江戸時代の譜代大名について語ろう

1日本@名無史さん2014/04/10(木) 17:03:29.75
        rー、
    」´ ̄`lー) \
    T¨L |_/⌒/ ←遠州浜松
     `レ ̄`ヽ〈
       |  i__1
     _ゝ_/ ノ
      L__jイ´_ )
        |  イ
         |  ノ--、           r'⌒ヽ_
        ゝ、___ノ二7  /´ ̄l、_,/}:\
         |ーi |   l_/ /__ィ::.  ゝ~_ィ´:; ,ゝ
        __〉 {      (T´ |1:::.  \_>、};;_」
       'ー‐┘       ! ` ̄''ァ一 、\ ヽ}  ←陸奥棚倉
               〈` ̄ ̄^`¬ノ .::〔 ̄´
                   1  ヽ   .:::レ  ヽ、
                |_イー-、_;;j|_:.   ゝ、
                __,,,... -- |. {―――‐フゝ、   〉 -- ...,,,__
        _,, -‐ ´       ,r|__ト,    1ニノ ー'´       ` ‐- ,,_
    , ‐ ´         └―'´                     `

457日本@名無史さん2017/02/08(水) 16:06:52.46
前例踏襲といえば、司馬遼太郎が大坂の陣で井伊と藤堂を先鋒の大将に据えたから
幕末も踏襲して云々とか書いてたな。

実際のところはどうなん?

458日本@名無史さん2017/02/08(水) 17:11:35.36
井伊と藤堂、だけじゃなく、陸軍奉行竹中や大目付滝川も逃げ出し、淀藩は城から味方を閉め出すとか、みんなダメな子

459日本@名無史さん2017/02/08(水) 17:47:52.65
>>458
みんな戦国時代に名を馳せた武将の末裔なのがなんともw

460日本@名無史さん2017/02/08(水) 18:12:38.04
淀や館山の稲葉は譜代なのに、なんで臼杵の稲葉だけ外様なの?

461日本@名無史さん2017/02/08(水) 18:20:45.49
wiki見なはれw

462日本@名無史さん2017/02/08(水) 18:31:04.70
春日局の縁者じゃなかったから

463日本@名無史さん2017/02/08(水) 18:35:26.90
>>458
この滝川さんって、北畠一族の滝川さんの末裔だよなw

464日本@名無史さん2017/02/08(水) 18:36:02.31
臼杵の稲葉が本家なのに影が薄いな。

465日本@名無史さん2017/02/08(水) 19:13:32.23
本貫の美濃守の名乗りも淀藩にとられっちまって、臼杵藩は益々影が薄い。

466日本@名無史さん2017/02/08(水) 19:29:04.25
堀田も似たようなもんだよねw

467日本@名無史さん2017/02/08(水) 19:37:30.43
稲葉正勝も堀田正盛も春日局との繋がりがなければ大名になれなかったし、
春日局一身に与えられた3000石、堀田正俊を養子にすることで引き継がせ、更に堀田本家から8000石を分与させて堀田家を増殖させ、上野介正信が除封にならなければ、
上野介家と備中守正俊の両家で交互に老中を出して、政治権力を追求しようとしていたのだ。

468日本@名無史さん2017/02/08(水) 19:55:57.08
まあその稲葉は鳥羽伏見で後ろから味方を撃ったわけだがw
所詮乳母の引き立てで大名になった家。いざって時は頼りにならんなw

469日本@名無史さん2017/02/09(木) 01:17:34.95
>>463
血筋はそうだけど、滝川一益と関係ないわけでひない

470日本@名無史さん2017/02/09(木) 11:55:41.73
家祖の滝川雄利は木造家の出身だけど、
滝川一益に見込まれて娘婿になった。
調略したり暗殺したりで一方で戦も上手かったしで
かなり器用な男だな。

471日本@名無史さん2017/02/09(木) 15:08:59.45
名門の出身だけど血筋ではなくて力量でのし上がったとか格好いいな滝川雄利
子孫はお公家さんみたいになっちゃったけどw

472日本@名無史さん2017/02/09(木) 17:11:27.29
お公家さんかあ?
戦場に出てくるだけましだろw
勝海舟なんて口では偉そうなこと言ってるが
戦闘経験ないのだし

473日本@名無史さん2017/02/09(木) 18:18:45.00
竹中半兵衛の子孫が陸軍奉行とかかっこいいなw
役に立たなかったようだけどw

474日本@名無史さん2017/02/09(木) 18:46:45.37
竹中は戊辰戦争で蝦夷地まで従軍しただろ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%AD%E9%87%8D%E5%9B%BA

このwikiでは触れられていないけど、長州征伐の恨みで長州の残党に国元の陣屋を
襲撃されて妻子を凌辱されて家老どもは降伏し、その怒りで徹底抗戦したんだよ。

維新後は実業家として活躍したらしいよ。

475日本@名無史さん2017/02/25(土) 15:39:11.82

476日本@名無史さん2017/07/25(火) 23:47:44.29
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生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
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477日本@名無史さん2018/01/14(日) 21:32:24.10
勘左衛門正吉は自殺、加賀守正盛は家光に殉死、上野介正信は家綱の死に接し、配流先で自殺、筑前守正俊は又従兄弟の稲葉正休に暗殺された。

478日本@名無史さん2018/01/30(火) 16:49:37.05
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479日本@名無史さん2018/07/12(木) 17:18:57.81
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念のためにのせておきます
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480日本@名無史さん2018/07/14(土) 20:24:00.10
江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は土井利勝の女系子孫
土井利勝→萬(松平頼重正室)→徳川綱條→徳川吉孚→美代姫(徳川宗堯正室)
→徳川宗翰→徳川治保→徳川治紀→徳川斉昭→徳川慶喜

481日本@名無史さん2018/07/15(日) 07:56:12.17
水野忠邦は徳川将軍家・尾張徳川家・前田氏・九条家などの血を引いている
浅野光晟(母:徳川家康の娘・振姫)→綱晟(母:前田利常の娘・満姫)
→綱長(母:九条道房の娘・満姫)→吉長(母:徳川光友の娘・貴姫)
→宗恒(母:前田綱紀の娘・節姫)→水野忠鼎→忠光(水野忠辰の娘)→忠邦

482日本@名無史さん2018/08/10(金) 21:59:27.17
西大平藩初代藩主・大岡忠相は徳川家康生母・於大の方の女系子孫

於大の方→多劫姫→北条氏重→娘(大岡忠高正室)→大岡忠相

483日本@名無史さん2018/11/05(月) 22:18:02.12
大給松平氏は秀才揃い

484日本@名無史さん2018/11/07(水) 11:28:35.57
今川徳三 『「鬼平」の江戸』 中央公論新社
121頁
およそ大名の奥方などというものは、殿様のお国入りの留守中は、
つれづれの余りに日頃お気に入りの若侍や、ひいきの歌舞伎役者など、
ひそかに居間に引き入れ、夜の相手をさせるなど、不埒な遊びにふけり
がちであったから、下々の者まで奥方を見習ってたるみっ放しであった。


これって本当?こんなにルーズだったのか?なんだか信じられないけど。
また池波正太郎の時代小説短編『芸者変転』によると
「将軍・徳川家治の側近くつかえる八千石の大身旗本・石川甲斐守」には、「百人を越える奉公人」がいるが、
「四十四歳の端正な面」の「大名の家に生まれたむすめ」あがりな美熟女奥方の愛する、
「今年二十一歳になる甲斐守の長男・源太郎」は「甘えほうだいに育ちあがり」、「父・甲斐守よりも母・真佐子」が、
「幼いときから可愛がり、手元からはなさなかった」という。

「江戸」ならぬ「東京」育ちの世襲アホボンが、世襲政治家となるの今も昔も同じだね。

485日本@名無史さん2018/11/07(水) 21:43:35.03
>譜代大名は酒井も井伊も片諱を貰っておらず、徳川家との血の繋がりもないから松平の姓も貰わなかった。
 双方とも結構な血縁者なんだけどな。

 酒井家はもともと松平の親族格の家。
 しかも、酒井忠次は家康の祖父の松平清康の娘が正室だから義理の叔父だし、その子の家次たちは家康の従弟。

 井伊家も、築山殿の母を出した家とされている上に、井伊直政は家康の養女を娶り、娘が家康の4男の忠吉に嫁いだ。
 家康の養女の実父の松平康親は、家康の侍女を妻として松平康重が生まれており、康重は家康のご落胤とされている。

486日本@名無史さん2018/11/07(水) 22:11:02.10
上田藩主、伊賀守 松平忠固の再評価の動きがあり、忠固を主役にした映画脚本まで作った者がいる

487日本@名無史さん2018/11/08(木) 10:19:23.61
>>484
元禄年間だと大名の妻が
怠け者が多いって、当時の
随筆にあるけど、不倫は
リスクが高すぎだろう。

488日本@名無史さん2018/12/02(日) 12:31:55.27
真田は譜代の要素を十分に満たしてたと思うんだが
外様扱いにされたのは
信之を初代として徳川譜代の要素を満たす沼田系真田分家としてではなく
上田の本家の領地も丸々継承してる事からして
あくまで豊臣系かつ西軍だった真田本家の後継者として位置付けられたからなのかな?
それとも親父と弟がやらかした懲罰的な意味合いなのかな?

489日本@名無史さん2018/12/02(日) 12:42:18.22
【桐谷広人七段、暴落を語る】 「景気がいいから株が高いんだ」と言ってる経済評論家はウソを言ってる
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1543716729/l50

490日本@名無史さん2018/12/02(日) 12:42:24.52
本多忠勝の娘を正室に迎えたが、一度家康の養女に直ってから嫁いだかそうでないかが切り分けになりそう。
家康の養女にはなっていないという説もある。

491日本@名無史さん2018/12/02(日) 16:15:45.42
藤林丈司

492日本@名無史さん2018/12/02(日) 20:29:28.37
>>488
譜代大名をどう定義するかによるが
当時「御譜代大名」と呼ばれたのは帝鑑間席の大名のことで雁間詰や菊間櫞頰詰の者は除外される
真田は帝鑑間席なので正真正銘の御譜代大名

493日本@名無史さん2018/12/02(日) 21:20:08.42
>>492
真田家は松平定信の子の幸貫の代になって
帝鑑間席に移った上で老中に就いたと言うのを読んだことがあるが

信之は上田と沼田を併せた真田家旧領+加増分をもって
上田藩を立ち上げたという事は
昌幸の嫡男として真田家を継承したとすれば
外様が妥当と言えば妥当なのかも

信之個人は譜代の要件を満たしてはいたが
関ヶ原の時点で実質的には分家独立していた一方で
形式上は昌幸の嫡男という曖昧な立ち位置だったのもあるのかと

494日本@名無史さん2018/12/02(日) 22:07:51.80
武鑑を見ればわかると思うが真田家はその前から帝鑑間席
そもそも老中になると無席になるのだから老中になて帝鑑間席になるということはない
老中を辞めると元の帝鑑間や雁間に戻るように仰せ付けられる
これを勘違いしたのか幸貫が帝鑑間席となった旨の記述は見かけことがあるがその前はどの席だったのかについての記述はついぞ見たことがない

そもそも家門譜代外様の別は明治の学者が出自によって分類したもので「その限りでは」意味のあるものだが当時の実態等を反映させたものではない
例えば水戸徳川の分家である宍戸松平家はこの基準で見れば家門だが当時は帝鑑間席御譜代の列に入れると明言されている
認識の方便としての枠組みを基準にして他の問題にまで及ぼすのは一種の倒錯
言い換えれば「外様だから〜」「外様なのに〜」というのは馬鹿みたいだからやめときなさい

495日本@名無史さん2018/12/02(日) 22:24:10.02
加えて豊臣大名としての真田家は北条征伐以前から徳川の与力大名という立場であり
それ故に信之が本多の息女を家康養女として縁組をしているのであって
幕初から譜代扱いとされてもさほど不審には当たらない

496日本@名無史さん2018/12/03(月) 12:29:45.53
秀吉の指示で徳川与力ではあったが
豊臣政権下に於いては、徳川与力と言うより
独立大名として遇されてた感が強い

小松殿は昌幸が
「嫡男の嫁に陪臣の娘なんか貰えるか」
とゴネた結果、家康養女として嫁いだ説がある

秀吉の指示とはいえ
第一次上田合戦の結果からして
徳川与力に組み込む
組み込まれる謂れがない

からして、互いに与力と言うよりは
客分という認識だったんではないかと思われる

なので厳密には外様だけど
小松殿の存在や諸々の経緯から扱いは譜代
という感じなのでは?

497日本@名無史さん2018/12/03(月) 12:35:57.08
松平定信の息子を養子にもらって老中だもんな

498日本@名無史さん2018/12/03(月) 12:49:06.43
徳川の養女を貰ったから譜代というのなら国持のほとんども譜代になると思うが

499日本@名無史さん2018/12/03(月) 12:54:13.52
ごもっとも

500日本@名無史さん2018/12/03(月) 14:33:46.07
客分の使い方が間違っている気がするけど…
戦国時代における与力とは
戦時下に指揮命令下に入る事であって
平時は君臣の関係はなく、あくまで同格。
だからこそ、家康も忠勝の娘を養女とした上で
真田に嫁がせている。
だから真田は外様。
いつから譜代格になったのかは
ハッキリとはしないが、
幸弘の頃から実質譜代扱いとなり、
幸弘の養子で井伊家出身の幸専か
その養子で松平定信の子の幸貫の代になって
ようやく現状を追認してもらった
という感じだと思う。

501日本@名無史さん2018/12/03(月) 19:49:36.95
寄騎はあくまでも寄親の部下であって主君の直臣としては同格というのは決まり文句のようなものだが(それはある意味で真実ではあるのだが)
実際には家臣団の身分秩序の中で同格というのはあり得ないことで
身分格差があるから寄親寄騎関係が成立するのだから
その同格という言葉に惑わされないようにするべき

徳川は井伊酒井榊原本多などを有力な独立軍団として育て上げる過程で多くの直臣をそれらの与力として附属させているが
幕藩体制が制度的に安定していく中で与力衆は完全に井伊らの家来、即ち徳川の陪臣として扱われるようになっており
与力衆による直臣復帰の試みは数々の運動や騒動(嘆願や出奔)にも拘わらずいずれも果たされず
公儀は「おまえらの主人は附属先の家」という態度を崩さなかった
例えば有名な長坂血槍九郎の本家なども結局本多の家来に成り下がっている(旗本の長坂家は分家)

徳川にとっての与力というのは容易に(ではないかも知れないが)家来に転換するようなものだったかも知れない

502日本@名無史さん2018/12/04(火) 00:20:30.12
それはあくまで徳川家中の問題
昌幸が家康の与力になったには、真田側から頼み込んだ話しではなく
あくまで秀吉の指示によるもの
家康と昌幸の間に緩やかでも主従の関係があったかなかったかと言えば
主従関係はなかったと見るのが妥当
主従の関係があったのであれば、家康の関東移封の際に
他の徳川家中と共に関東に移っているはずだが、それもない
それどころか、家康に関東移封の命を下した秀吉自身が
関八州の一部である沼田領を家康にではなく、改めて昌幸に与えている
つまり徳川与力になる事を命じた秀吉自身が明確に否定している
少なくとも昌幸自身は上田での戦に勝った自分が
何で徳川ごときに頭下げなきゃいけないんだというのは終生あったはずで
あったからこそ、関ヶ原での決断に繋がっている
家康の娘婿だった信之個人はともかく
真田家としては関ヶ原前に徳川家中に加わった事はなく
外様大名からスタートと見るのが自然だと思う

503日本@名無史さん2018/12/04(火) 12:10:11.27
戦中ならともかく、秀吉が家康に真田を付けてやるメリットがない
家康は武田旧臣や北条旧臣を独自に取り込んでいる

504日本@名無史さん2018/12/04(火) 12:31:08.10
>>502
君は話を少し整理した方がいい
こちらは豊臣時代に徳川家康と真田昌幸の間に主従関係があったなどと言いたいわけではない(信之は主従に近いと見ていいと思うが)
従って強いて主従関係を否定するほどに論点がズレる

そもそも与力大名であることまで否定することは荒唐無稽
豊臣時代から幕初まで与力大名というのは地域ごとのまとまりで編成されているのだから
沼田という隣接地に所領を得たことこそがその証左となりうる(立場としては結城秀康と同じ)
それが何故「秀吉自身が明確に否定」したことになるのか理解に苦しむ

そもそもの論点は江戸期の徳川が真田をどのように見ていたか
幕初について言えば徳川が与力という立場をどのように見ておりそれがその後に真田の立場にどのように影響を与えたかというそれこそ徳川家中の問題以外の何物でもない
(信之に関して言えば家来同然に行動を共にしており主従と見られて差し支えないはず)

繰り返すが「譜代だから」(又は「外様なのに」)帝鑑間に班しているという認識は倒錯であって
逆に帝鑑間席だから「御譜代大名」と呼ばれると考えるべきもの
そしてそれは徳川がそれら大名をどのように見ていたかの問題

505日本@名無史さん2018/12/05(水) 00:15:13.79
寛政譜を見返してみたが真田歴代の記事で席についての記述はほとんどなかった
尤も寛政譜の通例として収録されているうちの最後の当主の記事にはその家の領知・居城・伺候席などについての記述が含まれるが
真田家の場合はそれが幸専でそこには「代々帝鑑間に候す」と記されている

真田が帝鑑間に移動したというのなら移動前の席もわかる筈だが管見の限りではそういう記述を目にしたことがない
柳間なのか?雁間なのか?
(信之の時代から帝鑑間という記述を見たことはあるがこれはちょっと真偽不明)

>>500の言う「実質譜代扱いとな」ったり「現状を追認してもらった」ということがどこから推論できるのか教えてほしい

506日本@名無史さん2018/12/10(月) 20:49:23.11
堀田備中、松平伊賀に代わり、太田備後守、間部下総守、松平和泉守を、新たなる老中に迎えた。

507日本@名無史さん2019/01/08(火) 20:24:59.22
堀田正盛は家光に殉死、長男正信は鋏で喉を突いて自殺、三男正俊は城の中で又従兄弟に殺害される
因みに肥後藩細川宗孝を城の中で殺害した旗本板倉勝該には堀田正信の血が流れているだと。

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