任那(日本府) 加羅 20
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>>529
石田は韃靼侵入以前のオホーツク文化人を広顔とは言ってなかったが。
ただし、広顔であっても全然問題ない。
形質は変わるのだ。
渡来一世の形質は分からない。
我々が知り得るのは弥生開始から400年以上経った弥生前期後半からの甕棺墓に
保護され、消失を免れた人骨からだ。
一世代30年として、渡来一世から13世代も後の人骨からだ。
弥生前期の甕棺墓の古い渡来人骨ほど広顔に近く、弥生後期の土井ヶ浜人骨に
なると華奢な細面になる。
渡来人が何波もあったのではない。
そんな痕跡どこにもない。
同じ縄文晩期の渡来人が経年変化で形質が変わっていっただけなのである。 古代の人類型の話で朝鮮系ってなんだよ? 歴史的に時系列たどれないだろ?
魏志東夷伝によれば
馬韓が箕氏朝鮮系なら遼東ツングース系
辰韓が秦遺民なら、中国全土からの調達が考えられる。
そのうえで、BC200〜200年であれば、その半島南部は倭人国だろ?
弥生渡来人に半島との国境が無くて、洛陽との交易有った事実で
この時期に到れば、渡来人っていう発想自体が無意味だ。
それ以前で、弥生系渡来人が稲作を伴って移民してきて繁殖した?
日本人は米喰いすぎてアホになったんですか? 米信仰かよ? 縄文晩期の渡来人は沿海州南岸からまず山陰に渡来して、
稲作はそれから50年以上経ってから、半島からパクってきただけなんだわ。
だから最古水田、菜畑遺跡の弥生人たちは朝鮮土器を全く作らなかった。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。
これが「稲作を持った弥生人が朝鮮南部から渡来した」だの、
「朝鮮南部から弥生人が渡来して稲作を伝えた」ように見えるなら、
全く考古学に向いてないから、今すぐ考古学をやめるべき。
稲作は沿海州南岸から渡来した縄文晩期の渡来人が渡来後に半島からパクってきただけ。
これが真相。 縄文土人が弥生土器文化に移行したから弥生人なわけで朝鮮土器作ったら朝鮮土人だw
で、沿海州弥生人が米つくりみたいなめんどくさい事始めた理由は何なの? 半島を訪れた弥生人が米の飯を食べてみて、美味いと思ったからパクってきたんだろうな。
弥生人たちは半島が先進文化や先進技術の先進地域だと認識していたようで、
半島の文化や技術をことごとくパクっているからな。
半島人の真似をする事が弥生人にとって、とてもイカシた事だったのではないか? 稲作ノウハウや農耕グッズも必要だな。
古代人なら豊穣を祈る祭祀ノウハウも必要。 弥生人たちは頻繁に半島を訪れていたようだから、その都度、知識や技術や
ノウハウがが蓄積されて最古水田は徐々に完成していった。
最古水田の弥生人は全く朝鮮土器を作っていない。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。
半島人が渡来定着して作ったものではありません。
弥生人自身の手で作られたもの。 徐々に完成ってw
一気に技術導入しなきゃできないだろ >>541
そりゃイネと農具くらいは一気に持ってきてるだろ。
最初の稲作はものすごく原始的なものだったに違いない。
最古水田が朝鮮半島人が作ったものなら、その生活痕たる朝鮮土器を作るはずだろ。
彼らは朝鮮土器を全然作ってませんので。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。
繰り返す。
最古水田の弥生人たちは朝鮮土器を全然作っていない。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。
これが半島人が渡来定着して作った遺構に見えるか? >>543
1万年前の最古の稲作はモノもなかった訳だが。
朝鮮よりも温暖なんだし、意外と簡単だったと思われ。 >>545
そもそも稲作がそんな複雑難解な栽培植物なら、日本全国に広まる訳がない。
おまえはただ単に半島人の渡来定着で伝えられた事にしたいチョンなだけw >>547
じゃあ何で朝鮮半島から渡来定着して最古水田菜畑に稲作を伝えた半島人たちは
搬入した朝鮮無文土器の壺を一基遺しただけで朝鮮土器を一つも作らなかったの? >>533
韃靼侵入たぁ、具体的にどの韃靼か銘記せにゃあ。現実にオホーツク文化人が広顔で
あることは、石田肇氏が人骨挙げとられるじゃなぁか。
旧石器捏造応援の前例がある歴博の弥生期の起源を早める片棒担いどるんか?
古い甕棺にも広顔系がおったんなら例挙げてみんさいや。
弥生期どころか古墳期は特に西日本じゃ形質が急激に変ったし、我が広島県でも
弥生期は縄文形質が圧倒的に多かったが、古墳期から高顔の渡来形質が急増で、
世界的民族移動の世界史の普遍から逸脱しとらんし、おどれらカルト鎖国史観の
歴史修正主義が狂うとるんよ。 >>534
>>417-419のよう日本に古代の歴史は無ぁし、朝鮮人は半島部新羅統一から朝鮮民族、
日本は記紀の書かれた奈良期に西日本においては日本民族が成立するけど、東日本の
甲信越、関東なら平安初期、東北なら平安中後期と民族の形成期は地域に差があるよ。
箕氏朝鮮なんか存在が確認されとらん伝説じゃし、衛満朝鮮から史記列伝で牧畜と
漁業が盛んじゃった燕の文化、考古学的にゃ漁撈や狩猟と共に農耕、牧畜と多産な
営みの遼寧文化圏が半島へ影響を与えたわけで牧畜の牛に付けるベルが日本の
弥生にゃ銅鐸に成るんじゃが。馬韓は、獰猛でも降伏した敵にゃ寛容な習俗を持って
おったが、支石墓から遼寧の影響が強いわけじゃし、北方影響もあるが、農耕比重が
強い縄文形質が多かったろう。辰韓は、楽浪を同胞としたことや、元来チベット系
牧畜民系の秦に似た言語と書かれとるし、遼寧青銅文化の影響も強いし、
任那伽耶地方の弁韓も後に侵攻征服した北方木槨墓人が壊すまでは、楽浪式じゃった
し、遼寧文化の混じった漢文化の影響は強かった。これら韓の沿岸部の住民は倭人と
呼ばれたし、半島東北のワイ族も、中国語で倭と同音で、作家の松本清張氏が、
濊は中国語でwei倭もweiと関連があり、 濊の一部族、邪頭昧族を出雲の枕詞
「やつめさす」、それが故国の名前を 持って来てヤツメ・イズモではないかと
されたが。
じゃが、世界的北方民族南下で、百済も扶余系自称の高句麗文化支配層の国に
成ったし、新羅も辰韓と習俗が違うに成ったことを北朝から疑われたんも当然で、
遊牧民スキタイ式の積石木槨墓人が支配層の非中国的で西アジア的な黄金文化の国に
成ったし、任那伽耶も支配層が北方木槨で、これらの支配層が古墳期に大量移住して
来るわけで、蘇我氏のピラミッド式高句麗様式古墳も、高句麗系か高句麗系の百済人
じゃった可能性が強いわけで、百済が滅ぶ前からも大量の渡来系ゆえ、近畿や山陽は
渡来系そのものの体質に成ったとも云えよう。稲作じゃの日本でも主要産業じゃ
無ぁし、日本人の農耕主食は麦じゃったけぇのう。 >>537
米は温度差が激しい朝鮮の方が美味しいし、北大路魯山人氏も李朝に献上した米を
最上とされとるのう。まあ、朝鮮でも北朝鮮から満州の米が一番美味しい。逆に
不味いのが米産地の中国の江南の米ゆえ、炒めて食うたほうがええ。
日本でも気温の高低差が激しい地域の米が美味いし、我が広島県でも山地豪雪地帯の
県北の米が美味しい。じゃが渡来系弥生人は平野部で米作りよったけぇ
不味かったろうのう(笑)。 へー、そーなんだ。すごいね!
>日本に古代の歴史は無ぁし、朝鮮人は半島部新羅統一から朝鮮民族、
>日本は記紀の書かれた奈良期に西日本においては日本民族が成立する
まで読んだだけで、頓珍漢すぎて感動した。
米の話は酷過ぎw >>550
じゃあ縄文晩期の渡来一世の人骨を見せてくれないか?
あんた、形質が半永久的なものと勘違いしてるだろ。
形質が半永久的なものなら、今も世界中の人々がコイサン人と変わらない形質のはずだろ。
我々が知り得るのは縄文晩期から500年以上経った弥生前期後半の甕棺墓時代に
なって甕棺墓に保護された渡来一世から16世代以降の、渡来一世とはかなり形質が
変わってしまった渡来人骨だぞ。
吉野ヶ里、金隈あたりの初期の甕棺墓の人骨の頭骸ほど簡単に言うとゴツくて、
あまりシャープな頭骸じゃないんだよ。
ところが、弥生後期の土井ヶ浜人骨になると華奢で狭顔のシャープな頭骸になってくる。
両者間の時間差は3〜400年間くらい。
3〜400年でこんなにも頭骸は変わってしまうんだよ。
吉野ヶ里、金隈から土井ヶ浜までの経年変化から縄文晩期の渡来一世の人骨を
シミュレートすると渡来一世が広顔であっても何ら不思議ではないんだよ。 >>551
百済、高句麗が滅んで、大量の亡命帰化のときでさえ、全部合わせても朝鮮帰化人は
1万人くらい。
それ以前の帰化する必要のない時代の朝鮮帰化人の総数は、卑弥呼時代から秦氏を経て
白村江までせいぜい数千人規模だろう。
トータルでも2万人行くか行かないか。
日本人口がすでに300〜500万人くらいの時代。
比率にして1%にも満たない規模だぞ。
日本人種にそれほど大きな人種的影響を及ぼしたとは考えにくい。 『サカキバラ事件』?
宣伝でもしているんだろう、
と言っている人がいたけど、なぜだと思う
もれ(仮)も、そう思っていたんだけど
被害者、土師氏? 『ザ・モモタロウ』という作品、
『ドラクエ』・・・その他 「むこうにカメがいるよ」
浦島太郎?小学校の頃、演じたことがあるんだけど、ウラシマの役。
『松傾』 詳しいことは、わからないけど
そうか、そうか
と言っている人がいたり
冤罪事件? スレの本論に戻っても良いかと思うが
倭人伝の謎、投馬国 というのは半島南岸のほぼ全部で5万戸だろ?
つまり、半島南岸には邪馬台国に属する狗邪韓國以外の半島南岸倭人が5万戸ある。
九州北岸の宗像北九州が卑弥呼の九州北部連合に属していたと言えるか?
九州北部連合の邪馬台国は弱小であり半島南岸の倭国は案外でかい。
邪馬台国当時に大和朝廷勢力=宗像出雲の日本海海神族は半島に進出していた。
って、ことじゃないのか? >>561
771日本@名無史さん2018/01/16(火) 21:22:05.33
北部九州にあったとされる邪馬壹國は
南にあった邪馬台国の属国扱いされてたんでしょ
魏志倭人伝に記録されてある記述よると
「邪馬台国より以北には,特に一大率を置き,諸国を検察せしむ。」
邪馬台国より北方の国々を検察する為に
北方の国々に派遣され部署も存在し官人も駐留してたぐらいだから
卑弥呼を中心に倭人の邪馬台国はある程度の官僚制度が整っていたのがわかる >>561
出雲勢力は朝鮮半島南部の資源なり鉄器を大規模に入手していたんだっけ? >>562
魏の帯方郡は邪馬台国を冊封し、各国に官を置いた。
女王国の北に特に一大卒を置いて輸出入や入国管理を行い自由貿易を制限した。
これは、帯方郡使の言い回しであり、郡使の利権独占行使の証拠と考える。
引きこもりの卑弥呼にはそんな政治的外交統治センスは無いんじゃね〜のwww 帯方郡使は卑弥呼連合の各国に官を置いた。
統治能力、外交センスのない国に何をしに来たか?
不平等条約だろwww
アホでもわかるだろ?
考古学とか歴史学者って世間知らんの? 郡使が各国に官を置いたならそう書くだろ
どうみても和名の官が置かれていた
イコール
倭国が女王のもとに統一されていたのが
そんなに悔しいか?
日本人じゃない人にとっては?w 官有 の主語は大和朝廷か?
なら、主体の朝廷の存在が出てくる。
ここでは、官 は魏または帯方郡に雇われた 官 である。
官 自身が倭人なら、役目は案内かスパイか通訳か理解できないかも知らん。
これを置くことで魏が倭を冊封したことになる。
無能な魏使は仕事をしに来たwww >>567
はい、日本人じゃない人が破綻しましたw 倭人伝における官有の国は基本的に魏の属国である。
そういう国は畿内には無い。 >>569
いかにも九州説のふりをして
実は日本独自の古代政権を否定しようとする
日本人じゃない人のこざかしい努力 >>553
具体的反論無しの揶揄はネトウヨの嘘こきトンデモの真似そのものじゃなぁか。
>>554-555
縄文晩期に渡来系新モンゴロイド人骨自体無ぁし。金隈は土井ヶ浜以上に古墳期や
現代日本人に近い狭顔形質じゃが。
人口論は他板過去スレでも、歴博が今よりましじゃった昭和期の小山修三氏の見解ものう。
165 : 白馬青牛 ◆xl7k5goxM379 2011/09/04(日) 00:32:32 ID:iyhAGE8+
大量渡来説でも、マッケビディ&ジョーンズの年平均0,04%とすると、 更に大量渡来
じゃし、0,1%以下じゃ無い限り、幸せ回路の数値じゃろう。 それを人口増加の高い
数値を出して、「0,1%程度」じゃの田中良之氏の 学者としての良心のかけらも無い
云うことじゃが、中橋考博氏の近代 人口増加モデルを古代に使うレトリックの
援護工作じゃけぇつまらんよ。
埴原和郎氏は、年人口増加率を考えられん数値の0,2%の数値すら出しておられるんに、
中橋氏らは、都合の悪い数値は一切出さずレトリック工作するけぇ恥を晒しよるのう。
166 : 白馬青牛 ◆xl7k5goxM379 2011/09/04(日) 01:11:37 ID:iyhAGE8+
東アジア一帯の例として漢末〜三国時代の6000万〜600万への激減は
文献資料じゃけぇ、実際10分の1まで減って無いにしても、人口が
半数以下に激減は充分考えられる。そのことは、日本列島でも
倭国大乱の同時代現象で弥生後期も人口の半数は激減したろう。
ここの倭国大乱の戦死者数による減少は少な過ぎる。
白馬青牛 ◆xl7k5goxM379 2011/09/04(日) 23:54:49 ID:iyhAGE8+
小山修三氏は、奈良期は540万とも云う。弥生期の減少を含んでおらん
数値で問題があるが、約60万から奈良期の約540万ほど奈良期〜江戸期の
人口増加は伸びとらんよ。日本における人口増加は民族大移動期の
古墳期と近代明治以降になってからじゃ。 >>554-555
小山修三氏は、日本の人口で古墳期が約540万人、弥生期が約60万人、縄文晩期が
約7万6千人、縄文後期が約16万人、縄文中期が約26万人で、縄文晩期は
人口減少じゃし、渡来要素も乏しい。弥生後期の世界的人口減少を小山氏はデータに
入れておられん問題もあるが、本土日本人の半数以上は古墳期以降の渡来に間違えは
無あし、近畿や山陽じゃほとんどよのう。日本の東日本や、西日本でも外側の
日本海側や太平洋側は、古い縄文や弥生残存もあるけど、古墳期の大量移住が
全体じゃ圧倒的じゃし、世界の民族移動期現象の普遍からも逸脱しとらんよ。
ほいから、記紀以降の帰化も近江以東関東じゃし、関東の武蔵の高句麗人に
約二千移住のように人数が書かれとるもんがあるが、信濃の高句麗人は
五部族揃いでも移住数が書かれてとらんが信濃の高句麗式積石塚の分布から
関東の何倍の移住者も推測出来るし、エラまの張った縄文残存の信州でもそうじゃし、
畿内や西日本は把握出来んほどの渡来移住者が多かったんは必然で、現代近畿、山陽の
容貌からも明かじゃけぇのう。たった2万じゃの縄文度の強い東日本でもあり得んよ。 >>561->>569
人口は遺跡数からの分析で、文献の数えてもおらん常用句たぁ違うわけじゃし。
まあ、距離なんかもデタラメよのう。遠いか近いかのアバウトじゃし。
邪馬台国は漢の属国ゆえ、生口(奴隷献上)じゃし、楽浪に逆らう馬韓の方が
不屈の精神じゃったよ。
今の日本の安倍政権も米国宗主国様々じゃが、弥生期の属国奴隷根性継承しとるのう。
列島の倭に統一が無ぁけぇ、中国史書じゃ列島の倭の村落数をようけ書いとんよ。
古墳期の隋書ですら阿蘇山の記述はあっても、畿内の難波や飛鳥の記述は無ぁけぇ、
倭は九州までよのう。旧新唐書でも、倭と畿内王権の日本は区別しとるし、
日本の記紀じゃ、筑紫を磐井の乱から新羅隷下の敵国扱いから、畿内王権と九州は
反目関係と云えよう。筑紫や吉備、出雲も君姓で畿内王権の天皇家と同格扱いの
時代じゃし、東国は直姓が多く畿内王権の天皇の直属隷属の権威を利用したけぇのう。 >>563
九州と無縁の青銅器と鉄がどのルートで出雲に入ったか?
投馬国=4千里四方の三韓に接する、
半島南岸の倭人諸国が、5万戸であれば、成立する。
これらは不属女王国である。 >>571
縄文晩期に人骨を護る支石墓や甕棺墓があるのかよカス。
ぜんぶ酸性土に溶けて消失してしまった。
土井ヶ浜人骨が甕棺墓でないのに奇跡的に遺れたのは海岸の砂浜の貝カルシウムに
護られたからだ。
縄文晩期に山陰に現れて西日本中を乗っ取ってしまった弥生開始土器を考えても、
弥生早期の新町遺跡の支石墓から出土した北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が
形質上の日本最古の渡来人の痕跡である事を考えても、渡来人が縄文晩期に
やって来たと考えざるを得ない。 >>572
もう気の触れた基地外の投稿だな。
古墳期の人口が540万人いて、本土日本人の半数以上が古墳期以降の渡来なら、
300万人くらい古墳期に渡来した事になるではないか。
馬鹿馬鹿しい。
2兆%あり得ないね。
300万人も渡来したなら、もうそこかしこから韓式土器が出まくるではないか。
それに古墳期に300万人も渡来しといてだ、何で百済と高句麗の滅亡時は
1万人なんだよカス。
だいたい300万人も日本に行ってしまったなら、半島から人がいなくなってしまう
ではないか。
半島側にそうした記録も報告もないじゃないか。
脳にウジが湧いているとしか思えんな。
卑弥呼時代から百済・高句麗滅亡までの朝鮮帰化人のトータルは
2万人行くか行かないかが妥当な数字。 >>575
朝鮮半島東岸から出雲や越の国まで船で来ることはできたはずだが。
当時の航海技術でも。 >>572
300〜400年の甲斐信濃の高句麗人は
朝廷の勅営御牧に連れてこられた軍事管理された牧童であって遺民とは違う。
高句麗墳墓と同時に軍事担当の大伴氏など管理者の前方後円墳を伴うのが特徴。
百済、新羅の建国や高句麗との戦争と同時期の牛馬の移入が
大和朝廷によって成されたことの痕跡であって
この時までに、邪馬台国当時の九州王朝が東遷してる暇など無いことを物語る。
武蔵の高麗は戸籍管理されたこれら分散した高句麗人を一定地域に集めたのであり
強制連行に近く勝手に移民してきた渡来人という種類の遺民ではない。
どういう教育を受けるとそんな頓珍漢な歴史認識になるんだ?
もはや、感動したよwww >>575
距離何千里じゃの人口万戸なんか、遠いか近いか、人が多いか少ないかの中国文献、
白髪三千丈にも通じる常用句で、列島の倭の戸帳なんか無ぁわけじゃし、調べようが
無ぁけぇのう。邪馬台国も生口(奴隷)献上の憐れな属国よ。
>>576
甕棺も支石墓もわしゃ弥生期じゃ云うとるし、土器厨が縄文晩期渡来トンデモ唱えよる
だけじゃし。新町遺跡は他スレでも縄文人骨と指摘しとるし、人骨からも明かじゃ
なぁか。
>>577
わしゃ、>>571-572の小山氏と違い、中国の黄巾の乱以降の人口減少同時代現象と
して、同時代の弥生期の倭国大乱から人口減少から、弥生期の60万は半数の30万以下に
減ったと考えるし、古墳期からの渡来系は400万以上は見積もれるけどのう。
半島の方は戦乱で兵力に靺鞨や北朝胡族系が多かったように、それらが日本列島へ
渡来し、東漢氏の古墳とされる新沢千塚から鮮卑文化が認められるよう半島からだけ
云う思い込み概念が既に狂うとるよ。しかも、朝鮮半島の戸帳の記録すら中国史書でも
確認しとらんのに、われが勝手に判断たぁ、脳にウジが湧いとるのう(笑)。 >>577
戸帳、戸籍じゃが、トンデモネトウヨ寄りの岡田英弘氏が中国の戸籍を額面通り
受けとられ、後漢の5千万から黄巾の乱から半世紀で戸口450万以下として三国時代は
10分の1以下に激変し、事実上漢族の絶滅とまで云うとられる。
北方から侵入したトルコ系モンゴル系ツングース系、チベット系の「五胡」移住の
北朝を新しい漢族からの人口増加で唐代は4千万台の人口で、元・明朝になると
6千万台とされる。
まあ、城郭都市や農村から避難した流民の戸口に調査されん人らがおるけぇ大袈裟
過ぎるが「白骨が草木の下に散らばる」黄巾の乱以降の人口減少は否定出来んし、
岡田氏も誇張は兎も角半数以下に減ったろう。
日本列島なら、家畜免疫の無ぁ縄文系や豚飼育はしても牛に免疫が無ぁ弥生渡来系も
疫病で人口減は中国よりも深刻で弥生晩期から古墳前期は日本列島の人口は少なくとも
半数以下に減少し、絶滅に近い中、古墳渡来系と混血した人間のみ生き延びた状況に
なったろうのう。 >>577
ほいから、縄文派江南派のネトウヨ寄りの国粋主義の安田喜憲氏も牛型結核菌の疫病で
人口が半数以下に減少したことを指摘されとるのう。
http://akatonbo-jo.cocolog-nifty.com/jo/2004/07/post.html
「・麦作・牧畜文明は崇神天皇から大和で始まる。ここで、崇神天皇5年に結核病
(牛から)が大陸からもたらされ、半数の国民が死ぬ。その後、天然痘。
インフルエンザ、ジフテリア等の北方民族の疫病が古墳時代に始まる。」
まあ、国粋主義の安田氏の和魂洋才じゃの長江南方誘致なんはトンデモじゃが、
気候変動からの地理歴史学のローマや漢の古代文明の崩壊から北方民族南下征服に
よる中世の始まりの普遍性だけは認識されとってじゃのう。 >>578
出雲は高句麗らの新渡来人と共に越(古志)侵攻で糸魚川の翡翠を奪い新羅へ転売
したけぇのう。
>>579
信濃の高句麗人や甲斐の百済人が帰化申請したんは平安初期じゃし、それまで
独立勢力で、ましてや大伴氏や畿内政権とも関連性が薄過ぎるんよ。
大和朝廷じゃの統一概念が西日本にも無かったし、東日本でも関東以外乏しい時代で。
信濃の高句麗人らが部族名で生活しとる時点で小高句麗国じゃし。
武蔵の高句麗王族は信濃の積石塚の古い移住と違い亡命者ゆえ、関東の高句麗移民への
協力による軍制組織じゃし、高麗朝臣福信のように、従三位云う畿内中央上層貴族
にも成れたわけで。 >>580
もはや脳など無く、頭にウジしか詰まってないようだな。
だから記憶力がないんだろ。
新町遺跡からの出土人骨は縄文人骨だけじゃなく、北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨も
出土していると何回も言ってるだろ。
もうこれで3回目だぞ。
ここまで記憶力が悪いという事は、あんた大卒じゃないよな。
それに弥生人が縄文晩期に渡来したというのは定説じゃないか。
トンデモはあんただよ、あんた。 >>580
古墳期からの渡来人が400万人以上って、400万人も渡来定着した痕跡遺構が
どこにあるんだよ?
それが事実なら、古墳期の遺構は生活土器レベルで韓式土器がわんさか出土する
韓式土器遺構が大半のはずじゃないか。
百済・高句麗滅亡時に大量発生した亡命帰化人でも1万人行かないんだぜ。
馬鹿馬鹿しい。
2兆%ない。
卑弥呼時代から百済・高句麗滅亡までの朝鮮帰化人のトータルは
せいぜい1万5千人行くか行かないかだろう。 他のスレの話になるけど、
倭猿、倭猿、言っている人がいたでしょ
『倭猿』 日本にいる右翼?皇国何やら〜・・・不明、
何だか知らないけど、ほとんど、騙り、成り済ましだと思う
もれ(仮)が「関係ない」「知らない」と言っているんだから、
そうじゃない? 『311 被災地』
こういうのも、そうだと思う
とあるスレを読んでみると、
誰々って川崎に住んでいるんでしょ
と言っている人がいたり 例えば『神倭』『倭健』
というのは何なの、
漫画に出てくるキャラクター? 弥生から古墳期にそんな大量の渡来人が来たとして、
日本語が滅亡してないのは何故なんだ?
我々が使っているやまとことばは、古代朝鮮半島語なのか?
大和朝廷は日本語で百済や高句麗と外交してたのか?
沖縄首里方言と日本語の類縁関係をどう説明するんだ?
まさか、古代百済大帝国が東シナ海沿岸を支配していて、日本人はその生き残りなのか?
今朝鮮半島にいる輩は、我々の先祖を追い出した蒙古や満州や鮮卑なのか? >>591
稲作を伴って弥生土器文化で渡来した弥生渡来人の事なら古墳期に来たんじゃ手遅れです。
時系列も無視して頓珍漢な歴史認識を押し付けて議論を意味不明にするのは半島系の常套手段です。
卑弥呼系みたいな弥生渡来人が配流されて未開の半島南部の開拓に行ってるとかw
国策死刑で話になんないんだけど、ネラー的には、どうすんだよ?
白馬鹿牛はど〜でもええがのw >>592
稲作を伴っていません。
稲作は弥生開始土器の登場よりも50年以上あとなんです。
つまり稲作は渡来して50年以上経ってから半島南部からパクってきただけなんです。
それが証拠に最古水田・菜畑の弥生人たちは朝鮮土器を全く作っていません。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。
この人たちが半島から渡来した人たちに見えますか?
彼らは縄文晩期に沿海州南岸から朝鮮半島経由せずに山陰に渡来定着して
前池式刻目突帯文土器をもたらした謎の北方系の人々。
この人たちの形質が日本全国に拡散しただけなんです。 >>593
水稲だったら水田遺構など残るけど
陸稲だったら実質なんの痕跡も残らないから
陸稲を伴ったと考えてもいいんじゃないの?
その後で水稲を半島南部から導入 なら、縄文土器作家が弥生系土器の流行を取り入れた理由は何だと思いますか?
船もろくにない時代に渡来人で人間が入れ替わる?
ろくなメディアもないのにおフランスや外国製トレンド?
はっきり言うと稲作で貯蔵以前から豆でも木の実でも壺は要ると思いますが
弥生渡来人に稲作が普及したことが結びつくという日本人の米好きには呆れます。
昭和でも貧乏人は粟稗や大根飯、麦を食え馬良いだけのことなのに。 取り入れてない
世界の歴史は農耕民族が狩猟採集民族を追いやる歴史
農耕民族は食料を安定生産して人口が増えていく
農耕民族は食料を長期保管できるから官吏や兵士を養って国力が増えていく
結果、人口増加率や軍事力の差で、農耕民族が狩猟採集民族を追いやっていく >>594
陸稲でも農具や稲籾、籾殻、炭化米などのイネの現物の出土といった痕跡遺構が
遺るはずだろ。
菜畑遺跡より前の農具やイネの現物が出土した痕跡遺構はありません。 >>595
一番最初の弥生土器、前池式刻目突帯文土器には壺も高坏もありませんでした。
この事からも彼らが朝鮮半島から渡来した人たちではない事が分かります。
壺や高坏は稲作をパクって少し経ってから、同じく半島からパクった事が
山ノ寺式刻目突帯文土器の出土層から分かります。 縄文土器の特質は祭祀的デザインかと思います。
集落で共有して原始共産制社会で数日で腐る食物も共有した。
採集や狩猟では自家消費できないもの、集落の縄張りで共有する木の実等が主食。
弥生土器は集落の共産制の意味が薄れた何かが有った時代への変化かと考えられます。
支配階級で米が通貨価値を持ち開墾荘園労働者が発生する以前で
弥生土器への変化が有った?
まあ、作者は売れるものを作る。
渡来人が持ってきたのは通貨、か これに伴う市場。 単にこれか?
古代商人は多分、黒曜石、翡翠の出雲だぞ。 >>598
遠賀川式土器は弥生開始から200年以上経った弥生前期以降の土器だぞ。
縄文晩期→弥生早期→弥生前期→弥生中期→弥生後期
勉強が全然足りない。
もっと勉強しろ。 >>602
つまり渡来人あるいは現地人でもいいが
による東方波及は
何度も繰り返して波状的に起こったわけですな 縄文〜弥生、土器の変化に日本全土である程度の同時代性をもって必然性があった。
稲作と人間の変化を伴う必要があるか?
人類学的DNA研究は進行中のようだが期待できると思う。
全く頓珍漢なのは骨格の形質や渡来経路の推測で半島が日本に文明を教えた説だろ?
日本人は百済や新羅を開拓した古代韓にちなんで、大韓帝国を建国しちゃったから
歴史認識を改めなければならないw んだけど
そんなことで、歴史を直視できんのかよwww 半島は先進文化や先進技術をパクっただけの場所。
渡来人の故郷ではありません。
渡来人の故郷は沿海州南部ですよ。 渡来人ってのは弥生渡来人に限定しないでも
百済や新羅の皇太子も人質渡来人だし、高句麗牧童も強制連行たし
半島開拓に行ったのは日本で暮らせた縄文人じゃない
沿海州から意味不明に来た弥生渡来人だし
でも、渡来人の卑弥呼は半島系じゃね?
現代で半島系渡来ナマポ60万人とかだろw
なら、俺も弥生系だしw とかなwww >>584
新町遺跡の人骨挙げてみんさいや。縄文形質じゃ解るけぇ。われも言い訳渡来人骨
繰り返しよるのう。
>>585
百済の亡命先は突厥(トルコ系)まであったけど、日本へ亡命した数は南下移住の多さから
相当数じゃろう。ほいから、古墳期の日本は朝鮮半島からの遺跡ばっかしで、
朝鮮系の須恵器の生活ぶつから墓制、副葬品までのう。
>>591
高句麗語は数詞からも今の朝鮮語よりも、上代日本語に近い。大和朝廷が高句麗や百済との
外交事実は確認出来んし、大和朝廷自体が西日本を統一しとった根拠すら無ぁわけじゃし。
琉球語は15世紀以前の言語記録が無ぁけぇ日本語化の時代くグスク期と推定以外の根拠も
無ぁけど、琉球語は日本語と違うて中国江南訛りで、元々言語が違うとった可能性は強い
けぇのう。日本語は朝鮮語訛り抑揚か北朝鮮や満州に残っとるズーズー弁じゃし。 >>591
橋本萬太郎氏「言語の方からみたらーとくに発音の組織の面に限っていうと、沖縄の
ことばは、日本語じゃありませんね。しかも、その特徴は全部、大陸の、なかでも
沖縄と相むかいになった長江(揚子江)下流域の言語だけと共有しているわけ
なんですよ。今までの言語学に、こうした事態をちゃんと扱える視点がなかった。
だから、問題にしませんでしたね。しかし、こういうことをいうと、あえて
沖縄県というけれども、沖縄県の人から反感を買いそうですね。つまり、無理に
大和民族にされちゃった人たちは、大和民族と思っていますよ。これだけ
人権思想が普及した現代では、少数民族を形成した方が、沖縄の人びとの権利が、
よほど守られる可能性があることを、考えてみてもいいと思う。
戴さんとは、よく意見が合ってしまうな。」
こういう展開になると、国家嫌中の文化親中のネトウヨ派岡田英弘氏は口を
はさめんね。 ほいじゃが、岡田英弘氏言語アドバイザーの橋本萬太郎氏の「沖縄の
琉球語は、江南の漢語発音」は、昭和期の日琉同祖論盛り上がりに採り上げられん
空気が学会にあったけぇのう。本土日本語は朝鮮訛り北方言語じゃが、沖縄な
江南訛りの南方言語系統が元来の言語と思われる。
イタリア南部移民が多かったアルゼンチンがナポリ訛りのスペイン語と揶揄される
ようにのう。 沖縄県に自治権拡大なんか認めたら、在日米軍は成り立たないよ。 >>592
嫌韓のカルト宗教政治論こそ学術に無関係でしかもトンデモ歴史修正主義唱えて
どうすんなら?
稲作じゃの記紀ですら五穀の一つに過ぎんのに稲作強調の「慕夏主義」の朱子学の総本山の
江南稲作に近づけたい意図が日本のカルト国粋主義者にゃ強いけぇのう。
>>594
陸稲の原始的半栽培なら日本の縄文期でも出来たわけで、江戸期の猟師も、猪追うた
山に稲の種を捲いて自然に出来たもんを採りに行く伝統も永かったよ。
>>595
日本人の多くが米を主食と出来たんは、昭和の戦後の高度成長期で、わしとも血の繋がりがある
池田元首相が「貧乏人は麦を食え」云う問題発言に成ったんじゃが、池田の地元の主食は
芋と麦じゃし、米は酒造りの加工品にするけぇ、裕福な家のもんしか食えなんだんよ。
元来、広島県は味噌も西日本の麦味噌文化圏でお菓子の煎餅も麦じゃったけぇ、
わしが子供の頃は東京の米煎餅が珍しかったけぇのう。今でもお菓子の麦系は西日本、
米系は東日本が多いいし、西日本人はさほど米に愛着が無ぁよ。
広島人ならお好み焼きに今の季節の鍋物でも締めは鍋汁に麦の麺類で、
東日本の米雑炊云う文化は無ぁし、米じゃの週に2〜3回くらいしか食わんよ。 >>596
世界の歴史なら半農の牧畜民か都市、農耕民族を征服繰り返しが歴史の普遍じゃし。
東南アジアのローカル形態をわれは云うとるのう。
東南アジアはポリス的港市が交易の富で焼き畑狩猟の山の民を収奪や奴隷化する
形態じゃが、ユーラシアの古代文明と周辺じゃ半農牧畜で狩猟や漁撈の多角的営みの
山の民が平地定住農耕民を征服支配する形態じゃし、日本もその一つじゃったんよ。
>>601
縄文期から翡翠は糸魚川の古志よ。出雲は北陸の古志を征服し、強制拉致した連中を
出雲の古志郷に集めて生産され新羅に転売したわけじゃが。
>>606
日本書紀じゃの三国史記同様史実にじゃ無ぁ神話物語じゃし、根拠にならんわ。
しかも信濃の積石塚築いた高句麗移民も、高句麗が積石塚時代の5世紀の移住と
考えられとるし、平壌時代からの高句麗の盛土塚じゃ無ぁわけじゃし。
>>609
沖縄は明治以降の統治植民地じゃけぇ、世界から見たら日本は台湾や朝鮮を敗戦で
失うても、沖縄執着の帝国主義の時代錯誤と見られとるわけじゃし、国連が沖縄を
少数民族としての見解じゃし、アメリカも日本へ管理させた方が反米矛先が日本へ
行く方が得じゃけぇのう。まあ、海洋利権なら日本も沖縄も排除で米中で利権を
分け合うわけじゃし。 無用の長物というか無能の長文対策で歴史板ではあぼ〜んブラウザを復活させました。
名無史なので失礼は発生しないと思いますが、ご報告。 >>607
「 新町遺跡は既に混血人骨 日本の古代史 」で検索すればすぐに出るだろ。
もうこれで4回目だぞ。
かなり痴呆が進んでるぞボケ爺さん。 >>607
須恵器を伝えたのは4C後半に帰化した秦氏で、加羅〜新羅系土器であって、
百済系土器ではない。
つまり、秦氏を構成していた半島人の主力は加羅〜新羅人であって、百済人ではない。
初期の須恵器は新羅の陶質土器と区別が付かないほどよく似ている。
しかし、徐々に似なくなっていくのは、秦氏から須恵器の焼成技術を吸収した
倭人の手で焼成されていたからである。
それに須恵器は盛り付け用の高坏や貯蔵用の壺や甕に使われた硬質土器で、
煮炊き用の土器ではない。
煮炊き用には軟質の韓式土器が使われた。
ところが韓式土器は須恵器と比べると非常に少ない事が分かる。
土師器があったため、倭人には吸収されなかったのである。
百済・高句麗滅亡以前の朝鮮帰化人の数は須恵器よりも
韓式土器を見た方がより実態に近いだろう。 それにしても
河伯の話をしている人がいるけど、
あのキュウリの葉の写っている写真の事を言っているのかな
家の写真なんだけど『王』?そのような話 漢字、漢文・・・博士・・・、
そういう話とか
あの写真「すがの」という家 他のスレに貼り付けた、
白い服の写真があったでしょ、
あれもそう
家は「すがの」だよ、と言っている、
むかーし住んでいた家に、本や書が・・・ この掲示板の話ではない、
他のサイト?いろいろなところ
そこで言っている人がいない? むかーし住んでいたところ?
詳しいことは、わからないけど、
城に通っていたような事も言っていた 読んでいると
聖化 日神・・・このような話ばかり出てくる、
天帝が何やらとか 有名人なのかな?
としか思えないんだけど、あの写真・・・・ >>613-614
新町遺跡9号墓人骨検出状況[志摩町教育委員会(1987)『新町遺跡』より
改変して引用]大陸や半島と同様な埋葬方法であることから、被葬者も、恐らく
渡来系(弥生系)の形質を持っているだろうと予想されていました。ところが、この
熟年男性と推定された9号墓出土人骨は、予想に反して頭は前後に長く(長頭)・
顔面部は低顔性・低眼窩・鼻根部の陥凹という、在来系(縄文系)の形質を持って
いたのです。男性3体の身長は、平均で157.1cmと低く、この点でも在来系の特徴を
示していました。]
われが渡来系に捏造も無理なんよ。
秦氏が4世紀渡来の根拠なんかトンデモ神話の記紀でしか無ぁけどのう。
秦氏がツングースのハラ氏族制から、加羅や新羅の先住土着の韓系や倭系の可能性は
少なあし、秦氏は聖武天皇の騎馬護衛軍団でもあることから、北朝胡族やツングースの
多種族の混合氏族要素が強い。
今の日本人のお椀も煮炊き用にゃ出来ん生活用具じゃに、可笑しげな注釈付けても
つまらんわ。
>>615
河伯は比較神話学類型の文化人類学材料にゃ成るよ。 >>622
だからそれは間違いだっつ一の。
新町遺跡は80年代までは縄文人骨しかないと思われていたが、90年代に入ると
渡来人的な形質の人骨もある事が分かり、混血人骨もあると訂正された。
その文献は80年代の間違っていた時代に書かれたものだろ。
俺が前に出してやった文献は90年代の訂正後のものだぞ。
捏造も糞もない。
単なる考古学的事実である。
90年代の訂正後の文献を読んで、己の間違いを訂正しろよ。
30年前で頭が止まっている痴呆老人の方。 >>623
じゃけぇ、新しい新町遺跡の人骨とやらを画像で挙げてみんさい云うとんで。
何時までホラッチョ繰り返すんかいのう。 任那政府は東海の島・九州を植民地にしてたのではないかな
植民地の総督が九州から徐々に勢力を拡大し、奈良盆地制圧 >>624
法螺吹きは現在では間違ってるあんたの方なんだよ。
骨が見たきゃ自分で探せ。
間違ってるものは間違ってるんだ。
新町遺跡は混血人骨も出土しているが正しい。 >>625
北陸基盤の継体王朝なんか、加羅政権じゃろう。
http://info.pref.fukui.jp/keitaidaio/mound/index.html
「二本松山古墳からは鍍金冠(ときんかん)、鍍銀冠(とぎんかん)が発掘されている。
日本列島の冠の出土例としても非常に古いもので、朝鮮半島の伽耶(かや)のものと
類似している。この頃、越の各地域に伽耶系の遺物がみられ、大陸との盛んな
交流が窺える。」
角鹿(敦賀)と地名に成ったよう、加羅の王子ツヌガアラシトの角形の冠よのう。
>>626
何、新町遺跡の画像挙げられん言い訳をわしん転嫁しよんない。わりゃ、早う
挙げえや。 >>627
>北陸基盤の継体王朝なんか・・??
お前の脳内に蔓延るガセ知識
もう少し勉強し直した方がいいな >>626
>継体王朝なんか、加羅政権じゃろう。
www
任那四県割譲で磐井の乱招いた大伴金村の傀儡天皇だろが。
このころから新羅の優勢は決まってはいたが、日本勢力は所詮バランサーだ。
朝貢の多寡で、百済新羅どっちにも動くうまうま豪族の天皇www
半島南部国家の半独立状態の終わりはこのころ見えた。 故・黒岩重吾氏は
「継体天皇の母か祖母は、新羅の王族か有力者ではないか」
と推測していたが。 >>629
>大伴金村の傀儡天皇
「仁義なき戦い」でも傀儡がいつの間にか実権を握るケースがあってだな。 漢四郡の撤退以降日本は百済、新羅の建国を支持、高句麗との戦いを支援した。
それ以前から、半島南岸は倭人定着地であり、任那、加羅を本地としたが、
百済新羅の建国にも倭人系移民は貢献したし、独立は成功した。
古代の大韓帝国である、百済、新羅建国は成功を収めたと言える。
500年はこれらが富国強兵に向かい日本軍産系豪族は投入資本の回収バブルである。
暗殺を恐れるプリンスたちが警戒する中、軍部系の豪族によって
利用しやすい継体天皇が立つたのは郡産系豪族が増長する原因となった。
王権が嫡子相続でなく豪族介入で兄弟、いとこの持ち回り、
古墳に生前王の資産を投じるというのは嫡子相続では無意味、そういうことである。
古墳の終わりと、大化の改新や、推古帝時代の聖徳太子の謎と同根である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています