清盛と頼朝はどっちがすごいの?

1日本@名無史さん2012/01/11(水) 21:37:58.36
どっちがすごいのか日本史的な意義を語るスレッドです。

344日本@名無史さん2017/07/20(木) 21:36:40.87
木曽義仲 源義経の失敗例も頼朝の参考になった
朝廷とつるむのは両刃の剣

345日本@名無史さん2017/07/21(金) 22:10:38.64
平氏政権 (ウィキぺディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E6%94%BF%E6%A8%A9

昭和時代の学校教育では平氏政権を貴族政権の亜流として教えられたが今は違うみたいだね。
平氏政権が長期政権となっていれば西国に拠点を置いた海洋国家を目指したの可能性は
よく指摘されるところだ。

346日本@名無史さん2017/07/23(日) 06:44:46.78
平安中期、公地公民制が崩れ、調整方式が人頭税型から土地課税型へ移る。
それと並行するように国家が直接 農民から徴兵する方式も廃れていく。
国内の治安維持や地方の反乱に対しては新たに登場した軍事貴族の私兵に頼るようになる。
院政の基本構造は、上皇と直接 主従関係を結んだ「院の近臣」たちが受領や荘官、公卿となる制度である。
上皇に対する荘園寄進が急増するのは鳥羽院政期だが、膨大な荘園と知行国 上皇と主従関係を結ぶ武士たち、朝廷の枠外にあり、これらを統括する院庁。
 院政の外形部分だけを見れば、草創期の「幕府」とそう変わらない。院政こそ「幕府」のプロトタイプと言える。 

347日本@名無史さん2017/07/23(日) 14:45:44.27
>>342
だから、317は何も間違ってないことを認めているのだからもういいわけだ
しつこいな
311の間違いは317で指摘した
何度も言わずな、基地外

348日本@名無史さん2017/07/23(日) 21:15:12.12
>>317のあさっての方向の筋違いの知識の羅列だということは
すでに>>325>>326で幼稚園児にも解り易く諭してもらったのに、馬鹿一人が理解できないだけだろw
>>317間違い以前の????な頓珍漢ぶりw
>>317なんか全然>>311の反論にもなっていない意味不明なノイズでしかない。
真正のアホは>>311の本旨に意見できるほどの知識も見識もなく、全然関係のない話題を持ち出して
「ほら、間違ってないだろ」「反論していない」と喚いているだけだなw

>311の間違いは317で指摘した
全然間違っていないけど、この論争は終了宣言が既に出てるからもうお腹一杯

349日本@名無史さん2017/07/23(日) 21:40:57.27
清盛も頼朝も名門の貴公子だが、頼朝は苦労したから人間力は上だな
清盛は運に恵まれ機会を上手く利用できだ。頼朝は逆境をバネに成長していった

350日本@名無史さん2017/07/24(月) 00:20:42.57
武家政権の内、征夷大将軍になったものだけを幕府と呼び、そうっじゃないのをそのまま○○政権と区別するのって、
学術的にはあんまり意味ないと思う。
豊臣政権と徳川幕府は朝廷との距離感が違うのは解るけど、足利幕府なんか京都に一緒に住んでるんだから
その親密さはむしろ豊臣ー朝廷 以上だ。 近頃は平家の政権を六波羅幕府と呼ぶ学者もいるそうだから
豊臣政権も豊臣幕府と呼ぶようにしたらいいと思うんだがな。

351日本@名無史さん2017/07/27(木) 03:30:08.21
>>349
そうだね ただ猜疑心が強すぎて、平家滅亡後、弟を上手く使いこなす術を思いつかなかったのが
運の尽きかな あと、東国武士の連立政権の御神輿で、自分自身の兵を持たないのも弱い
簡単に北条に呑まれてしまう

352日本@名無史さん2017/07/27(木) 16:09:34.55
頼朝挙兵時は手持ちの兵はいなかったが、幕府成立後は直轄軍は多分制度化されていただろう。
室町幕府の奉公衆みたいな。 鎌倉殿は関東御領という直轄地と数か国の知行国を持っていたしな。
それと 頼朝神輿論とその反論をこのスレで何度か見たが、 幕府成立後の頼朝はもはや東国武士の御輿ではない。
頼朝決起の折は確かに 参集した武士たちの取っ手は「神輿」であったろうが寿永の宣旨あたり以降になると、力関係が頼朝側に移っちゃってる。
だから頼朝は政治的天才であるわけだ。  しかし、東国武士たちは面白くない。頼朝に抑えられていた連中(北条含む)が頼朝死後に頼家の独裁権を剥奪して、
初めて「連立政権」を創出したわけだ。 頼朝存命中は「連立政権」ではないし、 そういう意味の「御輿」論は既に論破されてるわね。

353日本@名無史さん2017/07/27(木) 16:57:06.67
平家政権は絶頂期があったけど、源氏三代は暗いイメージ。

354日本@名無史さん2017/07/31(月) 21:59:32.83
平清盛や田沼意次が再評価されることはいいことだ。 頼朝とか家康は野暮ったいイメージがある。
商業や貿易を重視する姿勢が現代の風潮に合ってる。

355日本@名無史さん2017/08/02(水) 09:06:24.92
>>354
自分が年取ってから感じるのは
御輿に成る、担がれる胆力って凄いと思う
担がれつつ事を成すとなると、そりゃもう
清盛や意次の再評価は良いと思うが
彼方を上げるから此方を下げる
っとものでもないよね

356日本@名無史さん2017/08/02(水) 15:22:07.21
「英雄たちの選択」で、いそっちは応仁の乱の東軍と西軍の総大将を両方やった足利義視は凄い、
とか言ってたな。 もちろんギャグで言ってるわけだが。
頼朝や尊氏のように、 人望 能力を合わせ持った「御輿」が最強であり、天下人の器量ってことか。
人望も能力もないのに「おれを担いでくれ」と頼みまわるような政治家ではだめだな。
なあ、そう思わんか? 枝野。

357日本@名無史さん2017/08/02(水) 15:48:46.69
>>350 豊臣幕府の呼称は賛成だ

ただ平家の六波羅幕府は反対だな
平氏は朝廷の統治機関を活用して天下を統治していた
すなわち平氏は天下を統治するための、
朝廷から半独立した独自の統治機関がほぼなかった
(鎌倉・室町幕府は政所、問注所、守護、地頭、豊臣政権は五大老五奉行、京都、堺、長崎奉行など)

358日本@名無史さん2017/08/02(水) 21:58:40.27
>>357
「幕府」というのは江戸幕府も含めて天下人の家政機関なんだよ。 江戸時代の遠国奉行も徳川家の私領を統治する家司にすぎない。
この基本性格は院庁から江戸幕府に至るまで変わらない。
源氏政権の家政機関を幕府と呼ぶなら、平氏政権の家政機関も幕府と呼んでもいいはず。
政所・問注所・侍所なんて上級公卿はみんな持ってるだろ。
平氏だって国守護人や地頭が居たし、 源氏政権も守護未設置国はあった。 全国政権jyないし>源氏政権
平氏政権は地方統治に朝廷の機関(国衙)を利用するなど確かに武家政権としては“半独立”だったが、
萌芽期の武家政権(平氏)の未成熟度を理由に挙げるなら、 源氏政権と北条政権(承久の乱後)も大分違うし、
その北条政権と、半済令・守護請施行後の足利政権の間に相当な成熟度の差がある。
武家政権は保元・平治の乱以来 進化・成長を続け、一応足利義満の時代に完成を見る。
学術的な意味で「幕府」の定義なんかあって無いようなもんだから、平氏政権を幕府と呼ぶ呼ばないは、
趣味の問題じゃないかと思うね。
大体、 「中世」の始まりは12世紀初頭(院政 荘園公領制の確立)とする説が有力になってきているし、
もう武家政権=幕府と総称した方がスッキリするんだがねえ。

359日本@名無史さん2017/08/02(水) 22:04:28.23
平氏や藤原氏の家政機関は日本国を統治する機関じゃなくて、
文字通り平氏や藤原氏の台所の機関だ
幕府とは性格が異なると思うね

360日本@名無史さん2017/08/02(水) 22:05:54.93
変換ミス 訂正
全国政権jyないし → 全国政権じゃないし  すまそ

361日本@名無史さん2017/08/02(水) 22:19:21.10
>>359
明治時代に「鎌倉幕府」(承久以前)とネーミングされた源氏政権も源氏の台所機関だよ。
関東御成敗地を管理する機関だな。
源氏政権と平氏政権の一番の違いは頼朝が日本国総追捕使になったことだな。(1190年)
まあ、これも言い出すと平氏も「畿内惣官職」になってるし(1181年)。
平氏政権の国守護人は未だ不明部分が多いが、 平氏政権と源氏政権って、そんなに違いは無いんだな実は。

362日本@名無史さん2017/08/02(水) 22:28:18.07
鎌倉幕府は日本全国の武士を傘下に収めたわけでもないし、
関東御成敗地以外の土地 公家領・寺社領・国衙領は幕府の管轄外だし。
鎌倉将軍家の台所が大きいもんだから、その家政機関が国家機関に見えるだけだな。
足利義満の頃になると国衙領はほぼ武家の支配下に入る.

363日本@名無史さん2017/08/02(水) 23:08:11.09
落馬して死んだ「武士」の棟梁と比較すんなw

364日本@名無史さん2017/08/02(水) 23:17:17.30
ぢゃあ、天ぷらおかわりして昇天した征夷大将軍の話でもしようか?

365日本@名無史さん2017/08/03(木) 10:35:57.38
>>361
本拠地が京都と鎌倉という違いも大きい
頼朝は京都にあえて住まず、朝廷との間で距離を作った

それから守護の治安維持は、非御家人や公家・寺社・国衙領に到達する
鎌倉時代から在庁官人は守護の指揮下に置かれるようになる

366日本@名無史さん2017/08/03(木) 10:37:49.05
鎌倉幕府が、朝廷の役職でない全国各地域を統治する役職として、
守護を設置した意義は大きい

367日本@名無史さん2017/08/03(木) 11:01:04.01
>本拠地が京都と鎌倉という違いも大きい
室町幕府も京都なんだが

>それから守護(以下略)
守護は平安朝の総追捕使の名称が変わっただけのもの。
厳密に言うと令制下の職だから当たり前だわね。 ちなみに奥州藤原氏は押領使 (最初)
源氏政権はほとんどオリジナリティが無い

追捕使
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E6%8D%95%E4%BD%BF

368日本@名無史さん2017/08/03(木) 14:14:59.37
室町幕府も最初は鎌倉に築こうとしたが、
南朝対策で京都に置いた
つまり幕府は京都に置かずに、鎌倉でも江戸でも、
京都から遠い所でも 置けるというところが重要
天皇ありきの藤原氏政権や平氏政権と異なるところだ

追捕使は天皇が任免するもの
守護地頭は将軍が任免するもの
だから後鳥羽上皇が地頭の罷免を鎌倉幕府に要求して断られた

朝 平氏政権は武家政権の可能性はあったが、あくまでも可能性の段階
藤原摂関政治と鎌倉幕府の過渡期だな

元寇の段階になると、朝廷のお伺いや勅許を経ぬまま、
蒙古からの使節を鎌倉に呼びつけて斬首するまでになった

369日本@名無史さん2017/08/03(木) 14:37:14.96
そして鎌倉幕府が平氏政権と最も異なる点は
「問注所」という訴訟受付機関を設置したことだ

これまで何か訴えを起こして裁いてもらう機関は京都にある朝廷のみだったが、
新たに鎌倉に問注所ができた

370日本@名無史さん2017/08/03(木) 16:27:14.39
>>368>>369
うんうん。知ってるよ。 だから、 平氏政権を幕府と呼ぼうが呼ぶまいが、どこに力点を置いてネーミングするかは
個人の趣味の範囲だと思うわけよ。 「幕府」の定義がそもそも無いのだから、そもそも論争にならない。
平氏政権と源氏政権(承久以前)には共通点と相違点の両方があることは共通認識できると思うが、
京都に本拠地があるか無いかを重要視する君の視点は理解できるし、 そこをあまり重視しない僕の見方も学術的には間違っていない。
ただ少し、君の視点で明らかに異論がある点だけ記しておく。

>鎌倉時代から在庁官人は守護の指揮下に置かれるようになる
少し違う。 鎌倉期において守護が在庁官人を直接指揮できるのは @在庁官人が御家人の場合 A在庁官人が守護の被官になった場合
と自分は理解している。この文章では守護がその職権で在庁官を指揮できるように読めるがそうならばそれは初耳。

>追捕使は天皇が任免するもの (以下略)
ここも言葉足らずである。 頼朝は日本国総追捕使に任じられて(1191年)同時に諸国の追捕使の任免権を得た。
まさにここは画期的なことだが、 この権限も元は「日本国総追捕使」に天皇から任命されて発生した権限である、
という肝心な部分がずり落ちている。 いわゆる守護・地頭制度は既存の令制の再活用である。
ここが理解できていないとお話にならない。 ただ、 守護地頭の任免は朝幕の力関係で決まっている。
現在の日本の政治だって 人事は総理総裁と派閥領袖の力学で決まるのと同じ。 つまり、俺は制度論を言っているのに対し、
君は政治論で反証している、つーこと。 源氏政権が朝廷から実質独立していることにもちろん俺は同意してするが、
だから、何?となっていしまうわね。

つづく

371日本@名無史さん2017/08/03(木) 16:48:52.89
370続き
>平氏政権は武家政権の可能性はあったが、あくまでも可能性の段階
君の頭の中で「武家政権」と「幕府」の定義や違いがどうなっているか知らんし興味もないけど、
学界では平氏政権は「最初の武家政権」になっている。 それを気に食わないなら、 ちょいと学会で論陣張ってくれとしか言いようがない。
あとは、平氏政権を幕府と呼称するのがしないのかが問題で、現在は過去の慣習で呼称しない、ということになっている。
俺はここを非論理的で感性の問題にしか過ぎない、と喝破しているわけですよ。

>「問注所」という訴訟受付機関を設置したことだ
鎌倉幕府の特徴としてこれを挙げたのは良いと思うが、 まあこれも従来の政所がやってた機能を職掌分化しただけだしねえ。
総務部人事課が昇格して人事部になったようなもんだし。
 君がこれを取り上げたのは多分この間違い故だと思う ↓↓
>これまで何か訴えを起こして裁いてもらう機関は京都にある朝廷のみだったが、
ここは少し驚いた。 荘園内の訴訟は基本 本所でしょ。 鎌倉殿の家人同士の訴訟は幕府の裁定になるのは
同じ本所の荘園での訴訟は本所の政所で裁定してたわけで、 ここのどこが幕府のオリジナルなのか少し意味不明。

まあ、 とりあえずはここまでかな。

372日本@名無史さん2017/08/03(木) 16:53:58.10
参考になるかどうかわからんが

本所法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%89%80%E6%B3%95

373日本@名無史さん2017/08/03(木) 17:06:05.69
すみません >>370の文章が一部消えている。

鎌倉殿の家人同士の訴訟は幕府の裁定になるのは  × (続きが無いw)
鎌倉殿の家人同士の訴訟は幕府の裁定になるのは 摂関家の荘園も同じことで 〇

と追加します。

非御家人の訴訟が本所を超えて幕府に持ち込まれるのは大分 後の話(承久以前にも無いわけではないが)
基本的に幕府の司法権は関東御成敗地が原則

374日本@名無史さん2017/08/03(木) 17:43:07.09
>>370 天皇が任命しているから幕府のオリジナリティはないというなら、
平氏政権も鎌倉以降の幕府も全部オリジナリティがないということになるのでは?
全部朝廷の下部機関でしたで終わりじゃん

375日本@名無史さん2017/08/03(木) 17:47:01.34
蒙古襲来の時期をみれば、
蒙古の使節を斬ったのも、
朝廷や天皇が決断したのではなく、幕府が最終決断したものだ

これが日本を代表する日本政府という側面を有する、幕府のオリジナリティといえる
日本国内の関東進止所領という領地を持つ単なる領主ではないということだ

376日本@名無史さん2017/08/03(木) 18:04:33.42
>>371

荘園内の公家と武士の間の訴訟は、
次第に朝廷が裁くのではなく、幕府が裁くようになっていきましたよ

これが平氏政権を幕府と呼称するのが難しい点ですよ
平氏政権も藤原摂関政治も、あくまでも朝廷の中で政権を握っており、
朝廷とは別個に日本全国を統治していたとは考えにくいわけです
だから天皇の信任を独占することが政権確保の第一であり、京都から離れられなかった

377日本@名無史さん2017/08/03(木) 18:12:54.10
幕府の最終進化形態は江戸幕府

朝廷が一定程度の権力を有していた時期の初期鎌倉幕府をみて、
幕府の定義やオリジナル性を論じるのは言葉足らずだね 

あと守護が在庁官人を指揮していた程度も時期によって異なるが、
平氏政権下では、平氏が天皇を動かして国司や知行国主になって
地方行政を動かしたので、鎌倉以降の幕府の地方行政とは異なるわけだ

378日本@名無史さん2017/08/03(木) 21:42:55.06
うーん 確かに初期頼朝時代は平氏政権に近かった部分もあったが
だんだん得宗専制の時期ぐらいになっていくと平氏政権と近い性格が薄まり
幕府の自主性・全国性が強まっていった

鎌倉幕府の性格は初期と後期では異なるところがポイントとして抑える必要がある

379日本@名無史さん2017/08/03(木) 23:07:49.56
「幕府」の定義について、しっかりした論文を読んだことが無いので自分の無知を晒すが、
一応 学校の授業では征夷大将軍に任官したか否か がポイントで、本拠地が京都か否か、天皇の外戚か否か、
というレスは、俺の中では「その人個人の独自理論」としてしか処理しようがない。
俺は鎌倉幕府の変容を以て便宜的に「源氏政権」「北条政権(承久前)」と区分けして、 源氏政権と平氏政権の共通性と相違性の比較検証を論じているのだが
相手氏は論破されると北条政権の話を持ってくるので論点がこんがらがる。 
昨日から俺が言いたいことは 幕府の定義論争ではなく、 古い平氏政権観に対する違和感を表明するに当たり、
源氏政権の“後進性”を指摘することで、 平氏政権と源氏政権の間の“ミシン目”はそれほど大きくないことが
近年認識されてきている、ということ。 もちろん、だからといって平氏政権を「幕府」と呼ぶかどうかは別の話だけどね。
学界で「幕府」の公式定義が無い以上、 その呼称の適否は個人の感性にしか過ぎないことは何度も述べた。
俺個人としては「武家政権であるが 幕府とは呼ばない」というテーゼは論理的整合性が無い、と今日もさらに確信できたので
これはこれで有意義だった。 個人的独自理論は嫌いじゃないし。 「六波羅幕府」を主唱している高橋ナントカさんも相手氏もそれぞれマイ定義でモノ言っているだけだし。
まだ書き足りないが、駄文でレス汚すのもなんなので今宵はここまで。

380日本@名無史さん2017/08/03(木) 23:11:22.65
おっとアンカー忘れ 379は>>378宛て
370でした。 みなさん、連投失礼しました。おやすみなさい。

381日本@名無史さん2017/08/04(金) 02:18:58.91
比較のしようもなく、清盛に決まっとろーが。
清盛は二人も孫を天皇にしたんだよ。
おまけに、貿易の振興と経済自由化政策で民を豊かにもした。

頼朝は全くすごくない。
若いころから衣食を世話になった北条時政の言うがままに、源氏一族を亡ぼしてしまった。
おまけに、自分が戦争に勝つ武力がないものだから、弟たちに戦わせ、ライバルだった
イトコたちや、平家を倒してくれた弟たちを、北条氏にそそのかされるままに殺した。
結果、頼朝を支えた身近な武将たちは、頼朝の死後すぐに北条氏に殺され、
頼朝の子どもたちや孫まで殺されて、将軍家は完全に断絶してしまった。

あれほど情けない将軍は歴史上一人も見出すことはできない。

382日本@名無史さん2017/08/04(金) 06:56:39.64
>>378
私が鎌倉幕府は京都から距離を置くことができたところがポイントだといえば、
あなたは「室町幕府の拠点は京都ですけど」と言ってきて、
北条政権より後の室町幕府まで持ってきてましたよね

だから論点がこんがらがるんですよ

383日本@名無史さん2017/08/04(金) 07:00:25.60
平氏政権を鎌倉幕府と比較して、六波羅幕府と呼びたいなら、
鎌倉幕府140年の中で、自分の都合がいい一時期を区切ってみるのではなく、
鎌倉幕府140年全体を見たうえで、平氏政権を幕府と呼べるべきかどうか検討すべき

そもそも実朝期から北条執権政治は始まっており、一刀両断に分けられるものではない。

384日本@名無史さん2017/08/04(金) 07:05:12.75
>>383
例えるなら明治政府と江戸幕府を比較する時に、
廃藩置県前の一時期の明治政府と江戸幕府を比較して、
明治政府と江戸幕府の構造は似ていると言ってしまっているようなものだ

385日本@名無史さん2017/08/04(金) 07:27:02.11
>>383
ここで比較されているのは、
平氏政権と北条政権ではなく、
頼朝と清盛です。

386日本@名無史さん2017/08/04(金) 07:41:39.04
頼朝が作った鎌倉幕府の重臣たちはみな北条氏に殺され、
朝廷から正式に征夷大将軍に任命された1992年から、わずか25年ほどで源氏の将軍は絶滅し、
全国支配をするに至る前に終了しました。

清盛が全国を支配下に置き、国家的事業に取り組んだことに比べると、源氏が支配下に
おいたのは関東の狭い範囲のみでした。

鎌倉幕府は、源氏将軍の血が完全に絶えた後に、北条氏に乗っ取られた後、承久の乱を
経て全国支配の権限を得ていきます。

頼朝の子孫は全国支配など夢想することもないままに滅亡しました。
頼朝を慕い、共に東国支配の基盤を整えた有力御家人たちはほとんどが頼朝の死後間もなく殺されました。
母と叔父によって謀殺され滅亡した源氏将軍一族は、ただ悲劇の主人公にしかなり得ません。

387日本@名無史さん2017/08/04(金) 10:05:34.09
>>385
平氏政権を六波羅幕府と呼びたいなら、140年続いた鎌倉幕府全体と比較して論じるべき


同様に一代で終わった豊臣秀吉政権と江戸幕府の構造を比較する時にも、
家康の時期だけを抽出して、秀吉政権と比較しても限定的な理解となろう

388日本@名無史さん2017/09/19(火) 14:16:14.66
清盛はあの時代に生まれた突然変異の英雄だったとしても
残された縁類が家を残せなかったのは人物がいなかったというより
公家化したのが原因なんだろうなあ
同じ日本人でも今の時代の俺らが太平洋戦争までの
ご先祖さま達みたいに戦えるかって言ったら無理だろうしなあ

389日本@名無史さん2017/10/10(火) 05:02:54.95
にっぽん歴史鑑定とかいう超マイナーな似非歴史番組、なに足利直義の肖像画を頼朝の肖像画にして捏造してんだ??
もう直義に比定されてるのを知らないのか無能スタッフ
イラつくからすぐ切って録画消したわ

390日本@名無史さん2017/10/11(水) 19:19:27.19
>>383
鎌倉幕府は基本世襲だからな

平氏政権は世襲ではない
平清盛は太政大臣になれたが息子や孫は太政大臣になれなかった
この時点で「幕府」も何もない
平氏政権は清盛への後白河法皇の寵愛だけが頼りだった

391日本@名無史さん2017/10/11(水) 20:06:16.76
>>386
頼朝の時代には最果ての島津まで動員したんだが

392日本@名無史さん2017/10/12(木) 15:11:43.17
>>386
清盛が全国を支配下に置いたわけではない
後白河法皇というまぎれもない治天の君がいて
そのお友達として清盛がいただけ

実際、清盛が権力を持つためには天皇家と摂関家の乗っ取りしかなく
そのために娘を天皇家と摂関家に嫁がせ安徳天皇を得た
しかしそれも後白河法皇の気分次第
治天の君である後白河法皇にそっぽ向かれたら下り坂だった

393日本@名無史さん2018/01/30(火) 15:46:26.31
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394日本@名無史さん2018/07/12(木) 17:39:04.21
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