清盛と頼朝はどっちがすごいの?
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どっちがすごいのか日本史的な意義を語るスレッドです。
800 自分:名無し募集中。。。[] 投稿日:2012/01/08(日) 22:00:50.04 0
AKBブーム捏造の裏
サウンドスキャンの売り上げでさえほとんどが業者の自社買い他社買いで
資金洗浄した金額がオリコンの枚数×CDの価格って感じかね
http://livedoor.blogimg.jp/dqnplus/imgs/f/f/fff69a26.jpg
天寿を全うした清盛と、北条に馬ごと突き落とされあえない最期を遂げた頼朝。
ともに子孫が族滅してしまったことを考えると、一時でも栄耀栄華を極めた清盛の方が上だな。
幕府機構を作り上げたパイオニアとして日本史の偉人五指に入るよね、頼朝は。
2chやニコニコ動画に民主党から反日工作費が流れていることが知られるようになってきた。
民主党が用意した資金で工作員が2chを荒らしていることもだんだんと知られるようになってきた
海外に視野を広げて、断絶していた中国との
貿易を始めるとか、スケールが違うよな。
坂東に篭って武家だけ相手にしていたのとは。 頼朝って結局「北条家の御輿」に過ぎなかったのかも…
義経含む弟達への粛正は兎も角
息子一族達も北条家の策略にハマったようなもんだし >>11
北条氏というより坂東武士団の神輿だね。
罪人の身であった頼朝には、経済力もなかったしね。
清盛の日本国全体からみた業績
+神戸建設
+日宋貿易
+律令に近い政権
−平家専横
−東大寺焼きなど
頼朝
++最初の東国政権
++最初の武家政権
++東北征服
+鎌倉建設
−令外の二重政権
頼朝のように見えるが実は清盛 野田改造内閣に早速疑惑浮上
@aritayoshifu 有田芳生
捜査当局が内偵を続けている農水疑惑。詳細な怪文書まで出回っている。3億円の
行方はどこに?
@minorucchu ジャーナリスト 田中稔
野田改造内閣を揺るがす、農水省3億円スキャンダルの怪文書。二人の議員名が浮上。
34分前 webから
https://twitter.com/#!/minorucchu/status/157687110562881537
鹿野と筒井らしい
自公は問責も視野に調査開始だって そりゃ頼朝のほうが上だよ
親父からの財があった清盛に比べて頼朝にあったのは貴種という生まれそれだけだもの
反日ネット工作員
朝日新聞社→社員約300人
民主党とその取り巻きの資金が入った反日工作会社→数社約450人
朝日新聞の社員は捕まった49歳の編集者を含め新聞記事を書く合間に2chを荒らしている程度とみられているが
民主党が用意した反日工作会社はほぼ24時間体制で工作を行っている
工作範囲は民主党が予め工作費を流している2ch、ニコニコ動画を中心にyoutube、個人のブログなどである。
武士の大きな可能性を示した清盛、のちの世に幕府という武士の活きる道を拓いた頼朝社長
どっちが上かと聞かれたら、頼朝社長かな。
頼朝はヒドイ奴です
ある青年が女性にラブレターを送ったら獄門ですよ獄門。
同じことをした江間小次郎は仲人になってまで結びつけたのに 生涯、嫁の政子に頭が上がらず、女遊びさえままならなった頼朝を
あまり羨ましいとは思わないな。
最期は、嫁の実家の連中に川に突き落とされて殺され、子や孫も殺されてしまうんだから、
哀れすぎる。
平家は、まだ敵と戦って滅ぶ分だけ武士らしい最期を遂げる事が出来た。 頼朝って最近テレビにちょいちょい出ているけど
そんなにすごいやつなのか? 清盛は貴族制に乗っかっただけ
頼朝は関東の武士に担がれただけ
後白河こそ貴族から武士への権力移譲を全部仕掛けたすごい人物 >>31
それは後白河法皇を過剰評価し過ぎているのでは… 後白河法皇は武士の台頭という事態にただ流されてるだけのように見えて
実は日本を破綻させないように清盛、義仲、義経、頼朝を誘導しつつ軟着陸させたんだよ。
俺はそう思ってる。 清盛の功績って良く考えたら自分たちのことだけだよな
貿易は私的利益のみだし、官職を独占して貴族と武士の両方から総すかんを食らったし、
武家政権を制度化した頼朝はその点ではまだまし >>34
不完全ながらも、公武一元の政治であったことは
間違いないと思うが。
日本史上明治維新まで、公家と武家は大体において
はっきり区別されてきた品。 清盛は武士でありながら貴族の地位を極めた点が凄い。
頼朝は後に幕府と呼ばれる統治機構を初めて作った点が凄い。 >>35
清盛までは公家と武家の分離がまだなかったということだよ
文官と武官の違いがあっただけで命令系統は朝廷に統一されていた
清盛は朝廷という組織の中で下級貴族から上流貴族にまで出世したというだけ
朝廷とは別の命令系統で武士を把握したのは頼朝の鎌倉幕府が最初 たしかに清盛は凄い人物だったのであろう。
しかし、歴史的功績からすれば、やはり頼朝社長かな?
昔、金田が古今の選手でどっちがすごい?と聞かれて、
選手はポケモンじゃないから答えようがないと言ってたのを思い出した このドラマさんざん糞糞言われてるけど俺も見ていてなにか違和感をかんじていた
やっとその理由がわかった
ひとつめは源頼朝が部下の前で清盛マンセーするシーンがやたらあること
あんた部下の前でなに言ってんの、と
やっと最高に邪魔な敵を片づけてみんなが大喜びしてる席でさw
ふたつめは清盛と頼朝が2人きりでなかよくデート、イチャイチャお話してることw
この時代、隙あらば大将の首取ったろうって時代だろう
で目の前に大ボスがいるってのになにイチャイチャしてんのさ
まだそんなに犬猿じゃないのかもしれんが しかし海外に対する視線は頼朝がわからんだけに清盛に分があるしなぁ 頼朝の作った幕府という
公武分離した命令系統がうまくいきすぎて
後々まで基本同じ制度になったのはマイナスも大きい
どうやったって正統性に瑕疵があるわけだし、
基本的には武士のための政権
そういう意味で
清盛-秀吉ラインの方が
頼朝-家康ラインよりも好きだ
上記は海外にも積極的だし >>40
>清盛と頼朝が2人きりでなかよくデート
義朝だろ
大河の話は他でやれよ 武士が王朝貴族の傭兵から軍事貴族に成り上がる先鞭をつけたのは八幡太郎義家
恐れをなした朝廷は伊勢平氏を重用、しかし結局は清盛に政治的主導権を明け渡すことになった
半公家、半武家になった清盛だがそれに見合う統治機構を創出できず、かっての摂関家的方法を踏襲
(地方を重視したが結局は従来の知行国、受領によるしかなかった)
清盛の成果をふまえ頼朝はより純粋な武家政権を成立させることが出来た
ただこれも頼朝の個人的能力に負うところが大きく政権としての完全な確立は承久の乱以降 >>40
為義の前の源氏の棟梁叔父にあたる義忠の妻が平忠盛の兄妹(姉弟)なので
そういう事があったかもしれない 頼朝は源氏の代表でも何でもなく関東武士の神輿だけど組織運営においては個人的能力があった。
頼朝が死んだら源氏など何の意味もなくなって滅びた。 >>40
ボスも何も平氏と源氏で明確に敵対してたわけじゃないし。
保元の乱では義朝と清盛は味方同士。 どう考えても頼朝だろう。
日本史上、頼朝まで東国の反乱軍が官軍になった例はないんだから
それ以前でも「関東」を経由して都を攻め落としたのは壬申の乱の大海人くらいじゃないか
(厳密には木曽義仲が最初の東国の官軍だけど) >>42
それは思い込み
鎌倉は明らかに海上の支援を期待した都市
家康は海外交易に秀吉以上に積極的 >>48
頼朝は後白河法皇から平家追討の院宣を受けてただろ
反乱軍ではない
日本史上初めて朝廷の勅や院宣に逆う軍事行動によって朝廷に
東国反乱軍が勝利したのは、頼朝死後、執権北条義時が率いた承久の乱だよ >>49
だって実際に海外交易したのは
清盛≫頼朝
神戸≫鎌倉
じゃん >>50
寿永2年宣旨までは、あくまで位置づけは反乱軍。だから頼朝が早く上洛したがったの
それに「頼朝まで」日本史上で反乱軍が官軍になりあがって内戦に勝利したことはないと指摘したんだが
もちろん承久の乱は独自の意義がある。官軍との大規模な戦闘で勝利するまで反乱軍だった事例はないし、
地下人が天皇上皇以下を流罪に処するという前代未聞の事態が発生している。
>>53
鎌倉も六浦の湊に船を入れてるよ。もともと三浦氏や房総水軍の協力がないと海が危なかった都市だから
太平洋岸だから瀬戸内海より航路的に難しかったのは確かだが 以仁王は親王を勝手に名乗って出してるから、正当性がはなはだあやしい
ないよりはあるほうがいいという程度 >>34
頼朝だって自分のことしか考えてない。
兄弟皆殺しは、頼家という貴種を残す為の間引きでしょ。
息子可愛さ第一で、源家弱体化を計算できなかったもよう。
武家政権は鎌倉武士の為の政権にすぎないし、だから奥州を侵略した。
奥州には奥州の武家政権があったし、中央からの独立と自治を最初に
具現化させたのは彼らなのにね。
本音は粗暴な武士が嫌いで、京の雅に憧れてて
最期は天皇の外戚を夢見て馬落ちした・・武士の鏡とはいえない人よ。 吾妻鏡が28万対17万。兵力で5:3、かなりの激戦になると言うのが鎌倉の大方の認識だったんだろう。
阿津賀志山の4日がかりの決戦に勝利した後も、用心深く掃討しながら平泉に進んでる
川合康は前九年合戦の厨川柵の戦いの9月17日から逆算して頼朝が軍を発向したと書いてるが、
それが事実だとしたら本拠地制圧に2か月は要すると考えてたわけだ。
頼朝のそれまでの平氏との合戦で最大の山場だった一の谷でも1日で決着がついてるからな ぶっちゃけ一番すごいのは清盛でも頼朝でもなくて後白河だよw
あんなアホみたいなのが偶然生き残って平氏、木曽と次々に勝てない喧嘩売ったから
最後に打つ手がなくなって頼朝の占領地をまるっと追認してしまったんだから 後白河が単なるアホだというのは定説化してるだろ
九条兼実がはっきりこいつ一番アホと言ってるんだから >>62
後白河が本当に政務が取れない冷泉みたいな痴呆だったら兼実もかえって都合よかっただろ
後白河はあの時代には珍しい絶対君主
摂関家も幕府も憚らない変わり身の早さに振り回される周囲が愚痴を言うだけ
上手い言い方を思いつくもんだな。それを単なるアホと言うんだよ
もう後白河暗主説は学界の定説になってる
頼朝が進軍する前に自分から武装して木曽に喧嘩売って
ぼろ負けして近臣の首晒されてるような男のどこが「変わり身が早い」んだよw
平治の乱の時も、信西を排除したはいいが二条が逃げちゃったから、
大慌てで自分も清盛の所に駆け込んで知らんぷりしてやっと助かったというのが真相だろ。
義経ごときに簡単に院宣与えちゃったり、頼朝に付け込まれるようなことばっかりやってる男のどこが
「変わり身が早い」「絶対君主」なんだ?単にそそっかしいDQNな男だったんだよw 後鳥羽は武芸の達人、後醍醐は半生、ゲリラ戦を戦い抜く強靭な意志があったが、
後白河は今様に狂ってた意志薄弱な単なる馬鹿だよ。
賢い奴、少しでも分別のある奴なら、貴重な繋ぎ役だった重盛の知行国をわざわざ取り上げて
清盛の神経を思いっきり逆撫ですることはあり得ない。
清盛はあれで完璧に切れてたからな。文句言ってる中で半分くらいは重盛問題だろ >>64
>学界の定説
誰が出してる学説?
論文と学者の名前を出してくれるかな? 上横手雅敬の任意の著書を読めば、はっきり後白河暗君説を採っているのが分かる。
管見の限りだが、それ以降の研究者で後白河を英主評価してる学者はいないね。
せいぜい猿知恵扱い。 上横手は後白河を「直情的で抑えが利かない性格」と評してるんだな。
法住寺合戦で自ら木曽と合戦に及ぶという好悪の情むき出しの性格を指して。
結果的に承久の乱を40年先取りして、上皇が合戦の当事者になって明雲が殺害されるという失態を演じている
結局、本命じゃない中継ぎだから政治のド素人
後白河自身も義経に院宣を下した時はバッシングを浴びて相当神経が参ってて、
政界引退の意向をほのめかしてる。頼朝の征夷大将軍を認めなかった神話は完全な誤りだよ
頼朝が望んでいたのは大将軍号であって征夷の職権には特段の意味を認めていない >>67
上横手雅敬は後白河を暗君だとは言ってない
むしろそれ以降の学者も後白河が英知の人だとは言わないまでも
「天皇家が滅びなかったのは後白河のお陰」としている
後白河が死ぬまで頼朝が征夷大将軍になれなかったことを見れば一目瞭然 >>69
言ってるよ。従来の後白河評に対して
「木曽に一時の感情で当事者として合戦を挑むような人間のどこが政略家なのか」と
後白河の行動が単に一時の感情に駆られたものが多かったことも指摘してる
後白河暗主説の決定版。
そもそも文治勅許の段階では後白河は完全に頼朝に振り回されて弱気になってるし、
上洛で関係は修復してる。頼朝が欲しがったのは大将軍号であって征夷に特段の意味を認めがたい
さらに頼朝は征夷大将軍と言う称号にさほど意味を認めていない
後白河と頼朝の関係は、混乱してアドホックな判断を下しまくる後白河に対して、
頼朝がとりあえず尻拭いをやってたというのが正確なところ。最後には頼朝に泣きを入れることになる >むしろそれ以降の学者も後白河が英知の人だとは言わないまでも
>「天皇家が滅びなかったのは後白河のお陰」としている
誰が言ってんだそんなこと?
無能な後白河以外に適当な治天がいなかったから武士に散々に食い散らかされたわけなんだが。 >>62-63
後白河は「一度決めたことは人が静止するのも聞かず絶対にやり遂げる」人だとも言われてるぞ
後白河は暗主は暗主でも扱いやすいタイプではないかも
「よくよく謹みて、いみじく計らいて、彼方此方しける」清盛と
「威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」な頼朝とでは凄さのベクトルが違うように思うが
清盛と頼朝ってテーマのせいなのか後白河スレになってきてるな 後白河院があまりにも統治能力がないから、
武家にいいようにされてしまったんだろうがw
皇室と朝廷の権威を地に落とした張本人だよ
もう凡愚すぎて歴史に名前を残しちゃったタイプ
同じ時間軸で登場してくる人物が清盛だとか頼朝だとか大物すぎて、
そのあげく、「なんかこの院もすごいんだろう」と、みんなが勘違いしちゃっている
その後の天皇家は、後鳥羽院をみても、後醍醐院をみても、
王政復古が悲願となっていて、その苦労は本当に涙ぐましいものがある
そこまで貴族社会を自壊させた後白河院は、朝廷にとっては完全に「0点」君主
後白河院をあたかも時代に翻弄された名君がごとく扱うのは、
あまりにも、うがった見方だろうよ
過大評価にもほどがある >>74
それは玉葉の伝聞証拠ね。兼実が直接信西から聞いたわけじゃないが、
そこだけ引っ張ってくるのはフェアじゃないよ
信西は「和漢の間、比類少きの暗主」と酷評した上で後白河の頑固な性格を
「褒めるとしたらそのくらいだね」とフォローしてるのだから
しかもこの時期、後白河がそのような政治的頑固さを発揮するとしたら、
二条への譲位の際にぐずったくらいしか考えられないでしょ。
欲の皮が突っ張ってるだけの馬鹿、と言うのが、おそらく信西の後白河評なんだよ
>「よくよく謹みて、いみじく計らいて、彼方此方しける」清盛と
>「威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」な頼朝とでは凄さのベクトルが違うように思うが
清盛の武断的なイメージは、意外と重盛のそれが反映してるんじゃないかと思われる。
重盛は戦闘では必ず前線に出たがるタイプだし、殿下乗合事件みたいな狼藉も平気で起こすしね…
一門の結束を保った点では清盛。
頼朝は息子も兄弟もバラバラな印象。
平家は一門が一辺に没落した感じだが、源氏は同族のつぶしあいで衰えた。 頼朝の開いた鎌倉幕府は源氏のイメージが有るけど、源氏の将軍家は三代で自然消滅的に終了。
後は頼朝の嫁さんの実家(平氏)が執権となって実効支配。
てことは、支配者/為政者や体面、形態は変わっても
平清盛が開いた平氏一門による実効支配が鎌倉幕府滅亡まで続いた事に。
後に実権を握った北条氏が平氏だっただけで
そのことと清盛は関係なくない?
そもそも北条氏はじめ頼朝を担いだ坂東平氏は
平氏一門だからといって清盛に優遇されたわけでもなく
むしろ平家が送り込んだ目代や平家と手を結んだ勢力に圧迫される立場だったんだから 秩父氏はそうでもないんじゃないの?武蔵は平氏の金城湯池でしょ
(もっとも河越、畠山、江戸らは勢力そがれてしまうが)
房総、相模や知行国主が変わった伊豆はそれに該当するけど >>80
頼朝は源氏の代表ではない。
関東武士の代表だ。 先生、頼朝の息子頼家の嫁の実家の
比企氏ってどんな氏族なんですか? 比企は野人の子 草莽よりいづ
系図詐称なんて信用しないったら信用しない >>81
北条が平氏だったというのは政子従位の際に
急に朝廷に提出した史料からだろ
信憑性は低い >>10
その頼朝に負けるようじゃ、国を開いたって、
中国に食い物にされるだけでない?w
頼朝も天下取っても後が続かなかったし、
どっちも大した人でないように思えてきた。
二人がいなくても、きっと代わりの人が必ず出て来るんでしょ。 >>84
頼朝より身分が上の人がいたということですか? >>90
オレは84じゃないけど、頼朝の頃の源氏長者(源氏の代表者、
源姓で一番位の上の人)は、村上源氏の源通親でしょ。 村上源氏と清和源氏は同族という意識があったのかね?
源融なんかは完全に貴族だけれど、清和は「王家の犬」©NHKだろ 同じ「氏」という意識は当然あったでしょ。だからこそ「氏の長者」と言うわけで。
室町時代は、村上源氏と清和源氏で長者を交替で分け合ってるしね。
それに、頼朝の時代、武者と貴族は別に対立概念じゃないよ。
関東武士団が担ぎやすい貴族として頼朝が選ばれたわけだし。 信頼除目とはいえ、「佐殿」は田舎武士にとっては
けっこうなブランドってことだね。 >>79
殿下乗合事件でムチャをしたのは清盛。それを聞いて「当家の滅亡は近い」
と嘆いたのが重盛。重盛は「わが命を縮めて一門の繁栄を永らえさせたまえ」
と神に祈ってそのとおりに早世した義人。法王を幽閉しようとした清盛を
「忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず」と泣いて諌めたのが
重盛の真骨頂。重盛死去の後に清盛は、重盛生存中にはできなかった法王幽閉を
強行してしまう。 >>96
殿下乗合事件で基盛に報復をした人物は
「平家物語」では清盛だとし「愚管抄」では重盛としている。
平家が軍記物語で清盛悪で一貫していることを考えれば
殿下乗合事件の首謀者は重盛だろう。
>>1
答え、どっちも間抜け。
あの時代は
原典の本
史実
どちらでも
上総 千葉の話だろ 朝廷とは別の「幕府」を作ったのは、古今東西例はなく、見事というほかない
皇帝の下の王が実権を握る程度のものだけどね。
みかどが持つべき実権を臣下が世襲で持つのも前例があるし。 >>101
NHK清盛の頼朝談じゃないが、清盛の時代がなければ、頼朝の活躍はなかったと思う
従って優劣をつける意味がない 清盛のどうしようもなかった点は、門閥貴族化し、武士から離れたこと。
つまり、武士(荘官)の領有の概念への要求に答えず、武士から離脱
したこと。ある意味、平将門よりも失格。
もちろん、頼朝公と比較するのは、頼朝公に失礼。 義経好きからは嫌われてるがその他には嫌われてないだろ
好きでも嫌いでもない無関心が圧倒的 義経は室町時代にはすでに産まれた場所などが観光地になっていたにも関わらず頼朝は日本中から相手にされていなかったのは何故だろう やはり奇人変人のためか >>100
幕府を作ったのがみごとなことだとすれば、それは北條氏の功績だろ。
頼朝はただ担がれていただけの御輿。 ここではなんでこんなに頼朝は嫌われてるんだろう。自称頼朝の隠し子の末裔ってな戦国大名も
いくつかいるくらいで、幕府の初代将軍のイメージは武士の憧れだろ。
北条氏は軍事力で支えただけで、朝廷に対して東国政権を認めさせた政治力は頼朝独自。
承久の乱は、既に朝廷側のコンセンサスが得られた段階で、それが永続化することを恐れた
後鳥羽が慌てて起こしたもの。北条は既に固まった組織を維持する程度の政治軍事力を
持っていたに過ぎない。 頼朝がいなければ東国武士は朝廷と交渉する能力を根本から欠いているから、
地頭としての収入源など得られるはずもなく、武力を使えば単なる将門の乱程度の
反乱として処理され、独立を保ててもあくまで東国の一武力勢力として存続するだけ。
北条に権力が集中することもなく、すぐに内ゲバに乗じた朝廷側に鎮圧されるよ。 清盛は保元の乱の戦功なし おまけにヘロヘロ矢
頼朝は平家追討戦の戦功なし
北条もなし 安定政権を作るための必須要素を語るのに、政治力より軍隊指揮能力を上に置くようなら単なる馬鹿だよ。
平家追討の軍事力は誰の政治力で結集したのか分かってないのかと。 政治力なんざ軍事力の背景があったればこその二次的なものだよ。 軍事力は政治力がなければ結集のしようがない。
北条は頼朝存命時には、朝廷と交渉する政治力も、関東武士を糾合する力もない。
北条は徳川家康と同じで、天下を取りまとめる能力が天下人の近くにいた結果として磨かれ、
目の前にチャンスが転がったから手に取っただけだ。 軍事力という背景がなければ朝廷と交渉しうる政治力なんて発揮できるはずもないし、
絵を描いたのは北條氏で、朝廷と接触するのに源氏の嫡流という血筋が必要だったのは確かだが、
血筋は頼朝個人の力ではない。
まー、徒手空拳でうまく立ち回ったとは思うが。 頼朝という旗印に真っ先に乗っかったのが北条というだけ。
北条が旗印なら決して関東武士たちは糾合しない。ゆえに、軍事力の中心は政治力を持つ頼朝。 >まー、徒手空拳でうまく立ち回ったとは思うが。
徒手空拳で立ち回る能力を政治力と呼ぶ。単に徒党を組んで人を殺すだけなら
山賊や関東武士にもできる。 その当時の北条は政治力も軍事力もほとんど無いじゃん
あるのは頼朝の嫁の実家という婚姻関係だけ
頼朝死後に安定させていったのは政子とか泰時の功績ではあるけどさ >>110
保元の「へろへろ矢」は『保元物語』の主人公為朝の口上だから
話半分に受け取る必要がある。それに清盛方が上皇方ではなく天皇方に付いたことで
勝負が決したので、清盛の武力は充分役割を果たしている。
『愚管抄』では平治の時の清盛がかなり好意的に描かれていて、
むしろこちらのほうが実像に近いのでは。個人の武力もそう劣るものではなかったと思う。 上総広常と千葉常胤が頼朝に味方したのが最大の謎だ。
この謎が解けた人はすごいと思う。 源氏の身内争いのすごさは日本史でも異質だよ
シス暗黒卿もびっくりだわ >>121
東国はすぐに武力で解決しようとするDQNの巣窟だったからな。 >>119
『愚管抄』では泳ぎまわった挙句捕まったチキンDQNの実父だろ
たがが知れてるわ
個人の武力もそう劣るものではなかったと思う
といわれても完全に空想でしかないから >>124
『愚管抄』では悪源太に堂々と渡り合って称賛された豪胆な武将の実父ですが。
都落ち以降の平家方の実態がどうだったかなんて、誰にも分からない。
彼は敗軍の将だっただけに平家方の暗部を過度に背負わされている。
逃げ足が速いのが駄目ならば義経なんてもっと駄目なわけで。 >>125
『愚管抄』には悪源太に堂々と渡り合って称賛された豪胆な武将の記述なんてどこにもないんだけど >>124
「愚管抄」平治の乱では平重盛の武勇がたたえられてるよ
源義朝は追い詰められて敗走した 当時の大陸は宋の時代で
石炭を使用したプレ産業革命の時代が始まっていた
アジアの経済はプレ近代の様相を呈していた
これを理解していたのは清盛
彼は交易による富で日本を支配しようとした
頼朝は農村経済の代弁者
当時の日本は農村経済だった
農民の土地所有権と裁判権を勝ち取ることで
農民貴族による階級革命ともいえることをなしとげたのが頼朝の鎌倉幕府
世界が見えていたのは清盛
しかし日本の現実に立脚したのは頼朝
どちらが上かは簡単には言えない 別に頼朝は交易を否定してないし
清盛は500か所の荘園領主でした 確かに貿易を否定してはいないが、貿易の利益を取り込まなかったから
鎌倉時代を通してずっと辛かった。「質素倹約」は貧乏暮らしの裏返し。 だって宋が滅んでモンゴルが攻めてきちゃったからな
交易どころじゃなかったろ 勝ち馬に乗ったつもりが最後は落馬・・だからねw
清盛も頼朝とも同じく調子こきすぎた。
平氏政権の限界は、清盛の存命中にもう見えてた気がする。 そもそも鎌倉幕府を考え付いたのは頼朝?、坂東武士?
流人の頼朝は御輿に乗っただけという説もあるし 守護地頭を提案した大江広元・三善康信を招いたのは頼朝だから、
頼朝サイドの幕府案だろ
中央志向の頼朝と、土着志向の周囲とが綱引きしてたのが
ちょうどいいバランスの時にたまたま頼朝が死んで
以後その体制が定着したというのが実状だと思う
頼朝が長生きしてたらもっと朝廷に近づいていって
平氏政権と似たような形になってたんじゃないの
しかしそういう頼朝がトップでなければ、
諸々の制度が朝廷お墨付きにならなかったかも
鎌倉幕府と呼ばれる体制は実のところ状況の産物で、
始祖=発明者ではなく、むしろ幕府体制の利を生かして
長期政権を築いた後の世の武士達の方が偉いと思う >>141
頼朝がちょうどいいバランスからはみだそうとしたとき亡きモノにされたのかも
幕府という語は幕末の倒幕派の隠語だし
藩と言う語は大政奉還で主君が無くなってしまった大名を
朝廷の下に組み入れるために新たな行政組織としてつくったものだし
幕藩体制なんて明治時代もだいぶたってから東大の学者が文献で言ったものだし
歴史のなかでは幕府も藩もそんな語はないんだよね
>>146
ほ、ほんまか!目からウロコが落ちたわ!ありがとう教えてくれて! これより幕府を開く!
なんて言った人はいないわな
頼朝も尊氏も家康も 歴史がちょっと違ってたら鎌倉時代じゃなくて
藤沢時代とか逗子時代とか 鎌倉時代は最初の立ち上げ時だけ頭に源氏をいただきはした(源氏は僅か三代で消滅)けど
実情は最初(挙兵前)から徹頭徹尾、頼朝の嫁、正子の実家である伊豆平氏の北条政権。
とすると、源氏の衣を被った分家末端の伊豆平氏が本宗家を駆逐して取って代わっただけの構図?
米TIME紙
1000年を代表する偉人に日本人唯一選ばれたのが源頼朝
1000年を代表する奇人変人に日本人で唯一選ばれたのが源頼朝 しかし頼朝はなぜグロ好きだったのか >>147
千葉 vs 千田、佐竹
介八郎 vs 藤原忠清
介八郎 vs 印東常茂
三浦、中村 vs 大庭 清盛と頼朝はどっちがすごいかって?
全然比較にならないだろうが ヘソで茶を沸かした清盛と、嫁の尻に敷かれた頼朝。優劣つけがたい。 >>141
頼朝が中央志向というのは定説なのか
個人的にはあんまりそんな感じがしないのだが 中央志向というより中央に気を使わなければ幕府が立ち行かない
頼朝だけじゃなく実朝も同じ
幕府が中央からある程度距離を置けるようになったのは承久の変以後 頼朝は晩年に娘を入内させようと画策し失敗していた
天皇の血筋に絡んで繁栄を築こうという
当時の権力者の常道から外れた人間ではなかったんだな >当時の権力者
政略結婚なんて現代にだってあるところにはあるくらいだろ >>165
娘の入内は中央への積極的な接近というより、
幕府を守るためという消極的な意味の方が強い
最初は幕府から朝廷に娘の入内という名目で人質を差し出すのだが
承久の変後は立場が逆転して朝廷から皇族を将軍という名目で人質をとるようになるんだが 日本人は、戦争に負けた。
でも何時から奴隷になった?
あなた達は今目覚めないと、二度とその目は開かない。
歴史というのはいつも編集されている。平清盛がとても優しい人だった。
『江談抄』で平安を生きた公家が鎌倉期にそれを階述してる。でも『平家物語』では悪役にされるんだよ。
日本人が守ろうとしてきたものを大切に。
今の教育に足りないのは思想。これは学ぶための根源。何のために学ぶのか。学びたいと思うのは自分で世界を見つめなおすためだよ。
http://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=QNNeu1BZ_yY&feature=related >>168
江談抄って広元の曾祖父の談話を信西の父親が記述したものだよな
どっちも鎌倉時代どころか清盛が生まれる前に死んでるのに清盛の事が書かれてるの? >>147
息子で京都で既に従五位に叙されていた東頼胤が、常胤を説得するんだよね。
京都在勤中に平家にいじめられたりとかしたのかな。
常胤がついたことで、関東の大勢が決した。 頼朝だろ 平氏政権は所詮朝廷内の軍事貴族の政権にすぎない
武家政権は日本固有の政権形態だからね 今の大河ドラマの清盛と院・摂関家の駆け引きをみてると、
京都から距離を置いて新政府を作ったほうが効率的だわww 幸せの時間で親父と息子どっちが屑かを語るくらい不毛なスレですな。 歴史古い順
難波京(大阪市)(仁徳天皇などの皇居)
平城京 奈良
平安京 京都
東の京 東京
日本仏教初の寺は聖徳太子の四天王寺(大阪市) >>176
間違いなく息子の方がクズ。っていうか外道。 大化の改新(天皇制の始まり)は難波京(大阪市)で行われそれは大化元年〜平成24年の今も続いている 京都兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」 清盛は過去の恩を着せすぎ
だから周りから見限られる。
頼朝は若いから漁夫の利でしょ。
義経は利用されただけ >>175
そこらへんの平氏政権への過程は
民主党政権が官僚に取り込まれて
亜自民党政権になっていったようなものだな んじゃ地方分権とか二都構想ってえのは
幕府みたいななもんを目指してるってえわけかい >>184
それはないだろうけど
平氏政権が武家でありながら武家の権益を保護する存在になれなかったのと
民主党政権が官僚主導打破を掲げながら官僚の言いなりになってるのと
歴史の転換点として同じようなパターンになってるのかも しかしこのくっさいくっさいグロ好きの頼朝はなぜ源氏の恥と有名なのか 関係ないけど、官僚を敵視し、敵対する事の愚は、政治学でも普通に語られてる事
だから官僚主導打破を掲げながら官僚の言いなりになるというのは間違いであって
そもそもが官僚を敵視する姿勢そのものが世紀の大愚作だったりする
国Tは現代の科挙であって、キャリアはそれをパスした選りすぐりの人材達
そんな勢力を相手に、貴族でも土着の権力者でもない民選の政治家が勝てるわけがない
官僚を尊重しつつ、有効活用する、という方向でしか、改革なんてできっこない 京大学派の中世史学者 清盛>頼朝(理由・頼朝の開いた鎌倉武家政権は清盛の福原幕府の真似事にすぎないから)
東大学派の中世史学者 清盛<頼朝(理由・清盛は福原幕府を完成できなかったが頼朝は東国独立国家を樹立したから) 頼朝(源氏政権)も実質一代で滅びてるし、頼朝も清盛も似たようなもんじゃん
中世における信長と秀吉みたいなものでは?
北条が徳川で 自分自身が権力者だった清盛に比べて、頼朝は関東豪族に担がれた名目君主の性格が強いから、
清盛と頼朝を個人として比べれば清盛の方がすごいな。 >>194
よく頼朝は関東豪族に名目的に担がれていただけと思われがちだが
頼朝在世中は御家人達への支配は強固だったんだけどな
その支配も個人の力量によるものだったから 結果として頼家の末路や執権政治へと至ってしまうけど 頼朝は奥州藤原氏を滅ばしたけど清盛は滅ぼせなかった >>196
奥州藤原は清盛時代、清盛や朝廷に金や財宝の納入を怠らなかったから
清盛も討つ気などなかっただろ >>198
頼朝に対しても義経の首を差しだしたり、恭順の意は示そうとした
それでも頼朝は無理やり難癖付けて滅ぼした >>199
それは平氏と源氏の違い。
源氏は源義家が奥州征討して以来、関東も奥州も源氏先祖伝来の土地という意識が強い。
源氏の土地である奥州を藤原が勝手に支配しているのはけしからんという思いがある。
一方、平氏は西国中心で奥州に兵を出したことは一度もない。
平氏に従順な奥州藤原政権の支配を許容していた。 >>平氏は西国中心で奥州に兵を出したことは一度もない。
前九年の役の緒戦で秋田城介の平繁成が陸奥守藤原登任の求めにより出兵してるよ >>201
平繁成は陸奥国司に入り婿した平氏の系統。
平清盛の直系ではなく、しかも敗れている。
藤原登任も平繁成が最初に崩れたせいで敗れ、
奥州の支配権を確立しえなかった。 >>200
そんな違いはないよ。武蔵の人間は重盛の家人になってたんだぞ。 前九年の役では清原氏の参戦のほうが高く評価されてるし、
後三年の役でも義家が奥羽に勢力を扶植したとはまったく言えない
せいぜい義朝が南関東で一時期ブイブイ言わせ、その息子がたまたま鎌倉に入ったんで、
近隣地にある奥州が軍事的脅威になったに過ぎない。 >>203
意味を取り違えている。
関東武士団は神輿が源氏でも平氏でも藤原氏でもどうでもいいんだよ。
平氏と源氏が違うというのは、平清盛と源頼朝のトップの意識が違うということ。
清盛は西国に本拠地を置き、奥州は清盛に服従する藤原の管理でいいと思っていた。
しかし、頼朝は奥州を源氏の直轄地にしようという強い意志があったということ。 水鳥の羽音にビビッて敵前逃亡する平家軍では、奥州十七万騎と謳われた平泉の軍勢に勝てんだろ 一ノ谷へ向かう追討軍は源氏方1(一、二千余騎・・・『玉葉』)に対して、平家方は10(数万、二万余騎・・・『玉葉』)。
その時の寿永三年の関東は関東飢饉という状況で兵糧調達困難により兵が不足していた。
おまけに地の利、城郭戦という有利な状況があったのにも関わらず、平家は惨敗を喫した。
結局平家の敗因は単に弱いから。
いくら兵力差があったといっても水鳥の羽音(『山槐記』)で逃げ出すとか兵失格だしw
九州でも上陸できずに鎮西武士にシッ、シッと軽くあしらわれた。
すぐに敵前逃亡するわで、やる気なさすぎw
『山槐記』・・・宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走www
『吉記』・・・於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了www
『吾妻鏡』・・・所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒www
『愚管抄』・・・宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwww 平清盛からしたら、武門の棟梁の源義家の後胤の嫡流は
源義忠の子孫たちのほうでしょう?
父親の平忠盛は、源義忠から名前を貰っているし。
俺は、河内源氏とも、うまくいっているぞと。 清盛と頼朝は子孫が絶えたことで同一視する奴がいるが、それは比較論にならん
清盛は平氏一門のための平氏政権
頼朝は東国武士のための武家政権
根本が違うのだよ
だから源氏将軍が三代で断絶しても、鎌倉幕府は続き、頼朝以来の判例が
御成敗式目でも有効とされ、室町時代にも引き継がれた まあ清盛の失敗があったからこそ鎌倉幕府が出来たともいえるんだけどね 平貞盛の子孫は鎮守府将軍よくやってるんだよな
坂東も元は平氏の地盤
平忠常の乱の追討に源氏が来ると抵抗せず収まったとか
その辺から坂東平氏が源氏に従うようになった >>207
頼朝の配下に入った東国武士たちはそれ以前は平氏の家人
>>212
そんなことはない。せいぜい義朝が独力で開拓した人脈くらいだ。 >>208
後白河の義兵的位置づけの頼朝のほうが何だかんだ有利だよ、実際、頼朝は後白河の忠臣だし
一ノ谷だってそうだし、富士川は平氏の軍制の変化とか色々要因がある
墨俣や水島では破ってるんだから兵員の質がそうそう違うわけではない
ちなみに古典平家を見ると、個人個人の組打ちでは平氏方の有力武士は勝率が高かったりする。 一番大きなのは、保元の乱の違い。源氏は殆ど義朝方につき、余り為義方につかなかった。
だから、源氏は為義の妻子は義朝を除き皆殺しになり(このとき命からがら逃げ伸びた
志田義広や源義仲、源行家がのちに頼朝を恨みに思い徹底抗戦した)本家は崩壊したが、
関係者は余り崩壊しなかった。
一方、平家はマジで部下レベルで分裂した、というより、多くが頼盛、忠正、家弘とともに
上皇方につき、頼盛、忠正、家弘とともに3族皆殺しとなった。(平家は部下レベルを入れる
と源氏以上に凄まじく粛清した。)これは、清盛政権の安定化はもたらしたが、いざ源氏が
兵を上げると頼りになる者がいなくなる原因ともなった。 >>215
そんなことないだろ。
保元の乱の時、源氏の棟梁である源為義は上皇方につき、
義朝を除く為義の息子たちも皆上皇方についたために
源氏方は上皇敗北により損失を被った。
一方、平氏の棟梁である平清盛は勝利した天皇方。
清盛の弟や息子たちも天皇方で、平氏方は大いに躍進した。
上皇方についた清盛の叔父忠正は平家の棟梁ではなく
それほどの大軍を持っていたわけではない。 一番の馬鹿が後白河なのは確定で、後鳥羽は議論が分かれる所ではある
後白河がバカで無能なのは自他ともに認める事実w 後白河は日本一の大天狗と恐れられてたわけだが
平家も木曽も義経も後白河に体よくあしらわれ滅んでるわけで 後白河…朝権維持には一応成功
後鳥羽…朝権維持に失敗 平家政権は畿内惣官職が幕府と類似の性格を持つと
言われているものの結局のところ
藤原家の真似事だからな でもさ研究者の間じゃ
清盛が武士政権の先駆けて事は定説なんでしょ
福原幕府とか言われてるって去年聞いたぞ やっぱ武家政権つったら平泉か鎌倉だな。
福原は公武合体政権って感じ 日本一の大天狗、高階泰経説もあるのだな。
まあ、大天狗が後白河を指しているとしても、頼朝さんは「評価する」文脈で使ったわけじゃないのは明白だけどね。 >>224
いや、体よくあしらうつもりなら後白河が義仲と同レベルまでおりて、
直接合戦に及んだあげくボロ負けしてとっ捕まるなんて醜態をさらす必然性はどこにもないわけでな。
端的に馬鹿ですよ。 後白河が生きてる間は頼朝の征夷大将軍任官を阻めてたじゃんか 平清盛の構想を実現したのが足利義満
王朝政権の接収と大々的な貿易 とりあえず高橋昌明氏の論述集「平家と六波羅幕府」(東京大学出版会)
を読んで考えれ。 >>235
その説は頼朝が征夷大将軍職を望んでたと言う前提から間違ってる 武家の最高位は、左近衛大将だろう?
征夷大将軍の意味が大きくなるのは、後世の話で結果論。 元々中継ぎで即位しただけで権力基盤も脆弱だったにも関わらず、およそ三十年もの間院政を敷くことができたんだからやっぱり大したもんだろ >>242
ある意味、保元の乱の後の大量公開処刑で恐怖を与えたことが大きい。
藤原頼長を車裂きの刑にし、その妻子を皆殺し。
源為義の妻子を、義朝の系譜を除き皆殺した。(ただし、義広、行家は20年以上行方をくらます)
平頼盛、忠正、家弘及びその妻子を皆殺し。更に家盛の未亡人、遺児も皆殺し。
重仁親王ら崇徳上皇の皇子、皇女を、乳母の池禅尼ともども幽閉、焼き殺した。
これによる恐怖が、人を従わせたんだよ。いわゆる恐怖政治だ。
清盛が最後は幽閉に成功するけどね。 >>243
かなり事実誤認がありますが。
頼長→敗走中の負傷による死亡
頼長妻→正室は頼長より前に死没。側室処刑の記録なし
頼長子息→男子4人流刑。一人は政界に返り咲いて太政大臣になる。
武将たちの妻→出家して生存
平頼盛→壇の浦の後まで生存
崇徳上皇の皇子→重仁親王は出家。数年生存
池禅尼→三年後の平治の乱の後源頼朝の助命活動する。 清盛がいなくてもその後の歴史は変わらなかった
龍馬がいなくてもその後の歴史は変わらなかった
清盛と龍馬はタラレバヒーロー >>242
もともと中継ぎだったから尊敬されず、テキトーに好き嫌いでパートナーをとっかえひっかえして
周辺から大ブーイング浴びながらどんどん朝廷の権威を貶めていったから大したもんだよ
後醍醐みたいな基地外でもなけりゃ普通はこんなことできないよ >>246
後白河自身は知らんけど朝廷の権威はちゃんと保ててただろ
朝廷の権威が地に落ちたのは承久の乱の惨敗によるもの 保ってないよ
後鳥羽は実朝との協調が暗殺で破綻して関係再建に失敗したけど
後白河の場合はおのれの好き嫌いで朝威を完璧に失墜させてんだから
後鳥羽のやったことは全て後白河がやってるよ
頼朝君が優しかっただけですよ >>248
後白河はあれでうまくやってた
頼朝は完全に後白河の手玉に取られている
頼朝が後白河を好きにできたなんてとんでもないw
まあ、後白河に流罪を解いてもらってこその頼朝だったし
あまりにも頼朝の思い通りにならないものだから「大天狗」って言わせてる 貿易 外交は平家がやって、内政 治安維持を源氏がやって、天皇の下に共存できたら日本の黄金時代を築けたろうな >>251
その場合奥州藤原氏も生き残って三すくみになるだろうな それぞれ源氏・平家の棟梁だけど頼朝のほうは北条氏と有力御家人の神輿的な側面が強いような。
平家の政権は清盛あってのものだけど、鎌倉幕府にとって頼朝はテープカットの役目を終えたら後は用済み。 >>256
豊臣秀吉も秀吉あっての政権だが秀吉いないとすぐこけた。
徳川政権は老中たちがしっかりしてれば将軍が頼りなくてもやっていけた。
政権の安定性をとるならばトップ頼み政権は脆弱。 >>5
頼朝の子孫は男も女もわかってるものはすべて鎌倉前期に早々と死に絶えたが
清盛の子孫は多いから今も生き残ってるだろ絶対
特に女系
>>100
平将門も似たようなことをやろうとしたけど時代が早すぎて無理だった
頼朝も成功するかわからんけど清盛は摂関家のマネをして武家をないがしろにして失敗したし
武士の力も朝廷をしのぐほどになったし一か八かやってみただけだろ
成功する確信があったわけじゃないだろ
清盛がいなければ頼朝も清盛と同じ轍を踏んでいた可能性は高い >>250
どこが「あれで」なんだよ
自分が甲冑つけて武士と戦ってとっつかまる馬鹿がどこにいるんだ
頼朝は「手玉に取られた」のではなく「およそ治天とは思えぬ主筋に振り回された」んだよ
だから気まぐれ追討の院宣をホイホイ出した時点で忠臣頼朝君が途中でキレちゃったの
そこで出たと俗に言われるのが「大天狗」で、敵ながらすげえなんて意味は全く入ってない 朝廷と着かず離れずの絶妙な距離感覚を保ちつつ独自の
幕府を作り上げたのは偉大
頼朝自身、父の義朝や平清盛の失敗を見てきて
そこから学んだ部分もあったんだろうな 頼朝の政治感覚が偉大だというのは異論がないけど、
清盛が平治の乱以来の後白河と二条たちのドタバタ劇に「俺にはさっぱりワガンネ…」的に一歩引いてたら
いつの間にか全員相打ちになって唯一生き残ったのと同じで、
後白河のアホなトラブルに茫然とし、一方で東国武士団をまとめるので上洛できなかったら
いつの間にか絶妙な距離になってた、という感じじゃなかろうか 後白河のあほさに振り回された人生 清盛
後白河のあほさにはかかわりたくない 頼朝
頼朝はなかなか達観だなあ。 鎌倉中期に摂家将軍や宮将軍を迎えるなどしてたけど
基本的に鎌倉幕府は朝廷と着かず離れずで
その二重権力構造が消滅するのは室町になってからか 三代で全子孫が滅んだ頼朝より今も女系子孫が生き残ってる清盛のほうがすごいだろ >>265
頼朝の姉妹の女系子孫は生き残ってるぞ。
しかも清盛娘が嫁いだ近衛(&鷹司)には清盛の娘の血は残せなかったが
頼朝姉妹の娘が嫁いだ九条(&一条&二条)にはその血が残っている。 朝廷という既存の権門の中で権限を掌握した平清盛
戦乱における非常大権を平時体制の枠組みの中に取り込み
新たに権門を作り上げたのが源頼朝 >>268
平頼綱、長崎円喜、長崎高資は清盛の直系の子孫だけどね。 その他、怪しいとは言え、織田信長、伊勢関氏、対馬宗氏も清盛の子孫と言われている。
ちなみに、頼朝は庶子の系譜である島津氏(島津忠久)、結城氏(結城朝光)、
大友氏(大伴能直)などは残っている。 >>270
そいつらは平氏ではあっても清盛の直系ではない 島津忠久が源頼朝の落胤だったという伝説はあるけど
虚偽なのでは >>268 >>269
平清盛の男系は途絶えたが女系は残っている
258は女系も言っているのだから清盛の血は残っている
特に清盛の血は女系で天皇家にまで入ってるよ
平清盛ー女ー四条隆衡ー四条貞子ー西園寺姞子ー後深草・亀山天皇…現在の天皇家 女系なんてなんの価値もないよ。
皇室見てれば分かる >>275
清盛も頼朝も男系は残らなかった
(嘘くさい説はともかく一次史料ではどちらも途絶えている)
だから女系はどうかって話だろ
血は引いてるんだから
頼朝は直系は男系も女系も絶え姉妹の血筋が残るのみ
清盛は直系男系は絶えたが直系女系は残っている おかしなことをすると子供が因果応報を受けるパターンが多い 清盛だろう。まず正室腹ではないのに伊勢平氏の嫡男に納まった。
これだけでも器量を忠盛に愛されていたことが分かる。
運の強さも見逃せない。それまで摂関家が100年もの間苦労して来た外戚に、
たった一人の娘を入内させただけでなることが出来た。
惜しむのは清盛が英傑過ぎて、凡庸な子孫では遺産の維持すら出来なかったこと。
血統だけで社会が維持できる安定した時代を作るまでは命が持たなかった。 大友能直と結城朝光は、
落胤じゃなかったら男色相手だろう
頼朝も美少年大好き >>274
西園寺家から中宮を出せた経緯を見れば、それこそ頼朝サマサマだろう 海外の研究書では完全に大友能直は頼朝の愛人ってことになってる
英語Wikiにまで書かれる始末である >>283
Wikiはあてにはならない。誰でも編集できるから。
大学の論文でWikiの基準を参考文献にしたらアウト。 そのWikiの引用元は「Homosexuality & Civilization」Louis Crompton著とある
結構いい加減なことも書いてそうだけど
どういった経緯でそれが海外の学者さんに伝わったか分からない ダイヤモンド☆ユカイが頼朝の子孫らしい
というか結城朝光の子孫らしい >>279
清盛は血筋の分の悪さを覆すべく
白河院御落胤の噂をうまく利用したそうな
頼朝は人妻との子を認知しなかったんだろうけど
実際に御家人の妻と寝た記録も残ってるくらいだからどっかしら落胤はいたんだろね 頼朝は妻にぶちこみながら口で少年のティンポしゃぶった3Pしてたってこと? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>279 平重盛の早世が原因。宗盛や知盛は、吉川元春や小早川隆景にはなれなかった。 >>291
源道義なんて清盛の劣化版だろ何言ってんだw >>284
信憑性ほぼゼロのクソ史料を出典として持ち出してくるからな、ああいう底辺無学は 明日からCS銀河で大河「平清盛」が始まるのか。
5年ほど前までCSの契約してたけど思ってたより画質悪いんで見なくなり
契約自然消滅。 キレ芸しか披露できない主人公
「アレが気に入らない」「周囲が気に入らない」文句を言って怒るだけの主人公
誰もドラマの中にまで現実世界を再現してほしくないんです
そういう上司、そういう夫、そういう親、お腹いっぱいです 平清盛、足利義満は天皇家を一族で乗っ取ろうとした簒奪派 >>279
清盛の母は正室だろ
清盛2歳の時に忠盛の妻が亡くなったという記録が
公家の日記に残っておりこれが清盛の母だと思われる
その後忠盛は池禅尼と再婚した
清盛の正室は平時子なのに重盛が嫡子とされたのも
母親が先室だったからだろ >>297
司馬小説を参考文献に出してきた奴がどこかにいたっけw 平家、特に清盛についての資料の大部分が平家物語と言う創作なために
出自にしても人格にしても捏造されまくってるからなぁ
清盛が常盤御前を側室にした話も平家物語にしかなく一級資料には無い
娘とされる廊御方も物語りにしかなく存在を疑われてるし 頼朝が東国武士の神輿説は否定するわ
頼朝存命中は、事実上の独裁政権で誰も頼朝には逆らわなかった
北条なんて頼朝生存中は、正室の政子以外、何も取り立てられていない
吾妻鏡は北条に都合良く後から捏造してるから
風習や文脈では北条だけおかしなことになってる
頼朝死後、時政が謀殺に次ぐ謀殺で有力御家人を滅ぼしたから
あたかも頼朝生存中からNo2だったかのように工作しまくってる
時政も義時も表に出てきたのは頼朝死後だ 北条が執権にまでなれたのは、頼朝の外戚になったから他ならない
北条信者は、それすら理解出来ず、頼朝に天下を取らせたのは北条だから
頼朝から相応の信頼と地位を貰ったに違いないと考えているが
実際は、頼朝が死んで、あの手この手で有力御家人を殺したから
執権になれただけなのが実際の姿だ
北条がいなくても頼朝は平家を滅ぼせたが(追討軍主力は北条抜きの関東武士団だからな)
頼朝がいなくては北条は歴史に名を残すことは不可能だった
「望めば北条も将軍になれたのにあえてならなかった」という北条信者もいたが
出自不明で御家人から嫌われまくりの北条がどうやって将軍になるんだ >>305
北条は頼朝の外戚ではなく頼家・実朝の外戚だろ
頼朝が最初に妻にしようとした伊東なんかは
産まれた嬰児を殺し娘を他の男に嫁がせたのに
北条は頼朝がまだ流人の頃に娘との結婚を認めたから
先見の明があったんだよ 清盛の桓武平氏は結局古代の体制のあだ花でしかないわけで
世界史の学者たちはオドアケルに比定してるな。
武士の世に完全になったのは承久の乱を鎮圧した後の鎌倉幕府で
少し時間がかかってる。 >武士の世に完全になったのは
南北朝時代だな。北朝が事実上解体したのが応安年間あたり。国衙領と京都の支配権が武家に移った。 貴族化して武士の支持を失って武士に反抗された清盛よりも武士を組織して革命政権を打ち立てた頼朝のほうが偉い。
歴史の進歩に背く物と歴史の進歩に棹さす者の差だね。 平氏政権を藤原の亜流政権と見做すのは古い歴史観だな。平家が公家化したのは事実だが、全国に家人を配置した軍事政権であったことは間違いなく、
鎌倉政権のプロトタイプであった側面を見逃してはならない。(地頭職、国守護人の設置など)
また清盛は西国を地盤に「商業国家」を目指していたことは後世の田沼意次を髣髴とさせる。
清盛の最終目標は武士も公家も超越したハイブリッド国家を夢見た超人・偉才であった。
だが、彼は生まれる時代を間違えた。世界が、時代が彼に全く追いついていなかった。
清盛の死から数百年後。清盛の遺志を継ぐ者が現れた。
坂本龍馬である。 清盛より先に頼朝が生まれ、天下を取っていたら史実の平氏政権のように朝廷に組み込まれた形の政権だっただろう。
頼朝京都政権の後に清盛が天下を取っていたら、鎌倉幕府のような朝廷の外に政権を作っていただろう。
要はその時代その時代の社会成熟度や後塵の学習というものを考慮せずに、
朝廷の内部にとどまった平氏政権(とその創設者の清盛)が鎌倉政権(とその創設者の頼朝)より下に見るのは浅い見方だろうね。
鎌倉政権は10年に及ぶ内戦・「全国平定戦争」を遂行する中で全国の武士を阻止化できたのに対し、
平氏政権は都中央における短期間の軍事クーデターで成立した政権であるから、武士の組織化においては清盛と頼朝では
越えられないハンデがある。政権の成り立ちが違う。清盛が全国政権を目指すためには公卿や受領を独占し、朝廷をジャックする方式が
最も時間とコストがかからない手段だった。清盛は知行国や荘園を拡大することで東国の有力豪族を家人化していったことに留意すべきである。 清盛の「脱・京都」志向と頼朝の「親・京都」志向も考える必要がある。
京都を離れたかったが完全には離れられなかった清盛
京都に還りたかったが鎌倉を捨てるわけにはいかない頼朝
それぞれ政権の成立過程と権力構造が違うので優劣を論ずるのは無意味。
ただ、この「六波羅モデル」と「鎌倉モデル」の内 長期政権として成功したのが後者であり、
後世 このモデルを採用した徳川幕府も成功したもんだから、頼朝>清盛に見られてしまうのは清盛の不幸ではあるな。
承久の乱で鎌倉方が負けておれば頼朝も北条も一発屋扱いであったろうし、
石橋山の合戦後、梶原景時が「頼朝、ハケーン!!」と叫んでいたら頼朝は源三位頼政以下の扱いであったろう。 311訂正
全国の武士を阻止化 <誤>
全国の武士を組織化 <正> 戎の新刊「中世武士選書 源頼朝」を読めば、清盛政権と頼朝政権の全てが分かるだろうよ。 >>309
>歴史の進歩に背く物と歴史の進歩に棹さす者の差だね
ちょっと違う。典型的な教科書知識のみの結論だな。 清盛が岩盤に風穴を開けたからその後の歴史が開いたんだよ。
平氏一門は後白河院に取り立てられることによって権力を掌握できた。清盛と後白河院の二頭政治体制がその基本だった。
これが建春門院(平滋子)の死去後 両者は疎遠になり重盛や盛子の遺領や人事を巡って対立が激化する。
結果は周知の通りだが、平氏政権は早産の未熟児で発育途中で早世した政権だと思う。わずか10数年の短命政権だったが、
途中で形態が変わっていった。 もし長く続けばさらなる変化もありえただろう。
この政権は旧来型と革新性の両面があった。
>貴族化して武士の支持を失って武士に反抗された清盛
そういう昭和の戦後教育は第三水曜の粗大ごみの日に捨てた方が良い。
源氏方に就いた地方武士は貴族化した平氏に反感を持ったんじゃあない。地方に赴任してきた平氏方の国司や家人と
現地で対立を起こした連中や、平氏政権で利益の分配に預かれなかった不満分子だ。
一番いい例が上総広常と千葉常胤だ。彼らは東国に赴任した平氏の家人と折り合いが悪く、
それがために頼朝についた。富士川の合戦後、上洛を考える頼朝に佐竹討伐を勧めたのが広常。
治承寿永の内乱は南北朝に内乱と似ている。 そりが合わない隣人があっち側に付いたら自分は反対陣営へ。
こっちの陣営が優勢と見たら自分もさっさと陣営を乗り換える。←信濃や北陸の連中
頼朝は優れたオルガナイザーであり、義経が後世の人気アイドルになったから、
「守旧的な平氏政権」VS「革新的な源氏政権」というイメージ教育に現在も引きずられてしまっている。 >>311
>歴史の清盛より先に頼朝が生まれ、天下を取っていたら史実の平氏政権のように朝廷に組み込まれた形の政権だっただろう。
>頼朝京都政権の後に清盛が天下を取っていたら、鎌倉幕府のような朝廷の外に政権を作っていただろう。
頼朝が鎌倉幕府を開くことができたのは源義家以来、源氏は関東に基盤を持っており
なおかつ頼朝が配流された土地が伊豆国であり東国で挙兵する者がいたから
清盛が後に生まれていても清盛が東国に幕府を開くことはあり得ない
平家の拠点は西国だったがでは安芸に幕府を開くかと言えばそれも厳しい
東国を朝廷が支配下におさめたのは奈良時代頃でもともと独自路線を行っており
朝廷への反発の下地があった(平将門が新皇と称したように)
一方、瀬戸内海の地域はごく初期から大和王権に従っており(弥生時代頃から)
反乱の下地はあまりない >>317
「幕府」の定義が人によって違うのであまり使いたくないのだが、平氏が東国に政権の拠点を置くことはたしかにないだろうね。
現実に構想されたのは福原だから、あるとすれば「福原幕府」となろう。
まあ、場所はどこでもいいんだよ。>>311の本旨はソコぢゃあない。 >>318
だから、福原に幕府を開くのは無理だよ
平家が福原遷都した時には安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇をすべて福原に連行し
朝廷をそのまま福原に移したから可能だった
朝廷は朝廷で存続したまま福原に独立政権を建てるのは無理だ
福原は都に近く朝廷に反乱する土壌もない
実際に、平家が都落ちして福原に停泊していた時も
皆都に残った後白河法皇に従ってしまった >>318
だから、福原に幕府を開くのは無理だよ
平家が福原遷都した時には安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇をすべて福原に連行し
朝廷をそのまま福原に移したから可能だった
朝廷は朝廷で存続したまま福原に独立政権を建てるのは無理だ
福原は都に近く朝廷に反乱する土壌もない
実際に、平家が都落ちして福原に停泊していた時も
皆都に残った後白河法皇に従ってしまった 粗大ゴミって回収費用払ったよシール貼って、回収センターに連絡入れて
日にち指定して捨ててもらうんじゃないの?
まだ、回収日設定している自治体があるの? 「鎌倉幕府」の創設は日本史上のエポックメイキングであるが、この政権は革命的でも突然変異でもなく、過去の政権のバリエーションの一形態であることをしっかり見定める必要がある。
頼朝政権は頼朝(鎌倉殿)と私的主従関係を結んだ家人(これを御家人と言う)と、
鎌倉殿の所領(これを関東御成敗地と言う)を管理する貴族の家政機関であることがわかる。
摂関家の家政機関をそのままスライドさせたものだ。
摂関家と頼朝政権の違いはまず平氏同様 軍事力を基礎にしていること、
2つ目は国内の軍事・警察権が頼朝に委任されていることだ。ここだけみれば
平氏政権と源氏政権はそう大きな違いはない。清盛も頼朝も本質は院政下の軍事貴族なんだな。
教科書では文治の勅許(1185年)で「守護・地頭を設置」と習うが、
あそこでいう守護は地域限定・期間限定の臨時職で翌年廃止されてるし、
国地頭と荘園の地頭もごちゃごちゃに教科書はしているので、
学校で刷り込まれた「幕府」観は一度捨て去って 一から再構築した方がいい。
朝廷の外側にある独自権力と言えば、院庁や奥州藤原がある。これらと貴族の家政機関のいいとこ取りが頼朝政権。これを「幕府」と呼称したのは明治以降の東大の偉い学者さん。 >>319>>320
大事なことだから、二度書いたのは理解したが、>>311の本旨はそこじゃないって言ってるでしょ。
後半の行が本旨。
>>321
うちの自治体は指定日あるよ。月一じゃなく週一だけどね。 >>323
だから、 >>311の前半は間違っているということだろ
そこを認めずに>>311の本旨は後半部分にあるから
前半の間違いには突っ込むなというからおかしなことになる 311だが、別に突っ込まれたと思っていないよ。317自体がとんちんかんちんなレスだったから深くはコメントしなかった。
>>311は全く間違っていないどころか317氏のレスを読んでさらに自信がついたねえ。
面倒くさいが>>311を説明すると、これはアンカーつけていないが>>309に対する回答だ。
「公家化する平氏 =守旧派 藤原の真似」「朝廷の外に政権創った頼朝 =革命的発想でエライ」という見方は
単純で視野狭窄だと従来から考えていた。 そこには両者の置かれた歴史状況 政権成立過程を一切考慮していないからね。
先人の失敗を後人が学習しリスク回避する手段を取る、なんちゅうことはあたり前田のクラッカーであって、
これを同列に論じるのは無意味だ。清盛が頼朝のあとに生まれれば、頼朝のミスを避けた手法を取るだろう、
という推論はバカでも理解できるだろう。
つづく(別にこれで十分なんだがw) 325のつづき (意味ないがとりあえず続ける)
>>311の前半は>>325を比喩的に結論づけた文章である。317氏の一連の文章はこのくだりをつまみ食いして
「IF歴史」として捉え、反証を試みている。まずここからワケわかめである。
>>311の後段を否定するために この「IF歴史」の反論をしているならこれは俺の本旨と対立するので
正面から受けて立つが>>317>>319を読むにそうではないらしい。 「頼朝京都政権の失敗後に清盛が出てきても 東国にも安芸・福原にも政権は築けない」
というこっちもIF歴史で応答してきた。なんか独自の理論をひっさげて根拠としてくれているが、
悪いが俺は独自解釈(おれも嫌いではないがw)に基づくIF歴史VSIF歴史は俺にとっても他の住人にとっても
興味のない話だ。 だから。>>323で「御免あそばせ」と書いたんだな。 また ついでに書く。 俺はIF歴史は好きだよ。「もしも清盛が子供のうちに頼朝の首を刎ねてたら」スレとかに
書き込みしてたよ。既存の歴史に別の可能性はなかったんだろうか?と考えることは
史実の再検証にもなるし、新視点を得ることになる。決してIF歴史討論は無駄でも無意味でもない。
ただ、その場合でも可能性があるIFじゃないとね。「もしも日本がアメリカに戦争で勝っていたなら」というお題は
非現実的で歴史検証にならずただの妄想 ファンタジーだからもはや歴史板じゃない別の板の議論だ。
>>311の前半「頼朝が清盛より先に生まれていたら」というのはIF歴史討論のお題じゃなく
後半の比喩なわけだ。だから317氏はこの後半を突っ込むべきであって、自分の興味のあるフィールドを主戦場に挑んできたので
「ちょい違う」つーこと。
おわり(もう、ここから先は勝手に勝利宣言してくれていいよ) >>326ー>>329
凄い執念だな。
そして、311が間違っていることについては
一切の反論がないためこれは事実。
317についての具体的な反論を一切していないために
これにも異論なしということが分かった。
そして317の内容とは全く関係のない長文を連投して煙に巻く。
311が基地外だということが良く分かった投稿だった。
おっと、レスは付けるなよ。 なんだよ、かまって君だったのか。 まともに相手してやれなくて済まんかったな。
おれの比喩にくらいつくのはお前の自由だし、勝利宣言もそれでええ。
おれの本旨に異論がなければそれでいい。 >>329
かまって訓はお前だろw
レスをしないと言ったにもかかわらずしてくる基地外さを証明しているなw
そして相変わらず反論は全くないので間違いを認めたということでもういいよ。
絶対レスするなよ。 テメエの方からくだらん妄想レスつけておいて 人を基地ガイ呼ばわりとは酷い話じゃあないか317.
おれは「レスしない」と書いた覚えはないな。どこにある? 得意の脳内設定か?
「勝利宣言していい」と書いたのを勝手に俺が「レスつけない」と脳内転換すな。
おまえ、>>317>>319を五万回読んでみろ。どこか>>311の反論になっているのか? 読解力不足による誤読が>>317である。
こんな誤読レスになんかまともに議論できるかw 読解力をつけてからもう一回書け。
相手してもらえなかったからといって、他人に罵詈雑言するな。お前の書き込みはもはや討論を逸脱している。
「絶対レスつけるな」って、こっちの台詞ですよぜ旦那w 詳しいことはわからないけど、
本当の話みたいだよ
天子神璽を授けられた者(所有)じゃないとダメみたいだよ、
神器もそう
騙りもダメだという話
授ける側、授かった側、どちら側も同じ 武力などで、無理矢理、盗んだりした場合も無効
罪に陥れ(冤罪)、位や職、
証のようなものを剥奪しようとした場合も同じだという話
有名な話なのかな 何の話をしているの?アニメの話?
これはアニメの話ではないよ
⇒『舞い降りる翼』
⇒『舞い降りる剣』 >>331
お前が百万回読み直せ
317は間違ってないしお前は何一つ反論できていない
レスは付けないというのはお前が勝手に宣言した言葉
それを前言撤回したことを謝罪もせず
こっちにレスつけるなと命令するかまってほしい基地外
馬鹿につける薬はないねw このような話もあるでしょ
・正義の名のもとに
・神のいかずち(雷) >>327
>おわり(もう、ここから先は勝手に勝利宣言してくれていいよ)
↑
自分で書いたのにもう忘れる重度痴ほう症のお爺ちゃん それは>>311の再説明(連投)の終了ということだ。忘れてないよ。実際にこれ以降
>>311の説明はしていない。 おまえの勝利宣言で勝手に終了してくれてそれでおれも沈黙できたが、
おまえはあろうことか調子こいて 他人様をキチ外呼ばわりしだした。
そういう行儀の悪さについて おれはレスしておくよ。
おまえは誤読を指摘され、人格攻撃に切り替えてきた。これはいけない。
『サイバーパンクspecial』
このコミックに収録されている、とある作品
ロトと言うキャラクターが登場するんだけど、
なぜか川崎区の南部に住んでいる 中世の始まりは12世紀初頭 堀河天皇の崩御後 本格的な院政が始まってから
鎌倉幕府の成立はその80年後 清盛の落胤説って怪しいのかな
鳥羽院「清盛が清華は、人に劣るまいよ」
白河院の落胤だから12歳から兵衛佐、その後も破格の出世で
一代運なのかと思ってた
本人は代々続けたかっただろうけど
源氏は共食いが酷い 悪源太義平の頃もそうだけど
頼朝は、人を信用しないから身内殺し過ぎて、頼家もあんな殺され方
(自業自得だろうけど)
今わの際に、畠山重忠に「頼家を守れ」って今更寒すぎる
そういう点は狭量すぎて、見通し甘いわ 自分で子孫の首を絞めてる感する
橋の落慶式の帰りに、自分が殺した相手の残党に暗殺されて落馬したって説を支持したいわー >>335
>317は間違ってない
単なる史実を述べている部分は間違っていないよ。ただ、その記述が全然>>311の反論に
なっていないから、317のどこにどう反論していいか さっぱりわけわかめだっただけ。
多分 他の住人も論点がわからんと思うよ。 比喩に対してIF歴史で返されても おれに何をどう反論してほしいのか
今日読み返してもさっぱりわからん。 まあ、ここはお前の勝利宣言でいい。
>>338
「連投終了」と「勝利宣言していい」が、 ↓
>レスは付けないというのはお前が勝手に宣言した言葉
に脳内転換したわけだな。 成程。
比喩に対してIF歴史で応答し、「俺は間違っていない」というから誤読していることを、
馬鹿でも理解できるように説明してやったら、キチ外だの、謝罪が無い、だのわけわかめである。
もう一回書き直せ、という要求(>>331)に対する返事が
>馬鹿につける薬はないね
なので、わけわかめ論争は終了する。 それと
>こっちにレスつけるなと命令
俺がそんな命令していないのはスレ読めばわかる話。 「絶対レスつけるなよ」と2回叫んだ317に
「それはこっちの台詞ですぜ旦那w」という俺のコメントを得意の脳内転換したんだな。
勝利宣言はいいが、脳内転換や誤読に対する訂正レスはつけさせてもらうし、
勝利宣言を超えて、図に乗った悪態にも懲罰は加えることはある。
で、リセットして話題を続ける。 316と322のつづき
誰かも書いているが 清盛=信長 頼朝=家康という見立てに賛成で優劣はつけられない。
>>1もその辺は承知で ざっくりした質問を投げかけたとみる。清盛も頼朝も同じく武家政権の創設者であり、
>>1は個人の優劣ではなく、文中にあるように歴史的意義をさぐっていくスレだとし、
具体的には平氏政権と鎌倉幕府の意義を論じる場ととらえてみた。
それで>>311>>316>>322を投げてみた。過疎スレ且つ投稿から日も浅いので全く反応がないが、
清盛を頼朝の「前座」扱いしてきた歴史観に非常な疑問があるわけだ。だが、近年、大河ドラマの影響かどうかしらんが
清盛というか平氏政権が再評価されてきているのはいい傾向である。 木曽義仲 源義経の失敗例も頼朝の参考になった
朝廷とつるむのは両刃の剣 平氏政権 (ウィキぺディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E6%94%BF%E6%A8%A9
昭和時代の学校教育では平氏政権を貴族政権の亜流として教えられたが今は違うみたいだね。
平氏政権が長期政権となっていれば西国に拠点を置いた海洋国家を目指したの可能性は
よく指摘されるところだ。 平安中期、公地公民制が崩れ、調整方式が人頭税型から土地課税型へ移る。
それと並行するように国家が直接 農民から徴兵する方式も廃れていく。
国内の治安維持や地方の反乱に対しては新たに登場した軍事貴族の私兵に頼るようになる。
院政の基本構造は、上皇と直接 主従関係を結んだ「院の近臣」たちが受領や荘官、公卿となる制度である。
上皇に対する荘園寄進が急増するのは鳥羽院政期だが、膨大な荘園と知行国 上皇と主従関係を結ぶ武士たち、朝廷の枠外にあり、これらを統括する院庁。
院政の外形部分だけを見れば、草創期の「幕府」とそう変わらない。院政こそ「幕府」のプロトタイプと言える。 >>342
だから、317は何も間違ってないことを認めているのだからもういいわけだ
しつこいな
311の間違いは317で指摘した
何度も言わずな、基地外 >>317のあさっての方向の筋違いの知識の羅列だということは
すでに>>325>>326で幼稚園児にも解り易く諭してもらったのに、馬鹿一人が理解できないだけだろw
>>317間違い以前の????な頓珍漢ぶりw
>>317なんか全然>>311の反論にもなっていない意味不明なノイズでしかない。
真正のアホは>>311の本旨に意見できるほどの知識も見識もなく、全然関係のない話題を持ち出して
「ほら、間違ってないだろ」「反論していない」と喚いているだけだなw
>311の間違いは317で指摘した
全然間違っていないけど、この論争は終了宣言が既に出てるからもうお腹一杯 清盛も頼朝も名門の貴公子だが、頼朝は苦労したから人間力は上だな
清盛は運に恵まれ機会を上手く利用できだ。頼朝は逆境をバネに成長していった 武家政権の内、征夷大将軍になったものだけを幕府と呼び、そうっじゃないのをそのまま○○政権と区別するのって、
学術的にはあんまり意味ないと思う。
豊臣政権と徳川幕府は朝廷との距離感が違うのは解るけど、足利幕府なんか京都に一緒に住んでるんだから
その親密さはむしろ豊臣ー朝廷 以上だ。 近頃は平家の政権を六波羅幕府と呼ぶ学者もいるそうだから
豊臣政権も豊臣幕府と呼ぶようにしたらいいと思うんだがな。 >>349
そうだね ただ猜疑心が強すぎて、平家滅亡後、弟を上手く使いこなす術を思いつかなかったのが
運の尽きかな あと、東国武士の連立政権の御神輿で、自分自身の兵を持たないのも弱い
簡単に北条に呑まれてしまう 頼朝挙兵時は手持ちの兵はいなかったが、幕府成立後は直轄軍は多分制度化されていただろう。
室町幕府の奉公衆みたいな。 鎌倉殿は関東御領という直轄地と数か国の知行国を持っていたしな。
それと 頼朝神輿論とその反論をこのスレで何度か見たが、 幕府成立後の頼朝はもはや東国武士の御輿ではない。
頼朝決起の折は確かに 参集した武士たちの取っ手は「神輿」であったろうが寿永の宣旨あたり以降になると、力関係が頼朝側に移っちゃってる。
だから頼朝は政治的天才であるわけだ。 しかし、東国武士たちは面白くない。頼朝に抑えられていた連中(北条含む)が頼朝死後に頼家の独裁権を剥奪して、
初めて「連立政権」を創出したわけだ。 頼朝存命中は「連立政権」ではないし、 そういう意味の「御輿」論は既に論破されてるわね。 平家政権は絶頂期があったけど、源氏三代は暗いイメージ。 平清盛や田沼意次が再評価されることはいいことだ。 頼朝とか家康は野暮ったいイメージがある。
商業や貿易を重視する姿勢が現代の風潮に合ってる。 >>354
自分が年取ってから感じるのは
御輿に成る、担がれる胆力って凄いと思う
担がれつつ事を成すとなると、そりゃもう
清盛や意次の再評価は良いと思うが
彼方を上げるから此方を下げる
っとものでもないよね 「英雄たちの選択」で、いそっちは応仁の乱の東軍と西軍の総大将を両方やった足利義視は凄い、
とか言ってたな。 もちろんギャグで言ってるわけだが。
頼朝や尊氏のように、 人望 能力を合わせ持った「御輿」が最強であり、天下人の器量ってことか。
人望も能力もないのに「おれを担いでくれ」と頼みまわるような政治家ではだめだな。
なあ、そう思わんか? 枝野。 >>350 豊臣幕府の呼称は賛成だ
ただ平家の六波羅幕府は反対だな
平氏は朝廷の統治機関を活用して天下を統治していた
すなわち平氏は天下を統治するための、
朝廷から半独立した独自の統治機関がほぼなかった
(鎌倉・室町幕府は政所、問注所、守護、地頭、豊臣政権は五大老五奉行、京都、堺、長崎奉行など) >>357
「幕府」というのは江戸幕府も含めて天下人の家政機関なんだよ。 江戸時代の遠国奉行も徳川家の私領を統治する家司にすぎない。
この基本性格は院庁から江戸幕府に至るまで変わらない。
源氏政権の家政機関を幕府と呼ぶなら、平氏政権の家政機関も幕府と呼んでもいいはず。
政所・問注所・侍所なんて上級公卿はみんな持ってるだろ。
平氏だって国守護人や地頭が居たし、 源氏政権も守護未設置国はあった。 全国政権jyないし>源氏政権
平氏政権は地方統治に朝廷の機関(国衙)を利用するなど確かに武家政権としては“半独立”だったが、
萌芽期の武家政権(平氏)の未成熟度を理由に挙げるなら、 源氏政権と北条政権(承久の乱後)も大分違うし、
その北条政権と、半済令・守護請施行後の足利政権の間に相当な成熟度の差がある。
武家政権は保元・平治の乱以来 進化・成長を続け、一応足利義満の時代に完成を見る。
学術的な意味で「幕府」の定義なんかあって無いようなもんだから、平氏政権を幕府と呼ぶ呼ばないは、
趣味の問題じゃないかと思うね。
大体、 「中世」の始まりは12世紀初頭(院政 荘園公領制の確立)とする説が有力になってきているし、
もう武家政権=幕府と総称した方がスッキリするんだがねえ。 平氏や藤原氏の家政機関は日本国を統治する機関じゃなくて、
文字通り平氏や藤原氏の台所の機関だ
幕府とは性格が異なると思うね 変換ミス 訂正
全国政権jyないし → 全国政権じゃないし すまそ >>359
明治時代に「鎌倉幕府」(承久以前)とネーミングされた源氏政権も源氏の台所機関だよ。
関東御成敗地を管理する機関だな。
源氏政権と平氏政権の一番の違いは頼朝が日本国総追捕使になったことだな。(1190年)
まあ、これも言い出すと平氏も「畿内惣官職」になってるし(1181年)。
平氏政権の国守護人は未だ不明部分が多いが、 平氏政権と源氏政権って、そんなに違いは無いんだな実は。 鎌倉幕府は日本全国の武士を傘下に収めたわけでもないし、
関東御成敗地以外の土地 公家領・寺社領・国衙領は幕府の管轄外だし。
鎌倉将軍家の台所が大きいもんだから、その家政機関が国家機関に見えるだけだな。
足利義満の頃になると国衙領はほぼ武家の支配下に入る. ぢゃあ、天ぷらおかわりして昇天した征夷大将軍の話でもしようか? >>361
本拠地が京都と鎌倉という違いも大きい
頼朝は京都にあえて住まず、朝廷との間で距離を作った
それから守護の治安維持は、非御家人や公家・寺社・国衙領に到達する
鎌倉時代から在庁官人は守護の指揮下に置かれるようになる 鎌倉幕府が、朝廷の役職でない全国各地域を統治する役職として、
守護を設置した意義は大きい >本拠地が京都と鎌倉という違いも大きい
室町幕府も京都なんだが
>それから守護(以下略)
守護は平安朝の総追捕使の名称が変わっただけのもの。
厳密に言うと令制下の職だから当たり前だわね。 ちなみに奥州藤原氏は押領使 (最初)
源氏政権はほとんどオリジナリティが無い
追捕使
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E6%8D%95%E4%BD%BF 室町幕府も最初は鎌倉に築こうとしたが、
南朝対策で京都に置いた
つまり幕府は京都に置かずに、鎌倉でも江戸でも、
京都から遠い所でも 置けるというところが重要
天皇ありきの藤原氏政権や平氏政権と異なるところだ
追捕使は天皇が任免するもの
守護地頭は将軍が任免するもの
だから後鳥羽上皇が地頭の罷免を鎌倉幕府に要求して断られた
朝 平氏政権は武家政権の可能性はあったが、あくまでも可能性の段階
藤原摂関政治と鎌倉幕府の過渡期だな
元寇の段階になると、朝廷のお伺いや勅許を経ぬまま、
蒙古からの使節を鎌倉に呼びつけて斬首するまでになった そして鎌倉幕府が平氏政権と最も異なる点は
「問注所」という訴訟受付機関を設置したことだ
これまで何か訴えを起こして裁いてもらう機関は京都にある朝廷のみだったが、
新たに鎌倉に問注所ができた >>368>>369
うんうん。知ってるよ。 だから、 平氏政権を幕府と呼ぼうが呼ぶまいが、どこに力点を置いてネーミングするかは
個人の趣味の範囲だと思うわけよ。 「幕府」の定義がそもそも無いのだから、そもそも論争にならない。
平氏政権と源氏政権(承久以前)には共通点と相違点の両方があることは共通認識できると思うが、
京都に本拠地があるか無いかを重要視する君の視点は理解できるし、 そこをあまり重視しない僕の見方も学術的には間違っていない。
ただ少し、君の視点で明らかに異論がある点だけ記しておく。
>鎌倉時代から在庁官人は守護の指揮下に置かれるようになる
少し違う。 鎌倉期において守護が在庁官人を直接指揮できるのは @在庁官人が御家人の場合 A在庁官人が守護の被官になった場合
と自分は理解している。この文章では守護がその職権で在庁官を指揮できるように読めるがそうならばそれは初耳。
>追捕使は天皇が任免するもの (以下略)
ここも言葉足らずである。 頼朝は日本国総追捕使に任じられて(1191年)同時に諸国の追捕使の任免権を得た。
まさにここは画期的なことだが、 この権限も元は「日本国総追捕使」に天皇から任命されて発生した権限である、
という肝心な部分がずり落ちている。 いわゆる守護・地頭制度は既存の令制の再活用である。
ここが理解できていないとお話にならない。 ただ、 守護地頭の任免は朝幕の力関係で決まっている。
現在の日本の政治だって 人事は総理総裁と派閥領袖の力学で決まるのと同じ。 つまり、俺は制度論を言っているのに対し、
君は政治論で反証している、つーこと。 源氏政権が朝廷から実質独立していることにもちろん俺は同意してするが、
だから、何?となっていしまうわね。
つづく 370続き
>平氏政権は武家政権の可能性はあったが、あくまでも可能性の段階
君の頭の中で「武家政権」と「幕府」の定義や違いがどうなっているか知らんし興味もないけど、
学界では平氏政権は「最初の武家政権」になっている。 それを気に食わないなら、 ちょいと学会で論陣張ってくれとしか言いようがない。
あとは、平氏政権を幕府と呼称するのがしないのかが問題で、現在は過去の慣習で呼称しない、ということになっている。
俺はここを非論理的で感性の問題にしか過ぎない、と喝破しているわけですよ。
>「問注所」という訴訟受付機関を設置したことだ
鎌倉幕府の特徴としてこれを挙げたのは良いと思うが、 まあこれも従来の政所がやってた機能を職掌分化しただけだしねえ。
総務部人事課が昇格して人事部になったようなもんだし。
君がこれを取り上げたのは多分この間違い故だと思う ↓↓
>これまで何か訴えを起こして裁いてもらう機関は京都にある朝廷のみだったが、
ここは少し驚いた。 荘園内の訴訟は基本 本所でしょ。 鎌倉殿の家人同士の訴訟は幕府の裁定になるのは
同じ本所の荘園での訴訟は本所の政所で裁定してたわけで、 ここのどこが幕府のオリジナルなのか少し意味不明。
まあ、 とりあえずはここまでかな。 すみません >>370の文章が一部消えている。
鎌倉殿の家人同士の訴訟は幕府の裁定になるのは × (続きが無いw)
鎌倉殿の家人同士の訴訟は幕府の裁定になるのは 摂関家の荘園も同じことで 〇
と追加します。
非御家人の訴訟が本所を超えて幕府に持ち込まれるのは大分 後の話(承久以前にも無いわけではないが)
基本的に幕府の司法権は関東御成敗地が原則 >>370 天皇が任命しているから幕府のオリジナリティはないというなら、
平氏政権も鎌倉以降の幕府も全部オリジナリティがないということになるのでは?
全部朝廷の下部機関でしたで終わりじゃん 蒙古襲来の時期をみれば、
蒙古の使節を斬ったのも、
朝廷や天皇が決断したのではなく、幕府が最終決断したものだ
これが日本を代表する日本政府という側面を有する、幕府のオリジナリティといえる
日本国内の関東進止所領という領地を持つ単なる領主ではないということだ >>371
荘園内の公家と武士の間の訴訟は、
次第に朝廷が裁くのではなく、幕府が裁くようになっていきましたよ
これが平氏政権を幕府と呼称するのが難しい点ですよ
平氏政権も藤原摂関政治も、あくまでも朝廷の中で政権を握っており、
朝廷とは別個に日本全国を統治していたとは考えにくいわけです
だから天皇の信任を独占することが政権確保の第一であり、京都から離れられなかった 幕府の最終進化形態は江戸幕府
朝廷が一定程度の権力を有していた時期の初期鎌倉幕府をみて、
幕府の定義やオリジナル性を論じるのは言葉足らずだね
あと守護が在庁官人を指揮していた程度も時期によって異なるが、
平氏政権下では、平氏が天皇を動かして国司や知行国主になって
地方行政を動かしたので、鎌倉以降の幕府の地方行政とは異なるわけだ うーん 確かに初期頼朝時代は平氏政権に近かった部分もあったが
だんだん得宗専制の時期ぐらいになっていくと平氏政権と近い性格が薄まり
幕府の自主性・全国性が強まっていった
鎌倉幕府の性格は初期と後期では異なるところがポイントとして抑える必要がある 「幕府」の定義について、しっかりした論文を読んだことが無いので自分の無知を晒すが、
一応 学校の授業では征夷大将軍に任官したか否か がポイントで、本拠地が京都か否か、天皇の外戚か否か、
というレスは、俺の中では「その人個人の独自理論」としてしか処理しようがない。
俺は鎌倉幕府の変容を以て便宜的に「源氏政権」「北条政権(承久前)」と区分けして、 源氏政権と平氏政権の共通性と相違性の比較検証を論じているのだが
相手氏は論破されると北条政権の話を持ってくるので論点がこんがらがる。
昨日から俺が言いたいことは 幕府の定義論争ではなく、 古い平氏政権観に対する違和感を表明するに当たり、
源氏政権の“後進性”を指摘することで、 平氏政権と源氏政権の間の“ミシン目”はそれほど大きくないことが
近年認識されてきている、ということ。 もちろん、だからといって平氏政権を「幕府」と呼ぶかどうかは別の話だけどね。
学界で「幕府」の公式定義が無い以上、 その呼称の適否は個人の感性にしか過ぎないことは何度も述べた。
俺個人としては「武家政権であるが 幕府とは呼ばない」というテーゼは論理的整合性が無い、と今日もさらに確信できたので
これはこれで有意義だった。 個人的独自理論は嫌いじゃないし。 「六波羅幕府」を主唱している高橋ナントカさんも相手氏もそれぞれマイ定義でモノ言っているだけだし。
まだ書き足りないが、駄文でレス汚すのもなんなので今宵はここまで。 おっとアンカー忘れ 379は>>378宛て
370でした。 みなさん、連投失礼しました。おやすみなさい。 比較のしようもなく、清盛に決まっとろーが。
清盛は二人も孫を天皇にしたんだよ。
おまけに、貿易の振興と経済自由化政策で民を豊かにもした。
頼朝は全くすごくない。
若いころから衣食を世話になった北条時政の言うがままに、源氏一族を亡ぼしてしまった。
おまけに、自分が戦争に勝つ武力がないものだから、弟たちに戦わせ、ライバルだった
イトコたちや、平家を倒してくれた弟たちを、北条氏にそそのかされるままに殺した。
結果、頼朝を支えた身近な武将たちは、頼朝の死後すぐに北条氏に殺され、
頼朝の子どもたちや孫まで殺されて、将軍家は完全に断絶してしまった。
あれほど情けない将軍は歴史上一人も見出すことはできない。 >>378
私が鎌倉幕府は京都から距離を置くことができたところがポイントだといえば、
あなたは「室町幕府の拠点は京都ですけど」と言ってきて、
北条政権より後の室町幕府まで持ってきてましたよね
だから論点がこんがらがるんですよ 平氏政権を鎌倉幕府と比較して、六波羅幕府と呼びたいなら、
鎌倉幕府140年の中で、自分の都合がいい一時期を区切ってみるのではなく、
鎌倉幕府140年全体を見たうえで、平氏政権を幕府と呼べるべきかどうか検討すべき
そもそも実朝期から北条執権政治は始まっており、一刀両断に分けられるものではない。 >>383
例えるなら明治政府と江戸幕府を比較する時に、
廃藩置県前の一時期の明治政府と江戸幕府を比較して、
明治政府と江戸幕府の構造は似ていると言ってしまっているようなものだ >>383
ここで比較されているのは、
平氏政権と北条政権ではなく、
頼朝と清盛です。 頼朝が作った鎌倉幕府の重臣たちはみな北条氏に殺され、
朝廷から正式に征夷大将軍に任命された1992年から、わずか25年ほどで源氏の将軍は絶滅し、
全国支配をするに至る前に終了しました。
清盛が全国を支配下に置き、国家的事業に取り組んだことに比べると、源氏が支配下に
おいたのは関東の狭い範囲のみでした。
鎌倉幕府は、源氏将軍の血が完全に絶えた後に、北条氏に乗っ取られた後、承久の乱を
経て全国支配の権限を得ていきます。
頼朝の子孫は全国支配など夢想することもないままに滅亡しました。
頼朝を慕い、共に東国支配の基盤を整えた有力御家人たちはほとんどが頼朝の死後間もなく殺されました。
母と叔父によって謀殺され滅亡した源氏将軍一族は、ただ悲劇の主人公にしかなり得ません。 >>385
平氏政権を六波羅幕府と呼びたいなら、140年続いた鎌倉幕府全体と比較して論じるべき
同様に一代で終わった豊臣秀吉政権と江戸幕府の構造を比較する時にも、
家康の時期だけを抽出して、秀吉政権と比較しても限定的な理解となろう 清盛はあの時代に生まれた突然変異の英雄だったとしても
残された縁類が家を残せなかったのは人物がいなかったというより
公家化したのが原因なんだろうなあ
同じ日本人でも今の時代の俺らが太平洋戦争までの
ご先祖さま達みたいに戦えるかって言ったら無理だろうしなあ にっぽん歴史鑑定とかいう超マイナーな似非歴史番組、なに足利直義の肖像画を頼朝の肖像画にして捏造してんだ??
もう直義に比定されてるのを知らないのか無能スタッフ
イラつくからすぐ切って録画消したわ >>383
鎌倉幕府は基本世襲だからな
平氏政権は世襲ではない
平清盛は太政大臣になれたが息子や孫は太政大臣になれなかった
この時点で「幕府」も何もない
平氏政権は清盛への後白河法皇の寵愛だけが頼りだった >>386
頼朝の時代には最果ての島津まで動員したんだが >>386
清盛が全国を支配下に置いたわけではない
後白河法皇というまぎれもない治天の君がいて
そのお友達として清盛がいただけ
実際、清盛が権力を持つためには天皇家と摂関家の乗っ取りしかなく
そのために娘を天皇家と摂関家に嫁がせ安徳天皇を得た
しかしそれも後白河法皇の気分次第
治天の君である後白河法皇にそっぽ向かれたら下り坂だった 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
52JV2 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
887 教科書にも載る “最古” の源頼朝木像 傷み深刻 修復へ
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181005/k10011659341000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_001
国内で最も古い源頼朝像として甲府市の甲斐善光寺に伝わる木像は、一部が欠けるな
ど劣化が深刻なことから修復されることになりました。寺に残る記録によりますと、
修復は初めてで「教科書でも紹介されている頼朝像のため、できるだけ早く修復した
い」としています。 頼朝が景時に見逃さられなかったらどうなっただろうね。 頼朝が関東以外に飛ばされても、その地でいずれ担がれたのかな 統治機構の確立という点では、頼朝だと思う。
私的な武家の棟梁の立場と公的な権限を融合させて、朝廷権力と同時に成立し得る独立政権という難題をクリアした。
世界史ならAugustus並みの政治力。 >>396
義経、義仲、志田義広連合軍が早期から頼朝包囲網を構築していたられば 義仲と義経はどっちが凄いか?と似たような命題だな。
ex,
高杉晋作と坂本龍馬は
伊藤博文と大久保利通は
始皇帝とフビライは 清盛って保元平治、治承寿永と売られた喧嘩を買っただけだよね。こっちから仕掛けてないし 階段から女性を突き落とした疑いで、「鎌倉の頼朝」を逮捕!
[2019/04/10 11:58]
神奈川県鎌倉市の線路をまたぐ橋の上で大学生の21歳の男が女性に突然、殴り掛かって階段から突き落としてけがをさせたとして逮捕されました。
私立大学4年の頼朝海斗容疑者は1月3日午前4時45分ごろ、鎌倉市の線路をまたぐ橋の上で
30歳の女性の顔面を複数回、殴って階段から突き落とした疑いが持たれています。
女性は顔面を打撲するなど、全治1カ月程度のけがをしました。
警察によりますと、2人に面識はなく、頼朝容疑者は当時、酒に酔っていて、
取り調べに対して「むしゃくしゃしたことがあり、殴ってしまった」と容疑を認めているということです。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000151883.html 頼朝容疑者wwwwwwwwwwwwwwwwwwww シン・平家物語 テーマソング
「KIYOMORI No.1」
♪おたべ喰ったって〜
和菓子喰ったって〜
京都の中では「平家」なの♪
坊主が唸ればぁ〜
公家が弾むわぁ〜
陰陽師 呪詛 アタック!
ワンツー ワンツー祈祷 護摩 !
でも、涙が出ちゃう・・・
だって、「壇ノ浦」なんだモン、、、、orz(涙
♪南無阿弥陀仏も〜 般若心経も〜
青空に高くー叫びーたい〜♪
平家 一門 NO.1
平家 清盛 ナンバー アー ワーン! >>401
義経が世に出てきた頃には義仲は討たれていたから
(そもそも義仲を殺したのが義範・義経連合軍)
手を結ぶと言っても
義仲が生きてた頃はまだ平家滅亡前だから
その頃に頼朝と義経が対立していたら
そもそも源氏の世にはならなかったはず >義経が世に出てきた頃には義仲は討たれていたから
>(そもそも義仲を殺したのが義範・義経連合軍)
>義経が世に出てきた頃には義仲は討たれていたから
>(そもそも義仲を殺したのが義範・義経連合軍)
>義経が世に出てきた頃には義仲は討たれていたから
>(そもそも義仲を殺したのが義範・義経連合軍) 清和源氏の嫡流は源頼政やね、頼政の子頼兼、頼兼の子頼茂、頼茂の子頼氏と嫡流が流れる
源頼氏は遠江守となって浜名氏を称した
遠江浜名氏が源氏嫡流 源氏の長者は村上源氏の久我氏
足利義満以降は将軍家が源氏の長者 清和源氏の嫡流は頼朝が統一するまでは各地の清和源氏が嫡流自称して殺し合いだよ。 清和源氏に嫡流なんて存在しない。源頼政も嫡流ではない。 武家で特定の家系だけを嫡流として絶対視するようになるのは鎌倉以降
例えば平安時代までは清和源氏のなかで最高四〜五位に達する家が十数家あったとして
それらが王朝政府に仕えて平等に出世争いをすることになる
そのつど誰がトップになるかわからないから絶対的な嫡宗家などできない 朝廷が武家同士を競わせて一大勢力にならないように調整してるね 律令貴族の蔭位の制が影響してるから、貴族社会から派生した武家も嫡流の自称が多い。 清盛は瀬戸内海航路を整備して大型船も通れるようにし
それまで博多泊だった中国船が関西まで来れるようした
北部九州地域程度でしか流通していなかった通貨が関西でも通貨が使われるようになり日本の経済が発展した
清盛の功績は大きい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています