平城京は副都のような重みがあったしなあ それに平安京はまだ作られて間もなく平城京の方がある意味では上だったとも言えた 中国の南北朝は同じ文化圏において南北に別々の王朝があったというだけ
日本の南北朝は親族間の王位継承争いが長期化したようなもの 王朝の分裂とは違うけど源平時代初期の
頼朝(関東東海)
義仲(北信越)
平家(西日本)
これが日本史でもきれいに勢力圏が分裂してた数少ない例なんじゃないだろうか。
南北朝ったって中国みたいに北と南に国がわかれたのと違い、
日本各地で「オレは武家でオマエは宮」と入り乱れてたからな。 それは義経によって崩されてしまうんだよな
そしてそれは本人自身をも破滅させるわけで >>589
そのうち平城京に戻ると思ってる関係者がまだまだ少なくなかった時代だしな
難波京や恭仁京のごとく平安京も短期間で廃絶されると信じる根拠は、全くないわけではなかったし ある意味ではこの勝利によって平安京の最初の権威が出来たとも言える 東北地方の端まで日本の版図に入ったのが奥州藤原氏を滅ぼしたとき、
逆に言えば秀衡の領土の多くはまだ日本の版図ではなかった
といっても秀衡の領土の全体が日本の外だったわけでもない、
境界みたいな感じか 中国の三国時代に四番目の国、遼東公孫氏(燕国)があったみたいな感じかな 秀衡は正式な陸奥守なんだから
その勢力圏は日本の版図と言っても
差し支えないのでは? 599で書いた通り
真っ先に(蜀を滅ぼすより先に)滅ぼされた燕と
義仲や平家よりあと最後に滅ぼされた奥州藤原氏だと順番違いだけどさ 南朝(百済朝廷)と北朝(新羅朝廷)、どちらが正統な皇統なのか?
またはどっちもイヤ? また『天子神璽』の話をしているの?
もしかして聞いたこともない話だった? >>604
朝鮮三国時代は日本と支那の南北朝みたいな当時から正統性で争う歴史はないだろ。 三国志だと、
魏と蜀のどっちが正当性があるのかという論争はいまだにあるね
こういう結論が出るわけもない過去の歴史の名分を争う議論を「腐儒の論」と言います もともと正統は魏だったが、宋代の特殊な対外関係のもと、
宋と遼や金との関係性を投影した結果として、
蜀こそ正統という新しい発明がなされたんだよ 日本土人は新羅から出張してきた天皇のもと農奴にされ
この日本列島上で新羅の王族と百済の王族が争った
それを源平合戦とか南北朝時代とか呼んでいる
多分、自民と民進もチョン同士の争い ちなみに新羅の神話時代の王の一人は倭から渡海して新羅を制覇してる 東晋や南宋といった政権時代に正統論の方向が決まったんだよな
要するに自分たちと同じ立場だから
あと孔明が持て囃されたのは有能な忠臣を求める願望から 献帝には曹丕への禅譲を拒否する環境にない
だから献帝の譲位詔書を無効とする論も理解はできるよ
現代でも脅迫による契約は無効だ 但し献帝が生きている限り劉備の即位は認められない
だからその即位は献帝は殺されたという捏造を前提に行われている 暴力による強制が無効なのは近現代特有の例外で、古代中世なら有効だぞ
滅亡した旧王朝からあとを託されたわけでもないのに親族だからという理由だけで
亡命王朝をたてても、実際のところ、王朝としての連続性もないし、
同時代人の大半は正統の後継者とは認めてなかったんだよな、蜀漢も東晋も。 東晋の場合はまだ北の勢力が分裂状態だったためまだ正統を主張できたが >>617
有効無効をいうなら、天意を受けたといって勝手に帝位に即位するのも有効だわなw そもそも天命をうけたと言って勝手に即位するのが中国での基本であり本道なので、
亡命政権が抵抗を続けることの意味自体がない
正当性の根源が血筋ではなく天命にあるのだから。 確か比叡山での和議で新田の重臣が後醍醐を罵ったのもそこだった 下手に叱れば殺されなかったので皇太子の恒良を人質同然に渡して窮地を脱出
実質的には見捨て見殺しだった 皇子だけじゃなく神器も渡したんじゃなかったか
窮地を脱してすぐに偽神器と発表して義貞の怒りに油を注いだが だから北陸勢力については吉野の南朝とも違った独立勢力という見方もある 懐良と違って吉野南朝との連携を欠いたんではないか、という意味じゃないの >>628
懷良と菊池は九州独立を目指したのでは? 南朝皇子は大なり小なりその傾向があったようだね。
一番メジャーなのが北関東の藤氏一揆でしょ。
興良親王を担いだとも言われてる。 >>629
吉野側の令旨と九州側の、それぞれの発給文書の照らし合わせ研究の結果から、かなり末期まで独立志向ではなく連携指向で動いていたと考えられるようになった模様 新田の北陸王朝は独自の年号使って半独立、
藤氏一揆は明らかに北畠に非協力的だったな。 九州の独自性は距離の問題もあるだろうな
ある程度の専行が認められなければ状況の変化に対応出来ないと 征西府からの発給文書について、吉野方の追認文書を欲しがるものが多かったり、
征西府を経由せずに直接に吉野と交渉したがるものがいたりして
割りと複雑だった模様 後村上は懐良を呼び戻して片腕として働かせようとしていたようだし、
決して二人の関係は悪くなかったと思う。
興良は後醍醐に迫害された護良の息子だから吉野に反発するのも当然、
新田も恒良も捨て駒扱いだから独立しようと考えても不思議ではないわな。 独立ってのがまずできない
鎌倉室町にかけては自分に正当性があるんだ〜!って在地の豪族らに味方になるよ〜に募集かけるスタイル
どこか陣所に腰掛けてどれだけ兵が集まるか?ってのも賭けなんだよ 自分の身内の兵数なんていいとこ300人くらいだぞ
武辺とか名前が売れてるとかで集まる兵の数がまったく違ってくる
木曽義仲なんてのも上洛したときの主力兵なんざ丹波兵が多かった
在地に行ったときは在地で兵を集めるんだよ >>637
足利尊氏全国で7000余。新田義貞越後新田党などをあわせて1500。 逆賊に神風吹いた多々良浜
さぞかし戦前は説明し辛かったろうな 638
全国ってか三河くらいしかいないだろ
三河で集めて上洛んとき一万てやってたが? >>640
北は陸奥から西は美作まで。丹波篠村で後醍醐方に叛いたんだが、丹波にも足利の拠点があった。 >>641
637さんが300とかいうから、新田のような貧乏御家人でも1500程集めてるぞと言いたかっただけ。
東関東系といっても義家流はほとんど尊氏に従って京都に行って、信濃源氏や佐竹とかの義光流が多かったんでは?山名とかは新田一族でも尊氏に従ってたんもんね。 足利新田の私兵といっても、 その多くの割合が、分家達の私兵だ
だから戦時においては本家が一方的に威張れるものではなく、
分家達の助力が必要だった >>644
新田も山名には相手にされず尊氏に従われ。岩松は信濃源氏を勧誘に行き別行動。
でも越後新田党は「本家の一大事」と里見が旗頭になり大館・大井田・田中・羽川と碓氷峠に馳せ参じる。 佐々木京極、土岐らの系統違い源氏も源氏の棟梁という概念での集合意識が多少はあったのかな >>642
丹波は母方の上杉じゃないかな
実際集まった中に細かい清和源氏系もいたかもしらんが それ自体がもう一つの幕府だった北条得宗家単体の動員力はどのくらいだったか 御内人って北条氏の家人ってことだろ
高一族は足利の家人だから、間違ってはいないがな
んで、徳川の家人は旗本・御家人と譜代大名だ >>651
徳川の御内人は長崎や高ほど権力ないみたい。 徳川の家人の筆頭とは要するに老中だぞ
長崎とか高より権限が少なく見えるか、お前さんには? >>653
ドラマで見た感じでは長崎円基は執権の金沢貞顕や赤橋守時をあごで使っていたし。
高師直も足利直義を追い落そうとしたりしていたぞ。 高氏没落の後は特権的な家人というのは無くなったんだよな
その意味でもあれは画期だった そういや室町時代は御内人で権力握る人少ないね
上杉のち日野のような嫁権力は鎌倉時代と同じく出てくる
侍所など官庁の官僚的なのも多少出てくる蜷川とか伊勢とか
満済は幕府組織的にはどこから出てきたんだろ 有力守護大名一族の一系を大名に一系を身内的な将軍直属権力へと
分断策として一族内の数人を色々な所に配属して本家争いをさせるみたいな政策だから
この一族は身内人だと単純に括るのが難しくなってる 鎌倉時代に御内人という特殊な身分が発生したのは、北条氏が実質的な
支配者であったにもかかわらず名義上の主君ではなかったからでしょ。
室町、江戸の両幕府にはそういうねじれはなかったから、そういう特殊な
身分も発生する余地がなかった。外様だろうと譜代だろうと徳川家の家人で
あることには違いないし。
敢えて比較するなら、藩政・幕政を壟断した家老・老中の家臣がそれかもしれないけど。
井伊大老家中の長野主膳とか。
>>651
外様大名だって徳川家の家人だぜ。 つっても、普代が従者的な立場に近いのに対して外様大名は家礼に近い立場だぞ、客人と部下の中間。 源将軍→執権→得宗の内管領とどんどん内側の実務層に実権が移ってく様はたしかに興味深いが
様相としては戦国時代の下克上と似たようなもんかも
平禅門や長崎が北条得宗を打倒しなかっただけ 正平一統の前の北米朝と幕府の間にはいろいろと悶着があったみたいだな >>663
室町時代の後期にも将軍→管領→三好→松永という同じような構図があったね。 長崎とかは滅んだあと得宗のもとに権力が戻ったけど、
三好松永のあとは管領に権力戻ってないんだよな 斯波も細川も畠山も
分裂してたり家臣に実権奪われてたりで
所領の実効支配ができてないし
幕府権力そのものが有名無実化してたからな >>667
でもまた長崎へ移った
北条貞時は平頼綱を滅ぼした後、
御内人を統率する内管領を北条一門の北条宗方を任じた
そして10年後の嘉元の乱で貞時が連署の北条時村を滅ぼすが、
北条氏庶流(大仏宗宣ら)の反発が強まり、鎌倉が騒然となる
貞時は父時宗の二月騒動に倣って、下手人11人を処刑して事を収めようとしたが、
収まらない。結局、北条宗方を斬り、平頼綱と同族の長崎高綱を後任の内管領に
任じ、大仏宗宣を後任の連署に任じたことで収束したが、貞時は統治意欲をなくして遊興にふけるようになった。また幕政の実権は長崎高綱が掌握するようになった。
ここからは史料がなくてもうそうだが、この一連の出来事で大仏氏ではなく、
長崎氏が幕政の実権をなぜ掌握できたのか?
それは貞時と北条氏庶流が対立した時に、長崎氏ら御内人が「動かなかった」からではないか。だから貞時は庶流に屈服せざるをえなかった。庶流も長崎氏のおかげで勝てた。だから長崎氏が幕政の実権を掌握できたのではないか。 まさに御内人自体が独自の勢力として確立していり感じですね
大河ドラマでもやってましたがまさに長崎氏がキングメーカーに 御内人の実像としては河内の楠木氏のような中小地頭などの悪党勢力をイメージしてる(正しいかどうかわからない)
田畑水利だけじゃなく各地の河川、港湾、街道などで得宗の名を利用して儲けてた層のボスとして長崎がいたんじゃないかと
そしてそれらは得宗権力崩壊後、南北朝どちから縁故が深い方を奉って各地での利権争いを継続していった感じ 北条って権力の大きさの割に儲けてないイメージ
んで楠氏って零細じゃなさそうなイメージ、ってか地頭じゃなくひょっとしたら御内人じゃないか? 畿内を活動地盤にしてる武士の大半が当時は商工系だったという説もあるがな
楠も赤松も特殊ではなくむしろ普通だとかで。 名和はよく言われてる通り日本海側で海運業に従事してた武装商人集団でしょ >>677
後醍醐を隠岐から脱出させたのは、阿波にいた新田の支族の岩松の流れをくむ海運業者と聞くが。
名和が海運業者なら名和の手でやったらいいのにと思うんだが。 名和には後醍醐を救出しに行く義務も義理もない
よって船を出す理由が全くないだけの話 海運するにしても自衛戦力がいるし
金貸して借金のカタとして土地や下司や地頭職などを持ってたりもするし
という感じじゃない
名和の実態について詳しく調べたことないわ 尊氏と直義の政治的態度の違いについてよく議論されるけど
尊氏はこういう層も含めた総合的な頭領を目指したのに対して
直義は源氏与党含めた関東武士と従来的支配者(貴族寺社など荘園領主)の正当権利しか認めなかった
と捉えてる 高野山、興福寺など権門領主の寺社が
薬屋、情報業、酒など食品産業、各種建築工匠などを兼ねた総合コングロマリットみたいな感じになってくのもこの時期 永代供養とかでまとまった寄付をもらっても、毎年の法事の度に資金は減って、しかし新しい収入は他の人の供養の分しかない
(荘園領主としての収入が別にあるけども)
なら、利殖で預かった財物を増やして年々の供養代に充てないと永代という言葉が嘘になってしまう
そのために寺院が利殖を行わなくてはならなくなったのだと聞いたとき、目から鱗が落ちた気がした >>683
そう言えば、2-3年前高野山財テク失敗してたな。 利子とか利息ってのは伝統的農耕社会の価値観では理解できない不労所得なので、
神仏の権威を背後にもって初めてできたんだ、って説も聞いたことある。
ユダヤ人みたいな被差別民だけが金融に携われた、てのとも通じるものがあるな。
聖なるものと賎なるものは紙一重ってことで。 楠木の観心寺も南朝として数代で敗れたわりに凄いお宝所蔵してるし
もうちょっと時代は下るが根来寺なんかもすごい堂舎がいくつも建ってて
企業としての当時の栄華を感じる 最初の徳政例を見ても当時の時点で貨幣経済化が相当に進んでいたのが分かる 為替が成立してたって言うもんななんでもありの信用のない時代に信用経済が成立してる二面性が面白い 茶道、華道や能のような現在につながってる文化は割とあるけど
現在にまで繋がってる(土倉馬借車借のような)資本ってあんま無いよね酒屋くらい?
京都や近江の質屋や薬屋などではあるんだろか 目に見えて金を持つと物理的な武力で潰されるからやない?
時代は少し下がるけど呂宋助左衛門みたいに 亀山は出来れば恒明を大覚寺統の正嫡にしたかったのか 治天と現役天皇が争ったときにどちらが優位かってトコを見せつけた事件だろうな
結果として現役優位(例外あり)って感じで落ち着いたってことだよな 大覚寺統の分断を狙ってか持明院統が亀山に加勢したのもポイント 口約束?
証文みたいなの書かせてただろ?
それでも反故にするんだけど 亀山がそう遺言していただけ
分断を煽った伏見はおそらく北朝系歴代では一番の策士 父との約束を反古にした後宇多
しかし次は自分の約束が息子に反古にされる >>703
記録が乏しいからクズ行動が目立たなかっただけで実際は互角のようだぞ、どちらも大概だ。 実子と権力争いしてヌッコロしてしまう(まあ実行犯は直義なんだが)ようなのは天皇家では珍しい。
日本史全体で見ても戦国時代以外にはほとんどいない。まあ戦国時代に入ってからならば武田信玄とか複数の大名で例があるけどね 南朝は、いっそのこと新天地を求めて東南アジアにでも行けばよかったのに
そこで新王朝を開いていれば、世界史も変わってた せめて九州だろw
幕府も本土さえ対抗勢力がいなきゃ九州くらいくれてやれという気が起きたかもしれん >>707
それは何て鄭成功?
>>708
いやいやw
尊氏自身も九州へ敗走した後に巻き返して湊川で勝って京を制したんだから
「たかが九州」とは思うまい 大覚寺統の最大の弱点は弟系の再分派に歯止めが掛けられない事
それを問題にしたらそれこそ持明院統に譲らざるを得なくなる >>710
大覚寺統は後二条天皇とその嫡子邦良親王のように嫡流の早世があったせいだろう
持明院統は早世があまりいなかったために嫡流が力を持ち続けた 亀山が末子(後宇多の異母弟)を次期皇太子にしようとして後宇多と揉めたのは誰か死んだせいか?違うだろ 亀山が父である後嵯峨の二の徹を踏もうとしたんだよな
恒明は甥の後醍醐より大きく下
ある意味ではその存在のおかげで妥協案として後醍醐が即位できたわけだが >>712
恒明親王は結局即位していないので
分裂も何もしてないじゃないかw
恒明親王は母親が西園寺家なので
むしろこちらが嫡流だった 恒明親王の生母は伏見や後醍醐の中宮たちとは姉妹関係なんだよな
この辺りも政局にかなりの影響を与えた感じ 大覚寺統は真言宗系
持明院統は天台宗系
みな見落としているが宗派戦争の側面が
あったように思える >>718
持明院統の天皇の皇子が仁和寺(真言宗)御室になっているし
大覚寺統の天皇の皇子が延暦寺(天台宗)天台座主になっているので無関係 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
OZ8IT 最近また南北朝テーマの新書がいくつか出てたが前史部分に無かったな恒明親王 初代にあやかって○○流ではなく
○○統と呼ばれたのはなぜでしょう? わかんねーけど
流だと〜流の子孫はだんだん増えていくけど
統だとそうじゃないイメージじゃないの?
皇位継承とはほど遠くなった傍流の子孫は〜流にはなるけど、〜統にはならないみたいな? 岩波新書の最新刊によると亀山の遺志は恒明を大覚寺統の正嫡に据えろという意味だったとのこと
もっともあくまで生きていればこその院政で死んでしまえば秀吉の遺言と同様(ある意味ではその元祖)
そして次にはそれを破った後宇多自身にもそれが回ってくる >>723-724
〜統も〜系も〜流も〜派も〜家もぜんぶ同じだよ
ただ、二人以上天皇がいれば〜朝でもいい
〜家の場合はそういう「家名」という意味じゃなくて「〜〜の家筋」みたいな軽い意味
統も系も「すじ」ってこと、流も派も「枝分かれ」ってこと
枝分かれするからいろんな筋も生まれるわけで要するに同じこと
大覚寺統を大覚寺系、大覚寺家、大覚寺派、大覚寺流といったからって
別に大間違いというわけではない。ただの慣習だよ 持明院統は後光厳流が主流だったのに
結局残った皇統は崇光流という、なんだかな 崇光流3代貞成は
息子の彦仁王が即位しなかったら
親王にすらなれなかったろう だが、崇光の帰京時には後光厳続投か崇光復位かでもめてるぞ
普通なら復位を検討することすらあり得ないのに、だ >>728
西園寺家は鎌倉末期のキーマン
だからこそ建武の新政では真っ先にシメられたとも言えるが 明治期の皇族男子がたくさんいた時代、
最小公倍数的な先祖は貞成親王なんだよな
2人しか王子がいなかったのに、すごい とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
GOW 御花園帝の後、践祚しても即位できないほどの貧乏が待っていようとは 三種の神器は吉野に行く前に北朝に渡っている
(その証拠に南朝は奪い返しに行ってる)
後醍醐天皇が吉野に持っていったのは皇太子を立てる時に時に新旧の皇太子間で継承される皇太子の剣
それがなかった北朝は皇太子を立てられなかったはずだから、皇太子が存在しなかった期間に後の天皇が存在したはずもないということで
明治天皇は南北朝時代(皇太子の剣が南朝にあった期間)の南朝を正統とした。
でもまあ、南北朝時代三種の神器と皇太子の剣が別れてしまってわけだから真の意味での天皇は後醍醐天皇で止まってて
後醍醐天皇以降のどちらが正統かと言われるとどちらも正統ではないんではないかな
後小松天皇の時に全部揃ったけど後小松天皇が皇太子の時にはまだ皇太子の剣は南朝にあったから真の意味での天皇が再び登場したのは称光天皇からではないかな >>574
あの有名な湊川の前の軍議でも都を出るのを嫌がってたからな
結局もはや本物の天皇としては戻れなくなったが
正成ある限り安心されたい
逆に言えば
俺が死ねばお前も終わりだ なるほど、この当時の正当性は治天の承認や三種の神器ではなく、平安京を占領しているかどうかか。ちょっと納得 >>740 >>574
正成も湊川から逃げようと思えば逃げることが出来た。 >>742
庶民にも一番分かり易いからな
軍事力の優劣という点でも
だからこそ親房は三種の神器の重要性を強調しなければならなかった
この時の南朝の神器が本物だったかはともかく 利害の対立する奴が北朝についてるなら南朝につかざるをえんわな 自分の皇子の即位を見られずに死んだ土御門
自分の皇子が即位できないのを見せつけられて死んだ順徳 まあそのへんは承久の乱がなければ皇位に就いてないし なければずっと順徳系だったのな
後の御深草と違って土御門なら父の意に従いそうだが 親王って定員あったの?
両統あって勢力争いしてたら、どっちも高位高官ばらまきそう それにしてもどちらの土地が広いとか、人間臭くてつまらないことが原因で争ってんだな >>749
親王はともかく、摂関とかの高官(のいちぶ)は大覚寺統か持明院統かどちらか片方にだけ出仕して、統が変わると辞官する人も多かった気が >>719
天台か真言か どちからっていうと俺は天台。 だた負けてるんだな 天皇の血筋なんて、蘇我の時代から その時代の強い奴ー天皇
という交配だった 藤原も北条も同じ事をしているわけだし
家系図みたいなのを辿れば検証もし易い 話が酔っ払いみたいにそれるが
あとで光明を立てられる訳だし、両統迭立で交互に仲良くやっておけばよかったのかもな
どちらか正当か 学生のときは京都に残った北朝だと思っていたな >>2
血統で言うなら崇俊でとっくの昔に切れた
強くても血統、よって負けたが持明院統と思っていた(今は醍醐の方だと思ってる) 後醍醐のせいで醍醐も悪人っぽく響くな
迷惑な子孫だ >>755
後醍醐だって元々は中継ぎ担当なだけの傍流として登極してるから、その正統性は自ら武力で勝ち取ったもの
もとからの自明の正統性などは持ってなかったよ
甥が成人するまでの間だけ持明院統に皇位をもっていかれないようにすることしか望まれてなかったし、
その関係で後醍醐帝は実権を持たないで、後宇多上皇の院政が行われていた
争って勝ち残った点では持明院統と同じだよ 途中から親政に変わったのは院政を敷いていた後宇多の健康状態に起因するもので、後醍醐の後継は(後二条天皇の息子である)邦良親王とする既定路線を変更させてない
大覚寺統の正統は、後醍醐親政の前半ぐらいまでは間違いなく邦良親王で、それを破棄させて自分が正統を独占するために実力行使を続けたのが後醍醐帝
その果てに吉野へ行かざるを得なくなって、やがては子孫断絶。 尊氏と休戦した時に成良を天皇にしとけばよかったのに 邦良親王が成人するまであと何年かガマンできてたら分裂は回避できてたってか?
無理だろ。むしろ大覚寺統が消え去ってた可能性さえあるぞ 少なくとも後宇多系はかな
大覚寺統としてはまだ恒明という面倒な存在もしたし 北朝では光厳が弟の光明に対して院政を行使してるんだよな
それ以前の後伏見と花園もだがそれだけ嫡系への求心力は持明院統は高かった印象
それに対し大覚寺統は晩年の亀山の恒明への執着などが嫡系への求心力を相当に阻害していた 両統迭立なのに、両統とも嫡流だけでは皇位継承者が足りなかったって
不思議な感じだな どちらの統も内部で嫡流争いしてて、そのあおりで適切な候補者を選びにくくなってたんだよな
特に大覚寺統の内部での争いが激しい 大覚寺統の最終的な敗北はやはり分裂抗争がより激しかったという面も大きい
特に邦良親王が亡くjなった時点での後継選びで持明院統が候補を一人に絞れたに対し大覚寺統は三人もいたというのが凄い それにしても、こんな問題が鎌倉幕府の致命傷になるとはなあ 幕府としては分断状態が好ましいと考えていたんだろうが >>755
>血統で言うなら崇俊でとっくの昔に切れた
これ、どういう意味?欽明天皇の嫡子は敏達天皇じゃん 父親はその父の言い付け通りに弟に譲ったとの土御門なのが皮肉 >>176
この時に後醍醐が院政してりゃ全て丸く収まったんじゃ?光厳を退位させ後醍醐の実子を帝位に就けてれば。 花園の践祚の時に恒明を東宮にしときゃ南北朝分裂はなかったかもな。
てか恒明を立坊しなきゃ亀山院の素意に反するとずっと持明院統から攻撃されるだろう。 二統に分かれて皇位争いしてるだけで、天皇なんか生臭くてありがたくない
利用したい奴らの思惑次第だったのだろう 南北時代に世襲親王家という発想があったらすごいことになったろう 世襲親王家でもっとも古い伏見の宮家は南北朝時代後半に成立してるから、もうちょっとだけ、間に合ってないね 世襲宮家だった可能性が低い上、詳細すら分かってないヤツだよな>五辻宮 木寺宮も南北朝時代なかばごろまで初代の在世中だから、世襲されてはいなかった頃だろ >>780
とはいえ自分の都合のためなら廉子の皇子でも平気で見捨てる後醍醐
後村上がなんとか生き残れたのがむしろ奇跡なくらいで >>177
なんで後醍醐は重祚と言う形を取らなかったんだろう
700年後にWikipediaで
「男性天皇で重祚したのは史上初」
「2019年現在、重祚した最後の天皇である」
とか書かれると思うと俺ならワクワクするんだが。 先例無視の後醍醐でも重祚だけは受け入れられない何かがあったのだろう 破れて退位させられたこと自体を受け入れられなかったんだろ >>800
つまり後醍醐政権下と南朝内でだけ、光厳帝の在位を否定して後醍醐続投と認識してて
北朝や幕府では後醍醐帝は重祚と認識してたわけで、江戸時代後半になるまでは後醍醐帝は廃位の後に重祚と認定されてたわけだよな
明治維新のイデオロギー的な認定変更のまま訂正されずに今に至ってるだけで、
正しくは後醍醐帝は重祚してる 後醍醐→光明→後醍醐
でこののち南北朝で
北朝1光厳
南朝1後醍醐→2後村上
こういうことかな 持明院統と大覚寺統の初代の兄弟に鎌倉将軍がいるんだ、と最近気づいた
東朝・・・・ あるいは光厳即位の時点で南北分立の解釈か
とにかく明治維新の時点で後醍醐と明治天皇の双方を正統化させるために神器の所持をもって正統とするという解釈
よって明徳の和約が絶対視されるわけであり以後の後南朝も公式的には無視される 院政の流れが奇怪至極
亀山後宇多→後深草伏見→伏見後伏見→後宇多後二条→伏見花園→後宇多後醍醐
→南北朝に分裂
後宇多と伏見は院政やりすぎw >>798
先例だと自分の権力を正当化できない後醍醐 朕の新儀は後代の先例となる、などと言い放った後醍醐帝だが、肝心の後代の学者からは、あの時代は物狂いの沙汰が多かったから先例として不適切と断言されちゃったんだよね >>797
後醍醐という名前を変えたくなかったのでは >>811
諡号は死後に贈られるものなんだから、重祚したあとの名前を後醍醐にしてもらえばいいんじゃないの、なんでダメなの?
(重祚すると名前は2つになるけど、その名前は生前から付いてたわけではないはず……)
後醍醐という名前は本人の希望によって付けられた名前だけど、そう名付けるように遺言して付いた名前なんで、生前から呼ばれてたわけじゃないからね。 決めてたのは決めてたけど、法制度上、死後に贈るという形式は必要だったので、生前には「後醍醐という名前にする予定」に過ぎなかった
するってぇと、「醍醐は重祚してないから自分が重祚だと」って感じだった可能性? 伏見宮家の系統
https://ja.wikipedia.org/wiki/竹田宮
https://ja.wikipedia.org/wiki/北白川宮能久親王
竹田宮家の初代たる竹田宮恒久王の父親は北白川宮能久親王で、その父親は伏見宮邦家親王だ 現天皇家の祖先ではないにもかかわらず南朝が正統とされた、というべき >>819
後醍醐流は置いといて、恒明流や邦良流って続いたの?吉野じゃなくて京にいたようだけど 本来の理由は徳川が新田の系統を名乗っていた関係からで尊王とは関係ない 天皇家は血筋より継承が問題なんでね。
かりに南朝が正当でも南北朝合体時に後小松が継承した時点で北朝子孫が正統になった。 天皇家つーか日本のイエ制度はどこもそうだろ
皇室だと血統よりも三種神器と治天宣告が最重要 ちなみに朝廷側では南朝の正統性を一切認めてなくて、一貫して北朝天皇が正統であり続けたとしてきた、
少なくとも明治維新までは。 後醍醐と明治の双方を正統とするための論法なんだよな
明治維新は建武新政を範とする建前のため >>826
違いますがな。
後小松天皇が南朝の天皇位を継いだ時点では両統迭立の約束だった。
ところが約束が守られずに北朝の称光天皇が次の天皇になった時点で
南朝が正統ではなくなったのだよ。 >>831
迭立を条件として決めたのは義満で、北朝側は迭立を受諾してない。義満が当事者にことわりなく勝手に口約束しただけという認識。
むしろ合一より以前から一貫して南朝を朝敵とのみ認定しており、そちらの正統性を一切認めてない
後亀山を渋々上皇に任命したときだって、即位したことがない上皇というあつかいにした 明徳の和約は南朝と幕府が交渉してて北朝は蚊帳の外だったんだよな。後円融がブチキレてなかったかな? 合一後は、長講堂領荘園を北朝の取り分、国衙領を南朝の取り分にしたが
国衙領なんてとっくに崩壊してて、南朝は生活さえ困難に。 >>828
歴史上、新待賢門院が2人いるってことは江戸時代までは南朝はなかったことになっていたのか >>825
徳川は吉良の末流とでも名乗りゃ良かったのに。 >>834
ぶちギレたから、幕府が言った条件を全無視した
それでは面子がたたない幕府が頼んで、後亀山の上皇宣治だけは実現した
特に不満が強かったのが迭立の件 >>838
足利一門は時の権力者で家系を改竄するのが困難だったんじゃ?と推測 >>834 >>839
正平一統の前歴があるからな
足利尊氏が鎌倉へのがれた弟の直義を後顧の憂いなく討ちたいがために、
勝手に自分が擁立した北朝の天皇を廃止して、吉野の南朝の天皇を正しい天皇にしちゃったんだからww >>842
義満時代は従順というか、ひたすら「忍」の一字だったが、義満没後は逆襲に転じた。
義満に奪われた権限を一部取り返し、両朝迭立も反故にした。結構やり手だよ。 それが天皇家が永く続いた秘訣だ。 ex.昭和天皇とマッカーサー 正統な皇統の流れは、
後醍醐→光厳→後醍醐→光明→崇光→後村上→長慶→後亀山→後小松
だろう
神器の移動を基準としたものだが
後醍醐帝は吉野を脱出して南朝を開いた際には実は本物の神器を持ち出せてなかったと見ている
正平の一統で南朝に神器が接収されて正統が南朝に移ったのではなかろうか >>848
少なくとも北朝側では終始一貫して、南朝のことを反乱者と認定していてそこに正統性を欠片ほども認めてなかった
政権としての実効性も京都支配を堅持してるし、
逆に南朝の影響力は早期に低下してて、反乱を起こしたいヤツが口実として利用する以外のまともな影響力を持ってたのは数年だけだ >>851
北方さんの言葉を南北朝にあてはめると、
幕府が覇道で南朝が王道なんですよ。 少なくとも、南朝の主張するような形の正統性観念はそれ以前の日本に普及してなくて、南朝の存在そのものが異端だよな 令和天皇の次の皇統は愛子(敬宮)統と秋篠宮統の両統迭立でいこう >>852
武力倒幕と持明院系統を皇統から外そうとした、後醍醐天皇は、むしろ覇道系の天皇
その覇道の結果、後亀山天皇を最後に大覚寺系統は、二度と皇統に復帰できないと言う
結末となった >>858
なるほど、後醍醐天皇は同じ大覚寺統で、兄の後二条天皇の皇子である
邦良親王にも皇位を渡したくなくて、自分の血統だけで皇位を独占したかった訳でしたか
やっぱり後醍醐天皇は覇道の天皇と言えるわ 出来れば廉子腹が良かったかもだがいざとなれば彼らを見捨てる事にも躊躇が無い
まあ自分と自分の血統が勝者になれなければ皇位も朝廷もどうなろうと構わなかったんだろうが 後醍醐は生前退位する今上にあの世で腹をたててるかもしれない 後醍醐はむしろ譲位後にも権力を保てる立場ではなかった >>858
その証拠に後醍醐流以外の大覚寺統は吉野に行かずに京にいたよな >>862
そりゃそうだろ。
吉野に逃げ込んだ結果、院政を支えるはずの八条院領荘園が解体してしまったんだからな。 というかそもそも天皇という地位にいる以外に権力の正統性を主張できない
血統的に天皇家全体だけでなく大覚寺統としての家長の資格が無いから 血統は別に問題はないだろ。あとは治天の承認も三種の神器もきちんと受け継いだ。
そして討幕したんだから自流の子孫を皇位に就けるのに何の問題もないぞ 後醍醐天皇のやり方が、自分の血統どころか大覚寺統まで
皇統から外される結果を招いた
そして持明院統の血統が皇統を独占する事なった 実父である後宇多上皇が後醍醐を皇太子にする際に、故・後二条天皇(後醍醐の異母兄)の皇子の邦良親王を次の皇太子にするよう命じているし、
幕府や持明院統関係者にもその承諾を取りつけている
そもそも後二条天皇の嫡男たる邦良親王ではなく後二条の庶弟を皇太子としたのは邦良親王が幼すぎたからにすぎず、大覚寺統の嫡流は邦良親王だった。
この段階では後醍醐天皇は庶流であり中継ぎであると誰もが認識していたんだ。
後醍醐帝はそれを不服として後宇多上皇の院政をやめさせたり、既定方針を守らせようとした幕府を倒したりして秩序を打破した覇王。 うん、別にそれでいいじゃん、幕府なくして建武政権になったんだから。それに後宇多も親父の亀山の遺言を反古にしてるだろ そして建武政権も倒れてそれも無効
後醍醐の子供たちに対する対応にはそうした子の親への裏切の連続も反映していたかもしれない 後醍醐天皇の諱は「仁」が付かないけど、何か訳ありなの? >>870
まあ亀山の遺言は恒明を将来立坊させろ止まりなんだよな
後宇多流が嫡流として確立しているあの時点でまだ幼い恒明を嫡流にしろとまでは要求できなかったわけで >>872
後醍醐天皇の親王達も「良」で「仁」が付かないけど
(例えば、護良親王)
何故なんだろうね 後鳥羽順徳仲恭後二条も「仁」がつかない
鎌倉時代はちらほらいる 時系列、例えば神代〜人皇〜という話など
そういうのがデタラメだからなんだよ
と言ってる人がいたでしょ、
超時空マクロス・・・そういうのと同じだとか 北朝の光明天皇が在位してなかった扱いなのに
どうして江戸時代の後水尾天皇の皇子が後光明天皇となるのか?
江戸時代の感覚では南朝こそ偽朝だったのか? そうだよ
少なくとも朝廷側では、過去の南朝は朝廷ではないと認定されていた ttps:// ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11967020427.html?frm=theme
そもそも後醍醐は本来天皇以前に親王にすらなれる人間じゃなかった
後宇多は尊治(後醍醐)の親王宣下を拒否するが絶対に親王になる野心の尊治は自分の生母すら使って祖父の亀山に取り入って
好色の亀山が生母を自分の後宮に取り込む形で親王宣下を下す
後醍醐が大覚寺滅亡の原因だって言う意見にはもちろん別に異論はないが
そもそもその後醍醐を皇位継承者にさせる行為をした亀山にもぶっちゃけ大きな原因が有る
正直言えば大覚寺は始祖の亀山自身が滅亡の原因と言い切ってもおかしくない >>877
南朝が正統は明治からだよ
江戸時代に新待賢門院がいた。阿野廉子も新待賢門院だが南朝はなかったことになってたから被ってても問題なかった >>881
三種の神器を持っていたのが南朝だったから 明治維新に際して南朝正統を採る水戸学の影響が大きかったから
明治天皇も自分を支えてくれた元勲達の思想信条を無下にできなかった >>883
その水戸学の創始者、光国が兄の頼重の子を後継ぎにしているのに
後醍醐天皇が、兄の後二条天皇の子や孫に継がせなかったのを
不忠に扱わないのも矛盾してるよね。 後醍醐と本来同じ役割を与えられていた北朝の花園が
きちんと裏方に徹してるからどうしても後醍醐の自己中さが目立つ
大覚寺統は持明院統と違って天皇経験者の連携が取れてないよね 上にあるように後醍醐の親王宣下に後宇多が反対していたことが事実なら、大覚寺統は亀ちゃんの時点で終わっていたということか >>883
黄門さんは南朝正統という意図はなく楠公を顕彰したんじゃないと聞いたことがあるけど。 >>872
>>874
後醍醐の父の後宇多の頃から子供に「仁」ではない字を当ててるな
後宇多皇子・治
後醍醐皇子・良
後村上皇子・成
長慶や後亀山はよく分からん
長慶皇子を泰と主張する人もいるがその辺りも分からん
亀山も途中までは仁だったけど後の方は関係無い字だったりするし
大覚寺はその時の天皇で息子の通字を変えてたみたいだし >>888
大日本史の骨格は光圀存命中に完成している
南朝の天皇を本編に書き、北朝の天皇を外伝のように設定して書いた それでも合体以後は旧北朝が正統で後南朝は無視
>>886
そもそも始祖の亀山が弟系だから弟系の統制が取り難い
そこを問題にしたらそれこそ亀山の正統性にも関わってくるし >>889
後二条天皇(邦治)の 息子は 邦○だけど
孫の世代は ○仁なり 曾孫は 邦○
大覚寺統は よくわからん命名してるよね。 本家とは異なる命名規則を使ったってことは、自分たちは分家だ、別家だと認識してたってことじゃないの >>897
醍醐〜村上〜円融〜 が皇統の本流になったけど
後醍醐〜後村上の次が 後円融じゃなく長慶なんだよね。
後円融は北朝第5代目にとられたのかな >>894
南朝正当という割には新田には男爵。楠木正季系の甲斐庄には爵位すら与えてないな。 政党王朝は南朝で、その南朝に尽くした新田一族である徳川は朝廷の中心ってのが
最初期の水戸学のスタンスだしね >>901
水戸学の源流は家康の系図詐称に端を発しており、
それが幕末動乱に繋がると考えると興味深い みなもと太郎『風雲児たち』
「若かりしころの水戸黄門が、『宋書』を読んで感動したことが、江戸幕府滅亡の原因となる」 光厳から後円融までの北朝の5人の天皇は歴代天皇に含まれていないが、南朝の後村上は97代、
長慶は98代、後亀山は99代に数えられてる
淡路廃帝(淳仁)や九条廃帝(仲恭)でさえ歴代にカウントしたのに、北朝の5帝が無視されてるのは
明治時代の7不思議の一つだな(残りの6つは知らん) そりゃ倒幕運動の思想的背景に南朝正統論が入ってるからな
その信仰ゆえに、北朝は偽帝ということにしなくてはならなかったんだよ あんまり後醍醐を崇める気にならない。
今に続く皇統は北朝の末裔なのだから。 北チョン南チョン
うるせーんだよオマエラ
ここは日本史板だぜ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 馬鹿は死んでも治らない、か。
せめて中国史を語るな位言って欲しかった。 >>905
それでも合体以後は正統だからな
系図的にも偽帝というより仮帝の扱い 合一までは南朝が正統だという主張自体が南朝による一方的な主張にすぎず、それを信じてるのは当時ですら一部にすぎなかった
むしろ北朝の主張である、南朝は一貫して賊であり偽帝であるという主張の方が、多少なりとも賛同が多かったし、そこまで極端な主張でなくとも南朝よりは北朝を支持する人が多数派だった 日本も中国も南朝が正当なのは現職のお上が南に逃亡したのがでかい。 中国の南北朝の時は、北から逃げて南で即位したんじゃないぞ
左遷でもともと南にいた皇族が勝手に離反して即位しただけで、正統性の度合いは蜀漢より少しましな程度
当初から正統性に疑念があったらしい 南朝の最大の正当化の根拠は現職優先という点
そしてそれまでの途中退位は強要だったから無効
それに最初の即位の時点では全体の合意が存在していた
ただしなった以上降りるかどうかは現職の勝手であり自由 >>912
有名な資治通鑑でも中国の南北朝は現役北宋の正当性を揺るがすデリケートな問題だぞ。日本の南北朝と度合いは同じ。 強要で退位した天皇が後醍醐より過去にはいなかったかのごとき詭弁だな、それ >>913
南朝の正統性主張の最大の根拠は三種の神器を持っているということだろ >>910
いやいや足利が武力で擁立したのが北朝だから
内心では比叡山も住吉大社も南都も南朝支持だよ >>916
南朝成立当初の状況を見れば神器保持の主張はウソで本物を持ってるのは北朝だった可能性が高い
南朝が神器を入手したのは正平一統のときで後醍醐ではなく後村上のときだろ だが歴史の定説は南朝による保持。
それを覆すのであれば証拠を添えて唱うるべし。 南朝を正統としてるのは歴史学じゃなくて政治問題によるものだぞ
学者は正統性に口出ししたがらないが、南朝正統と考える人はゼロに近い まあ異常なまでに自負心の強い後醍醐にしてみれば俺が持っていれば本物だくらいのつもりだったんだろうが つまるところ南北朝時代なんて結局は後醍醐という存在を肯定するか否定するかって事だけなんだよな 戦国時代、元禄時代みたいなサブタイトル的な区分だろ。 後醍醐は立ち位置的にヘンリー七世に近いか。
お後がよろしかったが。 まさに後醍醐の怨霊に振り回されたという感じの後世
その意味からすれば南朝正統はせめてもの鎮魂術といったところか
もちろん合体後の後南朝は無視で h ttps://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11967020427.html?frm=theme
この説から言わせりゃ始祖の亀山自身がそのまま滅亡の種を撒いたと言うのは別におかしくない
持明院が基本一本化でまとめようとしてるのに大覚寺はどんどん家を分裂させている
これは結果論的にも悪い方向にしかなっていない 後宇多「一本化したかったけど親父と息子が邪魔するんだもん(´・c_・`)」 後醍醐天皇の子孫で確実なのはいない、怪しげなものだけ。 持明院統も崇光流と後光厳流に危うく分裂しそうになったな。後小松はよくやったよ 後継者がいなかったのだから、どうしようもなかっただけ >>934
そして、あおりをくったのが一休さん
後光厳流で続投できる余地があるなら還俗して皇太弟になれるはずだったのにな >>930
それはおかしいだろ
亀山は別に後嵯峨みたいに曖昧な態度をとったわけじゃない
ちゃんと後継者を指名してから死んだんだから責任は無いよ >>937
後嵯峨には権限がなかった
出家予定で23歳まで元服もしていなかったが
四条天皇の夭折で急遽、鎌倉幕府に擁立された
だからどちらにするかは鎌倉幕府に委ねると言って死んだ
委ねられた執権・北条時宗が両統迭立にすると言った 権限がなかったってのは誤解や勘違いの類いだがな
承久の乱は幕府から見れば辛勝で朝廷から見れば圧倒的大敗
幕府側は承久の関係者の復員は絶対的に避けたい、トラウマものだったが、朝廷側はこれもトラウマもので関係者の復員は想定外
配流者の孫を即位させても配流の取り消し(帰京)は考えがたいし、かりに帰京させたとしても院政をすることなどあり得ないと思って、残留皇族のうちでもっとも世代数の近いものを登極させようと思ったが、
それが幕府側のトラウマ直撃して、幕府としては自らの存亡をかけてまで阻止しようとしたわけだ
この辺のすれ違い、認識のずれゆえに朝廷の権限が過小評価されてるだけ 時宗も一応は後嵯峨の後家にお伺いをたてたようだが。朝廷と幕府のコミュニケーションが上手くいってなかったのかな? 北条義時なんて天皇になれたはずなのに、相模守のままというのが理解できん 源氏から天皇になった人はいるが平氏から天皇になった人はいないからな 後南朝の宮たちの大多数は出家してるのに担ぎ出されてるけどな
つまり、無理なわけではなくて、ほかに候補がいなければ天皇になれるはずだと認識する人がそれなりに多く居たってことだろ 出家は無理とか言うけどそもそも天武も一旦出家したし 源氏平氏に格の差はない
平安時代になると臣籍降下のときには基本的に源氏になる
桓武天皇の代で別れた(平城以後の天皇の子孫ではない)皇族が例外的に平安京からとって平氏となってるだけ 天皇を辞めさせたり、別のやつを呼んできて皇位に就けたり、上皇を流刑にする奴 及び
その子孫が四位・五位のままということは普通ありえない
普通、大臣くらいにはなるし、天皇になってもよかった それが右馬頭だのなんとか大夫だの
兼 相模守のままというのが解せぬ >>958
一世(天皇の子)賜姓は源、二世三世(孫、ひ孫)賜姓は平と
基本的に皇統に近い方が源氏、遠い方が平氏という決まりはあった
ただ清和源氏のように源氏二世賜姓が例外的にあったことも
ただ奥富 敬之の言うように平安遷都の熱狂がうすれた100年後には賜姓は源氏のみに >>942
親に取り入るのは上手いという亀山は隋の煬帝にも通じる点がありそう >>937
亀山の遺言は「恒明を立坊させろ」だけ
もちろん状況によっては大覚寺統の嫡流になる事への含みもあったんだろうが >>964
関東申次・西園寺公衡(恒明親王の伯父)が
亀山法皇崩後、亀山の遺勅であるといって恒明親王立坊の話を
鎌倉幕府に持ち込んだことは事実だが
孫の皇太子に息子を立てるなど皇統を混乱させかねず
西園寺家の強引さが全面に出た話だったはず >>940
それは違うな
朝廷や九条家は後鳥羽上皇を許して帰京させてもいいと思ってたが幕府に突っぱねられたし
承久の乱後、朝廷は次期皇位継承者についていちいち鎌倉幕府にお伺いを立てていたよ
しかし関東にいる鎌倉幕府は京にある朝廷の内情にそこまで詳しくないので
関東申次を世襲している西園寺家に情報伝達を一任していた
鎌倉時代に西園寺家が天皇の外戚として摂関家を凌ぐ巨大権力を手にしたのはそのため
実際、西園寺家があれこれ鎌倉幕府に吹き込んだことで皇位継承が覆っているし
それが皇位継承を余計にややこしくした 幕府にとっては、乱が辛勝(幕府主観)だったからこそ、承久の乱の責任者たる三上皇の復帰は絶対に避けたいことだよ
中でも後鳥羽は絶対に論外。
幕府の危惧としては、上皇が雪辱を期して復権する危険が少しでも出るようなことは許容し得なかった。
朝廷側の主観ではトラウマ級の大敗だったから関係者は帰京を許しても復権は有り得なかったんだろうけど、幕府はそうは思わなかった。
帰京を許せばきっと復権を果たし、再度の挙兵の果てに、こんどこそ倒幕を成し遂げるのではないかと強く恐れていた。
三上皇の内でも最高責任者である後鳥羽こそ、絶対に帰京させてはならない危険人物だったから、突っぱねるのが当然だよ。
三上皇問題なければ、幕府としては皇位継承に干渉したくなかった。
ただ、朝廷内での主導権争いで劣勢になった者が捲土重来を期して幕府の干渉を求めたので、関わらざるを得なくなっただけだ >>967
承久の乱の勝利者となった鎌倉幕府が三上皇の配流と仲恭天皇の廃位という皇位継承に首を突っ込んだことで
結果的に鎌倉時代を通じてすべての皇位継承は鎌倉幕府の承認が必要だという慣例になったんだよ
皇位継承に関わりたくないならまだ幼かった仲恭天皇の廃位などしなければよかった
後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒したのは倒さなければ両統迭立で持明院統に皇統を持っていかれるからで
鎌倉幕府が皇位継承に興味がないなら後醍醐も勝手にやらせてもらおうで終わった話 >>969
後醍醐天皇が鎌倉幕府を潰したら持明院統は黙っただろ
それが「建武の新政」
天皇は後醍醐、皇太子は後醍醐の皇子
持明院統は排除して後醍醐の子孫だけが皇統を継ぐことと決められた
持明院統は鎌倉幕府に変わる新たな武家政権・室町幕府を認めることで
武家政権に皇位継承に立ち入ってもらわなければ皇統の奪回などできなかった >>970
>後醍醐天皇が鎌倉幕府を潰したら
幕府を潰しただけじゃなくて持明院統の天皇を廃位したんだけど
武力で捕虜にした上での廃位だ。しかも、ただの廃位じゃなくて、皇位に即いたこと自体を無かったことにした。
かなり強硬な弾圧だよ、どう見ても強制的に黙らせてるとしか言えんだろ さすがにやりすぎたと思ったのか公家にツッコまれたかはわからないが光厳を太上天皇扱いにしたし。一応光厳は後醍醐の婿だからかな >>971>>973
どれも鎌倉幕府が皇統に口出ししていたことの査証だよ
幕府が口出ししてくれなきゃ後醍醐天皇が好き勝手できたんだし >>975
そもそも、幕府が口出ししないと内乱になりかねなかったから干渉した
最初の不本意な干渉となったのは、ちょうど猛虎襲来の直前交渉の時期だしな
蒙古の危機が去ったから勝手にしろと突き放して後二条を皇太子にたてさせず持明院統に任せてたら平和に終わってたんだ >>976
鎌倉幕府が口出しする前までは朝廷内で勝手にやってたこと
鎌倉幕府が「俺が皇位継承を決めてやるからなんでも言ってこい」
と口出ししだした >>978
幕府が皇位継承に干渉してたからだよ
干渉しなければ後嵯峨と大宮院の意思で亀山が正統となり両統迭立は起こってなかった >>982
後嵯峨の内意ってのが実在してたら混乱しなかった
なかったから混乱して、収拾の目処がたたなかったから幕府が呼び込まれたんだよ
幕府からは、嘘でもいいから内意があったことにするよう求められ、後嵯峨の内意なる代物がでっち上げられた 後嵯峨は治天の君指名に関してはあやふやだったのに
後鳥羽の法事権を修明門院から取り上げたり
公家には強気だよね >>984
内意は亀山
大宮院がそう証言している
ところが約束を反故にして鎌倉幕府が口出しした その証言は偽証だと、当時は広く信じられていた
少なくとも、多くの政敵が偽証だと信じて不満を明らかにしていた 亀山が治天に決まって後深草が怒りの出家。これで一件落着だったんだけど…。時の関東申次、西園寺なんとかが幕府によからぬことを吹き込んだと。この後に後宇多の次の皇太子が持明院統の伏見になった >>993
亀山が西園寺の后をスルーするから西園寺家から嫌われたんだよ
せめて洞院の后並とまではいかなくても
ある程度の扱いはすべきだった >>995
恒明親王母の昭訓門院は確かに西園寺実兼の娘だけど亀山晩年の后
亀山の扱いが冷たかったのは初期の頃の后の今出川院(実兼妹)
若い頃の亀山は洞院家の后、京極院ばかり寵愛していて今出川院にはその位に見合う扱いをしなくて
今出川院は父親の死を機に亀山の元を去った 西園寺実兼も必死だな。確か持明院統のほうにも中宮を入れてた気が。
権勢を保つには外戚で居続けなきゃならないんだな そもそも後深草も亀山も母大宮院が西園寺の人
元々今出川院は大宮院の養女格で入内しているから
西園寺の分家筋にあたる洞院と差がある扱いするというのは恥をかかせてるに等しかった このスレッドは1000を超えました。
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